目を覚ます直前にいつも、記憶できない夢を見る。意識の残響だけが、目覚めた己に残り香のようにして告げる。失ってしまった。大切なものを、大切なひとを、失ってしまった。失わせてしまった。そしてもう戻らない。戻すことができない。取り戻すことが、できないでいる。何回も、何回も、ずっと。あんなに親しく傍にいたのに。
離れてしまうことはあったけど、こんな風に失ってしまうだなんて、消えてしまうだなんて、思ってもみなかった。考えたこともなかった。けれども失くなったことも、失ってしまったことも、消えてしまったことも、今はもう分からないでいるから。戻ってきてと手を伸ばすことさえできないでいる。残ったのは呪いだけ。呪われているという事実だけ。
それが彼のいた証。傍にいたよすが。だからこそ、それを深く抱き込もう。砂漠の国、己の身に流れる血液、呼吸さえそれに満ちている。忘れるな。それだけは失うな。この国は呪われている。言葉魔術師に。失ってしまった親しさに。瞼を開いて、瞬きを幾度か。呼吸を二回。それだけで痛いくらい響いていたなにかの残り香が、すぅと身体から消えてしまうのを感じた。
母の死の夢と同じく、幼少期からたびたびある夢と目覚めである。慣れた感覚にやや首を傾げながら、砂漠の王は寝台に身を起こした。なにを、と思う。今日に限って一欠片、てのひらに残った喪失感がそれを考えさせる。自分はなにを失ってしまったのだろう。大切な宝だろうか、大切な人だろうか。思い出せもしないそれは、けれども確かに大切だと思えること、もの、だった。
消えてしまう留めておけない夢の中で、その誰かは親友のように、悪友のように、兄のように、臣下として傍にいた。家族だった。この国は、そして己の傍という場所は、彼に取っての戻るべき家だった。そうであって欲しいと願っていた。おかえりと言って、ただいまと言わせて。行ってらっしゃいと送り出して、戻ったよと声をかけられて。この世で一番安心できる所なのだという顔で、眠らせたかった。休日のゆっくりした朝に、寝ぼけた顔で起きてくるくらい。
その願いを抱いたのは誰にだっただろう。そんな風な存在がいたことなど、一度もないのに。繰り返される夢だけが、いつまでも喪失を嘆いている。深まっていく呪いだけを、許さず許せずに握りしめながら。ふぁ、と砂漠の王はあくびをして、腕をぐぅっと上に伸ばした。許さないでいるのは、なんだったろう。許さないでいるのは、誰だったろう。
誰も彼を救うことができなかったのだと思い知った。誰も。己も。懺悔と後悔の感情すら、朝の穏やかな空気にほろほろと溶けていく。目を覚まして五分もする頃には、そんなことを考えていたことすら、砂漠の王には残らなかった。喪失感すら拭い去られる。この世の魔力は、王たちに悪意ある影響を及ぼさない。そうであるからそれは、悪意ではなく、魔力の術でもないのだった。
終幕世界からの残り香が、残響が、すこし響いてしまうだけのこと。留まりはしない。それだけのこと、もの、だった。
「……さて」
ようやくすっきりとしてきた頭を動かしながら、砂漠の王は室内を見回した。最近、よく眠れるせいなのか、起きてから起動までに時間がかかる気がして仕方ない。悪い気分ではないし体調も良いのだが、動かなければならない時にいつまでもだらだらとしているのは本意ではなかった。さてどうしたものかと思いながら、砂漠の王は眉を寄せて、未練がましく室内を見回した。
傍らの熱はすでになく、きちんと畳まれた服だけが、女がそこへいたことを示している。思えば、一度たりとも脱ぎ捨てられたまま、乱れた服が落ちている所など見たことがない。てっきり、早起きの侍女がそっと整えているものと思っていたが、この状況でもそうならば、やっていたのは本人で間違いないだろう。几帳面で真面目でしっかりしている。いいことだ。
良い女なのである。問題があるとすれば態度だろうか。やや、結構、すごく、王に対して執着なく、さっぱりしていて、未練のひとつも見せない所は、以前ならばハレムの女として満点だった。それも気に入って、重用していたのは確かなことなのだが。以前までの話である。それが気に入らなくなってきたのは最近のことだった。
「っち……アイシェ! ……おいこら、アイシェ……!」
呼んでも、戻ってくる足音は聞こえないままだ。聞き留めれば必ず戻ってくる相手だから、声の届かない距離にいるのだろう。なにがあるか分からないから、離れるな、と言ってあったのに。つくづく王の言うことを聞かない、思う通りにならない女である。まったく、と息を吐き適当に服を整えて、王は一晩眠った女の部屋を出た。
朝日がまばゆいほど差し込み輝くハレムは、耳が痛くなるほどの静寂に包まれている。誰の声も気配もしない。普段なら感じる、さわさわとした優しいざわめきは失われたままだった。全ては眠りに沈んでいる。砂漠の城を突如として襲った魔力そのものが、人々の意識を失わせてしまった。残ったのは砂漠の王と、アイシェだけである。
なぜハレムの女たったひとりが魔力の影響を免れたのか、その理由から王はまだ目をそらしていた。その感情が母を死なせた。首を吊らせて死に追いやったのだ。それが、ハレムの女を殺すのだ。恋なんてものはしたくない、と思っていた。今は死んでほしくない、と思っている。アイシェに。王は静まり返ったハレムをなんの導きなく歩きながら、額に手を押し当てて深く息を吐いた。
分かっている。これはもう認めるべきことなのだ。結果は、なぜかハレムの中でもアイシェだけが被害を免れ、今も起きてひとり出歩いていることからも明白だった。アイシェは王に連なるものとして認められ、それ故に王家と同じく守護を得た。そうしたいと思って一度だけ告げていた。お前は俺の黄金のひかりだと。
なぁに、とアイシェははにかんで笑ったが、意味を告げることはしなかった。その言葉は、愛の誓いに一番よく似ている。リトリアも例のふたりに対して、その聖なる言葉を告げていた。魔術師であるリトリアは、すでに王家から抜けたと世界から見做されているが故に、そこまでの効力はなかっただろう。ただ思いを告げる言葉にしかならなかっただろう。
そもそもフィオーレに魔術をかけられたり、シークになにかされた形跡がある時点で、少女の身から世界の守護が消えているのが分かる。言葉は、誓い。守護の譲渡、あるいは祝福を与えるものだ。白雪ならばそれは『折れぬ剣』と告げられる。魂の片割れを認め、言祝ぐような言葉を、王はアイシェに告げていた。殆ど衝動的なものだったから、無効かと思っていたのだが。
それは確かにアイシェを守り抜いた。つまりは認められたのだ。王が己の心から目を逸らしたままであろうと関係なく、世界はすでに指し示している。その存在こそお前のひかり、お前の希望。愛するもの。魂の片割れであるとする程、求めた者。立ち止まって、朝日の眩しさに目を細めるついで、王は改めて深々と息を吐き出した。
百歩譲って好きだのなんだの恋しいだの愛しいだのは認めてやらんこともないが、問題はアイシェ本人がいまひとつ王を恋しがらず、大切にせず、言うことを聞かず、今だって放置して勝手に出歩いたりしていることである。ハレムの女たちは、王の恋嫌いを知り尽くしている。だからこそ、職業的な気質を持ったものが多いのも確かなのだが。面白くない。
俺が好きなんだからすこしくらい靡いたり恋に落ちたりしろよなんで俺だけ、と思春期の少年のようなぼやきを落として、王はのたのたとハレムを移動した。目指していたのはアイシェに下賜した庭の一角である。植物園とちいさな菜園を兼ねる場合はアイシェのお気に入りで、部屋に居なければ十中八九がそこであるから迷いなどしなかった。果たして、アイシェはそこにいた。
なにをしているのかと距離を置いたまま見ていると、どうも水やりと草むしりをしている。朝から。王を寝台に置き去りにして。水やりと草むしり。アイシェやっぱり俺のこともっと大事にすべきだろなんで王と庭を天秤にかけて草むしりを取るんだよなんでだよ、と遠い目をしていると、ふっとアイシェが顔を上げた。うつくしい女だった。
王がなにより気に入っているのはうっすらと潤む勝ち気な菫色の瞳だ。なぜか睨みつけられることが多いが、視線を逸らさないでいる所が好ましいと思う。投げやりかつ正直な気持ちになると、いいからもっと嬉しそうにしたり恥じらったりしろよお前ハレムの女だろつまり俺の女だろ、とは、思うのだが。
とりあえず、珍しくも本当に驚いた様子で目を見開く顔が見られたので、今朝はそれでいいことにしてやった。王を放置して草むしりを選んだことに対しては許してなどいないのだが。
「シア! どうしたの……? あなた、いつもならまだ眠っているじゃない? ……早起き?」
「……お前まさか、普段から俺を放置して水やりだの草むしりやらに出てないだろうな?」
「だってあなた、声をかけても眠ってるじゃない。時々返事はなさるけど、覚えていらっしゃらないようだし……なぁに、そんな顔をして。私なら大丈夫よ、シア。今日も元気でいるわ。……なぜだか分からないのだけど」
それが起きた瞬間、王は城の執務室にいた。前触れはなかったように思う。いきなり、ただ魔力がばら撒かれた。視認が叶ったのなら、雷鳴すら感じるような豪雨めいた乱暴さであったと思っただろう。しかし、一瞬の意識の空白が全てだった。人々が倒れる鈍く重たい音が連続して響く。呻く声のひとつもなく。取り落とされた物が壊れる音が、どこからも、細く長く聞こえてきていた。
先日のリトリアの魔力暴走と同じ光景ではあった。しかし無垢な産声であったものに対し、それはあまりに悪意があった。結果として、ではなく。人々の意識を刈り取るために成されたことだった。リトリアの時は原因も理由も大体分かっていたから慌てなどしなかったのだが、王はその時はじめて、その存在の無事を確認したいと思い、ハレムへ駆けていた。
アイシェは倒れ伏す女たちの傍らにいた。恐らくは傍にいた数人を、なんとか怪我をしないように引きずって集めたのだろう。ぐしゃぐしゃに広げられた、季節外れの派手な柄の絨毯の隅で、アイシェはひとりの女の手を握って俯いていた。泣いてはいなかった。呆然としながらもアイシェの瞳は強い意志を輝かせ、なにが起きたのかよりも必死に、なにができるかを考えていた。
アイシェ、と名を呼べば女は目を見開いて一目散に掛けてきて、王へ縋るより早く、その両手で頬を包み込んで問いかけた。怪我は。息が詰まるような声だった。他のなによりもそれが、気がかりでならないのだと女の全身が告げていた。触れる熱に、伝わる鼓動に。ようやく涙を思い出したかのようにゆるみはじめる瞳がいとしくて、大丈夫だ、と言って強く抱きしめた。
それから簡単な事情だけを説明して、他国に繋がる連絡手段が断ち切られていることまで確認して、ならばもうどうしようもないと諦め、諸々が復帰するまで共にあることに、した筈なのだが。ぶすぅっ、とする王が、どうもひとり寝台に置いていかれたことこそに機嫌を損ねている、と気がついたらしい。
アイシェはくすくす笑って、もう、と土に汚れた指さきで王に触れかけ、慌てて引っ込めた。
「寂しかったの? ……もう、こどもみたい」
「あのな。危ないから離れるなとも言っておいた筈だろう?」
「ごめんなさい。どうしても朝のうちに済ませてしまいたかったのよ……。まさか陛下に庭仕事にお付き合い頂くわけにも参りませんし。見ているのだってつまらないでしょう?」
そんなことはない、と否定しようとして、王は言葉に詰まった。くるくるとよく動き回るアイシェの姿はまぶしく、穏やかな気持ちさえ抱けるというのに。つまり、と唐突に王は気がついた。つまりこの女は、王の思慕を欠片すら理解していないのだ。世界の守護が承認されるほど、いとしさがもうあるというのに。
手を洗ってくるわね、と離れていこうとするアイシェの腕を掴み、王は眉を寄せてその顔を覗き込んだ。
「あのな、アイシェ」
「ちょっと待ってったら。汚れてしまうわ。……あら?」
「聞いてからにしろ。……あのな、アイシェ。俺は、お前を……愛して、おいこらアイシェせめて視線をあわせろどこ見てんだお前は」
アイシェはなにやら、王の背後あたりを覗き込んでいた。王がいままさに想いを告げようというのに、なぜこんな態度を取られなければいけないのか。いい加減にしないと部屋に連れ込んで一歩も外に出さないで愛でるぞ分かってんのか、とうんざりする王に、アイシェはだって、と困り眉で王の背後をそっと指差した。
「あの……だって、陛下、あれ……」
「あぁ?」
なんだよと不機嫌な顔で振り返るより早く。やぁああぁあんっ、と蜂蜜の如きとろけた聞き覚えのある甘い声が、しんと静まり返るハレムに、ほよふよと響いていく。
「目隠しやんやん! だめぇだめぇ! りぼんちゃあああぁあいまいちばんいいところですううぅう! らぶろまんす! こっこれはらぶろまんすですぅロゼアちゃんめろめろだいさくせんのさんこーにするですううやややんやゃやん!」
「……なにしてんだお前は」
「あっ! たいへんです! みつかちゃたです!」
いつの間にそこにいたのか、廊下からぴょこりと顔を出していたソキが、ひとりでもちゃもちゃとなにか抵抗らしきことをしていた。発言からするに、案内妖精も一緒なのだろう。数秒考えてから、もう告白する気がくじけたので、王はアイシェに手を洗ってきてもいいと言い渡し、ソキに歩み寄った。
妖精との攻防が一段落したのか、はたまた叱られている最中なのか、ぷっと頬を膨らませて座り込んでいるソキに両手を伸ばす。真偽確認の為である。ソキは伸びてくる両手をまじまじと見つめていたが、それが己を抱き上げようとしていると悟るやいなや、ふぎゃああぁああぁあんっ、と不機嫌この上ない叫びをあげて、じだじたぱたたと両手両足をばたつかせて抵抗した。
「ソキのー! 抱っこはー! しちゃだめええええぇええいやんいゃんいややややん! ろぜあちゃー! ろぜあちゃあぁああん! いゃんいやいやご無体なですううううう!」
「……本物だな、これは」
アイシェが大慌てで駆け戻り、シアなにしてるの、と叱られるまで、王はぴぎゃあああやぁああんですうううう、と泣き叫ぶソキを、耳を手で塞ぎながら見下ろしていた。
シアがごめんなさいね、いじわるをされたのね、本当にごめんなさいねと謝られたことで、ソキはすっかりアイシェに懐いたようだった。今も王とアイシェの間にもぞもぞずぼっと割り込んで、アイシェさぁんと甘くとろけた声でにこにこしながら、あのねあのねとなにやら話しかけている。はー、と天を仰いで王は深々とため息をついた。
なんだって『花嫁』をいじめるだなんてなんてことを、ということで、朝から怒られなければいけないのか。大体、王を怒ったり叱ったりとは何事なのか。別にいじめた訳ではなく、ただ単に存在としての真偽を確認しただけである。今現在、砂漠は魔術的に他国から断ち切られ、また首都で目覚めている者も王とアイシェのふたりきりと考えるのが自然な状態である。
そこにソキがいる筈はないし、現れたとすれば幻影の可能性もある。だからまず確かめる必要があったのだと告げても、アイシェはぴすぴすくすんと泣き真似をするソキにちっとも気がついた様子はなく、でももっと他に方法があった筈でしょう、と王を窘め、恭しい態度で『花嫁』を慰めた。
きゃあんきゃあっ、とソキはすぐはしゃいだ声をあげてアイシェにぴとりとくっつき、以来、そのまま延々と懐いている。『学園』に送る荷物の件やらなにやらで、ソキの世話役やら傍付きの補佐の顔を見ているから、王は確信を持って額に手を押しあてる。アイシェの顔はソキの好みである。綺麗で美人なお姉さんがすきすきだいすきなソキの、とてつもない好みである。
アイシェさんアイシェさん、といつまで経っても離れずにぺっとりくつついて甘えているソキに、王は息を吐きながら指先を伸ばす。もにもに頬を突いて、呆れ顔で言った。
「それで? お前はなんでまたこんな所にいるんだ? いつから? どうやって来た? 案内妖精はなんと言ってる? あともう良いだろ離れろ距離を取れアイシェは、俺の、女だ」
「アイシェさぁあん! 陛下がソキのほっぺ突いてくるうううう!」
「……シア? かわいそうでしょう。いじめないの。もう!」
ぺしっと指を払いのけられて、王は大人げなくソキを睨みつけた。シア、と頭の痛そうな声でアイシェが呟く。もう、どうしたの今朝から子供みたい、と困り顔をされるのに、誰のせいだと王は苛立ちを募らせた。きょと、とソキがまばたきをする。きょとと、と好奇心いっぱいのきらんきらんの目で王とアイシェを見比べて、ソキはきゃあんと声をあげ、赤く染まった頬に両手を押し当てた。
もじもじと身をよじって、興奮した様子で声をあげる。
「これは、これはもしかして……! きゃあぁんだいじょうぶですよぉ、陛下? ソキにはロゼアちゃんがぁ、いるのでぇ、これは浮気じゃないんでぇ」
「お前の心配なんぞしてねぇよ……!」
「シア! 怒らないの!」
怖かったわよね、ごめんなさいねと謝られて、ソキはこくりと頷いた。その顔に、そきぜぇんぜん陛下のおはなし聞いてなかったんですけどぉ怖い怖いということにして慰めてもらうですううううきれいなおねいさん、ソキだーいすきっ、と書かれている。なんだかんだと付き合いの長い王には完全に把握できる思惑だった。臓腑の底から息を吐く。
「お前……せめて案内妖精には叱られろよ……?」
「リボンちゃん? リボンちゃんねえ、今ね、ご飯を探しに行ってるの。きっともうちょっとで帰って来るはずです」
なるほど、道理で野放しにされている感が強い訳である。託児よろしく預けられていたらしい。いいかお前ら思いだせよ俺の立場とかそういうものをな、と遠い目になって、王は寛大に諸々を諦めてやることにした。全てめんどくさくなったとも言う。ソキの言葉が確かなら、妖精もすぐに戻ってくるだろう。そうすればさすがに、甘えたきりのソキも叱られて座り直したり、質問にも答える筈である。
そう思いながら耐えていると、程なく戻った妖精に怒鳴られでもしたらしい。途端にやぁんリボンちゃんはすぐ怒るうぅとしょんぼりした声を上げ、ソキは王の希望していた通りにもそもそとアイシェから離れて座り直した。ただし、居るのは床に座す王とアイシェの間である。ソキはここから移動しないですぅ、と言わんばかりの顔をして、すぐ目の前を注視しながらぷくぷくと頬を膨らませていた。
なにやら言い訳らしいことを口にしかけるたび、先に話を聞けとでも叱られているのだろう。ソキは珍しくきちんと反省した顔をして視線をいじいじと床に下ろし、はぁあぁい、と仕方がなさそうな返事を響かせた。
「そき、すぐ、きれいなおねいさんについていったり、しないです。お菓子をくれるって言われても、我慢するです。ロゼアちゃんが呼んでるって言われたら……言われたら……? リボンちゃん? ロゼアちゃんですよ。ロゼアちゃんが呼んでるですよ?」
「お前……一度誘拐されてるんだからもっと警戒しろよ……。連れ去るのが楽すぎんだろ……」
「陛下? ソキ、来年で淑女なんでぇ」
それとこれとは全く関係ないし、そもそも淑女を主張するならアイシェにはあんなに甘えたりしない、と頭が痛くなったのは王だけではなかったらしい。ソキはその場でぴょんっと飛び跳ねる程びっくりした顔をして、もぅややゃんですぅ、とぐずった顔で耳を手で塞いでしまった。感じた所、ソキの周りで唯一、正当な躾なり教育的指導を行っているのがこの妖精である。
その行いに免じて、王は妖精による無断の備蓄借用を許してやることにした。厨房の者の目が覚めたら、角砂糖がいくらか消えているのは妖精の訪れがあった為であるから安心するようにと伝えてやらねばなるまい。彼らの目が覚めるのは、まだ随分先のことだろうが。一晩が経過しても重苦しい静寂は晴れる素振りもなく、近隣都市の者が城に駆け込んでくる所か、これでは王都を訪れているかすら定かではない。
影響はリトリアの時より強く、また深く、砂漠全土に及んでいると見て間違いないだろう。誰も死んでいなければいい、と切実に思う。城を見て回った状態から推測すれば、人々は意識がないだけで、それを取り戻せていないだけで、今はまだ体を蝕む毒を食んではいないようだった。体温と、呼吸と鼓動はしっかりとしていた。
その程度で目覚めさせることができればいい。さもなければ今度こそ、許してやることができなくなる。そう思って王は自嘲した。許してやりたいと感じたことなど、一度もない筈だった。彼の言葉魔術師こそがこの砂漠に呪いを振りまき、今もまた苦しめている犯人なのだから。失われたものは、もう戻らない。だからこそ失わないように、守らなければ。今度こそ。
「さて、ソキ。落ち着いて俺の質問に答えられるな? ……そこにいる案内妖精でも構わないが、まず、どうやって砂漠に来た? 『扉』は使えない状態だと思うが……それとも一瞬繋がりでもしたのか? ……まさかロゼアと一緒だったか?」
付け加えてロゼアのことを問うたのは、先日の二の舞を危惧した為である。ソキが『学園』に戻れなかった数日で、ロゼアの状態が極端に悪化したと各所から報告が来ていた為だ。これでもし、目の前でソキだけ消えたとなると、そこからのことは考えたくもない。しかしソキは不思議そうな顔をしてぱちくり瞬きをして、ほわんと口を開き。
そのまま二秒、口をまんまるく開いた後、両手をぱっちーんっと打ち合わせて。ふにゃああああああぁあっ、と絶叫した。
「そ、そそそそそうでしたー! そうです、そうです! 陛下、陛下あのね大変なの! 大変でね! だからね、ソキね! 来たの! だから来たんですよ!」
「……うん?」
「あのね! 『学園』が、大変なの! 助けてくださいです!」
その、言葉のなににより。ソキがロゼアではなく、『学園』と言い表した所に、王は『花嫁』の成長を知った。今までなら当然、それを全て含んだ上でロゼアちゃんがと訴えていただろう。しかしソキはオロオロと視線を彷徨わせて涙ぐみ、あのね皆がね、大変なの、ソキだけシディくんとリボンちゃんが守ってくれたの、だからソキはたすけてたすけてをしにきたのっ、と一生懸命訴えている。成長である。なんなら進化と言い換えてもいい。
感慨深い気持ちでしみじみしていると、ソキがぶううぅっと頬を膨らませて怒りだす。
「もうー! ソキは、たいへんだって言ってるですうううう! 陛下ったらちいとも分かってくださらないですうううう! ゆゆしきこと! ゆゆしきことです! アイシェさん! 陛下がソキのおはなし聞いてくれないです!」
「……シア?」
「お前アイシェに訴えるの辞めろよふざけんなよ……。聞いてる、聞いてるから。というか忘れてただろお前。それなのによく怒れるな……?」
褒められたと思ったのか、ソキはえへんと自慢げな顔をしてふんぞり返った。王の話の間は放置することにしたのか、そこは諦めているのか、妖精が怒ったような素振りもない。王は心から溜息をついた。確かに成長はしている。しているのだが、自由にのびのび成長しすぎている気もした。
落ち着いたらロゼアを呼び出して、主に最近の躾についてなど詳しく話を聞かねばと決意し、王は話は分かった、とソキに語りかけた。
「じゃあまず、どうやってここまで来たのか教えてくれるか? 『扉』は使ったのか? 砂漠に来ようと思って来たのか? 目的地はどこに設定してたんだ? どうしてハレムにいた?」
「……ん、んんっとぉ。えっと……えと……」
うるり、と目を潤ませたソキの顔に、一度にたくさん聞かれたから分からなくなっちゃったです、と書かれている。もしやこれはいじめなのでは、と鼻をすすりはじめた所で、アイシェが優しく微笑み、王の質問をひとつ、繰り返した。どうやって来たの、と優しくて綺麗で美人でいい匂いのするお姉さんに問いかけられて、ソキは張り切って『扉』ですよ、と言った。
「でもね。ほんとはね、星降の国に行こうとしてたの。でもね、武器庫だったの。それでね、武器庫から出たらね、お部屋にいたの」
「そう。お部屋にいたのね。……それは、どこのお部屋かしら? ハレムのどこか? それとも、お城の部屋だったの?」
ソキは、機嫌よくにこにこ笑いながら、あっち、とハレムの廊下を指差した。その方角を辿っても城には行きつかない。間違いなくハレムの一室だろう。
やんやんここはどこなんですかぁっ、とてちてち彷徨っていたら、なんだか綺麗で素敵なお姉さんがいたのであのひとに聞くですぅときゃっきゃと追いかけたらそれがアイシェで、お声をかける前に髪がくしゃんくしゃんなのをきれいにしなくちゃです、と奮闘していたら、陛下が来てらぶろまんすの予感でリボンちゃんに目を塞がれたらしい。
コイツさっき妖精にきれいなおねいさんについていかないとか復唱させられてたなそれか、とうんざり納得して、王はソキのふくふくした頬を指先で突っついた。
「経路と理由は分かった。分かったが……問題はそこからだな」
「やんやん。やんや。……やんやん! やぁうー! ややー!」
「シア。つつかないの! もう、嫌がってるじゃないの、かわいそうに……」
すすり上げながら、陛下ったらソキにすぐご無体なことばかりするです、と訴えるソキに、アイシェの王を見る目が冷たくなる。全方位で完璧に誤解だからなと呻き、王は深く溜息をついて首を横に振った。
「よし。じゃあ先に言っておくがな、ソキ。今現在、砂漠は孤立していて、緊急事態にある。『学園』の状況は予想から大きく外れてはいないから、まぁ……それこそ星降か、花舞からでも救援が向かっているだろう。そこは安心していい」
「……ん……んん?」
ついうっかり忘れていた、とてもいやなことを思い出しそうなのだろう。そもそも砂漠の虜囚が原因であるのだから、今現在砂漠にいるのは、もしかしてとても危ないし怖いしいけないのではないのだろうか。じわじわとソキの眉間にしわが寄っていくのを眺めながら、王は微笑を浮かべて言い切った。
「ソキ。よく来たな」
「……そき。もう、おうちかえる」
すっくと立ち上がって彼方へともちゃもちゃ逃げたがるのを許さず、王はソキの腕をしっかりと掴んで言った。
「現在、お前がこの国唯一の動ける魔術師だ。うまいことに案内妖精も一緒なら魔力暴走の心配もないだろ。……さ、働け」
「いゃんいややんそきもうおうちにぃー! 帰るうううううー! ふぎゃああぁああんいやあああぁああん!」
「シア! だから、いじめないの!」
いじめじゃねぇよ王として魔術師に求める正当な要求なんだよ、と言っても、ソキがあまりにおうちかえるおうちかえるやだやだいやんやああぁ、と泣き騒ぐからだろう。アイシェからの疑いの目が晴れることはなかった。
妖精がソキを叱り飛ばし宥めすかしてなんとか説得したおかげで。ソキは全力で嫌そうな顔をしながらも、砂漠の王の命令通り魔術師として努力し助力することに、しぶしぶしぶしぶ頷いた。
「ソキ……おうちかえる……終わったら、すぐ、すぐ、おうちかえるぅ……!」
「……実家ならそこに見えてるだろ」
「ふぎゃああぁああん! もうもう、もう! きしゃああああぁあですううう! ふんぎゃああぁあーっ!」
じたばたじたばたっと暴れて体勢を崩してびたんっと真正面から転び、ソキは王の呆れた視線を向けられる先で、廊下に倒れたまま動かなくなった。立ち上がるのを待っていると、ずびっ、すん、くすん、と哀れっぽい泣き声が聞こえてくる。おいやめろ、と王が天を仰いだ瞬間、所要を済ませに離れていたアイシェが戻ってきて、シアっ、と悲鳴じみた声で叱責する。
「なにしてるの……!」
「……勝手に暴れて転んだから起きるの待ってる」
「怪我をしていたらどうするの……! ああ、どうしたの? 大丈夫よ……。驚いたわね。どこか痛いとこある? 立てる?」
ソキはずびずひ鼻をすすりながら、もちゃもちゃとした動きでその場に座り直した。腰を屈めたアイシェが献身的に怪我の有無を確認してくるのに、『花嫁』はふんすと鼻をならし、じとっとした目で王を見る。こういう態度が正しいのではないですか陛下ったらああぁ、と言わんばかりの眼差しである。
仔細漏らさずロゼアに告げて躾やりなおさせるぞこの、と思いながら王はふらふら立ち上がったソキに手を伸ばした。逃亡転倒その他諸々の防止に、手を繋ぐのが一番だからである。しかしソキは王と差し出された手をしげしげと見比べたのち、こくんっと頷いてアイシェの服をきゅむりと握りしめる。
まぁ、と嬉しそうに微笑むアイシェに、ソキは礼儀正しく、あのね転んじゃうですからお服を持たせてくださいね、と言った。王の手は無視である。アイシェはええもちろん、でも危ないから手にしましょうねとうきうきとソキの世話を焼き、中途半端に差し出された王の手に気がつくと、やや申し訳なさそうな顔をした。
「……ソキさま、陛下とも手を繋ぎましょうね?」
「ソキのおてて、もういっぱいです。陛下のぶんないです」
こっちはリボンちゃ、とふたりが案内妖精を視認できないのを良いことに堂々とした態度で言い放って、ソキはそのまま、機嫌よくとてちてきゃっきゃと歩き出した。
「それでぇ、陛下? ソキはなにをすればいいです?」
「……まずは『扉』の様子見だな」
本当なら白魔法使いを探し出し、せめて城内の者たちだけでも回復させたい所だったのだが。見当たらないと思ってソキに心当たりを聞いたら、どうも操られて『学園』に被害を及ぼし、いまは昏倒していると聞いて頭を抱えた後である。最高戦力たるラティも『学園』であり、各国の魔術師たちが王都中に散らばって倒れているであろう現在、打てる手は少なかった。
治療ができないのである。護衛の手もない。ならば取るべき手段は外部との連絡を繋ぐことで、現状を知らせることで、助けを招くことだった。そう聞かされて、ソキはとてちて歩きながらふにゃんとぱちくり目を瞬かせる。
「ソキ、また助けを呼びに行くかかりです? どこに行くの? 誰にお伝えするんです?」
「可能なら最初の目的地へ。星降で、火の魔法使いレディを呼んで来い。次に、花舞から白魔術師たちを。医療部隊として編成して欲しいと言っていた、と……まあ、状況伝えればよほどのことがない限りはそうなるだろうが。その二つが終わったら、レディか医療部隊と一緒に戻って来い。分かったな?」
「……あれ? ソキ、おうちに帰れない、ような……?」
これは騙されてはいけないやつです、気がついたソキったらかしこいです、とじっとりした目を向けられるのに息を吐き、王はわざわざしゃがみこんで目線の高さを合わせてやった。
「あのな、ソキ。危ないだろう?」
「危ないです。だからね、ソキ、おうちかえるです。ロゼアちゃんにぴっとりしてればね、安心なの。分かったぁ?」
「……自分の報告を、よくよく思い出して、もう一回しっかり考えてみような。『学園』がどうなって、誰が操られてどうなって、お前はここまでなにをしに来たんだ?」
幼子に言い聞かせる、苦笑いの滲む口調だった。ソキはアイシェと手を繋いだまま、自慢げな顔をしてえっへん、とふんぞり返る。
「こわいこわいが、ソキをいじめに来たです。それでね、フィオーレさんとロゼアちゃんにこわいこわいがくっついちゃたです。それでね、ソキがアスルでやっつけたですぅ! それでね? ソキ、たすけてたすけてをしにきたです。えらーいでしょう?」
「はいはい、そうだな偉いな。偉いから気がつこうな。『学園』危ないだろ? それでな、お前のお家もあぶないだろ?」
ソキのお家がロゼアだと疑ってもいない王の言葉に、ソキは満足げに頷いた。話が通じるとこもあるです、と思っている顔だった。こいつの息をするような上から目線なんなんだと思いつつ、王はだからな、言葉を続けた。
「本当なら白雪でエノーラにでも保護しておいて貰うのが一番なんだが、城内で昏倒している以上、それは望めない。花舞もこれから慌ただしいだろう。だから回復役か、防衛役の傍で一緒に移動するのが、こちらとしてもありがたい。なにより、お前は予知魔術師だ、ソキ。お前がいるだけで、不可能であることからも可能性がうまれる。……他の魔術師を助けてやれ。それは、お前にしかできないことだ。分かるな?」
「でっ……でも、でも、でもぉ……!」
ロゼアちゃんがソキを待ってるに違いないですううっ、と聞く者の胸を締め付ける悲痛な声でソキは訴えた。最後に見たのは倒れ伏す姿だ。こわいこわいはソキとシディがけんめいに剥がしたけれど、本当に大丈夫なのかは確かめてこなかったし、今はもう目を覚ましてソキのことを探しているかもしれない。きっとそうですぜええええったいにそうですソキには分かっちゃたです、まで主張して。
ソキはあることに気がついて、はたっとした顔で辺りをきょろきょろ見回した。ハレムから移動して、砂漠の城の知らない廊下である。知らない場所なのは妖精もいるから別に気にならないし、しんと静かなことも王が説明してくれたから理解できる。む、むむむっ、と声を上げるソキに、王はようやく気がついたのかという表情で沈黙した。
ソキに説明させてから分かっていたことだが、めんどくさいので理解するまで放置していたのである。果たして、あたりを照らすのがどうも朝日だということに気がついたソキは、ぴぎゃあああやぁああんですううううっ、と静寂をつんざく声でけたたましく鳴いた。
「いつの間にか朝になっちゃたですううう! リボンちゃん、どうして教えてくれなかやぁあん! ちがうもん! ソキどんくさくないもん! ソキが鈍いんじゃないんですううう! きっと、きっと武器庫です! 武器庫がソキにいじわるをしたですいくないです! ……あれ? つまり? ソキが助けてのお出かけをしてから? 一日ということなのでは……つまりソキは無断外泊なのでは……?」
「いやもっと他に気にするとこあるだろ? 外泊の他にもある筈だろ?」
「いやぁああーん! あぁう……ソキ、急に元気がなくなってきちゃったです……もう一日もロゼアちゃんと離れ離れだったです……。つらくかなしいおはなしです……つまりぃ! 陛下の寛大な処置が? あるのでは?」
ちらっ、ちららっ、と期待に満ちた目を向けられて、王は微笑みも深く言い切った。
「ねぇよ。働け」
「……む、むじひなことですぅー! あまりにむじひですうううううう! 陛下なんて陛下なんて、んとんと、えっと……」
う、うぅ、とじたじたしながら考えるソキに、こいつ悪口だのなんだのを言い慣れなさ過ぎてこういうとこからどんくさいのか、と見守りながら待ってやった。またシアったら、という顔をしながらもアイシェが黙ったままでいるのは、だんだんとソキの性格を理解し、王との関係を客観視でき始めたからだろう。
砂漠の王とソキは魔術師と主君の一人でありながら、実質年の離れた兄と、幼い娘のそれに似ている。ふんにゃふんにゃうゆうゆ考えたのち、ソキはさすがリボンちゃんですぅ、と言って自信たっぷりに顔を上げた。
「陛下があったかいお茶にむせますよーにぃーですぅー! 陛下がー、なにもない所で転びますようにーですー! 陛下がぁ」
「おいやめろ予知魔術師……! 王を呪うんじゃねぇよ!」
「してないもん。なったらいいなー、だもん。でも? これで陛下が? 反省するやもです?」
真に反省すべきはソキである。ああぁあ、と呻いて天を仰ぎ数秒かけて息を吐いて、王は気をとりなおしてアイシェに声をかけた。
「……行くぞ」
「はい。……ね、陛下においたしたらいけないでしょう? だめよ」
「ふにゃ……。はぁい……」
ソキに反省させたければ、ロゼアかアイシェが有効である、と王は学んだ。恐らくは顔の好みの問題である。それなら俺にも反省しろよと思いながら、王は慎重に迂回して城を進んだ。普段とはまるで違う廊下ばかり通っていることに気がついているだろうに、アイシェはなにも言わず、また、ソキがそれに気がつかないように振る舞った。
いづれ逃れられず目の当たりにすらだろうし、『学園』でも突き付けられただろうが、なすすべもなく倒れ伏す人々の姿など、そう見せていいものではない。ソキはつたない歩みながらも文句を言わずとてちて歩き、時折、妖精と言葉を交わしては笑ったりふくれたりと忙しい。城内を飛び回った妖精も、当然状況は理解しているだろう。気をそらし続ける努力は、ソキの態度ですべて報われていた。
やがて、遠回りの果てに『扉』まで辿り着き、ソキは名残惜しそうにアイシェと手を離した。
「ソキはお仕事をするです……真面目で偉いことです。これは褒めがもらえることです」
「そうね、偉いわ……。頑張ってくれるのね、ありがとう」
「うふふふん!」
すっかりご機嫌にやる気を出したソキは、王のしらんだ目に気が付かず、とてちてと『扉』へ歩み寄った。錬金術師程の専門性を持たないソキでは、調整もなにもできないのだが。嫌な予感はするか、と端からソキの小動物的第六感しかあてにしていない王からの問いかけに、予知魔術師は難しい顔を作って、くてん、と首を傾げてみせた。
意識を集中して、目を閉じる。『扉』を物質ではなく、魔力そのものの通り道として感じようとする。それは通路の形をしている筈だ。幾度となく通った時の感覚を正確に思い出しながら、ソキは己の中で光景を組み立てていく。それは『お屋敷』の廊下、ソキの区画だ。真っ白な廊下に柱に天井に、金色の灯籠が下げられてゆらゆらと揺れている。汚れや影は一つもない。
誰かが待ち構えていたり、嫌なものが隠れていたりする気配もしない。そこはソキが通ってくれるのを待っている。目的地はどこかと問いかけている。ぱちんっ、と目を開けて、ソキは自信たっぷりやる気十分に、ふんすと鼻を鳴らして頷いた。
「ぜぇんぜん問題ないです! 通れなかったです? なんで?」
「駄目だったんだよ。……そうか」
「ねえねえ陛下。ソキ、おしごと終わったです? かえってい?」
すきあらば言質を取って帰ろうとするソキに王はしゃがんで微笑んで、花舞と星降の好きな方から行っていいぞ、と告げた。ぷっぷくくくくくっと頬を膨らませて、ソキはしぶしぶ、とてつもなくしぶしぶ頷き、じゃあほしふりいくですぅ、と言った。
「レディさんに言いつけちゃうです。ソキ、陛下にこきつかわれてるです。ゆゆしきことです」
「はいはい。そうだな。頼んだからな」
「もぅー! それでは行ってきますですうううう! アイシェさん、またね。陛下、安全なとこでじっとしてないといけないですよ。それでねあのね」
恐らくはロゼアが傍を離れる時に言い聞かせているのだろう。お水を飲むだのおやつは食べ過ぎたらいけないだの、お姉さんぶった顔で言ってくるソキに、王は苦笑しながら頷いてやった。妖精に、頼んだぞ、と告げる。姿の見えない相手が、なぜだか頷いてくれた気がして、王は『扉』の向こうに消えるソキを見送った。途端にあたりがしんとなる。
不安げなアイシェを抱き寄せながら、王は片腕だけを伸ばして『扉』に触れた。開く。しかしそれは、どこに繋がることもせず。ただ、白く塗りつぶされた壁だけが、行く手を阻んでいるだけだった。
恐らく、今は。
予知魔術師だけが、空間を繋ぎ合わせて世界を移動できるのだ。