ソキは、星降に到着するなり投網で捕まった。投網である。『扉』から出るなりの問答無用の捕縛であった。投げた方も投げられた方も口をぽかんと開けて誰一人として動けない中、誰かの、えっソキちゃんじゃないのあれ、という呟きでソキは事態を把握した。なんだかよく分からないが、網を投げられて捕まっている。頑張って働いているのに。
ロゼアちゃんも仕方なく仕方なく仕方なくいっぱい我慢しているのに。これはあんまりにあんまりなことである。
「ふ……ふんにゃああああぁああっ! ぎしゃああぁああですうううううう! ふんにゃぎゃぁあああ!」
「あーっ! 嘘ごめん違うの手違いなのごめんだから暴れないでごめんごめっあー! 絡まってるー! あー! 絡まってるーっ!」
『……なぁにこれ』
うんざりしきった妖精の声が響くも、ソキの怒りは収まらなかった。こんなことをされたのは生まれてはじめてのことである。怒り心頭でじたんばたん暴れるソキを遠巻きにする魔術師たちの顔は、手負いの獣を捕縛してしまった者のそれに酷似していた。妖精は白んだ顔で息を吐く。
『ソキ、ソキ。落ち着きなさい。あの底が抜けた馬鹿どもは、ひとり残らずアタシが呪ってやるから。……ほら、いいから! 暴れるんじゃないの! 怪我するでしょうが! 言うことを聞けーっ! 暴れるなって言ってるのよアタシは! 怪我するでしょう! 怪我を!』
「ふえ……ふぇ、ふぇ……えぇん……」
「あー! なにとぞお怒りをお収めください! なにとぞお怒りをお収めくださいー! せめてロゼアくんだけにはー!」
ついに泣きべそをかいて座り込んでしまったソキから視線を外すと、魔術師たちが青い顔で平伏しているのが見えた。妖精は苦心してソキに絡んだ網を解いてやろうとしながら、無慈悲にきっぱりと言い放つ。
『言いつけるわよ馬鹿じゃないの? 謝る前にせめて説明しなさいよなにこの事態。馬鹿じゃないの? 馬鹿しかいないの?』
「分かりました結論から言うね! ひと間違いです!」
だってだってこの状況で『扉』が砂漠側から起動して誰か来るとなるとそれはもうひとりしかいなくないっ、でも間違えてごめんなさいっ、と両手を上げて謝罪する魔術師に、妖精は小馬鹿にしきった顔つきで、はぁ、と語尾を跳ね上げて言った。
『つまりアンタたちアレなの? あの言葉魔術師とソキを間違えたって言うのね? それでどうして投網なのよ花舞に汚染でもされたのかしら? それともついに陛下に似たの?』
「……いや、一回でいいから賊に網投げて捕まえてみたいよねって……話になって……?」
妖精は、未だもちゃもちゃやんやんぎゃうううっと不機嫌この上なく自力で網から逃れようとしているソキを宥めながら、白みきった顔で腕組みをした。溜息と共に頷く。
『そう。ついに星降も花舞の仲間入りってわけ。おめでとう? よかったわね。好きに生きなさいね、陛下そっくりに』
「いやああぁああごめんなさーい! 違うのちょっと色々! そう色々焦ったりうまく行かなかったりして判断力がねっ?」
そんなものがお前たちにあった試しなどない、と断定した顔をして、妖精はゆるりと魔術師たちの顔を見回した。なるほど、よく観察すればストルやレディなど中核の魔術師の顔が全くない。そしてよく見れば半数が、まさに花舞の魔術師の混合部隊である。これは勢いだけで物事を決定し、勢いだけで実行し、そのままやらかす種類の駄目なアレである。注意力不足も甚だしい。
『アンタたち、判断力の意味知ってて言ってる?』
「もうもうもうもうやぁああんですうううう! りぼんちゃ! おーきゅ、まじちしさんばっかり構ったらだめですうう! ソキのー! しんぱいをー! するですううう!」
極めついてめんどくさいのに可愛くて無視できないなんだこれ、とうんざりした顔を隠さないまま、妖精は視線をソキに戻してやった。髪に体に、網をぐっちゃぐちゃに絡ませた悲惨な姿で、ソキはふんすふんすと鼻を鳴らしてふんぞり返っている。見れば腕や手の甲は網に擦れて赤くなっていて、切れて血こそ出ていなかったが、これ以上暴れればもう時間の問題であると思わせた。
いいからもうじっとしてなさいなんとかしてやるから、と妖精が天を仰いだ時だった。怖気立つ程に濃密な、それでいて完璧なまでに編み上げられた火の魔力が場に一瞬にして満ち溢れる。あ、と誰かが声を上げるのと、現れた焔の鳥がソキに身を擦り寄せ、その繊細な術でもって『花嫁』を捕らえた網を消失させるのは殆ど同時のことだった。
その、柔くなめらかな肌にすこしの痛みも与えない芸当は、研鑽を重ねた魔法使いであるからこそ可能な術だろう。すっく、と本人的には立ち上がったつもりの、よろよろもちゃっとした動きで罠から脱出したソキは、当然の期待で辺りをきょろきょろ見回した。
「レディさん? レディさんです! ソキには分かっちゃったです。ありがとうをするんで、こっちに来て欲しいです。……あれ?」
『……いないわね』
一度だけ、優美に翼を羽ばたかせて。焔の鳥はソキに恭しく一礼すると、ふっと吹き消されたように空気に姿を紛れさせてしまった。ぱちくり瞬きをしたソキは、頭を抱える留守番魔術師たちに、己が感じた印象のまま問いかける。
「お留守番の鳥さんなの? レディさんはいないの?」
「うん……。今ね、『学園』に行ってて……あれはなんていうか、緊急事態専用の防衛機能としてレディが仕掛けて行ったやつ……」
「ソキをつかまえるだなんて、きんきゅーじたいに決まってるですううう! もう! もう! ……あっ、つまり? ソキは? レディさんを呼びに『学園』に行くのが正しいのではないですか……? ねえねえ、リボンちゃん?」
数秒前までの怒りはどこに捨ててきたのか。きらんと目を輝かせて『学園』に向かおうとするソキに、妖精は腕組みをして言い聞かせた。まずは魔術師たち、そして星降の王に現状を伝えるのが最優先である。砂漠の王がソキに語らなかったいくつかのことを、妖精は角砂糖を口実に傍を離れて見てきたからこそ把握していた。星降からも調査に向かっていた魔術師たちが、どんな状態にあるのかも。
全てを把握するには、ソキに怪しまれない為に時間がなかったが、それでも伝えておかなければならないことは多い。砂漠の王とは違い、自身も魔術師である星降の王は、妖精のことが分かるのだし。あからさまにやる気を無くしてくちびるを尖らせ、もぅー、と声を上げるソキを促して、妖精は留守番魔術師たちを置き去りに、勝手知ったる城の中をすいすいと飛んだ。
星降は穏やかな空気を漂わせていた。『扉』の前のひと騒動から離れてしまえば、ソキが訝しく眉を寄せていっそ不安げな顔になるくらい、いつもの通りになにも変わらないでいる。魔術師が動き回っていることは知られているのだろう。人々はソキには親切に、陛下なら執務室にいらっしゃいますわ、と声をかけては小走りにでもなく行き過ぎていく。穏やかだった。常の通りだと感じられる。
その平常に怯えて、ソキは廊下で立ち止まってしまった。
「……ソキ、やっぱりもう、おうちかえる……。ソキが、ソキがロゼアちゃんを守ってあげなくっちゃいけないです……。『学園』がたいへんなんだもん……。ほんとなんですぅ……ほ、ほんと、なんですよ……!」
『ソキ。……ソキ、大丈夫。皆分かってるのよ。あの魔術師たちだって言ってたでしょう? 火の魔法使い、レディは『学園』にいるのですって。助けに行ったのよ。なにもしていない訳じゃないの。無視されている訳じゃないのよ』
「でっ……でも、でもでもぉ……! もう、もう朝だもん……ソキ、朝になるよりずうっと早く、ロゼアちゃんの所に帰るつもりだったんですよ」
てのひらをぎゅっと握り込んで俯いて、ソキはうるうると目に涙を浮かべ、ずびっと鼻をすすりあげた。それはまさしく、迷子になった幼子そのものの姿であったからだろう。たたっ、と走り寄る軽い足音が響く。朝の清涼な眩さから、ソキをそっと隠すように、穏やかな影が落ちた。
「どうしたの? っ……ま、迷子……かな?」
唐突で奇妙な、言葉の途切れが声の間にはあった。それはまるで名前を呼ぼうとして、そのことに戸惑い、無理に切り替えたような不自然な形だった。ぐしぐしぐし、と拳で目を擦って、うつむいたまま、ソキはないてないもん、と言う。うん、と穏やかな声が降りてきて、その影はソキの前にしゃがみこむ。
「泣いてないね。偉いね。……ね、名前を教えてね。私は、ステラ」
ぱっと、勢いよくソキは顔をあげた。その響きを知っていた気がする。時の果て。世界の先。そこで幾度も巡り会い、そして失ってしまった筈の。息を吸い込んで。ソキはなぜか、しゃがみこむ少女の両足を見て。じわ、と新しい涙を浮かべ、息を吸い込む。
「……ステラちゃん?」
「うん。なぁに、ソキちゃん」
「……ソキ、ソキね、迷子じゃないの。迷子じゃないけど……ステラちゃん。助けてくれる?」
少女は、星降の騎士である。それを示す、白と金を基調とした制服に身を包んでいる。歳の頃は十五か、十六。ソキよりすこし年上の、しなやかな身のこなしをする少女だ。肩をすこし越した辺りまで伸ばした赤褐色の髪を、細く一本の三つ編みに纏めてなお、何処かロゼアと似た印象がある。瞳の色も、ロゼアと同じだからだろう。
少女、ステラは赤褐色の瞳を晴れた日の湖面のように煌めかせ、さっとその両足で立ち上がって、ソキに手を差し伸べた。
「ええ、ソキちゃん。もちろん!」
その、笑顔も。声も。腕も、手も、指先も。なにもかも。時果てに消えてしまったものが。そこにある。ソキは胸いっぱいに息を吸い込んで、差し出されたステラの手を握りしめた。ぎゅうっと、強く。離れてしまわないように。
「……ステラちゃん。ソキ、ソキね。名前ね、ソキっていうの」
「うん……? ……うん。よろしくね、ソキちゃん」
あれ、とステラは胸元を指先で押さえて瞬きをする。手を繋いだまま。ううん、と難しそうな顔をしたステラはちょっとごめんね、と断ってから、ソキに手を伸ばして、その目元に触れる。消えた涙を拭うように。そのことに。ようやく、ほっとした顔をして、ステラはくすくすと肩を震わせて笑った。
「ほんとだ。泣いてないね。……よかった」
なんだろう、私ね、と歩き出しながらステラが囁く。なんだかずっとそれが心配だった気がしたの。手を繋いで。腕にじゃれついてきゅむっと抱きつきながら、ソキはステラを見上げてこしょこしょと囁く。ソキもですよ。ソキも、あのね。ずっと、なんだか、あのね。あのね。伝えたい言葉がある筈なのに、声にならず、言葉にならず。
むう、とくちびるを尖らせるソキに、ステラは幸せそうに目を細めて微笑んだ。
妖精が星降の王に詳細な説明をしている間、あんまりあのねあのねステラちゃんあのねきゃあんやぁんとしていたせいで、ソキは行く先々で好みの女に声をかけるなと特大の雷を落とされてしまった。そんなつもりではないのである。ソキはいじいじとくちびるを尖らせて反論したが、ステラと手を繋いだままであったが故に、まずそこを改めてから反論しようとしろ、と次の雷を落とされた。
ぷーくーくーっと頬を膨らませ、ソキはいまひとつ反省の見えない態度で首をちょこりと傾げてみせた。
「心配しなくてもぉ、ソキはロゼアちゃんひとすじですしぃ、リボンちゃんのことだってすきすきすきー! の、だいすーきー! なんですよ?」
『アタシがいつそんな話をしたっていうのよ……! ソキ! なにをしに『学園』から出歩いてるか、ほんとに覚えてるんでしょうね!』
心外ですううう、という顔をして、ソキはこくりと頷いた。助けを求めに来たのである。でもなぜか『武器庫』にいて、そこから移動したら朝になっているし、砂漠に行ったら陛下に捕まって用事を言いつけられてしまうし、星降に来たら投網で捕まってしまうし、もうさんざんな目に合っているのである。
王宮魔術師はすでに動いていると聞くし、ソキが白魔術師たちと一緒に砂漠に戻る必要はないのではないだろうか。だってもうロゼアちゃんが足りないし、というようなことを、ソキはけんめいに妖精に訴えたのだが。妖精の返答は冷たかった。
『ロゼアはしばらくほっときなさい。いいから、用事を済ませてしまいましょうね。陛下への説明はアタシが済ませておいたから、用意して頂く書状を持って、花舞に行くわよ』
「えええぇえ……。えええー、ですうううー! ロゼアちゃああぁあん……!」
『残念ねぇ? シディが昏倒させたから、シディが回復して解呪するまで呼んだってなにしたって来ないわよ。ざまぁみろロゼアのヤロウ』
あの様子だと三日は起きてこないと聞いて、ソキは戦慄した。つまり三日もロゼアなしを強いられるのである。とんでもない大事である。いやああぁああんソキお家かえるかえるですうううせめてロゼアちゃんにぴとっとす、あっもしかしてなんですけどこれは寝顔にちゅうのかつてないだいちゃんすなのでは、と言った所で腕組みをした妖精にはいはい花舞に行くわよと促される。書類が出来上がったらしい。
星降の筆頭魔術師が苦笑しながら差し出してくるそれを、ソキは恨みがましく睨んで、やうーっ、と威嚇した。
「ソキ、レディさんに会いに行くもん。陛下だって、医療部隊か、レディさんの、どっちかと一緒って言ってたです。ソキ、ひとみしりなんでぇ、知ってるひとじゃないといやいやんです。だから、これはステラちゃんにあげます! はい!」
「えっと……? あ、ありがとう……?」
はっしと書状を掴んだソキにそのまま差し出されて、事情をおぼろげに理解しつつも見守っていたステラは、戸惑いながらも受け取った。ふむ、と面白がる顔で星降の筆頭が口元に手を押し当てる。二人は当然、同じ城内を職場とする同僚であるから、顔見知りであるのだが。ステラ、と魔術師の筆頭に名を呼ばれ、騎士の少女は礼儀正しく、ぴしっと背を正して返事をした。
ただし。手を繋いだソキを、腕にぺとんと引っつかせたままで。
「ステラ。君が『学園』の魔術師と交流があったとは初めて聞くけれど?」
「えっと……そうですね。ありません。ソキちゃんとは、さっき廊下で……あの、決してやましい思いがあった訳ではなく! 迷子かと思ったら美少女だったし魔術師だっただけなので……! こんな美少女ほっといたらそっちの方が危ないですし……!」
そうですよね、と微笑んで、星降筆頭の青年はソキを見た。人見知り、の意味を三秒考えたあと、ふっと笑みを深めて柔らかく頷く。
「はい。それでは花舞に向かうように。ステラ、『扉』の位置は分かりますね? 案内してあげなさい。彼女が逃亡したり、迷子になったりしないように」
「……ですって、ソキちゃん」
「むじひですううううう! ソキはほんとにひとみしり! ひとみしりなんですううう! 頑張ってなおしたですけど、でもでも知らないひとやんやんですうううまた網で捕まったらどうしてくれるです……? あんまり……あんまりなことです……ソキのお肌が赤くなっちゃったんですよ……? なのに、なでなでもぎゅうもないです……。こんなひどいあつかいをうけたのは、うまれてはじめてのことですぅ……」
いやああぁああ、と悲痛な声をあげてやんやん体をよじって訴えるソキに、ステラからは心底可愛く思いつつ相手を心配もするという、ロゼアと似た眼差しが送られる。これは頼りにならないしソキを駄目にする相手だどうしてそんなのばっかり引っ掛けてくるのか、と思いながら、妖精はソキの頭の上に着地し、足先をぱたぱた動かす控えめな動きで叱責する。
『だ、め、よ。花舞の魔術師なんだから、全く会ったことない相手なんかじゃないでしょう? キアラとかジュノーとか、シンシアでも呼び出せばいいじゃない。多分引くほど喜び勇んで走ってくるわよ』
ロリエスが不在の現在、花舞の女王がその三人を『学園』に向かわせたとは考えにくいものがあった。星降にさえ花舞の魔術師がいるのなら、なおのこと。恐らくは楽音にも白雪にも散らばっているだろう。身に持つ魔術量こそ白魔法使いとは比較できないだけで、単身と比べて組んで動くことのできる花舞の白魔術師部隊は、ことこのような有事において比類なき武器となり、力となる。多少、勢いで動き勢いで決定してやらかす点にさえ目をつぶれば。
ぷううっと頬を膨らませるソキに、花舞の陛下に投網投げられたって告げ口していいからと妖精が言うと、ようやく首が縦に振られる。ゆっくりとした、重々しい、なんらかの決意に満ちた動きだった。
「ソキ、いいつける……。陛下のも、魔術師さんに網で捕まったのも、みぃんないいつけるです……!」
「……砂漠の、なんかもらい事故してない? 大丈夫?」
なにされたのー、とのんきな声で問うたのは星降の王だった。普段は落ち着きがないのに今日に限ってまったりとした雰囲気を漂わせる王に、不可解そうな目を向けながら、ソキはくちびるを尖らせて訴えた。
「あのね。ロゼアちゃんのとこに帰ったら駄目だって仰ったです。それで、レディさんか、白魔術師さんと一緒に戻ってきなさい、なんですよ。あんまりなことです。むじひです。おんじょうをかんじないです。これだから陛下はおんなごころがわからないとか言われるです。しゅくじょのあつかいをこころえてないです!」
「うーん、そっかー。落ち着いたら、俺からも言っておいてあげるね。だから今は、花舞に行ってくれる? ……お願いしたいな、頼めるかな?」
星降の王は穏やかな笑顔で囁いた。なにを、とは言われなかったのだが。ソキはやる気を取り戻した顔でこっくり頷き、ステラの手をきゅむっと握りしめる。
「それじゃあ、ソキは花舞に行ってあげることにするです。あのね、終わったら、『学園』にも行っていい?」
「んー、そうだなー。花舞で、白魔術師たちに聞いてごらん」
「はーいですー!」
見事に先延ばしのたらい回しにされていることを気が付きもせず、ソキはにこにこと手をあげて返事をした。ステラと手を繋いで、それでは失礼しますととてちて執務室を出ていくのを、星降の王と筆頭魔術師の視線だけが見送った。視線だけで、立ち上がりさえしない。その姿に。厳戒態勢である、と妖精は判断した。星降は見かけだけ、常の穏やかさを纏っているに違いない。
城には王の魔力が張り巡らされている。それはレディが残していったような防衛の力ではなく、純粋な祝福の祈りだった。悪いものが入ってきませんように、いつもの日々でありますように、という、子を持つ親が誰にともなく託す、淡い祈りのような。それでも、それは魔術師が成す術であり。王の広げた守護である。そうしている限り、星降にこれ以上の異変は起きないだろう。
星降の王がソキを城に留めず移動させたのは、予知魔術師だからだ。その穏やかで強靭な守護をも突き崩す可能性を、ソキが持っているからだ。それは切り札となり、また不安要素にもなる。王たちが『学園』にソキを戻したがらないのはその理由である。なにがあるか分からない以上、現場となったそこへソキを置くのは危険すぎた。
ソキは欠片も聞いていなかったが、妖精は星降の王から、恐らく『扉』が使えるのは予知魔術師だけだという推測も渡されていた。事件が起きてからしばらくは普通に動いていたが、ある時から駄目になってしまったのだという。調整できる者を皆、砂漠と『学園』に閉じ込めて。
寮長は未だ回復しきらず、世界を渡る術がないと紙片を一枚、寄こすので精一杯であるらしい。風の魔法使いであるナリアンであればもしかしたら、という可能性も同時に告げられていたが、未だ『学園』で守られる生徒であり、担当教員も傍にいない状態では試すことさえ危険が勝る。ましてや、ナリアンは師や親しい者たちが倒れ伏す砂漠から、助けを求めて走った後だ。
ソキを探し惑った混乱は王たちのもとに伝わっていて、そうであるから手段としては保留にもされない状態である。なすすべもなく。過ぎる時による微弱な回復と変化を、魔術師たちはじりじりと待っていた。ソキは現れた劇薬だ。扱いをごく慎重にしたい気持ちは、妖精にも理解できることだった。本人が行く先々で好みの女を見つけては、きゃあきゃあはしゃいでさえいなければ、そんな話もしてやったのだが。
妖精を連れて花舞へ向かう『扉』まで移動するソキは、なにがそんなに気に入ったのか、ステラと手を繋いだまま機嫌よく歩いている。ほんとのほんとになにが起こってるのか分かってるのかしら、を通り越して、なにが起きたのか覚えているのか、ということから心配になった妖精は、ソキの目の前にひらりと滑空し、意識を引きつけてから問いかける。
『ソキ? ……アンタ、あの砂漠の虜囚に連れ去られかけたことは分かってるんでしょうね?』
「ぷ! リボンちゃんたら、思い違いをしているです? ソキ、ちゃあんとわかってるもん。こわいこわいがロゼアちゃんを狙って、みんなをえいっ! ってして、ロゼアちゃんにくっついたんだもん。だから、ソキは、みんなにそれを助けてもらうです」
意外と分かっている、という顔を隠さず逆に訝しげな顔をする妖精に、ソキはわかってるもんと繰り返した。
「わかってないのは陛下たちだもん」
『はぁ?』
「いーい? リボンちゃん。あのね、ソキとアスルはありったけ! けんめーにがんばってのろったです。それはもう、とっておきの、いちばんのがんばり、というやつだったです」
てちてちてち、とつたなく歩きながら、ソキは心ゆくまで自慢げな顔をした。
「だからね、いまはなにもできないの。ちょっとはなにか出来たかもですけど、もうだめなの。ぱったりでくにゃくにゃで、ちっとも動けないです。ソキにはお見通しです。だからね、しばらくはなにもないの。だからね、助けてには時間のよゆーというのがあるですし、だからね……ソキはほんとにロゼアちゃんのとこ帰っていいんですよぉ……なんというむじひなことです……それなのにけんめいに働くソキ……これはかつてない褒めがもらえる筈です……」
『……ソキ? あのね、あの……あのね……?』
目眩がした。『扉』はもう目前である。妖精が言葉を探している間にソキは『扉』をぺちぺち触り、特別問題ないです、とばかり頷いている。心底気乗りのしない様子でステラから書状を受け取り、流れるようになぜか次のお休みに一緒にお買い物に行く約束を取り付けているソキの頭の上に、妖精はよろけながら不時着した。呻きながら問う。
『ソキ……。アンタそれ、誰かに言ったんでしょうねアタシはいま聞いたけど』
「……んん?」
『だ、れ、か、に! 今の! 訴えをして! 理解を求めたか聞いてんのよアタシはーっ!』
なんでか突然リボンちゃんが怒ったですよくないですっ、とびっくりした顔をして、ソキは大慌てで、止める間もなく『扉』を開いて飛び込んだ。ソキには、ここから離れようとも妖精も一緒にくっついていくので逃げられない、という根本的な所の理解が足りない。魔力がふたりを包み込んで転移させるまでの、ほんの僅かな時の隙間で。妖精は許さず、羽根を震わせて絶叫した。
『誰にも言わないでぐだぐた怒ったり拗ねたりしてるんじゃないわよこの大間抜けーっ! ほんっとに大事な最重要事項だろうがなに考えてんだーっ!』
「やぁあああぁありぼんちゃんがおこったですうううううソキいったもん! いったもん! い……い……う? あれ? ん……ん、んん……うゆ? い、いった……も……いったぁ……?」
『言ってないのよアタシに聞くなーっ!』
やぁあああいったもおおぉおっとぴいぴいした泣き声を最後に、ソキと妖精は心配しきりのステラに見送られ、花舞へと旅立った。
いったもんソキいったもんほんとだもんいったもんそんな気がするですからソキは言ったにちがいないですほんとですううう、と言う主張に秒で雷を落とされ叱られながら、ソキは花舞の女王のもとへ辿り着いた。なにせ『扉』から出てきた瞬間からソキは半泣きでごねているし、妖精は怒り狂って声を荒げているので、魔術師たちは遠巻きにふたりを見守るしかなく、女王も苦笑しきりで出迎えた。
いったんだもんソキはいったんですぅ覚えてないけどきっとそうだもん、と諦め悪く鼻をすすりながら、ソキは星降の王からの書状を、きちんと両手で女王へと差し出した。女王は笑いながらソキをソファに座らせると、怒りが収まらない妖精に角砂糖をぽんと受け渡し、手を振る仕草でソキにも飲み物を給仕させた。
わらわらと寄ってきた花舞の魔術師たちは、口々にどうしたのソキちゃんなにしたのと心配しながらも、まるで怒られるのはソキがいけないことをしたからだと言わんばかり尋ねてきたので、ソキはぷっぷくうううぅう、とばかり頬を膨らませて、ぷいと視線をそらしてしまった。ちたぱたた、と脚をぱたつかせながら主張する。
「ちがうです。ソキがね? けんめいにお伝えしたですのに、リボンちゃんたらお怒りなの。よくないです」
『よくないの意味からアタシに考え直させないでちょうだい……! だからなんで! 大事な所が抜け落ちるの! 自分が良いように要約するんじゃない!』
内容については全く分からないけど、何が起きたかだけは大体分かった、という顔をして魔術師たちは頷いた。恐らくはいつものアレである。ロゼアくんが一緒じゃないもんねぇ、と呟かれた言葉に、ソキは勢いよくそうですそうなんですぅと頷いた。
「だからね、ソキ、ロゼアちゃんのとこ帰るの! ね、ね、帰っていいでしょう?」
「えっ……うーん。星降の陛下はなんて?」
「花舞の魔術師さんに聞きなさいって。いいでしょう? いいに決まっているです。なんてすばらしことです」
これ間違いなく駄目なやつ、と頷き合い、魔術師たちは女王を伺った。花舞の魔術師にしてはおかしいくらい、怯えすら見え隠れする、恐る恐るの視線だった。目をぱちくりさせ、きょとん、とするソキに。書状を丁寧に折りたたみ、顔をあげた女王が美しく微笑みかける。
「……さ、私の魔術師たち。用意をしなさい。……砂漠を攻め落とす」
魔術師たちの反応は早かった。次々に声にならない悲鳴をあげロリエス助けて今すぐ助けに行くから今すぐ助けてあぁああああと叫び呻き祈ったのち、彼らは決意の表情で、忠誠を捧げし愛しの主君に声をあげた。
「あー! おやめください麗しき我らが女王陛下ーっ! なにとぞ落ち着いてくださいお願い致しますー!」
「深呼吸してください陛下深呼吸! お願い致します! 深呼吸! ひっひっふー! ひっひっふーです!」
「ああぁあああお許しください陛下! なにとぞ! それだけは! お許しください陛下お許しくださいそれ侵略とか戦争とかになっちゃいますお許しくださいー! お許しをーっ!」
唖然とするソキと妖精たちの目の前で、両手を祈りの形に組んだ魔術師たちが次々に叫びながら平伏していく。花舞の女王はそれに僅かばかり視線を落とし、やや気を削がれた顔つきで目を細めた。
「……ロリエスは戻らない、フィオーレは操られた、だと? これを許しておく理由がどうしてある? 今こそ、あの砂漠の虜囚は殺すべきだ。お前たちの気が向かないなら私が手を下そう。他を抑え込むだけでいい。できるね?」
「陛下お願い致します! いましばらく! もうしばらく他国と『学園』からの情報をお待ちください! 『学園』にはレディが向かったと聞きました。同じ魔法使いであるなら、フィオーレの意識を戻す手立てもありましょう! 物理かも知れませんが! 大丈夫ですちょっと焦げたくらいでは白魔法使いは死にません!」
花を。穏やかに風に揺れ咲く花を傷ませるような強烈な怒りが空気を震わせている。妖精は咄嗟の判断で女王とソキの間に立ちふさがり、尊き方に背を向けて己の魔術師に向き直った。ソキはぽかんと口を開けたまま、じわじわと状況を理解している最中なのだろう。のたくたと室内を彷徨う視線が、怒りに対する怯えを滲ませ息を浅くさせていた。
ソキ、ソキ、と潜めた声で囁きかける妖精に、向けられる目は凍りつく森の色をしている。あ、う、あぅう、と涙に彩られた意味なき声を零して、ソキはソファの上で全身に力を込め、周り中を警戒しながらも口を開いた。いけない、という意思がソキの中で響いていた。それは眩暈と、痛みさえ伴いながら鼓動より強くソキの心身に響いていく。焦りと共に広がっていく。
とめなければ。とめなければ、とめなければ、とめなければいけない。この意思だけは止めなければいけない。さもなければ。滅びの蓋がまた開く。『花嫁』は、泣き叫びそうな意思を堪えて息を吸い込んだ。
「花舞の、陛下、に……申し上げます」
「聞こう。なにかな? 予知魔術師」
「砂漠の……虜囚は、しばらく、なにも、できません。なにも……なにもです。ですから、しばらくは、なにも……起きません。ほんとう、ほんとう、です……」
室内の魔術師たちがそうしているように、『花嫁』も両手を祈りの形に組み合わせ、震えながらも花舞の女王を見つめていた。ゆっくりと、それでいてはっきりと、一言に力を込めて発声する『花嫁』の、淡く甘い声が淑やかに告げる。ですからどうぞ、そのようなことはなさいませぬよう。『花嫁』の切なる願いに、しかし女王は冷たく目を細めて首を傾げる。
「ソキ」
「……はい」
「なぜ、そのようなことが言える。情報すら書状でしか届かないこの状況で……いや、なぜ『扉』が使えるのかな? 他の誰でもない、君だけが。なぜ?」
その理由ひとつも説明できなくば、言葉は受け入れられるものではないのだと。青い花のような声が告げる。夥しいほどの怒りを、それでもまだ、忠臣たちの言葉によって抑えつけようとしながら。その場の希望と祈りをかき集めた視線を受けて、ソキはぎゅうと手を握りしめた。ふわ、と飛んだ妖精が指先に触れる。大丈夫よ、と妖精は告げた。
アタシがいる。ソキはひとりなんかじゃない。アタシがいる。絶対に味方だって信じていて。ソキ。囁きに、差し出された希望に、祈りに。ソキは、予知魔術師は、震えながらも毅然として顔をあげた。胸に両手を押し当てて、誇り高く告げる。
「祝詞を告げ、呪詛を囁く。予知魔術師の本能が……対たる、言葉魔術師のことを、わたしに告げる。わたしの使用者は、いまはまだ動けない。なにもできない。砂漠の奥深くから、出てこない。わたしが、『扉』で飛べるのは……この混乱が言葉魔術師によって引き起こされたものだから。その魔力はなんの障害にもならない。そして例えそうでなくとも……荒れ狂う嵐の中でさえ、わたしは飛べる。入口と出口さえあれば、かそけき可能性のひとかけらさえあれば、それを確かに引き寄せて行ける」
語るソキの瞳は、硬質な宝石のようだった。くらやみから光を見つめ、その輝きを宿しながらも秘され眠りについている、鉱石の瞳。けふ、こふ、こふ、と弱い喉が悲鳴をあげて乾いた咳を繰り返す。それでも予知魔術師は己の出来るすべてを差し出すように、凛とした態度で言い切った。
「また、予知魔術師たちの遺物がわたしに告げる。予知魔術師とは、そういうものだと。……ですから、陛下、どうぞ」
ふわ、と微笑んで、『花嫁』が一礼した。
「どうぞ、心穏やかに、いましばらくお待ちください。あなたの魔術師は損なわれてなどいない」
それが『花嫁』の、脆く弱く作られ整えられた魔術師の、喉の限界であるようだった。ソキは苦しげに体を二つに折り、両手を口に押し当ててごほっ、と強い咳をした。全身に力を込めて堪えようとするも、幾度も幾度も咳がこぼれていく。止まらない。見かねた妖精が祝福を口にしてようやく、それはすこし和らいだ。まるで棘を飲み込んだかのように、苦しく、ソキは息を整えていく。
はっとした顔つきで走り寄った白魔術師が、『花嫁』の首に手を押し当てて魔術を使いようやく、その呼吸は平常を取り戻す。は、はっ、と浅く早く、ソキは息をした。制圧、と呼べるくらいの満ちた静寂、妖精の祝福の残り香が漂う部屋の中。ソキは花舞の女王に自慢げな顔をして笑い、いつものように、ちょこり、と愛らしく首を傾げて問いかける。
「説明は、おわりです。……これで、いいですか?」
「待てと、君も私に求めるのか?」
「求めては。……ただ、女王陛下は魔術師の言葉を無視なさらない方であると」
そう言って、ソキはまたこふりと乾いた咳をした。もうしばらく話さないでいなさい、と妖精がソキに囁きかける。もう十分よ、と。そうだな、とばかり苛烈に同意を求めて室内を見回した妖精の目が、王宮魔術師の尽力を命じている。陛下、とひとりがすがるように囁いた。
「お願い申し上げます。どうか……どうか、お待ちください。お気持ちは痛いほど理解しているつもりです。ですが……あえて、もうひとつ告げるなら、まだ誰も損なわれてはいない。まだ、戻らない、だけなのです。そこにいる。ロリエスは砂漠に、フィオーレは『学園』に、いるのです」
「……お願いします、陛下。こんなの、嫌です。こんなの……」
「陛下……。俺たちに戦争をさせないでください……。誰とも戦いたくない。こんな形で、戦いたくなんてない……! ……待ってください。お願い、どうか、待って……」
女王は目を閉じ、深い息を吐いた。ソキは眠そうに目をぱちぱちとさせ、指で擦って妖精にたしなめられながらのんびりと呟く。
「あのね。リボンちゃん」
『ちょっとだけ静かにしていなさいね、ソキ。それか、小声でそっとよ。……なに?』
「こごえ。こごえです……あのね、リボンちゃん。ソキ、みんなのところに、行こうと思うです」
もちろん、ロゼアちゃんには会いたいし、それがいちばんのことだし、会いたいし寂しいし会いたいし会いたいのだが。くしくしくし、と眠たげにまた目を擦って、ソキはこっくりと頷いた。
「あのね。楽音と、白雪にも行くの。それでね、花舞の陛下が大変なのをお伝えするです。それでね、ロリエスさんと、フィオーレさんを、はやく助けてくださいってお願いするの。それでね、砂漠に戻る前に、こっそり、こっそり『学園』にも行くの。ロゼアちゃんにぎゅうするの。……あのね、あのね、リボンちゃん。ソキ、魔術師のことはね、きっとなにもできないですけどね、お手紙を運んだり、お願いしたりするのはね、できるの。ソキ、ロゼアちゃんをもうすこし、我慢する。それでね、ソキ、できることをするの。えらい? ……えらい?」
『……偉いわ。偉いわよ。でも急に、どうしたの?』
「だって……だって、たたかうのはだめだもん……」
くしくし、と眠たく目を擦って。りぼんちゃんにおこられちゃうです、と拗ねた口調で呟くソキは、すでに半分眠っているに等しかった。女王は閉じていた目を開き、装いのない柔らかな苦笑でソキに囁きかける。
「お昼寝してお行き。……誰か、部屋を整えておあげ」
「……はい、すぐに」
「そして、起きたら……ソキが起きたら、楽音なり、白雪に行く前に、もう一度私のもとへ連れてきなさい」
ふ、と息を吐いて。女王は怒りを一度手元から離すように、囁いた。
「待とう。……私は狭量な王になるつもりはないのだよ、私の魔術師たち」
「はい。……はい! 存じております! 我らが麗しき女王陛下! 愛してます! ありがとうございます!」
「わああぁあソキちゃんありがとおおおおおっ! すごいすごいスペシャルハッピーありがとうー! お昼寝のお部屋だよね待ってて! 五分待ってて!」
言うなり部屋を我先に飛び出していく魔術師たちの、やったー陛下大好きですーっという叫びが、華々しく空気を揺らしていく。でもでも待つっていうのは、やめる、とは違うですよぉソキちゃあんとしってるもん、と呟き、『花嫁』はふわふわとあくびをした。リボンちゃん一緒にねむてね、と訴える声が甘えきっている。
分かってるわよ、と告げながら、妖精はソキの頬をやんわりと撫でた。己の魔術師の成長を知る。よく頑張ったわね、と心から告げれば、ソキは幸せを零すようにふんにゃりと笑って。うん、とあどけなく、甘い仕草で頷いた。