詳しくはアーシェラから報告がありロゼアからも聞いているが、と前置きされた上で、リトリアはラーヴェとのことを詳しく語るように求められた。もちろん、魔術師の秘匿とする所、隣国の機密に差し障る所は話さなくとも構わないし、万一口にした時にはこの場で忘れる事を約束する。『お屋敷』の当主直々にそう告げられて、リトリアは随分楽な気持ちで口を開いた。
あらかじめ聞かされていた訳ではないから、どこからなにを話したものか、幾度か言葉を紡ぎかけては、そのたびくちびるが閉ざされる。おろおろと彷徨う視線に、アーシェラは根気強く、大丈夫ですよと語りかけた。慌てず、ゆっくり、纏めてもいいし、欠片を、断片をぽつりぽつりと落としてくれてもいい。とりとめのない言葉、抽象的な説明だと思っても気にすることはない。
慣れていますから、取り違えがないか意味だけ確認させて頂きますがどうかお気になさらずに、と微笑まれて、リトリアはこくりと頷いた。ソキの説明を翻訳するロゼアのようなひとに、囲ませていると思えば言葉を飾る必要はないと思えた。のだが。リトリアの出奔は、そもそもが魔術師と国家の機密にかかわる機密事項に該当する。そうでなくとも、ストルとツフィアに対する盛大な誤解と勘違いは、魔術による阻害があったにせよ、いまはただ幼く恥ずかしいばかりである。
顔を赤くして、えっと、えっと、とひたすらもじもじ指をこすり合わせて口ごもる結構な時間を、宣言通りに室内の者たちはただ待ってくれた。ようやく、リトリアが息を吸い込み言葉を押し出したのは、拾ってもらいました、という出会いからだった。用事があって、ひとりで砂漠を越えようとして、でも出来なくて、倒れてしまって、そうしたら気がついたらラーヴェさんが拾ってくれていて、アーシェラさんもいて。
何日も、何日も、とてもお世話になりました。ありがとうございました、と改めて礼を告げ頭を下げるリトリアに、アーシェラはかつてと同じ微笑みで、お気になさらないでと告げ、頭が痛そうな顔をして額に手を押し当てるレロクに、いくつかの補足をした。まず、『お屋敷』をすでに辞したラーヴェが『家』に現れたのは打ち合わせがあってのことではなく、唐突なものであったこと。
時刻は早朝。朝の霧も晴れぬ間に、意識のないリトリアを腕に抱えてやってきた。ひと目で『違う』とは分かったものの。どこぞの『花嫁』、あるいは『花婿』か託された次代である可能性も捨てきれず。そう尋ねたアーシェラに、ラーヴェは恐らくは違う筈だと苦笑しながら言った。なにせ、砂漠に倒れていたのだと聞いて、アーシェラをはじめ関係者たちは納得した。
砂漠の輝石の影響を外観につよく反映する次代であれば、ほぼ例外なく体が弱いこともあり、家の中で蝶よ花よと育てられる。荒事に巻き込まれての末にしてはリトリアには外傷がなく、付近に供の姿もなく。けれどもその上でラーヴェが連れてきたのであれば、それはそういうことで、正しかったのだ、とアーシェラはその言葉で一度補足を締めくくった。
だろうな、と呟いて、『お屋敷』の当主はリトリアを見つめる。その、首に揺れる金鎖と、一枚の花びらを。え、えっ、と戸惑うリトリアに、当主の側近が苦笑しながら続きを促した。拾われて、療養して、それからのことを。旅をしました、とリトリアは言った。私が持っていないと思っていたものを、なくしてしまったと泣いていたものを、ひとつひとつ、そこにあるでしょうって教えてくれるような、旅でした。
一度も怒らずに。笑いながら手を引いてくれました。都市の名前をいくつか、訪れた店の名をいくつか、いくつも。まだリトリアは覚えていて、静まり返った夜道の、街灯に火を入れるようにその名を告げていく。そこでなにをした、と詳しく告げなくとも、『お屋敷』の面々に大体は通じてしまうらしい。
アーシェラはくすくすと幸せそうに笑い、他の者たちはめいめい、微笑ましがったり頭が痛そうだったり天を仰いで呻いたり、感心したりしていたが、リトリアの言葉を途切れさせることを厭うよう、口を挟んでくることはなく。別れたのはこの近く、砂漠の城が見える場所です、と告げて、別れの時にこの首飾りを貰ったのだ、と告げて、ようやく。『お屋敷』の当主は御苦労だった、よく分かった、とリトリアに頷いて。
とてもとても嫌そうに、ふるふると首を横に振ってみせた。
「あの男は……そこまで近くにいたのなら、俺に顔を見せて行けというのだ……! ラギ! 常に警戒しておけと言っただろう! 国内外勤の者たちにも、ラーヴェを発見したら即日捕獲連行するように通達を出せと!」
「改めて命じておきましょう……まさか、外勤も誑かして足取りを誤魔化していただなんて……アーシェラ、あなたの話ですよ。レロクの命に逆らった自覚は?」
「いつも通りの笑顔で、顔を出して行くつもりはあるから心配しないでいいよ、と言って行ったので騙されました申し訳ありません……まさか、行く先々で外勤をもだまくらかしていただなんて……」
うめき声混じりのため息が、室内から一斉に吐き出される。ラーヴェさんだ、紛うことなきあの方ですわ、さすがラーヴェさん自由ほんと自由、こうすればいいんだって思っちゃうよね、シフィアお前せめて口には出すな睨まれてるだろうが、アルサールもシフィアも話があります終わっても残りなさい、おれにかおをみせないでどっかいくとかほんとーにどういうことなのだっどういうっ、はいレロク落ち着きましょねお客様が困っていますよ、と声が忙しく飛び交っていく。
リトリアはおろおろと、室内に視線を彷徨わせて、最終的にアーシェラを見た。
「あの……ラーヴェさんは、なにかいけないことを、した、の……?」
「いいえ。正式な手順に則って辞職致しました。元『お屋敷』務めの、現在は外部の者。罪咎あって逃亡している訳ではありませんのよ。……ただ、その」
「半年にいちどの! ほーこくぎむを! なしにして! どーこでなにをしているのかとおとえばあのおとこ! なにをたのしくひろってそだてているというのだおれにだってあれこれかってきたことなんかないくせにああぁああのおとこーっ!」
ソファの上で憤懣遣る方無い様子で怒るレロクを見つめ、リトリアは思わず、なるほどという気持ちで頷いた。ソキの兄君、そのひとである。怒り方と、発音が放棄されるさまがそっくりだった。レロクがいつまでもぷんすかぷんすか怒って落ち着かないのを、側近の男がやんわりと宥めようとしている。柔和な笑顔だがあまり機嫌が良くないと感じるのは、リトリアがロゼアを見慣れているからだろう。
つまり、レロクにはラギの不機嫌など通じていない可能性が高い。はいはい私がいますしなんでも貢ぎますそれでいいでしょうなにが不満なんですか、と微笑まれても、レロクは思いっきり拗ねた顔つきで、だってだってとごねていた。
「俺だってラーヴェに貢がれたことなどないのだぞ……!」
手を繋いでもらったことだってないのだぞ、私が繋いで歩くからですね、服だって買ってもらったことない、『お屋敷』から支給があるからですね、おやつだってつくってもらってない、厨房方の仕事を奪うわけには参りません、おひるねだっておひざまくらしてもらってない、『傍付き』たる私になにかご不満でもおありでしたでしょうか、とくり返される問答に、さすがに申し訳ない気持ちで。リトリアはちいさくなりながら、あの、と声を絞り出した。
「……ご、こめんなさい……。そうですよね、お父さんですもんね……」
「大変申し訳ないのですが事態をややこしくしないで頂けますかというか公的に違いますのでその勘違いを正して行って頂く必要があります」
えっ、とリトリアは声をあげて、目をまあるくした。
「……え? ソキちゃんとはお父さんが違うんですか……? え? でも……」
「……ちなみに、それについて、あの方はなんと?」
「『お屋敷』の前の御当主さまがソキちゃんのお父さんですって。だから私……え? ラーヴェさんが、じつは御当主さまだったのかしらって……えっ?」
もう無理、という顔をして突っ伏したメグミカが咳き込むくらい笑っている。ハドゥルとライラは微笑むばかりで特になにも言わず、その隣ではシフィアがアルサールに口を塞がれてもごもごとしていた。ラギは天を仰いでうめき、レロクはなんだか自慢げな顔をして、そうだろうそうだろうと頷いていた。混乱するリトリアに、何度か言った記憶もありますが、とアーシェラが根気強く囁きかける。
「違いますのよ」
「……あんなに、ソキちゃんそっくりなのに……?」
「リトリアさま。ソキさま、そして、御当主たるレロクさまの御母上はミードさま、と仰いました。ラーヴェの『花嫁』たる方です。ラーヴェは、ですから……ソキさまの、ロゼアに該当いたします。ね?」
分かってくださいますわね、と微笑むアーシェラの表情に有無を言わせないものを感じ、リトリアは口を両手で押さえながらこくこくと頷いた。つまり、とリトリアは考える。ラーヴェさんがロゼアくんなら、つまりミードさんという『花嫁』はソキちゃんということで。それはつまり、ソキの傍にはロゼアがいるのに、結婚して二人も子供がいるということである。ロゼアがいるのに。ソキが。
ちょっと想像がつかなかった。無言で思い悩むリトリアの頭の中に、ぽむんっ、と現れた三等身くらいのソキが、いつもよりよくふんぞり返りながら、っていうことになってるんでぇ、と言って、ロゼアちゃんロゼアちゃんきゃあんやっ、とどこかへとてちていなくなる。こくん、とリトリアは頷いた。よく分からないが、ロゼアならば、ソキが本当にどうしようもなくそんな事態に直面した時、偽装工作のひとつやふたつはしそうだからである。
そしてまた、ソキもロゼアの為であり、己の欲望を果たすためならば、笑顔であれこれ言い張ったり聞こえなかったふりをする。絶対にする。分かりました、というリトリアの顔つきに微妙そうな顔をしつつ、突くのはヤブ蛇だと感じたのだろう。そういうことですから、とどうとも受け取れる深いため息をついて、当主側近たるラギは額に手を押しあてながら告げた。
「決して、その、事実誤認を誘発するような発言は、お慎み頂きますように。……特に、特にソキさまの前では。大変なことになりますからね……!」
「はぁい?」
ということは。ソキの父親とラーヴェは、とりあえず別ということなので。これはもしや、ロゼアともソキとも、色々ラーヴェの話ができるのではないだろうか。頬を薔薇色に染め、気もそぞろに返事をするリトリアに、ほんっとうに大丈夫なのだろうかとりあえずロゼアには手紙を出して注意喚起をしておかなければ、という義務感に溢れた顔で頷いて。
ラギは、まだソファでふくれるレロクに柔和な笑みを向けた。
「ほら、レロク。まだお仕事の最中でしょう。そんな顔をされても美人なだけですよ。ね?」
「俺はどんな顔をしていようが美人だろうが!」
「はい。もちろんです、レロク。うつくしい我が当主」
伸ばされたラギの手が、する、とレロクの頬をひと撫でして離れていく。たったそれだけの仕草であるのに。なぜか見てはいけないものを見てしまった気持ちで、リトリアは照れと恥じらいに視線をさまよわせた。アーシェラは、くすくす笑うだけでリトリアを見守っている。そうこうしているうちに、レロクの機嫌も持ち直したらしい。
それでお前がこの場に呼ばれた理由なんだが、と唐突に説明を再開した当主は、その指先、真珠のように磨かれた爪を見せびらかすような仕草で、ラーヴェから贈られた花びらの首飾りを示した。
「まずひとつだけ確認がある。花弁の数は、最初からひとつだったか?」
「は、はい。そうです」
「そうか……ち、ちちちぃ! ラーヴェはなにを考えているのだ! これはどーかんがえても! よっつ相当だろうが! ラギ! 支給しなおせ! 花弁四つに冠付き!」
もしかして『花嫁』さんとか『花婿』さんは舌打ちができないのかしら、かわいい、とほわっとした気持ちになりながら、リトリアは首を傾げて瞬きをした。意味のあるもの、であるらしい。そういえばロゼアも、この首飾りを見ておかしな反応をしていた。えっと、と問うリトリアに、レロクはソキのものよりも深い、それでいて浅瀬に宿る透明な、新緑めいた瞳を向けて。
それは、とソキよりうんと分かりやすく、世間一般な意味での説明をした。これは指標にして目印であるのだという。なんの、と問われれば『お屋敷』の目、あるいは手の届かない場所で育った輝石の適性のある者。すなわち、本来であれば『花婿』『花婿』として『お屋敷』に迎え入れられた、と判断がくだされた者たちに対する贈り物。そして、『お屋敷』の無条件開門状なのだと。
評価は四段階。花びらの数が増えるに従い、その野放しの魔性の強さを表す。冠つき、というのは、誰かがある程度は責任を持って導いている、あるいは、見守っているという証だ。心底不本意かつ嫌そうに、おまえはラーヴェとれんらくがとれるんだろう、とぷーっとしながら聞いてラギに窘められる『お屋敷』の当主に、リトリアは恐る恐る頷いた。
「お手紙の送付先を聞いています……あ、あの、あの、でも、あの!」
「なんだ。いーぞべつに。ききだしたりはせぬからな。あんしんしろ。おれはかんよーだからな。どーせ、どーせそこにおれがてがみをだしたとしてもへんじなどこないにきまっているのだふんだ」
「え、ええと……あの、そうではなくて……」
おろおろとうろたえながら、消えそうな声で恥ずかしそうに、違うのではないかしら、とリトリアは言った。ソキとウィッシュを見慣れているからこそ、そんな適正があると言われても信じられる話ではない。そういうと思っていました、という微笑みで、いつの間にか手配をしていたアーシェラが、いくつかの帳面を当主側近に提出する。リトリアに渡さなかったのは、単純に逃げ道を塞いだだけである。
リトリアは、ああぁあっ、と悲鳴に近い声をあげて頬に手を押しあてた。帳面には見覚えがある。なにを書いたかも。ち、ちがうの、ちがうのっ、と言うリトリアをちら、と見ながら、誰になにを貢がれたのかリストにざっと目を通して。ラギは微笑ましくもしっかりと頷き、やさしい声で、違うんですね、とリトリアに言ってくれた。ソキを丸め込むロゼアと同じ。
旅の間、幾度もラーヴェにされた、対応だった。
花を持つものは適切な開花の義務を負う。それは周囲を不用意に惑わせない為であり、己が花であることで、生きていくさまを、その望みを歪めないための措置である。魔術師であるなら分かるだろう、と『お屋敷』の当主はリトリアに言った。隔離とは時に守護であり、教育とは時に武器にも道具にも姿を変える。己の背をまっすぐに伸ばして、これからも生きていくために。
その首飾りを贈られたものは『お屋敷』の門を叩く義務があるし、こちらにはそれを迎え入れ、適切な養育を施す用意が常にある。ラーヴェがそれをまっとうに説明しなかったことには頭が痛いが、まあどうせ言ったら怯むか否定して来ないと踏んだかそっちの方がなにかと楽しそうだからとか理由はそんなところだろうが、とレロクは肘をつき手に顎を乗せながら、ぺらぺらとリトリアの貢物リストを確認しながら胡乱に言った。
「俺の判断は正しいな。花弁よっつに、冠付だぞ、これは……。ラーヴェが常にいないなら、冠はつけない方が適当ではあるのだが……いや、つけないでいたほうがおびき出せるか……?」
「あの……あ、あの。そ、そんなに見ないで……もう返してください……」
「ふむ。……このツフィアとかいうのも魔術師か? 前職が気になるな……本の収集家か? よくもまあこんな希少本ばかり手に入れて、惜しげもなく貢いだものだな」
顔を真っ赤にして訴えるリトリアを無視して、レロクはアーシェラに問いかけた。女がそれを調べていないとは、考えてすらいない信用と重用だった。やや面白くなさそうなラギに笑いながら、アーシェラはツフィアが裕福な商家の出身であること、家庭にやや問題があったような噂があること、両親のいずれか、あるいは片方が砂漠の民であり、星降に移住したこと。
ツフィアの両親とは取引がなかったが先代までは『お屋敷』とも関わりがあったこと、取引がなくなったのは移住のせいであるという推測と、移住が『お屋敷』との問題があってのことではなかったことなどを、つらつらと告げていった。リトリアには初めて聞くことばかりで、そういえばツフィアのことあんまり良く知らない、と落ち込んだのだが。
レロクは特に気にした様子もなくふむふむと頷き、こてん、と首を傾げて呟いた。
「とすると、相当意図的だな……。価格帯はもちろんのこと、物品の質やら間隔の開け方やら、知っていてやった可能性が高い。……楽音の王はともかくとして、ともかくとして……? いいのか……? ……まあ、素性は知れているから、うむ、いいことに、して。このストルというのは?」
「砂漠の、西の第五オアシス。元『傍付き』が多く、『お屋敷』務めをしていたものが多く移住する例のあの都市出身ですわ。この方の祖父が元『傍付き』でしたので、文献を書庫から出すよう申請をしておきました。彼の方のご幼少のみぎりまでは、ご存命であったと分かっています」
「ということは、だ……こっちはこっちで、そこそこの耐性を持ち、そこそこ知識がある可能性が高いな……なんだ? 魔術師はそんなのばかりだったか?」
魔術師に対する風評被害である。ふるふると首を横にふるリトリアに苦笑いをしながら、違う筈ですよ、とラギが囁く。多少、特例に特殊事項が、掘れば掘るだけ眠っているだけであって。全員が関係者ではありません、もちろん、と告げられて、まあそうか、とレロクは頷いた。ソキの世話係志望やら、『花園』の関係者やらがごちゃごちゃとしているだけである。
一度調査はした方がいいだろう算段だけつけておけ、と命じて、『お屋敷』の当主はリトリアに向き直った。貢物リストはまだ手元に置いたままである。
「自覚は芽生えてきたな? よく考えてほしいんだが、そもそも、一般的に生きていれば貢がれたりはしないのだが? ……そうだな? ラギ?」
「仰る通りです、レロク。このお二方に注力していた為なのか……このお二方が、無意識に防壁にもなっていたのか、奇跡的に傾国などには至らなかったようですね。今も、特に勘違いした自称恋人に言い寄られたり、下僕志望に殺到されたり、物がなくなったり誰かに後をつけられたり、なんてことはないのでしょう?」
当たり前である。ロゼアがいない野放しのソキならばともかく、リトリアがそんなことで困ったり嫌な目に合ったことは、これまで一度もないのだから。こくこく頷くリトリアに、ラギもレロクも心から安堵した様子で胸を撫で下ろした。おおげさ、とも、思うのだが。もしかして本当にそんな心配をされなくてはいけなかったのかしら、とリトリアは冷や汗をかきながら内心で首を傾げていた。
覚えがない。本当に、そんなことには、なっていないのだが。王たちに保護される前、両親にほぼ遺棄されてそだった、あの掠れる記憶のつめたい日々に。やさしくしてくれた人がいることを、覚えている。もし、『お屋敷』のひとたちが言うことが本当なのだとしたら、リトリアが生きてこれたのはその為だった。その誘引。それによる、他者からの施しの為だった。
ならば、それが明らかになった今からは。それを否定せずにいたい。本当にその性質があってのことかは分からないけれど、ただ純粋に、やさしくしてくれた人もいたのだろうけれど。逃げ込んだ図書館の淡い暗闇。どの都市でも、どんなに混んでいても、ひっそりとしていても。リトリアがそこを追い出されることはなかった。時に甘い菓子を、飲み物を、くれた。生きてきた。生きている。そのことを、今、ようやく。助けられてきたことを、ようやく。だから。
きゅっとくちびるに力を込めて顔をあげて、リトリアは『お屋敷』の当主とその側近に、お願いします、と頭を下げた。
「まだ、あの、ちょっとは、ほんとかなって思うんですけど……でも、わ、わたし、自分をちゃんと大事に、するって決めて……大事にしたくて、だから」
教えてください、とリトリアは言った。なにを、どうすればいいのか。必要なことを、なにもかも、全て。魔術師として生きて行くのが最優先だから、時間がたくさんかかると思うし、手間暇もたくさんかかってしまうと思うけど。迷惑もたくさんかけてしまうと思うけど。でも。わたしはもう諦めないで、大事にしたいから、頑張るから。
よろしくお願いします、と告げるリトリアに、レロクはあっさりとした態度でもちろんだ、とその決意を受け止めた。
「よく来てくれた。遅くなったが、この『お屋敷』の当主として、リトリア、お前の訪れを心から歓迎する。嬉しくも思う。俺たちの外見や性質は……ある程度は生まれ持ったものだ。先天的なものだ。魔術師が、うまれながらにして魔術師とされるように。そう生まれてしまったものだ。だから俺達はそれを正しく扱わなければならない。己の幸福と……周囲を徒に惑わし、不幸にしないためにも」
「……はい」
「ところでどっちが本命だ? 両方か? ラーヴェは駄目だぞ、やめておけ。……気が進まないが、どーしてもと言うならアーシェラに頼めよ。弱みのひとつやふたつは握ってるだろ」
それ以上に弱みを握り返しているのがあの方ですのでどうぞ期待はなさらないでくださいね、レロクさまもリトリアさまも、と告げられて、リトリアは涙ぐんで首を横に振った。ちがうのである。ラーヴェはちがうし、どちらが本命かというとどちらもというか、二人共大好きだし大切だし選べないし、でも二股ではないとリトリアとしては思っているし、なんというか、なんというか、ちがうのである。
なにがと言われると困るのだが、ちがうといったらちがうのである。そうじゃないの、そういうのじゃ、とぽそぽそ呟くリトリアに、レロクは微妙そうな顔をしてそうか、と頷いた。
「親父殿と同じ傾向か……。ソキ似とも言えなくはないが、ソキはそれでもロゼアを選びはしたからな……。ラギ、『傍付き』を二人にした『花嫁』の資料と、教育に携わっていた者に招集をかけろ。拒否されたら『園の外で開花した輝石の為である』と告げろ。渋られたらたぶらかしてこい。駄目なら俺が行く」
「誑かさず、真っ当に説得して来ますのですこしお時間頂けますか、レロク」
「はやくしろよ、ラギ。さてそうすると……アーシェラは残すとして、メグミカとシフィアと、アルサールは……。通常業務もあるし……。……なあ、年上の方が好きだろう? シフィアたちより、ハドゥルとライラと、アーシェラでいいな?」
そんなことを決めさせないで欲しい、というか、聞かないで欲しい。しかし好み云々は置いておいて、メグミカはソキの、シフィアとアルサールはウィッシュの直の関係者である。それを考えれば、まだ知っているアーシェラと、ロゼアの父母の方がいいような気がした。ロゼアくんごめんねごめんね、帰ったら色々説明するからねごめんね、と内心謝り倒しながら、リトリアはそれでいいです、と控えめに返事をした。
リトリアの内心などお見通しな顔をして、ラギがくすくすと笑って当主に一礼する。それでは、とりいそぎ、そのように動き、手配を致します。メグミカ、シフィア、アルサールは一応こちらの件の待機状態を維持しながら通常業務に戻るように。アーシェラは外の仕事を外に引き継いで、しばらくは『お屋敷』に、ハドゥルとライラも出ないでいるように。
名を呼ばれた者たちはそれぞれに頷き、当主とラギに挨拶をしてから、それではまた、とリトリアに声をかけて退室して行った。残ったのはアーシェラひとりである。アーシェラは、お前なんでいるんだ、と当主から不審な視線を向けられてもにっこりと笑い、リトリアの傍から離れようとしなかった。いいでしょう、とラギがため息をついて同席を許可する。
言ってもきかないだろうし、と多分な諦めの込められた声だった。いーかお前たち分かっているのだろうな当主だぞ偉いんだからなまったくすぐそうやってひとのしじをむししてっ、とふわふわほわっとした声でぷんすかぷんすか怒り。レロクはしかしすぐに気を落ち着かせると、リトリアに向き合ってそれで今後のことだが、と言った。
「最低、週に一回。朝から晩まで丸一日『お屋敷』に滞在して、座学と研修と訓練となる。魔術師が多忙なのは知っているが、こちらから楽音と、砂漠の王に正式な要請を出すから、命令があればその通りに動いて欲しい」
「はい。あの、どれくらいの期間のことですか? 半年とか、一年?」
「……数年、とは、思って欲しい。週に一度の通い、というのはこちらが譲歩できる限界の間隔でもあるし、期間も、ひとにはよるが……半年、一年、というのは、まず難しいことだと考えてくれて構わない。理由も、追々分かるようにはなると思う。……成長期と、行為の問題もあるしな」
おい、この説明は俺からはしないからな、と渋い顔をするレロクに、ラギがうっとりと微笑みながら、また後ほどで構いませんよ、と言った。俺は、しない、からな、としっかり言いなおし、レロクは難しい顔をして沈黙するリトリアに、必要だと思えば、と言った。
「ソキにあれこれ聞いていい。ロゼアにもだ。ロゼアは……まあ、基礎的なことくらいは知ってるだろうが、こればかりはソキが詳しい。やがて嫁ぐ予定の『花嫁』は、そこで己と同じ種の適性を見出した時、同じように『お屋敷』に報告して送り出す義務を負う……んだが……おいラギ、ソキからなにか聞いてはいなかっただろうな? 俺には覚えがないぞ……?」
「ロゼアが傍にいます。嫁いだ場合の条件とは違いますから、考えつつも、迷われておられたのでは? もしくは……ふふっ、もしくは、ロゼアに夢中で気がついていない可能性もあります」
絶対に、間違いなく、ロゼアに夢中で気がついていない、だろうな、とその場の誰もが思った。ロゼアがいるなら、ロゼア一直線なのがソキである。他に意識を割り振る余地など残しはしない。また、『学園』に向かう途中の旅路でも、そんな余裕はなかったことだろう。さすがソキちゃん、と納得するリトリアの前で、レロクは頭を抱えてしばらく沈黙して。
ふっと笑って顔をあげると、こくん、と頷き側近に命じる。
「ロゼアを呼び出せ」
「はい、レロク。年末にはまた帰ると言っていましたから、その時にしましょうね」
「呼び出せと言っているのだー! お説教してやる! ロゼア! ばか! またあいつのせいではないか!」
あ、すみません、日課の八つ当たりですのでお気になさらず、と微笑み、ラギはレロクの癇癪を幸せそうに宥めだす。ええと、と困った目をアーシェラに向けると、女性はくすくすくす、と笑って。仕方のない方ですので、と告げた。困ったり、呆れたりする様子のない。旅の中で、何度かラーヴェがそう言われるのを聞いたのと、同じ響きをしていた。この場所に来てから、何度でも、そんなことばかり思い出す。
あの温かな旅路を。これからもずっと、思い返しながらリトリアは生きて行く。暗闇に燈した灯篭のように。まっすぐ見上げる、星のように。ひとりきりで、夜、目を覚まして。くらやみに。呼ぶ声も出すことができずに。さびしい、と泣く日は、なく。もう訪れることはなく。さよなら、とリトリアは、ひとりきり、図書館の静寂とくらやみの中に身を押し込んで泣くばかりの幼子に、別れを告げて微笑んだ。
もう、あなたのいる場所に戻ることはない。もう、あなたのつらさと、さびしさに、押しつぶされてしまうことはきっとない。でも。忘れることはない。置いて行くことも、ない。だからあなたもつれていくね、と。幼い己と手を繋ぎ、ひかりのなかへ連れて行くような気持ちで、リトリアは胸に手を押し当てた。
リトリアが『学園』を訪れたのは、その次の日のことだった。前日のうちに砂漠の王と、己の主君たる楽音の王には事と次第を報告していたから、訪問の許可は驚くほどすんなりと下された。リトリアは未だ、一応、正式な守り手と殺し手を持たぬ予知魔術師である。くわえて、代替えとなるフィオーレが花舞から動けず、多忙すぎるレディが星降から短時間でも外出できない状態であるから、もうすこし外出に制限がかかってもいいものなのだが。
事情が事情だから仕方がないだろ、大人しくしてろよ、と釘を刺したのが砂漠の王。ここであなたが騒ぎを起こせばストルとツフィアを得る道が遠のくというだけのことですよ、分かっていますね、と微笑んだのは楽音の王だった。いい子にして大人しくしていれば、二人を正式な予知魔術師の守護、殺害役として認める日も近い、かも知れない、という分かりやすい牽制とご褒美である。
おにいさまはすぐそういうことをなさるのだから、とリトリアは頬を膨らませかけたが、溜息ひとつで文句の言葉を飲み込んだ。それ所ではない、というのが、リトリア放任の一番強い理由だろう。件の事件は一応終結したとはいえ、その影響は五国の隅々、魔術師をはじめとして、なんの係わりもない一般人にまで広く及んだ。その調査、正式な状態の把握に魔術師が動かなければいけないのに、まだ回復しきっていないのである。体調も、そして、魔力そのものも。
現在の状態で、意識を回復させている魔術師は、総数の八割。その残り二割にシークとラティが含まれるが、その二人だけではなく、未だ昏睡から目を覚ますことのできない魔術師も、片手両手では足りない数いるのだった。彼らの状態を把握する為に白魔術師たちは奔走し、その総括たる白魔法使いフィオーレは、なぜか所属する自国ではなく花舞から一歩たりとも動けない。
そもそも魔術師に就職先を決める自由がないのは、五国の均衡を調節する為である。その時の王に、国に必要な魔術師を引っ張ってくる為という事情もあるが、重要視されるのは総合的な均衡だ。それは、魔術師の配置が偏らない、ということではない。花舞にはなぜか白魔術師が多く集められているし、砂漠と白雪には黒魔術師が、白雪には重ねて錬金術師も多く所属している。星降には占星術師が数多く所属する。
それで均衡がとれるのだ、とリトリアは聞いていた。あえて偏らせることで保たれるこの世界の均衡は、五つの欠片を繋ぎ合わせているからこそ、常に危うく、見守らなければならないものだと。つまり、と砂漠の王がついに結婚を決めただの結婚間近だの噂を聞いて、笑いながら顔を覗かせに来た白雪の女王は、口に手をあてて呼吸困難になる寸前まで笑いをこらえながら、リトリアに言った。
実際問題、いますごく危ういからそこだけ理解していてくれたら、それでいいのよ大人しくしていてね。所で砂漠のはほんとになんでそこで言質を取られて外堀を埋められちゃうの本人にまだなにも言っていないというか理解してもらえていない所がわたしの笑いと戸惑いと哀れみを誘うんだけどえっ初恋は実るの実らないの実らせるんじゃないのどうするの。うるせぇ帰れよ、という、騒がしく交わされた王たちの会話を思い出し、リトリアはふたたび溜息をついて、『学園』の『扉』をぱたんと閉めて沈黙した。
なんというか、王たち全員に、大人しくしていなさい、と言われる我が身がつらい。しでかしたことの大きさを考えると、魔術の行使権を奪われることなく、永久幽閉に処されることもなく、ほぼ通常の王宮魔術師として復帰の上に自由に出歩けるというだけで、破格を通り越したありえない恩情をいくつも重ねられている、ということは理解しているのだが。つらい。言わないと大人しくしていない、と思われていることがつらい。信頼がないにも程がある。
戻って来てからそんなに大人しくしていなかったかなぁ、と『扉』を予知魔術で繋いで無理な転移を繰り返したことを忘れ切った呟きで首を傾げ、リトリアはてくてくと談話室に向かって歩き出した。リトリアにしてみれば、ツフィアが止めなかったので、無理でもなんでもないのである。本当に駄目なら、ツフィアは世界よりリトリアを優先すると分かっているので。止める程のことでもなかった、という認識で落ち着いているのだった。
もしかして心配のされすぎなのではないのかしら、過保護されているだけなのではないかしら、と頬を膨らませながら、リトリアはすれ違う在校生たちに挨拶し、ソキの居場所を教えてもらって談話室に到達した。ひょい、と中を覗き込んで窓辺の定位置に視線を向ければ、すぐに目があったのはソキの花妖精である。『扉』の起動する気配を掴んでいたのだろう。腕組みをして挑むように向けられていた視線が、とことこと歩み寄ってくるリトリアに、訝しげな色を深めていく。
『アンタたち、なんなの? 暇なの? 用事はなに? ソキに言う前にアタシを通してちょうだいややこしくなるから!』
「え、ええと、その……『お屋敷』に行って来たから、そのね、報告と、相談と……おしゃべりを……」
もじもじと指先を擦り合わせて花妖精に告げるリトリアに、ソキはおしゃべりするぅー、と機嫌の良い返事を響かせた。アタシが良いって言うまで会話に入って来ないって約束したでしょう、と即座に己の魔術師に雷を落とし、妖精は不機嫌この上ない様子でリトリアを睨みつけた。その瞳の疑惑は、すでに断定的に王宮魔術師に向けられている。駄目な暇人を見る妖精のまなざし。
『……なんで暇なの?』
王宮魔術師なのに、と言いたいらしい。リトリアが王宮魔術師としては、仕事をひとつも言いつけられていない為である。かなしいから今はそのことについて深く考えるのをやめにしているの、ストルさんとツフィアを認めてくれればそのあたりも正常になることだから、つまり陛下方の怠慢であるだけなのだし、と拗ねた呟きをぽとぽとと場に落として。リトリアは妖精に、厳かな気持ちで頷いた。
「でも、いいの。わたし、陛下方の仰る通りに、大人しくしているのだもの」
『アンタ、ソキで目立たなかっただけで、やっぱり実は駄目な子ね? 常に傍にお目付け役というか、保護者が必要なヤツね?』
「そっ……そんなことないもん……」
つよく即答できなかったのは、『お屋敷』の研修をまだ納めていないからである。ソキと同じ、あるいは非常に似通った性質をリトリアが持つのであれば、それを必要ないと断じるには中々難しいものがある。事情は知らないまでも、それみたことか、と鼻を鳴らす妖精に、でもでもほんとうなの、ちがうの、そんなことはないの、と言い重ねて、リトリアはソファの空いた空間によいしょとばかり座り込んだ。
普段ならそこにいる、ナリアンもメーシャも不在のままである。はやくまた、皆で落ち着いてお茶ができるようになればいいね、と微笑むリトリアに、そうですね、と頷きかけたロゼアが沈黙する。『傍付き』の視線は、リトリアのネックレスに向けられていた。つい昨日、新調されたばかりの『お屋敷』からの支給品である。花びら四つに、冠付き。ぎこちなく息を吸い込んで言葉を探すロゼアの視線の先をおいかけて、ソキもすぐさまそれに気が付いた。
ぱちちち、と忙しなく瞬きをする、『花嫁』のあどけない瞳。
「あれぇ……? リトリアちゃんの、その、ねっくれすー、なにか見覚えがあるような……?」
『……め、めんどくさい予感がしてきた……。アンタもしかして厄介ごとね……?』
ソキが思い出し、あるいはロゼアが復調する前に帰って欲しい。というか、帰りなさいよ、という意思を隠さず口にも出した妖精に、リトリアはそんな困らせたりすることじゃないもの、たぶん、と言って視線を逸らした。ソキはまだ思い出せないらしい。くちびるを尖らせて、ちがうんですぅー、ソキにはわかっているです、もうちょっとなんですぅうう、と唸っている。それを、宥めるように抱き寄せて。
ロゼアが、この世の深淵を覗き込んでしまったような瞳で、どんよりと口を開いた。
「そ……その選定は……どちらの方が……?」
「え、あ、あの、ソキちゃんの、お兄ちゃん……? ご当主さま、が。それであの、ロゼアくんにも手紙を書くと仰っていたような……?」
「うううぅうん、なんだっけですううううう! これはソキのじゅうだいにんむー、の、ひとつだったようなですううう」
普段もひとのはなしを聞かないソキは、集中するともっと周りの話を聞かない。音として耳が拾ってはいるのだろうが、認識などまるでしないのである。その性格的うっかりとも呼べる特質性をしみじみ感謝した顔つきで、ロゼアがそうですか、とややうつろに笑って頷いた。
「そうですか……そうですよね……」
「ご、ごめんね。あの、それで、そのことで、おはなしというか……き、聞きたいこととか、お話したいなっていうことが、いくつかあって」
ロゼアー、と談話室の入口から声がかかる。速達で手紙が届いたらしい。受け取りには本人の筆記で名を書き入れる必要があるとのことで、ロゼアとリトリアは視線を交わして頷いた。『お屋敷』からの書状に他ならないだろう。あっロゼアちゃんたらわかりあっちゃだめだめっ、とすぐさまごねるソキを宥めてソファに座りなおさせ、ロゼアは早足で書状の受け取りに向かった。
その背を頬を膨らませてちたぱたっと見送り、ソキはうーんっとリトリアの首飾りに目を向ける。
「……あっ、嫁ぎ先でしないといけないことだったような? うふん。ソキがまじめに、そのじゅぎょをきいていなかったのが、ロゼアちゃんにばれちゃうようなきがしてきたです。でででででもソキはゆーしゅーな『花嫁』なんでぇ、もうちょっとで、もうちょっとで思い出せるんでぇ! りぼんちゃ、ちょっと、ちょっとでいいからロゼアちゃんのお帰りを遠回りにさせてくれるとうれしですうううう!」
『はいはい。五分ね』
「あ、あぁああ……」
リトリアが止める間もなく、流れるように妖精がロゼアを呪う。うわぁっ、と彼方から声が響き、荷が倒壊した音が響いた。郵便室の惨状を思いやり、リトリアはごめんなさいと遠い目になった。さぁっすがはリボンちゃんですぅ、と成果に満足そうに頷き、ちっとも反省せず、ソキはふんすふんすと鼻を鳴らして首飾りを熱心に凝視する。
「……あっ」
『あってなに、あって。ソキ?』
「ち……ち、ちちちちちちちがうんですよリトリアちゃん! ちがうです! そき、そき、じつはぁ、じっ、じつは! そうじゃないかなっておもっていたんでぇ、ほっほほほほほんとなんでえっ!」
ロゼアちゃんだってきっとそうに違いないですううだから『お屋敷』に言いつけちゃだめですううううだめったらだめなんですううううっ、と大慌てでお願いしてくるソキに、リトリアは手遅れを告げる微笑みでごめんね、と言った。ロゼアへの書状はそれにまつわるものだからである。事態を理解したソキが、ぴぎゃぁあああああああっ、と叱責を恐れる悲鳴をあげた。妖精は心底迷惑そうに、耳を手で塞ぎながらリトリアを見る。
『……なに?』
「えっと……あの、私ね、じつは、ちょっとソキちゃんと似てるみたいで……」
『……うわっ……』
心底引いた顔で、妖精がふわりとリトリアから距離をとった。そんな心に来る反応は辞めて欲しい。あの、ちがうの、あの、お願い戻ってきて、と妖精に力なく懇願しながら。リトリアはぴるぴるぷるると震えながら、おにいさまに怒られちゃうかもです、としょんぼりするソキに、とっておきの宝物を差し出すような気持ちで、それでね、と囁いた。
「私、勘違いしていて……。ソキちゃんのお父さん……じゃない、お父さんじゃない、ラーヴェさんのことなんだけど」
「らヴぇ?」
ぱちり。無垢に目を見開いた『花嫁』が、あどけなく首を傾げる。うん、と頷いて、リトリアはようやくそのことを話せる喜びと安堵に、ふわりと輝く笑みでもって告げた。
「あの時、私を拾ってくれたの、ラーヴェさんなの」
「……ら、らヴぇ……? えっ……え、えっ……えっ……!」
とてもとても、なにを言われているのか分からない、という驚愕の数秒を挟んで。えっ、と言ってぶわっと涙目になったソキは、そのまま瞬間的に、とんでもない怒りを爆発させた声で、ふんにゃぁあああああああっ、と絶叫した。
「らヴぇなのっ?」
「え……え、えぇ……? う、うん。そうなの。ラーヴェさん……」
「まっままままままままさかもしやあの、あの、もっちりうさぎちゃんもらヴぇなのっ? ラーヴェがかてくれたんですっ?」
リトリアが、それに返事をするより。そうなんだ、と悟ってしまったソキが、ふんぎゃぁああああっ、と怒りをてあたりしだいにぶちまける叫びをほとばしらせる方が、早かった。郵便室の惨事を放置して駆け戻って来たロゼアが、談話室に入るなり察しのついた眼差しで、胃を抑えてうずくまる。しかし即座に、気力だけで復帰して走り寄って来たロゼアに抱き上げられても、ソキはぐじぐじ泣きながら、いやぁいやんやっ、と怒りを納めず暴れ続けた。
「そっ、そきだってそきだってパパにもっちりうさぎちゃんをかってもらったことないんですううううううっ!」
「ソキ。ソキには俺とメグミカがアスルを贈ったろ。アスルがあるだろ。あとパパじゃないだろ。ラーヴェさんだろ」
「おててをつないであるいてもらたことだってなっ、なっ……ない……ないのに……そ、そきだってな、なっ……ふぇ……え、えっ……ふぇええええんえぇぇええええんっ! ぱぱぁああああっ! ぱぱぁあああああっ! ソキのぱぱなんですううぅううびゃぁああああんっ!」
俺と手を繋いで歩くだろ、泣かないでもいいだろ、怒るのやめような、ソキ、ソキ、とロゼアが宥めだす。このやりとり、昨日みた、という顔で凍り付くリトリアに、妖精がうんざりしきった腕組みで、アンタやっぱり厄介ごとじゃないのどうしてくれるのこれ、と告げる。リトリアは視線をそらして、ええと、と言った。どうしてくれるのと言われても、どうすればいいのかが分からない。
分からないままで、リトリアはそっと、胸の前で祈るように手を組んだ。呟く。
「……わ、わたしはおとなしくしていたし……?」
『はん』
「笑わないでぇっ……!」
泣いて怒り狂うソキから、アスルをぽいんと投げられて。リトリアは、とりあえず今日は帰るね、と落ち込んだ気持ちで立ち上がった。アスルには呪いこそ込められていなかったが、ソキの怒りは明確に、リトリアに向かっていたからである。ソキ、と叱責の響きでロゼアが名を呼ぶと、『花嫁』はびくんと体を震わせて。ふぇええ、と弱々しく、この世の終わりのような声で泣き出した。
ロゼアがいくら宥めても泣き止まず。ソキはぐじぐじ鼻を啜りながら、落ち込むリトリアに向かって言い放った。
「そ、そき、そきっ……そき! リトリアちゃんと、おしゃべりしないっ!」
「えっ……!」
「ふえ、えぇん……。すきすきだけど、おしゃべりしてあげないもん!」
アンタもしかして、ひとと喧嘩する時にも嫌いとか言えないの、その発想がないの、と恐れおののく視線を、妖精がソキに向けている。それにまた、えっ、と声をあげて。リトリアはソキに目を向けた。ソキはぴいぴい泣きながら、ロゼアになにかを訴えている。視線が重なることは、なかった。
その日。寮の日誌には、傍観者の文字でこう書かれた。
ソキ。入学二年目にして、はじめて友達と喧嘩をする。