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 眠るラティの手は冷たかった。あたためたくて祈るように両手で包むと、時折、指先に淡い力がこもる。メーシャ、と快活な声が記憶の中だけで響いては消えていく。その眩い寂しさに、メーシャはどうしても慣れることができない。こんな風に会うことができなくなるだなんて、考えたことのない人だった。ラティはいつも突風のようにメーシャの前に現れたけれど、それはいつも決まって薫風のようで、かなしい嵐の予感を残すものではなかったのだ。
 出会った日のことを考える。失われてしまったメーシャの、はじめての記憶のことを考える。それは夜のことだった。しんとした、静かな、月も星も輝かぬ曇天の夜のことだった。繰り返す代償として、己を『差し出した』メーシャの、繰り返された出発点。過去の終点から押し戻した魔術師の数があまりに少なかったが故に、消失の代償はほぼ全てメーシャに押し付けられた。それは『前』のメーシャが望んだことだった。ソキには耐えられないよ、ロゼアにそんな悲しいことをさせられないよ、ナリアンに、そんなさびしいことをして欲しくないよ。
 ハリアスに、ごめん、と囁き。また俺は君に恋をするから、必ずするから、巡り会ってみせるから。何度でも、何度でも、どうか出会って。君を好きにならせてね、と告げて、泣きながら怒られて私だって、と約束を結んで。そうしてメーシャは手放した。何度でも、何度でも。望む世界のその先に、辿りつくまで。眠るラティの手を握っていると、不意に、メーシャはそんなことを『思い出し』ては苦笑する。
 いまなら、すこしだけ分かる。それでもメーシャが完全にすべてを背負った訳ではなかったのだ。それこそナリアンが力技で介入して、いつも、負担をすこし攫って行った。ナリアンの幼少期に愛の喪失を、それとの別れを余儀なく刻み込むことによって、支払う代償のひとつとしたのだ。だからこそ、メーシャの名を守りきることができた。ルノンが、ラティが抱ききって、メーシャに名を返すことが許された。
 それが途方もない努力と祈りの末の奇跡であったことを感じる。けれども一度たりとも、成なされなかったことなど、なかったことも。メーシャにとってのラティは、いつも薫風でひかりで、星だった。導いてくれるひとだった。見守ってくれるひとだった。静かな夜、カンテラを片手に表れて。怯えるメーシャの顔を覗き込み、冷えたものをあたためる火のような声で、メーシャの名を呼んだその時から、ずっと。
 ずっと、不思議に思っていたことがある。くり返される前のメーシャとラティが、なんであったのか。今は家族だ。しかしふたりに血の繋がりはなく、実家こそ同じ王都にあると言っても、メーシャの家とは離れた場所だった。いつか、どこかで、会っていた筈なのだ。親しかった筈なのだ。ラティからもそれは失われてしまっているから、語る言葉を、誰も持ちはしないだけで。恋人ではなかったように思う。
 眠るラティの手に触れても、失ったものから、ハリアスに感じるような触れたいという情動を覚えることがなかったからだ。ただ、大事だと思う。ひたすらに。ソキやロゼアやナリアンとも違う、友ではなく。ストルに思う、師への親愛ではなく。王や魔術師たちに感じる、尊敬ともすこし違う。星やひかりや、風のようなひと。世界。これがもし、とメーシャは祈る手を離せないままに願いを重ねた。
 俺がもうひとつ失わなければならない代償ならば、どうか許してください。許して、失いたくない。連れて行かないで。戻ってきて。帰るところの、ない。迷子より歩けない声に、ラティの指先に力がこもる。メーシャ、と記憶の中だけで声が響く。それでもまだ、手は、メーシャの祈りを宿してあたたかくなった。見れば顔色もほのかに紅を宿している。眠る顔も、苦しそうなものではない。
 ほっ、として。メーシャはそっと手を離して、寝台の側に寄せた椅子に座り直した。もう何日も、何週間も、こうしてここに通ってはラティのことを見守っている。しあわせなことに、誰もメーシャを叱りはしなかった。無駄だとも言わなかった。やめなさい、という声はひとつもなく、時折、ロゼアやナリアンの声が、ソキの、手が腕に絡んで引き止めて、メーシャに休むことを思い出させた。
 安らいで、落ち着いて、あたたかな気持ちで満たされて。そして、この部屋に戻ってくる。その繰り返し。日々はそうして使われていく。ハリアスはメーシャを『扉』に送り、いってらっしゃい、と囁いてその背を押した。ハリアスの顔には恋人を独占されることに対するほのかな嫉妬と、己のその気持ちをうっすらと嫌悪する表情、ラティへの心配が入り混じっていたが、聡明な少女がメーシャにそれを告げることはなく。
 落ち着いたら、目を覚ましたら、私のことも呼んでくださいね、とだけハリアスは言った。私も、私だって、ほんとうは、ほんとうに、ラティさんに会いたい。うん、とメーシャは頷いた。もちろん、必ず、ハリアスを呼ぶよ。ありがとう。行ってきます、と告げたので、ただいま、と囁いてメーシャは『学園』に帰り、その部屋で眠るのだけれど。この場所に、ラティの傍らに、いつも気持ちを置いたままでいる。
 戻った、気持ちになる。ああ、とメーシャは息を吐いて、すこしだけ目を閉じた。なんだったのだろう。どんな風に一緒にいたのだろう。失う前の、メーシャとラティは。失って、いるのに。ラティはどうして、あんなによくしてくれたのだろう。『学園』の魔術師のたまごになったからこそ、王宮魔術師の立場を目で見たからこそ。メーシャは、ラティがいつも明るく、さびしさに胸をきしませるよりはやく、幾度となく訪れてくれたことが、どれ程の努力の末であったのかを知る。
 訪れはいつも数時間だった。あっと用事を思い出した顔をして、十数分だけのこともあった。工面して、なんとか絞り出した休憩時間や、休暇だったのだろう。ラティはそんなことを、一度もメーシャに言わなかった。忙しいの、という問いには、明るい笑顔でとてもね、とだけ告げて。両手に花束を抱えるように、お土産や話をたくさん持って帰ってきた。それは献身だった。
 どれ程のことかを、ようやく自覚する。ひとり、人の輪から外れて、それを見守るばかりでよかった、だなんて。入学したての頃の己の幼さに目眩がした。その時も、ラティはずっとそうしてくれていたのに。ほら、メーシャ、と笑って。立ち止まる両手を引いて、走り出すように連れてきてくれるひと。
 君に会いたい。
「……だからね、ラティ。俺は諦めないよ」
 どうして目を覚まさないのか分からない。どうすれば、ラティだけを無事に目覚めさせられるのかも分からない。魔術師たちは口を揃えてそう言った。ソキたちが図書館であれこれと調べ、メーシャに渡したいくつかの書籍からも、それを読み取ることができた。それでも、不可能とは誰も言わないので。できない、とは、誰も口にしなかったので。メーシャは諦めないことにした。
 その決意を深く、胸に抱くことができた。無力さに打ちひしがれることはなく。待っていてね、とラティに告げることができる。もしかしたら積み重なる時だけが、ラティのことを揺り起こしてくれるのだとしても。その間は、手が冷たくならないように、あたために来るよ。見守ってるよ、側にいるよ。俺をずっと、ひとりじゃなくしてくれていたひと。今度は俺が、ひとりにはしないでいるよ。
 大丈夫よ、メーシャったら、と恥ずかしそうにラティが笑う気がして、ふふ、と吐息がこぼれていく。それが消えぬ間に。扉が控えめに叩かれ、返事をするよりはやく、ぴょこんと室内を覗き込む顔があった。
「メーシャー、メーシャー、ラティはどう? 元気? あ、あとね。ひさしぶり」
「ウィッシュ、気になってたのは分かるけど、返事を待ってからにしようね。お返事は?」
「はぁい」
 くふくふ、と満ちた蜜のように笑う。現れた青年は、ソキの担当教員。ウィッシュそのひとだった。傍らには、幾度か挨拶を交わした覚えのある、砂漠の筆頭魔術師を連れている。というか、ウィッシュが腕に絡みついてぐいぐいと引っ張っている。えっと、とメーシャは瞬きをした。訪問の約束はあっただろうか。
 メーシャがそれを尋ねるよりはやく、突然ごめんなー、と言ったウィッシュが、とろける笑みで首を傾げた。
「帰る前に、ラティの顔みていこうと思って。エノーラも中々お見舞いにこれないからさ。ありがとな、メーシャ。ラティ、さびしくなくて、嬉しいと思うよ」
「そう、ならいいな、と思っています。……ありがとうございます、ウィッシュ先生」
 祈りを。肯定されれば、それだけでも救われる気持ちになる。ほっとした気持ちで笑ったメーシャに、ウィッシュは、うぅん、と言ってぱちぱち瞬きをした。
「うん。あのね、慰めじゃないよ、ほんとだよ。寝ててもね、大事な、大好きな人が側にいるの、分かるんだよ。ソキだってそうだろ。ね?」
 お昼寝してても、ロゼアが帰ってくると、ソキはふにゃふにゃと嬉しそうな笑いを零す。メーシャだって見たことある筈だよ、あのね、だから分かるんだよ、ほんとだよ、と言い聞かせてくるウィッシュに、メーシャはくすぐったい気持ちで頷いた。このひとがそう言うなら、と信じる気持ちになる。甘やかな『花婿』の囁きが、それだけで心を慰め和ませていく。
 ありがとうございます、ウィッシュ先生、と改めて告げれば、『花婿』は嬉しそうに、こくん、と頷いて言った。
「あとね、星降がちょっと大変だからね、メーシャの授業の再開は遅くなると思うけど。メーシャのせいじゃないから、落ち着いて待っててあげてね。俺に渡してくれれば、ストルに手紙とか、課題とか、届けるからね。もちろん、チェチェリアでもいいんだけど、あの、ロリエスは……やめたげてね……なんかもう過労に王手かかってるらしいから……ナリアンも頑張っててそれだから……」
 というかナリアンもすこし休ませてあげないといけないんだよねー、もー、フィオーレを拉致してるのにナリアンまでなんて花舞はぜいたくなんだからぁー、と。どこか甘えた響きのふわふわした声でウィッシュは言って行く。くるくると変わっていく言葉のひとつを捕まえて。メーシャは、あの、と声をあげてウィッシュの注意をひきつけた。
「星降が、すこし……大変、というのは? 『学園』には情報が来ていなくて、だから、あの……教えていいことなら、教えてくださいませんか?」
「うん? ああ、大丈夫。情報規制かかってる訳じゃなくてね、星降の王宮魔術師のいつものアレだから。陛下が落ち着きを思い出してくれますようにさしあたっては積極的に情報を流布したくない規制まではしないけど、っていうアレだから。星降独特の」
「……アレ、というのは?」
 ウィッシュの説明はソキよりはまだ分かりやすい、気がしてくる不思議な洗脳力が高いだけで、実際なにも伝わってこないものである。戸惑いながら問い返すメーシャに、ひたすらウィッシュの好きにさせて見守っていたジェイドが、そっと補足してくれた。
「星降の陛下は、どんな魔術師であれ慈しむお方だからね。……心痛と疲労ですこし、いつもより、いつもより落ち着きがなくて足をくじいたとか骨を折ったとか、そういうことだから。恐らくは。深く気にしなくて大丈夫だよ」
「き、気にしなくて……いいんですか? えっ?」
 陛下がお怪我をされたのに、という顔をするメーシャに、ジェイドはいっそ慈悲深い笑顔で言い切った。
「いつものことだから」
「うん。メーシャもね、王宮魔術師になれば分かるよ。いつものことなんだ、これ。……でね、でもね、あの、かわいそうだから……星降の魔術師を、こう、深く追求するのはね、やめてあげようねっていう、暗黙のりょーかい、って、いうか……。ほんとのほんとに大変だったら、ちゃんと情報は来るし……なんか中途半端に大変で手が離せなくて、内訳を説明できない今忙しいから、みたいなのだと、あっいつものアレか、みたいな……今回もそんなだから、たぶん、いつものアレ……。星降の陛下が落ち着きなくなんかやらかしてるんだろうな案件……」
 でも、なに今回はどうしたの、とか聞けないよね、かわいそだもんね、としんみりするウィッシュに、ジェイドが山盛りの砂糖を感じさせる声で、そうだねウィッシュはやさしいね、思いやりがあるね、と褒めている。ふふん、と嬉しそうにする仕草とやりとりに覚えがあって、メーシャは思わず首を傾げた。そういえば、この二人が一緒にいる所をはじめて見るが、親しいのだろうか。
 所属する国は違えど、同じ王宮魔術師であるのだし。なんと尋ねれば失礼にならないものか、とメーシャが言葉を探しているうちに、ウィッシュは気が済んだのだろう。それじゃあ俺は帰るね、メーシャもあんまり遅くまでいないで夕ご飯くらいはソキたちと食べるんだよ、と言い聞かせてくる。はい、とメーシャは頷いて、ジェイドとしっかり手を繋ぎ、てこてこと歩き去っていくウィッシュを見送った。
 なにかあったら声をかけるようにね、と囁いてくれたジェイドに、あたたかな気持ちになりながら寝台側の椅子に戻る。眠るラティは目覚める様子がなく。けれども、穏やかな表情で眠っている。ラティ、とメーシャは声に出して呼んだ。
「……待ってるからね」
 返る声は、なく。それでも、ラティがくすぐったそうに笑った、ように見えたことを。ウィッシュの言ってくれたように、届いているのだと。疑うことなく信じられた。



 ナリアンは今日も花舞に、メーシャは砂漠へと行っているから、談話室の定位置にいるのはソキとロゼアだけである。『学園』はまったりとした空気を漂わせていて、元気を取り戻し始めた生徒たちは、たまには自由時間がいっぱいっていいよね、と好き勝手に日々を過ごしている。談話室はおしゃべりに興じる者、顔を突き合わせて教本を読む者、遊びに行く計画を立てる者、といつも通りの雰囲気だった。
 それなのに、ソキは落ち着きがなく、きょろ、きょろっ、と警戒した眼差しで談話室を見回している。ううぅにゃぁあ、と低い声が漏れているので、一見して不機嫌だと分かった。当たり散らさないだけましな不機嫌だが、ロゼアの膝にでちんと陣取っているにも関わらず、いつまで経ってもきゃっきゃとはしゃぎださないので、談話室からはちらほらと、不思議がる視線も向けられている。
 その淡い心配にも、どこか警戒した目を向けてよこすソキを抱き寄せて。ロゼアはため息をつきたい気分で、あいらしい『花嫁』の背をぽんぽんと撫でた。
「ソキ、ソキ。大丈夫だよ、今日はウィッシュさま、来られないってお手紙来てただろ?」
「ふううんにゃあぁあ……! わ、わからないですぅ……! お兄ちゃんのことですからぁ、やっぱり、きちゃったっ、とか言ってぴょっこり来るかも知れないですうううぅ……!」
 先日の、ロゼアにも理由の推測がつかないウィッシュの八つ当たりめいた怒りが、ソキには相当怖かったらしい。当日はロゼアにびとっとくっついて片時も離れようとはせず、以後も日中はこうして警戒して、うー、にゃあぁああ、と低い警戒の鳴き声をあげてはロゼアに宥められていた。一時は、すわ言葉魔術師の再来かと生徒たちに動揺とどよめきが走ったのだが、他ならぬソキが即座に否定していた為に混乱には至らなかった。
 曰く、ソキがなんにもしてないのにおにいちゃんがおこったんだもんなんにもしてなかたですよほんとですよほんとだもん、ソキはちょっぴりもこころあたりー、というのがないです、ないったらないです、ないんですうぅあっその目はソキをうたがってるうぅういくないですいけないですいけないのおにいちゃんだもんソキないもんほんと、ほんとったらほんとなんですぅううう、という訴えと。
 ロゼアの、ウィッシュさまがすこし、という言葉と。いくつかの目撃情報により、よく分からないけど兄妹喧嘩のようなもの、ということで片付けられていた。動揺が広がらずなによりではあるものの。妖精は『扉』の前まで見回って、ソキの視界に入るように談話室をくるりと飛び回ってから、唸り声さえ愛らしくどんくさい己の魔術師の眼前に、ほとほと呆れた顔をして舞い降りてやった。
『いないわよ。来る気配もナシ。いつまでもうなうな鳴いてるんじゃないの!』
「ないてるないもん。けーかいの、いかく、なんですぅ!」
『はいはいそうね。怖い怖い。大丈夫なんだから、やめにしなさい、と言ってるの。わ、か、る?』
 羽根をゆっくり揺らめかせ、腕組みをしながら言ってやれば、ソキは心底仕方がなさそうにくちびるを尖らせて頷いた。
「しかたないです。これくらいにしてあげるです……」
「偉いな、ソキ。いいこだな。……飴食べような。はい、あーん」
「あーん! あむっ!」
 きゃあぁん、いちごのー、あじぃーっ、とちたぱたして喜ぶソキの喉が、こふんと咳をする前に止めてくれたことに、ロゼアから心底感謝した視線が向けられる。悪い気分ではなく、妖精は腕組みをして息を吐く。今日はこれで落ち着くだろうが、悪いことに、ソキは執念深くてしつこいのである。明日の朝目を覚ましたら、あっ、と言い出してまたうにうにと不機嫌な声を振りまくのは想像に容易かった。ここ数日、ずっとそうだからである。まったく、あの兎系魔術師ときたら、厄介なことをしてくれたものだ。
 せっかくロゼアも落ち着きかけていたというのに、このせいで、またじりじりと心痛が募っている。ロゼアひとりでソキに言うことを聞かせられないのが、なによりの証拠である。ころころ飴を転がしてご機嫌なソキを抱き寄せて、ロゼアは目を閉じて黙ったままでいる。コイツこのままじゃ寝込むんじゃないかしら、見てみたいからもうすこし放置して、あぁでもソキが騒ぐか、ちっ、と不穏な計画を頓挫させ、妖精が舌打ちした時だった。
 恐る恐る、声がかかる。
「ろ、ロゼアくん……どうしたの? あの、いま、すこしだけ、大丈夫……?」
『見て分かるように取り込み中よ。遠慮しなさい、リトリア。……なぁに? アンタ、どうしたっていうの?』
 振り返った妖精が思わず問いかけたのは、王宮魔術師たるリトリアが談話室にいるからではなく、その格好のせいだった。見れば薄く化粧をした上に、髪は複雑に編み込まれ、硝子質の藤の花飾りが、耳元で涼しげに揺れ動く。上着こそ魔術師のローブを羽織っているが、着ているのは動きやすそうな仕事着ではなく、一見して上質な作りだと分かるワンピースである。
 薄茶を基調に白のレースが襟や袖、裾に飾られた清楚にして愛らしいつくり。当然の顔をして足元までを覆い隠す長い丈は、ソキが着ているものとよく似た印象を振りまいた。家出前のリトリアはしなかった格好である。似合ってるけどなに、ストルかツフィアとでもデートならまぁふたりきりになるんじゃないわよアンタなんてぱくりよぱくり、ちょろいんだから、と渋い顔で妖精に言われて、リトリアはぱっと顔を赤らめて、頬に手を押し当てて首を振った。
「違うの……そ、そういうんじゃ、なくて。お出かけだけど、用事なの。デートではないのよ。それにね、ストルさんも、ツフィアも、忙しいの。私に構ってる暇なんて、ないの……」
 最後の言い方が、明らかに拗ねている。なんでも、星降にも顔を出していこうと問い合わせたら、忙しくて対応できないと断りが届いたのだという。突然、突撃しないだけリトリアも成長はしているのだろうが、いまひとつ、素直すぎて文面をそのままに飲み込みすぎるきらいがある。
 ふたりとも、ふたりともよ、私よりお仕事の方が大事なの、ふぅんだ、と極めてめんどくさい拗ね方をするリトリアに、アンタも仕事を大事になさいよ王宮魔術師でしょうが、と叱ってから。妖精はほとほと呆れた顔で、リトリアに向かって首を傾げた。
『それに、星降の魔術師どもの仕事が忙しいだなんて、いつものアレに決まってるじゃない。またどうせ、陛下が転んだとか捻挫したとか骨折ったとか、花瓶割ったとかインク瓶落として絨毯一枚駄目にしたとか、つまみ食いして腹を下したとか、そんなんに決まってるじゃない』
「……そうかなぁ?」
『そうよ。ほっとけば落ち着くけど、ほっとかないと構われて嬉しくて落ち着きがなくなるいつものアレよ、いつものアレ。……陛下も、昔はまだ落ち着きがあったことが……あるような気がしているのだけれど。近年はね……星降の魔術師に同情するわ……かわいそうに……』
 妖精が哀れむとなると、相当なものである。ソキはきょとんとした目で妖精とリトリアを見比べて、アレってなぁに、とロゼアに尋ねている。ロゼアは穏やかな微笑みで、ソキ、ソキは人混み嫌いだから星降はやめにしておこうな、と早速、就職先から除外させる工作に余念がない。仕方なく不本意に同意してやるけど、アンタが決めてどうなることでもないのよ、という視線で息を吐き。
 妖精は、そういうことなのだから、と今ひとつ納得していない顔で首を傾げるリトリアに、滾々と言い聞かせた。
『アンタが行くと、せっかく落ち着きかけてたのが嬉しくてまた駄目になるでしょうが。やめてあげなさい。その方が、ストルにもツフィアにも早く会えるようになるわよ。……落ち着きのある淑女なら、それくらいの配慮と我慢ができるんじゃないの?』
 ソキに似た印象なので、この手で言いくるめられるのでは、と妖精はわざとそう言ってみたのだが。残念なことに、リトリアにも淑女の一言はよく聞いた。う、うぅ、と怯んだ顔をして視線をさまよわせたリトリアは、手をもじもじとさせながら、そうなの、淑女なの、とやや気落ちした声で頷いた。
「私、落ち着きある淑女を目指しているの……。手のひらで転がしてもてあそぶ、小悪魔系にもなるんだから……が、我慢、できる……」
「ソキも! ソキも、こあくまけーを目差しているですぅー! リトリアちゃん、おそろいですー!」
『アンタたちの為に言ってあげるんだけど、世の中には到底無理な、無駄な努力というものがあるのよ? 理解なさい?』
 そういうことは知ってるけど、ソキは大丈夫なんで関係ないです、という自信に満ち溢れきった顔で、ソキはこくりと頷いた。このソキの自己肯定力の高さはすごいと思うものの、素直に認めてやるには弊害が多すぎて、妖精は頭が痛くなる。一方のリトリアはその素直さもあるせいか、胸を手で押さえて沈黙していた。していたのだが。
 気を取り直してしまったらしく、そろっと視線をあげると、うん、と言って元気いっぱいに頷いてしまった。
「せ、千里の道も一歩から、というし……!」
「そうです、そうですぅー! こつこつと努力をするソキとリトリアちゃん! なんてすばらしーことですー! えへへへん!」
 ソキはかわいいな、と内容に一切触れずに褒めるロゼアに忌々しい舌打ちを響かせて、妖精はもう好きにさせてやることにした。ソキかリトリアどちらかならともかく、歯止めにすらならないロゼアがいる状態でふたりとなると、妖精には手に余りすぎる。放置することで心労の回復が早くなるような気がしなくもないし。
 ソキ、ロゼアのとこでじっとしていなさいね、と妖精に言い聞かされて、『花嫁』は薔薇色の頬で、幸せそうにぴとりとくっつき直した。くしくし頬を擦り付けては、はぅー、だの、ふにゃー、だのほわふわした声で鳴くのに、心労回復の為心労回復の為我慢しろアタシ、ちくしょうロゼア覚えてろよ元気になったらギタギタにしてやるんだから、と声に出して呟き。
 妖精は、引いた顔をしてやや怯えるリトリアに向かって、ぱっと髪をかきあげてみせた。
『で? アンタはなんの用事だったの? ロゼアに? ソキに?』
「ええと、ロゼアくんに。そのね、服装を聞こうと思って……おでかけの……」
『はぁん?』
 はいはい、かわいいかわいいソキっぽい、と極めて雑にリトリアを褒めてしっしと追い払う仕草で手を振る妖精に、リトリアは違うのそうじゃないのだってぇ、と恥ずかしそうに、弱々しい声を出した。
「これから『お屋敷』に行くんだけど……どれくらいきちんとすればいいのか、分からなくて……ロゼアくんに聞くのが一番かなって」
『ほら、ロゼア。ご指名よ。さっさと褒めなさいよアンタそういうの得意でしょう』
 特にソキに害がなさそうなので、面倒くさくなってきた妖精のやる気のない声に、ソキがちたちたしながら抗議する。
「ロゼアちゃんの褒めはソキのぉー! いやんいやんだめだめ! むー……大丈夫ですよぉ、リトリアちゃん。よくお似合いです。かわいいです! 『お屋敷』にいくの? なんで?」
「え、えっと、あの、ソキちゃんのお父さんの、ラ」
「リトリアさんは用事があるんだよ、ソキ」
 光のはやさでソキの耳を塞いだロゼアが、リトリアに有無を言わさぬ笑みを向ける。そうですね、と告げられて、リトリアは口を手で塞いだまま、こくこくと何度も頷いた。よく分からないが、黙らないとロゼアくんが怖い、すごく、とても、と思っている顔で後退するリトリアに、冷や汗をかきながら、それを隠して『傍付き』は笑いかける。
「あらかじめ知らせておきましたので、正面玄関から、門番に俺の名を出して例の物を見せてください。首飾りの、今は出さなくていいです。それで通じる筈です。通じなければ、その……その、方などの名を出して頂ければ……」
「むむむ? ひみつぅーのにおいがするぅ……! いくない! いくないですうううう! いやいやだめだめよくないですぅー!」
『リトリア。ややこしくなる前に行きなさい。早く。これ面倒くさくなるやつだわ……』
 どうも、ロゼアがソキになにかを隠しているのは明らかである。秘密じゃないよ、そういうのとは違うよ、ぷっとしたソキもかわいいな、ほっぺまるまるのソキさんどうしたの、まぁるいのかわいいな、いいこだな、とロゼアが上手に丸め込んでいる隙を見計らい、リトリアがぱっと身を翻して走っていく。
 ああぁああーっとじたじたするソキをがっちり抱き寄せて、ロゼアは暴れたらいけないだろー、とのんびりした声を響かせている。リトリアの姿は、あっという間に談話室から消え。僅かな間に、『扉』が起動する魔力の揺らめきを感じ取る。まったく、最近訪れる奴らはろくなことしないんだから、と見下ろす妖精の視線の先。
 ソキはぷくぷく膨らました頬をロゼアに撫でられ、きゃふふ、とくすぐったそうに笑った所だった。



 リトリアにとって幸いだったのは、誰より早くアーシェラとの再会が叶ったことだった。ロゼアに言われた通りに正面玄関から訪ねたつもりが、商人や外部勤務の者たちが出入りに使う第二玄関であったらしく、話は上手く通じないし訝しまれ、警戒を顔に出されていた最中のことだった。なんでも報告の為に『お屋敷』に立ち寄り、今まさにまた出発しようとしていた所で、常にない騒ぎを不思議がって様子を見に来てくれたのだった。
 門番たちの姿に隠れ、リトリアが見えなかったのだろう。警備が集まってなんの騒ぎですの、と呆れ混じりの声に誰がなにを返すよりはやく。ぱっと顔を輝かせて、リトリアはアーシェラの名を呼んだ。その声を忘れる筈もなく覚えていた。繋いでくれた手のあたたかさ。そっと背を押してくれた、出立を見送ってくれたやさしさを。今も胸に灯している。
 あら、と幸せそうに呟きこぼしたアーシェラは、すぐにリトリアを手招いて保護してくれた。私の説明が上手じゃなかったから、騒ぎを起こしてごめんなさい、としょげるリトリアに、アーシェラはくすくすと肩を震わせて笑って。誰にも聞こえないように、ただしい正面玄関の場所を教えてくれた。城から伸びる道の、曲がり角をひとつ、間違えて来たらしい。
 仕方がありませんね、けれど迷子になられなくて本当によかった、次からは馬車で来られましょうね、と理解しきった微笑ましさで言い聞かせられて、リトリアは顔を真っ赤にしてちがうの、と言った。リトリアは地図が読めるのである。ソキとは違って、読めるのである。迷子にもならない。緊張して、ちょっと道を間違えてしまっただけで。
 そうなんですの、とアーシェラは当主の元へリトリアを連れて歩きながら、物分りのよさそうな笑みで頷いた。偉いですわね、素晴らしいことです、でも事故があるといけませんから馬車になさいましょうね、とくり返され、リトリアは諦めの気持ちではぁいと頷いた。あの道中、ラーヴェと散々こうした類のやりとりをしたせいで、こうなってしまうと説得は困難というか、ほぼ不可能であることは分かっていた。
 素直なリトリアに、アーシェラは穏やかに笑みを深め、あらあら、と幸せそうに呟いた。別れたあと、ラーヴェがどう接していたかが分かったからである。これは、ふふ、騒ぎになりますわね、ふふふ、と楽しそうなアーシェラに、騒ぎにしたい訳ではないんですけど、と告げて。リトリアは、ふと己に向けられる視線に気がつき、困惑しながら立ち止まった。
 人々が行き交う広い廊下。複雑に編まれた模様のように、いつくもの通路が何処へと道を繋げている。リトリアのように外から訪れたであろう者の姿もあるにも関わらず、人々の視線が戸惑いもあらわにこちらを向いていた。ごく、正確にするならば。リトリアではなく、少女のまとう魔術師のローブに。いかなるときも着用を義務付けられたこのローブは、所属国によって異なる刺繍を除けば共通のデザインであるからこそ、誰の目にもその身分を明らかにする。
 さわ、と不穏に空気が揺れる。ひそひそ、響かない声で言葉が交されている。アーシェラにもそれは分かるだろうに、女は立ち止まったリトリアを待つだけで、行きましょうともお気になさらずとも言わず、少女がどうするかだけを見ていた。きゅ、とくちびるを結んで。リトリアは耳をすませて、慎重に、いくつかの言葉を拾い上げる。魔術師。王宮魔術師が。魔術師がなぜここに。
 客人の予定など聞いていない。招く筈がない。緊急のことだとしたら。よく見ろあれは他国の。楽音の紋がある。なぜこの場所に。王はご存知であるのか。アーシェラはなぜ。魔術師が、魔術師などが。なぜ。困惑と。戸惑いと、怒り、とリトリアは感じ取る。好意的でないことは確かだった。さりとて、リトリア個人に対する悪意でもない。魔術師に対する忌避感だった。
 ああ、と諦めのような悲しい気持ちで理解して。受け入れることはなく、毅然として顔をあげて。リトリアは戸惑う者たちをぐるりと見回すと、王宮魔術師なら皆誰もがそうするように、にっこりと笑って一礼した。魔術師なら誰もが知っている。魔術師は、それだけで、迫害されるということを。『大戦争』が終わったのに、王たちが抱き守ってくれているのに。
 道具として献身的に働いて、なお。人々の胸に宿った忌避感は、歴史と共に受け継がれてしまうのだ。百年前までは、どこへ行っても石を投げられたのだと記録には残っている。水も食料も、十分な金銭を提示しても拒否されたのだと。諦めないで、あと百年を待ってでも、と『学園』で魔術師の卵たちは教わるだろう。かつてリトリアが学んだように。
 ただ、なんでもない隣人のように、受け入れてくれるように。未来に祈りを託して、魔術師は人々に礼をつくせ。その、教えの通りに。まるで無害な顔をして、リトリアは微笑んでみせた。怯えることなく、物怖じせず、視線を反らさず、胸を張って。なにひとつ恥じ入ることなどないのだと、しながら。すっ、と浮かんでいた悪意が遠ざかる。消えまではせずとも、それを恥じ入るようにざわめきは押さえつけられる。
 アーシェラが満ち足りた、自慢げな微笑みでどうぞと囁く。どうぞ、こちらへ。リトリアはこくりと頷いて、小走りにアーシェラの傍まで寄った。なにに戸惑っていたのかは分からないが、引いてくれてよかったな、とリトリアは思う。自分はいい。来訪者だから。でもロゼアとソキにとって、ここは家の筈なのだ。昨年も楽しく帰省したことを伝え聞いていた。
 だから、その場所に悪意があっても。ぶつけて来ないで、引いてくれて本当によかった、と思う。あの二人には帰る家があるのだから。迎えてくれる家が、あるのだから。そこがふたりを拒絶してしまわなくて、本当によかった。柔らかな笑みを絶やさずやってきたリトリアの顔を、じっと見つめて。アーシェラは少女の頬に手を伸ばし、する、と慰め温めるように指先で触れていく。
 くすぐったくて、嬉しくて。リトリアは、くすす、と肩を震わせて笑った。なに、なぁに、アーシェラさん、と笑う表情は、毅然として世界に立ち向かう魔術師のものでは、なく。アーシェラが見送った少女のものだった。そのことに、すこしほっとして。いいえ、と告げてまた歩き出すアーシェラの背を見つめながら、とことことリトリアはついていく。それ以上の騒ぎにはならなかった。
 すくなくとも、当主の部屋に辿り着くまでは。長い、迷路のような道筋を辿って。リトリアが挨拶の為の部屋に到着する頃、その扉の前には何人かの人影があった。呼び集められたのだろうことがひと目で分かる、一様に、やや緊張した顔つきをした男女だった。うぅ、とそこではじめて怯んで、リトリアはアーシェラの背に隠れたそうにもじもじとする。
 あら、と笑い声で振り返り、身を屈めたアーシェラがこっそりと、どうなさったの、と尋ねてくる。だってぇ、ともじもじしながら、リトリアはこっそり、アーシェラの耳へと囁いた。
「だって、だって、みんな美人さんで格好良くて、きらきらしてるんだもの……」
「大丈夫ですわ。見慣れます」
 力強い断言だった。そうかなあぁああ、と半泣き声で怯むリトリアに、もちろんですわ慣れます、ともう一度言い聞かせて。そこではじめて、アーシェラはリトリアの肩に手を乗せ、少女の体を己の前に差し出した。
「皆様に先にご紹介致します」
「え、ええと……? あ、あの、アーシェラさ」
「彼女が、例の、ラーヴェの『老後の楽しみ』です」
 その単語をこんな所で、こんなにきらきらした人たちの前で言わないで欲しかった。耳まで真っ赤にしておろおろするリトリアに、ひとりの男がそうですか、と呟く。目をうるませながら確認すると、ロゼアに似ている、とすぐに思う男だった。そう、そうですか、そう、と呻くように幾度か呟き、男は集った男女の同情的な視線を一身に集めながら、額に手を押し当てて足元をよろけさせた。
「……あのひとは、いまどこで、なにを……?」
「さあ、あれから、わたくしもお会いしておりませんの。ね、リトリアさま?」
「う、うん……。あの、あの、こんにちは」
 はじめまして、リトリアです、とぺこりとお辞儀する仕草は普段のままのものだった。見守っていた男女がほわりと空気を和ませ、かけ、そのことに各々が違和感をもって首を傾げる。戸惑うリトリアの背後でくすくすと笑って、アーシェラは失礼致しますわね、と少女に告げた。女の指先がリトリアの首筋から服の下に触れ、隠されていた金の鎖を引っ張り出す。
 その先に揺れる、淡い光沢を持つ花びらの飾りを。あぁあ、と頭を抱えて呻いたのは、先程もよろけた男性と。その隣に立っていた、活発そうな印象の少女だった。ふわふわの、ひよこめいた色彩を髪と瞳に宿す女が、メグミカ、と少女を呼んでたしなめる。すみませんだってまたなんかロゼアの乱心かしらソキさまがいらっしゃるのにもう、と思っていて、と呻く少女に。
 リトリアは、あっ、と声を上げてしまった。再び注目が集まるのに顔を赤くして、えっと、えっと、あの、と口ごもりながら。リトリアは何人かの顔をそろそろと見比べ、間違えていたらごめんなさい、と口を開いた。
「あの、ソキちゃんのメグミカさん……? それで、あなたが、ウィッシュさんの……シフィアさんと、アルサールさん。それに、もしかして、ロゼアくんの、ご両親では……? えと、えっと……ハドゥルさんと、ライラさん……?」
「あら、わたくしたちのことまでご存知ですの? 嬉しい……。はい、ロゼアの母で、ライラと申します。お見知りおきを」
「はい、あの、砂漠の筆頭の……ジェイドさんが、おふたりにも、会うだろうからよろしくねって」
 砂漠の城は現在、混迷を極める祝福なのかなんなのかよくわからない空気によって、ひどく浮足立っている。その最たる人が、魔術師筆頭ジェイドである。王に挨拶をしに立ち寄ったら、ジェイドは見たことがないくらい機嫌よく、『お屋敷』までの案内図を渡し、くすくす笑いながらリトリアに囁いてくれたのだった。そう告げると、さらにハドゥルは頭を抱えて呻き出した。
 同情と理解の視線が向けられる中、もうあなたったら、とふんわりとライラが微笑み。ごっ、としてはいけないような音をさせて、夫の頭に拳を叩きつけた。
「お客様の前よ、あなた」
「……すまない」
「リトリアさま、大丈夫ですからね。お気になさらず」
 ライラも、リトリアさまの前ですからね、と繰り返すアーシェラに、申し訳ありません、つい、と楚々とした笑みで返される。もしかしてとんでもないところに来てしまったのでは、とうっすらと理解するリトリアに、さあ行きましょうか、とアーシェラはにこにこと背を押した。
「担当者も揃っていることですし、このままご当主さまに。ご挨拶を」
「……あ、あの、あのね、アーシェラさん。わたし、その……な、なんで、その」
 来たの、とは、さすがに言いにくい。しかし、訪問の理由を知らないでいると、すぐに察してくれたのだろう。ロゼアったら、と年少のものを叱りつける響きで息を吐き、アーシェラはリトリアの目を見てうつくしく微笑みかけた。
「それでは、その説明も、ご当主様から」
「え、えぇえ……!」
「大丈夫。なにかあったとしても、怒られるのはラーヴェですから。……ね?」
 大丈夫だと思えないし安心もできない。ええぇ、と声をあげながらもずるずると押しやられ、リトリアは当主の待つというその部屋の中へ、ぽいっとばかりに放り込まれた。すぐにアーシェラや、控えていた者たちも入室するが、ぞろぞろと入ってくる最中に、部屋の奥から呆れた声が響いてくる。
「なにをしているのだお前たちは……なんの騒ぎだ」
「ロゼアから先触れの有りました、ラーヴェの例の『老後の楽しみ』、ことリトリアさまがいらっしゃいましたので、ご案内と担当を集めておきました、御当主さま」
「うううぅう、なんでみんなそれで通じちゃうの……」
 涙目で顔を真っ赤にするリトリアに、アーシェラが慣れきった笑顔でラーヴェですから、と囁く。集まった者たちが各々賛同の頷きを見せる中、部屋の奥、ゆったりとしたソファに腰かけていた青年が、まあその通りだな、とややうんざりしたように頷いた。
「ラーヴェだからな。諦めろ。……というか、魔術師だったのか……」
 ため息をついて、立ち上がる。うつくしい青年だった。長く、なぜかやや雑に三つ編みにされた金の上に、揺らめくような緑の目をしている。リトリアはその姿に、きよらかに咲く花を思い出した。睡蓮のようだ。
「いくつか聞きたいことがある。こちらに来ることを許す」
「はい。失礼します……あの」
「なんだ?」
 青年の傍らに立つ男が、こちらへ、と正面のソファを示してくるのに頷き。リトリアはそっと首を傾げて、ソキちゃんのお兄さんですよね、と聞いた。瞬時に。やや不機嫌めいた空気を消し去り、ふふふふんっ、と心ゆくまで自慢げにふんぞり返った青年が、そうだろうそうだろう似ているだろう、と言ったので。
 額に手を当てる側近の姿を見なかったことにして、リトリアはくすくすと笑い、はい、と言ってふかふかのソファに腰をおろした。そっくりだった。

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