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 長期休暇の初日、談話室は一際騒がしい。授業どころか各所連絡すら満足に出来ない状態なのだから、今年は長期休暇そのものを廃止、あるいは延期にしてはどうかという意見も出たのだが、結局それは叶わないままに当日を迎えたせいだった。長期休暇はなにも、年末年始をゆっくり過ごさせたい、という慈悲の元に開かれる訳ではない。
 『学園』のある『向こう側』にいる魔術師の数を、なるべく減らしておく為の措置なのだと、卵たちは初めて知らされる。一年が終わり、はじまる時。欠片の世界は不安定になる、ことがあるのだという。それを予め予防しておく措置が、均衡を保つ重しの数を増やしておくこと。すなわち、魔術師を各地に散らばらせて配置しておくことであり。すなわち、『学園』の生徒たちの帰省がそれを担っているのだった。
 激務の合間を縫ってその説明と、家に届ける生徒たちの手紙の検閲に来た錬金術師に、妖精は呆れた顔で問いかけた。だからなんでお前たちは、そういう重要そうなことを必要になるまで言わないでいるのか。星降の錬金術師は己の正しさを信じ抜く真っ直ぐな目で言い放った。他のことは様々な事情も理由もあれど、これこそは王の慈悲である。
 だってそれを知って無理に帰るって言い出す子もいるでしょう、と錬金術師は言った。全員じゃなくても大丈夫だと告げても、でも、と無理をする子だっているでしょう。帰りたくない、ならこの場所が守ってあげられる。でも帰りたいと言われたら、それを止めきる術はない。魔術師のたまごは、この『学園』の生徒たちは、まだ自分の足で、自分の意識で、どこへでも歩いていく自由を持っている。
 長期休暇ならなおのこと。それを止められる理由などない。だから、と錬金術師は重ねて言った。例年、帰らなかった魔術師が、今年はあえて帰るというならば。その理由は他と比べて詳しく聞く。無理をしていると思ったら、止めないけど引き止めたり時間を見つけて家に帰る間もなく観光に連れ回すからそのつもりで覚悟しろ。先輩たちの可愛がりと過保護を舐めないように、と言い渡して。錬金術師が国へ戻ってったのが一昨日のこと。
 それから今日を迎えるまで、『学園』はひたすら大混乱だった。いくつもの議論が各所で交わされた。錬金術師の言葉の通りにするべきだと言う者もあれば、家に帰らずともせめて向こうの世界にいるべきではないのか、という意見もあった。去年と同じように帰らないでいたい、と泣き出す者もあれば、その手を握り、一緒に来て欲しいと懇願する者もあった。
 その中で、額に手を押し当てて呻いたのは、毎年帰らないで残っていた組筆頭、寮長である。寮長はそれこそ一度も、家になど帰ったことがない。十を数える前から『学園』にいるのに、それこそ一度も、戻ったことがない。今後も帰る気はないし、今年も、それを聞いてなお戻る気の迷いを持つことすらなかった。
 どうしてですか、と責める響きすらのせて問う者たちに、寮長は全員必ずそうしろという命令が下された訳ではないからだ、と言った。それが命令ならば従おう。しかし命令ではなく、情報の形で齎されたのであれば、考えた末に選んでいい、ということなのだと男は言った。つまり俺みたいな事情持ちに無理強いするな、それこそ出来ない者もいる、というのを受け入れろってことだ帰省は強制ではない、例年と同じように。
 相手が不満をくすぶらせていても、その言葉を受け入れさせることができる、というのが寮長の得難い性質である。また、食事をしている間だけ起きていて、終わったらぱったり眠ってしまったことも、頑なな意志を持ち続けられない理由になったのだろう。寮長を呪った張本人たるソキは、もうそろそら大丈夫な気がするんですけどぉ、と首を傾げていたので、男の体調不良は落ち着きつつあるようだった。
 単純に、お腹いっぱいになったら眠る、というのを体が学習して習慣づいてしまっただけなのかも知れない。混乱と、不満と、その落ち着きのなさ。あっという間に『学園』を飲み込んだ恐怖を、たおやかに晴らしたのはメーシャだった。メーシャは落ち着いてくださいとは言わず、それでいて、どの論議にも肩入れすることはなく。ただ、その混沌を一歩引いたところから眺め、嬉しいね、と場違いなまでに幸せそうな笑みで呟いた。
 なにが、と困惑するナリアンに、メーシャはうっとりと微笑んだ。だってね、隠しておくことだって出来た情報でしょう、それをね、王も王宮魔術師の先輩たちも教えてくれたんでしょう。それって信頼じゃないかな。混乱しても、騒ぎになっても、大丈夫って思ってくれたってことだよね。そんなふうになることなんて分かりきって、でも教えてくれた。
 俺たちならもう考えられるって、過保護に守りきらないって決めてくれたってことでしょう。言ってくれたってことだよ。それがね、嬉しい。二日で混乱が抑えられたのは、その一言があった為だった。例年通りに残ると決めた者たちの手を、無理に引いていくものはなく。ただ、行く者と残る者に別れてざわめきはひたひたと満ちていく。当日の朝まで。別れていたくるしさに、踏み出したのはどちらからもだった。
 行ってらっしゃい、と。行ってきます、の言葉は殆ど同時に放たれて、驚いた空白のあと、そこかしこから泣き笑いの声がいくつも木霊する。何年もそうしたように。いつも、そうであったように。見送る者は向かう者の旅路の無事と滞在の幸福を祈り、走って行く者は手紙や、話や、お土産を約束しては談話室を飛び出していく。去りゆく者は、今年はひときわ慌ただしい。
 結局、帰省の手紙が間に合っていないからである。移動手段の手配も覚束ない。でもまあ、そんなこともあるよね、と大半が飛び出していく中、すこし予定を変更する者たちもいた。長距離を移動する馬車、それも『花嫁』に適したものの手配がつかなかったロゼアとソキも変更組のひとりだった。少ない日数でどうにかならないかと、ロゼアもユーニャも苦慮したのだが、できないものはどうともならなかったのである。
 しかし、かんこー、するっ、ロゼアちゃんとりょこ、するっ、とぐずっていたソキは、今日は朝から機嫌がいい。なぜか、とても、機嫌がいいのである。妖精が目を離す前は、まだぶすうううっとして、りょこ、するっ、と言い張っていた筈なのだが。気晴らしにそこらを一周して戻って来たら、なぜかもうにこにこしていたのだった。それから朝食の間も、ロゼアがソキを談話室の定位置に置いて傍を離れても、ずぅっと機嫌よくなにかにはしゃいでいるのだった。
 ちたちたきゃっきゃとして、足早に去っていく者たちに、行ってらっしゃーいですぅうーぅ、と手を振りさえしている。不機嫌を隠してのことではない。これは本当に機嫌がいい、と感じて、妖精は訝しんで高度を落とした。諸々に巻き込まれないよう、談話室上空に退避していたのだが、半数程度に減ったのだしもういいだろう、と見てのことである。ソキの様子も気になった。
 ソキ、と呼びかけると、喜びに満ちた翡翠の瞳が妖精に向けられる。きらきら息づく宝石と、森の息吹に満ちた輝き。
「リボンちゃぁーん! おはようですぅー! おでかけーの準備は、したぁ? ねえねえ、したぁ?」
『……はぁ?』
「あっ、リボンちゃんたらぁ、これは、今日の朝の、お知らせを、きーていなかたです! ソキのお傍にいなかたから、そういうーことにぃーなるですぅー。いけないんだーですぅー。ソキがぁ、おしえてあげても、いいんですよぉ?」
 ソキはほんとアタシを苛立たせる才能にかけては一級品だなと関心しながら、妖精はふくふくと自慢げにふくらむ己の魔術師の頬を、膝で念入りにふにふにと突いて折檻した。いやんやぁあぁっ、と途端に泣きぐずる声で身を捩り、ソキはリボンちゃんたらいけないさんっ、いけないさんっ、と周囲に向かって訴えた。
 しかしロゼアが傍を離れている為に、ソキに向けられるのは、妖精さんの言うこと聞いて怒らせないようにしようね、という真っ当な意志を込めた微笑みばかりである。いやんやあああぁっ、とすぐに機嫌を損ねた声で怒り、ソキはちたちたしながらぶんむくれた。
「いいも! もーいーも! リボンちゃん、おるすばん!」
『……はぁん?』
「ソキぃ、これからぁ、ロゼアちゃんとおでーとなんでぇっ! ……リボンちゃんはおるすばんです……ソキ、ソキ、楽しみにしてたのにです。ぷぷぷぷぷ」
 留守番に決めたのも、楽しみにしていたのもソキである。あー、と呻きながら額に手を押し当て、妖精はため息を付きながら問いかけた。
『……つまり、帰らないで、遊びに行くことにしたってこと? ロゼアとデートなの? ふたりで? 許すわけないじゃないのアタシも行くわ』
「うふん? リボンちゃんたらぁ、ソキのことが、だーいすきなんだからぁ。仕方ないですぅー!」
 ソキの不機嫌は五秒も持たない。うんざりしながら頬を思うさまもちもちしたおし、妖精は重ねて問いかけた。
『帰らないってこと? それとも、明日以降に延期になったの? どっち?』
「やぁんや、やんやん! ちあうのぉ、帰るごっこしながら、ソキは『お屋敷』に行くんですううぅー!」
『ロゼアー! 説明しなさいよロゼアーっ! ソキにアタシの説明をさせるんじゃないわよなにひとつ分からないに決まってるじゃないの呪うわよ!』
 リボンちゃんはなんですぐロゼアちゃんを呪っちゃうんですかあぁだめですうううっ、とソキがぴいぴい泣き騒ぐが、妖精は腕組みをして、己の魔術師を睥睨した。そんなもの、ソキに対する責任を、ロゼアに押し付けているからに決まっているではないか。安心なさい、アイツはソキのことなら怒られるのも嬉しい特殊構造をしてるってアタシが決めつけたから、と言い放つ。
 むむ、とソキが難しそうな顔をして沈黙した。つーまーりぃー、と今ひとつ理解していない、語尾が疑問系にふわふわ上がる呟きの後。ソキは頬を染めて、いやん、と身じろぎをした。
「つまり、きせーじじつということなのでは……!」
『飛躍しきった発想力には関心するけどね、ソキ? なにもかも! 違うわ!』
「ええぇ……」
 えー、じゃないっ、と妖精の雷が落ちる。今日も元気だねぇ仲良しだねぇ、とほのぼのと見守られながら、ソキはうーっと不満そうに唸ってちたぱたとした。
「いいもん、いいもん。ソキは、この休暇こそ、ロゼアちゃんときせーじじつを……!」
『せめてちゃんと告白してからになさい。両想いになって付き合ったりなんだりしてから!』
「……んん?」
 妖精はなにも難しいことなど言っていないのだが。考え込まれたので、額に手をあててよろけてしまう。
「こくはくぅ……? ですぅ……?」
『……分かった、分かったわ、ソキ。それについては、今度ゆっくり話をしましょう。ふたりきりで。ロゼアがいない時にね!』
「……なんのお話を?」
 ちょうどロゼアが戻ってくるのが見えたので、やめさせたのである。教えてなどやるものか。沈黙する妖精をちらりと見て、ソキはロゼアに両腕を伸ばす。だっこぉだっこぉ、と甘えきった声でねだられて、ロゼアはとろけるような微笑みで、『花嫁』をひょいと抱き上げた。
「ソキ、ソキ。準備、もうすこしかかるから、いいこにしてるんだぞ。リボンさんにもお伝えした?」
「ばっちりですぅー!」
『なにひとつ分からないから説明してから行きなさいよ! ロゼア! なんでソキに説明だなんてものを託すのよ結果なんて分かりきってるじゃないの!』
 ふぎゃんふぎゃんと不満げに暴れるソキを宥めながらロゼアが説明した所によると、帰省はする、ということである。ただし、馬車の手配がつかなかった。その上、ソキが観光したいと楽しみにしていた。よって、旅行、のようなことをする、その手配をロゼアはしているのだった。寝泊りするのは、寮の部屋。使うのは、王宮と国境を繋ぐ『扉』である。『扉』から、日帰りで迎える各都市の観光地へ、行っては帰り、行っては帰り、を繰り返して行く。
 そして数日、観光をしたのちに、次の国へと移動していくのである。日帰りで戻ってこられる場所しか行けないという制約があるが、ソキにはそれほど気にならないんだろうな、と妖精は踏んだ。ソキは、ロゼアと、観光というのがしたい、のである。別に目的地があって残念がっている訳でもなんでもない。唯一、こんぺいとう屋に行きたがっていたようだが、それはロゼアが問題なく日程に組み込んでいた。可愛げのない男である。
 つまり、正規の移動にかかる日数分、日帰り旅行を繰り返して帰省する、というのが、このたびのロゼアとソキの長期休暇のはじまりであるらしかった。アンタ毎日そんなことしてソキの負担も考えているんでしょうね、と睨みつければ、ロゼアは微笑んで二日に一回は移動しないで休むように予定していますから、と言われたので、妖精は音高く舌打ちした。そつがなくて隙がなくて可愛げがない。ちっともない。
 りぃーぼんちゃんたらぁー、ふきげんさーん、とのんびり不思議がるソキに、まあいいわ、と妖精はため息をついた。その日帰り旅行祭りに、付き合ってやらないこともない。なにせ日帰りなのに、妖精が来ないとソキがぐずるのである。付き合ってやるわよ、と言うとロゼアはほっとした笑みで、ありがとうございます、と囁き。よかったな、と言ってソキをとろける笑みにさせた。
 それじゃあもうすこし、準備と手配が残っているので、とロゼアはソキをきゅむっと抱きしめてからソファに下ろした。リボンさん、よろしくお願いしますね、と告げられて寛大な気持ちで頷いてやりながら、妖精はどうしたものかしら、という気持ちでソキを見下ろした。妖精の唯一の魔術師は耳まで顔を真っ赤にして、ロゼアちゃんがきゅっと、そきを、そきをきゅむっと、と夢見心地で呟いてる。
 その程度でこれなのだから、既成事実なんていうものが、ソキに作れる訳もなく。ほんとに正しい意味知ってんのかしら、と妖精は臓腑の底から息を吐き出し、首を振った。それを、わざわざ聞いてやる気にはならなかった。



 はうぅはううぅ、とソキは幸せな呼吸困難になりかけている。ロゼアがきゅむっとしてくれたのが嬉しすぎたらしい。も、もしかして、これは、ごーるいんもまじかというやつなのではっ、は、はううぅっ、と身をよじっては、やや呼吸がおろそかになっている。生存本能がとろくさいのではないのだろうか。どんくさすぎる、と妖精が見守っていると、談話室の喧騒を抜けてひとり、歩み寄る者があった。
 女性である。手には簡素な紙袋と、やや大きめの道具箱らしきものを持っている。例年、帰らないでいる者たちの一人だった。妖精がすぐそう分かったのは、その女性が入学式に間に合わないで問題を起こした者だったからだ。案内妖精との仲も良好ではなかった筈である。本人の性格には問題がないのだが、全ての魔術師がソキのように、大喜びで旅立つことを受け入れた訳ではない。
 なぁに、と控えめな警戒を表層にのぼらせて問う妖精に、女性はなにかを答えようとしたのだが。それより早く、復活してしまっていたソキが、あのねぇ、と自慢げにふんぞり返った。
「ソキね、ソキね、ロゼアちゃんと、かんこう、りょこ、きたくごっこ、するの! うふふん! ……あのね、『お屋敷』にはね、帰ってあげるんですけどね、でもでも、『学園』から行くの。それでね、リボンちゃんも一緒なの! それでね、こんぺいとのお店に行くの! それでね? 先輩は、どうしたんですぅ?」
「ふふっ。うん、帰るのはね、知ってるよ。……私は、ロゼアから頼まれごと」
 そう告げて。訝しむ妖精の視線を受けながら、女性はソファに座るソキの前に両膝をついた。砂漠の民たちがそうするのとは違う、職業的な身のこなし。きょとん、とするソキに向かって紙袋から取り出されたのは、よく使い込まれたブーツだった。ソキが『学園』まで旅をするのに、白雪の王宮魔術師がおさがりとしてはかせてくれた、使い込まれた革靴である。
 ソキがあっちへこっちへよく転ぶので、『学園』に到着する頃にはすっかり見る影もなく傷だらけで、ぼろぼろの一言であったから、ロゼアがしまいこんでいた筈なのだが。それが、よく手入れをされた状態で、そこにあった。艷やかに磨かれ、大小様々な傷は消えずとも、ごく薄く隠され、よくよく凝視しなければ分からないようになっている。妖精と共に、この靴も、ソキと共に旅をしたひとつだ。
 思い入れもあったのだろう。わぁ、と頬を赤らめて喜びにちたちたするソキに、女性はすこし申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんね。本当ならもっと早く、頼まれていたんだけど……時間、かかってしまって。あとは調整だけだから、履いてみてくれるかな」
「きゃあんにゃっ! お靴? 先輩が、きれーにしてくれたんですっ? これねぇ、ソキの、ソキの、魔術師になって、はじめてのお靴なんですよ! 白雪も、砂漠も、楽音も! 花舞も、星降も、みぃんな、このお靴で歩いてきたんですよ!」
「うん。……その時はね、ソキちゃんにはすこし、大きかったから、ふかふかの中敷きがしてあったね。それも取り替えたから、履いてみて欲しいな」
 大きさが合わない、とか、履けない、とか、そういったことはない筈である。ソキがすくすく育っているのは胸の大きさやら太腿のふっくら感のみであり、一向に身長的な成長期が訪れないままなのだ。体の中でも、足は一番早く成長しきるところであるし。ふんすふふんすっ、とやる気に満ちた鼻息でよじよじと布の靴を脱ぎ、もちゃもちゃと革靴と戦いはじめるソキに、すっと女性の手が伸びる。
 一瞬のソキの警戒は、ごめんね触るね、という女性の囁きが、そうするに長けた職人の響きを持っていたからこそ鎮められた。大人しく。じっとして靴を履かせてもらいながら、ソキはかがみ込む女性の頭を見つめて問いかけた。
「先輩は、お靴の、お医者さまなの? つくるひとなの? 修理をするひと?」
「……修理してたひと、だよ。私の家がね、靴の修理屋さんで。私も、ずっと……靴とか、鞄とか」
 すごぉいっ、と無邪気にはしゃぐソキをたしなめるかどうか考えながら、妖精は女性の表情を見ずに視線をそらした。女性は、その都市では知らぬ者がいない、修理の名手だった。幼い頃から家業に親しみ、十五の成人で職人として独り立ちをし、様々な顧客を抱えては日々を忙しく過ごしていた。女性が呼ばれたのは、二十を目前とした初夏のこと。
 泣き叫んで、受け入れず、期日のぎりぎりまで工房で修理を続けて。規定によって駆けつけた魔術師に、『学園』へ連行されてここに来た。以来、初年度こそ帰りかけたものの、直前で取りやめて寮に戻り、引きこもり。六年、一度も、帰らないでいる。卒業資格さえ満足に得ていたかどうか。不真面目ではないのだが、無気力に日々を過ごす魔術師のたまご、である筈だった。
 魔術師のたまごは、大体が、十五になるまでに『学園』に招かれる。突然変異という特性上、身体の成長期と、目覚めが重なって起こることが圧倒的に多いからである。しかし、ナリアンや、女性のような例外もいる。例外は、必ず、発生する。手に職を持っていた者たち。誇りに満ち、夢を描き、希望を持って日々を過ごしていた者たち。魔術師としての目覚めは、それを全て取り上げる。拒否権などなく。それは許されることではなく。未来は消える。分かりました、と言って飲み込んでしまうには、女性は過ごした時が長すぎた。
 さ、立ってみて、どうかな、と囁く女性の手を取って、ソキはソファからすっくと立ち上がった。てちてちとてち、と歩く仕草は相変わらず拙いの一言である。そういえばあの事件が終わってから、ソキが歩くのを久しぶりに、ともすれば初めて見た、ということに妖精は戦慄する。その割には、まあまあへたくそ、くらいでとてちて歩き回ったソキは、息切れを起こす前にソファに戻った。
 こくんっ、と力強く頷いて、自信たっぷりに言い放つ。
「だぁいじょうぶ、です! ソキにぴったりですぅー!」
「そう? どこか足に当たったり、広すぎたり、狭いと思うところ、ない? 一度脱いで……脱がせてもいい? 確認させてくれる?」
 いいですよぉ、と機嫌良く脚を揃えて頷くソキに、女性はほっとしたようにありがとうね、と告げた。するすると、職人の指先が靴紐を解き、少女の脚から丁寧に靴を脱がせていく。ソキは、じっと、その、動きを見ていた。なにかを考え込む、『花嫁』の瞳。しかし、なにも言わず、ソキは女性の動きを見つめていた。女性は脱がせた靴を覗き込んだり、中敷きを取り出して、その潰れ方を測ったりとてきぱきと働いた。
 使い込まれた手帳が開かれ、まっさらな一枚に日付と、計測の結果が書き込まれる。眉を寄せながら何度も手帳をめくり、考えては、また記載が増えていく。待ってね、もうすこし、とかけられる声に、ソキはふるふると首を振って。真剣に、愛おしむように、泣きそうに、研ぎ澄まされていく女性の集中が終わるのを見ていた。
 十分、ソキがじっとしているのは稀である。やればできるのにねぇ、と妖精がため息をつく中、女性はようやく、一度、手帳からソキに視線を戻した。目尻がうっすらと、腫れていて赤い。今そうなったのではない、とソキは気がついた。昨夜か、それか、もっと、ずっと。女性は己の中の、泣き叫ぶ気持ちを抱いたままでいる。
「……特に、問題なく仕上がっているかと思います。今日一日はいて、過ごして、また夜に状態を確認させてくれる?」
「……うん」
「すこしでも、違和感があったら教えてね。必ず調整するからね」
 うん、とソキが素直に頷く。足に触られるのに、ソキがここまで素直なのはかつてないことだった。事前に、ロゼアからなにか言われていたのだろう。女性は意外そうな瞬きをして、けれどソキがそうしたようになにも言わず、ただ穏やかに微笑んだ。
「……ほんとはね、去年から、頼まれていたのよ。断ろうとも、何度も思った。……時間がかかってごめんなさいね」
「ソキが……ソキ、あんまり歩くの上手じゃないです……お靴……傷、たくさん、なってしまうです。だから?」
「傷なんて、そんなもの。あなたの足を守れたのだもの。……わざわざ、修理に出してくれるのだもの。そんなもの……そんなこと、いいのよ。そんなことは、いいの……」
 ただね、と女性は俯いて言った。ロゼアくんが私の名前を知ってて頼んでくれたのは、嬉しかった。腕利きだって聞いたって、あの『砂漠の花嫁』の靴の修繕を頼んでくれるだなんて。夢みたい。嬉しかった。でもね、と女性は息をしながら、何度もしながら、震えて言った。
「わたし、もう魔術師なんだよ……これから先、どうしようもないでしょう? どうしたって私は、あの工房に戻れない。どんなに注意しても、どんなに嫌だと思っても、魔力がこぼれてしまう……」
「……先輩は、錬金術師さんなの?」
「そう。そうよ。……だからね、その靴も、魔術具になってしまった。なんの影響も与えない、なにも起きない魔術具だけど、魔術師以外が長期間使用すれば、必ず心身に影響が出る」
 へたくそなんだ、と女性は顔を覆って言った。もちろん、修練すれば、触れたもの、整えたもの全てに魔力が宿ることなんてない。分かってる。私はそうするべきだ。でも、そうしようと、そうなるべきだと思うたび、苦しくて息が吸えなくなる。だってそうしたとして、私はあの場所に戻れない。靴職人ね、好きだったの。大好きだったの。ずっとね、そうして、生きて行きたかったの。
「魔術師なんかに、なりたくなかった……」
 顔を覆って、俯いて、なお堪えきれず。ぽろぽろと涙を零す女性に、ソキはそっと両腕を伸ばした。頭をそうっと引き寄せて、柔らかく抱きしめる。よしよし、と囁くのは甘い『花嫁』の声。
「先輩は、ずっと、くるしいですね……」
「ご、ごめんね。情けないよね。みんなもう、ちゃんと乗り越えてるのにね……。ソキちゃんは、魔術師になれたの、嬉しいのに。ごめんね、こんな、苦しくて、嫌で、ごめんね……!」
「それなのに、ソキにお靴をくれたです。ぴかぴかに、なおしてくれたです。ありがとうです。ありがとうですよ……ソキはとっても嬉しいです。くるしくて、でも、お靴が好きで、諦めきれないです。……ソキにもね、ちょっと、その苦しいのはわかるですよ。つらいです。……とても、たくさん、つらかったですね。つらーい、です、ね……」
 だぁいじょうぶですよ、ソキはいやなことぜんぜんないです。お靴、ぴかぴかでほんとにうれしです。あのね、ソキとずうっと一緒に歩いたお靴なんですよ。ほんとにね、ずっと一緒だったです。もう一緒に歩けないと思ってたです。先輩のおかげです。嬉しいです。ありがとうです、ほんとにありがとうですよ。『花嫁』の蜂蜜めいた声が、とろとろと注がれていく。
 女性はソキに縋るように泣いて、やがて目元を拭い、ごめんなさいね、と言った。
「これからおでかけでしょう? 楽しんできてね。帰ったら声をかけて?」
「うん。あのね、おみやげ、買ってくるです。だからね、一緒にお茶して欲しいです。ね? ね?」
「ふふ。ありがとう。お呼ばれしようかな……」
 すっと姿勢よく立ち上がった女性が、大切そうに道具箱を手に持った。先輩は、とソキは心配そうに言う。
「ずっと寮に、いるの? ……あの、あの、ソキと一緒に、観光、する?」
「あら。ありがとう。でもいいのよ。ロゼアとデートなんだから、気にしないで行ってらっしゃい」
 でもぉ、と言い出しそうなのに気がついたのだろう。女性は演技ではない笑顔を浮かべ、やることもあるの、と囁いた。
「帰ってみようと思って。……その為の申請の書類とか、書かないと。このあとも面談なの」
「……おうちにかえるの?」
「そう。出て行ったきりの工房に。道具も……取りに行かないと行けないし、補充もしたい、し……」
 王宮魔術師のあの方は、帰らなければいけない理由にしなくていい、と仰ったけど。私はそれに背を押してもらうのよ、と女性は言った。
「私がいなくなった後の空白も、もう取り戻されているでしょう……。私は、それを、見に行くの」
「……つらく、ない?」
「分からないわ。平気なのか、まだ、だめなのか。……でも、ソキちゃんの靴を触らせてもらって、やっぱり好きなの。そういう風に生きていきたい。許されないかも知れないし、全然だめかも知れない。腕も落ちてる。練習しなきゃ。でもその為に、私は魔術師として成長しなければいけなくて、その為に……戻って、見てこないとって、思うのよ」
 でも急に決めたから、やっぱり理由を聞かれていて。私の気持ちがへこたれる前に許可が出ればいいのだけれど、と笑う女性に、ソキは応援するです、と拳を握った。ありがとう、じゃあ、行ってらっしゃいな、と微笑んで、女性が立ち去っていく。その背を、じいっと見送って。ソキは、息を吐き出した。
 ふらふら、と足を動かす。丁寧にととのえられたブーツからは、祈りの煌めきがこぼれ落ちている。祝福ではなく、ただそれは、人の持つ祈りだった。きれいです、とソキは呟く。そうね、と言って、妖精はいとしい魔術師に寄り添った。魔術師としての目覚めは、それまでの全てを捨て去ることと同意だ。ソキはそれを受け入れた。けれども。そうでない者もいる。それだけの話だった。



 気が乗らなかった訳ではないが、なんとなく、観光をする気持ちではなくなってしまった。様子を見に来たロゼアにしょんぼりしながらそう告げ、ごめんなさいです、と囁くと、『傍付き』はふっと微笑み、元気のない『花嫁』を抱き上げた。それなら今日は準備の日にしようか、城下にお茶のお菓子だけ見に行こうな、ソキの好きなものたくさん買ってこようなと囁かれ、『花嫁』はこくりと頷いた。
 ソキは別に、魔術師になりたくなかったひとの存在を、知らなかった訳ではない。ナリアンもはじまりはそうであったと聞くし、メーシャもあっさりと受け入れて『学園』に来たのではないと聞いたことがあった。しかしそれは今まで、あんなふうに、ソキの眼前に差し出されたことが、ついぞなかったものなのである。くるしくて、でも、そのくるしさを手放してしまうこともできない。
 入学したばかりのナリアンがそうだった。似ている、とソキは思った。以前ならもうすこし、不用意に言葉をかけたり、慰めようとしたかも知れない。けれども、一度見知っているからこそ、ソキにはそれができなかった。言葉をかければ、それにうまく返せないことに。慰めれば、甘えてしまいながらも苦しさを和らげることすらできないことに。そのことに。女性のくるしみは増すばかりだろう。
 ソキにはなにもできることがない。なにもできない、苦しさを。ソキに与えてしまったことにも、女性は申し訳なく思うに違いなかった。やさしいのだ、と思う。ソキならそのくるしみを怒りに変えて世界にでもぶちまけるだろう。ずぅっと機嫌をそこねて、ロゼアに文句ばかり言って八つ当たりをしているかも知れない。ウィッシュも、きっとソキとよく似ている。
 でもあのひとは、そんなことをしないでいる。ひとりで抱え込んで、抱えきれなくて、でもそのままでいる。いろんなひとが、いるです。ソキとは違うです、と。口に出したソキに、妖精はなにを当たり前のことを、と言わんばかりの目を向けたが、口煩く叱責することはしなかった。ここにきて、ようやく。本当のほんとうに、ようやく、ソキは己とは全く違う、わかり合えない、断絶さえされた、他人、という存在を認識したのである。
 件の言葉魔術師がそうならなかったのは、単純に、予知魔術師の対となる存在であったからである。それは鏡の裏表のようなものだ。あちら側とこちら側というだけで、別々のものではなかった。世の中には、ソキとは全く関わり合えない、他人というものがいるのだ。ショックとするよりはじわじわびっくりして、どうすればいいのか分からない。
 なんとかそう説明したソキに、ロゼアはなぜか成長を心から寿ぐ微笑みで大丈夫だよ俺が傍にいるからゆっくり考えような、と告げ。妖精は力いっぱい、どんくさっ、と吐き捨てて首を横に振った。観光を取り止め、城下の懇意にしている菓子店からお茶菓子だけ迎えて戻ってきたロゼアとソキと妖精に、ルルクが訝しんで声をかけたのは、『花嫁』があんまりしおしおと力なく見えた為だった。
 なにせルルクは、ソキの世話係中級編にすら合格してのけた、『学園』の猛者である。ロゼアからはなぜか複雑そうな視線を向けられるが、そうであるから、元気のない『花嫁』を置いて帰省などできるわけが無かった。幸い、ルルクは帰りやすい場所に実家があるらしい。『扉』を使って国境から馬車でいくのに変更したから気にしないで、と告げるルルクを、ソキはしょんぼりしながらお茶に招き。
 っていうことなんでぇ、としおしおしながら、事のあらましを説明したのだった。ソキにしてはまず、まともな説明ができている、と妖精が逆に体調不良を疑う視線を投げる沈黙の中。ルルクは毒味でもするように真っ先に茶器に手を伸ばし、その中身を一息に飲み干してから、なるほど、と言って頷いた。
「アリシアが授業もないのに出歩いてたのはそういうことね……。またなんというか……難易度の高い……ロゼアくんはなんでよりにもよってアリシアに頼んじゃったの……?」
「……あの靴の修繕を頼まれてくださったのは、先輩だけでした」
 なんでも、幾人かの職人が彼女の名を告げ、彼女ならばあるいは可能であると告げたのだ。女性の出身は星降でないにも関わらず、職人たちは心から惜しむようにそう言ったのだという。突然消息不明となった、年若き伝説の名工。ロゼアがその名を『学園』で見かけたのは偶然だった。そう珍しい名でもない。声をかけたのは万に一つの可能性を考えただけで、特定してのことではなく。けれども、もしかしたら、という予感はあった。
 女性の消息が絶えたのは、初夏の頃であると聞いたから。女性は泣き腫らした目でロゼアからソキのブーツを受け取り、そうね、と言って笑ったのだという。それはちょっと、難しいね、と。囁き、けれども、できないとは口にしなかった。時間がかかるし、後から返すかも知れない、という言葉がもしかすれば遠回しな断わりだったのかも知れないが、ロゼアはそれに、お願いします、と言った。
 ソキと旅をしてきたものだ。どうしても修繕して、もう一度履くことが不可能でも、もうすこし見られる形にして置いておきたかったのだ。去年の長期休暇前の依頼だ。今になって戻ってきたことにロゼアは驚いたが、ルルクはそうでもなかったらしい。なるほどねぇと頷いて、ソキの足元に視線を向けた。
「……そっか、アリシアも帰るのか。……本決まりしたら様子見に行こうかな。一緒に帰ってもいいし」
「お近くなんですか?」
「うん。幼馴染」
 告げられた言葉の意味が分からず、ロゼアは二秒沈黙した。妖精すら、訝しげな視線をルルクに投げかける。ソキは首を傾げながらちたちたと足を動かして、おさななじみー、ですー、とその単語を口の中で転がした。ぱちくりまたたく、『花嫁』のあどけない仕草。
「なんで?」
「えぇー、そこからー……? いや、家がね、近いの。隣なの。うちのパン屋さんの隣が、アリシアんちの靴の修理屋さん。独立してからの工房は、歩いて五分くらいの空き家を好きに改装してやってたけど」
「……なかよしなのぉ?」
 ソキが思いっきり訝しんでいるのは、二人が話している所さえ見たことがないからだった。ソキはルルクとは、よく一緒にいるにも関わらず、である。また、ルルクは女性に対してロゼアがしていた依頼のことすら知らなかった。いや職業上の顧客管理というか、個人情報の管理くらいはするでしょうよ、と苦笑するルルクに、ソキはあっと声をあげる。
「ルルク先輩のおうち、パン屋さんなんですぅっ?」
「あれ? 言ったことなかったっけ? 美味しいでしょう? うちのパン」
「食べたことを前提にして話をしないで頂けますか」
 頭の痛そうなロゼアからの突っ込みに、ルルクはいやそんなこと言われても、と不思議そうに首を傾げてみせた。
「毎日食べてるでしょ? パン。あれ、うちの」
「……食堂の? ですか?」
「そうよ。焼くのは『学園』でやってるって聞いてるから、厳密に言うと生地を冷凍して卸してるだけだけど。生地作ってるのはうちのパン屋です」
 なるほどー、ですぅー、とソキはこくりと頷いた。『学園』のパンは確かに質が良い。一級品に慣れ親しんだソキが初日から口にして、ロゼアがそれをよしとしているのだから味も質も文句なしに良質なものである。しょっけん、らんよなのぉ、とソキが不思議がって聞くのに、ルルクはうぅんと苦笑した。
「詳しく話すと明るくない話だけど、そこ聞きたい?」
「……お嫌でなければ」
「嫌ではないわ。もう終わってるし。……さて、では」
 こほん、と咳払いをしてから楚々とした仕草で立ち上がり。ルルクは前触れなく、勢いよく、荒ぶる鷹のポーズをした。
「よぉおおし、それじゃあ! 説明! する! ねっ! ひゃっふううう!」
「先輩。世話役としては唐突な挙動は減点対象ですソキが怯えるでしょうやめてください」
「えー? ソキちゃん、そろそろ慣れたよねー?」
 びっくりしたですううう怖い怖いですうううって言ってくっついちゃうですー、とロゼアにぴっとり擦りついて、ソキはご満悦である。にこにこしている。ルルクが立ち上がった時点で、やりそうなことに予想がついていたらしい。それでも駄目です、やめてください、いいですか、と滾々と言い聞かせてくるロゼアに、はーい、と反省の見えない声で、荒ぶる鷹のポーズをしたままで受け答えて。
 そのまま、ルルクは普通に話しだした。
「なんで『学園』に卸してるかっていうと、職権濫用ではなくて、保険とか監視の意味が強いのね。小麦とかバターとか、牛乳とかの品質が一定であるかどうか。職人が体調不良、その他申告できる理由以外で、一定の仕事ができない状態ではないか。そんなところの」
「先輩椅子に座って話を……いえ、もういいです。なにかあって、ということですね?」
「そう。アリシアと違って、私は毎年帰ってるんだけど。初年度にね、家に帰ったらね、潰れかけてたの」
 お客様誰もいないし、硝子割れてるし、小麦も粗悪品しかないし、バターも牛乳も水が混ぜ込まれて値段もかなりあげられてた。なんでか分かる、と問いかけられて。荒ぶる鷹のポーズをされたままであるからこそ、苦しいような気持ちを抱きにくく。ロゼアは、はい、と頷いた。ソキも、魔術師のたまごが一番はじめに学ぶことであるから、経験したことはなくとも理解はできたのだろう。
 魔術師に対する、差別、と『花嫁』の声が紡ぐ。ふわふわの、甘い、蜂蜜めいた声で。
「……そんなことを、される、の?」
「うん。されていたの。私もびっくりした。……だって、ねえ? 私がなにしたって言うのよ?」
 アリシアが途中で引き返して、それからずっと帰らないでいる理由も、それで分かった。ルルクは息を吸い込んで、頑なに荒ぶる鷹のポーズを解除しないままで告げる。
「魔術師の、血縁の作るものなんて食べられない。だから客足が絶えた。そんな所に、食材を卸したくない。だから、粗悪な品で、混ざりもののあるものしか、手に入らなかった。……一年、生き延びたのは、私が魔術師になったことで、国から補助金が出ていたからよ。こういうことの為に、支払われる。……それでも、私が帰ってくるって言ってたから、顔が見たくて生きていたのですって。それで、私が『学園』に戻ったら……もう、いいかと、思っていたのですって」
 今はそんなことないわよ、とルルクは言った。でも当時はそうだった。信じたくなかった。たった一年でそこまで追い詰められるほど、生まれ育った場所が、接していた人々が、魔術師に差別的であっただなんて。考えたこともなかった。生きているだけで否定されて拒否されて罵倒される。なにもしていないのに。魔術師であるというだけで、人々の憎悪、嫌悪と悪意の只中に立つ。
 どうしようかと思った、とルルクは言った。
「……どうされたんですか?」
「めちゃめちゃ泣いたあと、めちゃめちゃ腹が立って頭に来たから、もう手段を問わないでいこう、と思って。まず家の掃除からして、厨房をぴっかぴかにして、『学園』に戻ってご飯をしこたま持ってきて両親と職人と、その家族にも食べさせて、寝かせて、王宮に走って訴えたの」
「いじめられたですぅー? って言ったです?」
 ソキの言葉に、ルルクは思わず、という風にふふっと笑った。そういう悪夢に直面したことのない魔術師の存在を、心から愛おしむ笑みだった。
「私が入学する前後一年、合計二年分の経理簿を叩きつけて、家のパン美味しいんで王宮か魔術師に親身な貴族に紹介して下さい具体的に言うと販路くださいって」
「……それで? 『学園』に卸すように?」
「いやそれが全然駄目で。気持ちは分かるけど、うちだけ特別扱いは出来ないって言われてね? まぁそうなんだけど、それはそうなんだけど! 分かりましたじゃあ個人的な交友関係の中でなんとかしますそれならいいでしょうって言って、エノーラ先輩を頼ったのね。エノーラ先輩、白雪のかなりいいとこの貴族だから。なんか紹介してもらえないかなって、ものすごい勢いで土下座したの」
 どげざって、なぁに、とソキが目をぱちくりさせるのに、気にしなくてもいいことだよ、と言い聞かせながら。ロゼアはなんと言ったものか言葉を探しあぐね、沈黙ののち、溜息と共に感想を述べた。
「先輩のその、本当になにも手段を選ばれなかったんだな、と思う所は本当にすごいと思います……」
「ありがとう。顔が引いてなければもっと嬉しかったかな! それにほら、もう失うものとかなかった訳だし、額を床に擦り付けるくらい安い安い」
 そうしたら、エノーラのパトロンにもなっている国内の貴族が、手を差し伸べてくれたのだという。まずは質のいい材料を与えられて、初めは、下働きの者たちの分を。次第に、働く者たち全ての分を。最後には、その家族のパンを。評判はじわじわと広がり、ちらほらと注文が舞い込んでくる。それも、貴人たちのもとから。火が燃え広がるように。評判は瞬く間に国中を駆け巡った。
 遠方から買いに来る者が現れ、商人が商談に訪れ、気まずそうな顔をしながら、見覚えのある地元の人々が様子を伺いに来た日、ルルクは泣いた。ねえ、分かって。なにも変わってない。ねえ、わたしが。なにをしたというの。今を生きる魔術師が、わたしたちが。あなたに、なにを、したというの。ひとりも、誰も、答えるものはなく。とうとう言葉のひとつもないまま、ルルクの長期休暇は終わった。
 今も誰も答えてくれないのだという。まあそんな感じで、とルルクは荒ぶる鷹のポーズを極めたままで言った。
「帰ってきて、こんな感じに過ごしてたんだけど、うちのパンほんと美味しいからって吹聴しまくったら、福利厚生の一環と生活環境の改善とか理由をそれっぽくつけて、監視とか検査とかそれっぽい言い訳とかくっつけて、寮長が販路をゴリ押しして開いてくれたって訳。冷凍した食材の転移は寮長の魔法陣と錬金術師の道具使ってるし。なんかね、食べたかったみたい」
「りょうちょったらぁ、しょっけん、らんよ、ですううう!」
 それは正しい、と妖精はしみじみと頷いた。しかし、それでルルクも安心できる上、確かに美味しいのだから生徒たちの評判もすこぶる良い。なにせソキも食べるのだ。味と品質は、実質『お屋敷』のお墨付きにも等しい。おうちに帰ったら、ありがとうです、をお伝えしてくださいね、あっ国境から日帰りできるならちょっと見に行ってあげてもぉ、いいんですよぉ、と行きたそうにそわそわするソキに、笑って。
 伝えておくね、とルルクは言った。この先、ずっと、これからも。魔術師の悪意に襲われ、戦った末の今でさえ、なお。ひとの悪意に晒されることがありませんよう、と祈ってしまう。それが、これから全ての魔術師が、生きていく上でどうしても逃れられない、いつか必ず直面するものだと知ってさえ。世界の変革を、強く願う。楽しい休暇になるといいね、と告げるルルクに。ソキは自信たっぷり、もちろんですぅ、と力強く頷いた。

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