混乱と共に始まった長期休暇も、六日目ともなれば大分常の様相を取り戻す。どこに行っても人の姿がちらほらとしか見られない『学園』をきゃっきゃと珍しがって、ソキはロゼアと一緒にあちこちを見て回った。ひとりの姿もない授業棟、数人が熱心に机や窓を掃除する食堂、ひそひそと話し声のする部活棟、がらんとした談話室、のびのびと読書をする者のいる図書館。あちらこちらへ。
どこへ行ってもひとの目覚めぬ早朝を思わせる、生きた気配の満ちる静寂が広がっていた。ロゼアの見立てでは、残っているのは二割にも満たない数だろう。様々な理由で出発を延期していた者を抜いて考えれば、帰らないでいるのはその半数以下。両手で数えられるほんの数人だけが、例年通り『学園』に留まることを選んだ。昨年より、その数は少ないと聞く。ソキの靴を修繕してくれたあの女性のように、帰る為の後押しとして、均衡を保つ理由を使う者ばかりなのだと。
言い訳が必要で、その為にそれを使うのなら好きにしていいよ、と星降の王は彼らに告げた。ただ、やっぱり辞めたと言うのも、帰ってすぐ戻ってきても、好きにしていい、自由にしていい。ただ、もし、その勇気があるなら。辛くても、悲しいばかりでも、怒りを抱くようなこと、ほっとしたこと、嬉しかったこと、幸せだと感じたこと、なんでもいい。教えてね、と背を押して、星降の王は帰省の申請を出してきた者全てに、許可を与えて送り出した。
だから『学園』のそこかしこで、まだ帰らずにいる者たちが、初めて帰る者たちに、旅の注意事項を教示する姿が見られた。一緒に窓を拭きながら、慣れた部活棟の一室で、談話室で机を囲みながら、旅に持っていく一冊を選びながら。服装、靴、鞄、持ち物。必要なもの、あると便利なもの、国境や大都市で買っておいた方がいいもの。魔術師だと知っても暖かく迎えてくれる店の場所と名前。
なるべく近づかないでおく方がいい場所。乗り合い馬車は避けた方がいい。宿はなるべく、この表の中で。馬車や宿の手配が難しければ、その国の王宮魔術師を頼ること。講釈は多岐に及び、一日でも、二日でも終わらないくらいだった。それは、今を生きる魔術師たちの知識。財産で、資源とも呼べるようなことばかりだった。通りすがりに、それらにそっと触れるたび、ロゼアは心底思い知る。
昨年の旅路は、よほど慎重に整えられたものであったのだと。馬車はユーニャがほぼ全て手配し、行く先々の観光は、それこそ群れでやって来た先輩たちが、あそこに行くといいよここもおすすめだよ、ととても行ききれない量の情報を惜しみなく提供してくれた。宿にしてもそうだった。だから分からず、考えもつかなかったのだ。魔術師には危険な地域、好意的ではない所が、徹底して省かれていたことに。
守られていたことを知る。気が付かないくらい自然に、そして、慎重に。ソキもなんとなく、思うところがあるのだろう。ロゼアの腕の中で大人しくしながら、身を寄せ合って話す先輩たちを見つめては、もぞもぞぴとりと『傍付き』に擦り寄った。なにがあっても。ここが一番安全だとする、『花嫁』の無垢な仕草。ふっ、と笑みを深めて抱き直すと、その胸元から忌々しい舌打ちが響く。
『ソキ? 今日は歩くってアタシと約束したわよね? いつになったら自分の足で移動するのかしら?』
「うーん……? ソキぃ、さっきぃ、あるいたーですぅー」
不思議そうにしながらちたぱたた、と自慢げに足を振るソキの主張を認めてやるとするならば、その歩いた、というのは合計四歩のことである。今日はリボンちゃんのお言いつけどおり、歩くことにしたんでぇ、とふんぞり返って心ゆくまでロゼアに褒めてもらったあと、ソキはんっしょっ、と寝台から滑り下りた。
もちゃもちゃとぴかぴかの革靴を履き、よろろっ、と立ち上がり。とて、とて、てち、ち、と椅子にかけられたローブの元へ歩み寄って袖を通す。その、四歩。すぐさまソキを抱き上げたロゼアが、歩けたな偉いなかわいいなさすがソキだなかわいいなかわいいな、と褒めちぎり。以後、そのまま腕に抱き上げられて、『学園』を物珍しく見て回っているのだった。悪化にも程がある。
妖精はロゼアをぎろりと睨みつけ、どういうつもりなの、と言葉を叩きつける。
『ソキが歩かなくなったらどうしてくれるつもりなのよ、このすっとこどっこい! 四歩が! 歩いたに! 含まれて! たまるかーっ!』
「……ソキ、まだ歩きたいか?」
「ふんにゃあ……? うーん。……うーん、とぉ」
ちらっとロゼアを伺ったソキは、そーっと胸元でくつろいでいる妖精を見て、ぴぴゃっ、と声をあげて震え上がった。こくこく、ソキとしては忙しなく、妖精としてはとろくさい仕草で、首が振られる。
「ソキ、ソキ、歩くことにしたですぅ……! ロゼアちゃん、おてて、つないで? ソキ、ロゼアちゃんとおててをつないで、お散歩をする!」
「……ソキが、どうしてもしたいなら、いいよ」
コイツ本当にこじらせて悪化してるな、と妖精は心からロゼアを睨みつけた。ソキがなにかを言う前に、妖精は己の魔術師の名を呼ぶ。ぴるぴるぷるると震えながら向けられた視線に、妖精はにっこりと、珍しい、花妖精めいた柔らかな微笑みを向けてやった。
『なんて言えばいいか分かってるでしょう?』
「そ、そき、ソキ、あるく、たい! ある、ある……あるく! したい! です!」
「リボンさん、ソキに強要しないでください」
どの面下げて言っているのだこの男、と妖精は額に手を押し当てた。ロゼアが悪化しているのは分かっていたことだった。しかし、心痛から回復させる為としばらく甘やかしていればこれである。これは際限なく悪化するに違いない。昼過ぎには花園へ飛んで、シディに責任を取らせなければ、と思いながら、妖精はロゼアの言葉を鼻で笑い飛ばした。
ソキのふにふにした胸の上から飛び立って、ほら、と目の高さで対空する。
『アタシも一緒に行ってやるわ。はやくなさい、ソキ』
「ろ、ロゼアちゃ、ソキ、歩く! どーしても、歩くですうううリボンちゃん待ってええですううううソキを置いてっちゃやですやですううう!」
人聞きが悪い、と思いながら妖精は腕組みをした。妖精がソキを置いて飛び去ったことなど無いだろうに。なにをぐずっているのか。見ていると、心底気乗りがしない様子でソキを腕から滑り下ろし、ロゼアは『花嫁』としっかり手をつなぎ直している。ソキはあわあわはわわと慌てながら立ち直し、とと、とよろけ、立ち直し、よろけ、を不思議そうな何度か繰り返したあと、ようやく体勢を整えて真っ直ぐに立った。
よぉし、と気合の入った顔でふんぞりかえり、ソキはリボンちゃぁん、と自慢げに妖精を呼ぶ。
「お待たせしましたーですぅー! ソキ、リボンちゃんと、お散歩をしてあげるぅ!」
『はいはいそうね、ありがとうねソキ。それじゃあ、これから毎日、朝昼晩と一日三回、各最低三十分はアタシとお散歩してちょうだい。ソキは淑女でお姉さんだから、それくらい出来るわよね?』
「もっちろん! ですううううううう!」
いつもよりよぉくふんぞり返って返事をして、妖精はロゼアにちらりと目を向けた。証人を作るのが、いつものロゼアのやり口である。たまには真似してやってもいいだろう。ふんふんと鼻歌を歌いながら、とて、ちて、て、とソキはそこそこへたくそに歩き出す。リボンさん、と弱ったロゼアの声が、響かずひっそりと向けられる。
「ソキの体調を踏まえて検討しますので、先に相談してくださいと……あれほど……お願いしましたよね……」
『言っておくけど、ソキの体調に関してなら、アンタより! ソキの自己申告より! アタシの感覚の方が正確で早いわよ!』
なぜなら、魔術師の契約妖精だからである。その不調が魔力であれ、体調であれ、心が引き起こすものであれ、見逃すことも勘違いすることもない。同一の魔力を流している存在だからである。それは鏡の向こう側を覗き込むような感覚であると同時に、胸に手をあてて鼓動を確かめる行為にも等しい。詳しいのはアンタでしょうよ、とそれは妖精も認めてやった。
しかし、より深く察知できるのは妖精の方である。純然たる事実として、それが覆ることはない。そういうことではなく、と苦い顔をするロゼアの言いたいことも分かる。体調が分かると言っても、それは『花嫁』としての脆さ、弱さを理解した上でのことではないからだ。妖精は、ソキの体調が下降し始めればすぐに分かる。ロゼアは、下降する前に手を打つ術を知っている。違いはそれくらいのものだろう。
体調を崩さないのが一番だ。それは分かる。それは、妖精にも、十分理解していることなのだが。しかし。それでソキが歩かなくなるのなら、認められることではない。だいたい、恐らく、抱き上げっぱなしなのはロゼア側の理由が強い気がするので。アンタのことなんて、アタシは本当にどうでもいいの、と妖精はソキの目の高さを飛びながら言い放った。
『ソキができることの選択肢を減らさないでちょうだい。アタシの魔術師はね、どこにも自由に、自分の足で、歩いていけるのよ!』
「りぼんちゃ、りぼんちゃ、ソキ、あるくの、じょうず、なったぁ?」
『はいはい上手上手五秒前よりはね!』
リボンちゃんはソキのことを構わなきゃだめ、かつ、ロゼアちゃんと見つめ合ったりしちゃいやんですぅあとけんかもだめ、だからソキとおはなしするの、という『花嫁』の甘えたわがまま全開の声に、妖精はうんざりしながら受け答えてやった。いま大事な話をしているの、と言っても、ソキとのおはなしよりだいじなのはないですぅ、とごねられる。
そうだよな、とロゼアがべたべたに甘やかして同意するのに、妖精は腕組みをして頷いた。やはり午後は花園に行ってシディを削ろう。この分ならソキは昼食を終えてすぐ、すぴすぴ眠って夕方まで起きない筈だし。シディも昨日から本体に戻っているのは把握済みだった。さてどうすれば削れるだろう、と妖精が不穏な計画を巡らせたことを、敏感に察知したのだろう。
リボンちゃぁん、と甘えた声でソキが呼ぶ。
「あとで、ソキと一緒にお昼寝しましょう? それでね、それでね、お着替えもするです!」
『ロゼアとにしなさい。アタシ、午後から用事ができたの』
削るのが面倒くさくなってきたので、とりあえず虫眼鏡で太陽光を照射などしてみるのがいいかも知れない。くち煩いルノンやニーアが戻ってくる前に実行しなければ。決意する妖精に、ソキはぷっと頬を膨らませてぶんむくれた。
「ソキより大事な用事だなんて、いくないです! これは、これは、うわきのけはい……! ロゼアちゃん、ソキ、リボンちゃんのうわきちょうさをする!」
「いいよ。一緒に調査しような」
賭けてもいい。ロゼアの同意にはやりきれない気持ちの八つ当たりが含まれている。寝かさないと体調崩すんじゃないのかと白んだ目をしながら、妖精はぷんすかぷんすか怒る、ソキの目の前で腕組みをした。
『あのね、ソキ? 一回くらいアタシを本命だって言ってから浮気だのなんだの騒ぎなさいよ……』
「ソキの妖精ちゃんの一番がリボンちゃんなんですぅ! ソキは妖精ちゃんの中で、リボンちゃんがいっとうのすきすきだもん! それで、リボンちゃんはソキの妖精ちゃんなんだから、これはそーしそーあいということですしぃ、つまり! リボンちゃんがソキをいっとうに構ったりしないのはうわき! うわきということです! いくないです!」
なるほど、と妖精は途中で気がついて頷いた。久しぶりに歩かせたせいで、疲れて機嫌が悪くなっているだけである。ため息をついて、試しに妖精は聞いてみた。
『じゃ、ソキ? ロゼアとアタシのどっちが好きなの?』
「ロゼアちゃんはロゼアちゃ、リボンちゃんはリボンちゃんなんですうううう!」
『言うと思った……そう言うとは思ってたわよアタシはね……。じゃあ、ソキ? これは事実無根の仮定でしかないことなんだけど』
むくれてでちでち歩くソキを、好きに連れ回しながら。妖精は『学園』の廊下を泳ぐように飛んだ。
『例えばアタシが、アタシの魔術師はソキだけど、妖精の中で……事実無根かつ仮定としての話でなんら他意はないんだけど……ないんだけど、例えば、下僕にするならやっぱりシディね、って言ったらどうするの?』
「やっぱりふたりはひみつのかんけいだたです! ソキにはわかってたです! ……で、でもぉ! リボンちゃんはソキのなんでぇ、シディくんには、わきまえてもらわなぁといけないんでぇ!」
『……そう、弁えるっていう言葉は知ってるのね。そう、そうなの……』
あくまで、妖精の本命は自分だと主張して譲らない態度が、実にソキである。そして、それはそれとして、ソキは妖精とシディの関係が気になっているのだろう。不機嫌は何処へやら、目をきらきら輝かせて、ソキはとてちて歩いている。
「ねえねえ、リボンちゃん? リボンちゃんはー、シディくんをー、妖精さんの中で一番にすきすきなのぉ? もちろん、一番はソキ。一番はソキなんですけどぉ、妖精さんの中だと、やっぱり、シディくんなんですぅ?」
『やっぱりもなにもない話だから答えられないわ。……でもまあ、そうね』
なんと答えたものか。妖精は己の想いを今一度精査するように胸に手を押し当て、夢と希望と妄想いっぱいにふんすふんすと興奮して足元が疎かになっているどんくさい魔術師に、いや全然そういうのじゃないわ、ときっぱりとした声で言った。
『下僕よ下僕。シディなんて下僕で十分。ロゼアの躾とアタシが必要な時にすぐに来る下僕で十分よ』
「ふぅん? 分かったです。そういうことにぃ、しておいてあげるですぅ。かんよーなソキなんでぇ!」
うふん、と楽しそうに胸を張るソキに、妖精は微笑んで首を横に振った。なにを言ってもこれである。ため息を普段の倍つきながら飛ぶ妖精を、ソキはロゼアと手を繋ぎ、とてちて楽しそうに追いかけた。長期休暇六日目。どこにも行かない予定の日である。
予定より手間取って花園から戻ってきても、ソキはロゼアの膝の上で、幸せそうにくぴくぴ眠っていた。昼食後にも散歩をさせたせいで完全に体力が尽きた、ソキの寝入りは早かった。おふょ、おふりょおおおっ、と発音すらおぼつかない様子で、お風呂に入ってからお着替えして寝る、とぶんむくれてぐずっていたのだが。香草を浮かべた湯で絞ったタオルで、ロゼアがぱぱっと全身を拭いたことで多少は紛れたのだろう。
むー、うー、と不機嫌に唸っていたものの、寝間着になって抱き直されてからは五分と持たずにくぴっとして。それから、陽が落ちても起きる気配を見せなかった。妖精は、本人の意思確認なく持ってきたシディの本体をぽいっとばかり寝台の端に投げ落とし、室内を物色しながら、ロゼアを見ずに問いかけた。
『戻ったわ。……ねえ、まさか、夜まで起こさないなんてことはないでしょうね?』
「おかえりなさい、リボンさん。もうそろそろ起きるとは思いますが……なにをお探しですか?」
『シディが安置しやすそうな籠とか、ハンカチとか。あと、紐ね。紐。窓から紐つけて外に吊るすわ』
まったく、日光浴だけではなくて、月光浴もしっかりしろと言ってあった筈なのに。シディときたら日当たりもあまり良くない、大樹の根の近くに転がっていたのだ。妖精の本体が群生する場所に、唯一生えた大樹のたもと。そこまで飛んで力尽きたかのような転がり方だった。おかげで妖精は群生を伸ばし、シディが悪戯されないように昨日は守ってやらなければいけなかったのだ。非効率である。
シディは大丈夫なんですか、と顔を曇らせるロゼアのハンカチを無断で引っ張り出しながら、妖精は籠と紐、と魔術師に要求した。
『大丈夫よコイツ意識あるもの? そうよねシディ? 返事は?』
ロゼアのハンカチの中でも最も肌触りが良いものを的確に選び出して、妖精はシディの本体へ飛んだ。爪先で小突きながら問いかけると、ソキの手のひらにも乗るくらいの大きさをした、不透明な琥珀のような、鈍く輝きを灯す黄金色の石が、ぼうっ、とした光を灯して点滅する。すみません蹴らないでください、と弱々しく抗議しているようだった。ふんと鼻を鳴らしてハンカチを投げつけ、妖精は苛々とロゼアに向かって片手を突き出す。
『籠と紐!』
「……そちらの棚にあるものを、自由に使って頂いてかまいません」
見たところ、ちょうど良い大きさのものがない。シディの本体に対して大きすぎても小さくてもいけないし、浅くても深くても使えないからだ。ひとつひとつ確かめたが、やはり適切なものは見つからない。まぁ最悪、本体を紐でぶら下げればいいか、と妖精は頷いた。それなら、風で揺れても削れるくらいである。寮の壁が。
今度これくらいの大きさのを取り寄せておきなさいよ、と言いながら戻ると、ロゼアは呻くように、額に手を押し当てて言った。
「窓辺に置いておくのではいけませんか……? 外は……紐に吊るして外と言うのは、ちょっと……」
『公開処刑っぽいから、なにもちょっかい出してこなくて、かえって安全だと思うのだけれど?』
「室内で俺が見守りますから、俺の案内妖精に優しさと労りをお願いします……!」
ソキ以外にもたらす優しさと労りなんていうものの持ち合わせがあったのかコイツ、という顔をして妖精は腕を組み、ふんと鼻を鳴らしながらもまぁいいでしょう、と頷いてやった。俺の案内妖精、と告げながらもシディについての許可を妖精に願ってきたことだし、ロゼアも中々弁えている。
いいこと、この布の上にシディを乗せなさいよ、あときれいな水を汲んできて近くに置いておいて別に水道でいいわよコップ一杯くらいでいい、それと角砂糖を積んでおいて、とびしばし遠慮なく指示をする。その声が意識に触れたのだろう。ふにゃうにゃ眠さいっぱいの声をあげながら、のたくたとソキが瞼を擦ってあくびをする。
「よぉー、くぅー……ね、むっ、たぁ、で、すぅー……」
『いやまだ寝てるわよねこれ』
「そき、そき、おきたぁ……ぱちっと、おき、た……」
寝ている。まだほぼ寝ている。瞼が閉じ切っているからである。ぱちりの、ぱ、にもなっていない。今日は用事がないんだから夕食まで寝てなさい、と諦め半分に言ってやると、ソキは目を閉じたまま顔を妖精の方に向けて、つむーんっ、とくちびるを尖らせた。
「そきぃ、おふよにぃ、はいるんでぇ……!」
『……湯船に浮けないでしょう? 沈んだら大事故でしょう?』
「ソキ、うかぶの、とくぅーいなんでぇ」
まぁ、確かに、と納得して妖精はソキのたゆゆんっ、とした胸を見つめた。ソキの中でも一番よく浮かぶのが胸である。それにしても、と妖精が悩んでいるうちに、うーうーにゃーにゃー唸ってもちゃもちゃと暴れて、本当に多少目が覚めたらしい。ソキはのたのたとした動きで瞼を持ち上げると、ふぁー、と大きくあくびをした。
「うふん。たくさん寝たーです……う? ロゼアちゃん? 妖精さんのお石があるですよ? ……もしや?」
『シディよ、シディ。落ちてた位置がどんくさかったから、連れてきてやったの』
ロゼアの表情に、行き倒れと力尽きたことと誘拐やら拉致やらに対する心配が一息に浮かび、なにも言葉にされないまま口唇が閉ざされる。ソキが入浴している間で良いと思ったのだろう。判断力と自制心は少し回復してきているな、と妖精は冷静にロゼアを観察した。一番駄目だったのが、ラーヴェの件でソキを宥められなかったあの期間である。あれは酷かった。
ソキが落ち着ききらないままに、なし崩しに言質を取りに行くようなやり方は、普段のロゼアのものではない。可愛げのない周到さも計画性もない、子供っぽくさえある感情的なものだった。幼さの発露、と言い換えても良いような。その現れが良いか悪いかは、いずれ担当教員と王たちが判断するだろう。妖精はそこまでしてやるつもりはない。
ただ、ソキに悪影響のあるものであれば、王たちがなんと言おうとめためたに、芽吹いたものを引っこ抜いてやるだけである。妖精の魔術師は、ソキだ。ロゼアではない。妖精がロゼアを観察しているのもいざ知らず、ソキはシディくんですぅ、と不思議そうな声をあげて、ロゼアの腕の中からそーっと身を乗り出した。
やりそうなことに検討をつけながら見ていると、案の定、ソキはうにゃっ、にゃっ、と言いながらシディの本体を指先で突いている。正体不明のものに、とりあえず触りたがる小動物の好奇心。だめだろー、ソキー、とやんわり囁きながら、ロゼアが『花嫁』を抱き直す。遠ざけられて、いややんっ、とソキは身をよじった。
「シディくん、なにしてるですかぁって思っただけなんですううう! ちがうもんちがうもん!」
『はいはいそうね。さ、ソキ、お風呂に行くんでしょう? 準備しましょうね』
よく分からないものに触るんじゃない、と怒鳴りかけて、妖精はぐっと堪えてやった。シディだからである。よく分かっているものだからである。シディは寝ているのかソキ相手だから諦めているのか、妖精が小突いたときと違ってぼんやりと光りはしなかった。しーん、としてなんの変化もない。まぁいいでしょう、と妖精はソキの準備を待つ間、すとんとばかりその上に着地した。
座椅子よろしく腰かけて待っていると、ソキのお風呂一式を整えて『花嫁』ごと抱えあげたロゼアが、微妙そうな視線を向けてくる。
「……座っていいものなんですか?」
『なによ。アンタだって腕立て伏せしてる時に、背中にソキ乗せてるじゃない』
「……シディ、後で、後でそっと俺と話をしような」
後で話をするような時間などあるものか、同室なのだから、と思いかけ、妖精は面白くない気持ちで頷いた。まあ、妖精とソキが入浴している間でも、男同士でこそこそ密談でもなんでもすればいい。ため息をついて立ち上がり、妖精はひょいとシディの本体を持ち上げた。ソキの元へ戻りがてら、ぽい、とロゼアに放ってよこす。
『はい。アンタも湯を使うなら、一緒に洗ってあげるといいわ。川で洗ってきてやったけど、石鹸とか使ってないし』
「あ……洗えるんですか?」
『ちょっとシディの意識がある石だと思いなさい。取り扱いはそんなもんよ』
砥石を隠しておかなければ、と決意を込めた表情で、ロゼアはシディの本体をそっとローブのポケットにしまい込んだ。好奇心いっぱいの表情で、じーーっ、と見つめるソキの頬をこしょこしょとくすぐって、ロゼアはゆっくりと歩き出す。すっと滑空した妖精がソキの胸に着地すると、きゃあんや、と甘えたはしゃぎ声がこぼれ落ちる。
「リボンちゃんったらぁー、さいきん、ソキのお胸の上がお気に入りなんだからぁー!」
『温かくて柔らかいから、冬場にちょうどいいのよ』
「……肩が凝ったら言うんだぞ、ソキ」
蝶よ花よと、ソキの胸をぽよぽよに育てたのはロゼアである。ロゼアの趣味である。今更、妖精の重みがすこし乗ったからと言ってなんだというのか。今も見れば、ソキは己を抱くロゼアの腕の上に、胸を完全に乗せている。肩に過度の負担があるようには見えなかった。はぁーい、とのんきな返事を響かせ、ソキはもにもにすりすり、ロゼアに体と胸を擦りつけた。
あまり揺らさないでちょうだい、と妖精が抗議すると、はぁーい、とガッカリしたような声で返事をされる。
「リボンちゃんは、ゆーわくして、めろめろにできたのにぃ……」
『湯たんぽの代わりにしてやってるのよ、喜びなさい』
「むむむぅ……! あ、ソキ、ソキゆたんぽになる! あったか、ほわほわ、いーにおいになるううう!」
ないすあいであ、ですうううっ、と目をきらめかせてはしゃぐソキに、妖精は優しい気持ちで、アンタは今なんで抱き上げられてると思ってんの、という言葉を飲み込んだ。賭けてもいい。冬場のロゼアは、ソキで暖を取っている。もちろん、『傍付き』の職務だのなんだの、『花嫁』の体調管理だの、ロゼアの趣味だのソキの甘えだの、なんのかんのとそれ以外に優先する理由はたくさんあるのだろうが。暖を取っている。というより、逆に取っていないはずがないのである。
なぜなら妖精は知っている。ロゼアはもっと分厚い生地の服だってちゃんと持っているのだ。それらはひと箱にまとめてソキの手の届かない高さに置かれており、滅多に開かれることがない。用事があって離れていても、再会すれば、ソキがすぐだっこぉだっこぉと甘えるからである。あったかロゼアちゃんにしないといけないですぅ、ともこふわした服を着たソキが、気合を入れて擦り寄ってくるからである。
太陽の魔術師の才能を、今のところソキの成育環境向上に全振りしている、とまことしやかに囁かれ、担当教員が微笑みながらも無言で顔ごと反らした一件は、事実である、と妖精は思っている。ロゼアの最優先はソキである。そうであるのだから、魔術師として成長して行く上で最も自覚的に成していることがあるとすれば、それはソキの為になるか否かに他ならない。息をするような『傍付き』としての思考が、教育が、それを良しともするのだろう。ロゼアの趣味が含まれるのを考慮しても。
おふろおーふーろぉー、でたらゆーごはんでーすぅー、ねえねえロゼアちゃんナリアンくん大丈夫かなぁねえねえロゼアちゃんメーシャくん今日は一緒にご飯食べるのに帰ってきてくれるかなぁ、ねえねえロゼアちゃんシディくんはごはん食べるのかなぁ蜂蜜をかけてあげればいいんですぅ、うんソキそれはやめような、ねえねえロゼアちゃんソキねぇはちみつ食べたいですはちみつはちみーつー、と、ソキはご機嫌に歌ったりおしゃべりしながら、寮の女子風呂の前まで運ばれていく。
もう目前、となった廊下でロゼアがぴたりと足を止めたのは、女子風呂の前がやや騒がしかったからだ。言い争っていたのは、どちらも見覚えのある女性である。そっと笑みを深めて瞬時に立ち去ろうとしたロゼアの背に、ルルクの元気いっぱいの声が投げつけられた。
「ほら、アリシア! ソキちゃんも来たから!」
「ソキちゃんが来たからなんだというの……! どうして! いまさら! この年齢になってまで! 幼馴染と一緒にお風呂入るとかいうことをしなくてはならないの……!」
「仲良しじゃない幼馴染疑惑に私の心が結構傷ついたからとしか言いようがないんですけれどっ? だいたいアリシアが引きこもりなのがいけないんでしょお買い物行こって言ってもやれ気分が優れないだのなんだの、ケーキ買ってきてもありがとう後で食べるねとか! 一緒に食べたい! もっと私と! いちゃいちゃ! して! でもケーキは食べちゃったから、とりいそぎいちゃいちゃのリハビリとして一緒にお風呂入ってって言ってるだけでしょう!」
だけ、とは、なんなのか。頭が痛そうな顔をする妖精に、ロゼアはゆるく微笑んだ。幼馴染の口論なのか痴話喧嘩なのか分からないものに巻き込まないで欲しい。心底迷惑そうな顔を一瞬だけして、ロゼアはソキにやんわりと微笑んだ。
「ソキ、お風呂は夕ご飯のあとにしような」
「なかよしー、なのぉ……? なかよくー、ないのぉー?」
『ソキ。火に油を注ぐんじゃないの!』
ルルクの発言から考えても、発端は先日のソキの一言である。余計なことを言うんじゃない、と叱られて、ソキはいじいじとくちびるを尖らせた。
「ややもん。ソキ、お風呂をしてからご飯にするんだもん。やんや!」
「……先輩方。他の場所で話をまとめてから来られては如何でしょうか?」
『アタシはハッキリ言ってやるわよ。痴話喧嘩は他でやりなさい! 邪魔!』
ちわげんか、と言いかけて顔を真っ赤にした女性の、一瞬の隙を見逃さず。ルルクは女性に足払いをかけて体勢を崩させ、そのまま鮮やかに横抱きにした。うつくしいとすら感じさせる身のこなし。
「よし確保……! ありがとう『お屋敷』の世話役基礎教育ありがとうありがとう! あ、ソキちゃんもお風呂だよね? いこいこ?」
「……あなたそうやってすぐ……わ、わたしが非力でにげられないからっていつも、いつもそうやって……!」
「はいはい髪の毛洗ってあげるから! 夕ご飯は私のプリンもあげるから!」
あなたそれでわたしが言うことをきくと思って、えっじゃあプリンいらないの、いる、よーしお風呂だーっ、と騒がしく脱衣場に消えていく二人を見守って、ロゼアはそっとソキに、あんまり近くに行くのやめような、と囁いた。手遅れじゃないの、という顔で妖精がため息をつく。はぁーい、と返事をしてお風呂に行きたそうにもぞもぞするソキが、どれくらいロゼアの言ったことを守れるか、など。
結果は分かりきっていた。
長期休暇の食堂は、基本的には運営されていない。食堂勤務の魔術師たちも長期休暇であり、なにより提供する食事の数の桁が違うからだ。それでも朝に昼に、夕に食堂にひとが集まってくるのは理由がある。休みだからと好き勝手に料理を作って提供する趣味人が、調理人の中にいるからである。完全に閉められていればそれはそれ、生徒には自炊室が開放されているので、作れればそう食べ物に困ることもないのだが。あればありがたく食べに来る生徒が大半である。
今日の夕食は、花舞の地方都市に古くから伝わる郷土料理だった。寮に残るひとりが、複雑そうな顔で、涙ぐみながら食べるのは毎日のことだから、誰もその理由は問わないでいる。普段はそこまで地域に偏ったものは作られない。どの国出身でも、口に合うように調整されるからである。幸い、ソキはどんな料理でも、めずらしーいものですぅー、と言って嫌がらずに口にする。
そこから真面目に食べるか、ぴかぴかの笑顔でお腹いっぱいになっちゃったです、と言い出すかは味の好みというよりその日の体調と気分であるのだが、今日はロゼアが口に運んだ分、すぐに食いついて、もきゅもきゅと食べている。やはり、運動させたのがよかったに違いない、と妖精は頷いた。運動して疲れて寝て起きて、お風呂にも入ったので、さぞお腹が空いていたに違いない。
ロゼアもほっとした様子で、いっぱい食べてかわいいな偉いな、かわいいな、かわいくて偉いだなんてソキは本当にかわいいな、と『花嫁』をべたべたに褒めている。妖精はかわいいの意味を見失いかけながら首を振り、ソキの頭上に浮かびながら閑散とした食堂と、対比的に騒がしい正面の席に視線を向けた。そこにはなぜかルルクと女性が座っていて、きゃいきゃいと口騒がしく言い合いながら夕食を取っているのだった。
もう何回目かも分からない、昔のあなたは可愛かった、という嘆きを向けられて、ルルクは自信満々の表情で笑ってみせた。
「またアリシアったらそんなこと言って。今の私も可愛いくせに」
「か……かわ……かわ、いげが、ない……!」
「……あの、先輩方はなぜそちらの席で夕食をお召し上がりに……?」
うふん、おなかがいーっぱいになっちゃったです、と満足げにお腹をさするソキに微笑みかけながら、ロゼアが視線だけを向けてふたりに問いかける。ごく遠回しな、なんでそこにいるんですか、という問いに、ルルクは挫けない笑みで寂しいかと思って、と言った。
「いつも、ナリアンくんとメーシャくんと四人じゃない? 二人とも、今日は戻らないと聞いたから、数合わせに来ました! ほーら四人だよー!」
「……お気遣いありがとうございます」
「ごめんなさいね、ロゼア。この子がどうしてもと言うから……もう、だから、ロゼアとソキちゃんの都合は聞いたの? って確認したのに……!」
あなたまた私の言うことを聞かずに大丈夫と言ったのでしょう、と叱られて、ルルクはけろっとした表情で、ロゼアくんのは照れ隠しだから、と言った。言い切った。
「そんなことより、アリシア。荷造り終わった? もう明後日だよ? 手伝おうか?」
「……大丈夫ったら。私は日帰りか、一泊どこかで泊まって、荷物だけ持って戻ってくるつもりで」
「いる気がしたから、私がちゃぁんと! アリシアも連れて帰るからよろしくねって家に連絡しちゃった」
語尾に、ハートか音符か花でも散らしていそうな、うきうきしきった声だった。プリンを口に運んでいた女性が、見ていてわかるほど、目眩を感じて額に手を押し当てる。もくもくまくく、とロゼアのプリンを勝手に食べながら、ソキはのんびりとした、疑惑まみれの声で仲良しさんなのぉ、と言う。いぇーい、とどちらとも取れる、反省のない声でルルクが両腕をあげる。
「ちなみに私の実家からは、またあなたアリシアちゃんに無断でそういうことをして、ごめんなさいってよく謝るのよ? ベットはひとつしかないから仲良くね、って返事が返ってきました。あ、ついでにアリシアの実家にも顔出していこうね。お隣だからね」
「……私、実家に寄るだなんて、連絡していな」
「いと思ったので! 連れて帰るのでご挨拶ついでに引っ張って行きますねって手紙しておいたから安心してね」
ちなみに、あらあらいつもありがとうねぇ、というような手紙が返ってきたらしい。プリンおかわり、ちょうだいちょうだい、と甘えるソキにもうひとつだけだぞ、と言い聞かせて渡しながら、ロゼアはなんとも言えない気持ちで微笑んだ。確実に言えるのは、両家がルルクのやり方に慣れきっている、ということだけである。
「ど……うして、いつもいつも、私に断りもなくそういうことをするのあなたは……! 私にも私の都合というものが」
「えっ……う、うん、そうだよね……。ごめんねアリシア……いやだった……?」
「……い、嫌というか、その……いやというか……」
先輩ちょろすぎるのでは、とロゼアは額に手を押し当てた。巻き込まれたくないので口を挟んだりはしないが、ルルクが泣きまねをしていることくらい、ソキにも分かるのだ。ソキはプリンをあむあむ平らげてぷぷーっ、と満足げな息を吐き出すと、お腹をさすさす摩りながら、ちょこん、とばかり首を傾げてみせた。
「ルルク先輩、そのぷりんは食べないの?」
欲しいらしい。食い意地が張っている、と妖精は額に手を押し当てた。叱りつける前に、ルルクが涙の気配さえまるでない目で、きょとん、としながらソキを見る。
「え? これ? これはね、アリシアの……なんだけど、アリシアごめんね……怒ってる……? プリンいらない……?」
「……いる」
「ソキ、ふたつ食べたろ。もうおしまいにしような」
はぁーい、とがっかりした声で返事をするソキに、ロゼアがぬるい香草茶を含ませる。ソキが食い意地で未練がましく見守る中、ルルクはにこにこと、女性の前にプリンを差し出した。
「まあ、そういうことだから。私の実家に泊まって、アリシアの家に挨拶して、それでゆっくり工房の掃除でもしなよ。ね?」
「……でも、置いてきてしまった道具の……手入れもするとなると、いつ終わるか……もう使えないものもあるだろうし」
「大丈夫。来月末までかければなんとかなるよ。毎日おべんと作って、私も手伝いに行ってあげる。道具の仕入れだって、うちのパトロンさんとかに連絡して相談してみるから。大丈夫! ね? 石は投げられたら投げ返せばいいだけだし!」
コイツたくましいにも程があるんじゃないの、と妖精はうんざりとさえしながらルルクを見た。危ないことをしないの、と青ざめて首を振る女性にも、ルルクはどこ吹く風よとけろっとしている。
「大丈夫だって。魔術を使うのがいけないだけで、石を投げるくらいならセーフっていうか。なんだか無性に石を投げたくなって投げた結果、ついうっかり偶然そこらのひとにぶち当たりましたって言い張れば結構なんとか済むし。独房一泊二日くらいで!」
「なんともなっていないでしょう……! ……ねえ、一昨年の長期休暇から帰ってきてあなたが独房に入れられてたのってまさかそれ? それなの? 石を投げたの? 人様に向かって? 投げたの? ルルク正直に言いなさい!」
「えっ、やだアリシアったら引きこもってたのにちゃんと私のこと見ててくれたの……!」
もじもじと頬を染めるルルクに、いいから正直に言いなさい私も一緒に謝ってあげるから、と女性がさめざめと顔を覆う。ルルクは仕方がないなぁ、という顔をして、ぽむぽむと女性の頭を撫でた。
「どうしていつも、私のことでアリシアが責任感じちゃうかなぁ……。入学した時だって、私のせいであなたまで魔術師にっ、て泣くし。ちなみに額を割って七針縫わせました!」
それは独房にも入れられる。妖精は遠い目でしみじみとした。かすり傷程度なら、王たちもなんとかそれで誤魔化されてくれただろうに。明らかな殺意があったとされてもおかしくはない傷である。ちなみにどんな石投げちゃったの、と問う女性に、ルルクは悪びれのない顔で砥石を、と言った。
「ちょうどパン切り包丁研いでて手元にあったんだもん。だからこう、つい?」
「分かった……わかったわ、一緒に帰りましょう。私の側から離れないで……私の言うことをちゃんと聞いて……! 分かったわねっ?」
よく七針で済んだな、とロゼアは逆に感心した。額という位置を考えても、投擲の速度によっては即死しかねないものである。
「……先輩。『お屋敷』の世話役講習でなんの専攻を勧められました?」
「えーっと、ナイフ投げたりするやつと、なんか鉄の糸とか使うやつと、あと体術? なんかね、体幹しっかりしてるって褒められました! やったー!」
「……そうですか」
そうですか、と微笑みのまま繰り返して、ロゼアがゆっくりと頭を抱えた。確かにルルクの体幹はしっかりとしている。普段からよく荒ぶる鷹のポーズのままでいたり、あちこち落ち着きなく走り回ったり、いきなり踊りだしたりするからである。そういえば、とロゼアは遠い目になった。それらの動きのあと、ルルクが息切れしている所など記憶にない。
上級目指して頑張るねっ教本もらったし、と拳を握るルルクに、女性からは心配そうな目が向けられた。
「あなた、今度はなにをしているの……? あまりひとさまに迷惑をかけては駄目よ。ロゼア、なにかあったら言ってね」
「ルルク先輩ねぇ、がんばりやさんなの! ソキ、とってもうれしです! おうえんしているーですぅー!」
純粋に、ルルクが己のことで頑張ってくれるのが嬉しいのだろう。がんばれっ、がんばれっ、とロゼアの膝の上でちたちたとしたソキは、とろけるような甘え声で、ろぜあちゃんのみけんにしわがよってるぅー、と笑った。指先できゃっきゃと突いてじゃれつかれるのに、ロゼアはすこし気を取り直したかのように、ふ、と笑った。
「ちなみに自信のほどは」
「私、昔から試験とか名前のついたものに落ちたことないし、守護星も勢いで! 行けば! 突破できるー! みたいな輝きを放ってるから、いつも通りに努力して油断せずしっかり構えて、勉強して備えればいけるかなっ? って感じ! わーい片付けしてるアリシアにちょっかいだしながら勉強しよーっと!」
「……あのね、ロゼア。私にはよく分からないんだけど、残念ながらこのこ、調子には乗るけど、努力は好きだし油断もしないし、結果が出ないならやり方から見直して何度も試行錯誤して、っていうのを、心底楽しいと思うこなのよ……昔からそうなの……」
その結果、将来は歌手か俳優か踊り子か、とまで囁かれていたパン屋の看板娘であったらしい。ちょっと盛りすぎじゃないんですかと呻くロゼアに、ルルクはそんなこと言われても、と瞬きをした。
「結果が出る努力が好きなんだからしょうがなくない? 力技だろうが多少アレなことがあろうが、結果が欲しいし報われたい。その為ならなんだってする」
「……いまの目標は?」
「世話役講座の全科目合格かなー! なんかね、全部終わったら別の研修もあるって聞いて。魔術師でも王に話はしますのでよろしければって言ってくれてるし、趣味としていいかなって」
帰ったら詳しく話を聞かなければいけない絶対にだ。決意するロゼアに、不満を思い出した顔でソキがぷーっとふくれつらになる。
「りとりあちゃ……」
『アンタまだそれごねてたの? どうせ楽音の城にも挨拶に行くんでしょ? 仲直りしてきなさい、仲直り』
「……そきぃ、おともだちとけんかしたの、はじめてだも。なかなおりなんてぇ、したこと、ないも」
ぷーっと頬を膨らませながらもいじいじとしているのは、リトリアと仲良くできないのが寂しいからだろう。妖精は、ソキよりもロゼアを見た。またこれで不用意にソキを突いて荒らすようなら、シディを水に落としてでも妖精形態を取らせ、話し合う必要があるからだ。ロゼアはすこし困ったような顔をして、ふくれるソキを見ていた。
「……ソキちゃんは、仲直りしたいの?」
笑いながら尋ねたのはルルクだった。ソキはしばらくもじもじとして、言葉を返さず。ルルクも、ロゼアも、妖精も、それを心得た落ち着きで見守った。女性だけが心配そうだったが、ルルクが慌てていないので大丈夫だと感じたのだろう。プリンを食べ始めるのに、ちら、と視線を向けて。ソキはもじもじと指先を擦り合わせ、こくん、とちいさく頷いた。
「でも……でも、でも、でもね。ラーヴェはね、ソキの……ソキのぱぱなの……ソキのなのにぃ……な、なんで、なんでリトリアちゃ」
『じゃあ、怒らないで話でも聞いてみなさいな。仲直りはそのあとでもいいわ』
でも、いきなり怒ってごめんなさいと、アスルを投げてごめんなさいは言うのよ、許してもらえなくてもちゃんと謝るのよ、と妖精にきびしく言い聞かせられて、ソキはうやゃん、と悲しげな声をあげてもぞもぞとした。
「ソキが、ソキがごめんなさいをするのに、許してくれないだなんてことがあるです……? なんでぇ?」
「ソキちゃんだって、リトリアちゃんは好きだけど、その、ラーヴェさん? については、まだもやもやしてるんでしょ? 仲直りしたくても、でも、だめなんでしょ? それと一緒かな。それはそれ、これはこれ。ふっ、ふふっ。お友だちって難しいねえ、ソキちゃん。頑張ろうね!」
「んもおおお! ソキはしんけんなの! しんけんなの! ルルク先輩、笑っちゃだめですううう!」
にこにこしちゃだめでしょっ、だめですうううっ、と癇癪を起こすソキを抱き寄せて、ロゼアはなにかお土産持っていこうな、と囁く。リトリアさんの好きそうなものにしような、と告げるロゼアに、ソキはむむむうっ、としながら頷いて。またすぐルルクに、にこにこしちゃだめですうううううっ、とひっくり返った声で猛抗議した。