妖精たちがラティの目覚めに取りかかれたのは、結局その日が終わる寸前のことだった。なにか事件があっての遅延ではない。ただ単に、砂漠の国が落ち着くのを待っていたら、それだけの時間がかかってしまっただけである。午前中にはソキの魔力発動が、午後には砂漠の王を由来とした魔術師たちの爆発的な歓喜が砂漠にばら撒かれた。ソキはともかくとしてお前は邪魔したいのかと妖精は筆頭に頭を抱え込んだのだが、外見だけとてつもなく麗しく中身が香ばしい男は、柔らかな微笑みでそんなことないよごめんね、と囁いてのけた。
筆頭は、はいはい邪魔しないのせっかく助けてくれるんだからね、と部下たる魔術師たちを笑顔ひとつで呻かせ静かにさせて、妖精たちにその時を待つように懇願した。きっと、今日のうちにはもうひとつ、魔術を使えるように落ち着く筈だから。もうすこしだけ待って欲しい。その言葉は確かに正しかった。
藍色の天に星がちらつき始める頃、焦燥と共にそれを見上げていたルノンが、これなら、と呟いたのだ。これなら、もうすこし、もうすこしだけすれば、きっと。深く深く夜が濃くなっていくたび、幕を引かれた舞台から観客が退場していくように、砂漠の魔力は急激に静けさを取り戻して行った。夜に眠りにつくように。ひたひたと水が染み込んでいくような静けさと冷たさで、世界はとうとう、妖精たちの為に場を整えた。
すぐさまルノンが号令をかけ、妖精が集中なさいよと叱責し、夥しい数の魔力が、そのものが、ひとつの魔術を紡ぎあげる。ゆりかごに似ていた。眠りの場をそこへと移し、ゆるゆると揺らしながら穏やかな目覚めを促していく。途中まで、終盤まで、それは順調に思えた。誰もがラティの目覚めを、砂漠の虜囚の眠りを確信し、よかった、と胸を撫で下ろしていた。
もうすこし、ほんのあと僅かでラティは目覚める、眠りの魔術が解けきる。そんな最中のことだった。え、と声を上げたのはルノン。あ、と呟いたのはシディ。あら、と首を傾げたのが様子を見に来がてら手助けをしていたニーアで、隠すことなく頭を抱えて天を仰ぎ、度級の呻きをあげたのは妖精だった。声や仕草こそ控えめではあるものの、集まった妖精たちも一様に戸惑い、羽根を震わせては困惑混じりに視線を交わし合う。
術式が間違っていた訳ではなく、解呪そのものが不調なのではない。最後の最後で抵抗があったのだ。それは覚えのある蜂蜜色の魔力だった。最後の最後の結び目、それを解けばあとは放っておいても術式が崩れる箇所にしっかり捕まるようにして留まっていた魔力が、いやんやあああぁあっ、と叫んでだだをこねるように、妖精たちの魔術を拒絶していた。ソキである。ソキの魔力、その一欠片だった。
え、ええぇええ、と引きつった声を上げて、ルノンが妖精を見る。シディは苦笑混じりに、ニーアは助けを求めるように、仲間たちからはいかんともし難い微笑みで見つめられて、妖精は心から呻いた。こっちを見るんじゃない。
『いやこれアタシの責任じゃないわよっていうか、アタシに対処を託さないでちょうだい……ソキの責任を取るのはロゼアよロゼア。アタシじゃないわよこっち見ないでったら!』
『……魔力そのものは契約妖精の管轄では?』
『シディ。アタシいま、正論なんて求めてないのよ? 分かるわね?』
座りきった目で瞬時に胸ぐらを捕まれ、シディは達観した笑みではいそうですね、と微笑んだ。いつだって正論を求めていないようなのを、指摘するほど無謀ではない。妖精は従順なシディに理不尽な舌打ちを響かせ、忌々しそうに眠るラティを見下ろした。幸い、部屋にいるのは妖精たちだけだ。メーシャは砂漠の魔術師たちが宴に誘拐して行った為に不在である。
連れて行ったとするよりも誘拐に近い拉致をされたメーシャが、戻ってくるのはまだ先だろう。ほんの僅かな揺らぎでも遠ざけたがった王宮魔術師たちの意図を、読んで耐え切れぬほど、メーシャは幼くもないのだし。我慢し過ぎのきらいはあるが、冷静な視点と判断は妖精たちが好む所だった。あの魔術師のたまごの悲しむ顔は見たくなく、また、ラティの目覚めも妖精たちの望みである。
そうであるから、ここで諦めることなどできない。できないのだが。妖精が呆れ果てた仕草で息を吐く、視線の先。布地に精緻に施された刺繍めいた、ぞっとするほど精密で精緻で滑らかな術式の上に。蜂蜜色のまぁるい魔力がひっしにしがみついて、がびがびとした明滅をしているのが見えた。いやんやぁあああっ、あっちいってですうううっ、だめですううううっ、だめったらだめったらだめなんですううううっ、と魔力の欠片がひっしに泣き叫んでいる。
それを、妖精たちの魔術、魔力がどうにか宥めて落ち着かせ、説得しようとしているが、一向に上手く行かないのだった。触れられるたび、囁かれるたびに、小さな魔力はさらにがびがびとした明滅を繰り返し、いやいやと周囲を拒絶してはひっしにひっしに泣き叫び、しがみつき、離さなくなっていく。
それを無理に剥がして解呪することも、できなくはない。できないことではないのだ。なんといっても、魔術師の魔力、その欠片である。いかな予知魔術師といえど、妖精相手に抵抗しきれるものではない。だから、やろうと思えばできる。できるのだが。泣き叫ぶ幼子をつまみ上げ、ぽぉんと彼方へ放り投げるような所業を、やればできると言っても実行するとなると。
仲間たちの困りきった視線を一身に受け、妖精は堂々と腕組みをしながら、いやアタシだってこんなの無理に決まってんでしょう、と言い放った。
『この状態のソキが、アタシの言うこと聞くと思う? いやソキじゃなくて魔力だけど、これはもう同じことよ。ソキよ。つまりまぁ……言うこと聞くだなんて、アタシは思わないわ。というかロゼアだって無理なんじゃない?』
『ど……どうしろと?』
『どうするもこうするも。ソキだったら疲れて寝落ちするのを待てばいい話なんだけど……』
相手は魔力である。ソキではない。ソキの魔力であるというだけで、本人ではないのだ。そうであるから、持久戦を挑んでどうなるものではなかった。妖精がうんざりしながら魔力を響かせて様子を伺っても、ひっくひっくと泣いていやいやとむずがられるばかりで、説得に応じそうにはない。妖精は無慈悲に頷いた。
『よし、撤去よ』
『これをっ? こっ、これを……っ?』
『そっと摘んで、ちょっと移動させればいいじゃない。……ほら、大丈夫だから。ちょっとこっちに来てなさい』
しかし。魔力は結び目にしっかり絡みついたまま、いやんやああああっ、と泣き叫ぶばかりだった。仲間たちが、あっひどっ、えっそんな手荒な、まってかわいそう待ってあげてまって、泣いてる泣いてるから、あぁああぁあ、と声を上げる中、妖精はその魔力をなんとか退かそうと、引っ張ったり突いたり怒ったり宥めたり叱ったりしたのだが。
引っ張っても、みょーん、と伸びてどうにも離れないとなると。やることはやったわよ、とばかり、ぱっと触れるのをやめてしまった。
『無理。……そうね、やっぱりロゼアで釣るのが一番じゃない? シディ、ロゼア持ってきなさい。ロゼア』
『せめて言葉を選んで連れてきて、と仰ってくださいね、リボンさん。……ロゼアですか? ソキさんではなく?』
『本人連れてきたら、さらに拗らせる気がしない? アタシはするわ』
そうですねしますね、とシディは苦笑しながら頷いた。しかし、ロゼアを連れてくるとも言わなかった。シディの守護する魔術師のたまごを連れてきたとて、成功するとは限らないからだ。妖精もわかって難癖を付けているだけなので、腕組みをして舌打ちしただけで、シディの羽根に手を伸ばしも、いいから連れてこいとも言わなかった。じりじりと、焦げ付くような時間が過ぎていく。
どうしたらいいんでしょう、と困り果てたニーアの声に、知らないわよ、と妖精は告げかけて。閉じていた筈の部屋の扉の隙間から、そーっとそーっと入ってきたましろいひかりに、思わずはぁっと声をあげた。ましろいひかりが、見つかっちゃったっ、とばかりびくりと跳ねる。いじめないでね、とばかり微笑む筆頭の姿が閉じられる扉の向こうに消えた。えーっと、と妖精たちは一様に沈黙した。なにをしにきたというのだろう、と思うより、あの筆頭は今度はなにを企んでいるのだろう、と思う。
ましろいひかりは妖精たちの思惑を察したように、じぇいどわるいことしないものっ、とぷんすかした様子でちかちかぺかりと光ったあと、えっちらおっちら漂うように、眠るラティの方へと移動した。展開する、その魔術の上に。ひっくひっくと泣いて、起こしちゃだめだもん、だめだもん、けんめいにがんばるもん、と主張する、蜂蜜色の魔力の欠片に。寄り添うように、ましろいひかりはふわりと揺れる。
大丈夫よ。怖くないの。よく頑張ったね。いっしょうけんめい、したね。もういいのよ。大丈夫。怖いことないからね。起こしてあげようね。囁くように。ましろいひかりは、とろとろした蜜のようなひかりで、魔力の欠片に語りかけていく。ぐずっ、と蜂蜜色の魔力が震えた。己と同じものに対する無警戒と、甘えた気配を感じ取る。呆れるほど、ソキの魔力。その一欠片の反応だった。
でもでもだってぇ、だめだもん、だめなものはだめだもん、けんめいにがんばるんだもんっ、とばかり。ひしいいいいっ、と術式の結び目にひっつく蜂蜜色の魔力に、ましろいひかりは諦めず、もういいの、よく頑張ったね、と語りかけていく。妖精はため息をつきながら、丸っこくてぽわぽわしたものたちのやり取りを見下ろした。なんというか、ぐずっているソキを宥めるのと全く同じ作業である。
妖精はやや不得意なそれを、ましろいひかりは丹念に、上手くやっているようだった。一進一退の、じりじりした時間が過ぎていく。集中は途切れさせず、しかし完全に飽きた気持ちで、妖精が幾度目かのあくびをする。そろ、と蜂蜜色の魔力が結び目から離れた。はっとした妖精たちが固唾を飲んで見守る中、そろそろ、と警戒したどんくささで結び目を離した蜂蜜色の魔力を、ましろいひかりがぎゅうと抱きしめるようにして引き寄せ、明滅する。
偉いね、とっても偉かったね。頑張ったね。ありがとうね。もう、いいよ。蜂蜜色の魔力は嬉しそうにほわりと光をこぼした後、溶けるように解け、世界に消えてしまった。妖精たちが見守る中、魔術の結び目が綻ぶように解けていく。硬い蕾から花が咲くように。そうしてほとほとと、花びらを散らしていくように。すぅ、と魔術が消え去っていく。
えへん、しゅにー、すごいでしょう、しゅにー、がんばったでしょう、ほめて、とばかりふよふよ浮かび上がって漂ってくるましろいひかりに、はいはいよく頑張ったわありがとうね偉い偉い、と言葉をかけて。妖精はため息をついて、まっふまふのもふもふに自慢げにするましろいひかりを、保護して部屋の扉まで飛んだ。
で、見覚えないけどあの幼いのなに、という同胞たちの好奇心から守ってやる為である。思った通り、砂漠の筆頭は扉のすぐ向こうで待機していた。男に、しばらく傍から離すんじゃないわよ、どうもありがとう助かったわ、と告げると、くすくすと幸せそうに微笑まれる。どういたしまして。いじっぱりになった『花嫁』の説得は、同族か専門職じゃないとちょっと難しいからね、と笑う男は、中の様子を聞かなかった。
聞かないでも、自慢げにまるまるふこっとするましろいひかりが全てを物語っていたからだ。それでも妖精は一応、解呪が成功したことを砂漠の国の王宮魔術師、その筆頭たる男に告げた。うん、と目を細めて幸せそうに笑われる。
「ありがとう。これで憂いなく、陛下のお祝いができるよ。……明日には目を覚ますかな?」
『そこはちょっと分からないわ。ただ、もう普通に寝てるだけだから、そう構えてなくても起きるでしょうよ』
「そっか。……これでメーシャも落ち着くね」
その、メーシャの姿はないままである。どこの宴会に拉致したのかを問えば、砂漠の筆頭は麗しい笑顔でもちろん王宮魔術師のだよと告げ、ただ、と言葉を切ってゆるりと首を傾げてみせた。花の芳しささえ感じさせる、やわらかでうつくしい仕草だった。
「今日は起こすのはかわいそうかな。酔い潰した所だからね」
『……はぁん?』
「たくさん飲ませちゃった」
語尾に花が咲きそうな声で可愛こぶられても、実際は酔い潰しただけである。妖精はなにしてんのアンタ、と心からまっすぐに問うた。ジェイドはそれはそれはうつくしい、うっとりとした笑みでやったのは俺じゃないよ、と言った。信憑性がまるでなかった。疑いの目で睨む妖精に、砂漠の筆頭は楽しそうに言った。
「まあ、注がれてるのを止めもしなかったけど」
『ああぁあぁああぁやだこの男! ろくなことしない! ろくでもない!』
「不安になるよりね、酔ってでも寝ちゃった方が良い夜ってあるよ。さすがに、お祝いにも乗り切れてない様子だったし……まあ、二日酔いしない処置はしてたから、白魔術師たちが。大丈夫、大丈夫。ね?」
ね、ではない。同意を求めて来ないで欲しい。もういいから行きなさいよ、と手を振って追い払えば、筆頭は悪戯っぽい笑みではぁい、と言った。それじゃあ、またね、と去っていく筆頭を見送って室内に戻ると、すでに同胞たちも解散していた。術式は問題なく解除された。念の為確認しても、ラティは魔術の影響なく、ただ眠っているだけである。
ほっと安堵して、妖精はルノンとニーアと別れ、シディの羽根を掴んで『お屋敷』へと戻った。明日には、遅くとも夜には、ラティが目覚めたと知らせが来る筈だ、と思って。しかし翌日の夜になっても。年があけても、数日が経過しても。ただ眠っているだけの筈なのに。ラティが目を覚ますことは、なかった。
魔術による眠りではない。かと言って、昏睡している訳でもない。呼び集められた医師と白魔術師たちはそう意見を共通させて、頭を抱える王に申し上げた。なぜ眠り続けているのか分からない。病ではなく、衰弱ではなく、呪いでもない。ウイッシュが操るような特殊な祝福が意識を捕らえている訳でもなく、その身に他者の魔力は影響を及ぼしてなどいない。
では、なぜ、目覚めないのか。その理由、原因に誰も辿り着くことができないでいた。つい先日、年明けと共に戻って来た白魔法使いはよりいっそう不安げな顔になってしまったメーシャを慰めながら、ラティを診察してこう言った。もしかしたら本能かも知れない。王宮魔術師一同を場に集め、滅多なことを言わないように筆頭に笑顔で威圧されながら、白魔法使いは胃を痛くしながらこう説明した。
魔術師は誰もが『器』を持つ。皆が知るように。それは魔術師の、魔力を汲み上げる水器で、体内にそれを貯め、留めておくためのものである。ソキのような痛ましい例外を除いて、魔術師は誰もがそれを持つ。さんみりりっとるくらいしかなかったけど、ラティも例外ではない。『器』はあり、そしてそれは今、砕けかけている。
己の正常な行使の範囲を超えて魔術を展開したからであり、他者の命をひとつ飲み込むほどの眠りを継続しているからだ。彼は目覚めることがない。今も、これからも。先の目覚めは、その永久の眠りからラティだけを掬い上げるもの。そうであるから、ラティが成した魔術が消えたわけではない。ラティと彼とにかかっていた魔術から、ひとりだけを効果範囲の外に出しただけ。
つまりね、魔術は展開されたままで、それは元々の魔力量が極めて少ないラティにとっては絶大な負荷となる。しかも、『器』が砕ける寸前ともなれば。魔術の展開を完全に消せばあるいは、ラティの『器』は助かるかも知れない。しかし、彼の眠りは死守しなければならない。もう二度と、あってはならないことだから。ラティもそれを知ってるよね。だから、発動を止めることはできない。
ひび割れ砕ける寸前の『器』で、どうにかやりこなさなければいけない。ラティが通常の眠りからも覚めないでいるのだとしたら、理由と原因はそこにあると思う。『器』が砕ける衝撃と痛みは、魔術師にとって致命傷となる。文字通り、致命傷だよ。俺がどうして助けれることでもない。その痛みと衝撃は命を奪うに十分で、あるいは助かっても気が狂う。ソキが助かったのは奇跡だ。
奇跡を望んじゃいけないよな。そんな分の悪い賭けはするものじゃない。つまり、と白魔法使いはため息をついた。
「ラティの魔術師としての本能が、魔術展開を継続する為に意識を浮上させないでいる、っていうことだと推測ができます、筆頭」
「ふむ……。それは、意識を浮上させることで、魔術の展開に差し障りがあるから、ということかな?」
「前例もないから、推測による答えしか言えないけど、多分、その通りです。意識を無くすことで、ありとあらゆる負荷を極限まで抑えてる……んじゃないかな。すくなくとも、意識と感情の揺れがないから、『器』に対する負荷は限りなく無に近いと考えられます」
だから。ラティはきっと目覚めない。彼を永久の眠りに沈めるため、ラティの魔力ではそうするしかないのだから。迷いながらもそう告げた白魔法使いに、ふ、と息を吐いて。砂漠の筆頭たる男は、集った魔術師たちに柔らかな視線を向けた。集められたのは広い部屋だった。常には魔術師たちが休憩室、仮眠室として使っている部屋だ。
そうであるから天井は高く、吹き抜ける風は爽やかに、人々の喧騒はどこかひっそりとして響く。つめたい石の床には幾重にも布が重ねて敷き詰められ、魔術師たちはそこに立ったり、座り込んだり、極限状態でうつ伏せになって動かなかったり、各々の状態に合わせた姿勢でいる。立っているのは白魔法使いと、筆頭と、他に二人だけだった。倦怠感が漂っていて、誰もが口を重たそうに閉ざし、言葉を発さないでいる。
そんな中で、ジェイドは柔らかに笑ってみせた。花のような。いとおしく、穏やかな、微笑みだった。
「どうしようか。諦める?」
反射的な怒りで、部屋の半数が顔をあげた。信じられない、という顔をしてもう半数が。白魔法使いだけが、うわ、と全力で引いた顔をしてすすっと筆頭の傍から離れたがるのを、無造作に腕を掴んで引き止めて。男はうつくしく、うるわしく、またきよらかなうっとりとした微笑みで、悪びれもなく、ちいさく首を傾げてみせた。
「推測が正しいのなら、打つ手がなく。ラティの状態だけを考えるなら、悪化した、と言ってもいいくらいだろう? ……どうすることもできない、と思うならそういうことだ」
「筆頭! でも……でもラティは、メーシャは……!」
「……うん?」
怒りか、なにかの感情にか、口ごもり。続けられないでいる魔術師を、ジェイドは許さなかった。でも、なに、とあくまで穏やかに問いただす。ぐっと唇を噛んで、別のひとりが顔をあげた。その困難を睨むように。
「諦めたくありません。こんなのは、終わりじゃない」
「そう? なら、どうしようか?」
感情ならば、いくらでも告げられる。意思ならば、いくらでも握りしめられる。でもこれは、もう、そんなものでは立ち向かえない。怒りを覚えるなら、その足に力を込めて立ち上がれ。まだ終わらないと言うなら走り出せ。するべきことはなにか。できることは、なんなのか。言って、告げて、願って。そうしたらそのことに対する許可をあげる。なにもかも許して動けるようにしてあげる、と。
笑顔の裏に獰猛な刃を隠す男に、魔術師たちは食らいつくように立ち上がった。ひとり、ひとり。手足にしっかり力を込めて。
「俺、これから楽音に行ってきます! 行かせてください! 先日、キムルの意識が回復したと聞きました。なにか糸口が見つかるかも知れない」
「いいよ。……では、その間の君の仕事は誰が?」
「それは私が。国内の安定、平穏を守ることこそ、我ら王宮魔術師の絶対的な使命ですから。……長期は厳しいけど、今日、明日くらいなら、二人分くらいは滞りなく」
分かったよ、とジェイドはしっかりと頷いた。では、そのように。行きなさい。男はしっかりと頷いて、傍らの同僚に日常を託し、走って部屋から出て行った。それを皮切りに、わっと魔術師たちが筆頭の元へ押し寄せる。
「お願いします! 白雪に行かせてください! エノーラに、エノーラに会ってきます! なんとかラティを見てもらえるように!」
「筆頭! 俺、これから国内の様子見て来ます! 外組の予定だったから、その通りに! それで、終わらせて、帰りを待ちます!」
「待って皆落ち着いて! 予定を組み直すから、それを一度筆頭に見てもらおうっ? そうですよね、筆頭! まずはいつもの通りに、いつものように動けてから! 皆、普段の倍くらいまでなら行けるよねっ? 国内組と国外組に別れよう。大丈夫、大丈夫です、筆頭! 私たち、まだ走れます!」
諦めてなるものか。こんなことで、こんなところで。仲間を、ラティを、諦めてなるものか。日常と平和を。こんな困難くらいで、諦めてなるものか。魔術師たちの訴えに、そうだね、とジェイドは笑った。しあわせそうに。
「そうしよう」
さあ、魔術師たちよ。走り出せ。この国の鼓動、この国の血液。魔術師の存在こそが、そのものなれば。風のように国内を巡り、そして国の外にも手を伸ばせ。今こそ、諦めることを、諦めて。困難に挑んで走り出せ。事務に特化した魔術師の数人がさっそく机と筆記用具を用意して集合を叫ぶ。何人かが外出の準備を整えに部屋から飛び出し、何人かが早口に己と、把握している者たちの予定を語りだす。
室内は蜂の巣を突いたような大騒ぎとなった。ふふ、と嬉しそうに笑う筆頭に腕を掴まれたまま、白魔法使いが怯えたようにため息をついた。
「うちの筆頭の……こういうとこ……ほんとこういうとこなんだよなぁ……」
「フィオーレ? 文句があるなら素直に言うように」
「なーいでーす」
だから腕を離してほしい、と向けられる視線に、ジェイドはにっこりと仕事用の笑みでもって告げた。
「どさくさに紛れて花舞に行ったりしないなら離してあげるけど」
「いや……さすがに俺もそんなことは……さすがに……」
「しない、と言わないね。駄目だよ、フィオーレ」
優しいのは口調だけである。白魔法使いは絶大な信頼をもって、それを知っていた。はい、と戦慄しながら頷くフィオーレに、よろしい、と告げてジェイドはようやく手を離した。
「我が陛下は、あれでお前にはとても寛容な方だ。同じ過ちを繰り返そうと、二度、三度くらいまでならお許しになるかも知れない。頭痛くしたり胃を痛くしながらね。許してしまわれるだろう。……でもね、フィオーレ。陛下はお許しになられるかも知れないその裏切りを、分かっていて二度、させる気は俺にはないんだよ。……十分療養してきたろ? しばらく砂漠の城から出ないでおこうな。お返事は?」
はい、以外の返事をしようものなら、全力で人体の急所に一撃をいれ、昏倒させた上で医務室にでも監禁しよう、と思っている微笑みでだった。どうせ白魔法使いなのだから、医務室から離れられなくともそう不便はないだろうし。フィオーレは冷や汗を流しながら、はい分かりました筆頭、と言った。やると決めたらやるのが、砂漠の筆頭その人である。陛下には事後報告で。ほぼほぼ常に事後報告で。
砂漠の魔術師たちの中で圧倒的に王に許され続けている男は、己のえこひいきされっぷりを全力で彼方へ葬り去った物言いで、それはよかった、とさらりと告げた。
「俺も手が痛くなるのはね、ちょっとね」
「……って言いながら足を使うのが筆頭の常套手段。俺は詳しい……」
「詳しくなるほど怒られた自覚は?」
フィオーレ、ほんと筆頭の怒りに油注ぐの好きだよな、もはや趣味のひとつかと思うくらい煽るよな、そして反省がいまひとつ見えにくいのよね、と同僚たちからこそこそと視線を向けられて、フィオーレはきゅっと口唇に力を込めた。もう何もいうまい。フィオーレだって墓穴を掘る趣味はないのだ。
沈黙した白魔法使いを仕方がないと眺めやり、筆頭はもう一度、しばらくは大人しくしているんだよ、と囁いてから解放した。なにかあったら埋めてもいいからね、と許可を下すのも忘れずに。はーい、と声を揃える同僚たちに悲しい気持ちになりながらも、フィオーレは珍しく口を開かなかった。言われないでも、埋められるようなことをしなければいいのである。理解はしているのだった。
さてこの反省としおらしさがいつまで保つかな、とあまり期待しない目で見てから、筆頭は意識を切り替えて胸元に手を押し当てた。そこには、しおしお、しゅん、としたましろいひかりが潜り込んでいる。ラティが起きないことに、責任を感じているのだった。翌日はそわそわふこふこと愛らしく落ち着かないでいたのだが、日が経つにつれすっかりしょげこんで、昨日からはジェイドの服に潜って外にも出てこなくなってしまった。
シュニー、と呼びかけると、ましろいひかりはもぞぞぞぞっと這い出して、ジェイドの肩にぺっちょりとくっついた。ぐすぐす泣いてでもいるように、不規則に弱々しい明滅がある。指先で撫でて慰めながら、ジェイドは大丈夫だよ、と幾度も繰り返した言葉を囁きかける。ほら、見てごらん。誰も諦めていないからね。シュニーのせいではないからね。妖精たちも誰も予想できなかったことだよ。
それに、本当にただ眠っているだけ。悪いことにはなっていないんだよ。大丈夫。大丈夫だからね。できることをしなから待とうね、シュニー。かわいいかわいいシュニーさん。ね。いいこだね。かわいいね。砂糖がそのまま声になったかのような囁きに、ましろいひかりはぺっちょりとしながら収縮した。ずびびびびっ、と鼻をすするように振動したましろいひかりは、ぺかっ、と気を取り直したひかりを灯す。
しゅに、がんばるっ、と言っている気がして、ジェイドは愛おしく頬を寄せた。ソキも気に病んでいるだろうから、様子を見に行くのがいいかも知れない。シュニーの気晴らしにもなることだし。この後の予定を考えながら、ジェイドは思わず、あぁそうだ、と言った。振り返った事務に特化した魔術師に、すこしでかけてくるね、と微笑みかける。
「夕方くらいには戻るから、すこしよろしく」
「はい。どちらまで?」
「うん。ちょっとそこまで」
あっこれ悪巧みだ、と瞬時に共通した意見でまがおになる砂漠の国の王宮魔術師たちは、しかし粛々と行ってらっしゃい、お気をつけて、と筆頭たる男を送り出した。扱いが俺とあまりに違うっ、と抗議するフィオーレを前科の一言で黙らせ、筆頭は不思議そうにふこふこするシュニーを肩に乗せたまま、颯爽とした足取りで歩き出した。『お屋敷』の方向ではなく。各国を繋ぐ『扉』に向かって。
新年の祝いと、陛下への祝福と、ラティの件が入り混じり、砂漠の空気は浮足立ちながらも不安を宿して落ち着かない。それでも、魔術師は諦めずにまた走り出した。数日すれば結果はさりとて、また落ち着いていくだろう。大丈夫だ。誰も諦めてなどいない。ジェイドも。陛下には帰ってきたら行ってきましたって言えばいいかな、と思いながら歩いて、『扉』に手を伸ばし、ジェイドは誰にも告げなかった言葉を、ようやく、ひっそりと呟いた。
「……お前には、そうしてやれなかった、だなんて思うのも。そう、動きもしなかった、なんてことも……ああ、未練だな……」
諦めて、手を離して、見ないふりをした。今は永久の眠りの中にいる男が、破滅するその時まで。一度かたく目を閉じて、開いて、息をして。起動した『扉』を潜りながら、ジェイドはどうか、と胸中で呟く。どうか、どうか、その眠りが。優しく、幸せなものでありますように。
「心から、そう願うよ……シーク」
ジェイド、と。かつて呼ばれた親しさが、耳の奥で蘇る。もう、呼ばれることはなく。呼び返すこともない、その名を。ジェイドはもう、口に出すことはしなかった。
魔術師たちが走り回り、各国から助っ人を連れ込んではわちゃくちゃするせいで、新年の王宮は騒がしい。それでも今日は、来訪の予定がひとりなのだから、随分と落ち着いた方である。メーシャは苦笑しながら、言われるままに右腕をあげた。肘から手首までの長さを、巻き尺がささっと測って行く。ラティの部屋から移動したくない、と告げたメーシャの為に、採寸は寝室で行われていた。
指示に従って時折動くものの、採寸そのものは静かに行われていた。その静寂は、どこかほっとするものだ。するのだが、しかし。ラティの眠る部屋に訪れ、そっか、それは心配だよね、と。憂い顔になりながらもてきぱきと採寸をしていくルルクに、メーシャは力なく呼びかけた。なんとなく、言葉と行動が乖離しているのである。
「先輩……本当にそう思ってくださっていますか……?」
「思ってる思ってる。ラティさん、心配だよね。早く起きればいいね。ミニスカート好き? タイトがいい? 柄にする無地にする? レースにする印刷にする? 何色がいい?」
説得力、というものの大事さを噛み締めて、メーシャは目頭を手で押さえて天井を仰ぎ見た。こういう時に限って姿のないルノンは、妖精たちと花園で何度目かの会議の真っ最中だから、不在を恨めしくは思えなかった。うーんどうしよっかなー、と楽しそうな声で猛然と採寸結果を書き込んでいくルルクに、メーシャはもう一度、諦めきれずに声をかける。
「ですので、先輩。ラティが目を覚ました時に、安心して欲しいんです。分かって頂けませんか……?」
「うーん……。そこまで言うなら、仕方ないかな……。メーシャくんは、いいよ。似合う女装にしようね!」
安堵で胸を撫で下ろしかけたことを後悔させないで欲しい。俺もたまには話が通じる先輩が欲しいくらいは思うんですよ、と告げるメーシャに、ルルクは心底きょとん、として言い放った。
「え? 私、話の通じる、柔軟で親身な先輩じゃない?」
「そうですね。アリシア先輩の苦労が忍ばれます」
「任せてね、メーシャ。ラティさんが思わず目を覚ましたくなっちゃう、とびきりの女装に仕上げてみせるからね!」
気持ちは嬉しいのだ、気持ちは。方向性が迷惑でしかないだけで。深々と息をついて、ありがとうございます考え直してください、と呻くメーシャに、ルルクはそうすると専門の手を借りないとなぁ、と己の思考に埋没した呟きを発している。すでに話を聞いていない。またロゼアに怒られますよ、と告げれば、ルルクは自信ありげな笑みで目をきらんと光らせた。
悪いことを思いついてきらきらする、ソキを思わせる笑い方だった。
「そう! そのロゼアくんの衣装の話なんだけど。筆頭に相談したら、なんとロゼアくんのお母様と話をつけてくださってね!」
「……はい」
「なんか服を借りたり、被服部の有志の手をこっそり貸してくださったりするんだって! やったー!」
なんでこのひと、被害を拡大させるのがこんなに上手なんだろう。才能かな、枯れ果てて欲しいな、と遠い目をしながら、メーシャは『お屋敷』がある方向を振り仰いだ。
「ロゼア、生きて……生きてね、生きようね……!」
「あ、そうそう。ロゼアくんとね、ソキちゃんが会いたがっていたから。会いに来てもよかったら、予定を教えてくれるかな? 伝書鳩するからね」
「先輩が『お屋敷』に出入りできるのを、感謝したらいいのか残念に思えばいいのか、分からなくなって来ました」
持てる手段のひとつくらいに考えておけばいいんじゃないかな、と告げるルルクは、さっぱりとした口調のままで測定の記帳を終えると、メーシャに向かって強く頷きかけた。
「ソキちゃんも楽しみにしてたから! 頑張ろうね!」
「そうですね。会話がしたいなって強く思いますね……今日は、アリシア先輩は? どちらに?」
「工房で道具の整備してたかな? 皆様に迷惑かけないのよってみっちり言い聞かせられちゃった。もう、心配性なんだから」
頼みの綱がないことを知って、メーシャはもう諦めた笑顔でそうですか、と言った。アリシアがいるからと言って、ルルクに話が通じるようになる、ということはないのだが。まだなんとかなり、まだましになるのである。今度はアリシア先輩も一緒に来てくださいね、と言うと、ルルクは嬉しそうに頬を赤らめて頷いた。
「ロゼアくんにも同じこと言われちゃった。ふふ、必ず連れてくるからね!」
「……はい。本当に、本当にお願いしますね」
もちろん、と明るい笑顔でルルクは頷く。幼馴染を連れて来て欲しがられるのが、嬉しくてならないらしい。メーシャはどこかほっとした気持ちで肩の力を抜いた。ルルクがどうにかなりそうだからではなく。誰がが、そういう風に喜んでいてくれるのが嬉しい。砂漠の魔術師たちの、陛下おめでとうございますの宴には、その熱量にやや引いてしまって乗り切れなかったことが、すこしばかり申し訳ないくらいだった。
ルルクはてきぱきと帰り支度を整えながら、私達のことは心配しなくていいからね、と真摯な声で後輩に言う。
「特になにも起こってないし、平和っていうか、いつも通りに過ごしているから。私も、アリシアもね」
「……はい。よかったです」
「なにもできないでいるの、辛いよね。待ってるしかできないって、もしかしたら一番しんどいと思う。やるべきことをやり切って、それがもう分かっちゃって、あとはもうどうしようもなくて。待つのってしんどい。……気分転換も、しなきゃって、義務みたいに思っても、中々うまく行かないし」
メーシャに言い聞かせるのと、ひとり言の、中間のような声だった。ふ、とメーシャが顔をあげても、ルルクと視線は重ならない。魔術師のたまごの先輩は、採寸もれがないかどうかを手元の資料と照らし合わせ、偏執的に細かく確認しながら、静かに声を響かせていく。
「だから、私は、なにもしなくていいよって思う。そう言ってあげたいと思う。だから、言うね……。メーシャは、もうなにもしなくていいよ。待つのも心配するのも、気持ちを楽にするのも考えないようにするのも、考えるのも。しなきゃいけないことなんて、なにもないの。なにも残ってないよ。全部したでしょ? だからもう、いいよ。頑張ったね」
「ルルク先輩、それは」
「……ソキちゃんには感謝してるんだ、私。ほんとに。ロゼアくんに、かな。ロゼアくんが依頼してくれて、ソキちゃんが喜んでくれたから、話を聞いてくれたから、否定しないでいてくれたから……アリシア、部屋から出てきたの。私には出来なかったんだ、それ。何年かかっても、どんな言葉でも、なにをしても。私には出来なかった。……悔しいなぁ。私にはできないことがあるの。ほんとに、悔しい」
記入もれ、なし、と確認し終わって、ルルクが足元の荷物を拾い上げる。大きめのリュックサックをひょいと背負って、ルルクはけれど心から、穏やかな笑みを浮かべて言った。
「大丈夫、解決するよ。今じゃないかもしれないけど。他の、ここにいない、これから来る誰かの手を借りないといけないかも知れないけど。……その時は来るから、メーシャ。擦り切れないで待ってあげて。メーシャが疲れるのがね、一番、ラティにはつらいと思う」
「……アリシア先輩は、そう?」
「うん。……私が」
知る、私のままでいたことを。喜んで安堵して、くれたよ。ふ、と笑って、まあそういうことだから、とルルクは笑った。
「似合う女装頑張ろうね! メーシャ!」
「あっそこに戻るんですね」
「まあまあ、周囲に流されてみるのも良い経験になるって。ねっ? 私だって、本来の派閥とは違う、似合う女装で妥協するわけだし……!」
どんな派閥でも、いますぐ速やかに滅んで欲しい。メーシャは心健やかにそう思いながら、帰っていくルルクを見送った。好きなスカートの丈を選んでいいからねーっ、というのが『扉』の向こうに消えていくルルクのまたね、の代わりの声だった。人生で一度も考えたことのない難問を、豪速球で投げかけていなくなるのは本当に辞めて欲しい。
ラティが起きてくれたら止めてくれないかな、と部屋に戻るなり思って、メーシャは思わず笑ってしまった。起きて、して欲しいことを考えられるなんて。目を覚まして、どうか、どうか、いなくならないでと願うばかりではなく。起きたら。ああして欲しい、こうして欲しい、なにをしたい、だなんて。思えるように、いつの間にかなっていただなんて。暗く沈み込むばかりの気持ちと、心配すること、はすこし違う。
メーシャはもう、心配するばかりでラティの目覚めを待てるのだ。まだかな、と胸を期待をほんのりと灯しながら。よかった、と思いながら、寝台の傍においた椅子に腰を下ろす。嵐のようなひとが去って行ったばかりだからか、ラティとふたりきりの部屋なのに、静寂が身を切るようなことはなかった。その静けさが心を痛ませることも、切り裂き、沈みこませることもなく。ただ、ただ、まどろみに安堵する。
こんこん、とノックの音が響いた。今日はルルク以外の来客の予定はないはずだと思いながらも、メーシャはどうぞと返事をした。砂漠の王宮魔術師たちが、また騒がしくも明るく様子を見に来たのかもしれない。しかし、入るな、と響いたのはまるで知らない声だった。正確に記憶を探れば聞き覚えのある声なのだが、ここで聞く筈もなく、その、予定もないことから、知らない、と脳が判断を下す。そういう相手の声だった。
は、え、と声をこぼしながらも本能的な判断で即座に椅子から立ち上がり、体を向けて出迎える。視線の先にいたのは、魔術師の王だった。この世界でたったひとり。魔術師たる存在でありながらも一国の治世を行う、星降の王。そのひとである。護衛の姿はなく、廊下に待たせているような様子もなく、たったひとりで現れてぱたんと扉を閉めた王に、メーシャはつよい目眩を感じて額に手を押し当てた。
ここは実は砂漠ではなく、星降の城内だっただろうか。例え星降の城内であろうとも、そうそうあっていい事態ではないのだが。それはそれとして、待ってください、と停止しかかる思考でなんとかそう言うメーシャに、星降の王はにこにこ笑いながら歩み寄る。
「ひさしぶり、メーシャ」
「はい……。はい、お久しぶりです、星降の陛下」
「女装することになったんだって? 着たら俺にも見せに来てな。わーい、楽しみー!」
なんだ夢か、とメーシャは思い込もうとした。挨拶のあとの第一声として、あまりにひどい。なんでその事実をご存知なのですかと思いかけ、メーシャはルルクが五王に許可を取りに行った事実を思い出した。つまり許可したのだ。目の前のこの人は。思わず、じっとりと恨めしげに見てしまうメーシャに、星降の王はにこにこと嬉しげに笑って、なに、とばかりちいさく首を傾げてみせる。
その仕草があんまりにも悪意なく。あまりに、ラティに似ていることに気がついて、メーシャは魂の底から息を吐き出した。首を振る。
「いえ……いえ、いいです……。陛下、どのような御用の向きで? まさか、おひとり、なんてことは」
「え? ひとりだよ?」
「どうしてですか……!」
メーシャは、平穏にして不幸なことに、王の奇行に慣れてはいない。ナリアンならば即座に、そこが花舞であろうと砂漠だろうと関係のない態度で、そうですか誰かああぁあぁっロリエス先生ーっ、とでも絶叫しただろうが、メーシャはそういう類の奇行に慣れてはいないのだ。未知との遭遇である。どうしたらいいのかまるで分かりません、という引きつった顔で硬直するメーシャにゆったりと笑って。
星降の王は座っていいよ、とさらりと告げた。かたん、とちいさな音を立てて、メーシャは椅子に座る。そのまま頭を抱えてしまうのをぽんと撫でて、星降の王は幸せそうに、メーシャは真面目だなぁ、と囁いた。
「よしよし、いいこ、いいこ。あー、メーシャは可愛いなー。俺のことパパって呼んでいいからな?」
「……恐れ多くも申し上げます。陛下、どのような御用の向きでしょうか……!」
「パパがそんなに抵抗あるなら、愛称でもいいよ? イリス、って。呼んでみて?」
よくないしハードルをあげないで欲しいし、よくないし今すぐ誰か助けて欲しい。分かりました、どなたかを呼んできます、と立ち上がりかけるメーシャを、まあまあと星降の王は肩を掴んで引き止めた。して欲しくないらしい。すぐに終わる用事だから、と告げて、星降の王はラティの眠る寝台を見た。うん、と笑って足を踏み出す。
「ラティをね、起こしに来ただけだから」
「……えっと?」
「ラティにはするべきことがあった。ずっと昔からね、それが分かっていたから。……ラティが魔術師として目覚めた時から、分かっていたからね。どんなものであれ、遮断する訳にはいかなかったんだけど。もう、終わったから、いいかなって。貸すのも終わり」
そうですか、とメーシャは微笑んだ。通訳を呼んで欲しい。メーシャの手には余りすぎる相手だ。でも起きないんです、と告げるメーシャに、星降の王は知ってるよ、と頷いた。砂漠の筆頭が教えに来てくれたらしい。あのひとはもしかして、ろくなことをしないのでは、と思考が脳裏を駆け巡って動けないでいる隙に、星降の王はラティの元へ屈み込んだ。顔を覗き込んで、手を伸ばす。
そうするのが、当たり前で。そうするのが、ごく自然なのだと言うように。男の手がラティの頬を慈しんで撫でる。
「さあ、約束の時間だよ、ラティ。……俺の『輝ける星』、俺の騎士。……おはよう」
身を、屈めて。星降の王は、まるで自然にラティに口づけた。触れ合うだけには、あまりに長く。王がゆっくりと身を起こすまで呆然として見つめ、はっとしたメーシャが、なにを、と叫ぶより。ぱち、と目を開いて、瞬きをしたラティの、声が響く方が早かった。
「……はい? ……え、ちょっと待ってください、なに、近い……! えっ、陛下? え? えっ?」
「おはよう、ラティ」
え、とメーシャが声をあげて椅子から立ち上がる。ラティとメーシャ、ふたりの混乱をまるで意に介さず。星降の王はラティの手を握り、にっこり笑って言い放った。
「じゃ、結婚しような、ラティ!」
「なにもかも話が掴めないのですがっ! 結婚っ?」
「そう。俺とね。……ふふっ、迎えに来ちゃった」
可愛らしい声で言っても誤魔化されるようなものではない。ありとあらゆることが。混乱が通り過ぎ、数秒後。陛下あぁああぁあっ、と混乱しきった、砂漠の王と星降の王、どちらを呼び、どちらになにを言おうとしたのかも分からない叫びが、目覚めの合図。
後に、この時期を指して、砂漠の動乱はこう呼ばれた。
すなわち。
年末年始、恋の季節。