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 ソキが『本』をロゼアからも隠して『お屋敷』に持ち込めた理由はただひとつ。誰にも見えないように、そっと隠蔽の魔術をかぶせておいたからである。妖精に相談しなかったのは寝ぼけて忘れていたからだが、『武器庫』に置いておく、と言ったのを実行していなかったのがバレて怒られないように、だなんて、そんな理由ではない。ないのである。ただ、それは誰の認識からも隠されて『お屋敷』に持ち込まれたし、今もそのまま、ソキの枕の下に赤い『本』と一緒に置かれていた。
 朝、まだ妖精が城に出かける前に、ソキはそーっと枕を移動させて、『本』を二冊並べて出してみた。しかし妖精は特にソキの、勿忘草に染まった『本』を見つけた様子はなかったし、ロゼアはそういえばなんで枕の下に敷いてるんだ、と問うだけで、並んだ二冊を訝しむことはなかった。シディは昨日から引き続き、ロゼアの頭の上で蕩けながら、あれ、という視線を向けてソキをそわそわさせたのだが。鉱石妖精の目すら欺いて、ソキの隠蔽は勿忘草の『本』を隠し続けた。
 使っているのは、ソキがシークと共に砂漠の城を歩いた時の魔術だった。光の屈折や音の振動そのものに干渉し、目に見えず音に聞こえず触れてもその感覚を欺き書き換える。ひとが妖精を目にできないのと同じように。ソキの姿や、望むものをひとの目から、魔術師の感知から、覆い隠し騙し欺く為の術だった。どうしてそんなことをしたのか、と問われても、ソキから出せる答えはひとつ。なんとなく、である。それ以上でも、それ以下でもない。なんとなくである。
 強いて言えば、そうしなければならない、という使命感にも似た予感が胸にあったからだ。これはもう、その時まで、それからも、誰からもなにからも隠しておかなければならない。そう思ったから、ソキは『武器庫』に戻しておくです、と言って、勿忘草の本を手元で隠しておいたのだ。嘘はついていない、とソキは思っている。言った時は確かに、戻しておく、つもり、ではあったのだ。ちょっとした予定変更である。変更を誰にも言わなかったのは、嘘にはならない。
 ソキは城へ行く妖精を見送り、ロゼアが寝台の傍を離れたことをしっかり確認すると、ういしょ、と再び枕を持ち上げた。ロゼアが微笑ましそうな視線を向けているのには気が付かず、ふたつの『本』を見比べて、うーん、とくちびるを尖らせて唸る。昨夜の、夢のような、幻のような一時を思い出す。ソキは多分、眠っていたのだと思う。けれども見ていたのは夢ではなく、交わした言葉は本物だった。
 『本』を、とよく知る少女と同じ響きの声がソキに告げた。置いてきて、彼の元に。それが、どちらの『本』のことで。彼が誰を示しているのか。分からない程、ソキは鈍くも察しが悪い訳でもなかった。それが正しいことなのは分からないけれど、それはそれとして、ソキはそうしてもいいかな、とは思う。特別怖いことではないし、いけないことだとも思わなかった為だ。内緒にしておかないと大変なことになる、とは思ったので、ロゼアにも妖精にも相談しないままでいるだけで。
 ただ、とソキはレロクの真似をしてむむぅっと難しく眉を寄せ、首を傾げて腕組みをした。あの少女の言う通りにしてもいいし、その時の為に隠していたのだと思う、のだが。問題がひとつあった。隠していたことを知られずに、そこへ行って戻ってこられるかどうか、ということである。まずソキの現在位置が『お屋敷』であることからして、相当な難易度の高さだった。
 誰にも見られずに『お屋敷』を出て城に向かい、帰ってくることは出来るだろう。今も『本』を隠している魔術がそれを助けてくれるし、ソキは実際にそうしたこともあるので、効果は身をもって知っていた。見られず、隠れて行くことは出来る。問題はソキの不在を分かられないようにしておくこと。それも、行って帰るまでずっと、である。むむむぅ、とソキはちらっと視線を持ち上げた。
 すぐにロゼアと目が合って、なぁに、と微笑みかけられる。なぁんでもないです、なぁああんでもないんですよぉ、ロゼアちゃん、分かったぁ、と言い聞かせ、ソキはしおしおと『本』に向き合いなおった。見つからないでいることと、いないことに気が付かれないのは、まるで別のことだった。『お屋敷』からその場所の道筋が分かるのか、ということと、往復の体力があるかどうかというのを、また別にしても。
 ソキがいなくなったことに気が付かれないで、行って帰ってくること。ロゼアに内緒ですよぉと言い聞かせても、メグミカに協力を頼んでも、駄目なような気がした。だってソキは妖精にだって言わなかったのだ。つまりロゼアにもメグミカにも、妖精にも内緒で、いなくなったことがバレないで、『本』を置いてこなくてはいけないのである。城のひとにだって内緒なのである。むりである。
 それでも、そう思っても、ソキは諦めずに試してみることにした。勿忘草の『本』を抱えて、よじよじと寝台から降りようとする。すぐに歩み寄ってくるロゼアに、ソキはきりりとした顔で言い放った。
「ロゼアちゃん? あっちむいてて欲しいですぅ!」
「うん? ……うん? あっち?」
「メグちゃんも、めぐちゃんもですよぉ。皆、ちょっとだけ、あっち見てて欲しいです!」
 どうしたんだ、ソキ、と不思議がりながら、ロゼアがてきぱきとソキに靴を履かせて立ち上がらせる。てしてしと足踏みをして歩き心地を確かめてから、ソキはロゼアとメグミカ、世話役たちが言う通り、一斉に明後日の方向を向いているのを確認してから、とてちてててっ、と部屋の扉へ向かった。予行演習なので魔術は使わない。目指すはその先の廊下である。
 しかし戸口まで残り数歩、という所で後ろからひょいと抱き上げられる。
「ソーキ、どこ行くんだ?」
「はにゃぁん! ロゼアちゃんたら、あっち見てなきゃだめですううぅ……!」
「お散歩したいの? いいよ、一緒に行こうな」
 ちたちたしても離されることはなく、ソキは寝台の上に連れ戻されてしまった。これではいけない。いけないのである。むむぅ、と作戦を練りながら、ソキは寝台をころころ転がった。どうにかずっと、あっちを向いてもらっているままで、行ったり来たりしなければいけないのである。もしくは身代わりを立てるしかない。ソキはアスルを引き寄せると、そのつぶらな瞳と真剣に見つめ合った。
「アスル……。アスルをソキだと思ってもらうしかないのでは……。うーんと、うーんとぉ……!」
『ロゼア。ソキさん、なにか悪だくみしているようですが……?』
「ソキ、わんぱくしたらいけないだろ」
 ため息をついたロゼアにひょいとアスルを取り上げられて、ソキはぷっぷく頬を膨らませて抗議した。わんぱくではないのである。悪だくみでもないのである。ソキは真剣なのである。ロゼアはうんうんそうだな、ソキはなにに真剣なの、と言って『花嫁』を寝台に横にさせ、薄布をかけて腹をぽんぽんと手で撫でた。すぐに、うと、うとっ、ふにゃっ、としながら、ソキはくちびるにきゅぅっと力をこめた。
 ないしょである。
「ソキ、そきにはぁ……じゅーだい、にんむ、あるですぅ……。うにゃ……う、うゅ」
「重大任務があるの? そうなんだな、ソキは偉いな。偉くて可愛くて眠いな。誰かに言われたんだろ? 誰?」
「ふにゃぁあ……んと、んっとぉ……」
 誰、だったのだろう。あの少女は確かにリトリアではあるのだけれど、その名を告げることは躊躇われた。その名で呼ぶにはあまりに変質してしまっていた。枯れた花色の瞳。それを思い出しながら、ソキはすぅ、と息を吸い込んで。ころりと眠りに落ちながら、また声を聞く。『本』を置いてきて欲しいの。彼の元に。ソキちゃんが悪い訳じゃないの。諦められない。今日しかない。もう、今しかない。
 これを逃せば間に合わなくなる。さあ、これがお手本。これが見本よ、ソキちゃん。
『あなたの『本』を置いてきて欲しいの。彼の元に』
 妖精の瞳で。魔力を読み解くその瞳で、ソキは確かにそれを見ていた。はっ、と息を吸い込んで瞼を持ち上げる。くしくし目を擦って身を起こせば、そう時間は経っていないようだった。差し込む日差しはまだ朝の名残を留めている。ソキの妖精はまだ戻っていなかった。ロゼアは机に向かって書きものをしていて、ソキに目を向けて微笑んだのち、また作業に戻ってしまった。ソキが寝台から動く気配を見せなかったからだろう。
 これが終わったらお昼前のお散歩に出かけような、と告げられるのに、眠たさで口を半開きにしながらこっくり頷いて。ソキはそっと、そっと、『本』に指先を押し当てた。精巧なるソキの写本。時の彼方から与えられたこの『本』があれば、言葉魔術師がいなくとも、ソキの魔術の助けになる。ゆるゆる、ゆっくり、編み上げる。そっと、そっと、繊細な糸をちいさな針孔に通すように。そっと、そっと。
 ぱた、とロゼアが持っていた万年筆を取り落とした。目を擦り、眠気に抗えぬ様子で身を伏せる。シディもロゼアの頭からずり落ちて、机の上で動かなかった。メグミカは壁を背に座り込んで目を閉じていて、室内の世話役たちも同じように眠り込んでいる。急激な意識の喪失に倒れ込む者はなく。室内は眠りに支配されていた。ソキはちょっとくちびるを尖らせて、ちょこり、首を傾げる。
 あの少女が残して行った術式だけでは抜け出すのが難しいと思ったから、そこに眠りを足したのはソキだった。ただしその発動条件は、その者の意識がソキから一瞬でも逸れることが難しい場合のみ、に限った筈である。こんなに、なんでもかんでも眠らせるつもりはなかったのだ。同じ部屋にいる以上、その者たちの意識が一時だって『花嫁』を見失うことはない、という理解を持たないまま、ソキは『本』を持って寝台の端ににじり寄った。
 ロゼアと約束をしてしまったから、お昼の前には戻ってこなければいけない。手を繋いで、一緒にお散歩をするのだ。ソキは履きやすい布の靴を選んで立ち上がり、部屋の戸口をじっと見つめる。歩いていくなら約束には間に合わない。それにきっと、魔力も底をついてしまうだろう。方法は限られていた。ソキはきゅっと『本』を抱きしめると、てちてち、と戸口へ歩み寄った。『お屋敷』の常の習いで、そこに扉はない。開け放たれたがらんとした空間に、けれど手を伸ばす。
 そこに『扉』があるように。そこに『扉』を描き出し、そうすれば、望む場所まで己の身を運べるのだと、予知魔術師は知っていた。とん、と踏み出した足を置いたのは、もう知らない場所だった。戸口から出たのなら、そこはまだソキの『区画』。廊下が続いている筈なのに、ソキは別の室内に立っていた。明るい光が窓から室内を満たす、眠る為の部屋である。棚と机があるがそこにはなにもなく、寝台の傍に椅子が置かれているが、誰の姿もない。
 寝台にはひとりの男が眠っていた。規則正しくゆるゆると上下する胸の動きが、男が本当に、ただ穏やかに眠っているのだとソキに知らしめる。明るい部屋だった。地下牢ではない。砂漠の城のどこかではあるだろうが、室内に見覚えはなく、部屋の扉は閉じていたから廊下から場所を推測することもできなかった。ただ、窓からは『お屋敷』の尖塔が見えた。近くにいたのだ、とソキは思う。男は暗く鎖された地下牢ではなく、明るくて穏やかで、あたたかい場所で眠っていたのだ。
 それを成したのは王ではないかも知れない。だが、王がそれを許したからこそ、シークはこの場所で眠っている。ソキはととと、と寝台の傍に寄ると、眠る男の傍らに、そっと勿忘草の『本』を置いた。そこに灯る意思はなく。男も目覚めることはない。墓標のようだ、とソキは思う。この『本』は男の墓標であり、ソキはそれを置きに来たのだ。おやすみなさい、とソキは囁く。
「……おやすみなさい、シークさん。妖精ちゃん」
 眠りを祈る言葉であり。永遠の、別離の言葉でもあった。目を閉じて。とと、とソキは寝台から離れていく。包み隠されるように、その姿が部屋から消えても、それを知る者はなく。醒めることのない眠りだけが、室内にある全てだった。



 わーるいーこだーれだ、とくすくす笑いながら、砂漠の筆頭が戸口に顔を出したのは、その日の夕方のことだった。それだけで事態を察したシディが、やっぱり、と呻いてソキに視線を向けて寄こす。自白を促す視線だった。そっちの方が罪が軽くなると言いたいらしい。ソキはぴっかーっ、と輝く笑みで知らないふりをすると、頭を抱えてよろよろと漂って来た己の妖精に、おかえりなさいですぅー、と声をかける。
「リボンちゃん、どうしたの? 頭が痛そうです。ソキがなでなでしてあげますからね」
『頭痛の原因はソキよ反省しなさい……! なにしてたの……!』
「しー、らー、なぁーい」
 その返事がすでに、悪いことをしました、と言っているようなものである。妖精の呻きにもぷいっと顔をそらして、ソキはいらっしゃいませですぅー、とジェイドとましろいひかりを出迎えた。どうぞお入りください、と礼儀正しく告げると、砂漠の筆頭はうっとりするような笑みでありがとう、と囁き、ロゼアにこんばんは、と声をかけてから室内に立ち入った。
「ロゼアは、来た事情は察しが付くね? その件だよ」
「……すみません、確認させてください。午前中の……午前中のことでしょうか……?」
「そうだよ、今日の午前中。恐らくはこの室内にいた全員が、五分から十分の意識喪失があった筈だ。そうだね? ……そんな筈がないのに、気が付いたら寝ていた。急遽、全員が医師の診察を受けたが、原因は不明。疲労ではなく、病でもない。唯一起きていたと思われるソキは、知らない、大丈夫、内緒、そんな言葉を繰り返す。……こんな所かな? ロゼア?」
 一から十までその通りである。ロゼアは虚無と見つめ合う眼差しで、その通りです、と告げ、弱り切った視線を『花嫁』に向けた。午前中のことだった。『学園』ならばいざ知らず、ソキがそこにいるのにロゼアが意識を失うなんていうことは、あってはならないし、ありえないことだ。共に寝転んで眠りにつく訳でもあるまいに。いつの間にか机に伏せていて、しかもその自覚すらロゼアにはなかった。
 ふっと目を覚まして、そのことを自覚して心臓が冷えて止まるかと思った。すぐそこに、うっとりと楽しそうにロゼアの寝顔を覗き込んで、あっおきちゃったですぅー、と蜂蜜みたいな声で笑うソキがいなければ。即座に姿を見つけることさえ出来なければ、剣を持って当主の元に走り込むことさえしていただろう。ロゼアはすぐさまソキを抱き上げて体調や姿に異変がないかを確かめ、同時に、跳ね起きたメグミカの恐怖に染まった視線を受けた。
 なにが起きたのか分からない。あってはならないことが起きた。訓練を受けた『傍付き』の『補佐』は混乱と恐怖を瞳によぎらせながらもそれを一瞬で仮面の下に押し込め、ロゼアの腕できゃあきゃあはしゃぐソキに、本物の安堵で胸を撫でおろした。世話役たちも同様だった。一人なら体調不良、二人なら食事にあたったかを疑っただろう。三人を超せば毒を。しかし、全員。『傍付き』を含めた全員の意識喪失など、ありえない異常事態だった。
 ロゼアは即座に当主へ報告を走らせようとしたが、それをとめたのがソキである。『花嫁』は悪事が露見するのを恐れるあわあわとした落ち着きのなさで、ロゼアを止め、メグミカに頷き、世話役たちを見回して大丈夫ですよぉ、と言い切った。きっと皆、疲れていたに違いないです。きっとそうです。くぴっと眠っていて気持ちよさそうだったです。寝てただけ、眠ってただけですよ。だからね、なんでもないの。大丈夫なの。誰かに言っちゃだめなの。ないしょなの。
 隠さず頭を抱えたのはシディである。リボンさんボクには無理ですはやく帰ってきてくださいお願いします今すぐ帰ってきてくださいボクには無理ですと呻いたあと、シディは妖精としての義務感に溢れた顔つきで、ソキに静かに問いかけた。魔術を使いましたね、と。ソキはロゼアの腕の中で、ぴかぴか輝く笑みでもって、しーらーなぁーい、と言った。シディがなにを聞いてもその返事だった。
 ロゼアが宥めてもどんなに聞き出そうとしても、ソキはぷいっとそっぽを向くか、知らないです、大丈夫なんですぅ、内緒だもん、なーいーしょぉー、とごねてごねて、それ以上を告げることはなかった。ロゼアはとりあえず世話役たちに交代で医師の診察を受けさせ、自身とメグミカも交代で、ソキにも腕利きの薬師を呼んで体調を確認させた。万一のことがあってはならないからである。
 先々代の当主側近でもあった年嵩の女は、ぷっと膨れるソキに苦笑しながらも、お元気でらっしゃいますよ、と告げて医務室へ戻って行った。その頃には騒ぎを聞きつけたラギが様子を見に来ていて、そこからロゼアは、室内以外に『お屋敷』に異変がなかったことを確かめ、一先ずは胸を撫でおろしていたのだが。それがようやっと落ち着いたと思えば、砂漠の筆頭そのひとの襲来である。
 ロゼアは寝台に歩み寄り、ソキを腕に抱き上げながら問いかけた。
「俺から聞いておきますので、質問事項を置いて行ってくださることは?」
「大事にならないように俺が来たんだよ、ロゼア。意味は分かるね?」
『どうにか誤魔化してもみ消してやるから、余計な介入はするんじゃないってことよ。アタシもこればっかりは庇えないわ……』
 妖精は、ソキから目を放したことを心底悔いているようだった。溜息を付きながら頭の上に着地されたので、ソキはふにゅうぅ、と困った声をあげながら主張する。
「リボンちゃん? ソキ、いけないことはしてないですぅ」
『良いか悪いかはソキが決めることじゃないし、そもそも帰省中の魔術師のたまごは魔術の発動を禁じられているの。まさか忘れてたなんて言わせないわよ? 全く、なにをしたのか知らないけど……あぁあああぁあ』
 呻いて、妖精はソキの頭の上にぱったりと倒れ込んだ。そのまま動かなくなってしまう。時折、あぁ、あー、と呻いているので意識はあるのだろう。リボンちゃん大丈夫ですぅ、と頭の上にぺたりと手をのせて不安がれば、妖精は舌打ちをしてソキの指を蹴って来た。大丈夫そうだった。ロゼアが達観した笑みでなにも言わないでいるのに、砂漠の筆頭はふふっと肩を震わせて。
 さて、と言って、ロゼアが書きものをするのに使っていた椅子を引き寄せ、そこに静かに腰かけた。
「用件は告げた通りだ。魔術師の機密にも関わることだから、ロゼアとソキ以外は部屋から出てくれるかな?」
「……口外するような者たちではありません。御存知である通り」
「王の代行証を持つ、砂漠の魔術師筆頭である俺が、部屋から出せと言ってるんだよ? ……と、言わないと、駄目? 分からない?」
 なるほど、こういうことをするから嫌われるんだな、と理解に満ちた視線を、妖精が砂漠の筆頭に向ける。ロゼアはすっと表情を消して分かりましたと呟き、メグミカに言う通りにするように、と告げて下がらせる。ごめんね、とちっともそんな風に思っていない笑顔で、ジェイドがメグミカと世話役たちを見送った。声を聞こうとしなければ廊下にいてもいいよ、と囁いてから、男はソキに向き直った。
 もぞもぞもぞ、と居心地が悪そうにロゼアの腕の中で動く『花嫁』に。ジェイドはくす、と甘い微笑みを落とし、囁いた。
「こら、わるいこさん。なにしたの?」
「……んん。んぅ……ちがうもん……」
「そう? あのね、わるいこさん。教えておいてあげるけど、魔術の発動というのは、その効果がどんなものであれ、魔力が動いた痕跡というのは残るんだよ。……わるいこさんがソキじゃないとすると、ロゼアかな?」
 ちら、と『傍付き』へ視線を向けられて、ソキはあわあわとジェイドと向き合いなおした。ソキは悪くない。ソキは悪くないのだけれど、もしかして、万一、ロゼアが怒られるようなことはあってはならないのである。ロゼアちゃんは違うの、と庇うソキに、ジェイドはそうなんだね、とうっとりするような甘い笑みで首を傾げる。
「じゃあ、違わないのは誰かな?」
「……んっと、んっとぉ」
「あのね、ソキ。未熟な魔術師が、なにか無意識に魔術を使ってしまったのだとしたら、それはすごく問題だ。『学園』の外に出るのは危険だし、いけないことだよ。分かるね? ……無意識か、意識的な行いなのか。それによって、ずいぶん違うことだよ。ソキ?」
 妖精は叱責と躾を男に委任した態度で、ソキの頭の上で黙り込んでいる。ソキはつむつむと人差し指を突き合わせながら、んんん、と答えにはならない声を零した。
「ソキ、ソキ……知らないでやっちゃったんじゃ、ないもん……」
「そうなの? ……じゃあ、なにをしようとして、なにをしたのかな?」
「あのね、しないといけないことだったの。それでね、ロゼアちゃんの寝顔が可愛いのは偶然のことなの」
 きりっとした顔で告げられて、ジェイドは笑みに吹きだしながらそっか、と言った。
「その、しないといけないことは、今後も起こるのかな? 予知魔術師さん?」
「……ないと思うです」
「それは、どうして?」
 魔術を使った痕跡というのは、それ自体の隠蔽を企てない限り感知されるものである。そうであるからジェイドは、発動の時点で城に現れた魔力に気が付いていたし、妖精もその時点ですでに頭を抱えていた。騒がなかったのはどちらも、それがソキの成したものであるとすぐ理解したからだ。ふんわり、なぜかどんくさく、世界を漂っていく蜂蜜色の魔力。あるいは、砂漠のよく磨かれた金砂のような。
 それは『お屋敷』に現れ、次いで城の一角に現れた。そのでたらめな移動の仕方だけでも、予知魔術師の仕業として推測が出来てしまう上、ソキは遠回りのしぶしぶとした口調であっても、己が成したと認めたのだ。言葉魔術師の元に、しなくてはならない、と思って向かったのであれば。それが未だ、全貌の解明されぬ予知魔術師の性質的な行動であることも考えられる。
 繰り返しあることならば、予め用意を整え、許可を取っていなければならない。そう告げるジェイドに、ソキは考えながらぱちぱち瞬きをした。だって、と口を開く。うん、と優しく促してくれるそのひとに、ソキはすこし悲しげな顔をして、だってね、と言った。
「お別れをしてきたんだもん。さようならをね、したの。もう一回はしないでしょう?」
「……それは」
 なにを、問おうとしたのか。言葉を途中で切って口に手を押し当て、ジェイドは目を伏せて深呼吸をした。数秒、そのまま動かないでいた。ソキはそわそわとしながらロゼアに抱きつきなおし、だからいけないじゃないもん、とぽつりと呟く。そっか、とため息と共にジェイドは立ち上がる。分かったよ、と苦笑して、ジェイドはくちびるを尖らせるソキの顔を、ひょいと覗き込んで笑った。
「わるいこさん。それでも、それは魔術師として許可を取るべき、わるいことだったよ。……二度目は怒られてもらうからね。お返事は?」
「はーぁーいー、ですぅー」
「うん、いいこ。……さあ、そういうことだから、ロゼア。適度に叱って反省させておくこと。それと、心労は募らせ過ぎない方がいいよ。一応、頭痛薬と胃痛薬持ってきたから、差し入れに置いていくね」
 陛下が使ってるヤツだからよく効くよ、と微笑んで、ジェイドは紙袋を椅子に入れ替わりに立ち上がった。補佐たちはもう戻していいよ、と言いながら気負いなく戸口へ向かう背に、ロゼアはお帰りですか、と問いかけた。ジェイドは戸口で立ち止まり、悪戯っぽく笑って振り返る。
「他にも仕事を終わらせてから、城には戻るよ。ハドゥルの顔も見て行かないと、会ってないって拗ねちゃうからね」
「父の心労を募らせるのは辞めて頂けませんでしょうか」
 もちろん。労わってあげないといけないからね、と微笑んで、ジェイドはひらりと手を振っていなくなってしまった。ロゼアは息を吐き、もぞもぞとするソキを抱きなおす。ロゼアも上手く理解しないように交わされた会話を、さて、世話役たちにどう説明したものだろう。頭を悩ませるロゼアの腕の中で、ソキは一人呑気に、ちたちたぱたたと上機嫌に脚を振って。だーいじょうぶですぅー、と歌いながら言った。
 なんの不安も恐れもない。『花嫁』の、蜂蜜色の声だった。



 話し声とは違うなにかに瞼をくすぐられたような気がして、アイシェはぼんやりと目を開いた。おぼつかない視界に入ってくるのは、戸口に立つ王の姿だった。どこか雑に服をまとった、どこかに出かけるとは思い難い姿で、誰かと立ったまま話し込んでいる。緊急の要件や、差し迫った指示を必要とする内容ではないのだろう。王の背に隠れて姿の見えない話し相手からの、くすくすとした笑い声が早朝の空気を揺らしている。
 まったく、仕方のない方だ。不意に鮮明に飛び込んできた声は穏やかな響きをしている。聞き覚えのある声だった。ふ、と息を吐いて、目を覚ましていながらも寝台から動けないでいるアイシェに、王と話し役の声がさわさわと響いては素通りして行く。起きて、瞼を開いて、身体を起こさなければ、という意思は、眠気と疲労の前にゆるゆると形を成さず溶けていく。それでいて眠りに落ち切らない意思が、言葉をぼんやりと受け止めた。
 笑い交じりの囁く声と、頭の痛そうなうんざりとした声が交互に空気を震わせる。ハーディラがかんかんでしたよ陛下、悪いとは思ってるがなんで俺のハレムの女の感情を把握してるんだお前は、仲良しの昔なじみなものですからお手紙が来るんですよねほんとかんかんでしたよ陛下、繰り返さないでいい、一応はなだめておきましたけどあとで陛下もちゃんと謝りに行ってくださいね、やだ、謝りに行きましょうね、やだっつってんだろ、謝りに行きなさいね。
 嫌だって言ってんのか分からないのか、理解はしますが受け入れませんと申し上げております、いーやーだーなんで俺がハーディラに謝らないといけないんだ、だだをこねないでくださいね王の女の管理は彼女の仕事だからですよ、俺の女を俺が連れ出してなにがいけないんだよ俺のだぞ俺の、俺は同意とか合意の話をしております陛下結果ではなく過程のね、なんかお前今日機嫌よくないかジェイド。
 機嫌がよくても悪くても疲れるのでやだ、と言わんばかりの王の声に、アイシェはゆっくりと瞼を開いた。ようやく意識が手元まで、はっきりとした形で戻ってくる。それでいて全身を支配する倦怠感に眉を寄せながらも、アイシェは寝台の上でなんとか身を起こした。幸い、起き上がれるほどの衣服は身に着けていた。そうであるからこそ、王は戸口で人と話しているのだろうが、非礼を晒すことにならずに安堵する。今からでも挨拶をすべきなのだが、寝起きの喉はまだ擦れて水を求めていた。水差しに手を伸ばして陶杯に注ぎ込み、先に喉をうるおす。
 微かな音に気がついたのだろう。はっと振り返った王が、戸口にジェイドを置き去りに寝台まで戻ってくる。しまった、と言わんばかりしかめられた顔は、女を寝かせておきたがる意思に満ちていた。アイシェ、と王は寝台に屈みこみ、その頬に手を伸ばしながら告げる。
「起こしたか。……まだ眠っていていい」
「陛下、わたくしのことは、お気になさらず……。戻られないと」
 もう何日も、王をこうして独占してしまっている。そのことに対する申し訳なさ、罪悪感に眉を寄せながら囁けば、王はあからさまに不機嫌そうな顔をした。頬を撫でていた指が、もにもにと摘まんで弄んでくる。怒り、というよりは拗ねきった目の色に、アイシェはくす、と笑って男に囁いた。
「……シア? ね? 私はもう、大丈夫だから。もう……分かったわ」
 そう告げるのにも、未だ勇気のいる言葉だった。王はながく、その存在を恋しがる女を遠ざけて来た。単純な好意から、恋という感情に変化した瞬間、王はその女の部屋には訪れなくなったからだ。それは鮮やかな程の区別だった。その女が嫌いになった訳ではない、と王は何度も苦言を呈すハーディラに言い訳をしていた、と伝え聞いたから知っている。ただ、もう傍にはいたくないのだと。それがどうしても耐えられないのだと告げて、王はふつりとその花に、水を与えることを止めてしまった。
 繰り返し、繰り返し、何年も。アイシェはその王の行いを、女たちの嘆きを、一番近くで見つめ続けた。だからこそアイシェは、己の感情を隠し続けた。そうすることに長けた己に、心から感謝さえした。喜びに目や口元が緩みそうになるたび、睨みつけるようになる無礼を、幸い王は許していたから苦労はしなかった。赤らんでしまう頬は、怒りや、体質のせいだと誤魔化してしまえばいい。幸福なことに、王はアイシェの言葉を疑わなかった。疑われない為の下地は、ただ苦労して作り上げたものだけれど。
 信頼を得るのは簡単で、重用されるのに長い時は必要ではなかった。ただ、それを続けていくのには努力と苦労が必要だった。恋しく、愛されたがる女の心は時に悲鳴をあげて泣き叫び、もうやめたい、と口に出しそうになったこともある。それでも、その意思を殺し。恋を押さえつけてでも、アイシェは王に『恋をしない女』としてありがたがられ、信頼を寄せられ、重用される茨の道を選んで歩いた。それもまた、己の意思だった。
 離れたくない、どうしても。傍にいたい、どうしても。突き放されたくない、失望されたくない、どうしても、どうしても。どうしても、恋しく。どうしても、愛おしかった。矛盾はあまりに長く時を重ね、ソキの部屋の準備を始められるに至り、そこからの王の感情の変化を、見逃してしまっていた。だって、想いもしなかったのだ。ほんとうに、心から、安心できる場所になれていただなんて。ゆっくりと、ゆっくりと、恋しい、とそう、思われていただなんて。
 愛を。厭うて遠ざけて、どうしようもなく拒否していた筈のその感情を、王が抱いてくれていただなんて。そんなことは。どうして思えるだろうか。どうして期待できるだろうか。どうして、信じることができただろうか。その言葉を受け入れ、その言葉を認めた先に、もし別れがあるのならば、そんなものは到底、承服できることではなかった。だって傍にいたい。離れたくない。その為にどんなことでもすると決めて、そうして、アイシェは長年、王に重用される女として歩んできたのだから。
 しかし、だからと言って。冗談でしょう、だとか。どうしたの、だとか。罠だとか、そんな言葉や、内心を、動揺のあまり全部口に出したのはあまりに悪手であったと、アイシェも己の言動を振り返れば思えるのだ。王が部屋に訪れて、あまりにまっすぐ、好きだ、と告げられて。傍にいて欲しい、と希われて。ぽかん、として、次いで動揺して、感じたのは恐らく恐怖が先だった、とアイシェは思う。喜びよりも恐怖が先だった。期待するより早く、離れたくない、とそう思った。
 信じなかったのではなく。ただ、受け入れがたかった。内心を見透かされたのだ、とすら感じて、だからと言ってどうしてそんなことを告げるのだろう、と思った。重用の価値すらなくなったのだと、そういうつもりなのだろうか。だって王を恋しがる女は、皆遠ざけられてきた。これまで、ひとりの例外もなく。許されるのは親愛だけだった。アイシェの恋は許されない。愛されたい、この気持ちは、王に許されるものではない。
 数日、不毛なやりとりが続いた。王はただ愚直に言葉を告げ、女はそれを受け入れなかった。困っていた。夜も上手く眠れない程に。離される恐怖ばかりがアイシェを支配していて、ハーディラの呆れと困惑と心配と苛立ちの入り混じった、王へのお説教も意識を上滑りしていくだけだった。これまでどんな仕打ちをしてきたか思い出しなさい、と王に怒るハーディラに、いいの、と告げる言葉は喉にひっかかって、上手く吐き出せもしなかった。
 選んで望んでそうしたのだ。アイシェが、他ならぬ自分と見つめ合って決めたのだ。だから、それを、そんなことを、王に怒らないでいて欲しい。言葉を選んで、そうするに至ってもまだ内心を押し殺して、隠して告げたアイシェに、王もハーディラも溜息をつき。確か王は、もういい、と言ったのだ。分かった、と言って立ち上がり、アイシェについてくるようにと命じた。見送らせる為だ、とアイシェは思って従った。ハレムの出口まで見送って、そして。また訪れてくださる時を、きっと息を殺して待つのだろうと。
 それは半分正解で、もう半分は完全に間違っていた。ハレムの出口まで視線を交わさず、言葉もなく付き従わせた王は、それでは、と見送ろうとするアイシェに無言で向き直って。唐突にその体を横抱きにすると、堂々とした態度でアイシェをハレムから連れ出した。ぽかん、としたのはアイシェだけではない。ハレムの門番も、遠くから見守っていたハーディラも、口を半開きにして王の行いを茫然として見送った。
 ハレムの女は王のものである。王の財産である。しかしながら、そこから勝手に連れ出すということは、王とてそう許されることではない。ハレムに住む女たちの規約がそれを固く禁じ、また、王もそれを遵守させる立場だからである。許可なくその外へ足を踏み出すことは、女にとっては脱走となる。王がそれをさせたら、どうなるのか、はアイシェには分からない。分からないまま連れ出され、王のごく個人的な部屋に連れ込まれて。
 分かった、と寝台に下ろされて、アイシェは告げられた。ちゃんと分かるようになるまで、ずっと愛させろ。それから、ずっと。時間と日の間隔が曖昧になるくらい。アイシェはただ、王に寵愛された。ただ体を繋げて欲を吐き出されるばかりではなく。触れる手はいとおしく、向けられる目は優しかった。顔を覗き込んで言葉は重ねられ、視線をそらすことは許されなかった。謝罪と告白は、繰り返し重ねられた。何度も、何度も、何日も。
 言葉が零れたのは事故だった、とアイシェは思う。信じたのではなく、受け入れたのではなく、それはただ事故だった。疲れ果てて、混乱して、ようやく浮上してきた期待と、それを押さえつけようとする恐怖と混乱が、アイシェの口から言葉を零してしまったのだ。好き、と。言った。あなたが好き、と。その瞬間の王の顔を、シアの表情を、アイシェはこの先きっと、永遠に、忘れることができないと思う。
 なんて嬉しそうに笑うひとだろう。心の奥底まで、まっすぐに、その喜びが落ちて来たから。ようやく、アイシェはもしかしたら、と思ったのだ。ほんとうに、愛してくださったのかと。ほんとうに、恋しいと、思ってくださったのか、と。アイシェが、シアを愛していても。王の傍にいて、離れないで、遠ざけないでいてくれて、そして。それを、望んでくれているのだと。想いを交わす。その言葉の意味を。
 差し出して、差し出されて。受け取って、受け取られて。それを、この先ずっと、大事にしていく。大事にされていく。それがようやく、許されたのだ、と知って。アイシェは少女のように、声をあげて泣いた。はじめて、言葉にして王を詰った。辛くて、苦しくて、どうしようもなく。愛していたけど、愛していたから、耐えられなかった。怒って泣くアイシェを、王は愛おしそうに抱き寄せて。どんな言葉も、否定することなく、遮ることなく聞いて、受け止めて、悪かった、と言った。
 ずっと悪かった。ありがとう、と告げられて、アイシェは己の献身も正しく、報われていたことを知った。心を殺して、それでも、心から王に仕えた。捧げて、支えたいと願って、そうしてきた。それも正しかったのだと。それも、報われていたのだと。知って、アイシェは泣いて泣いて王を困らせたが、遠ざけられることはなく。室内から出されることもなく。ハレムから連れ出されて何日経過したか分からないまま、今に至る。
 そろそろ戻して、もう疑ったりしないし、隠したりしないし、あなたの気持ちは分かったし嬉しいし、と告げたのは恐らく、昨日、もしくは一昨日くらいのことである、とアイシェは思っているのだが。やだ、とこどもっぽくぶすくれた王に抱きつぶされて、動けず、朝を迎えてしまった、ような気がしているのだ。もう、シアったら。本当に大丈夫よ、あなたの想いを疑ったりしないわ、とくすくす、心からの幸福にアイシェは笑って囁くのだが。
 シアはいまひとつ疑いを消さないまなざしで、アイシェの頬をもにもにと摘まんで弄んだ。
「……どうだかなぁ」
 真剣味のない、それでいてため息混じりの疑いに、アイシェはむっとして王を睨みつけた。大丈夫ったら、なにがだよ、分かりましたと言っているのよ、だからなにがだよ、とさっそく言い争いが始まりかけるのを、おかしくて堪らない、というような笑い声が打ち破っていく。肩を震わせて笑いながら、戸口からジェイドが王を呼ぶ。
「俺はお暇しましょうか、聞かれるのは恥ずかしいでしょう? 我が王妃」
「しっし、さっさと帰れ。お前ちょっと顔の良さと声の良さを控え目にしてから出直してこい」
「シア! もう、シアったら……!」
 子供じゃないんだから、とアイシェがたしなめても、王はむっつりした顔で黙り込んで、嫌そうな視線を戸口へ向けるばかりだった。本当なら追い払いたくはないが、居続けられても困る、というような矛盾した感情がありありと見える。それにまた、楽しそうに。嬉しそうに爆笑する砂漠の筆頭は、王が言うように確かに機嫌が良いらしい。
 笑いすぎて浮かんだ涙を拭う仕草さえ、どこか麗しく人の目に触れる男だった。
「よかったですね、陛下。聞いてはいましたが、目にすると安心感が違います」
「……シア。あなた、なにを仰ったの?」
「なんだその疑いの目は……」
 疑ってはいない。恥ずかしいことまで暴露されていないか、と思っているだけである。いいから、と促すアイシェに、シアはむっとした顔をして。お前が、俺がお前を好きだって理解したし、お前も俺を好きらしいって聞きだせたから。そろそろ政務に戻る、などという報告をしただけだ、と告げる王に、アイシェはため息をついて手を伸ばした。そうされていたように、もに、と頬をつまんで軽く引っ張る。
 なにしてんだお前、と怒った声を出す王に、アイシェはきっと目を怒らせて、違うでしょう、と言い切った。
「らしい、ではないわ。……好きよ、シア」
「……ああ、俺もだ」
 ふふ、と穏やかな笑い声と共に扉が閉められる。はーい、解散、午後にもう一度様子を見に来るくらいで大丈夫だから解散、安心していいよこの国の未来は明るいからね、というジェイドの笑い声と共に。いっそ怒号に近いような勢いで、やったーっ、と魔術師たち、兵士たち、古参の家臣たちの声まで、泣き声交じりに響き渡ったので。王は脱力して寝台に沈みこみ、アイシェは恥ずかしさで顔を真っ赤にしながらも。くすくす、と笑って王の髪をそっと梳るように撫でた。
 もう明後日で新年になる、と知ったアイシェが。いいからお仕事に戻りなさい陛下、と怒って王を不機嫌にさせる、数時間前の出来事である。

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