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 己の魔力がなにを可能とし、なにを不可能とするのか。その把握と制御は魔術師の絶対命題であるから、混乱から立ち直らないまでも、ラティはその勉強に乗り出した。と言っても、廊下をふらついていた白魔法使いを捕まえて、どういうことなのよ話しなさい、と胸ぐらを掴んで締め上げるのが第一段階である。手頃だが、これ以上ない方法とも言えた。
 なにせ相手は魔法使い。現在存在を確認されている三人のうちひとりである。一人は星降のレディ、もうひとりが学園在籍中のナリアンであることを考えれば、心ゆくまで話を聞ける相手など一人しかいなかった。ラティは、待って締まってるごめん締まってるいや息苦しいっていう意味でねあのほんとごめんほんとしまっ、ぐえっ、と言って動かなくなった白魔法使いを魔術師たちの詰め所に放り込み、部屋の扉を全開にして、いいから話しなさいと言い放った。
 なにが、ではない。もはや、知る事情の全て、知識の全て、経験の至る所の全てを、である。ぽいっとされた白魔法使いに、さすがに魔術師たちはすわなにごとかと一瞬腰を浮かしかけ、ラティの姿を見て厳かな表情で着席した。怒り狂うラティを刺激してはならない。そういう気配を漂わせる者たちの中心で、しかしのんびりと身を起こしたフィオーレは、しみじみと感心した様子で開かれた扉に頷いた。
「いや俺と二人きりでもないんだし、扉は閉めていいと思うよ?」
「なんでそんなに口を災いの元にしたいの? 趣味?」
 ラティの言葉は室内の総意である。言わなければいいのに、と同情さえ滲む視線を向けられても、残念なくらいフィオーレはめげなかった。そういうんじゃないけどさー、と言いながら床に座り直し、邪気のない笑みで首を傾げる。
「ラティのそういうとこ、いいなーって思うだけ。義理堅いというか、貞淑というか」
「遺言はそれでいいのね」
「えっ、あれっ? 待っていま俺褒めただろっ? 褒め言葉だろーっ!」
 顔を赤くしたラティはうるさい、と言い切って、フィオーレの胸ぐらを掴み上げて平手打ちをした。ぱぁああんっ、と気持ちの良い音が響く。コイツほんと人の心がないというか、機微が理解できないんだな、と戦慄されながら、白魔法使いはぐずぐずと頬を擦った。拳ではないだけ手加減されているのが分かって、逆に反省する。
「……もう、俺、必要なことしか言わないでいるな。うん。……え? なに? なにが聞きたいの? 星降の陛下のことだったら、外堀は埋まりきってるし諦めて式の日取り決めるのが一番だと思っ、ぐえ」
 数秒も保たないんだよなぁ、うちの魔法使いの失言癖、と諦め気味の視線を集中させながら、フィオーレはラティにぎりぎりと服を捻って締め上げられた。それは、いま、聞いてない、良いわね、とゆっくりはっきり言い聞かされて、白魔法使いは、はい、と言った。それ以外のどんな言葉も許されない気配を察していた。
 よろしい、とばかり手を離して、ラティは息を吸い込み、手近な椅子を引き寄せて腰を下ろす。
「……魔法使いってなにができるの」
「うーん? 基本的には、魔術師と変わらないよ。できることができる、できないことはできない。属性と適性に縛られるし、そこを超えていくことは不可能だ。……そういうことじゃなくて?」
 こてん、とあざとく首を傾げるフィオーレに、ラティは額に手を押し当てて呻いた。どうしてこう身近な顔のいい男どもは、その使い方を分かっていて利用するのか。まぁフィオーレだから殴れるけど、と低い声で呟くラティに、白魔法使いは待ってそれどういう意味ひどいひどいと騒いだが、占星術師は訴えを黙殺した。そのままの意味だし、別にひどくはない。たぶん。
 とん、と額に半端に折りたたんだ指の背をあて、ラティは目を閉じて思考を巡らせる。なにか可能性で、なにが不可能か。どんな制御ができて、どんな風になって。なにが、できないのか。なにが。なにに、なったのか。己という存在が。いま、どう、あるのか。ちっ、と気心の知れた仲間内でしか絶対にしない、品のない舌打ちを響かせて。ラティはゆっくり目を開いた。
「以前と……変わらないということ?」
「そうだよ、とも。違うよ、とも、今は言ってあげられないかな。精密検査、受けてないだろ? お医者さまのじゃなくて、魔術師の」
「私あれ嫌いなのよ。心が淀むから」
 表に出さないだけで。そうつとめて努力して握り潰していただけで。嫉妬を感じない訳ではないのだ。他の魔術師には、あまりに容易く出来る祝福すら、ラティにはおぼつかなかった。入学したての頃のことだ。あまりの劣等感に、息をして吐き出すことすら苦しかった。できることに、できないことに。なにかの間違いではないか、と言われて、ラティもそう思った。
 できないことは、なにかの間違いで。魔術師であることは、なにかの間違いで。そうであることを祈った。けれどなにひとつとして変わらず。なにひとつできるようには、ならず。できることに、縋った。それは魔術師としての才覚ではなかったけれど。それまで生きてきた己の、努力によって研鑽によって残った、取り上げられないものだったからだ。
 絶望しなかった訳ではない。ひとが思うほどに、その感情に飲まれなかったというだけだ。は、と苛立った息を吐き出して、ラティは忌々しく眼前を睨みつける。
「魔術師としての才能、魔術の適性、能力、才能……呼び方なんてどうだっていい。それをね、できない、できないって突きつけられ続けるのよ。お前にできることはなにひとつない。……いいえ、ひとつだけ。ひとつだけ、なら、できることがあるって。……わたしが、苦しくないとでも、思う? 納得して、全部納得して、受け入れてるとでも思うっ? それが楽しいとでも思うっ?」
「……でも、しないといけないだろ、精密検査」
「分かってるわよ私が魔術師としての義務感で劣等感を殺すまで待ちなさいって言ってるのよ……!」
 ほんとに余裕がないんだなぁ、と感心さえしながら、フィオーレはラティを見つめて頷いた。メーシャは知る由もないだろう。見せたこともないだろう。ここまで余裕のないラティはあまりに希少で、フィオーレも二回か三回くらいしか見たことがない。魔術師の中でも、特に己の感情の制御に長けた相手だ。フィオーレがぼんやりしている間に、ラティは長いため息をついて、もう気持ちを収めてしまった。
 あー、と濁った声が室内に漂う。
「ごめんねみんな……当たり散らしてるね……」
「いや……。心痛というか、心労は察するに有り余るところがあるから、気にしなくていいし……。なにもできなくてごめんな……」
「陛下は、なんて?」
 砂漠の陛下のことである。そういえばご結婚もちゃんと祝えてない、と頭を抱えるラティに、魔術師たちはなんとも言えない表情で視線を交わしあった。
「ラティのことは、できるだけそっとしといてやれよ、って……。いろんな事情に首突っ込んだりするんじゃないぞ、め、大変なことになるからなって」
「あー、あーあーあー陛下漏れてます、めんどくさいが漏れてます隠しきれてないですあー、ああぁー」
 敵じゃないけど味方がいないいいぃいでも巻き込むわけには行かないからみんな安全な場所でいつもの通りに過ごしていてああぁああ、と呻くラティに、魔術師たちは無言で目頭を押さえた。ここは私に任せて先に行け、という雰囲気がある。見捨てたくはないんだけどさぁ、と空気を読まずにフィオーレが言い放つ。
「相手が悪すぎんだよね」
「分かってるわよ。分かってるんだけど、誰かこの失言癖、穴掘って埋めてくれない?」
 虐待だ拷問だ、などぎゃんぎゃん騒ぐ白魔法使いに、ラティは冷徹な顔で頷いた。虐待で拷問だ、なにが悪い。日当たりと水捌けの良さ悪さは選ばせてあげるわよ、と告げるラティに、そもそも埋まりたくないですごめんなさい、と白魔法使いは白旗をあげる。ちっ、とまたラティは舌打ちした。降参するなら抵抗するんじゃない。苛々しながら椅子に座り直し、しかし、即座にラティは立ち上がった。
 はー、とため息を付きながらつかつかと開け放ったままの扉に歩み寄り、何度も、何度もそうして身に染み込んでいるのが分かる仕草で、星降の騎士の一礼をした。
「何度も申し上げた記憶がありますが、護衛もなく一人で出歩かないでください、我がお……いえ、陛下」
「うん? ほら、俺の国じゃないしー、良いかなって」
「あなたの国ではないからこそ、なお必要なものというのはありますからね……!」
 そうして出迎えられるのが分かっていた態度で。ひょい、と室内を覗き込むように現れた星降の王は、絶句する魔術師たちに向かって、やっほー、と笑顔で手を振った。軽い。あまりにも挨拶が軽い。そしてラティが指摘した通り、ひとりである。廊下を通りがかった文官が、一度普通に通過しかけ、ぎょっとした顔で三度見してから全力で何処かへ走っていく。魔術師たちは各々の仕草で、主君の胃の痛みの為に祈った。
 あっははは、と笑いながら服薬の準備をする、筆頭の幻覚が見える。は、と息を吐いて立ち上がったラティが、恭しく星降の王に手を差し出した。どうぞ、と囁かれるのさえ当然の、それでいて心底嬉しそうな顔をしてラティの手を取って。星降の王は導かれるままにラティの座っていた椅子に腰かけ、にこにこにこ、とご機嫌な笑顔で首を傾げてみせた。
 当たり前の顔をして傍らに跪く、かつての己の騎士の。顔を覗き込んで問いかける。
「それで? 決心ついた?」
「ついてません。……時間をください。返事はします」
「うん、いいよ。ラティがそう言うなら、言うこときいてあげる」
 どれくらい欲しいの、時間、と問われて、ラティは四日ほど、と言った。
「とりあえず、目処だけつけてまた申し上げます。目処をつけるのに四日、ほど……陛下、お戯れはなさいませんよう」
「うん? 遊んでないよ」
「分かりました言い方を変えます。話してますので! 話してる最中に! 触らないでください!」
 んー、と間延びした声で返事がされる。頬を撫でた手で顎を捉えられ、する、と視線が重ねられた。目を覗き込まれる。
「なんで?」
「いっ……いままで、そんな素振りなかったくせに、急にこっち来ないでください……!」
「そんな素振りあったよ。分かってなかったのお前だけ」
 こそこそ控室から出ようとしていた同僚たちが、一斉にラティを振り返って真顔で頷いた。いやなんで分かってなかったのかが分からないくらいそうだったよ、と失言癖が言ったので、ラティは迷いのない笑顔でそれ埋めてきて、と言い放つ。はーい、まかせてー、とこれ幸いと白魔法使いを引っ張って退室して行く同僚たちに、ラティは額に手を押し当てて呻く。足に力が入らない。
 中腰からぺた、と床に座り込んでしまっても、伸ばされた手が引かれることはなかった。椅子に座ったまま身を乗り出してくるのを、ぐい、と手で押しやって顔をしかめる。
「……もしかしてずっと私のこと好きでしたか?」
「うん、もちろん。ずっとラティと同じ気持ちでいたよ」
「あー、あーあーあー、あーああぁあぁあ……」
 もう好きじゃない、とか。恋しくない、だとか。そんなことを微塵も思っていないその態度が、恥ずかしくて嬉しくて複雑で、どうしようもない。ラティは顔を両手で押さえてうずくまった。うん、と不思議そうに笑う声が、懐かしい近さでやんわりと響く。
「だから、ずーっとラティのこと離さなかっただろ」
「……元、あなたの騎士に目をかけていただいているだけかと、思うじゃないですか」
「お前以外と二人きりになったことないよ。なんだと思ってんの。……部屋に連れ込んだ女の子なんて、ラティしかいないよ。魔術師もね」
 下心がバレないようにあんまり触ったり引き寄せたりしなかっただけだろ、と笑って。星降の王は、耳まで真っ赤に染まった女性に、幸せそうに囁いた。
「お前だけだよ、お前だけ。ずっと」
「さ、砂漠の、魔術師に、した、くせに」
「してないよ。貸しただけ。……ラティがシアに誠実に仕えてたのは知ってるよ。見てて分かったし、ラティのそういう誠実さは好きだよ。そこで気持ちの整理がつかないとか、あるだろうから、だからラティの欲しいだけ時間をあげる」
 でもね、と囁く男の手が、女の赤く染まった耳をやわやわと撫でる。
「戻っておいで、と俺が言ってるんだよ、俺の騎士。俺の魔術師。輝ける星」
「わ……わたし、魔術師を引退したら、星降の王家の護衛をして余生を過ごすのが老後の夢だったんですけど……! 陛下と、きれいな、お嫁さんと……その、王子や、王女を、守るのが、わたしの」
「だ、め」
 一言である。微笑みながら、言い聞かせる響きでの、一言である。ラティは涙目でぐすぐすと鼻をすすり、星降の王たる男を睨みつけた。
「もう帰ってください……。あなたがいると、揺らいでしまうので。それに、お仕事はどうしたんですか。まさかまた脱走なさったのでは? あぁあああぁもー、なんで護衛がいないんですか……!」
「うん? 口説きに行くのに護衛連れてくのは、ちょっとなって、留守番させただけだけど」
「しごとは」
 じっとりと睨むと、くすくす、甘く笑われる。
「それくらいの時間なら作れるよ。知ってるだろ」
「……知ってます、けど」
「まあ、いいよ。困らせたくないから帰ってあげる。……シアによろしく言っといて」
 はい、と返事をしようとした声が凍りついたのは、絡めて引き寄せられた指先に、口づけられたからだった。ふ、と熱と吐息を肌に掠めさせて、それじゃあまた、と星降の王は立ち上がった。へたり込むラティをひょい、と入れ替わりに椅子に座らせて、悠々とした態度で歩き去っていく。見送って、数秒して。ううぅ、と呻いたラティが、ぐずっと鼻をすすり上げる。
 許容量を超えたらしかった。



 そうか失うことになるのか、と思って砂漠の王は入って来るなり忙しく動き回るラティを見つめた。やっているのは窓を開けて風を通したり、布を引いて鋭い夕日を遮ったりという他愛もないことなのだが、そうした身近な細かいことに、この魔術師はよく気がつくのだった。す、と冬の風が通っていくのに満足そうな顔をして、ラティが室内を振り返る。
 視線が合わないのはまだすることがあるのではないかと確認しているからで、風で紙が飛んでしまわないかを見た為だった。幸い、今日はそんなに風が強くない。満足するまで室内の空気を入れ替え、窓をしめて鍵をかけ、布を引いて頷いたラティは、てきぱきとした動きで、今度こそ王を振り返った。無意識に、見られていたことには気がついていたであろうに、視線が合うと不思議そうに首が傾げられる。
 用事の心当たりを探ってまばたきをした目が、特に見つけられなかったらしく、訝しげな色を浮かび上がらせた。
「陛下? なにか」
「いや。姿勢がいいな、と思って」
 まっすぐに背が伸びた立ち姿。きびきびとした挙動、立ち居振る舞い。ラティという魔術師を目にした時に、ひとが真っ先に抱く印象がそれだろう。姿勢のいいひと。うつくしく鍛え上げられた動きをするひと。ラティはその誉め言葉に慣れ切った苦笑で、それでもわずかにはにかんでみせた。
「ありがとうございます。……ところで、筆頭はどちらに?」
 話していても戻ってこないのは珍しい。なにかあったのか、と問う魔術師に、砂漠の王はふてくされた態度でクッションに肘をつき、『お屋敷』、と言った。
「なんかよく分からん用事があるんだと。お土産にアップルパイ頂いてきますね、とか言って出てった」
「……ええと。その予定は初耳ですね……?」
「今日ばかりは安心しろ。知らないのはお前だけだから。……取り込み中だから声をかけないで行きますね、他には言いましたから、とは言ってたからな」
 ただ、その報告を最後に受けるのが主君たる己であることが解せないだけで。ぎりぎりの事後報告ではないような、行ってきますの挨拶だっただけである。ラティの、筆頭ほんと自由ですね、と頭の痛そうな声は、陛下許さないでもっと叱ってください効果あるとは思えませんが、という意味を含んでいたのだが、砂漠の王はすいと視線を反らして、魔術師の声に出されなかった訴えに気がつかないふりをした。
「……というか、アップルパイを受け取りに行ったんですか?」
「知らん。ソキとロゼアにちょっかい出しに行くついでかなんかだろ、どうせ」
「筆頭、あの二人がお気に入りですもんねぇ……」
 ちょうどその頃、待ってください陛下の口にも入るんですか俺が作ったものですよ、そうだよロゼアの手作りだって知ってるよありがとうね、待ってください待ってくだ陛下って陛下ですよね砂漠の王陛下その方ですよねあるでしょう毒味とか許可とか職人とか、毒味は俺がするし許可は取ったし職人にも話しは通してあるよロゼアったら心配性だねえらいえらい、ロゼアちゃんのアップルパイはソキのですソキのですうううぅっ、と『お屋敷』ではちょっとした混乱が巻き起こっていたのだが。知る由もなく。
 砂漠の主従はなんとも言えない沈黙を室内に流して、ほぼ同時にため息をついた。
「まぁ筆頭のいい所は、あれでなにもかも終わらせてる所ですよ……。なんなら明日明後日分くらいまで手配して処理して、暇だから、ってけろっとした顔して他の人の手伝いまでして終わらせて、それじゃあねって悠々と……どこか行ってしまわなければもっと良いんですけど……」
「……所在はハッキリしてるから、今日はまだマシだけどな」
「普段は年単位で単独行動してる方ですからね……単に集団行動が合わない可能性もありますしね……」
 極めて高い処理能力を保持しているがゆえに、見逃されている。砂漠の筆頭はそういう人種の、ラティの上司である。ふ、と息を吐き出して、陛下もすこし休まれては、とラティは言った。
「お茶と軽食でも持ってき……こさせましょうか」
「いや、いい。いらない。……さっきまでアイシェが来てたんだよ。休んでるから安心しろ」
 砂漠の王には働き詰めのきらいがある。困ったことに最中は飲食を疎かにするのが常なので、それを危惧してのことだったのだが。砂漠の王はラティの疑いの眼差しを予想していた嫌そうな顔で、鳥の巣状にもさもさと積まれたクッションの、ちょうど死角になるあたりを指さした。ラティは失礼しますと告げてから歩み寄り、ひょい、とそのあたりを覗き込んで頷く。
 大きな、透明な硝子ポットに入ったミントティーが、まだ半分くらい残されている。使われた茶器がないのは、回収されて行ったからだろう。手をつけられていない菓子と、陶杯がいくつも重ねられて置いてあったから、この後ここを訪れる魔術師や文官たちに向けての、女性の気遣いを感じさせた。思わず、無言で目頭を押さえたラティに、砂漠の王は心底嫌な顔をした。
 なんだよ、と言わないのは、なんなのか分かっているからだ。しばらく一人で感動して、ラティはうんうん、と心からの喜びに頷いた。
「まさか、こんな日が来るなんて思ってもみませんでした……。遅くなりましたが、改めて、ご結婚おめでとうございます、陛下……!」
「いやまだ結婚してないからな? まだしてないからな? これからだからな? あと前半はともかく、後半はお前もだからな?」
「ああぁあああちょっとやめてください唐突に思い出させないでください現実に向き合うのに覚悟が必要と言うかあのなんていうかあの、心の準備が! 必要! ですので!」
 ずしゃああぁあっ、と勢いよくその場に崩折れて叫ぶラティに、砂漠の王はなんで俺の魔術師には唐突に奇行に走るのが多いんだ、という顔をした。ラティが落ち着くのを待ちながら考えると、各国それなりに奇行持ちの魔術師がいることに気がつき、男はうわ、という気持ちで沈黙する。平均的な魔術師の特性である、とは思いたくなかった。
 王のクッションを無断でひとつ借用し、床をごろごろ転がるラティを見つめて、乱心、という言葉の意味を噛み締めていると、ぴたりと動きを止めた女が、うつろな眼差しで起き上がる。
「そう……。そう、私、その話をしに来たんでした」
「怖いからもっと落ち着いてからでいいぞ、ラティ。めんどくさいし」
「我が王におかれましてはもうすこし、思いやりと慈悲の心を持って言葉を選んだり内容を吟味したりして頂けませんでしょうか」
 はー、と深く息を吐きながら立ち上がり、ラティはぱたぱたと服の埃を叩いて行く。
「そう、その件。その件なんですけどね……。あのまずひとつお聞きしたいことがあるんですが……前提条件の確認というか……事前情報の確認というか……?」
「……なんだよ」
 とりあえず座れ、と手招くと、ラティは渋い顔をしながら主君の傍に歩み寄り、警戒した猫の距離感で床にぺたりと座り込んだ。会話にはすこし遠いが、不自由のないぎりぎりの距離である。物言いたげな顔をしながらも好きなさせて、王はなんだよ、ともう一度ラティを促してやった。あー、とラティは呻いて視線を泳がせる。即断で言葉を告げる女には珍しい態度だ。
 ラティはその後も幾度か、あー、うー、あぁあ、と呻いて視線を泳がせた後、とうとう王から視線を外したまま、どこまで知ってるんですか、と呻いた。やや耳が赤い。そこで、なんのことを、と問わなければいけないほど、王は鈍くもなく。だからこそ心底うんざりした顔で、それ俺に聞くなよ、と額に手を押し当てて呻いた。
「けど、まぁ……お前が知らない情報をひとつやると、イリスが一目惚れをかまして、その騎士を口説き落として、よし結婚しよってなって準備を整え終わる直前に魔術師に目覚められて今に至るから。な? 諦めつくだろ?」
「ふふふふふふうふふふふなんですかそれなんですかそれ全部聞いたことありませんけど……っ?」
「星降は基本、一夫一妻制だろ……? アイツの性格で、ほいほい手出しして遊ぶわけないだろ……? 初めから本気で本命なんだよ」
 ラティは、頭を抱えてその場に蹲った。いやあるじゃないですか若気の至りとか、と涙声で呻かれるのに、砂漠の王はいっそ不安がる眼差しで魔術師を見つめた。
「お前それぜっ……ったい、なにがあっても、アイツの前で言うなよ……?」
「言うわけないじゃないですか……私別に若気の至りじゃないですし……それよりなんですかそれ詳しくお願いしますなんですかそれ」
「一目惚れのとこか? それとも結婚準備か?」
 両方ですね、と淀んだ声が即答で響く。ラティは今なお、頭を抱えて蹲ったままである。誤解を招きかねないから誰か来る前にせめて普通に座ってくれないものかと思いながら、王は寛容にそのままでいることを許してやった。気持ちは分からんでもない。知らなかったのなら、なお。詳しくというか聞いたままなんだが、と前置きして、王は幼馴染だからこそ知るその情報を、惜しみなく提供してやった。
「なんかの時にいきなり、こないだ城で道に迷ってた女の子がいたんだけどそれが新しい自分の騎士で、城で迷うのもかわいいし色々話してたらなんか気になるしでこそこそ会いに行ってたらやっぱりかわいいしどきどきするから、俺あの子をお嫁さんにするんだー、みたいなことを言い出して」
「あぁー、ああぁあぁあああなにもかも初耳ですねー! なにもかもー! なんですかそれー!」
「そうかよかったなー、相手の同意は取れよー、言質じゃなくて同意なー、みたいな話になって。そのあと皆で見に行った」
 五ヶ国は世継ぎ、あるいはその候補が同年代であったことから、幼少期から交流がさかんで仲がいい。城勤めの者なら誰もが知ることだ。そんな野次馬みたいなことまで仲良くやっていたとは知らなかったが。いつ頃の話ですかそれ、と呻くラティに、砂漠の王は相手を可哀相がる顔つきでそっと視線を外す。
「たぶん、お前らが会った半年後くらいじゃね? まだ騎士見習い初めて一年もしてないって言ってた記憶あるし……俺としては、コイツ結婚に対して前向きな感情あったのかよかったな……くらいで、他の奴らみたいに決めるの早くないですかとか話しはどこまで通したんだとか、決め手とかなんかそういう興味なかったし……」
「あー! 皆さまさすが王家なだけあって早熟でいらっしゃいますねー! あー!」
 ついに頭を抱えたまま左右にごろごろ転がり始めたので、砂漠の王は優しい笑みで放置してやることに決めた。筆頭が『お屋敷』に出かける前、ささっと床掃除をして行った理由がこれだとしたら、思いやりのある行為であるような気がした。落ち着けと言っても無理だろうし、砂漠の魔術師はなにかあると、わりと床に転がるのである。フィオーレとか。
「……アイツがそもそも、俺とは違う理由で結婚に興味なさそうなの知ってたろ? 結婚してやれよ、ラティ。それでアイシェと仲良くしていいぞ」
「あー! 陛下本音が漏れてます陛下ー! それは高貴な方々と比べて私なら顔見知りですけどそういう理由でひとの、あー! あー!」
「よかったな、メーシャを無事に逃亡させておいて……」
 そうでなければ、ここまで心ゆくまで取り乱せもしなかっただろう。そうですねメーシャが安心安全な所にいてくれるならそれで、と真顔で起き上がったラティは、いったん冷静になったらしい。はー、と魂のそこから息を吐き出しながら、服をぱたぱたと叩いて呻く。
「気持ちの折り合いがつかないんですよね……。というか私、魔術師なので、王家の方と結婚とかどうかと思います。魔術師なので」
「イリスも魔術師だから問題ないんだよ。諦めて喜べ。なにに抵抗してるんだお前は」
「……陛下、私ね。一生涯をかけたものを、一度諦めてるんです」
 知ってる、と砂漠の王は言った。そのせいで、その為に。ラティがどれ程の絶望を握りしめて、前を向いたのか。幼馴染たる星降の王が、そのせいで、その為に。どれ程の努力を重ねて、なるべく早く、魔術師として目覚めるものを感知しようとするようになったのか。人が、生きていくための導を心に宿すより早く。そうして生きていくより、はやく。はやく、はやく。導く為に、あの日から、どんなにか。
 言わないでいることには口を閉ざし、待つ砂漠の王に、砂漠の国の王宮魔術師は囁くようにして言った。
「それで……でも、魔術師として生きようと、思って」
「ああ」
「わたし、は……でも、心からあなたに仕えました。あなたの魔術師として、この国の魔術師として、国と、人を、愛しました」
 知ってる、と言って、王は魔術師の目を覗き込んだ。告げる。
「お前の献身と忠誠は疑うべくもない。その働きを心から感謝する。……ラティ、お前がいなくなるのは、心底困るし、嫌だと思ってる。借りてたとはいえ、はいそうですか、とぽんぽん返していいもんじゃない。お前の……忠義を、誠心誠意、受けていたのは俺だ。分かってる」
「っ……わたし、ちゃんと、有用な魔術師でしたか……? いないと、困り、ます、か? ほんとに」
「お前の代わりは誰もできない。俺の、唯一の魔術師だ、お前は。……だから、あー、その、なんていうかな……個人的には、いいから結婚してやれよ、と思ってるし、それも本当なんだが……手放すのが惜しいのも、本音だ。だから」
 そうしたくないなら、戦ってやるからここにいろ、と。砂漠の王は、己のものを守り切る静かな決意のある顔で言い切った。
「ラティ。お前の好きにしていい。行きたいなら、仕方ないから返してやる。留まりたいなら、留まれるようにして、やる。お前が決めていい」
「……筆頭はそれについて、なんと?」
「俺のやりたいようにしていいし、ラティの好きにしていい。アップルパイ持って帰ってきたらお茶の用意をお願いします、とか言ってたな」
 ロゼア手作りの品であるらしい。本人は知らないが、砂漠の王は知っていて、そこそこ楽しみにしている。帰るまでに決めろって言うんじゃないし、時間があるだけ考えて、でも答えは出せよ、と告げる砂漠の王に。王宮魔術師は泣きそうな顔で、あなたの、と言って笑った。
「あなたの……魔術師であることに、喜びと、誇りを覚える日々でした。……いまも」
「知ってる。……ありがとな、ラティ」
 はい、と言って、ようやく、息が吸い込めたような気持ちでラティは微笑んだ。明々後日に一度返答することになっています、と告げるラティに、砂漠の王はそうか、と告げて。まぁそれまではアイツも国で大人しくしてるだろ、と遠い目をして言った。そうだといいな、という希望が溢れ出る言葉だった。



 ロゼアの膝上に、でちん、とばかり陣取ったソキは不機嫌である。ちたちた足を揺らしながら、むっつりくちびるを尖らせていた。しかし、ぷぷっと膨らませた頬を、ロゼアの指がこしょこしょとくすぐっていく。こそばゆくてふしゅる、と空気が抜けてしまったので、ソキはもおおおっ、とちたぱたしながら、また頬をぷぷっと膨らませた。ソキは頬をぷっとさせたいのである。ぷっとしていたいのである。
 それなのにロゼアの指がつむつむと突いてくるから、ソキはいやぁん、と身を捩って抗議した。
「ロゼアちゃああぁあん! だめですううううぅ!」
「んー? なにがだめなの、ソキ?」
「ソキはいまぷっとしてるの! ぷぷっとしてるんですからぁ、こしょこしょつむっとしたら、いけないです! いけないです!」
 言いながら、またぷっと頬を膨らませたソキに、ロゼアは蕩けるような笑みで囁きかけた。
「ぷくぷくで可愛いな、ソキ」
「はにゃ……! うふん、ふふふん、でぇっしょおおおぉ? きゃあんきゃあん!」
「かわいくてかわいいな、ソキ。はい、あーん」
 すっと差し出されたのは、ひとくちの大きさに切られ、フォークに刺さされたアップルパイだった。フォークにぱくっと食いついてもっきゅもっきゅご機嫌に頬をまぁるくするソキを、ロゼアが指先でするすると撫でる。滑らかな頬の肌を、確かめるような動き。くすぐったそうに、嬉しそうに、ソキがくふくふと笑いを零す。不機嫌はすっかり溶けてしまって、もう形を成すことがないようだった。
 それをソキの頭上からじっとりと睨みつけながら、妖精は心の底からため息をついた。ロゼアが差し出してくる甘味をせっせと頬に詰めだしたソキに、うんざりした気持ちで問いかける。
『アンタなんで不機嫌だったのかくらいは覚えてるんでしょうね……?』
「んん? ふきげんさん……?」
 ダメだこれ、という微笑みで、妖精は諦めてやった。せっかく宥めたのだから思い出させないでください、というロゼアの視線は無視した所で、妖精は優しく諦めてやった。ソキと付き合っていく上で重要なのは寛容と諦め、そしてロゼアをどう躾けていくかである。ソキの躾も重要だが、もっと優先順位が高いのはロゼアである。しっかりやりなさいよ、とシディを睨みつければ、鉱石妖精は困った顔で羽根をぱたつかせ、すいっと視線をそらしながら呟いた。
『平和なのが一番ですから……平穏とは得難いもの。そうでしょう? リボンさん』
『アタシ気が付いたことがあるんだけど、あの筆頭をもうすこしどうにかすれば得られる平和というものがあるのではなくて?』
 シディは再び、世の虚無と見つめ合った顔をして、すっと視線をそらしてみせた。そんなことが可能であれば、誰かがとっくにやっている、とでも言わんばかりの横顔だった。特に主君たる砂漠の王や、同僚たる王宮魔術師たちが。誰もが恐らくは不可能だったので、あんなに自由にのびのび生きているに違いないのだ。妖精は品の無い舌打ちをして、ロゼアをぎろりと睨みつけた。
『アンタの先輩なんでしょ? ロゼア。どうにかしなさいよ』
「……『お屋敷』の上層に相談しておきます」
 今のロゼアには完全に手に余る相手である。そもそもの相性として、さほどよくない、ということもある。なぜか上手く対応できないし、なぜか、なぜか、ほんのり言うことを聞いてあげなければいけないような強制力を本能が感じるとるのだった。しかしながら、そのせいでソキがぶんむくれていたこともあり、ロゼアはどうにかしないと、と真剣な対応を検討する目で『花嫁』をそっと抱き寄せた。
 腕いっぱいに満ちる体温とソキの香りに和んでいると、くすくす、と笑い声が対面から響いてくる。
「ジェイドさん、どこからロゼアがアップルパイ作ったの聞きつけたんだろうね? お城にいらした筈なのに」
『あのまっしろいのが申し訳なさそうに平べったくへこんでたから、あの子が遊びに来て聞きつけたのを報告……はできないだろうから、なんらかの手段で察知したか解読して襲撃して来たんじゃないの?』
「一応、来られる予定ではあったと聞いてはいたんですが……」
 ただ、主目的がロゼアのアップルパイを貰うことになっていたのと、それを王にも食べさせるだなんてことと、しかも楽しみにされているなんていうことを、全くもって知らされていなかっただけで。そのおかげで、ソキがロゼアちゃんのアップルパイの権利を主張して大騒ぎして大変だったのだ。最終的には一台だけちょうだい、というジェイドのお願いに頷いたものの、ソキのが減っちゃったです、という食い意地のはった不機嫌を、延々と二日間も続けていたのが先程までのことだった。
 最終的にはなぜ不機嫌だったのかがよく分からなくなった所で、頬をぷーっと膨らませたい、というだけになり、ロゼアに丸め込まれたので、もう理由やら原因を思い出せるとは思えないのだが。あー、怒りの持続もどんくさければ、なんていうかその解消もどんくさいし、なにもかもがどんくさいアタシの魔術師、ほんと、鈍い、と呻く妖精に、ソキはもっきゅもっきゅ頬袋を新設しながら目をぱちくりさせた。
 ごくん、と飲み込んで。紅茶で喉をうるおした後、『花嫁』はぷふーっと満足げに息を吐く。
「おいしーですぅー! ソキ、ロゼアちゃんの作ってくれるお菓子、だぁああああいすき! ロゼアちゃんはもーっと好き好き好き好きなんですけどぉ、ロゼアちゃんの作ってくれるお菓子ですとかぁ、ご飯ですとかぁ、ソキはめいっぱい好きなんですよ?」
「ロゼア、ソキの好みのご飯作るの上手だもんね」
「でぇえっしょおおおおお!」
 心行くまでふんぞりかえって自慢するソキに、メーシャはさすがロゼアだよねぇ、と言いながら、アップルパイをぱくりと口にした。同じものをラティも食べたのかと思うと、心がじんわり温かくて、嬉しい気持ちになってくる。目を覚ました養い親は中々大変な騒動の最中ではあるのだが、そんな中でも穏やかにお茶やおやつの時間を持ってくれているのだと思えるのは、幸せなことだった。
 そうであるから、メーシャはジェイドを止めなかった。ごめんねソキ、ロゼア、と微笑んで、ある程度はジェイドの好きにさせて傍観していたのである。それを改めてすこしばかり反省した微笑みを向けてくるメーシャに、ロゼアはいいよ、と疲れた様子で首を振った。
「メーシャの気持ちも分かるから……。ラティさんのこと、本当によかったな」
「ロゼアはそういう所の心が広いよね……。嬉しくて、ありがとう、と思うけど。たまには喧嘩もしてみたいな」
 親友が精神的にも復調してきてなによりである、ただし発言の意味を考えないこととする、という微笑みでゆったりと頷くロゼアに、け、ん、か、とろくでもなくキラキラした笑顔で、メーシャがゆっくりと言い放った。
「ロゼアはなにをしたら怒るのかなって考えてるんだけど……あっ、ソキのこと以外でね、もちろん」
「メーシャはなにがしたいんだよ……暇なんだろもしかしなくても……」
「やだなぁ、ロゼアったら。そんなことないよ?」
 これでもメーシャは、なにかと忙しいのである。身を隠さなければ、という状態が『お屋敷』に逗留することで落ち着いたので、心に余裕ができただけで。長期休暇の課題はじつはなにひとつ終わっていないので、ロゼアとソキがお茶にやってくる前までは起きてからずっと机に向かっていたし、ストルに向ける質問をまとめるのだって一苦労だ。だから、暇な訳ではない。友情を深めたりしたいだけである。
 ごめん、と告げるような横顔で、室内の誰とも視線を合わせないで逸らしたまま、メーシャの傍らでルノンが呻く。
『ちょっと砂漠の王宮魔術師に日夜構われていたせいで、影響を受けているというか……砂漠の筆頭の影響を受けているというか……あの筆頭のせいっていうか……ごめん俺にはどうしてあげることもできないメーシャが楽しそうでよかったなって思う』
『役立たず! というかあの筆頭ろくでもないことしかしないわねっ?』
「どうにか更迭できないんですか」
 見たことないくらいのロゼアの真顔である。シディが、心痛から己の魔術師のことを守らねばならぬ、と決意を深める顔つきで、しかしゆっくりと首を横に振った。
『王が本当にそれを望まれるなら……もうとっくにあの方はあの地位にいないんですよ……』
『元凶は砂漠の陛下なんじゃない? それか、あの筆頭の教育だかなんだかをした『お屋敷』か。どっちなのよ』
「あらゆる方面に生じるであろう今後の不利益を考えて俺からの意見は黙秘とさせて頂きます。あとメーシャ、喧嘩したくないから諦めて欲しい。なんで喧嘩するのに理由まで見つけて喧嘩しないといけないんだよ……」
 そもそも、喧嘩だの怒るだの、やろうと思ってすることではないのである。それもそうか、と残念そうに溜息をついて、メーシャは机に肘をついた。そしてひたすらアップルパイを頬に詰め込んでは、もきゅもきゅごっくん、ぷふーっ、もきゅもきゅごっくん、ぷふーっ、と繰り返しているソキに、回し車で遊ぶ小動物を眺めているのと同じ癒しと可愛らしさを感じた笑みで、ソキは今日も楽しそうだね、と言った。
「お絵描きも終わったんだっけ?」
「それがぁ……もうちょっと、もうちょっとなんですけどぉ」
 そのもうちょっとが、どうにもこうにも進まないらしい。あんまり進まないのでいったん置いておいて、別のことをするようにしたのだ、とソキは言った。なにせ偉くて可愛くて賢く、そして可愛いソキなもので。ロゼアがどう言いくるめて悩むソキを辞めさせたのか、すぐに分かる言葉だった。胸を張ってそう主張するソキの頭の上では妖精がロゼアの教育をどうすればいいのか悩んだ顔で首を振っている。
『まあ、癇癪起こす寸前だったから、いったん他のことをするのはいいんだけど……いいんだけど、今思い出したわ。ソキ? 長期休暇で課題出されてないの? なんにもしてる様子がないけど、まさか終わったなんてことないでしょう? アタシ知らないもの』
「課題です? ソキねえ、おやすみの間は、よく寝て、いっぱい食べて、ロゼアちゃんとリボンちゃんの言うことをちゃーんと聞いて、いいこに、あいらしく、しているです。言うこと聞くんだよーっておにいちゃ、あ、ウィッシュ先生が言っていたです。ソキ、先生の言うことを聞ける、賢くかわいーソキなんでぇ、ちゃーんと言う通りしているです! えっへん!」
『……あの兎系教員、もしかして学問的な課題を出さなかったわね……?』
 いえそんなことはありませんよ、とロゼアが控えめな声で言い添えた。いくつか、学習教材が渡されていたのである。ロゼアに。しかし勉強に関しては真面目なソキであるから、初日からの一週間で、もうすっかり終えてしまっているだけなのだという。長期休暇も、もう半分以上が終わっている。ゆっくりするものいいけど、また『学園』に戻る準備もしていきなさいよ、と小言をいう妖精に、ソキは返事だけは清く正しく、はーい、と言った。
 新年を迎えて、早数日。もう三週間もすれば『学園』に戻る日がやってくる。冬の新学期。魔術師たちの迎える、ある意味では、新年がそこに控えていた。

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