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 訪れる朝が同じだと知って、胸をよぎったのは安堵ではなかったように思う。アリシアはじわじわと、紫と金を滲ませて明るくなっていく空の彼方を、町並みの隙間から眺め、静かに息を吐いて階段を登り始めた。一階から二階へ登る短い階段は、早朝の気配と焼き立てのパンの匂いで満ちている。一階の店舗部分から漂ってくるひとの声は、記憶しているよりはすくなく、それでも心地よく騒がしい。
 おはよう、今日もいい天気になりそうで。おはよう、いつもと同じものを。おはよう、おはよう、いらっしゃいませ。は、と息を吸うのも、吐くのもすこし苦しい気持ちで、アリシアは階段を登りきり、まだ見える踊り場の、明かり取りのための小さな窓から、見える世界の隙間を振り返った。朝は来る。同じ朝が。記憶にあるものと同じ。『学園』で来るものと、同じ。変わらない。朝は朝だった。
 そこに劇的な違いはなく。楽にも救いにもなりはしない。せめて違えばよかったのに、とアリシアは思う。故郷のそれと『学園』のそれが、もし違うものなら、この息苦しさの理由を押し付けてしまえたのに。結局、場所ではないのだ。それが分かっただけだった。アリシアの苦しみは、アリシアが持っているもので。『学園』にいても、実家に帰っても、工房に戻っても、増えも減りもしなければ、楽にも救いにもなりはしなかった。
 どうすれば、と思う。どうすればよかったのだろう。選択は常に過去に遡り、どうすればいいのだろう、と思える力はまだ戻ってこない。それが分かっていながらも、どうすれば良かったのだろう、とアリシアは思う。過去の栄光は過去で置き去りにされたまま、アリシアの元に蘇ることはなかった。栄光が欲しかった訳ではない。ただ、報われたかったように思う。その祈りは叶わなかった。なにひとつ。
 静まり返った、埃っぽい、時を止めたような工房の扉を開いた瞬間に、アリシアの眼前にそれは突きつけられ、それ以上逃れることを許してはくれなかった。過去は過去だ。終わったものだった。アリシアが戻ってきたことは職人たちの間ですぐ話題になり、懇意にしていたパトロンたちがちらほらと会いに来てはくれたが、それだけだった。挨拶、談笑。いくつか言葉は交わされた。けれど、それだけだった。
 中には一足、二足、靴の修理を依頼していく者もあったが、ただ試されただけだとアリシアは見抜いていた。腕が落ちていないのか。依頼は可能な状態なのか。アリシアは魔術師であるからこそ王の許可がいるのだと微笑んで告げ、依頼人たちは誰もが快く引き下がってくれたが、言い訳めいた響きは看破されていたに違いない。アリシアにすら言い訳だと分かり切った言葉に、誰が騙されてくれるものか。
 賑やかなのは最初の半月だけで、ほとほとと人の足は途絶え、新年を越してからは工房でひとりきり、片付けをするばかりだった。ルルクは朝に夕に通ってきて、騒がしくアリシアに食事を取らせたり見守ったり勉強したりしていたが、工房の人の数が三になることさえ、ここ一週間では一度きりだった。拒否された訳ではない。ルルクが遭遇したような、差別や拒否や、暴力に巻き込まれることも、その気配を感じることも一度としてなかった。
 ただ、ゆるゆると、世界から切り離されていく。そこにいるのに、なにとも接していない。なにとも関わっていない。無関心ともすこし違う。ただ、ただ、悪意なく。必要とされていない。それだけのことだった。どうすれば良かったのだろう、とアリシアは過去に最善を探してくちびるを噛む。依頼を受ければよかったのだろうか。王に許可を得てくれば、あるいは早急に許可を願えば良かったのだろうか。
 最盛期から、アリシアはなにもせず過ごしてきて。鈍っているのが分かっている技術で、過去の栄光に追いすがって、こんな筈ではなかったのにと、また。また、逃げ続けた己を棚上げして、理由も原因も全て、どこか別の所へ求めて。それはきっと楽で。そうすることがきっと、心の救いにも、なったのだろう。けれど。歩かなければ、とアリシアは思ったのだ。もう歩かなければ、と。
 息苦しくて、辛くて、助けて欲しくて、ただ、ただ、くるしくて。でも、歩かなければ、と。歩いてみよう、とアリシアは決めたのだ。どうすればよかったのだろう、と思い続ける自分の為に、歩いて。いつか、その先で。どうすればいいのだろう、と今を見て、前を見て、先を見て。考えて、進んでいく為に。アリシアには今がない。まだ、今には辿り着けない。
 過去の中で見つめる朝が、今と同じであったことにようやく気がついて、そしてまた、立ち止まってしまっている。でも前進だもの、とアリシアは思うことにした。同じだと思って、それを苦しく思うことさえ、前進だもの、とアリシアは思う。言い聞かせる。なにもかも別の場所で、なにもかも別の自分になってしまった訳ではなくて。アリシアは、アリシアだった。ずっとそうで、きっと、これからも、そうで。いまも、そう、なのだ。
 だから歩いて行ける筈だ、とアリシアは思う。ひとつながりの己なのだから。
「あれ……アリシアがいる……?」
 扉の開く音がして。ふにゃふにゃの寝ぼけた声がアリシアを呼んだ。なにしてるの、今日もかわいいねぇ、どうしたの、と寝ぼけながら後ろから抱きついてくるルルクに、アリシアはゆっくりため息をついた。ひとりで歩き始めたばかりの頃と、やることが全く変わっていない。肩にうりうりと擦り付けられる頭をそっと撫でてやりながら、起こしに来たのよ、とアリシアは囁く。
「私が起こさないと、あなた、昼まで寝ているでしょう?」
「わ……私の朝は……二部制だから……違うから……」
 帰省中のルルクは、朝の二時に起きて厨房の清掃と材料の計量と準備、簡単な仕込みを済ませて五時に寝る。頼まれてもいないのに、と言いかけて、その酷い言葉を、アリシアは撫でる髪の合間にとかしこんだ。どうしても、そうしたくて。頼み込んだに違いないのだ。すこしでも助けになりたくて。すこしでも、助けになったと、思いたくて。
 今日もルルクの両親が、起こしに来たアリシアに、帰ったらまた朝が早くて大変になる、と言ったので、望んだだけの効果はあるのだろうけれど。アリシアは抱きついたまま寝かかるルルクの頭をぽんぽんと撫でながら、それでも頑張って起きてお昼寝にしなさい、と言い聞かせた。
「もう半月もしたら『学園』に戻るのだから、生活リズムを整えていかないと」
「もどった一週間でなんとかする……なんとかする……アリシアぁ」
「だ、め、よ」
 うりうり懐いて眠たいとぐずるルルクの体温に、つられてあくびをしてしまいながら。アリシアはため息をつきたい気持ちで、ぴしりとした声で言い放った。
「朝寝の癖をつけてはだめ。ソキちゃんが真似したらどうするの?」
「確実な! 命の危機! 起きます!」
 ルルク先輩がねむねむなら、ソキもねむむだもん、と言い出して起きなくなりそうなのがソキである。ロゼアはそれをいつまでも抱き上げて寝かせておきそうだが、ルルクの影響でそうだということでたぶん機嫌がよろしくないし、寮長は苦虫を噛み潰した顔で早寝早起きを命じて来かねない。あー、やだやだロゼアくんなんか炙って来そうだし、と目が覚めた表情で首を振るルルクに、アリシアはそっと苦笑した。
「お休みの間、ロゼアくんに迷惑かけていないでしょうね?」
「うん? かけてないよ? なんで?」
「……なんでと、言われても」
 ルルクに、女装に必要だからと三人分の靴をお願いされているからである。なんでと言われるのがなんで、だった。長期休暇で工房に戻る前、大会開催中の隙をみて、三人分の木型は取ってきていたからそう苦労することもなかったのだが。最終調整はしないままである。ルルクから急かされることもない。それはつまり、準備期間が長いということで。ルルクが楽しく準備をしていることの証だった。
 そっと額に指を押しあて、ひとさまの嫌がることをしないのよ、と言い聞かせるアリシアに、ルルクはまっかせて、と輝く笑みで言い放った。
「ソキちゃんがはにゃはにゃする仕上がりまで持っていけば不満とかある程度消える筈だし!」
「ルルク、私はいま、ひとさまに迷惑をかけないのよ、と言わなかったかしら……?」
「アリシアには過程と結果を分離して考えて欲しいのね? 結果、大事なのは最終結果だから……!」
 すなわち、現在は過程であるので、迷惑をかけているという自白に他ならない。アリシアはため息をつきながらルルクの頬を引っ張って折檻したが、えへへと緩んだ笑みで嬉しそうにされたので、大した反省を引き出せはしなかった。さあ、もう、着替えなさいな、と言うとルルクは素直にはぁいと返事を響かせ、扉の向こうに消えると数分もせずに戻ってきた。脱いだ寝間着はたたんでいないに違いない。
 あくびをしながら手櫛で髪を整え、階段を降りていくのについていきながら、アリシアは窓から再び外を見た。菫色の朝焼けはすでに消え。よく晴れた青空が広がっていた。その、青さと。天の高さに。胸の中が広くなる。す、と息を吸い込んで、アリシアは階段を降りきった。登るときよりすこし、息が楽だった。
「朝ごはんはどのパンにしようねー? アリシア、今日はなに飲むの? 紅茶? 珈琲? 今日は果物のジュースもあるよ。オレンジと、桃と。桃にする? 桃好きだもんね」
「好き、だけど……ルルク、私にも一応、その、家に戻って朝食を食べるという選択肢が」
「えっ、用意されてるの? なんで?」
 ぎょっとするのは辞めてほしい。聞きようによっては、疎外されているようにも受け止められかねないことなのだし。え、えっ、とオロオロするルルクからすいと視線を外し、アリシアはため息をつきながら首を横に振った。
「どうして、いつから、あなたを起こしに行くと言うだけで、あらじゃあご飯はいいわねとか、好き嫌い言わずに残さず頂いてきなさい、とか言われるようになったのかしら……どうしてなのかしら……」
 すぐ隣の家である。戻るにしても数秒だ。ルルクは起こさなければずっと寝ているが、起こせば起きるので、そう手がかかったことはないのだし。いえ別にパンが嫌とか家族と一緒に食べたいと言っているわけではないのよ、でもどうしてあなたを起こすと私がもう帰ってこないというか朝食まで一緒だと思いこんでるのかしらどうしていつから、とぶつぶつ思い悩むアリシアの手をはいはいそうだねー、と言って引っ張りながら、ルルクは店舗部分へと突入した。
 アリシアに持たせたトレイにひょいひょいとパンを盛り、有無を言わさず会計へと向かう。
「おかーさん、お会計してー。私今日は珈琲がいいなー」
「はいはい。アリシアちゃんは桃ね」
「……ルルク?」
 赤い顔でじっとり睨まれても、怖くないし可愛いだけである。だってアリシア、桃があると桃しか選んだことないもの、と言いながら、ルルクがささっと会計を済ませた。ちょうど半額分。半ば諦めの気持ちを抱きながら財布を取り出したアリシアを、あらぁ、とルルクの母親が止める。
「いいのよ、アリシアちゃん。あなたはうちのかわいい娘なんですから」
「おかーさん、たまにでもないけど、私が自分の娘だってこと忘れてない? 大丈夫? 私ですよー、娘ですよー、ルルクですよー」
「はいはい、分かってるわ。さ、朝ごはん食べちゃいなさい」
 アリシアは赤い顔を両手で覆ってため息と共に心から嘆いた。ルルクが母屋の居間に戻って行くのについて行きながら、溜息をつく。ルルクがアリシアの言葉を聞いてくれないのは、恐らくこの母親似である。いつになったらお母さまは私からお金を受け取ったりしてくださるのかしら、と嘆くアリシアに、ルルクは真顔で言い切った。
「はやく諦めなよアリシア。いままでも無理だったけど、今度こそほんとにもう無理だと思うし」
「なに今度はあなたなにをしたの……」
 完全にルルクがなにかをした前提で嘆くのは辞めて欲しい。心外である、とルルクは頬を膨らませた。
「私じゃないよ、アリシアのお母さんがね? ルルクちゃんが連れて帰ってきてくれるっていうことは、やっぱり一緒じゃないと帰って来たくなかったのねぇうふふあらあらもうあの子ったらルルクちゃんが大好きなんだから。ふつつかな娘ですが、これからも末永くお願いしますねってご挨拶に来たんだって。それでね、まあもちろんです幸せになりますルルクがって返事したらしくって」
「……えっ、と」
「お父さんたちはなんか泣きながら夜の酒場に繰り出したらしいし」
 そして、お集りの近所の方々になんらかの報告をしたらしい。泣きながら。アリシアは停止しそうな思考をなんとか動かしながら、激しい眩暈を感じて額に手を押し当てた。それはいつ頃発生した話なのと問えば、ルルクは諦めとわくわくを等分にした目で、長期休暇に入る前かな、と言い放った。すでに二か月近く前のことである。手遅れ、という言葉がアリシアの頭に浮かび、光の速さで消えていく。
 戻る前に一度、陛下にご相談とかご挨拶とかしなきゃいけないねぇ、ご許可頂かないといけないことだもんねぇ、とのんびり、眠たさを思い出した声で呟くルルクに、アリシアは混乱しながらそうね、と疑問符に塗れた声で呟いた。そうだよね、とルルクは笑って、さあ朝ごはん食べよう、と椅子を引いてアリシアを座らせた。混乱するアリシアに、ルルクはにっこりと笑いかけた。
「大丈夫! アリシア、私に任せてくれていいからね。ね?」
「そ、そう……? それじゃあ、頼もうかしら……ルルクがそう言うなら……」
 混乱したアリシアは押しに弱い。特に、ルルクからの押しにびっくりするほど弱い。ロゼアに対応するソキくらい弱い。目論見通りに頷いてくれたので、ルルクは上機嫌で椅子に座り、いただきます、と輝く笑みで朝食に手を伸ばした。別に言いくるめた訳ではないし、黙ってあれこれした訳ではないし、騙した訳でもないので、これであとはどうにかなるだろう。『お屋敷』教育を応用すれば、どうとでもなる。
 言質とは、同意と共に取っておくものである。



 もう十日もすればソキは『学園』に戻るので、なにかと忙しいのである。つまりレロクに付き合う余裕がないのである。ないったらないのである。ロゼアと離されるのに抵抗して抵抗してぶんむくれたソキが、ソファの上でちたちたしながらそう主張するのを、『お屋敷』の当主は不機嫌そうな顔で頷きながら聞き流していた。こういう時のソキは、どう反応しても落ち着くまではぎゃんぎゃん騒ぐのである。
 適当に頷いて、時々、適当にでも返事をしておけば、でっょおおおおそうでしょぉおおおお、と自慢いっぱいの声でふんぞり返ってしまうので、話をするならその状態を待つべきなのだった。部屋に連れてこられて十五分もした頃、ソキは自慢いっぱいにふんすふんすと鼻を鳴らしながら腰に手をあててふんぞりかえり、控えていたメグミカにそっと背中を支えられてソファに座りなおさせられた。転落防止である。
 あっあのねぇメグちゃんあのねロゼアちゃんたらいけないのあのねあのね、と頬をぷくぷくさせて言いつけるソキに不機嫌が、当主の元へ連れてこられて預けられたからではなく、ロゼアが今傍にいないことに移り変わっていることを確かめてから、レロクは『花婿』の『旅行』日程予定表に許可を書き入れ、ラギに無言で突き出した。ぴし、とメグミカを指さし、持って行け、と告げる。
 連れて行け、でしょう、と穏やかに訂正をさせるラギに俺は今そう言っただろうがお前の気のせいだぜったい言った、言ったったら言った、とごね、レロクは執務の椅子から立ち上がった。
「ソキ、はなしがある」
「……ないしょのおはなしなのぉ?」
「そうだ。ラギ、メグミカ、はやく行け。一時間は戻ってこなくていいぞ」
 メグミカがいなくなる不満より、ないしょ、に心惹かれたのだろう。むむっと尖っていたくちびるがそわそわしている。そんなソキにふふ、と笑いながら、ラギはそれでは仰る通りに、と麗しく従順な態度で当主に向かって一礼した。
「十五分程で戻りますので、あまり悪だくみなどはなさいませんように」
「一時間は、戻って、こなくて、いいぞ」
「分かりました。それでは十五分後に、また」
 早足でソファに歩み寄ったレロクが、ソキがもちもちと遊んでいたまぁるいクッションを取り上げて投げつけるも、微笑んだラギに受け止められるだけだった。ぽぉん、と投げて返されたのを慌ててむぎゅっと抱きしめながら、ソキはうぅーっとレロクに向かって唸り声をあげる。
「ソキの、ソキのなんですぅ……! それに、人に向かって投げたらいけないんですよ。お兄様ったらわる! いけないです!」
「は? アスルを投げてロゼアを困らせたと聞いているが?」
「ソキはいいんだもん」
 ほう、とレロクは頷いてやった。それにアスルだって投げられたがってたもん、ソキには分かるんですぅ、と自慢げに言うソキの傍にはどうも妖精がいないらしい、とレロクは推理した。叱られた素振りを見せないからである。一緒ではないのか、と問えば、ソキはこくりと素直に頷き、あのねあのね、と楽しそうに声を潜めて身を乗り出した。傍らに座るレロクの耳に、こしょりこしょりと囁き落とす。
「今日はね、リボンちゃんたちのお見舞いの日なの。ラティさんにね、やや責任を感じなくもないから助けて欲しかったら力を貸してあげなくもないわよそうよねシディ、って言っていたの。だからね、これはソキの予想なんですけどね! ラティさんにはじつは! ずっと好きなひとがいたにちぁいないの! ソキはくわしいの! だいじにしていたむかしの恋……ずっと忘れられないでいたにちがいないです……そんな中での陛下からの告白……揺れ動く気持ち……! きゃぁあんきゃぁああん! リボンちゃんはやくかえってこないかなぁあああっきゃふふふふっ!」
「そういえば『学園』で閲覧禁止措置をされてる書籍があるそうだな?」
「そそそそそそそきにはなななななななんのことだかわからないですうううううううう!」
 すくなくとも、『お屋敷』にあったら焚書処置されるような類の恋物語であることだけは、レロクにも十分理解できる。外に出たソキが、それらに並々ならぬ興味関心を抱くことも、理解はできるのだが。相手がロゼアかと思うと許容したくなくなってくるだけで。ロゼアを積極的に困らせたいのでソキを唆すべきか、咎めておくべきかしばし考え、レロクは挙動不審な妹に、まぁいいかと息を吐いてやった。
 レロクは特に興味がないが、それもソキの得た自由だ。好きにロゼアの目を盗んで満喫でもなんでもすればいい。あまり周りに迷惑をかけるでないぞ、と控えめな注意をしたレロクを、ソキはじぃっと見上げてから頷いた。静かに煌めく森の瞳。『花嫁』の、言葉に成されぬ英知に触れた煌めきは、一瞬だけすぅと現れて消えていく。ちょこ、とソキは不思議そうに首を傾げた。
 レロクの、話し出されない用件に、ようやく興味を抱いた仕草だった。レロクも、どう話し出せばいいのか、言葉に迷う。
「……ソキ。十五に、なったろう」
「そうなんですよ? 新年からはぁ、淑女のソキ。淑女のソキ、ということです! つまり、今のソキは淑女です。清楚で可愛く、色気があってせくしーなのでは? これにはロゼアちゃんもめろめろの筈です。めろめろの筈なんですぅうぅうう!」
「そうだな。引き続きその路線で努力するように」
 他ならぬ『お屋敷』の華、今代の当主たる兄からのありがたいお言葉である。ふすふすと鼻を鳴らしてちからいっぱい頷くソキに、だからこそ、やはり言うべきか言わないで置くべきか、なやみ。レロクは深々と息を吐き出した。
「……ロゼアの、態度に。変わりはないか?」
「そうなんですぅ……。淑女のソキでも、めろめろりょくが足りていないです……」
「よし引き続き同じ方向性で努力するように」
 さりげなくさりげなく進展を妨害しながらも、ガッカリし倒すソキに、レロクはそうかと息を吐いた。十五になっても。『花嫁』が、嫁ぐ年齢を超えても。ロゼアに変化はない、という。それを『花嫁』が言うのだから、本当なのだろう。『花嫁』は誤魔化されやすく転がされやすいが、それでいて、『傍付き』の変化には敏感だ。ともすれば、己の変化よりも、ずっと。それなのにソキは、ロゼアを変わらない、と言う。
 ソキが嫁ぐ年齢を超えても、なお。傍に居続けることを許された立場で。変わらない、とはどういうことなのだろう。それが祝福か、呪いかは、レロクには判断してやることが出来ない。ただ、僅かに、眉を寄せてソキを見る。
「……まあ、『学園』に帰っても同じだろうが。焦れて襲ったりするではないぞ、はしたないからな」
「誘惑は襲うに入らないもん」
「上に乗っかって服を脱いだりロゼアの服をはいだりするでないぞ。くれぐれも。……くれぐれも、だ!」
 ソキはちっとも納得していない顔でくちびるを尖らせ、はーいですぅう、と言った。これはもう何回かやらかして効果がなかった顔だな、と思いつつ、レロクは額に指を押し当てる。当主だからといえど、『傍付き』に成される教育の全ては開示されない。知るのは、殆ど全て、だ。ひとつも取りこぼさず、漏らさずに、ではない。それは『花婿』であったレロクの精神を守る措置だ。
 そして、『傍付き』であった、ラギの心を守る為の制約だ。なにもかも全ては明かされない。その暗闇は暴かれない。けれど。取りこぼしのあるなまぬるい暗がりでさえ、その程度では揺るがない、ということが分かる。分かっているのだが、しかし。言っておかなければ気が済まないのが、兄という存在である。だめだからな、ぜーったいにだめだからな分かったなソキ、としっかり言い聞かせ、レロクはむくれる『花嫁』を見る。
 いつか、嫁いで行く筈だった妹が。永遠の別れを飲み込んで、見送る筈だった存在が。それを知ることはなく。魔術師として成長していく中で、そうであるから、なお。暗闇を、汚濁を、『お屋敷』にまつわるそれらを、今以上に飲み込むことはなく。守れることを、嬉しいと思う。それをまだ引き継いでいかなければいけないことに、うんざりとした顔をして。レロクは、よしじゃあお前のことはもうそれでいい、と言った。
「で、ラギをぎゃふんと言わせて俺の足元に跪かせて、俺の魅力にめろめろですと言わせて抱かせてくださいと懇願させる大計画の進捗なんだが。なぜか思わしくないのだ。どういうことだと思う……?」
「うーん? 陛下が御結婚なさるからぁ、お兄様も結婚しなくちゃいけないですから、ラギさんたら傷心なのでは……? これはその傷心につけこむ一大チャンスですよおにいちゃ! 二人きりになりたいですとかぁ、お部屋に連れ込むです! それでね? それでね? ラギさんのになりたいの……って言いながらお服を脱ぐです!」
「どーせお前似たようなこと実行した後だろーな。結果を聞いてやろう」
 大興奮で目をきらんきらんに輝かせて興奮していたソキは、ぴぎゅっ、と潰れた声を出してソファに蹲った。妖精が帰って来たのかとも思うが、どうも上手く行かなかったことにヘコんでいるらしい。ずびずび鼻を啜りながら、聞いた通りにしてるんですうぅ、としょげかえるので、レロクはため息を付きながら、やさしい仕草でソキの髪を撫でてやった。
「残念ながらな……ラギはそのあたりに引っかからぬのだ……。残念ながらな……」
「ううぅうぅ、お兄ちゃんも試してみたです……?」
「そこそこな」
 まあ、と続く言葉をレロクは飲み込んだ。知らないソキと違って、知っていて試した、のだが。その結果が、やはり駄目だった、という予想通りのものであったからと言って、一々落ち込む可愛げは持っていない。だから、もう、他の方法で行くことにしているだけだ。なにか有効な手を知っているなら教えて欲しいです、と期待に満ちた目を向けてくるソキに、そのうちな、と言い置いて。
 レロクは、それはともかく、と計画の不安な進捗具合にため息を付いた。
「問題は陛下の御結婚だな……。あと一年は伸ばせると思っていたのだが……これでは今年中に決着をつけないといけなくなったではないか……」
「……おみあい、するのぉ? ソキよりかわいーお嫁さんなんて見つかる筈もないとぉ、思うんですけどぉ、お兄ちゃんおみあいするのおおぉ?」
 指摘すると烈火のごとく怒るのでレロクは口を噤んだが、ソキの顔にはでかでかと、おにいちゃんがどこぞのうまのほねにとられちゃうですぅうううういくないとおもうですうううう、と書かれている。ソキよりかわいくないお嫁さんにおにいちゃんを取られるくらいなら、ラギさんに早くとってって欲しいです、と思っている頬のふくらみだった。見合い、なぁ、と気乗りしない様子で当主は呟く。
「ひとつやふたつはしなければならぬだろうな。付き合いというものがある」
「ソキには分かっちゃうです……お見合いなんてしたら、お兄ちゃんのあんまりの美人さに、皆がめろめろになっちゃうです……。どうしても結婚してくれなくっちゃいやいやってされて、貿易とか、取引とか、今後に影響するような条件を出してくるに違いないです……。お部屋に閉じ込められて、はいって言うまでお家に帰ってこられなくなるかもしれないです。いくないのでは? お見合いは危ないですよ、お兄ちゃん。ソキの言うことを聞かないといけないです。わかったぁ?」
「もちろん、そのようなことにならぬよう、準備はさせて頂きますよ、ソキさま。……レロク」
 十五分、よりはやや遅く。それでも二十分よりは早く戻って来たラギに、レロクは隠さず舌打ちを響かせた。そんなに気に入らないのなら、見合いだのなんだの準備をしなければいいだけの話である。随行してきたメグミカが、ラギからすすす、と離れてソキの元へ戻って行く。とたんに、ロゼアちゃんはねえロゼアちゃんの試着は終わったのスカートなのリボンなのレースなのきゃぁんきゃぁんっ、とはしゃぎだすソキに、レロクは息を吐いて。
 まあ、春になる前には連絡をしてやる、と言った。ソキだけに。声はもちろん聞こえていただろうが、ラギは苦笑して留まった。ただ静かに、悪だくみをなさらない、と咎めるだけで。その中身を暴こうとはしなかった。レロクはすっと目を細めて、諦めてやるものか、と思う。当主としての義務も。『花婿』として抱いた願いも、望みも。欲望を、全て。諦めてやるものか。絶対に。そして、その日が来たら。
「レロクにめろめろです好きです愛しています抱かせてくださいお願いします、とかなんとか言わせてやるのだからな!」
「全部口に出ていますよ、レロク」
「言ってない」
 ぷいっと顔を背けて、言ってない、言ってないったら言ってない、と言い張るレロクに、ソキがきゃぁんと頬を赤らめて身をよじる。ほんとうにレロクさまったら、ソキさまにそっくりなんですから、とメグミカはうっとりと笑った。



 ナリアンが『お屋敷』にふらりと姿を見せたのは、長期休暇が残り十日になった朝のことだった。ソキたちが『学園』に戻るまで、あと一週間となった日のことである。早朝とは言えぬまでも、人が訪ねてくるには早い時間だ。ソキはもむもむと朝食を口にしながら、きょとん、とした目で、現れたナリアンと、心配そうに眉を寄せるメーシャ、座って、と告げてから額に手を押し当てて呻いたロゼアのことを見比べた。
 そーっと、野菜がとろりと煮込まれたミネストローネをロゼアの朝食に移動させながら、ソキが不思議そうにナリアンに問う。
「ナリアンくん、朝ごはんは食べましたか? まだなら、ソキたちとご一緒ご飯をしてくれるといいです。あっ、ソキのこのスープを飲んでくれてもいです」
「ソキ、それはソキのスープだろ。食べような。はい、あーん」
「あー……むぅー……」
 ソキが、ロゼアのあーんにはしゃがないのは珍しい。お言葉に甘えようかな、と椅子を引いて座りながら、ナリアンがいっそ恐怖を覚えた顔でソキちゃんどうしたの具合でも悪いの、と声を零す。もむもむとやる気のない顔で口を動かすソキに代わり、ロゼアが悪い訳ではないけど、と苦笑した。
「月の障りでおなかが痛いんだよ。ソキ、そのスープを食べたらお薬を飲もうな」
「うゅううぅ……。あっ、もしかしてなんですけどぉ、ナリアンくんも追っ手から逃げて来たんです? 花舞の人たちに苛められちゃったです? メーシャくんと一緒にお泊りする?」
 ラティの騒ぎの詳細を知らずとも、それで大まかな事情を察したのだろう。大変だったね、と声をかけられて、メーシャは避難してからはそんなことないよ、と和やかに微笑んだ。
「『お屋敷』の人たちが、皆とてもよくしてくださるから。ラティに会えないのはちょっと寂しいけど、元気にしているのはもう分かるから不安にはならないし……。それで、ナリアンはどうしてここに? 来週には戻るって手紙読まなかった? 寂しくなったから会いに来てくれた?」
「会いたかったのもあるけど、逃げたかった運命から逃げきれなかった感じかな……」
 つまりは、女装する服の試着に呼び出されたのだった。仕事の忙しさを理由に断り続けていたら、昨夜、花舞の女王陛下直々に明日行っておいで、と告げられてしまったらしい。楽しみにしているからね、と添えられた言葉にナリアンはお許しくださいと懇願したのだが、哀れみたっぷりの師になにごとも経験だと雑に慰められてしまえば、もう逃げることはできなかった。言外に、女王陛下の楽しみを損なわせるつもりはないだろうね、という圧を感じた為である。
 そっか、と微笑んで頷いたメーシャは、そっか、ともう一度呟いて無言で胃のあたりを手で押さえた。ようやく精神的な眩暈から解放されたロゼアも、虚無と見つめ合った者の瞳で、そういえばナリアンの衣装もだいたいはできたって言ってたっけ、と呻く。
「……というか、いつの間にか、『お屋敷』の衣装部が三人分の服を作るようになった事件の流れが分からない……。犯人はルルク先輩と筆頭だということは確定しきってるし、動機は楽しそうとかそういう骨折って欲しい感情が溢れる所にあるということは分かってるんだけど、三人分……衣装部だって暇じゃないだろうに……誰だよ許可したの……」
「ロゼアちゃん? ロゼアちゃんと、お泊りだったメーシャくんだけだと、ナリアンくんが仲間外れでしょう? かわいそうなことです。ソキがけんめいにお願いしておいたですからね。これでもう安心、ということです。えへへん!」
 レロクにも、いいでしょうねえねえ、仲間外れいけないでしょ、ねえねえ、とお願いしてあげたらしい。ふんぞり返って褒め待ちをするソキに、ロゼアは柔らかく微笑みかけた。
「……そっか。ソキは思いやりがあって可愛いな。……ごめんな、ナリアン」
「謝らないでよ、ロゼア。悪いのはロゼアじゃないんだから」
 ただ、これ以上の被害拡大は免れたい。頼んでいいかな、と告げるナリアンとメーシャに心から頷いて、ロゼアはソキに言い聞かせた。
「ソキ、ありがとうな。でも、ルルク先輩を手伝ってあげるのはやめにしような。レロク様もお忙しいのだから、おねだりしたらいけないだろ。……ソキは、レロク様がなににお忙しいか知ってる?」
「うふん? あのね、ないしょのめろめろ大計画なの。それでね、ソキよりかわいー! 女の子が見つからないから、ラギさんはきっと、お兄様のお見合いを諦める筈なの。お兄様の女の子の、かわいーの一番は、ソキ! ソキなんでぇ。これはもうくつがえらないことなんです。ロゼアちゃん? 分かった?」
「ソキ。御当主様のお見合いの邪魔するの駄目だろ」
 ロゼアとて、ラギの気持ちは痛いほど分かる。だからこそ積極的に応援している訳ではないのだが、心を殺して業務遂行に勤める当主側近の、邪魔をする訳にはいかないのだった。目を合わせてしっかり言い聞かせてくるロゼアに、ソキはぷっくぷくに頬を膨らませてちがうもん、と言い張った。
「邪魔じゃないもん。ソキよりかわいく、可憐で、清楚で、あいらしかったら、お兄様とお見合いしてもいいですよ? って言ってるんだもん。肖像画を見せて貰ってるだけだもん。お手伝いだもん」
「ラギさんはなんて言ってるの?」
「『ふふ。仕方ないですね。ソキ様のなさることを止めるだなんて『花嫁』に対する不敬では? ですからこれは仕方のないことです。そうですね。燃やしましょうね』って言ってたもん」
 ここ半月、ラギのやる気に関わらず、御当主様の婚姻まわりが遅々として進まない、と『運営』が嘆いている理由がよく分かった。そのやる気は見せかけのものである。ソキが『学園』に戻ればまた仕方がなく選別などをするだろうが、制定の基準がそれでは、候補から残る筈もない。ソキちゃんはお兄ちゃん取られたくないんだねぇ、とほのぼのと見守るナリアンとメーシャに、ちがうんですぅう、と拗ねた声が抗議する。
「これはソキとお兄様のすばらし計画なの。お見合いの相手がいなければ『運営』も諦めるです。でもでも? 後継ぎ必要でしょ? って言われたらチャンスなんでぇ、お兄ちゃんとシフィアさんのこどもを、養子に貰うことになってるです。シフィアなら三人くらいは簡単だろってお兄様も言ってたですし、お兄様とお兄ちゃんは兄弟みたいなものだから、実質血が繋がってると言っても過言ではないですし、つまり直系の後継ぎだとして問題ないのでは? ってお兄様が言ってたですうぅ」
「うん。過言だし問題しかないし、ウィッシュさんは知ってるのかな?」
「その計画でしたら、頓挫させましたから御安心くださいね、ソキさま」
 ナリアンの分の朝食をもって現れた、ラギの言葉である。なんで給仕なさってるんですか、と頭の痛そうな声で問うロゼアに、お客人が来たと聞いたので様子を見に、とそつなく当主側近が囁く。よかった、と胸を撫でおろすメーシャに、ソキはええぇ、と声をあげる。
「お兄ちゃんだって、うーん、どうしてもそれしか方法がなかったら、フィアが良いって言ったらねって言ってくれたですのに……」
「そうですね。しばらくは方々だけで会話なさるのを禁止にしましたので、ロゼアも安心するように。……レロクも、ジェイドを敵に回しますよ、と言ったら納得してくれたことですし」
「養子……そう、養子と言えば、陛下が養子をとるかも知れないっていう話が出ててね?」
 頂きます、と朝食に手をつけながら、ナリアンが提供した話題がそれだった。目をきららんっと輝かせたソキが、花舞の陛下のおはなし、してぇ、と先を促す。ロゼアと一言、二言響かない声で言葉を交わして出ていくラギを見送ってから、ナリアンは柔らかく苦笑して、ほら御結婚の話がたくさん出たからね、と囁いていく。
「後継ぎのこともあるし、女王陛下は御結婚なさりたくないご様子……というか、魔術師と戦って勝ったら求婚の資格を得られる暗黙の了解があるから……。全員との勝ち抜き戦闘、挑戦一回のみって、結婚させないと同義では? 駄目とかさせないとか、そうは言っていないだろう? ってロリエス先生は仰ってたけど、言っているに等しいのでは? 死傷させなければ事故って口に出して言ってはいけない単語だったのではないかな?」
「それで、養子?」
 細部には突っ込まない、決してだ、という視線をメーシャと交わし合ってから、ロゼアがそう問いかける。そういうこと、と頷いて、ナリアンは大口でサンドイッチに食いついた。きちんと飲み込んでから、再度口を開く。
「薄くでも王家の血を引いていれば、王位の正当な継承が出来る可能性がある、んだったかな? 五ヵ国のどの王家も相互に婚姻の歴史があるし、そこから一般の人と婚姻なさった方もいらっしゃるし、それを踏まえれば養子に迎えられる可能性があるひとって、結構いるらしいよ。『学園』にも何人かいるらしいし。寮長とか、ハリアスさんとか、メーシャくんとか」
「うん! 知りたくなかったな!」
 おかげで、星降の陛下を、ますますパパだのなんだの呼ぶ訳にはいかなくなってきた。呼んだら最後、メーシャを養子に迎える準備は終わってるんだー、と言い出しかねないからである。ロゼアは親友に気遣わしげな目を向けて、心の底から言い放った。
「大丈夫だよ、メーシャ。花舞も、星降を相手取るようなことはしないと思う」
「そうですよ、メーシャくん。いざとなったら、リトリアちゃんに、めってしてもらうです」
 魔術師が有する、現在の唯一にして最強の王家鎮静手段がリトリアである。最も効果が高いのが花舞と楽音だが、他の王家に対して使えない訳ではない。そうかその手が残っていた、と希望を見出した明るい笑顔で、そうしようかな、とメーシャは言った。
「リトリアさんに相談してみることにするよ。ストル先生と、ツフィアさんの件が落ち着いたら」
「ああ、まだ交代できていなかったんだっけ?」
「陛下方全員と、リトリアさん、ストル先生とツフィアさん、フィオーレさんとレディさん、全員の予定を合わせる必要があるらしくて。調整に難航しているんだって。春までには、って先日仰っていたけど」
 書面の取り交わしてどうなる問題ではなく、なにやら儀式的な契約を交わさなければならない、というのがその理由である。そして契約であるから、取り交わすのは簡単でも、破棄するのが難しい。破棄と、再契約。その二つを同時に行う為には星の巡りとも重ね合わせる必要があるらしく、日が決まりかけては難しくて流れてしまう、というのを繰り返している状態だった。
 どの国も落ち着かないね、とナリアンが苦笑する。そうだな、と頷きかけて、ロゼアは浮かび上がった疑問をそのまま問いかけた。
「どの国も、というと……白雪でも、なにか?」
 砂漠と星降は言わずもがなであり、花舞の事情は聞き、楽音はリトリアの件が保留であるなら落ち着かない状態だろう。けれど白雪は、今の所、取り立て問題は起きていない筈である。すくなくとも、ジェイドがロゼアにちょっかいをかけながら、あれこれ教えてくれる噂話の中では。不穏なものだろうか、と顔を曇らせるロゼアに、ああ、とナリアンが首を横に振る。
「大丈夫、そういうのじゃないよ。ただ……」
「ただ?」
「うん……。なんていえばいいのかな……。いやほんと不穏なことじゃないよ。全然……なんていうか……うわって感じがするだけの……いや不穏じゃなくて……問題しかないけど問題じゃない話っていうか……。白雪の女王が胃痛で吐血しかけただけっていうか……」
 だけ、で済ませて良い問題ではない。なに、と眉を寄せるメーシャとロゼアに、ナリアンは今現在の平和の尊さを噛みしめ感謝する者のまなざしで、いやほんとそういうのじゃなくてね、と言った。
「なんでも、エノーラさんが男性と出歩いてるのをデートだと勘違いしたパトロンの女の子が、なんやかんやあって、思いつめて毒を煽りかけた所を他のパトロンの女の子が発見して保護して、なんやかんやあって、二人が恋に落ちて、それでエノーラさんがふたりの為に白雪でも同性婚ができるように法律を変える為に働きかけてて」
「うん? ……うん? うん?」
「つまりチャンスがあるのではってはしゃいだ他のパトロンの女の子たちがドレスとか宝石とかをすごく買って着飾ったことによって経済効果がすごくて、でもエノーラさんは特定の女の子と結婚するつもりはないって公言していて、可能性があるとしたら女王陛下だけよって言ってお断りをね、律義にね、したせいでね。一度だけでいいのでお許しをくださいっていう決闘状が陛下に殺到する騒ぎになっててね」
 力こそパワー。勝ったら勝ち、という女王陛下の信念が、深く国民にまで浸透した結果の、決闘状である。つまりしばらく白雪の国には関わらなければいいんだな、という結論で、ロゼアとメーシャは思考を停止した。ふんすふんす、興奮してはしゃいだソキだけが、『学園』に帰ったら先輩たちにおはなしをお聞きするぅーっと盛り上がっている。ちなみに、一緒に歩いていた男性、というのがウィッシュらしい。
 当事者から逃れきれない予感を察したロゼアは、ゆっくりと天を仰いで息を吐いた。 

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