緊急の外出届は無事に受理された。とはいえ、なにか重大な事件が発生してのことではない。実家から持参した資料返却の為、と書き添えただけの理由に、緊急と付け加えて処理に回したのは、いたずらっぽく笑う砂漠の筆頭の仕業だった。神出鬼没の春風のようなそのひとは、唖然とするユーニャにちょっとした物差しになるから覚えておくといいよ、と言った。これがどれくらいの速度で処理されて許可が出されるかによって、各国から見た『学園』の状態認識が推し量れるからね。裏技だけど覚えておいて損はないから、と微笑みかけられた言葉に文句を言わなかったのは、実際の所、その情報が金にも勝ると判断できたからだった。そうでなければさすがに、鼻歌交じりにそれじゃぁねと用紙を回収していく筆頭から、奪い返すことくらいはユーニャだってしていた。
落ち着きを取り戻しつつある、と思うのは『学園』の内側からの判断だ。ユーニャは努めて冷静に、公平に、第三者的な視点を持ってその判断を下したいと思っているが、それにしても限度がある。だから、その情報が欲しかった。外部から見て。すくなくとも、二つの国の王宮魔術師の目を通した判断として。『学園』は落ち着きを取り戻しつつあるのか、否か。そこから未熟な魔術師を、外に出してよいのか、否か。ユーニャは楽音の国出身だ。そうであるから年末年始の特別休暇を除く帰省には、星降と楽音、二つの国の承認が必要となる。緊急の門限がつけられた書類が、一つの国を通過するのに、最短だと三時間。長ければ十二時間。却下であればその時点で書類は戻され、許可であれば次の国へ回される。
六時間前後で許可が戻れば、それがなによりの安定の証拠。却下であっても戻ってくるまでの時間で、様々な思惑が推し量れることだろう。ユーニャが砂漠の筆頭にやわらかく絡まれたのは、その日の早朝。書類が戻ってきたのは、夕食を終え、湯を使い終わって寝る準備をしていた時のことだった。書類はたった一枚、空を泳ぐようにして現れ、ユーニャの手元に落とされた。許可。ただし、以下の三つの条件を遵守すること。ひとつ、いかなる場合であっても魔術を行使しないこと。ひとつ、滞在時間は五時間以内に留めること。ひとつ、星降と楽音の王宮魔術師に桃の菓子の差し入れをすること。んふっ、と押さえ切れない笑いを零して、ユーニャは立ち上がった。
本日未明から執り行われた桃祭りは、大量の蜜柑が混入されたのち、盛大に執り行われた。夕食には生の桃やそれを使った生菓子の他に、日持ちするよう加工された大量の焼き菓子が並べられ、あと三日間くらいは耐久戦で食べてもらう、などという通達がなされていたので、慌てなくとも差し入れする分はある筈だった。部屋にある一番大きな籠をふたつもって外出着に袖を通し、いくつかの本や紙束を鞄につめ、ユーニャは部屋を後にした。今からの移動は、『扉』を使うにせよ、到着は深夜だろう。五時間以内の往復だから、戻って来るのもまだ日が昇らぬうちである。目立ちたくはない往復だ。だからこそユーニャはすこし、ほっとして肩の力を抜いた。
幸いなことに余分のあった生菓子をいくつかと、大量の焼き菓子の差し入れは、どちらの国でも大歓声で迎え入れられた。王宮魔術師たちはユーニャをくしゃくしゃに撫でまわし、感謝の言葉と一緒に、行ってらっしゃいと明るい笑顔でその背を押した。誰も理由を聞くことはなく。誰も咎めはしなかった。はい、とだけ答えて、そこからは馬で夜道をかけた。ユーニャの実家は、王宮から徒歩だと三十分程度の道のりだ。長く散歩をしたい気分の時は除き、いつも馬を使ってかけていく。ただ、夜に乗るのは本当に久しぶりのことだった。『学園』へ招かれるたびの途中でも、帰省の時にもそんなことはしないので、ぼんやりと幼い頃のことを思い出す。
ソキとも、ロゼアとも、ナリアンとも、メーシャとも、誰ともきっと重なりはしないのだけれど。ユーニャも、未来に夢を持って生きていた。そうあるのだよ、と囁かれて生きて。そうあるのだ、と胸をときめかせて日々を過ごして。幼い頃。まだ世界の闇の深ささえ知らぬ頃。兄姉に連れられて、夜の星を見に野原をかけた。ふ、と空を見上げて、ゆるく目を細める。星は常に、魔術師の友だ。けれども。それでも。星の輝きは、幼い記憶となにも変わらず。ただ静かに、美しく、瞬いている。
三ヶ月ぶりに辿り着いた屋敷は、幸いなことに変わりがないようだった。門の左右に広がる背の高い壁は綺麗に清掃されており、内側に抱く庭園の緑をほんのわずか覗かせている。帰る、という知らせは間に合わないから、出さなかった筈なのに。出迎えた老執事は夜道を走られるだなんて、と幼い子に言い聞かせる語り口で、馬から降りたユーニャの服を、埃落としにぱたぱたと叩いた。
「いけません、と先日も申し上げた筈ですが? 若君ときたら、この老いた執事の忠言など一向に聞いてくださらない……。困ったものです」
「あのね、俺はもうひとりで服くらいはたけるんだよ。もう二十二にもなったんだから、恥ずかしいよ」
「さようでございましたか。それで若君、お疲れでしょう。本日はすぐにお休みなさいませ。あいにくと兄君は明後日までお戻りになられませんが、奥方様と姉君がおられます。挨拶は明日でもよろしいかと。……そうそう、軽食と湯の用意がございます。野苺のジャムのサンドイッチにいたしましたよ」
だからぁ、と顔を赤くして、ユーニャは玄関先にしゃがみこんだ。明かりがひとつ、ふたつ灯されたきりの玄関は、まばゆくはないが暗くもない。出迎えはこの老執事と年若い女家事長のふたりだけだったが、どちらの視線も暖かくてなまぬるくてユーニャを可愛がるものだった。老執事は五百歩くらい譲って仕方ないにせよ、三つ年上なだけの女家事長にもそういう視線を向けられるのは納得がいかない。幼い頃からの顔見知りという以前に、明らかに先代の祖母から引き継いだ悪影響である。これもしかして執事が代替わりしても同じなのでは、という嫌な予測に顔を引きつらせながら、ため息をついて立ち上がる。
「許可された滞在は五時間だよ。荷物を戻したら帰らなきゃ」
「若君そんな……! いけません。このままお戻りになられるだなんて……! 魔術師の方ときたら、どうしてそうせっかちなのかしら! 仕方がありませんわ、許可証を破りましょうね」
「なんにも仕方がなくないよ。ちょっと辞めて。ちょっと……あのね! 騒ぎがようやく、なんとか落ち着いたトコなんだから。俺が騒ぎになる訳にはいかないんだよ。また泊りの許可を得てくるから、今日はほんと勘弁して……」
あらあら、まあまあ、とおっとりした口調とのんびりとした動作で、あれよあれよと荷の中から的確に許可証を探り出し、よいしょ、と引き裂こうとする女家事長の手を握ることで止め、ユーニャは疲れ切った声で懇願した。まったく、年末年始だって殆どの日数、ちゃんと家にいたというのに。もぉー、と弱り切った声が零れていく。
「ふたりとも、はやく、いいかげん、俺離れして……。というか、帰りの知らせは出さなかった筈なんだけど、なんで準備万端に待ち構えられたの……? もしかして砂漠の筆頭からなにか知らせとか来ていた?」
「いいえ? ただ、奥様が、数日前からそわそわなさって。今日の朝に、あっユーニャが帰ってくる! お出迎えをしなくちゃいけないわ、と申されましたので」
「……うん。うん、うん……? うん、そっかぁ……?」
どんな虫の知らせを受けたのだか、合っている分そら恐ろしい。魔術の適性がなければいいんだけれど、とため息交じりに口にすれば、女家事長がころころと可笑しそうに笑った。
「ご安心召されませ、若君。ひとつの季節に一度はそう仰いますのよ。今回はたまたまですわ。いつもなら手紙が届くくらいですもの」
「そっ、かぁ……? それなら、うん……?」
いまひとつ納得しきれない所ではあるが、ユーニャはよしとすることにした。というか、そのたびにまさか、本当に帰って来ても大丈夫なよう、出迎えを整えて待っているのだろうか。問えば答えが気恥ずかしく響く予感がしたから口を噤んで、ユーニャはとりあえず、を気を取り直して顔をあげた。
「そういうことだから。ゆっくりするのは、また今度ね。書庫へ資料を戻したら、もう行くから。その間に、馬の手入れを頼んでもいい? 水をあげて、すこし休ませてあげたい」
「承りました、が、すでに馬番がそのようにしております。……軽食は持ち帰れるようにお包みいたしましょうね。それとは別に、一息ついてくださいまし。お茶の用意をいたします。書庫からお戻りの際に、ちょうど整うよう準備してまいります」
「……みんな、寝なよ……」
このままでは、ユーニャが屋敷を出立するまで、総出であれこれと世話を焼かれかねない。時刻はすでに日付変更もほど近いのだし、勝手知ったる自分の家である。大丈夫だから、と主張するのに女家事長は微笑んで一礼して立ち去り、老執事はユーニャからそつなく荷物を引き取り、手の中で涼やかに、書庫の鍵を示して見せた。
「さあ、参りましょうか」
「……俺は、俺はね、お姫ちゃんたちが『ひとりでできるもん!』ってする気持ちがね、本当に、本当によく分かるんだよ……。鍵貸して。一人で行ってくるから。声かけないで帰ったりしないから。鍵貸して。貸してったら!」
「若君。昼間ならともかく、もう遅い時間です。危のうございます」
ごく幼い頃。書庫でかくれんぼをして眠り込み、夜に目が覚めてぴいぴいと泣き騒いで以来、ユーニャは一人で書庫へ行くことができないでいる。『学園』に行く前も。魔術師のたまごとなって、数年が経過した今も。ねえ俺はもう大きくなったんだってばっ、と顔を赤くして主張すれば、老執事は穏やかに微笑み、存じておりますよ、と囁いて歩きだした。手に鍵を持ったまま。ねえ全然分かってくれてないよね、とユーニャがぱたぱたと後を追う。笑い声が穏やかに、深い夜の廊下の空気を震わせた。
書庫の暗くしっとりとした空気を吸い込んで、吐き出し、ユーニャは本棚の並びを再度確認した。ユーニャが『学園』から運んできたのは、この屋敷の蔵書である。先のロゼアが独房で自主反省を行った一連の事件、そこから広がった動揺を宥める為に、この資料が有用だとして急遽取り寄せたからである。帰省は許可が出ず、叶わなかった。可能な限りはやく、と資料を求めたユーニャに、当主たる兄とその補佐である姉は、理由を問わずに答えてくれた。ユーニャが指定したのは、この屋敷が蓄積した『花嫁』『花婿』についての資料である。それが必要な事態であるならば、と渋りもせずに送られてきたことが、どれほど嬉しかったか。
ユーニャの家は『花園』と呼ばれている。砂漠の『お屋敷』と特定の契約を結んだ一族の本家をそう呼び、各国に必ずひとつ、多い国でもふたつを限度としているのだという。『花園』同士の繋がりは、ささやかで希薄だ。連絡を取り合うことは稀で、交流は挙式に祝いを送り、葬式に弔辞を送る。それくらいのものだった。各々の内情については詳しくならないでいる、というのが不文律で、それでいて有事には手を差し伸べて助け合う、奇妙な共生関係として代々繋がっている。それは嫁いでくる『花嫁』『花婿』の血を混じらせない為の措置だった。花から直に繋がる次代があるのは稀なこと。そうであるからこそ、その血はその家だけで繋げられていく。
過去には深く交流があり、婚姻も入り混じっていたのだと聞く。その結果、幾多の不幸があったとも。花の血は弱く脆く、けれどもあまりに魅力的だ。交じり合った血は周囲を惑わし、時に都市を滅ぼす争いとなり、時に国を傾ける災いともなった。それは何度繰り返されようと、制御不可能な『災害』として歴史に名を残す。故に、『花園』は交流を絶やした。『花園』はあくまで、お迎えした花に幸福に咲いてもらう為の場所。伸び伸びとした楽園が目指されるのであって、そこが焦土になるのであれば、閉ざされるのは道理だった。ユーニャが家に求めたのは、特にその混血世代が周囲に与える影響についてを記した資料である。
彼らは花の影響を色濃く宿して生まれてきたのだという。外見思考性格嗜好、様々なものが、不思議と『お屋敷』で育った花と酷似していたのだという。そうであるから彼ら彼女らはあまりに無防備に、奪い合われ争いの火種となり、信仰を受け、そして守り切られることが叶わなかった。ユーニャはその求め奪い合う周囲の動乱と、今回の砂漠の民たちの心境を重ね合わせ、そこに打破の為の糸口を求めたのである。『学園』の『花嫁』は、ロゼアがいたとて、信仰を持つ者にとってはあまりに無防備であったろう、として。今後、適切な距離を取らせる為にも、破滅の歴史がどうしても必要だった。
幸いにして。ソキと砂漠出身者の交流は、『花園』同士のように断絶させなくてもよい、とユーニャは結論付けた。自治会も同じ判断を下し、寮長にもそれは共有されている。ソキへの信仰は個人に対したものでありながら、あくまでも『花嫁』『花婿』『傍付き』という立場に対しての概念的な面が大きい。ソキはあくまで、魔術師のたまごであり、未だ幼い後輩であり、そして元『花嫁』だ。紆余曲折あったとはいえ、今は『学園』の誰もがその結論に辿り着いている。よかった、とユーニャは胸を撫で下ろした。平和の為になにかを排斥しないといけないこと。平穏の為になにかを切り捨てなければいけないこと。それは、どうしても、ある。正しくはなくとも。あるのだ。
ふ、と肩の力を抜いて、ユーニャはすこし離れた場所で見守っていた老執事を振り返った。普段の部屋の管理はともかく、この一角、この資料群だけは、『花園』の中でも直系の者のみが触れることを許されているから、近寄ろうともしていない。視線だけが向けられている。そういえば幼い頃、かくれんぼをして眠り込み、夜に目が覚めてぴいぴいと泣き騒いだのもこの一角であることを思い出し、ユーニャは口元を引きつらせながら老執事に歩み寄った。ユーニャが思い出したのなら、老執事がそれを思い起こしていない訳がないからである。ととと、と小走りにより、なにを言われるよりはやく、ユーニャはあのねと口を開いた。
「俺はもう、暗いし誰もいなくて怖い、とか泣いたりしないんだよ。俺はもう二十二歳だからね。十年以上前のことだからね。分かる?」
「もちろんでございます、若君。お強くなられましたな」
「うーん絶対分かってないんだろうな、ということが分かる……」
おおきくなったのっ、もうおとななのっ、と言い張る五歳児をほのぼのと見守る、穏やかな目をしているからである。もぉー、とため息をついて、ユーニャは足早に書庫の扉へと向かった。なにせ五時間の往復である。桃祭りの菓子の分、多少は見逃してくれるだろうが、それにしてものんびりしていたらあっという間だ。お茶をしたら帰るからね、と老執事に告げると、かしこまりました、と言葉が返る。ほんとに時間を超えると大騒ぎになるし王宮魔術師が捕獲しに来るし重罪なんだからね、と重ねて告げれば、存じておりますよ、とそつのない響き。いまひとつ信頼しきれずに微妙な心地で息を吐けば、おや、と老執事が声をあげる。
ユーニャに対する言葉ではないようだった。ふ、と顔を上げると書庫を出た先、茶室へ向かう廊下の曲がり角から、ぴょこり、と覗く顔と目が合う。あっ、と嬉しそうにとろける少女の声。ユーニャは思わず天を仰いだ。
「……いやなんで……? なんで起きて……。……っ、お姫ちゃ……いや、ええと、あ、義姉上? お、おやすみなさい……?」
「あら、いけないわユーニャ! ミルゼを寝かそうとするだなんてっ! それに、言ったでしょう? 義姉上じゃなくて、お姉ちゃんでいいのよ、って! ミルゼ、でもいいけど、お姉ちゃんでいいのよ? ふふふ。ユーニャを待っていたの。ミルゼとお茶をしましょうね」
「じ……時間に限りがありまして」
しどろもどろに、往復五時間以内で戻らなければならないのだ、と告げるユーニャに、ふぅん、と甘い声がふんわりと響く。やや不服な時の返事の仕方が、驚くくらいソキに似ている。それもその筈、ミルゼはユーニャの兄に嫁いだ『花嫁』である。ソキとは血の繋がりがほぼ無いと聞くが、幼い頃は仲の良い姉妹であったとも聞いていた。きらきらと輝く銀糸の髪に、陽光をたっぷり宿した碧の瞳。ソキよりは幾分か背が高く、そして立ち姿はもっと不安定だ。ミルゼはうぅ、とくちびるにうんと力を入れながら、かつん、と杖をついてゆっくり、ゆっくり、歩いてくる。道具の助けを借りながら。それでも、背を伸ばして、ひとりで。
老執事は誇らしげな笑みで、屋敷の女主人に一礼した。ミルゼはふうふう息を切らしながらも、天を仰ぐユーニャの前に辿り着く。ミルゼは、もうユーニャったら、と甘くふわふわと響く『花嫁』の甘え声で、義理の弟たる魔術師のたまごに笑いかけた。
「魔術師さんの決まり事と、ミルゼのどちらが大事なの? ミルゼでしょう? ……さ、行きましょうね、ユーニャ」
「その通りでございます、奥様」
「その通りではございませんがっ……? 義姉う、え……。み……ミルゼ、さ……さま……」
常、あるような。『お姫ちゃん』という呼びかけは、いやなの、とぷいっとされていたので使うことができない。冷や汗をだくだくかきながら、なんとか、絞り出すように呼び掛けたユーニャに、ミルゼはとろける笑みで囁いた。
「お姉ちゃんでいいのよ?」
「勘弁して……許してください……。なにとぞお慈悲を……」
「もう、ユーニャったら。またそんなことを言って」
ぷぅ、と頬を膨らませたミルゼは、呻くユーニャの顔を下から覗き込んだ。うふふ、と楽し気に、頬をつむりと指先で突いてくる。さぁ、お姉ちゃんとお茶をしましょうねぇ、そうしたらお出かけを許してあげますからね、とわくわくしきった上から目線の物言いに、ユーニャは胃のあたりを手で押さえて力なく頷いた。ミルゼが嫌いな訳ではない。ロゼアがソキを嫌うくらい、そんなことはあり得ない。ただ。ソキは未だに、ミルゼがユーニャの家に嫁いだことを知らない。ロゼアもそうだろう。砂漠の筆頭は半分くらい情報を得ていて、あえて確認していない節があるし、ウィッシュも意識しないようにしているからか、ユーニャにそれを問いただしたことはない。
ユーニャの家は『花園』だ。そこには、かつてソキが夢見ながらも叶えようとせず、ロゼアが語り聞かせた、『花嫁』が嫁いだ先の幸福がある。その、幸福に。瞳をきらきらと輝かせて、ミルゼは甘えた仕草でユーニャに腕を絡めた。
「さ、ユーニャ。お茶をしながら、ミルゼにおはなしをして?」
「……え、ええと。な、なんの、でしょう……?」
「ソキかロゼアが騒ぎを起こしたのでしょう? そのおはなし」
勘弁してください、とユーニャは呻いた。心から、混じり気の無い気持ちで、純粋に、まっすぐに、強くつよく思う。
「いやほんと勘弁してください……! というか、なぜ、そのふたりが、騒ぎを起こしたとお思いで……?」
「ユーニャ? 旦那さまに頼まれて、資料を選定したのはミルゼなのよ?」
「兄上……!」
道理で的確、かつ細かい補足事項などが書かれた紙片などもついていた筈だ。ユーニャも多忙かつ動揺していなければ気が付いただろうが、今の今まで分からなかった。ミルゼはふふふ、と笑うとユーニャの腕を引き、ふらつきながら、ゆっくり、ゆっくりと茶室の方向へ歩き出した。その足取りはたどたどしく、ソキがしっかりと見える程。ふう、ふう、と息を切らし、時折咳き込みながらも、ミルゼはゆっくりと歩いていく。己の足で。諦めず、助けを求めることもなく、歩いていく。視線はまっすぐに前を見ていた。顔立ちはソキと似ていない。それでもその眼差しの強さが。ソキにとてもよく、似ていた。
ミルゼがユーニャを引っ張ってきたのは、応接の為の待機室だった。ごく小規模のその部屋には、女家事長が整えたであろうお茶の一式が、慎ましやかに置かれていた。支度をした本人の姿はない。老執事と共に隣室に控えてはいるだろうが、室内にいるのはミルゼとユーニャのふたりきりだった。そうであるからミルゼは廊下に繋がる扉をあけ放ち、窓もほんの少し開けて空気を通しながら、ユーニャと共にちいさな円形の机を囲んだ。わたしがするの、とユーニャの接待を拒否して、よいしょ、よいしょ、と一生懸命にポットからカップにお茶を注ぎ入れる。滑らかではない動きだが、丁寧で、何度も繰り返されたことの分かる仕草。
ふう、と息をついて、ミルゼは焼き菓子を手に取った。これは誰それが焼いてくれたのよ、と報告されるのに、なんとなく頷く。覚えのある厨房方の名だった。ユーニャが今更心配するまでもなく、ミルゼはこの屋敷によく馴染み、人々の信頼と愛情、敬意を受け、日々をゆっくりと過ごしている。おいしいのよ、と焼き菓子を自慢しながら、ところで、とミルゼは目をぱちくり瞬かせた。こてり、と愛らしい仕草で首が傾げられる。
「ユーニャは、旦那さまを呼ぶのは『兄上』にしたの? 兄さんとか、お兄ちゃんとか、呼んでいたって聞いたわ? それでね? だから、ミルゼのこともお姉ちゃんでいいのよ」
「……正式に当主を継がれたこともあり、対外的にすこし改めさせて頂いたというか……本人には兄さんと呼びかけないとしちめんどくさいことこの上ないので、周囲が身内だけの時はそういう風にしていますけど。お兄ちゃん、なんて呼んだのは俺が一桁の時までです」
「ふぅん? そうなの? でも、ミルゼはお姉ちゃんでいいのよ。気にしないわ」
にこにこにこ、と笑って。ね、と同意を求めてくるミルゼから、ユーニャはそっと湯気の立つティーカップを受け取った。ふわり、ハーブの匂いが立ち上る。瑞々しく新鮮な匂い。庭で育てているものを摘んだのだろう。ふ、と息を吹きかけてからひとくち、喉を潤し。ユーニャは、にこー、と諦めないで待っているミルゼに、やんわりとした微笑みを向けた。
「ロゼアたちの話をしても?」
「あ、そうだったわ! それで、どちらが騒ぎを起こしたの? 騒ぎを起こされたの? 騒ぎに巻き込まれたの? ユーニャは大丈夫だったの? 誰か怪我は? 病気になったりしなかった?」
はい、と静かにユーニャは答えた。次々に重ねられていく不安をせき止める為に。大丈夫でしたよ、としっかり視線を重ねて、ユーニャは囁く。
「無事に解決しました。なにもかも全て、落ち着いた訳ではありませんが、なんとか」
「ソキ、ソキは? あのこ、すぐ、熱を……」
「ロゼアがちゃんと診ていました。今朝はとても元気になられて、出歩いてもいましたよ。大丈夫。……大丈夫。心配なさらないで」
胸を手で押さえ、ミルゼはようやく、ほ、と息を零して頷いた。ミルゼは国を出立する直前、ロゼアとソキが魔術師として、『学園』に召集を受けたのだ、と告げられていた。だからこそ『傍付き』と『花嫁』は離れることなく、離されることなく。今も一緒にいるのだ、と知っている。ミルゼが失ってしまった幸福の形。手放すことを決めた楽園。それが、ユーニャの日常の傍らに、息づいていることを知っている。ユーニャが見守る先、ミルゼは震える手で茶器を持ち上げ、ひとくち、こくりと喉へ通した。
「し……心配の、しすぎかしら、とも、思ったのだけれど……。ああいう資料が必要になるくらい、ソキが……ソキに、なにかあったのだと、思って」
「……大変な騒動でしたので、短い時間では、詳しくは申し上げられません。でも、お姫ちゃん、は……ソキさまは、頑張っておられました。あの資料は、周囲の動揺を宥める為、参考にする為に必要と思ってお願いしたもの。ソキさまが、誰かに……乱暴にされた、だとか。そういうことでは、ないのですよ」
うん、うん、と何度も頷き、ミルゼはじわりと浮かんできた涙を、指先でこすって誤魔化した。ユーニャは思い返す。一年とすこし前、この屋敷にミルゼが嫁いできた頃のこと。まだ誰ともぎこちなく、緊張して、上手く会話も続かないでいたミルゼが、嫁いだ人の弟が魔術師のたまごだと知るや否や、悲鳴のような声でソキを知っている、と問いかけた。魔術師のたまごになったと聞いたの、ソキ、ソキというの、ミルゼのいもうとなの、あんまり似ていないけど、でもいもうとなの、ソキ、ソキはほんとうに『学園』という所にいて、ソキは、ロゼアと、一緒にいるって、ソキは、ソキは。裏返った声で、たどたどしく告げるうちに浮かんだ涙をころころ零しながら。ミルゼは、懺悔のように囁いた。
好きって言えるうちに、仲良しで毎日ちゃんと会えるうちに。好きって言い飽きるくらい、顔だって見飽きるくらい、一緒にいればよかった。そうしたら、さよならだって言ってあげられたかもしれない。その混乱、その嘆きがあまりに忍びなくて。ユーニャはそれから、時折、兄たちと交わす手紙にミルゼの様子を問い、ソキとロゼアの仲睦まじい様子を書き添えては伝えるようにと懇願した。安心して欲しかった。ソキとロゼアは毎日、とても仲良く楽しく過ごしているから。そんなに不安になることはないから。今ミルゼが感じているであろう不安を、正しく、己のものとして消化してあげて欲しかった。
その努力は徐々に実って行った、とユーニャは思う。ミルゼはゆっくりと、ゆっくりと周囲と馴染み、その努力を惜しまず、また嫁いだ相手であるユーニャの兄とも、きちんと打ち解けようとした。挨拶を交わし、食事を共にし、揃って庭を散歩する。繰り返す日々を、穏やかな日常を重ねていく。ミルゼが刺繍を刺すのに困っている、と相談されたこともあった。ソキと違い、ミルゼはどうもそういった手芸方面には不器用なたちであるらしく、針が危ないので辞めさせたいのだが、すると言ってきかないので困っているのだと。ユーニャはそっと、名を出さず、ソキに助けを求めた。刺繍がうまくないひとが困っているのだ、と言って。
ソキは忙しい日々の合間に、時に手紙を書き、時に図説を描き、時に見本の品を仕上げては、ちょこちょことユーニャへ受け渡した。飽きてしまったのかと思うくらいに間隔が空くこともあったが、指南は途切れることがなかった。反応が人を介しているからこそ、相手がミルゼだとは分かっていないようだった。ミルゼは気まぐれに届くそれらを大切に受け取り、余暇の殆どを刺繍の練習に費やした。そうしているものの、上達は芳しいものではなく。そもそも向いていないのだ、と屋敷の者たちが気が付く事実から、ミルゼは一生懸命に視線をそらして、妹とのか細い繋がりを大事に育んでいった。
無事に人に渡せる程度に自分で納得できたので、兄に名入りのハンカチを渡せたそうだよ、と。ユーニャがソキに告げたのは、先の長期休暇明けのことだった。ソキは知らせに目を瞬かせ、ふんにゃりと、砂糖菓子が熱で崩れるような笑みでよかったですねぇ、と囁いた。ありがとうと言っていたよ、とも伝えれば、ソキはふふんと誇らしげに胸を張り、そきぃおしえるのじょうずなんでぇよろしければまだせんせいができるんでぇおつたえしておいてほしです、と言った。それを手紙に書くより早く事件が起きてしまったので、伝えそびれていたことを思い出し。ユーニャはそう言っていたよ、と涙ぐむミルゼに囁いた。
ミルゼは意外そうに目を見開き、うふふ、と嬉しそうにちいさく笑った。
「あのね、ユーニャ。ミルゼは思ったのだけれど」
「はい」
「ミルゼはもしかしたら、刺繍より得意なことがあるのではないかしら」
はい、とも。いいえ、とも告げず、ユーニャは微笑んで、例えばどんなことでしょうか、と問いかけた。『花嫁』はふふふ、と悪戯っぽく笑い、ソキとは違う色合いの、碧の瞳をきらめかせる。陽光をたっぷり抱く湖面、あるいは、窓辺に置かれた多肉植物の、ふくふくした葉の愛らしさに似た輝き。甘い声は蜂蜜ではなく、冷えた果物の香しい蜜に似ている。
「ミルゼね、ユーニャに渡す資料の選定が、じつはとても楽しかったの」
「そう……なんですか?」
「そうなの! ミルゼね、情報の流れがね、好きなのよ? 昔からなの。物事が流れていく時には、人の想いがあるでしょう? なにを求めているのかしら、と思うの。なにをしたいのかしら、と考えるの。それでね、それを助けてあげるの。……『お屋敷』ではね、あまり褒められなかったことよ。情報を知りすぎるのはね、『花嫁』の役目ではないの。ミルゼもあまり、できない、分からないふりをしていたの。リグもそれでいいって言ったわ」
わたしたちの部屋の、窓から見える景色は。狭ければ狭いほど喜ばれるものだった。世界が狭いほど、その深さを増せばなお、『お屋敷』には喜ばれた。視野の狭さは良いものだった。ぽつ、ぽつ、とすこしだけ震えながら、言葉が告げられる。リグはいつか、と言ってくれたの。
「いつか、ミルゼが知りたいと思えば思うほど、それを楽しいと思うことにさえ、喜んで迎えてくれる場所があるよって。……こ、この間はね、うっかりしていたの。そういうつもりでは、なかったのだけど……。旦那さまがユーニャからの速達の手紙に、お仕事を放り投げて、資料を整えようとなさって……旦那さまのお仕事は、ミルゼにはまだすこし、早いでしょう? でも、でも、ユーニャの……魔術師の、ことなら。旦那さまと、ミルゼは、きっと同じくらいだわって、そう思って……。く、口出しなんてはしたないって思ったの。ほんとう、ほんとうよ! でも、でもね、領地のお仕事だもの。きちんとしなければいけないでしょう?」
だから、声をあげたのだ、とミルゼは言った。ユーニャはなんと言ってきているの、書庫にある本のことなら、ミルゼが取って参ります。だから、なすべきことを、しっかりなさって、と。指をもじもじこすり合わせ、目を涙で潤ませながら、びっくりされちゃったの、とミルゼは言った。
「で、でも、旦那さまも、義姉さまも、ミルゼに頼んでくださったの。資料の種類なんかを、こう、紙に書きつけてね。これを持ってきて欲しいって。それで……ミルゼはね、ユーニャの手紙も見せて欲しいって言ったの。なにを言ってきていて、だからこの資料が必要なんだって、分かりたいからってお願いして。それで、お手紙を読んでね、騒ぎが起こってしまったのね、と思って……。書庫で、持ってきてほしいって言われた資料を読んで、これではなにかあった時、十分ではないのかしら? と思ってね」
「……読ん、え? 資料、読まれたんですか?」
「ミルゼの手を介して渡す情報が、なんであったのか、分からないままでいていいことなんてないわ。そうでしょう? 時間がなかったから、立ったままで、はしたなかったでしょうけど……。ちゃんと、全部、読んだわ」
ユーニャが求めた資料は、数時間で『学園』に到着した。魔術的な検閲の時間を挟んだことを考えても、手紙を受け取って資料を送り出すまで、一時間もなかっただろう。本も、冊子の資料もあるが、総合計だと千枚は軽く超す。ぎょっとするユーニャに、ミルゼはつん、とくちびるを尖らせて言った。
「読んだの。ほんとうよ。急いでいる時の読み方はしたけれど、内容はちゃんとわかってるもの」
「……急いでいる時の読み方、というのは?」
「うん? ページをね、ぱらぱらめくるのよ。文字を認識する前にね、情報にして読み込むの。わかる?」
ミルゼが、恐らく『花嫁』としても相当特異な技術を持っていることは、分かった。速読、と呼ばれる読書法の、恐らくは一段、二段階は上のことを言っている。絶句するユーニャに、ミルゼは穏やかに、それでね、と言った。
「他にもいくつか必要だわ、と思ったの。旦那さまのリストはさすがに、求められる十分ではあったわ。満ち足りていた。でもね、これが必要な事態が起きているのだとしたら、落ち着いてきた時、もしくは、悪化してしまった時。必要なものがもうすこし別にあるわ、と思って。いくつか、また読んで、資料を足したの。『花嫁』の視点から、補足も書いたの。時間があまり無かったから、それはすこしだけだったけど……。時間のぎりぎりまで書庫で読んだり、書いたりして、戻ったの。執事さんとね、家事長さんに運ぶのは手伝ってもらって……ミルゼにはちょっとたくさんで、重かったものだから……。助けに、なった?」
「もちろん、とても! 助かりました。とても、助かっていました……!」
ふ、とした瞬間。ひとつの問題の別側面が表れて頭を抱えそうになった時。参照したい資料が補足付きですでに手元にあったことは、なにか魔術のようだった。ほんとうに、ほんとうに助かりました、と告げるユーニャに、ミルゼはふふふ、とはにかんで笑った。
「よかった! それで、ええと……。旦那さまと義姉さまにね、資料をお渡しして。ミルゼが勝手に増やしましたって、ちゃんと言ったの。怒られるかしらと思ったんだけど、執事さんと、家事長さんがね、ミルゼが書庫で頑張っていたから、そのまま送ってあげてくださいって味方をしてくださってね。うふふ」
恐らく、老執事と女家事長の様子は、相当要約されているだろうな、とユーニャが思う。ソキが自分の都合の良い所だけ、抽出して要約するのと同じである。唖然とされたに違いない。猛然とした、抗議にすら近い陳述であったに違いない。かくして資料は迅速にユーニャの元へ送られて、ミルゼは瞬く間に、屋敷の者の尊敬を手に入れた。書庫を出たばかりの、廊下でのやり取りを思い出す。老執事は確かに、ミルゼを屋敷の女主人として認め、心からの敬意と親愛を持って仕えている。それはほんのわずか前、ユーニャの今年の年末年始の休暇中には、なかったものだ。
「……旦那さまも、義姉さまも、ミルゼに一度も怒らなかったの」
喜びで、涙を滲ませた声で。目をきらきら輝かせて。『花嫁』は背をまっすぐに伸ばして、笑う。
「資料を読んだことも、勝手に増やしたり、書いたりしたことも、そう。どうして今まで黙ってたの、とか。できるって、言わないでいたことも、なんにも、怒らずに……。興味があるなら、好きと思うことなら、思うまま、好きにやってみて良いと、言ってくださって……。み、ミルゼが、旦那さまと、義姉さまのお仕事を、ほんのすこし、お手伝いしたいと申し上げても、ね。怒らないで、嬉しいって。助かると仰ってくださってね……! 屋敷の方々も、最近、時々、ミルゼを奥様、と呼んでくださるのよ。『花嫁』さま、ではなくてね。ミルゼさま、おくさま、って。……だから、だからね、ミルゼは……できないことばかり、一生懸命頑張るのは、すこしお休みして。できることを、しようかと、思っているの」
ハンカチをひとつ、仕上げられたことだし。成果だってちゃんとあるのだし、と拗ねた口調で呟いて、ミルゼはユーニャをまっすぐに見た。
「でも、刺繍は、たまには頑張りたいの。そう、ソキに伝えてくれる? ソキが、先生をするのが、大丈夫そうだったらでいいのよって。魔術師さんも、忙しいのでしょう?」
「はい、では、そのように。……忙しいことは確かですが、刺繍の先生をするのは楽しそうでしたよ」
「うふふ! じゃあ、お願いね、ユーニャ。またなにかあったら、ミルゼを頼ってくれていいのよ? お姉ちゃんって呼んで?」
冷めたハーブティーを飲み切り、ユーニャは笑顔で椅子から立ち上がった。
「それでは、また頼らせて頂きますね、ミルゼさま」
「あら? ……あら? ユーニャ? いいのよ、遠慮しないで。お姉ちゃん、でしょう? お姉ちゃん」
「また手紙を書きますね」
にこ、にこ、と微笑みあう。ミルゼは目をぱちくり瞬かせ、んん、と不思議そうに声を零した。ミルゼがなにやら考えているうちに老執事と女家事長を呼び、てきぱきと帰る旨を伝えると、ユーニャは爽やかな気持ちで一礼した。
「それではミルゼさま、お健やかに。夜分遅くまで相手をしてくださり、ありがとうございました。それでは」
「ん、んん……。わかったわ、ユーニャ。またね」
次こそお姉ちゃんと言わせてみせるの、と意気込むミルゼは、メーシャにパパ呼びを目論む星降の王と同じものを感じさせた。つまり、言い負かすのはほぼほぼ無理ということである。ユーニャは迅速に撤退を選ぶと、来た時と同じように馬にまたがり、屋敷を後にした。『学園』に戻る『扉』の前にユーニャが立ったのは、条件通り、五時間を目前とした時のこと。時間ぴったりだねぇ、と笑う王宮魔術師に、ユーニャは静かに笑い、帰省に許可を頂きありがとうございました、と言った。
それから、ひと月もあとのこと。談話室の片隅。ぬくぬくと日光浴を楽しむ、午後のゆったりとした時間のこと。実家から届いた近況の手紙を開くなり、ぶふっ、と噴き出して動かなくなったユーニャに、ソキは目をまんまるくしてぴゃっ、と言った。
「ど、どうしたの? ユーニャ先輩、びっくりすることがあったの? どうしたの? お手紙? いじめ? わるいこと? は、はわわ、はわわわわ!」
「だ……大丈夫だよ、ごめんね。悪いことじゃないよ。心配してくれてありがとね、お姫ちゃん。ロゼアも」
「……ユーニャ先輩、なにか」
不安げに問いかけてくるロゼアに、ユーニャはにっこりと笑ってほんとうだよ、と言った。
「ちょっと驚いただけ」
そう、本当に驚いただけである。封筒は兄の筆跡でその名が筆記されていたのに、中身の文字がミルゼのものだったので。これはさすがに、どちらに見られてもバレるだろうな、と思いながら、ユーニャは便せんに視線を向けなおした。近くに座っているとは言え、のぞき込めるほどの距離でもなし。そういう無作法をするふたりでもないと分かっていたから、そのまま読んでいく。ロゼアもソキも、さほど納得していない様子ではあったものの、次第にふたりの会話に戻っていった。明日の授業の予習について、勤勉に楽しそうに、こしょこしょと弾む声が柔らかに流れていく。
悪戯ではなく、兄が事故で手首を痛めたから代筆している、とのことだった。仕事も一部、代理として筆記を任されているのだという。文面には義姉ではなく、ミルゼを頼ってくれた喜びが溢れていた。もとより、兄とユーニャが交わしている文面は、近況報告と『俺の奥さんかわいい』の内容が主である。ミルゼのがんばり報告に変わった程度で、文面から受け取る穏やかさは同じものだった。最後まで読み、ふふっ、とまた笑いをこらえて。ユーニャはくすくすと肩を震わせながら、手紙を封筒に戻しながら口を開いた。
「ロゼア、ロゼア。もし……いや、えーっと。もし卒業したあと、王宮の夜会とかに呼ばれる時はね、背後にはあんまり気を付けないであげてね」
「は? ……え、と? 背後に、気を付ける、のではなくて、ですか?」
「うん。気を付けないであげてね」
にっこり、笑いかけてユーニャは立ち上がった。それじゃあね、と言って、質問が来る前に立ち去る。むむぅ、と不思議そうなソキの声が響くが、振り返りもしなかった。ミルゼは、ふたりが魔術師であることを知っている。『学園』を卒業したら、各国の王宮へ行く可能性が高いことも。そしてミルゼが嫁いだのは、楽音の中でも立場ある家だ。王の主催する夜会にも呼ばれる程の。そしてそこへ、王宮魔術師が警護に出てくることも、ミルゼは知っている。あのね、と文面には書かれていた。ミルゼはいつか、お仕事をうんと頑張って、奥様として夜会にもお呼ばれをしたり、できるようになるの。それでね、その時、いつか。
『いつかロゼアを見つけたら、後ろからそーっと近くに行って、わっ! として驚かせるの! きめたの。ソキは驚かさないの。ソキはわっとしたら泣いちゃうかもでしょう? ロゼアだけわっとするの! それで、ミルゼは元気よ、って言うの』
今じゃなくていいの。いつか。いつか、うんと、先のこと。それで、元気よってした後には、しあわせよって言いたいの。しあわせよ、だから。心配しないでいてねって、伝えて。そう言うの、と。書かれた手紙を胸に抱き、ユーニャはとろけるように、笑った。
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