国境の近くに広がる街の、静かな宿場町。やや値は張るが清潔で安全な、広々とした部屋に、ソキの熱に浮かされた呼吸が響いていた。昨夜から、ずっと意識は戻らないままだ。赤く染まった顔が、高熱が続いていることを妖精の目にも確認させた。どの国でもそうだが、都市と都市の間には、基本的に住む者がない。狭間にあるのは荒野であり、平原であり、森であり、山であり、谷だ。そこには自然が広がるばかりで、人の手の干渉を拒んでいる。
あえて住む者もあるだろうが、その暮らしは厳しく、貧しいものとなる。人が住める場所。それを世界から許可された場所にはすでに都市が広がるばかりで、あとは全て、侵すことを許されない場所なのだという。立ち入ることは許される。通行することも、移動しながら一晩、二晩を明かすくらいならばいいのだという。けれど、住むことは許されない。その場所に人は住んではいけない。古い言い伝えと、過去、幾度もあった居住区を広げようとするたびに繰り返された大災害は、人々を都市に閉じ込めた。
都市から都市の移動は、時間と根気が必要なものであり、これからも改善されることはないだろう。生まれた場所から頻繁に移動する者は旅芸人や商人、移動音楽家や、限られた貴族、王家などごく少数で、たいがいは数年に一度、旅行へ行くくらいしかひとは都市を離れない。つまり、移動中はほぼ野宿というのが当たり前なのである。そこを、ソキも、妖精も、すこしだけ甘く見ていた。白雪の王宮魔術師は、それでも随分心を砕いて準備をしてくれたが、ソキの体調が想定よりはるかに悪くなったのだ。
ほとんど行き倒れで動けなくなっていたソキを通りがかった商隊が偶然見つけ、国境近くのこの宿まで運んで来てくれなければ、今頃はどうなっていたことだろう。別に妖精は、放置していた訳でも、なんでもない。疲労で頭が痛くなった時も、それなりに休めとは言ったし、熱が出た時もちゃんと寝ていろとは言った。熱が出ているのに動こうとしたソキを、怒りもした。それを無視して歩いたのは、ソキの行いだ。そして、王宮魔術師に連絡しようとする妖精を、止めたのも。
止めて、と一言、ソキは求めた。れんらくしないで、とたどたどしい言葉で。やがて、思い至ったかのように微笑んでソキが告げたのは、『リボンちゃんはどこにも連絡しませんよ』という宣言であり、予知だった。恐ろしいほどの魔力に行動を制限されるのを感じて、妖精が感じたのは純粋な怒りだった。身勝手な感情で行動を縛られた怒りであり、己の身を省みようともしないソキへの怒りだった。なにも出来ない状態で、見守るだけの苦痛が、どれほどのものだと思っているのか。
今も。今も、妖精は眠り続けるソキを見ていることしか出来ない。妖精の腕はちいさく、額にのせられた氷で冷やされ、今はもうぬるくなっている布を、交換してやるのさえ一苦労だ。ソキを預けられた宿屋の女将は、少女の荷物から必要な代金を抜き取り、看病はしてくれるが、それだけだ。適当ではないが、献身的でもない。義務的で、それ以上のものにはならない。
『……ばかっ』
思わず、言葉が口をついて出る。ちいさな手が、熱を宿すソキの頬を打った。
『ばか、うすのろ、おおまぬけっ、どじ! ひよわっ! なんでこんな無茶すんのよ! あの黒魔術師にだって、ちゃんと休めって言われてたじゃない! アンタ、なんで人の言うこと聞けないのっ! なんでアタシのこと止めたの! いいじゃない、連絡したって! もっとちゃんとしたトコで、ちゃんとした治療して、それからまた行けばいいじゃない!』
ソキの意識は沈んだきり、戻らない。かぼそい息だけが、繰り返されている。
『アンタなんかどうせ、辿りつけやしないんだから! 連れて行ってもらえばいいじゃない! 白雪の魔術師に頼んで、砂漠の国へだって連れて行ってもらえばいいじゃない! それで、そこから、学園まで行けばいいじゃない! なんで、なんで嫌なのよ! なんで大丈夫っていうの、なんで頑張れるって、アンタそれしか言わないの……!』
歩いて、歩いて。慣れない道行きに脚が痛んで腫れても、弱い皮膚が切れて血が滲んでも、疲労のあまり立ち上がれなくなっても、頭が痛んでも、眩暈がしても、熱を出してしまっても。大丈夫、行けます、歩きます、とソキは言った。ひどく頑なで、まるで己の状態を自覚しない客観的な、冷たい声で。前だけを向いていた。振り返ることをしなかった。
『アタシに、なんにも話してくれないで……!』
恐れるように、ただ、遠くへと行きたがった。一人で。たった一人で、ソキは、どこかへ。
『……いいこと。よく聞きなさい。聞こえていなくても、聞きなさいよ?』
一人ではないのに。
『アタシは、アンタを案内する為に来たの。アンタの為に、来たのよ。いーい? アンタの、案内をしに来たの。アンタを連れていくために来たの』
傍らに、ずっと、妖精はいたのに。
『だから……だからね、言っていいの。どこへ行くか、どこへ行きたいか、なんで行きたいか、アンタは、アタシに言っていいのよ。……そんな風に、誰にも隠していなくていいの。アンタから、それを、誰も取りあげたりなんてしないわ』
一人きりだというように、体を丸くして目を閉じて。
『アタシが、そこへ連れて行ってあげる。必ずよ。必ず、連れて行ってあげる。……だから』
ソキは、たどたどしく、息だけをしている。
ソキの旅日記 十日目
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