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 ソキの旅日記 十一日目

 ソキには、基本的に可愛げというものが足りない。心の底からそう思いながら、妖精は視線の先で、ちいさな瓶に角砂糖を詰めてもらい、その代金を支払っている少女の後ろ姿を眺めた。背筋をぴんと伸ばした立ち姿は力強くはないものの、理性的なそれで、とてもではないが数時間前まで、熱で意識を失い、ベッドから動くこともできなかったとは思えない。くるり、振り返ったソキが、店の外へ出てくる。無言で目の前まで降りてやった妖精に、ソキはふ、と力の抜けた笑みを浮かべた。
「買えましたよ、リボンちゃん。いま、ひとつ食べますか?」
『……もらうわ』
 今日の分はもう食べた、と言っても渡したがるような嬉しそうな問いに、妖精は両手を差し出してやる。嬉しそうに笑ったソキは角砂糖をひとつ、丁寧な仕草で摘みあげると、それをそぅっと妖精の手へ受け渡した。すぐ、歯を立てる妖精をじっと見つめて、ソキは首を傾げる。
「美味しいですか?」
『……まあね』
「……もう、怒ってない、ですか?」
 恐る恐るの問いかけに、妖精はふん、と鼻を鳴らしてソキの頭上へと舞い上がった。本日に二個目の角砂糖は、つまり妖精へのご機嫌取りなのだ。受け取ってやりはするが、機嫌など上向かせてやるものか。無言で睨みをきかせてくる妖精に、ソキは眉を寄せ、すこしばかり困った表情で息を吐いた。けれども、なにを言う訳でもない。そろりと迷う視線は道の先、国境へと続いていて、妖精を注視することはなかった。まだ優れない体調のあかしに、動くと吐き気がするのだろう。
 呼吸と共に唇に押し当てられた指先の、色が白い。気がついた妖精が止めるより早く、ソキはそれを口にした。
「光の波紋」
 匂い立つような魔力が、ソキの言葉で渦をまく。
「風の息吹、水の流れ、清らかなるその賛歌に……くゆり、眠りゆく意思あらば応えよ。濁りは清く、澄みわたり、曇ることがない。痛みは遠ざかり、この身から消え去るだろう」
 ふわり、足元から風が立ち上り、ソキの髪を一筋、揺らして彼方へ消えていく。妖精は、確かにソキの中から必要な分の魔力が消費されているのを感じ取った。
『……アンタ』
 押し殺した妖精の怒りの声に、宝石のような色を灯して揺れる、ソキの瞳が向けられた。感情を切り捨てた、無感動な瞳。
『アンタ、それ、やめなさいって言ったでしょう……!』
「ソキ、動けなくなると、困るですよ」
『回復魔術は確かに、一時的な回復にはなるけど! 根本的な回復はしないの!』
 目が覚めて、丸一日が過ぎ去っていると知ったソキは、ためらうことなく、今と同じ回復魔術を口にした。それは、魔術師ならば誰でも使える、基礎魔術、共通魔術と呼ばれるそれではない。回復魔術に適正がある者しか扱えない筈の、病を押しのけ、体調の回復をさせる上級のものだ。白雪の国の王宮魔術師は、ソキの前では注意して詠唱を行っていなかった。それなのにソキが寸分たがわぬ正確な詠唱を行うことができる理由は、ひとつ。
 回復魔術にも適性を持つ、とある言葉魔術師が使っているのを、聞いたことがあるのだという。覚えておくものですね、となぜか不愉快さすら滲ませて呟いたソキは、妖精が止めるのも聞かずに起き上がり、宿を引き払い、再び、ゆっくりとした足取りで国境を目指している最中である。幸か不幸か、国境はもうすぐ傍にあり、宿から見える距離に出入りの為の門があった。普通に歩いて、十分。その距離も動けない状態で砂漠へ行くのは、死にに行くのにすら等しい。
 ソキがそれを、分からない筈がなかった。
「……国境を越えたら、すこし、休みますですよ」
『言ったわね。絶対ね?』
「はい」
 確認できれば、とソキはちいさな声で呟いた。なにを、という所を聞き逃してしまって、妖精は舌打ちする。これは、結果によっては、また無茶をして進もうとするに違いない。どうしたものかと考えながら、妖精はソキの頭上を飛んで行く。国境には、左右がどこまでも続いて行きそうな壁が、白雪の国と砂漠の国を隔てていた。定められた門を通り、休憩所や宿泊所が備えられた通りをまっすぐに抜けて行けば、そこはもう砂漠の国となる。
 通るには白雪の国を出る為の出国許可証と、砂漠の国へ立ち入る為の入国許可証がそれぞれ必要だが、ソキの場合は、学園の入学許可証がその代わりになってくれる。各国共通で通り抜けることのできるそれをチェックする為に、国境には月替わりで、どちらかの王宮魔術師がいる決まりだった。今月は、白雪の国の王宮魔術師が、その役目をおっている筈である。都市間の移動がそうであるように、国から国へ移動する者の数も、そう多くは無い。人影もまばらな道を歩んで行くと、声がかかった。
「……ソキ、だろうか」
 ためらいがちな、けれども確信を持って向けられた、落ち着いた女性の声だった。目を向けると立っていたのは、魔術師のローブをはおる華奢な女性だ。長く伸ばされた黒髪は結われずに背に流され、紫色の瞳が優しい色を灯してソキのことを見ている。夜の印象を感じる女性だった。ローブには、王宮魔術師の証がある。落ち着いた仕草で一礼してから、ソキはゆったりとした足取りで女性の前に進み、改めてぺこりと頭を下げた。
「はい、ソキです。お城では、王宮魔術師の皆さまに、大変お世話になりました」
「ああ、聞いている。予定だと、一昨日には到着するとのことだったが……体調でも悪くしたのか?」
 男のような口調は、不思議なほど柔らかな響きでふわりと紡がれ、ソキの耳に届けられる。ソキは、軽く眉を寄せ、ちいさく頷いた。なぜか、この人の前では正直でありたいと、そんな風に背を正させる雰囲気の女性だった。そうか、と女性が呟く。
「私の住む部屋がある。休んで行きなさい。……あなたの話も聞かせてくれると、嬉しい。エノーラ程ではないが、私も、後輩は可愛いんだ。……その、枯渇しそうな魔力の理由も、教えてもらわなければいけないし」
 全く、とソキの背をあやすように抱き寄せ、女性は悲しげに目を伏せる。
「一人で、そう頑張るものではないよ」
 便利な先輩を上手く頼って、利用しなさい、と囁かれて、ソキはためらいがちにこくりと頷く。妖精は無言で、ソキの近くを飛んでいた。



 部屋に通されてからこくり、こくりと船をこいでいたソキは、すでに意識を失ってベッドの端に倒れている。できれば中央に移動させたいが起こしそうでできないな、と呟いた女性は、かけ布を一枚ソキの体にかけて、熱っぽい頬を撫で、額に触れ、首で脈を確認して、思い切り眉を寄せた。
「……衰弱してるな」
 さすが、兎ちゃんと育ちが一緒なだけあって、弱い、と続けられた言葉があまりに感心していたので怒る気を無くし、妖精はふわりと女性の目の高さまで降りて行く。
『ねえ。……ちょっと』
「うん?」
『アンタ、こういうのの、対処、得意?』
 こういうの、と口の中で言葉を転がし、女性は訝しげに妖精を見た。
「不得意ではない。得意だとも思っていない。なぜ?」
『育ちが一緒だとか、なんとか、言ってたからよ。もし知ってるなら、このひよわな癖に無茶して馬鹿して、アタシの話をちっとも聞きはしないコイツの、扱い方を教えてもらおうと思って』
 だってこの状態で上級回復魔術使って動こうとするのよ、と言いつけた妖精に、女性の眉が思い切り歪められる。それはまた、と言葉が呟かれ、眼差しが眠る横顔に注がれた。
「随分と、豪快な無茶を……」
『アタシは止めたわ。いいこと? アタシは、止めたの。でも、コイツ、ひとの話なんて聞きゃあしないのよ! 口を開けば大丈夫ですだの、平気ですだの、丈夫にできてますだの! 丸一日以上意識なくして熱出して寝込んでたくせして! どのツラさげてそんなこと言うのかって話よ! 呆れて、怒って、理由聞くのも忘れてたわ!』
 ちくしょうっ、と叫ぶ妖精に、女性は君は口が悪いな、と冷静な評価を下した。呪うぞと言わんばかりの形相で睨まれ、女性は苦笑しながら肩を竦め、息を吐いた。
「彼女は、日記を書かないか?」
『……日記?』
「彼もそうだが、こういう育ちの者は、日記を書くように躾けられる。まあ、一行とか、二行の、ほんのささいなことだろうが」
 読めばいいだろうに、とあっさり言い放った女性に、妖精は、苦瓜を顔に叩きつけられた豚のような顔をした。
『アンタなら、そうするの?』
「誰も盗み読めとは言っていないだろう。なんだその顔。ひどい」
『ひどいのはアンタの思考回路よ』
 あー、やだやだやだ、と吐き捨てて天井近くへ上ってしまおうとする妖精を、ぺしりとばかり平手で叩き落として。コイツやっぱり呪おう、と決意している妖精に向かい、女性はにっこりと笑った。
「彼らの日記は、純粋な記録を兼ねる。まあ、個人差があるから心境やらなにやら書いてあるかも知れないが、見せて欲しいと言われれば拒む程のものでもない……と彼は言っていた。意外と面白いぞ。恋のポエムとか書いてあって。思わず音読した」
『ヤダヤダヤダヤダ! アンタ、サイテー!』
「冗談だ」
 しれっと言い放つ女性の発言の、どの部分が冗談なのか、妖精には分からない。ただ妖精は、人の嘘を敏感に見分けることができる。嘘をつく人間のにおいは、ひどく醜悪で、耐えられないものだ。目の前の女性から、そういうものは感じられない。ううぅ、と呻き、妖精はきっと女性を睨みつける。
『日記を、読んだとして、なんなのよ!』
「相互理解が多少は進むんじゃないかな、と思ったんだが? 私に聞いてくるくらいだ。上手く行っていないんだろう」
 内面を理解するのは手っ取り早い手段のひとつだな、と呟いた女性はソキの額に手をあて、そっと前髪を梳いてやる。そのまま手は、ぺたりと頬に押し付けられ、離れない。すこしすると、ソキの呼吸がすぅっと深くなり、顔色が正常な赤味を取り戻す。
『……アンタ、もしかして』
「白魔術師だが?」
 ふむ、面倒くさがって詠唱破棄するとやはり効果が緩やかだな、とひとりごちながら、女性の紫色の瞳がまっすぐに妖精を見た。
「経験上、言わせてもらうと」
 その言葉が、妖精が求めたソキの扱い方についてのアドバイスであると、気が付くのには時間がかかった。
「彼らは、怒っても言うことをきかない」
『……そうね』
「ただ、理由を聞けば、話してくれる。……時間は、かかるが」
 目を反らしてはいけないよ、と女性は言った。
「重ねるのは、言葉だ。説得すればいい。頼むんだ。上から叱りつけても、彼らはそれを跳ね除ける。驚くほど支配を嫌ってるからな。嫌悪してると言っても良い。彼らにとって支配はそのまま、所有になる。彼らは誰かに所有される為に育てられた。けれど……いや、だから、か。だから、彼らは頼まれたりするのに、ひどく弱い。己の持つものを、全て分け与えようとする。言葉も同じだ。聞きたかったら、怒ってはいけない。ただじっと、待ってやれ。扉を叩いて、声をかけたら、二度も三度も急かさずに」
 妖精は、じっとソキを見つめた。ぽつり、呟く。
『アンタは、待ったの?』
「待ったよ」
『話してもらえたの?』
 くすり、と笑って、女性は深く穏やかな眠りに落ちたソキから手を引いた。
「もちろん。……二時間くらいすれば、起きるだろう」
 ふぅん、と妖精は頷き、女性の傍から飛び立った。そよ風のようにソキの傍まで移動し、眠る顔のすぐ近くに降り立つ。そのまま妖精は、ソキが目を覚ますまで、ずっと。飽きもせず、眠る顔を眺めていた。



 ソキは聞きたいことがあるですよ、と真剣な顔で告げられて、女性は面白そうに頷いた。
「私で分かることだろうか」
「分からなかったら、困りますです」
 答えるソキの言葉がやや不服そうに響くのは、短い眠りから覚めた少女が立ち上がろうとして倒れたのを咎められ、このまま部屋に泊まって行け、と言われたせいなのだろう。というか一晩ここで眠って行かないことには国境を通さない、と言われれば、本当にそれが可能なのかはともかくとして、ソキに抜け出すことが出来る筈もなかった。支配っぽいのを嫌ってるって分かってよくそんなこと言えたわよね、と呆れ顔の妖精は、ことの成行きを見守るべく、ソキの傍に浮いている。
「この三日……四日間くらいで、砂漠の国から、白雪の国に入国した人の中に……十六歳くらいの、男の人は、いましたですか?」
「私に調べろと?」
「そういうお仕事ですよね?」
 冷たい表情で問いを重ねるソキは、目の前の女性を信頼しないことに決めてしまったらしかった。警戒も露わな様子に肩を震わせて笑いながら、女性は分かった、と微笑した。
「ただ、もうすこし絞り込みたい。外見の特徴か、せめて、名前だけでも」
 ぐ、と飲まれた息に、ソキの喉が鳴る。そんなにためらうことではないだろうに、と妖精はソキの顔を見上げた。そして、目を瞬かせる。ソキは、怖がっていた。それを言うことが、ひどく、恐ろしいものを呼ぶのだというように、表情は強張っていた。
「……ないと、調べられない、ですか」
「誰かを探しているのであれば、特定が確実とは言えなくなる」
「あ……」
 手が一度、握られて、こわごわと開かれる。言葉を忘れてしまったかのように、ソキは色を失った己の手指を見つめていた。女性は促さず、ソキの決断を待っていた。やがて、ソキの唇が、ひとりの名前を吐きだした。すこしだけ待て、と言い残して、女性が部屋を出て行く。見送りもせず、寒さを耐えるように己の身をかき抱いたソキの腕に、なぜだかそうしたくなって、妖精はそっと手を伸ばした。そっと、触れる。驚いたような瞳が、妖精の姿を映し出した。
「……リボンちゃん?」
 あ、と妖精はすぐに気が付く。それは、ちゃんと感情の浮かんだ瞳だった。宝石のように、ただ色を乗せて輝くだけではない。感情の浮かぶ、人間の瞳。リボンちゃん、ともどかしげに、ソキがもう一度呼んだ。
「傍、いて、くれたですか」
 今のいままで、全く存在を認識していなかったような物言いだった。怒りを覚えなかった訳ではないが、妖精は、無言で頷いてやる。ぱちぱち、二度、瞬きをしたソキの瞳が、やんわりと喜びを灯して、笑った。
「リボンちゃん」
『……なによ』
「呼んだだけです」
 ふふ、とソキは嬉しそうに笑った。はじめて妖精だけに向けられた、優しい笑顔であるような気が、した。しばらくして戻ってきた女性は、該当なしをソキに告げる。その名を持つ、それくらいの年頃の男は、国境に現れていない、と。ソキはほっと体の力を抜き、ただ一言、そうですか、と言った。



 ソキの旅日記 十一日目
 国境まで来ましたです。明日は、砂漠の国へ帰ります。
 もうすこしです。
 ソキ、急いで帰ります。
 だから、どこへも行かないで。
 待っていてくださいね、ロゼアちゃん。
 ……会いたいですよ。

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