分かっていた。平地でも山道でもなんでもかんでも転ぶソキが、砂漠で転ばないなんてことはあり得ない。ごく短い悲鳴染みた叫びがあり、妖精が入った編み籠ががくんと揺れる。けれど、衝撃はそれだけだった。妖精は溜息をついて籠のふたをよいしょと押しのけ、布の間からひょこりと顔を出す。広がっていた光景は予想通りで、そして何度か目にしたものと寸分たがわぬものだった。あいもかわらず、防衛本能というものがそもそも存在していないのではないか、と思わせる、見事な顔からの転びっぷりで、ソキは砂山に半分くらい埋まっていた。
普段と違うところがいくつかあるとすれば、立地条件から土で顔をすりむいたりすることはなく、砂に半ば埋まっていることと。妖精の入った籠が投げ出されないように、両手で持って上にあげていることだろうか。おかげで妖精は、ソキが転んでも倒れても一緒に衝撃を受けることもなく、投げ出されることもなく、今に至っているのだが。空を見上げると、太陽は頂点からすでにずれているようだった。半日は我慢してやったのだ。もういいだろう、と思って、妖精は編み籠から飛び立った。
痛いのか落ち込んでいるのか、ソキは砂の上でもぞもぞと身動きをしたまま、すん、と切なく鼻を鳴らして一向に起きあがる気配を見せない。妖精はすいとソキの顔の横まで移動すると、熱い砂の上にそっと足先をつけた。
『ちょっと、起きなさい』
「……出ちゃダメって、言ったですよぉ」
『アンタがアタシのこと庇って、普段の三割増しダメージでびったんばったん転ばなくなったら考えてあげるわ』
もうしばらくすれば陽も落ちるし、大丈夫でしょう、という妖精の言葉に、ソキはもそもそもそ、と、とりあえず砂の上に座りこんだ。疲れた動きで顔や服についた砂粒を払い落し、目を細めて太陽を見つめる。
「あと四時間くらいしないと、陽が落ちないです」
『あと四時間もあんな転び方してたら、転び過ぎで鼻がまがるわよ?』
「ソキ、丈夫なんですよ」
けれども、痛いものは痛いのだろう。打ってすりむいて赤くなった鼻を両手で押さえながら、ソキはすん、すんっ、と泣きそうな息づかいでしゃくりあげている。すこし反応が幼くなった気がする。というよりも、泣きもわめきもしなかった今までがおかしかったのだろう。こちらが素に近いのかも知れない。考えている間にも恒常魔術が働き、ソキの体についたちいさな傷を癒して行く。妖精はそれを咎めようと思い、息を吸い込んで、やめた。ソキの身を包む微弱な回復魔術は、少女が意識して働かせている訳ではないのだ。
体に呪いがあるから転びやすいのではないということは、妖精はすでに何度も確認済みだ。昨夜も夜にこっそりと、眠ったソキをじっくりと観察して、結論はすでに出ている。体のつくりが、ほんの僅か、精巧に歪められて作られている。恐ろしいほどに執念的で精密なそれは、生まれた時からそうなるように育てられた故なのだろう。人間の、女性の成長期は何歳くらいでもう一度来るものだっただろうか、と妖精は考える。この環境から解き放たれた状態で、正常に育てば、歪みはきっと無くなる筈だった。
そんなことなど、ソキは知らないに違いない。それなのに、恐らくは妖精を視認できるようになる前からずっと、ソキの体は己の魔力によって守られていた。ちいさな傷くらいなら、ほんの数十秒で癒えるように。痛みは消えるように。馬車からなんの受け身も取れずに投げ出されても、変質させた予知で重傷を免れ、ほんの十分もしないで動けるようになった。痛みで動けなくなることが、あったのだろうか。十三になるまでの歳月の中で。その状態で居続けてはいけないと、魔術を発動させるようなことが。
あったのだとしたら、あまりに切なかった。
「リボンちゃん」
鼻の赤みは、すっかり消えてしまっていた。長いローブに隠された腕にも、手足にも、腹にもどこにも、怪我や痣はないのだろう。二日間しっかり休んだおかげで、魔力も十分に回復している。回復が間に合わず魔力が枯渇してしまうまで、ソキの体に怪我が残ることはない。うまく言葉にならない想いでソキを見つめる妖精に、編み籠がそっと差し出される。
「中は涼しいですよ」
ね、と聞き分けのないこどもにお願いしているように、ソキは困った表情で妖精を見つめてきた。確かに、この中は魔法具のせいで涼しく保たれている。外にすこし居るだけで汗がふきでるくらいに熱いのに、中では全くそんなことがなかった。それでも、ソキがこれを庇って三割増しのダメージで転び続けている以上、素直に戻る気にはならない。半日我慢してやったのだ。ふん、と鼻を鳴らして腕組みをしてソキを睨みつけ、妖精はふと気がついた。
無言で編み籠の中に両腕を突っ込み、ほっとした顔のソキを無視してふたたび飛び立つ。そして妖精は、きょとんとして目を瞬かせているソキの、すっぽりとかぶっているフードの中に体を突っ込み、もぞもぞと肩と布の間に潜り込んだ。
『よし』
思った通り、快適空間である。ソキの体はどこもかしこもほわりと柔らかいので、編み籠に布を引いた上よりよほど寝心地がよかったし、魔術師のローブのおかげで涼しさもある。魔術具も持ちこんだので、すこし冷えすぎるくらいだ。魔術具を遠ざけると、首筋にあたったのか、ソキは体をびくりと震わせた。
「リボンちゃん……? や、やぁっ……な、なんですか……?」
『……ここなら、陽も当たらないし、涼しいわ』
無言で魔術具をソキの首筋から遠ざけ、妖精はそれをぽいとばかりに投げ捨てた。足元に落ちたそれを拾い上げてポケットに入れ、ソキはもう、と困ったように眉を寄せる。
「そこだと、転んだ時につぶれちゃうですよ」
『アタシをつぶさないように、精々慎重に、ゆっくり、足元を見て歩きなさい』
こんな言葉を繰り返すのは、もう何度目になるのだろう。うんざりした気持ちで告げてやれば、ソキは困ったように眉を寄せ、視線を俯かせて黙りこんでしまった。不満なのだろう。どこか張り詰めた、一本の糸のような雰囲気を漂わせて、ソキは息を殺している。妖精は、そっと、言ってやった。
『急ぎたいの?』
ハッと持ちあがった視線が、肩と布の間に潜り込んでいる妖精を、見にくそうにしながらもまじまじと眺める。
「……はい」
言葉は、妖精が予想していたよりずっと素直に、するりと零れ落ちてきた。
「ソキ、急ぎたいですよ」
『なんで?』
きゅぅ、とソキは泣きそうに眉を寄せた。怒られている、こどもの表情だった。こら、と声をあげてぺちりとソキの肩を叩き、妖精は少女を睨みつける。
『アタシは、怒ってるわけじゃないのよ?』
「……はい」
『駄目って言ってる訳でもないの。聞いてるの。……教えてほしいの』
教えなさい、と言いそうになって、それでは駄目なのだ、と言葉をかえる。ようやく心を開いてくれたソキの扉は、きっとまた閉じてしまう。ソキは、しばらく黙っていた。黙ったまま、ざくり、と砂を踏んで歩きはじめる。ざく、ざく、とゆっくり足音が響いた。
「……はやく会いたいだけなんです」
ざくり、足音がとまる。妖精が仰ぎ見たソキの顔は、恥じらいに耳まで赤く染まっていた。フードの端を掴んで持つ指先が、力の入れ過ぎで白くなっている。
「会いたくて、会いたくて……」
それだけです。呟き、くちびるにきゅっと力が込められる。吸い込み、吐き出された吐息の中に、幾度か聞いた名が混じる。いとおしげに、せつなげに、紡がれるその名前。妖精は、ただ、分かった、と言った。
『明日の夜には……次のオアシスにつけるんでしょう?』
普通の大人の足で丸一日の距離の移動だが、ソキには大分難しい。体調を考えて一日目の早朝に出発し、二日目の夜に到着する予定だった。こくりと頷いたソキに、妖精は大丈夫よ、と声をかける。
『そのオアシスから、また二日移動して、オアシスで休憩して……そこから、二時間も移動すれば、家なんでしょう?』
ソキは、こくり、と頷いた。しゃくりあげる吐息が、泣いている。涙は零れていなかった。大丈夫よ、と妖精は繰り返す。
『もう、すぐそこだわ』
「……はい」
『体調を崩さないように行くわよ。アンタ、すぐ熱を出すんだから』
大事なひとなんでしょう、と妖精の言葉に、ソキは無言で何度も頷いた。じゃあ、心配かける訳にはいかないわね、と言われて、ソキはざくりと砂を鳴らして歩きだす。
「……リボンちゃん」
『なに?』
「ソキ、泣いてないですから、泣いたとか言ったらダメですよ」
すん、と鼻を鳴らして息を吸って、ソキは水筒を取り出すと、水をいっぱい、ゆっくりと喉に通した。そうね、と妖精は苦笑する。
『涙は、出なかったわね』
「でしょう? ソキ、泣かないですよ」
誇らしげに胸を張って言い放ち、ソキはよし、と気を取り直して砂漠を歩きはじめる。ゆっくりと、転ばないように、慎重に。時折、立ち止まっては強い日差しにくらむ目を休め、また歩きだす。もうしばらくすれば、陽もくれるだろう。星がきれいなんですよ、と笑うソキに、妖精は楽しみね、と微笑んだ。
ソキの旅日記 十三日目
ひとつめのオアシスまで、半分まで来たです。
今日はあんまり転びませんでした。リボンちゃんのおかげです。
明日も頑張って歩くです。