熱を計っていたのだろうか。女性の手が額から離れて行く感覚に、ソキはふわりと意識を浮上させた。
「……ロゼアちゃん?」
頭がひどく重たくて、痛い。内側から、外側からも圧力をかけ続けられているような鈍い痛みは、一秒ごとに体力を削って行く。目を閉じていてなお揺れる意識は、まぶたを持ち上げることを許してはくれなかった。暗闇の中で、何度も名前を呼ぶ。
「ロゼアちゃん、ロゼアちゃん……」
体の中で、火が燃えているかのように、どこもかしこも熱かった。喉がかすれて、声も上手く出せない。離れて行った女性の手が、そっと、目尻から伝う涙を拭い去った。ひぅ、と悲鳴のように、少女の喉が息を吸い込む。
「……ロゼアちゃんは……?」
「ここには、いません。……さあ、もうすこしお眠りなさい」
知っている声だった。そう感じて、意識がまた悲しい気持ちを思い出す。いない、いない。どこにもいなかった。探したのに、呼んだのに。会いたいのに。どこにも。ぐらりと揺れる意識が、考える体力を削り取って行く。意識が、沈み込んだ。
強い雨の音がする。スコールが来たのだろう。冷えた風が、窓辺の赤い花を散らして行く。見もしないのに、意識はひらりと落ちる花弁と、それを摘みあげる男の指先を感じていた。
「発熱は、体力の低下っていうより……蓄積疲労かな。出来れば何日か、休んで行くのが良いと思う。夏至の日には、まだ時間があるだろ? えっと……あと二十五日だっけ。間に合う……かなぁ……」
聞き覚えがあるような、優しい声だった。高ぶった感情の聞きとりにくい声が、男になにか怒っている。わん、と耳の奥まで響く怒りに、男は息を吐きだした。
「そんなこと言っても、起せる状態じゃないんだよ。今は寝て、休むのが一番。……脆いつくりなんだよ。『花嫁』はみんなそうだけど、その中でもこのこは、いっとう脆くて弱いんだって、聞いたことがある。……うん? うん。回復魔術もそうだけど、そもそも外の空気がこの子には合わないよ。すぐに熱出したりするのは、そのせい。体調が保てないんだよ。……室内育ちだもんな」
気遣うような男の手が、うとうとと会話だけを拾い上げるソキの頭に触れ、そっと撫でて行く。心地よさに息を吐き出せば、ふ、と笑みが深まるのを感じた。ぽつりと妖精が呟く。男は、うん、と頷いた。
「知り合いだよ。俺も、ラティも……砂漠の国に、二年前にいた王宮魔術師なら、皆この子のことを知ってる。ちょっと事件があって、その時に顔合わせたからさ。……そっか、一人で白雪から帰って来たのか」
頑張ったなぁ、と呟く声は、痛みを堪えているようだった。
「……俺がちゃんと回復させてやるから、安心してお眠り。大丈夫。ここへは誰も近寄らせないよ」
よしよし、と肩に触れて慰めた手が、じわじわと温かな魔力を送りこんでくる。体からゆるく力を抜けば、ふと体に影が落ちた。額に口付けて離れて行った唇が、くすくす、いたずらっぽく笑った。
「ちょっと起きてるかな? ……いいから眠りな、ソキ。な? 俺の言うこと聞けるよなー? ……ん? え、ああ、事件のこと? 二年前の? ……や、ちょっとした不祥事っていうか、その時、王宮魔術師の中に言葉魔術師の***っていうのがいて、ある日ソイツの所に縁談っていうかお見合いの話が来て……」
強い、強い、雨の音がする。声が不思議にかき消され、意識がまた、生温い水に沈んで行く。
西日が瞼の上を掠めた。思わず眉を寄せて身をよじると、わ、わっ、と慌てた女性の声がして、窓に布を下ろす音がする。
「セーフ? セーフですよね……?」
ふー、と安堵に息を吐きだして、女性が歩み寄ってくる気配がした。そっと、手がソキの額に触れ、熱を計る。
「……うん、さすがフィオーレ。熱はもう下がりましたね。明日には意識も戻る……といいんですが」
『一回倒れた時は、一日寝て、次の日には起き上がりやがったわ。意識が回復した瞬間、回復魔法使ったのよ!』
「あらあら、いけない子。……というか、回復魔法なんてどこで覚えたんでしょう」
つん、と咎めるように頬をつついた指先が、乱れたかけ布を整えて行く。声をかけたいのに、目を開いてみたいのに。体のどこも自由にならない。意識だけが、うとうと、まどろんでいる。
『言葉魔術師が言ってたのを覚えたって聞いたわ』
「あらあら、うふふ。そうですか。そうですかそうですか、あの男。まじぶっ殺しておけばよかった。今からでも陛下に、ボーナスとしてあの男の生殺与奪権ください、ってお願いしてこようかしら」
『その権利が貰えたらアタシにも教えてちょうだい。死ぬ前に呪ってやるんだから』
ふん、と鼻を鳴らして不満を表し、妖精が舌打ちをする。
『まあ、だから、回復魔法使うと思うし、見張ってた方がいいわよ?』
「私、今日は眠りたいんですよね……フィオーレも夜は寝ないとダメなタイプだし。うーん……あ、陛下に頼もうかなぁ」
『一応確認するけど、その陛下っていうのはアレ? 国王陛下の陛下であってるの?』
げんなりした妖精の声が、確認する。女性はくすくすと笑って、その他に誰がいると思うの、と言った。言葉が、輪郭を崩し始める。ふ、と意識が途切れた。
甘い香りが空気を染めていた。馴染みのある香の匂いに、ソキはゆるゆるとまぶたを持ちあげる。首を傾げるように頭を倒せば、ん、とあまやかに響く低めの声が笑って、薄闇の中から手を伸ばして来た。頬に触れ、くしゃりと髪を撫でて行く。
「起きたか」
「……ア、ちゃん?」
「最後の一文字としてはあってるけど、違う。ごめんな。……ん? 目、あんまり見えてないか?」
ぎ、と寝台が軋んだ音を立てる。顔を覗きこんだ瞳は赤褐色ではなく、黄金の輝きを秘めていた。ぱち、ぱち、と瞬きをして、ソキは肺の奥まで息を吸い込む。
「……陛下?」
「うん。……ああ、いいよ。寝てな。俺も、もうすこししたら寝るから」
そう言って、瞼の上から手をかぶせられてしまったので、ソキは疲れた気持ちで目を閉じた。なんだか、眠っている場所がやたらとふかふかして、すごくいい匂いがする気がした。ゆっくり、息を吸い込む。ぐりぐりと頭を撫でる手が、優しい。
「おやすみ」
ふ、と火が吹き消された。風に飛ばされる砂のように、意識もまた、転がって消えて行く。
ソキの旅日記 十八日目
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