前へ / 戻る / 次へ

 ソキの旅日記 二十二日目

 ちょうど昼に国境を越えたソキを、馬車に乗せるのは一苦労だった。今までの旅の中で一番疲れた、と妖精が翌朝にも溜息をつくくらいである。馬車に乗ったおかげでその日の夜遅くに次の都市へ辿りつくことができ、そのおかげでふかふかの寝台で眠ることができたというのに、ソキの機嫌は未だに悪いままである。唇を尖らせて妖精の方を見ようともしないまま、先程からずっと机に向かい、紙にペンを走らせていた。手紙を書いているのだという。それくらいの受け答えはしてくれたが、他の会話は無視されている。
 いったいなんでそんなに馬車が嫌いなのかと思うが、ソキはそれを妖精に教えるつもりがないようだった。聞けば教えてくれるのかも知れないが、それは根気のいる作業であり、先を急がせるあまりに案内妖精の言うことが聞けないなら王宮に連絡を取ってやる、と言い放って馬車に乗せたことに対する怒りが消えるまでは、きっと無理だろう。疲れるのも一つの理由だろうな、と妖精は思っていた。半日にも満たない移動であったのに、都市に到着したソキの足元は、すでにおぼつかないものであった。
 乗り合わせた婦人がソキを心配して、宿まで送ってくれたからことなきを得たものの、再び行き倒れになりそうな有様だったのである。ふらふらになって寝台に倒れ込んだソキは、そのまま朝まで一度も目を覚まさなかった。野宿をすれば夜に二回は目を覚ますのが普通だから、それを考えれば深い眠りで良かったように思うのだが。しかし、一晩でも疲れが取れない様子で、ソキはしばしば溜息をつきながらペンを止め、軽く眉を寄せたりしている。数時間もすれば、恒常魔力がその疲労すら消し去るだろう。
 ソキが『ソキは丈夫なんですよ』という無意識の予知魔術の重ねがけによって常に発動させている回復魔術は、極めて性能が高いものだ。怪我を癒し病気の回復を早め、疲労すら消し去ってしまうそれは効果が限られた魔術とするより、魔法のそれに程近い。それでいて妖精が観察する分に、魔力は殆ど消費されていなかった。ごく自然な魔力の回復が、消費とちょうど釣り合うくらいに調整されているのだろう。ほぼなんの負担もなく動かされていることを考えれば、馬車で移動させ続けるのが良いと思われた。
『……そういえば』
 けれども、今その提案をしても、さらに機嫌をこじらせるだけだと分かっている。その為に妖精は、思い浮かんだ疑問を、ごく素直に口にした。
『アンタ、観光はしないの?』
「……観光、です?」
 やや不機嫌そうな色を漂わせながらも、そこでようやく、目が覚めてからはじめての視線が妖精へと向けられた。このいじっぱりで頑固で、一度決めたらがんとして譲らない性格の少女は、怒ったりすると徹底的に相手を無視するのだった。不機嫌なので、八つ当たりしたら駄目だと思うですよ、という理由で無視しているらしいが、怒りが消えるまで一方的に無視し続けるというのも、八つ当たりでさらに怒りが加速するのと比べてどちらがマシなのだろう、と妖精は思う。
 ましてや喧嘩した相手を無視するのは仲をこじらせるだけだと思うが、と考え、妖精は思い至って首を降る。恐らく、対等な関係で喧嘩をしたことなど、ソキには一度もないのだ。これは恐らく、周囲にいる立場が下の者を悪戯に叱りつけたりしない為の気遣いである。唯一怒りをぶちまける相手がいるとしたら、あの兄くらいのものだろうが、ソキは相手を勝てない目上の相手だと知っていて食ってかかっているような所があった。
 コイツ、学園で正常な人間関係築くのがすでに大変なんじゃないだろうか、と真剣に心配になりながら、妖精はソキの碧の瞳を見返した。
『そう、観光。だいたいどんな場合でも移動に余裕がある日程で案内妖精が送られるのは、そういうお楽しみもあっていいかな、っていう星降の国王陛下の優しさだもの。まあ、アンタはちょっと……そう余裕がある訳じゃないから、行く先々で遊んだりするのは難しいけど』
 馬車を使えば今だって余裕のある日数ではあるのよ、と言葉を続けるのをやめにして、妖精はいま一つ乗り気ではなさそうなソキの答えを待った。椅子の上で膝を抱え込みながら、ソキはふぁ、とあくびをする。
「リボンちゃん」
『なに?』
「ソキ、だいたいどの国も行ったことありますし、だいたいなんでも見たことあるんですよ」
 発言の内容に反して、ちっとも楽しそうな声ではなかった。政略結婚候補はだいたいどの国にも存在し、それぞれが少女の機嫌を取ろうと、様々な所に連れまわしたに違いなかった。なので別にいいです、と拗ねたような声で呟き、ソキは興味深そうなきらりとした目で妖精を見る。
「そんなことより。リボンちゃんは、もしかして、何回も案内妖精さんしたことあるですか?」
『そうね……。もう十回以上はやってるわ』
「リボンちゃん、すごいです! ベテランさんです!」
 きらきら目を輝かせてはしゃぐ様子を見る分に、ソキの機嫌はなぜか回復したらしい。リボンちゃんすごいんですねー、と嬉しげにほわほわと笑い、ソキは書いた手紙を手慣れた様子で封筒にいれた。二通あった。ロゼアちゃんちとー、陛下のー、と指差して確認するのを聞きながら、妖精はちょっと待て、と思わず半眼になった。
『実家は?』
「ロゼアちゃんちに御挨拶しないで来てしまったですからね。……陛下にも、無事で移動できましたですよってご報告なんですよ」
『無視すんじゃないの! 実・家・はっ?』
 機嫌が良かろうと悪かろうと、ソキは言いたくないことは基本的に無視をする。別のタイミングで根気よく質問をすれば答えてくれる時もあるのだが、その忍耐は妖精には無かった。怒りながら問いただすと、ソキはむー、と再び不機嫌な様子で唇を尖らせた。
「お兄さまになにを書くですか」
『……無事に移動してるわよ、とか?』
「や、で、す」
 ぷい、と顔をそむけて言い放ち、ソキは椅子から立ち上がった。とことこと寝台の傍に置いてあった荷物の元まで歩み寄り、ざっと中身を確認して、肩からかける。
「出発しますですよ。今日は野宿になるので、準備でお買いものもしていくです」
『……馬車使えば、一日で移動できると思うけど?』
 また夜にはふかふかの寝台で眠れるわよ、という妖精を、ソキはじっと見つめながら言った。聞き分けの悪い相手を迷惑がる眼差しだった。
「嫌です。ソキ、歩きます」
『アンタの足で行くと、そう余裕がある日数じゃないって、もう分かってるでしょ?』
「大丈夫です。ソキ、一生懸命歩きます。早歩きするです」
 金銭的な余裕がある状態で、こんなにも馬車に乗りたがらない入学予定者は初めてだった。酔うという理由でしぶる相手は過去にも居たが、それとは違うような気がする。忘れ物がないか部屋を見回しているソキの目線の高さに、ふわりと妖精は降りて行く。
『なにが、嫌なの?』
 きゅ、と唇に力を込めたソキを見て、反射的に質問を間違えた、と妖精は思った。少女の唇がうっすらと開くのを見て、妖精は慌てて質問を重ねる。聞くなら、こちらの方だった。
『なんで歩きたいの?』
 ぱち、と意外そうにソキは瞬きをした。
「リボンちゃん、こないだ、分かったって言ったですよ?」
 どの話だ、と妖精はしばらく考えた。ソキはじっと妖精を見つめたまま、思い至る時を待っている。しばらくして妖精は、あっと声をあげてソキを指差した。
『アンタ、それで……それで、もしかして、白雪からずっと歩きたがって……っ?』
「そうですよ?」
 なんで分かってくれていないんだろう、とそのことを純粋に不思議がる表情で、ソキはこてんと首を傾げた。
「馬車になんて乗ってたら、ロゼアちゃんが歩いてた時、気がつかないじゃないですか」
『……体力かと思ってた』
「それもあります。ソキ、馬車に乗るとすっごく疲れるです。それに、馬車は結婚の顔合わせの……『旅行』で国の外に出る時くらいしか乗らないですから、反射的に吐きそうになりますし……体が痛くなりますです。なので、ソキは歩いて行きます。ロゼアちゃん、探していいって、リボンちゃんは言ったですよ? 会いに行きたいって、分かったって、言ったです。なので、ソキは歩きます」
 分かってくれたですね、と言って部屋を出て行こうとするソキの前にすばやく回り込み、妖精はちょっと待ちなさい、と言った。うっかり許可を出した過去の自分に平手打ちをして思い留まれと叫びたい気分だが、いまはそれをしている場合ではない。まだなにかあるですか、と不満げなソキに、妖精は慎重に言葉を紡いだ。
『国境から、馬車に乗ってくれたのは、なんで?』
 ものすごく不機嫌にはなった上に最終手段を用いて脅した結果だが、それでもソキは馬車でここまで移動してきたのだ。必ず理由がある筈だった。教えてほしいの、とお願いすれば、ソキはしぶしぶ口を開く。
「国境近くの町は、定住者の他には移動を続ける職業の人しかいないのが普通です」
『……だから、つまり?』
「ロゼアちゃんが、あそこにいる可能性は限りなく低かったので、馬車に乗ったです」
 勉強はしておくものですね、とそっけなく言い放ち、ソキは妖精に微笑む。感情が切り離された、どこかちぐはぐな笑みだった。
「……さがさせてください」
 薄氷の上にひっそりと立っている印象の笑みだった。すこしでもバランスを崩せば、壊れてしまうような。冷えた笑み。人形めいた。凍りついた花のような、笑み。
『……アタシも探すから!』
 告げた言葉は、反射的なものだった。ふぇ、と間の抜けた声で首を傾げるソキに、妖精はたたみかけるように言う。
『アタシも一緒に、その、ロゼア? 探してあげるって言ってんのよ!』
「あ……ありがとう、ございます……?」
『だから、アンタ馬車に乗りなさい』
 結局それなんですか、と頬を膨らませるソキに、妖精はいいからよく考えなさいっ、と絶叫した。
『馬車で移動してる時に、アンタが寝てれば、それだけ体力の消耗を防げるでしょう! で、都市に着いたら、すぐ探せばいいじゃない! 移動してる間は、アタシがちゃぁんと外を見て、それっぽい人がいないか見ていてあげるから!』
「……でも」
『よく、考え、なさい! だいたい、ソイツが移動してるとしたら、移動方向がアンタと一緒だと思わない? 思うわよねっ? アタシはそう思う! つまり、アンタが徒歩でとろとろ動いてても、遭遇する可能性は低いの! この上もなくね! 向こうが歩いてるのに、アンタが追いつく可能性も、まずないの! 歩く速度が全然違うから! つまり、アタシの言う通りにするのが一番効率がいいの! だいたい、歩いて来たって殆ど人と行き合わなかったじゃない! みーんな馬車で移動してるんだから、ね? 分かった? で、素直に馬車に乗ってくれたら、行く先々の都市で、アンタの気がすむまで探せばいいわ。間に合うように移動はしてもらうから、そう日数はあげられないかも知れないけど』
 言っとくけど、徒歩で移動となると都市で探す時間なんてほとんどあげられないのよ、との言葉が決定打になったのだろう。とても嫌そうな顔をしつつ、ソキはしぶしぶ、じゃあ馬車で行くです、と言った。



 ソキの旅日記 二十二日目
 なんか騙された気がするです。
 ソキ、頑張って移動します。

前へ / 戻る / 次へ