話には聞いたことがあります、とものすごく真面目な顔で言われたので、妖精はこれが本物の世間知らずか、という目で己の案内する魔術師の卵を眺めやった。隣で、ニーアがきゃぁとばかりに歓声をあげ、じゃあ試してみましょうね、とはしゃいでいるのがなにやら無性に腹立たしくなってくる。おなかのあたりがぐるぐるして、上手く表せない気持ちで言葉がちっとも思い浮かばないでいるうちに、ソキは危なっかしい足取りで人混みの中を歩きだし、ニーアがふよふよとその隣を飛んで行く。額に手をあててきっかり二秒、気持ちを落ち着かせる為に目を閉じて息を吐き、妖精は何故か浮かんで来る衝動のまま、ふふふうふふと笑みを零した。別になにも楽しくないが、笑いが零れたのだから仕方がない。
ぞわぁっ、となにかを感じた様子で、ぴたりと空で止まったニーアが振り返る。ソキは気がついた様子もなく、てちててて、と足早に進み、石畳に足先をひっかけてぐらついた所だった。びたんっ、と音がする。やぁんやぁん、としょんぼりした声が零れているのを冷やかに見下し、妖精はつんとすました態度で言い放った。
『何回言わせるつもりなの。足元を、見なさい。この間抜け。……さてそれで、ニーア?』
『は、ははははいなんでしょう先輩ごめんなさい先輩ニーアが悪かったですニーアが悪かったですから呪いは呪いだけは呪いだけは……!』
「……あれ? リボンちゃんったら、不機嫌さんです?」
ソキ、鼻の頭を打ちましたですよ、と赤くなった箇所を手でさすりながらむっくりと起き上がり、少女が不思議そうに首を傾げる。人通りのある大きな通りで、妖精の姿が見えるのも、声が聞けるのもソキだけである。自然と、ソキはなにもない空間に向かって話しかけている不思議な存在としてみなされるが、特に声をかけられることはなかった。見えなくとも、妖精のびりびりとした怒りを、誰もがなんとなく感じ取ったからである。遠巻きに、なんとなく視線を反らされる注目のされ方をしながらも、ソキは全くそれに気をはらうそぶりを見せなかった。ぱちぱちまばたきをして、くてん、と首を傾げてみせる。
「リボンちゃん、どうしたですか?」
『どうしたも、こうしたも……! アンタ、さっき、なにするって言った?』
「ふえ? え、えっと? ソキ、かいぐい、というのをしてみるですよ!」
よぉし言ってやったぞっ、と言わんばかりに両手をぎゅっと握りしめて宣言する少女に、妖精は『コイツ本当に救いようのない手遅れだな』と言わんばかりの視線を向け、あからさまな溜息をついてみせた。あんまり使い慣れない、かつ、聞き覚えのない単語であるせいか、発音がたどたどしいのは気のせいではないだろう。そそのかしたニーアに聞こえるように舌打ちをしてから、妖精はソキの目の高さまで降りてやった。
『どうやって?』
「……どう、や、って?」
『手順の説明してみなさいって言ってるのよ、手順の。やったことないんでしょ? どうやるか知ってるの?』
先輩、もしかしてものすごく過保護ですか、と言いかけたニーアに無言で拳を叩きこみ、妖精はなにやら怯えた表情でぷるぷると震える少女に、口元を緩めて微笑みかけてやった。
『アタシが、なに言ってるか、分かるわね? 説明しろって言ってるの』
「り……リボンちゃん、不機嫌さんです……! とっても、とっても、怒ってるです……!」
『アタシが今怒ってると思うなら、アンタはアタシをこれ以上怒らせない為にするべきことがある筈よね?』
ソキは怯えた小動物のようにぷるぷるぷるぷる震えたまま、無言で何度か頷いた。えっとですね、と告げた声はひっくりかえっていたが、慌てた深呼吸を繰り返してから告げられた言葉は、すでに普通の調子を取り戻している。
「屋台のひとに声をかけて、これくださいって言って、お金をはらって、買うですよ?」
『花舞は、どの都市でも、大通りに常に屋台が出ていて……! 他の国だと、お祭りの時にだけ見るようなのも、たくさんあるから、珍しいと思うし……!』
『うん。ニーア、黙っていなさいね』
アタシ、今、アンタと話している訳じゃないの。にっこり笑って妖精がいうと、ニーアは泣きそうな顔でぎゅぅと両手を握り締め、ほとほと困った様子でナリちゃん、と誰かの名を呟いた。それに祈って解決するのなら好きにすればいいけどと思いつつ口には出さず、妖精はちらり、とソキに視線を戻して続きを促した。ソキは、己の案内妖精が気分を害した理由にちっとも心当たりがない様子で、おろおろとしながらも続けて行く。
「だ、だめです? かいぐい、したら、だめなんです? ソキ、やってみたいんですよ」
『……根本的なことが分かってないみたいだから、教えておいてやるけれど』
どきどきしながら待っているソキを、妖精は半ば睨むようにして告げた。
『買い食いっていうのは、基本的に立って食べるのよ?』
「……んぅ?」
いまひとつ、分からないようで、ソキは眉を寄せながら首を傾げた。立ったままですか、と繰り返されるのに、妖精は重々しく頷いてやる。
『そう、立ったまま。椅子とかないから。座るトコとかも、基本的には用意されていないから。で、手を洗う所とかもないし、濡れた布とかもないし。自分で用意していれば別だけど? アンタ、今持ってないでしょう? だから、そのまんまの手で、立ったままで、食べ物手に持って食べるのよ? アンタそれ、できるの?』
こてん、と傾げていたのとは逆方向に頭を倒し、ソキはそこで初めて周囲の観察、というものをした。大通りの両端には、ずらりと屋台が立ち並んでいる。砂漠の国では祭りの日くらいにしか見られない光景だが、花舞では毎日、こうした正式な店舗を持たない店が現れるのだという。売っているものは様々で、日用品もあれば土産物もあり、ソキの目当てとする、食べ物の屋台も多く見つけることができる。簡易的な椅子と机を用意している店もあるが、多くは妖精が言うように、人々は立ったままで軽食や甘味を口にしていた。えっと、ええっと、と考えながらソキの視線が妖精を映しだし、しばらく沈黙したのちに、ん、と頷かれる。
「がんばるです」
『努力しなくて良いところにやる気を見出すんじゃないっ……! アンタ買い食いとか立ち食いなんてこと、したことないのよねっ? ないでしょ? ないんでしょ? なんでそう、いらん方向にばっかりガッツだの根性だのやる気だのを出しちゃうのよ。ああ、もう……! ちょっと、よく考えてもみなさいよ! こういうトコの食事とか軽食って、油っぽいのが多いんだから! アンタ、ちゃんと消化できるのっ? 胃もたれで気持ち悪くなったりするのはアンタなんだからね!』
「……リボンちゃん。ソキ、がんばります。がんばりますよ……?」
絶対におなか痛くしたりしないですし、ちゃんと食べられそうなのも選びますし、それから、それから。必死になって訴えて、最後にはきゅぅん、と喉を鳴らして上目づかいで見つめてくるソキに、妖精は冷たい目を向けた。アンタまた、そんなこと言って。駄目ったらだめよ、と言いたげに睨む妖精と、じいぃ、と見つめてくるソキを見比べて、ニーアはひたすらそわそわと落ち着きがない。そのまま、五分が経過した。リボンちゃん、とすがるようにソキが言い、妖精が諦めの溜息をつく。
『……どうしても食べたいなら、よくよく選んで一品か二品! なるべく小さいのにしなさい、分かった? なるべくちいさいのよ、ちいさいの! 大きいのなんて食べきれないで余らすに決まってんだから!』
「リボンちゃんだぁいすきですー!」
『そんなこと言われないでも知ってるわよ! いいから、はしゃぐな! 走るな! 足元を見ろーっ!』
きゃっきゃとはしゃぎながら屋台選びへ向かうソキの背を腕組みをしながら睨み、妖精はまったく、と怒りの矛先をニーアへと変えた。
『アンタが余計なこと言わなければ、買い食いしたいです、とか言わなかったかも知れないのに!』
『先輩、過保護だったんですね……!』
『だーれーがー、かほごよっ! 誰がっ! アンタには分からないでしょうけどねぇっ、アイツは本当に貧弱なの! 本当に! びっくりするくらいへなちょこなんだから! これくらい、過保護でもなんでもないわよ! アンタには分からないでしょうけどっ!』
ふんっ、と腰に手をあてて怒りが収まらない様子の妖精の隣で、ニーアがぱたぱたぱたん、と羽根を動かした。
『あの、先輩……?』
『なに』
ぎろり、と大変によろしくない目つきで妖精が同族を睨みつける。その視線が怖くて仕方がないように身を縮めながらも、とある可能性に思い至っていたので、ニーアはそーっと言葉を告げた。
『……ソキちゃん、わたしに、たくさんお話してくれますけど、全部……じゃなくても、ほとんど、先輩のことですよ?』
『……はぁ?』
『で、ですから。ソキちゃん、わたしに懐いてくれていますけど、わたしが好きというより、先輩のことを誰かに言いたくて仕方なかったんじゃないかな、と。リボンちゃんね、リボンちゃんがねって、そればっかり。……うふ』
口元に手をあてて、ニーアは楽しくて仕方がない、という風に首を傾げてみせた。
『リボン先輩、顔、まっか』
『……ちょっとソキいいいっ!』
「やあああああんっ! ソキなにもしていないですっ、なにもしていないですよおぉっ!」
怒鳴りつけられて、怖かったのだろう。大慌てでちまちまちまっと妖精の所へ戻って来ながらも、ソキはそう訴え、そして足元を見ていなかったが故に、つんのめってびたんっ、と転んだ。
そういえば、とソキの頭の上に座りこんで不機嫌そうな顔つきをしながら、案内妖精は少女の髪をひっぱった。やぁんいじめるですぅ、とじたばたされるのにも構わず、問いかける。
『アンタ、そろそろ今日の宿、決めなさいな』
『……また、あんな高いトコ泊まるんですか? リボン先輩』
『アタシたちと一緒にいる間は、お金の使い方とかそういうのは見なかったことにしなさい、ニーア』
安全第一、体力回復第一なのよ、と真面目に言う妖精に、ニーアは怯えた風にこくこくと頷いている。それで、どこにするのと向けられる妖精たちの視線に、ソキはなんでもないように答えた。
「泊まらないですよ?」
『え?』
『……は?』
てちてちてち、前へと歩きながら、ソキはだから泊まらないです、ともう一度言った。
「移動します」
『ちょ……っと、アンタ、なに言ってんの?』
「移動しますですよ。今からなら、まだ、今日の馬車に間に合う筈です。いつもの、一日かけて移動するの」
ちまちま、のたのた歩くソキの進行方向は、そういえば最初から宿屋のある方角ではなかった。えええ、と戸惑いながら、案内妖精はソキの顔を覗きこむ。
『アタシは……別にかまわないけど。どうしたの?』
「なにがです?」
『アンタ、こんなに移動したがること、なかったじゃない』
都市についたら一泊するのが、ソキのこれまでの旅だった。休んで、回復して、探して、出発して、到着して、休んで、その繰り返し。泊まらなくていいの、と聞きかけて、案内妖精は口を噤む。そうだ、と思った。そうだ、ソキにはもう探すべき相手がいない。すくなくとも、この場所にいる可能性が、見つけられない相手なのだ。なにも言えない案内妖精に、ソキはすこしだけ申し訳なさそうに微笑んだ。
「……そうじゃないです、リボンちゃん。ちがうんですよ」
『……でも』
「それに。ニーアちゃんも、先を急ぐです」
あんまりゆっくりしているのはだめですよ、というソキの言葉に、もうすこし注意してやればよかった、と妖精は後に深く悔いた。ソキは決定的なことは言わなかった。その時になるまで、決して告げようとしなかった。けれど、この時も遠回しに囁いてはいたのだ。ニーアちゃん『も』と、ソキは言った。先を急ぎたかったのだ。それだけの理由が、ソキにはあったのだと。気がついて、聞いてやればよかったと、妖精はのちに思った。
ソキの旅日記 三十六日目
ごはんおいしかったです。
リボンちゃんが不機嫌でした。
次の都市が、首都です。
王宮に行って、ご挨拶しないといけないです。
(目をこらさなければ、読めないような、ちいさな、薄い文字で。いませんように、と書かれていた)