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 ソキの旅日記 三十七日目

 大人が小走りに平坦な道を行くより、ほんのすこしばかり早い速度で、ソキを乗せた馬車は行く。本来は数人が同時に移動する乗合馬車であるのだが、馬が引く車体に乗っているのはソキ一人きりである。偶然、同乗者がいない出発となったのをいいことに、ソキが都市から首都へ向かうこの便を、片道分買い取ったからだ。行く道に怪我人や病人がいれば同乗させるものの、基本的に貸し切り状態であるから、移動速度もぐっと遅くなるようにお願いしてある。本体の予定より数時間、移動時間が加算されるが、ソキの体にかかる負担を考えれば安いものだ、と案内妖精は判断した。ソキが支払った金額に、ニーアは眩暈を覚えたのか出発して数時間はうずくまっていたのだが、時刻が日付け変更まで僅かとなった現在、元気を取り戻してもの珍しそうに過ぎて行く景色を眺めていた。
 ソキの案内妖精と違い、ニーアはこれが初めての入学生の案内仕事である。行きは各国の王宮と国境に設置された『扉』を使って動き、そこからは自分で飛んで移動するので、馬車に乗るというのは誰かと同行しない限り、妖精には無い経験なのだった。ニーアはちいさな羽根をぱたぱたと動かしながら、人の目にはもう黒く塗りつぶされたようにしか見えないであろう夜の世界を、飽きずにきらきらとした目で見つめていた。ソキは馬車で移動すること自体にならば慣れているので、移動する景色というものにはそう心惹かれないらしく、逆に楽しむニーアを見て暇をつぶすありさまだ。とろとろとした移動速度が幸いして、ソキの体には案内妖精が危惧していた程の負担はかかっていないようだった。
 それでも、もう眠る時間であることは確かだ。案内妖精はソキの顔の前にひらりと飛んで行くと、ぼんやりと瞬きをしている目を覗きこみ、そろそろ眠りなさいな、と囁いた。ソキはゆったりとあくびをしたあと、妖精の言葉に素直に頷いた。頷きに力はなく、ふらぁ、と頭が揺れ動く。すでに相当眠いらしい様子に、案内妖精は無言で眉を寄せた。眠いならば寝てしまうことをためらうような性格ではないのだが。なにをそんなに起きていたがったのだろう。寝ろ、という言葉に反発はしなかったので、言われれば眠りを選ぶ程度の、なにか想いがあったのだろうか。ねえ、と呼びかけた妖精に、ソキの碧の瞳が向けられた。ふわふわの、透明な石が砕けてできた砂漠の、ひかりを宿す髪とは違い、ソキの瞳は色が濃い。その瞳に浮かぶ感情が、なぜか遠く感じて、妖精はますます訝しげに少女を睨みつけた。
 この瞳が、どんな風に感情をきらめかせるか知っている。
『……どうしたの?』
 口に出してから、ああこの聞き方は失敗だな、と妖精は思った。不思議そうにニーアが振り返り、ソキのことを見つめて、あれ、と首を傾げるのが見えた。とても綺麗なお人形を見る表情だった。鈍くも、瞳によぎる感情の、その名残だけが、かろうじてソキをひとに見せている。ゆうるり、花のつぼみが綻ぶように、ソキの唇が笑みをかたどった。
「どうしてですか?」
『……眠いなら、眠ってしまいなさい。アタシがちゃんと、外、見ていてあげるから』
「……うん」
 ちりっ、と爆ぜる火の粉のように、ソキの瞳に不安が現れ、沈んで消えて行く。一瞬だけ普段のソキが現れ、けれども、また隠されてしまった。ソキはごく簡単に濡れた布で体を拭いて、鞄の中にだいじにだいじにしまい込んであるぬいぐるみを取り出して抱きしめると、もぞもぞと座席の上で丸くなり、瞳を閉じて息を深くする。その、閉じるまぶたに力がこもっているのを見て、妖精はある種の確信を得た。緊張している。それも、ものすごく。
『……先輩。ソキちゃん、どうしたんでしょう?』
『アタシが知るもんですか』
 吐き捨てた言葉は妖精が思うよりずっと強い語調で、呪うように夜の空気を震わせた。びくぅ、と怯えるニーアにアンタには怒ってないわよと視線を向けて宥めながら、妖精はふわりふわりと空気を食んで飛んだ。
『なんかあるのよ。でも、コイツは言いたくなんてないんだわ』
『そうみたいですね……』
『できるなら、なんかあるってこともアタシには分からせたくないのよ。……旅したくないとか、そういうんじゃないみたいだけど』
 首をひねって、妖精は考えた。今現在移動していることを考えても、旅に対していつになく積極的な態度である。戻りたいだとか、そういう気持ちを押し殺している訳でもないだろう。分からなくて、妖精は不機嫌に鼻を鳴らした。
『やだやだ。アタシ、ああいう感じのコイツ、だいっきらい。売り物みたいで』
『……お人形さんみたいですね』
『ホントよ。……ああ、でも、そうね。そうよね。……そうだったわね』
 言葉の途中でそれに気がつき、妖精は眠ってしまったソキの頬に触れた。そっと慈しむように撫でてやりながら、痛ましい傷を見るように、告げる。
『アンタ、そういう風に育てられたんですもんね……。ああやって、大事に大事に、自分をしまい込んで、守ってたの……?』
 あの態度は、ソキの『盾』だ。外界と己の意識を殆ど切り離すことによって、決定的な痛みを受けないように己を守っている。それでいて、なにが起こっても反応できるように、警戒する意思と見つめる視線は残されていた。それ以外の方法を知らないのだろう。必要ないくらい、守られていたのだろう。その守りの手が及ばない所で生きる為の、あれは、防衛手段だった。守られない日が来る時の為の、ずっとしてきた、準備だった。
『……間に合ってよかった、か』
 白雪の国で、ソキと同じ立場であった青年はそう言った。心から安堵した様子で告げた、その意味を、妖精は知る。
『アタシが間に合わなかったら……アンタ、ずっと、あんなだったの?』
 身にも心にも大変衝撃的な出会いを果たしたあと、入学許可証を受け取ったソキは、まるで唐突に涙を零した。今ならば、分かる。あれは、眠らせていた感情が目覚めたばかりで、対応しきれていなかったのだ。泣くしか感情表現のできない赤子と同じ。思い至って、ぞっとした。間に合ったのだ、まさしく。あらゆる意味で。妖精は、ソキに、間に合った。ぐるぐると渦を巻く感情が、言葉になって零れて行く。
『アンタを……あんなものにして、たまるもんですか……! アンタは魔術師になるの。アタシが、絶対、そうさせるんだから……!』
『……先輩』
『だから、アンタはいつか……今じゃなくていい、ずっと遠い未来でもかまわない。いつかでいい。いつか、いつか……ちゃんと、怖いのにも、痛いのにも、立ち向かっていきなさい。アンタなら出来るわ。どんなに足が痛くても、立ち止まらなかった。何回転んでも、絶対立ち上がった。熱出しても、寝込んでも、先へ行こうとした、アンタなら。どんな恐怖にだって、痛みにだって……今だって、逃げることだってできるのに、守ることを選ぶアンタなら。逃げたいとか……助けて、とか。そんな言葉を、いつかちゃんと、言えるようになって』
 戦うことだけが、立ち向かう方法ではないと、知って。祈るように囁く妖精の言葉が、眠る少女の意識に触れる。ゆめうつつ、ぼんやりと開いた瞳に、淡い妖精のひかりが映る。こて、と不思議そうに、ちいさく首が傾げられた。
「……りぼんちゃん。泣いてるですか……?」
『……気のせいよ。寝ぼけてんじゃないわよ、はやくもう一回寝なさい』
「んぅ……ん、とね。だいじょぶ、ですよ、りぼんちゃん。そきが、いっしょ、います、ですよぉ……」
 そぉっと伸ばされたソキの両手が、妖精の体を包み込み、胸元へ引き寄せる。動物が体をくるんで仲間を守るように、ぬいぐるみと一緒に妖精を抱いて、ぎゅぅっと丸くなって。ソキは眠たげな様子で、妖精にほわりと笑いかけた。
「りぼんちゃん……」
『……なに』
「ソキを、おむかえにきてくれて、ありがとですよ……。ソキね、あのね、ほんとはね……いけなかったですけど、でも、でもね、ほんとうは、ずっとね、いやだったんですよ……」
 生まれた時からの義務だった。その為に育てられ、物ごころつく時にはそうされることこそが存在理由だった。嫁ぐこと。売られること。国を富ませること。飢えるひとを救うこと。屋敷から、同じ目的で育てられた兄姉の姿が一人づつ消えて行く。兄たちも、姉たちも、嫌な顔ひとつせず嫁いで行った。大切にしてもらえることは分かっていた。だからこそ、多額の金銭が国へ戻ってくるのだ。その存在の見返りに。あなたも、幸せになりなさい。幸せにお迎えされなさい、そう言い残して、兄姉はいなくなった。それこそが、幸せだと、そう教えられて。
 嫌だとは、どうしても言えなかった。ようやく紡げた唇が息を吸い込み、涙のこぼれない潤んだ瞳が、ねむたげに瞬きを繰り返す。
「リボンちゃん……ソキね、ソキね……?」
『……うん?』
「……そき、ねぇ」
 まだなにか言いたげな意識が、とろりと夢へ溶けて行く。うん、と頷いて、妖精はとじた瞼を撫でてやった。
『おやすみ』
『……い、いいなぁ。先輩、いいなぁ……!』
『なにがだ言ってみろ』
 半目で、険しい声になってしまったのはもう仕方がないことだろう。しんみりとした気持ちを吹き飛ばす、ニーアのきらきらとした声に、妖精は頭痛を感じながらも続きを促してやる。だって、だってと言わんばかりぱたぱたと狭い馬車の中を飛び回り、ニーアは涙ぐんだ顔つきで、頬に両手を押し当てている。
『ナリちゃん、わたしと、こんな風にお話してくれなくって……!』
『ああ、そう。それは残念ね。……ところで前から聞こうと思ってたんだけど、アンタの、なに? その、ナリちゃんっていうのが、入学予定者な訳?』
『はい、そうです! ナリちゃん、とっても素敵なんですから……! わ、わたしと、おはなし、してくれないけど』
 目も合わせてくれないし、なんにも聞こえないふりとかされちゃうけど、でもでもでも、とぐずんと鼻をすすりあげて、ニーアはくるくると踊るよう、馬車の中を飛び回った。
『わたし、しってるもの! ナリちゃんがどんなに優しいか、どんなに強くて、すてきなひとか!』
 好き、好き、大好き。だぁいすき。世界中に告げてまわるように囁き、ニーアはぱっと明るい笑みを浮かべた。
『だからね、先輩。わたし、何度だって諦めません。ナリちゃんを迎えに行きます!』
『……ああ、そういえば、アンタ、一回迎えに行ってるものね。吹っ飛ばされて国境に居ただけで』
 ナリちゃん、というのは、それはもう『風』に愛される魔術師であるらしい。聞いた所、その愛されっぷりだけで、すでに『たまご』の域を脱して魔術師と呼んでいいのではないかと妖精が思うくらい、この世界を取り巻く、意思のない筈のそれに愛されている。世界の愛の欠片。魔術師たちが紡ぐ、魔術のみなもと。魔力そのものとも呼べる、なんらかの力、なにかの意思が、本来ない筈の『風』に自意識と呼ぶべき形を与え、ひとりの存在を愛させた。それが、ニーアが迎えに行ったナリちゃん、だ。ふむ、とソキの腕の上に腰かけながら、妖精は言った。
『ところで、その……ナリちゃん? 男じゃなかったっけ?』
『はい! ナリちゃん、男の子です!』
 男にちゃんをつけて呼ぶな紛らわしい、と怒りかけて、妖精はそれを諦めてやった。そんなものは、ロゼアちゃん、の時点で慣れるべきだったのかも知れない。はぁ、となんの為にか零れた息を見送って、妖精はぱたりと羽根を動かした。
『入学予定者は、ソキ以外にあと、三人。全員男で、ソキより年上、か……』
『……リボン先輩?』
 考え込む横顔に、嫌な予感がよぎったのだろう。怖々と問うニーアに、ふと視線をあげた妖精が、真剣なまなざしで問う。
『不能になる呪いとか、かけていい?』
『だ、だだだだだだめに決まってるじゃないですかああああ!』
『ちっ。……まあ、大丈夫よね。世の中の男どもが全員馬鹿で変態でロリコンな訳でもあるまいし。アタシとしたことが、変な心配しちゃったわ、恥ずかしい』
 まあ、コイツ予知魔術師だし。いざとなったら自分でそれくらいの呪い、ぽんぽんかけて回れるだろうし。大丈夫か、と頷く妖精に、ニーアは恐ろしい未来予測をしないでください、と言って涙ぐんだ。

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