もう二日、ソキは目を覚ましていなかった。一昨日の夕方、急に意識を失ってからその日は目覚めず、次の日も瞼を開くことはなく、そろそろ日付けが変わろうとしている今日も、寝がえりさえ打つこともなく昏々と眠り続けている。全身に力を込めて丸くなる寝姿は見慣れたものだが、顔色は蒼白であり、表情は恐怖に強張っていた。怖い夢を見ているのだろう。時折、いやいやとむずがり、言葉にもならない囁きをもらす唇だけが、少女の意識が体のどこかへ落ちてしまっていることを妖精に教えてくれた。ソキ、と時折祈るように名を呼び零しながら、妖精はひらすらに日付けが変わってしまう瞬間を待っていた。
ソキの姉だと称する女性が少女を連れてきたのは、幸いにも星降の国境近くにある都市の中であったが、この日が変われば残る日数はあと六日となる。星降の国境を超え、王宮に辿りつくまで、目安とされる日数は七日。つまり、間に合わない、という判断を案内妖精は下すことができるのだ。もちろん、個々の努力で移動日数は短くすることができるものだが、ソキには無理な話である。だから日付けが代わりさえすれば、案内妖精は己に許された権限でもって、花舞の王宮魔術師に連絡を繋ぐことも、星降の王宮魔術師に異変が起きていると告げることもできるのだ。はやく、はやく、と火で焦がされるような気持ちで妖精は思う。
はやく、はやく、時間よ、過ぎ去ってしまえ。あともうすこし、もうほんの一時間で、今日という日は終わりを迎える。眠り続けるソキは目を覚ます気配もなく、ここで、少女の旅は終わる。ソキは悲しむだろう。怒るかも知れない。それでもいい、と妖精は思った。部屋は窓に幕が引かれていないのに薄暗く、蝋燭に灯されたちいさな火も、息づく闇を遠ざけてはくれなかった。妖精は眠るソキを守るように顔の近くまで舞いおりて、強張った頬にちいさな手を押し当てた。ソキ、ソキ、とまた何度か、呼ぶ。泣く寸前のように少女の瞼は震えたが、うっすらとも開かず、碧の瞳が妖精の姿を映し出すことはなかった。
甘ったるく、舌ったらずに響く声が記憶の中で妖精を呼ぶ。リボンちゃん、あのね、あのね、ソキね。あのね、と言って笑う表情が、今は見えない。ぐっと手を握って、妖精はソキの頬に顔を寄せてこすりつける。冷えた体温を温めてやるのに、妖精の体はちいさすぎた。それでも、ほんの僅か、ソキの強張っていた表情から力が抜けた気がして、妖精は淡く微笑む。うん、アタシが一緒に居るからね。囁く声がソキの意識に染み込むより早く、廊下へと続く扉が、音もなく開いた。ゆったりとした動きで入ってきたのは、この屋敷の女主人。ソキの姉と、己を称した女性だった。
確かにソキに似ている、と近づく女性を威嚇の眼差しで睨みつけながら、妖精はひどく冷静にそう思った。はじめて目にした時は、その面差しの雰囲気や佇まいがわずかに血の繋がりを感じさせる程度だったのだが、闇に浮かび上がるように歩んでくる姿は、奇妙なくらい、ソキと印象を重ねさせる。ただし、妖精が嫌いな方のソキに。女性は、あまりに人形めいていた。浮かぶ意思は遠く、感情はぼんやりとしていて、ひたすらに可憐なばかりの外見が、それを『観て楽しむ』ものだと直感させる。観賞用。それ以上でも、それ以下でもない。見目麗しい、これはお人形だ。綺麗なものは綺麗だし、愛でる気持ちも分からなくはないが、妖精はひとこと、気持ちが悪いと吐き捨てた。
この女性を、こう整えた相手とは、徹底的に趣味が合わない。それを完全に受け入れてしまっている女性のことも、妖精は好きになれなかった。昨日も、今日も、女性は時折眠るソキの様子を見に来たが、それは身内の情のこもったお見舞いなどではなかったのだ。女性は、ただ寝台の傍に立ち、ソキのことを見つめていた。ひどく凪いだ目で、見つめて、見つめて、名を呼ぶことも頬に触れることも布団をかけ直してやることもせず、ふと飽きたように視線を反らして部屋を出て行ってしまう。幾度も、その繰り返し。そこに女性の意思や感情はなく、ただ、誰かにそうせよと命じられているような、作業的な印象があるばかりだった。
こつり、足音を立てて女性が寝台の傍で立ち止まる。昨日はこんな夜中には来なかったのに、と思いながら、妖精は顔をあげて改めて女性を見た。そして、はやく出て行きなさいよ、と言おうとした、その時のことだった。ほっそりとした印象の女性の手が伸びて、ソキに触れようとする。姉が、妹に触れるだけだ。それだけのことなのだ。それなのに、瞬間的に背筋に走った衝動のまま、妖精は魔力を紡いで言葉を叫ぶ。
『触れるな! 呪われろっ!』
呪いが正確に発動した証として、熱した石炭の中に手を突っ込んだように、女性の肌は焼きただれる。その筈だった。確かに、その通りに魔力は巡った筈だった。ぱちり、火の粉が跳ねたような音がして、ソキに伸ばされていた女性の指先で、七色の光が爆ぜて消えた。現れた反応は、それだけだった。ソキの頬に触れる寸前で女性の手は止まり、あたりはしん、と静まり返る。
『……え。……え?』
妖精に、呪文の詠唱というものは必要ない。意思を乗せるだけの言葉があれば、それで事足りる。時には魔力の方向性を指示するのに、ある程度の文脈が必要になってくるが、衝動的な呪いはその限りではないのだ。妖精の中から、魔力が消えているのは確かなのに。ぞわり、恐怖が身で膨れ上がる。
『な……なんっ、で』
「……案内妖精ごときが、ボクの邪魔をするものではないよ」
きよらかに、うるわしく紡がれる女性の声で、その言葉は発せられた。ぞっとするような怒りのある声に、妖精が目を見開いて女性を見る。視線が重なった。魔術師でなければ、妖精は見えず。魔術師でなければ、その声は聞こえず。魔術師でなければ、触れることすらできない。その原則、その法則、その理が、今も世界に満ち満ちているのを確かに感じるのに。女性は不愉快そうな顔をして妖精を睨み、それから、ゆうるりと口元を和ませて微笑んだ。ほっそりとした女性の指が、蒼褪めた少女の頬に触れ、撫でた。
「さあ、ボクのかわいいお人形さん……そろそろ起きる時間だよ」
ソキ、と叫びかけた妖精は、乱暴に掴まれ、床に叩きつけられる。魔力を存分に乗せた暴力に、妖精の体は浮かび上がることもできないくらい痛んだ。純粋に、叩きつけられる、という経験が妖精には圧倒的にすくない。息も上手くできない状態で、それでも妖精は、ソキに手を伸ばした。
『ソキ……ソキ!』
「おはよう、ソキちゃん」
動けずに。妖精は視線の先、女性の手が少女の頬を包み込み、毒のような口付けを落とすのを見せつけられた。びくり、とソキの体が震える。全身を強張らせたまま、ゆるゆると、瞼が持ち上げられていく。色を失った花のような唇が、息を吸い込んだ。
「……お、ね……さ、ま……?」
至近距離で己を覗きこむその顔に、ソキは寝起きのぼんやりとした声で訝しげに、けれども心から安堵した様子で囁いた。
「よかった……」
女性はそんなソキの顔を覗きこみ、くすくす、喉を震わせて笑っている。目を瞬かせ、すこしだけ甘えた様子で、ソキが不思議そうにお姉さま、と呼びかけた。ソキ、と掠れた妖精の声は、少女に届かない。逃げなさい、と言ってやりたいのに。ただ妖精は、女性がソキを寝台に押しつけ、抱きこむようにして腕の中に閉じ込めて。
「ソキちゃん」
言葉を告げるのを、見ていた。
「本当に、ボクから逃げられると思っていたの?」
ひ、と音を立てて、ソキの喉が息を吸い込む。見開かれた瞳が、一瞬にして恐怖に染まった。細かく震えだす体がもがき、女性の腕の中から逃げようとする。あどけない抵抗だと笑みを深め、女性の手が強く、ソキの手首を掴んで寝台に押さえ付けた。悲鳴さえあげられず、口を動かしながらなにかを訴え、手足をばたつかせるソキを、女性はやんわりと微笑んで見下ろしている。
「ボクが、キミを逃がしてあげると思っていたの? ……ソキちゃん?」
「や、や……やぁっ、やああぁあっ! いやっ、いやいやいやぁっ! はなしてっ、はなしてはなしていやっ、いやぁっ……!」
「まったく。手間をかけさせるものではないよ」
暴れる手の爪が、女性の腕や顔をひっかいたのが気に食わなかったのだろう。聞く者の背をぞくりと凍りつかせる不愉快そうな声で、『それ』はごく無造作に、暴れるソキの首に手を伸ばした。ぎ、と寝台が軋む。体重と力を込めてソキの首を締めながらも、女性は柔らかな微笑みを浮かべている。
「どうしても抵抗するというのなら、仕方がないね。……嫌なの? でも、キミが悪いんだよ。ボクのお人形さん?」
片手をソキの首にあてて抑えつけながら、女性のもう片方の手が、腕を掴むソキの手首に伸びる。すぅ、と手首を撫でるように、指先が動いた。くすくす、笑いながら、『それ』が息を吸い込む。おぞましいほどの魔力が立ち上った。
「『鎖で繋ごう』」
ばきん、となにかが壊れる音がして、ソキの瞳が絶望に染まる。ソキの手首にぴったりとした皮の手枷が現れ、銀に輝く鎖がそれを繋いでいた。しゃらりと典雅な音を立て、手枷を繋ぐ鎖が揺れる。全身から力が抜けてしまった様子で、ソキは震えながら息を吸い込んだ。意識が定まらないのだろう。苦しげに彷徨う視線が、怯えながら女性を見返す。その瞳を、うっとりと覗きこんで。『それ』は、やわらかく囁いた。
「どこへも行かせないよ、ソキちゃん。ボクの」
かわいい、かわいい。お人形さん。頬を包み込むように撫でられ、口付けられて、ソキは強く目を閉じた。目尻から、ぼろりと涙が零れ落ちて行く。震えてしゃくりあげながら、ソキは弱々しく首を振った。
「ん、で……」
「ん?」
「なん、で……なんで、なんで? ど、して……? つかまった、です、よ。おわった、です。おわった、のに、おわったのに……!」
悪い、悪い、夢の終わりは来た筈だったのに。どうして、なんで、と泣きながら訴えるソキに、『それ』はくすくすと笑みを深めるだけだった。その笑い声に神経を逆なでされ、妖精はぱたん、と羽根を動かす。ゆっくり立ち上がって空に浮けば、おや、と言いたげな女性の顔が妖精を向いた。それを、呪い殺したい気分で睨みつけ、ソキにはめられた手枷から感じる魔力の本流に、妖精は確信を持ってその名を呼ぶ。お前は、お前が。
『言葉魔術師……! 砂漠の国で、ソキを呪った……!』
「呪い? 呪いだなんて、ひどいことを言うね」
傷ついた、とばかり女性が表情を変えるが、妖精の目は誤魔化されない。『それ』はただ楽しげに笑っていた。妖精の目には、『それ』と女性の姿が二重写しになって見える。なぜ、気がつかなかったのか。どうやって、妖精の目すらあざむくほど、隠されていたのか。分からない。けれど、目の前にある現実が全てだ。
『砂漠の国の幽閉された犯罪者、シーク……!』
妖精の目に映っているのは、男だった。ゆったりとした白いガラベーヤに、学園の卒業者であることを示すローブをはおっている。身長はソキよりずっと高く、百七十の後半、百八十くらいはあるかも知れない。体つきは細くも見えるが、布がたっぷりとした服に隠されていてよく分からなかった。ただ、弱々しい印象はない。恐ろしいほど洗練された、しなやかな悪夢のような印象の男だった。短く切られたあかがね色の髪に、透き通るような薄い、勿忘草の瞳が笑う。
「これは、愛だよ。ボクなりの」
その言葉が、呪い、と告げた妖精への返事だと、気がついた瞬間、おぞましさで息がつまる。どこか遠くで、鐘の音が鳴り響いた。日付けが変わる。妖精がその魔力の全てを使って王宮へ連絡を繋げようとした瞬間、言葉魔術師は笑いながら、ソキの耳元で囁いた。さあ、歌ってごらん。ボクの告げた通りに。弱々しく泣きながら、閉じていたソキの目が開く。涙を零した瞳が、未だわずかばかり浮かび上がったままで、動けないでいる妖精を捕らえた。震える手が、すこしだけ動いて。
「……この、へや、は」
妖精へ、伸ばされた。
「『閉ざされ、隠され、切り離される』」
リボンちゃん、と助けを求めて呼ぶ声が、確かに聞こえた気がしたのに。荒れ狂う魔力が、救いの手を全て、断ち切ってしまった。
砂漠の国で、ラティは口元を押さえてその場に蹲った。これから城外へと仕事で出かける用事があったため、人通りの多い廊下でのことである。先を行く同僚の魔術師がラティに気がつき、どうした、と訝しげな声をかけて歩み寄ってくる。それに返事をしようとして、ラティはせりあがってくる不快感に耐えられず、大きく何度も咳き込んだ。ラティ、と悲鳴交じりに叫んで駆け寄られ、肩に手を置かれて顔を覗きこまれるが、返事ができない。カタカタと細かく震える体は言うことを聞かなくて、呼吸さえ難しかった。それなのに、吐き気と眩暈が止まらない。到底立つことなどできず、何度も咳き込み、えずいてしまう。
誰かフィオーレ呼んで来いっ、魔術師最高位の白魔法使いを求める声が響き、数人が走って行く足音が聞こえた。それに、ちがうの、と声に出せず心の中で叫び、ラティは浮かぶ涙に強く目を閉じた。まるで言うことを聞かない嵐のように、体中を魔力がかけ巡っているのを感じる。それでいて、決して暴走ではない。ただ、なにか強制的な力が働いている。それだけのことだった。占星術師であるなら、誰もが同じ症状である筈だ。未来を読みとる、希望を手繰り寄せる、きよらかな祈りのようなその能力が。まっくら闇に似たなにか荒々しいものに、冷たく、ひどく恐ろしいものに、強制的な干渉を受けている。はじめてのことだった。ラティには、なにが起きているのかすら分からない。説明できる者もないだろう。
食いしばった歯の間から、嗚咽が漏れた。苦しく、か細く繰り返す呼吸の間に、涙が止まらずに零れ落ちて行く。ラティを目指して駆け寄ってくるいくつもの足音。息を切らしながら走ってきたフィオーレが、温かな手を女性の肩に乗せる。
「ラティ。……ラティ?」
どうしたの。体調、悪いの。そう問う声が途中で訝しげに歪み、占星術師の魔力の荒れに気がついた。息を飲んだのは果たして誰であったのか。他の占星術師の様子も見て来て、とフィオーレが指示を出すより一瞬早く、また魔術師たちが慌ただしくかけて行く気配が響いた。遠くで、王の声がする。周囲の状況を呆れるほど冷静に知覚しながら、ラティはなにもできず、体をちいさくして蹲り、歯を食いしばって涙を流していた。ラティ、ラティ、と励ますようにフィオーレが名を呼び、握り締めた手に触れてくる。手の甲を、そっと撫で。握り締めた爪で傷つけてしまった肌を、温かな魔力が癒して行く。その体温に。ラティは目を見開いて、喉に息を通した。
「……フィオーレ、ど……どうし、よ……どうし、たら」
「ラティ、ラティ……」
どうにかしてやりたい。だから、説明して。ね、と促すフィオーレに、ラティはまるで聞き分けのない幼子のように、ぎゅぅと目をつぶって首を横に振った。言葉になんて表せない。ぐるぐると荒れる魔力は占星術師の脳裏に映像を浮かび上がらせることはするものの、それに言葉を当てはめる余裕を、精神に残してくれることはしなかった。それでも、散らばりそうになる意識をかき集めて、舌に集めて。世にある占星術師の中で、恐らくたったひとり、ラティはそれを他者に告げることを叶えた。
「……はいいろ。……灰色の、世界。誰も、誰も……助からな、い。私たちが……フィオーレ、私たちが!」
「うん? ……うん、ラティ、ラティ。泣くな。泣くなよ。……泣かないで。だいじょぶ、大丈夫……な?」
「いや……殺したくない、いや、嫌……!」
こんなの嫌。こんな未来は嫌、いや。むずがって泣きながら繰り返すラティの頭を胸に抱き寄せ、フィオーレは唇に力を込めた。フィオーレには、未来を視る力がない。それは占星術師だけに許された術であり、だからこそ、ラティの辛さを理解してやることができなかった。なに視てんの、と呟き問うフィオーレに、ラティは震えながら腕を回し、背に縋りつくように力を込める。
「か……干渉されてる、の。たぶん、占星術師、全員、影響、受けてる……」
「うん」
「私たちが視る、未来は……可能性なの、フィオーレ。選択肢なのよ。いくつもある可能性、選択肢、分岐点の行きつく、その果ての未来。光景は、可能性で、確かなものじゃない。未来は決まってなんてなくて、私たちは、ただ、ただ……こう、なればいいな、とか。こうなるのは、嫌だな、とか。誰でもする簡単な想像とか、予測より、確実なもの……確実な、選択肢を選んだあとの結果が、すこしだけひとより見えやすくて、分かってしまうだけなの……」
体中、どこもかしこも力が入っていて、声を出すだけでも疲れてしまう。一瞬でも気を抜けば、また『それ』に飲み込まれて、己の意識や言葉など彼方へ消し去られてしまいそうだった。ぽん、ぽん、と穏やかに背を叩くフィオーレの手だけが、ラティの意識を繋ぎとめている。
「こんなの、こんなこと、今までなかった……! 未来が、干渉してきてる……!」
「……未来?」
「占星術師の、誰かが……本当は、先にしか向かない私たちの力を、反転させて、結果を変えようとしてるの。ここへ至る結果を否定する為に、未来から過去を書き変えようとしてる。だめ……だめ、そんなことしたら、あなたは……!」
世界の法則は遡りを許さない。本当にそれを望み、叶えてしまったとしたら、相応の代償は必ず支払われる。
「大切なもの、全部、消されてしまうわ……! あなたの過去、全部消えちゃう……!」
「……ラティ」
せつなく、ラティが息を吸い込んだ。涙を流し続ける瞳で、なにを視て、なにを知り、なにを感じたのか、フィオーレには分からない。けれども背に縋りつく指先が、離れ。なにかを受け取るように、なにかに触れたがるように、彼方へと伸ばされて。きゅぅ、と指先が包まったのを感じた時には、ラティの瞳は決意していた。うん、と泣きながら占星術師は頷く。うん、うん、と。何度も、何度も、その未来へ向かって。
「約束する。絶対、そこへは辿りつかない。絶対、変えてみせる……!」
だから、と言ってラティは己の胸へ強く手を押し当てた。心へ決意を刻みこむように。決して、忘れないとするように。告げる。
「……接続する!」
それは、占星術師にだけ許された『詠唱』だった。言葉は宣言となり、ラティの内側で荒れ狂っていた魔力を、正しく世界へ解き放つ。驚いたフィオーレの声が止めるのも構わず、ラティは感情のままに言葉を叩きつけた。
「私は扉であり、鍵であり、鏡であり、また晴れる日の水面である! あるものをあるがままに、映し出す鏡! 歪むことも、欠けることも、失うことも、損なうこともなく、ただ、そこにあるものを描き出す……!」
うん、と呟くように笑って、ラティは未来からの干渉を受け入れた。必死に伸ばされた指先のような、絶望の底にあっても諦めなかった希望を。拾い上げ、救い上げて、繋ぎとめる。フィオーレが、眩暈を感じたように目を瞬かせる。ラティも同じように意識が明滅するのを感じながら、晴れ晴れとした気持ちで息を吸い込んだ。それがなにを意味するのか、分かっている。どの魔術師であっても、この記憶を保てない。占星術師は未来からの干渉を忘れ、全ての魔術師は彼らに起こった異変を忘れるだろう。それを成した本人も、過去にさかのぼって、奪われる。
大切なもの。記憶、絆。関係性。彼はそれを知っていた筈だ。どんなに辛いか。どんなに悲しく、くるしいことか。けれども、それを分かっていて。乗り越えた上で、諦めなかった希望が『これ』しかなかったのだとしたら。
「……道は、繋いであげる。だから……」
息を吸い込み、ラティは笑った。
「だから、おいで。戻っておいで。ここへおいで。……消えるあなたの、咎めを、私も一緒に負わせてね……?」
意識が途絶える寸前に、ラティ、と『彼』の声が囁いて笑った。ごめん、ありがとう。ゆるく、ラティは首を振った。最後の呼吸を、深くまで吸い込む。ぐずぐずと夢に沈み込む意識を感じながら、吐息に乗せて一度だけ、『彼』の名を呼んだ。
「……メーシャ」
『ラティ』
「約束するわ。『あなた』に会わない未来を」
うん、と幼く、頷く声。ここへ来ないで。ここへ、辿りつかないで。どうか、どうか。痛いほど響く祈りを感じながら、ラティの意識はふつりと途絶えた。
風が、吹く。