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 ソキの旅日記 四十二日目

 ソキにはめられた手枷が魔術具であることに、妖精はすぐ気がついた。ソキの体調に異変が起きているのは明らかなことであったし、なにより手枷を繋ぐ鎖からは嫌な呪いの気配がした。あれはまさしく『繋ぐ』為のものだ。直観的にそう思い、空間ごと閉じた部屋の片隅で、妖精は寝台にいるソキと、少女に手を伸ばす言葉魔術師を睨みつける。体中が痛んで、罵倒の言葉が吐き出せないのがもどかしい。怒りは内側にたまるばかりで、叩きつけたいのに、妖精の体に加えられた衝撃がそれを上手くさせなかった。ふらり、空で揺れ動いて、妖精の視点がぶれる。泣きだしそうな、心配そうな視線をソキが向けているのに気がついて、妖精は怒りで目の前が真っ白になった。
 アンタ、アタシのこと心配している場合じゃないでしょう。そう言ってやりたいのに、意識がぐらついて、妖精は床の上に足をつけた。羽根を休めて、ぜい、と呼吸をする。予知魔術師の魔力で、この部屋は扉を一枚隔てて全くの異空間になり果てた。窓の外には世界が広がっているというのに、この場所はありとあらゆる観測を受け付けない。魔術師はなにが起きても異変を感じ取ることができないし、屋敷の住み人も、この部屋を知覚できない。そこにあるのに、誰にも分からないもの。この場所はまさしく、閉ざされ、隠され、切り離された。世界に確かに存在しているのに、どこへも繋がらない。その、切り離された衝撃が妖精の意識を襲い、安定させはしなかった。
 案内妖精は、魔術師が一番はじめに触れる世界の魔力そのものだ。魔術師たちが組みあげ、ありとあらゆる形に加工して世界へ解き放つ、水の形で表現される『それ』に、存在として最も近い。だからこそ、妖精は過度の魔力によって引き起こされた異変に引きずられやすい。条件にもよるが、それを成した本人より強く、影響を受けてしまうこともある。今の妖精の状態は、湖に巨大な岩を叩きつけられた水面と同じだった。激しく波打ち、揺れ動き、安定するまでにはいましばらくの時間がかかるだろう。一秒だって早く、ソキの元へ行ってやりたいのに。妖精という存在の特質が、それを可能なことにはしなかった。はくはく、声もなく、ソキのくちびるが動くのを、妖精は見る。
 こないで。いや、きらい。こわい。ソキの視線はすでに妖精から外されていて、寝台に沈み込み動けない少女を見下ろす、言葉魔術師に固定されていた。体だけはソキの姉のものであるから、女性であることは確かなのだが。二重写しの存在は、妖精の目から見ても、恐らくは今のソキの目にもそう見えているのだろう、魔術師の男のそれである。男の瞳がぐるりと部屋を見回し、満足げに笑んでからソキの元へ下ろされる。びくり、震える少女を楽しげに観察しながら、言葉魔術師は囁いた。
「完璧に、とは言い難いけれど。よくできました、ソキちゃん」
 いいこ、いいこ、と伸ばした指先で涙を拭われて、ソキはぎゅぅと瞼を閉じてしまう。新しい涙が零れて行くのには無関心に手を引き、言葉魔術師はそれにしても、とソキの指に視線をやった。
「どこで、こんなもの手に入れたの? ……これのせいで、上手く閉じなかったのか」
 ふぅんと納得したように呟き、女性のてのひらがソキの手首を掴み、持ち上げる。視線の先には、右手の人差し指があった。言葉魔術師は、その付け根に通された銀の指輪を見ている。予知魔術師の、能力制御装置。くす、とおかしげに笑みが零される。
「でも、残念だったねぇ、ソキちゃん? これがあっても、ボクにはちゃんと、キミが使える」
 ぎゅうう、と体全体に力を入れて、目を閉じて、歯を食いしばって。なにも見ず、なにも聞きたくないと全身全霊で拒絶を表して、ソキはその囁きに反応をしなかった。顔色が、ひどく悪い。手枷の呪いは妖精が感じた所、心身の衰弱を引き起こすもので、ソキとの相性は最悪に近いものだろう。元々体が強くないソキだから、あれでは息をするのにも疲れ切って、身動きさえ自由にならないに違いない。その状態で、己に触れる言葉魔術師へ発されるソキの感情は、純粋な恐怖ひとつきりだった。こわい、とソキの意識はずっと訴えている。
 怖くて、こわくて、なにもできない。なにも考えられない。怖い。その感情だけで意識は埋め尽くされ、ありとあらゆるものが停止する。言葉魔術師は、それを正確に認識しているのだろう。くすくすといかにも楽しげに笑って、借り物の体を動かし、指先でうっとりと少女の頬を撫でさすった。
「キミが使えなくても、ボクにはキミが使えるんだよ。言ったよね? お人形さん」
 キミは、ボクの、お人形さんだよ。ああ、いいこだね。そのまま、なにも考えないで怖がっていればいいよ。くすくすくす、笑いながら、蜜のように甘い声で囁いて、言葉魔術師はそっと身を屈めてソキの頬に唇を触れさせた。そこから、夥しい量の魔力がソキに移されるのを妖精は感じ取る。悲鳴をあげかけて動いたソキの唇は、音もなく、ただ空気を震わせた。
「さ、これでいい。……戻っておいで、ボクの元まで。そうしたら、消されてしまった贈り物、もう一度あげようね」
「や……だ、やっ」
「歌ってごらん、ソキちゃん」
 ここへ来る、と。それだけで良い。キミの力がボクの元まで導いてくれるよ。足りない魔力は、いまあげたものね。さあ、と促しながら、女性の手がソキの腕を引き、上半身をあげさせる。呼吸の為に開いたくちびるが、ソキの意思から離れた所で、ぎこちなく動かされるのを妖精は見た。駄目だ、と思う。行かせてはいけない。引き留めなければいけないのに。まだ、声を出すことすら、叶わない。しゃくりあげたソキが、息を吸い込む。言葉が告げられようとする、その時だった。
「風よ!」
 凛とした声が、唐突に場に叩きつけられる。世界のどことも繋がっていない筈の部屋の、空間の一部がいびつにたわむ。ごう、と音を立てて吹く風と共に、現れた青年がまっすぐに言葉魔術師を指差した。
「親しき、意思を乗せた我が友よ。美しく満ちた、月の外枠を描いて巡れ! 響く言葉を無へ返し、我が親しき友を守りたまえ……弾き、飛ばせっ!」
『えっ……?』
「っ……ソキちゃん!」
 年若い青年の詠唱は矢のように風を動かし、言葉魔術師の体をソキから引き剥がした。重たい音を立てて床へ叩きつけられる『女性』の体に一瞬だけ痛みを堪える顔つきをして、けれどもすぐに視線をソキへ向けた青年は、状況のよく分からない面持ちで怯える少女に駆け寄った。や、とかすかな声をあげて怯えるのを無視して伸ばされた両腕が、冷たい寝台から少女の体を抱きあげる。ぎゅぅ、と強くソキの体を抱き締め、青年の膝が崩れる。満ちた溜息と共に床に両膝をついてしゃがみこみ、青年はよかった、とソキの耳元で囁いた。
「生きてる……。ソキちゃん、よかった……すぐ、外してあげるから」
「え……え?」
「うん? ……もう大丈夫だよ」
 安心して、と囁いて、額がそっと重ねられる。至近距離でソキの目を覗きこんだ青年の瞳は、鮮やかな紫を宿していた。宝石色の瞳。アメジストだ、とソキは思った。その、磨かれた宝石のような瞳が、喜びに煌き、涙を宿してソキを眺めている。ソキちゃん、としっとりとした響きで、青年は囁いた。
「ソキちゃん。ああ……ソキちゃん、ソキちゃんだ」
 ソキのちいさな体を腕の中に守るように抱き締めて、青年は強く、瞼を閉じた。
「ありがとう、メーシャくん。届いたよ……俺たちの願いは、これで、報われる」
 はぁ、と万感の思いを乗せた息を吐き出し、青年はゆるゆるとソキを抱く腕から力を抜いた。混乱するソキの目を覗きこみ、もう一度、大丈夫、と囁いて青年は微笑む。大きな手が鎖に伸ばされ、手枷に触れ、目が細められた。
「……風よ」
 ヒリつく痛みさえ感じさせるほど、濃密な魔力が大気に放たれる。続く言葉は、詠唱ではなかった。
「俺は、これを許さない」
 それは、純粋な怒りそのもの。願いを魔力に変換して叩きつける、攻撃の意思そのものが、風に伝えられる。だから、と青年は、強く言い切った。
「壊れろっ!」
 鋭く、切り裂くように風が動く。けれども、本当に叩きつけられたのは魔力だった。手枷にかけられた呪いそのものに、純粋な魔力が叩きつけられ、破壊される。皮の手枷が千切れて落ち、鎖は千年の時を超えたかのように風化し、ざらりと音を立てて消え去った。ふ、とソキの体から力が抜け落ちる。倒れかける体を支えて、青年の手が慣れた様子で、ソキの背を撫でた。
「ちょっと、ごめんね。すこしだけ」
 青年の手がソキの体を、ひょいとばかりに抱きあげる。本当に申し訳なさそうにソキを抱っこした青年は、足早に部屋の隅、妖精がうずくまる場所へやってきた。リボンちゃん、とようやく出るようになった声でソキが妖精を呼び、手をぱたぱたと動かしてそこへ行きたいと求める。うん、分かってるよ、と笑って青年は少女の体を妖精の傍へ下ろしてやった。訝しげに睨んでくる妖精に、青年は苦笑しながら手を伸ばす。
「これを」
 そう言って、青年が妖精に差し出したのは、ちいさな白い花だった。小指の先の爪程の大きさしかない、眩しいくらいに白い花は、妖精がよく知る同僚の魔力を宿していた。それは妖精が、傷ついた同族へ贈る癒しの『魔法』だ。結晶化した魔力は花の形で、魔術師に持ち運ばれることがある。ぎこちなく手を伸ばしてそれを受け取り、ほろりと雪のように崩れて行く花を見つめながら、妖精は信じられない気持ちでその名を呟いた。
『……ニーア?』
「ふえ。……え?」
「うん、ソキちゃん。俺は違うから。そんな、『え? ニーアちゃんなんです? すごく育ったんです?』みたいな目で俺を見ないで。……ニーアがね。それは、ニーアが、先輩にって。最後に、俺に託してくれたもの」
 苦笑しながら告げる青年に、妖精は目を何度も瞬かせながら、さりげなくソキの指先を蹴飛ばした。恥ずかしいからアンタちょっと黙っていなさいよ、と告げられて、ソキの唇がほんのすこし尖り、すぐにふにゃりと笑み崩れる。妖精が元気になったことが、嬉しくてたまらないらしい。少女の喜びは華やかに空気を染め上げたが、それは長く続くものではなかった。ソキの瞼がゆったりと瞬きをして、視線が伏せられ、しゃがみ込む。んん、とむずがる声に、妖精は少女の体調不良を確信した。
『もうちょっとだけ、我慢しなさい。できる?』
「……はい。ソキのガッツと根性は、これからですよ……!」
『ねえ、アンタ。ソキを連れてここから脱出できる?』
 妖精の魔力では、それは不可能なことだった。予知魔術師が閉じた世界は、妖精が見た所、未だ開かれないままなのである。妖精の問いに、青年はあいまいな笑みを浮かべて首を傾げた。
「できる、とは思うけど……どうかな。やってみるよ。でも、すこしだけ時間をちょうだい?」
『なんで?』
 ソキの体調は、恐らく一刻を争う。魔力が枯渇しかけているのに加え、精神的な衝撃が体調を悪い方へ引きずっている。今すぐにでもどこかへ連れて行ってやりたいのに。不満げに問う妖精に、青年は、ごく穏やかに笑みを深めた。
「アイツをどうにかしないと、追いかけてくるだろうから」
 靴音を響かせ、青年が立ち上がる。己の体で言葉魔術師からソキを隠すように立ち位置を変えながら、青年はふらつきながらも立ち上がる『女性』の姿に、ひどく痛ましい顔をした。
「……憑依してるのか、遠隔操作か、分からないけど。ひどいことを……」
「キミに言われたくないなぁ。これ、ソキちゃんのお姉さんの体なのにねぇ?」
「……仮に、憑依だとして」
 なぶるような言葉魔術師の楽しげな言葉に、青年の凪いだ声がそれを告げる。
「魔力の無い一般人に、魔術師が己の意識を憑依させること以上に、ひどいことを俺は知らない。……お前は、知ってて、やったのか」
 鈍く、室内の空気が揺れた。その意思を向けられていないソキが、それでも怖がって眉を寄せる程の怒りを向けられながらも、言葉魔術師はにっこりと笑う。
「ああ、精神が砕けるよね。……それが?」
「……貴様」
「だって、ソキちゃんがいけないんだよ? ボクのお人形さん。大人しく砂漠の国に留まるか、まあ、どこかへお嫁に行くくらいならよかったんだけど」
 あとでそこ、滅ぼしちゃえばいいし。くすくすくす、と『女性』の声を使って笑って。
「学園に行くだなんてことになるから」
 言葉魔術師は、告げた。
「キミのお姉さん、壊しちゃった。……キミのせいだよ、ボクのお人形さん。キミがボクから、逃げるから」
「……百時間が経過していないのなら、治せる」
「へぇ?」
 キミ、よく知ってるねえ、と笑う言葉魔術師に、青年は強く手を握る。力を込めたあと、そっと開かれたてのひらが、虚空を撫であげた。指先がまっすぐに、『女性』を指し示す。
「風よ」
 ごう、と風が逆巻き、青年の指先へ集まって行く。囁きを喜ぶように、その意思を与えられることを誉れとするように。魔力を乗せて動く風に、言葉魔術師の舌打ちが響く。なにかを告げられるより早く、青年は静かに囁いた。
「踊れ、踊れ。愛しい俺の……妖精、みたいに。くるくる、踊って……空気を、奪え。息を奪え。音が響かず、意識が閉じてしまうまで」
 ひゅぅ、と心地良い音を響かせ、迅速に風は動きだす。命じられた通りに動く風により、『女性』の周囲の空気が薄くなって行く。苦しげにもがきながら、言葉魔術師は怒りの言葉を吐き出した。
「……風使いがっ!」
「残念だったね? 言葉魔術師。方法はあるんだよ。予知魔術師じゃなくてもね。その体本来の意識が消えてしまえば、お前も表に出られない。……立ち去れ、砂漠の奥深くまで!」
 ごう、と音を立てて吹き荒らんだ風が、駄目押しのように女性の体を弾き飛ばした。壁に叩きつけられて意識を失った女性に、すぐに青年は駆け寄り、状態を確認する。目立った外傷もなく、向こうから切られたのかすでに言葉魔術師の気配も残っていないことを確認して、青年は深く安堵の息を吐き出した。ひょいと女性を抱きあげ、寝台に下ろして、ごめんなさいと呟く。手荒なまねをしてごめんなさい、と告げてから、青年はソキと妖精の元へ戻ってきた。顔色の悪いソキの目を、青年は覗きこむ。
「……聞こえてた、よね? ソキちゃんのせいじゃないんだよ」
 お姉さんはちゃんと治るよ。囁かれて、ソキはこくりと頷いた。それでも、ぎゅぅと閉じた目からは涙が零れて行く。息を吸って、吐いて、ソキはゆっくりと瞼を持ち上げた。
「ソキ、逃げたの、いけなかったんですか……?」
「違うよ、違う。そんなことない。ソキちゃんは、ソキちゃんの思うようにしてよかったんだよ」
「でも……! ソキが、いけなかったですよ……? ソキが、一番はじめに、我慢してれば……ろぜあちゃんだって、ひどいことされなかった、です。ろぜあちゃん、ごめんなさい……! ソキ、ロゼアちゃんを、守ってあげられなかったです……!」
 キミがボクの言うことを聞いていれば、ロゼアクンにはなにもしないよ、と言葉魔術師は言った。ロゼアまで被害が及んだのは、ソキが言葉魔術師に抵抗したからだ。今回も、ソキが逃げたせいで、他国へ嫁いだ姉にまで被害が及んでしまった。ごめんなさい、と泣きながらうずくまるソキに、青年はきゅ、と唇を噛んで。伸ばした手で腕を掴むと、ぐい、とソキの体を引っ張った。立ち上がらせながら、視線を重ねる。
「立って、ソキちゃん。……学園へ行くんだ」
「……や」
「嫌じゃない。行くの。……諦めないで、ソキちゃん。君がここで諦めたら、全部途絶えてしまう。お願いだから、諦めないで……メーシャくんは、絶対、諦めなかったよ。あの状況でも、俺たちの未来を信じてくれた。……君は、俺たちが辿りつけなかった、メーシャくんが信じてくれた最良の未来を、もう知っている。……会ったでしょう? 願いを、託された筈だよ」
 青年の視線が、ソキのてのひらに降りてくる。見ていたのは、小指に輝くアクアマリンの指輪。メーシャくんらしいと口元を緩めて笑って、青年はほら、とソキにもそれを見るように促した。
「ね、お願い、ソキちゃん。……この指輪のあった未来へ」
『ここにおいで、ソキ』
 不意に、声がよみがえる。
『……ううん、違う。ここじゃない。ここよりもっと良い未来が、あるよ。あるんだよ、ソキ。そこへ行くんだ』
「辿りついて、欲しいんだ」
『ロゼアと一緒に。……俺たち、みんなで、そこを目指そうよ』
 息を吸い込んで、ソキは青年の顔を見た。夢にかすれた記憶を探っても、出会ったのはこの青年とは違う相手のように思える。誰だろう、とはじめて思った。瞬間、ころりと言葉が零れて行く。
「……ニーア、ちゃんの」
「ニーアの?」
「ナリちゃん? ……ニーアちゃんの、ナリちゃんの。ナリアン、さん?」
 どうして、その名前が出てきたのか、ソキにも分からなかった。は、と妖精は呟き、ソキと青年をきょろきょろと見比べている。そんな筈がないでしょうと言いたげな妖精に、青年は柔らかく苦笑した。
「半分正解、かな。俺の名前は、ナリアン。……でも、ソキちゃんがこれから会う俺じゃ、ない」
「……ちがうの?」
「違うよ。俺は、ソキちゃんたちが……俺も、誰も、辿りついて欲しくない未来から、メーシャくんに頼まれて来た俺だから。リボンさんには、こう言えば分かるかな。俺はナリアンです。ただし、途絶えた可能性世界のひとつから、過去を書き換えに来ました、って」
 本当はメーシャくんが来られれば一番よかったんだけどね、と笑うナリアンは、二十代の終わり頃に見えた。穏やかな表情が、不意に、辛そうに歪む。時間だ、と言葉が漏れた。
「空間の独立が、解ける。……俺も、もう存在していられないかな」
 ペナルティだ、と囁いて。しゃがみこんだナリアンは、ソキとまっすぐに目を合わせた。
「……学園へ、行こう。ソキちゃん。俺は、その為にここに来たんだ」
「でも」
 もう、間に合わないかも知れない。すでに自力で立ち上がれなくなっているソキが、己の力で学園へ辿りつくには、残された日数では足りなかった。王宮魔術師に保護され、扉で向かうしかないだろう。それが分かっていて、ソキは首を縦に振ることが出来なかった。
「お城に、行きたく、ないですよ……」
「うん」
「怖い……あれ、が、いるかも知れないです。お城、いくの、いや……!」
 うん、とナリアンはその不安を理解した表情で頷いた。
「行くのは、砂漠の国のお城じゃないよ? それでも?」
「……やです。ソキ、やです。やですよ!」
「学園に行くのは、や、じゃない? 学園、あれ、いないよ。いないし、来ないよ」
 ソキは、反射的に行く、と頷いていた。傍らで妖精が、ソキのちょろさに呆れて天を仰いでいるが、ナリアンは分かっていて言ったので苦笑するばかりだ。じゃあ、とソキに手が差し出される。
「……たぶん、到着するまではもたないだろうけど、直前くらいまでは一緒に行ってあげられるから」
「一緒……です?」
「うん。でも同行じゃないよ。俺は、もう消えちゃうからね」
 繋ぎ合せた手が、そこにある筈なのに、なにも触れていないような感覚が広がって行く。はっと顔を向けるソキに、ナリアンは心から嬉しそうに告げた。
「ねえ、ソキちゃん。……ニーアに、優しくしてくれてありがとう」
 さあ、運んであげる。その言葉を最後に、ナリアンの体がゆるく吹く風の中へ溶けて消えた。次の瞬間、濃密な魔力がソキの体を包み込む。ぎゅぅ、と眉を寄せるソキの耳に、言葉が落とされた。それを無意識に、くちびるが繰り返す。直後、突風が部屋に吹き荒れた。棚に置かれたものを全て床にぶちまけ、家具の位置をずらし、窓という窓を内側から押し開くその風が通り過ぎ、空気が凪いだ後に。ソキと、妖精の姿は、もうそこにはなく。魔力の残り香も、やがて跡形もなく消え去った。

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