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あなたが赤い糸:35』までの読了を推奨しますが、ネタバレはありません。未読でもお読み頂けます。

 あなたに花を



 んんっ、と言いながらずいと差し出されたのは花である。リディオの記憶が間違っていなければ、それは庭木で、確か木香薔薇だった。細い枝に鈴なりに咲いた白い花は瑞々しく、柔らかく、良い香りをふわりと漂わせている。リディオは眉を寄せて花を見て、それを差し出すソキを見た。ソキを腕に抱くラーヴェは、微笑んだままでなにも言わない。これはそういう男だ、と息を吐いた。
 さて、ソキは三つになったのだか、四つを数えたのだか。ごく幼い、まだ『花嫁』とも呼べないその雛じみた幼子は、べきばきに折れた枝葉をぎゅっと握りながら、リディオに花を差し出したままでいる。ふむ、とリディオは、ソキをじっと見つめて考えた。
「……ああ。転んで折ったのか? ……ふん? 怪我はしていないな」
「ちぃーあーうー! でー! すー!」
 幼子の手加減の無い叫びは耳と頭にとても痛い。嫌な顔をして遠ざかると、ソキはふぎゃんふぎゃんと機嫌を損ねた叫びをあげ、ラーヴェの腕の中でじたばたと暴れていた。側近の女が控えめに笑う。ちらりと視線を向けるも、微笑ましい目を向けられるだけで言葉はないままだった。ぐるりと執務室を見回しても、幾人かいる『運営』も皆そのような顔をしていて、助けの言葉はないままである。
 なんなんだ、とリディオはぐじっと鼻をすすって悲しげにしているソキを見た。幼いからなのか、それとも性格的な問題なのか、ソキは短気で怒りっぽい。ミードに似たな、と思う。あれも外見に反してのんびりとした所のない、猛々しい内面の『花嫁』だった。もう少しおっとりしてくれないものか、と当主は密かに息を吐いた。教育が大変で面倒くさくなる。
 ミードのことを考える。ごめんね、と言い残して目を閉じた。もっと、いっぱい、たすけてあげられればよかったね。そう言っていなくなった、共犯者で、友人の、蜂蜜みたいな『花嫁』の不在を噛みしめる。かなしくて、乾いた気持ちが心を痛ませるままでいる。きっと、ずっと、消えないで残るのだろう。失ってしまった存在が、いつも、リディオにそうしたように。
 ラーヴェは、その空白を埋めるようにソキのことを抱き上げている。ミードそっくりに産まれた、その娘を。代わりなのか、と問いかけたリディオに、『傍付き』はいいえと応えて微笑んだ。誰もあの方の代わりになどなれない。あなたが今もそうであるように。そうか、とリディオは葬儀の日に呟いた。それきり、ミードの永き不在について、誰とも話したことはない。
 以来、すこし、ぼんやりとすることが増えた。『花婿』は『花嫁』より僅かに強く、当主はそれより、もうすこしだけしなやかだ。それでも、終わりが遠くないことを感じている。一日、一月、半年、一年。引き伸ばしてはいるけれど。引き伸ばしては、いくのだけれど。終わる日のことを考える。終わりの日のことを、夢想する。春ならいい、とリディオは思う。
 春ならいい、それか、初夏。世界が花に満ちて、風が躍って、命が芽吹いていく。そんな日ならいい、と思う。いずれにせよ、まだ先のことだ。ふ、と息を吐いて、リディオは意識を眼前に戻した。もういいから出て行って欲しいのだが、ラーヴェはしゃくりあげるソキを上手にあやして笑わせると、気を取り直した様子でリディオに向き直させた。
「ふふ……。さ、ソキさま? なんと言うのでしたっけ? 違いますものね。分かって頂かないと困りますね」
「んん……。おはな……。お、おはな、あげる!」
 べきばきに折れた花を、ふたたび、差し出される。リディオは思わず、ソキを凝視して真顔で言った。
「は?」
「リディオさま、顔。……受け取ってくださいますね?」
 いいから早くしてください、とラーヴェの笑顔が告げている。渋ればなにをしでかすものか。意味が分からず、ぎこちない動きで、リディオはソキの差し出す花に手を伸ばした。ぷるぷる腕を振るわせて、泣きそうな顔をして、ソキはじっとリディオを見ていた。
「……ありがとう」
「う、うれし?」
「ああ……うん。嬉しいよ、ありがとう」
 枝葉がばきばきに折れているとはいえ、八重咲の花に損傷は見られない。香しく、可憐な花を差し出されることは嬉しかった。べきばきに折れているとはいえ。口元に引き寄せて香りをかぐと、ソキは頬を真っ赤に染めてきゃあきゃあと声をあげ、ラーヴェに抱きついて幸せそうにはしゃいだ。よかったですね、と男の手がやんわりと幼子を撫でて行く。
 それでは、と退室しようとする背を呼び止め、リディオは眉を寄せて問いかけた。
「なんなんだ?」
「……花舞の商人が、先だってからリディオさまにお花を献上しておられるでしょう?」
「ああ。……そろそろ飾り切れないから、どう断ろうかとは思っているんだが」
 砂漠の王宮にも出入りする、一級の商人である。先日、城へ出向いた折りにリディオを見かけ、それからせっせと花を寄越してくるのだった。おかげで『お屋敷』中が花まみれである。どの部屋にも廊下にも花が溢れており、ついに花瓶が足りなくなったと営繕部が頭を抱えて呻くありさまだ。一時のことであるから、買い足すにも限度がある。そもそもすでに置き場がない。
 『お屋敷』に寄贈されるものならまだやりようがあるのだが、花はリディオ個人を指名して捧げられてくる。無下に断るのも今後の貿易を考えると得策ではなく、一度会って適度に魅了を深めて適度に距離を取っておくべきか、と悩んでいるさなかのことだった。お茶でも一緒に飲んで手を握って笑ってやればそれで済む筈である。気乗りはしないが。
 どうぞ御身を大事になさいませ、と思考を読んで窘めながら、ラーヴェは当主へ囁いた。一仕事終え、うとうとと眠そうにするソキをあやしながら。
「ソキさまが、おとうさまはお花が好きなの? 嬉しいの? ソキだっておとうさまにお花をあげて嬉しいのできる! と、対抗意識を燃やされまして」
「……この負けん気は誰に似たんだ?」
「ミードですね。そっくりでしょう」
 ぷ、ぷ、と寝息を零すソキは、もう寝ている。その寝入りの速さも、顔も、ミードそっくりである。つまり将来、計画的に『傍付き』を誑かす可能性が高いので、今から教育の見直しと候補への注意が必要だろう。考えながら、リディオはラーヴェを見送り、執務用の椅子に座りなおした。手に視線を落とす。それにしても枝葉が無残にばきばきである。握って引っ張ったりしたに違いない。
 というか庭木をもぐなと注意すべきだったか。額に指を押し当てて息を吐き、リディオは静観していた『運営』と側近の女に、小言じみた響きの声をかけた。
「木の花を折るなと言っておけ。あの様子だと、全部もぎかねない……いやさすがにラーヴェが止め……ラーヴェは止めるのか?」
「それなりに。……ああ、折れていますね。これでは水も吸えないでしょう」
 いかがなさいますか、と問いかけてくる側近の女に、リディオは花に視線を落として考える。角度を変えていくら見てみても、どれだけ強く握っていたのか、助かる余地はなさそうだった。花はまだ咲いているが、夕方には萎れてしまうだろう。結局、花のぎりぎりで枝を切り直し、リディオはそれを水盤に浮かべて執務机の端に置いた。
 一日は目にも美しく保たれたものが、二日目は香りがくゆるものの、すでに花弁がしおれはじめていた。リディオはまだ元気な花を選んで花弁をいくつか摘み、それを『運営』に託して細工を頼んだ。ポプリにするには元の量が少ない。押し花にすれば、しおりの一枚くらいは出来上がるだろう。執務を進めながら、リディオは時折、水盆に視線を向けてじっと花を見た。
 やわやわと弱って枯れて行く花が、それでもどこか愛おしくて、手放せなくて、諦めきれない。片付けますか、と申し出にも首を振る。三日目。水は変えたものの、花弁の先が茶色く枯れはじめてしまった。もたなかったのだ。それだけのことだった。そっと息を吐くリディオは、それでも、水盆を片付けることが出来ずに。
 結局、気まぐれにやってきたソキに発見されて、切っただの枯れただのぎゃん泣きされてしまうまで、そのままにしていた。



 御当主様、と呼び止められる。珍しいこともあるものだと振り返れば、立っていたのはロゼアだった。腕にはぷくっと頬を膨らませたソキを抱き上げている。その背後にはメグミカや世話役たちが一揃い、ぞろぞろとついて歩いていたから、区画へ戻る途中なのだろう。夕暮れの眩さに目を細めながら、リディオは吐息混じりになんだ、とロゼアに問いかけた。
 こういう時のソキに声をかけても、返事がないことは分かっている。もにょもにょと口を動かすばかりで、なにも声にはならないからだ。ロゼアは差し上げたいものが、と囁き、まだどこか物慣れない様子で腕の中の『花嫁』に囁いた。リディオは懐かしい想いで新任の『傍付き』を眺めやった。数日前の年明けでようやく十二を数えたばかりの少年は、まだ幼さを残してあどけない。
「ソキ……ほら、ソキ? 差し上げるんだろ」
「……うゅ……。おと、さま。あの……あのね……」
 ひとしきりもじもじした後に。にょっと差し出されたのは花冠だった。力加減がへたくそなのか、緩んで解けかけている所もあれば、張りすぎて千切れかけている箇所もあり、まるいとも言えないいびつな形をしている。見ればソキのちまこい手は草の汁で染まっていて、恐らくは昼食後からずっと、花冠へ取り組んでいたことを伺わせた。
 くすくす、リディオの傍で側近の女が笑う。ほら、と促されるのに眉を寄せ、リディオはソキと花冠を交互に見比べ、なにかを待たれているのは察して、訝しげに口を開いた。
「……はじめてなら、上手くできたのではないか……?」
「はい。ありがとうございます。よかったな、ソキ。……御当主様、それで、こちらを」
「あ、あげ……あげる!」
 よぉし言ってやったぞっ、という顔をして、ソキが目をうるませている。よく頑張りました、と世話役たちが口々にソキを褒めるのを聞きながら、リディオは花冠を見つめていた。ソキは、それを差し出して、ぷるぷる腕を震わせたままでいる。手を、差し出しかけて。リディオはてのひらで、そっと、花冠を押し返した。
「……もう、もらった」
「えっ……え、えっ、えっ」
「これは、ロゼア。お前が記念にでもしておけばいい」
 これではまた三日も保たず悪くなって、ソキが泣くのは目に見えていることであるのだし。それより冷えるから早く部屋に戻れ、と言い聞かせれば、ロゼアがなにか口を開きかけ。それより早く、真っ赤な顔をして涙ぐんだソキが、花冠を廊下に向かって投げ捨てた。
「い、いら、ない! いらない! おとーさま、いらな、なら、ソキも、も、いらなっ!」
「……必要ない、とは言っていない。もう貰った、と言ったんだ。粗末にするな。……かわいそうに」
 ため息をついて、リディオは花冠に指先を伸ばした。力任せに叩きつけられた衝撃で、花や茎が千切れ、緩かった場所は解けてしまっている。しらないもんっ、と裏返った声でソキが泣き騒ぐ。もういいきらい、おへやかえるっ、きらいっ、と暴れるソキを苦心して宥めるロゼアに、任せて戻りなさい、と側近の女が囁いている声が聞こえた。
 失礼いたします、と告げられて。いくつもの足音が遠ざかって行く。それを見送ることなく花冠に触れて、弄って、リディオは深くため息をついた。これはもうだめだ。直せない。
「……なぜあのようなことを?」
 花冠を両手で持って立ち上がるリディオの仕草には、恭しささえある。大切なものとして扱っていた。問いかける側近の女に、リディオはしばらく黙り込み、やがて、ゆっくりと歩き出しながら口を開いた。
「ソキが、はじめて……誰かに花を贈ったのは、俺だとラーヴェがよく言っていただろう」
「ええ」
「大事なものを、もう貰った」
 嬉しかったのだって、ちゃんと覚えてる。そう言ってため息をつくリディオは、ソキを怒らせたことに困惑さえしているようだった。当主の書く日誌に、擦り切れ始めた押し花のしおりが使われていることを、側近の女は知っている。
「ソキさまは……喜んで欲しかったのだと、思いますよ」
「……うん。……うん、ドライフラワーに、なるかな」
 ソキの短気は母親似だが、こと、ひとのはなしを聞かないという点において、似たのは当主そのひとである。胸を手で押さえて深々と息を吐き、どうにか花冠を保存できないか、そのことだけを考えてぐるぐるしているリディオに、女はなりますよ、と囁き告げた。
 半月後。当主の部屋につるされた白詰草の、ちいさな花束を。リディオは時折見つめては、ゆるく、かすかに、息を零した。



 その後。
 前当主は擦り切れたしおりとドライフラワーだけを持って、執務室を出て行ったのだという。
 贈り物の出所は、要として知れない。

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