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 月に一度、ソキの魔力が安定しているのかを確認する日。
 いつものように城の一室にやってきた一行を出迎えたのは、疲弊しきった顔をする魔術師たちだった。あぁあああ癒し、可愛い、ちょっとにこっとして手を振ったりしてみてちょっとでいい、過剰摂取したら今たぶん泣く、とそれぞれに屍の様相で呻く魔術師たちに、ロゼアは隠すことなく嫌な顔をして『花嫁』を抱きなおし、ソキは目をぱちくりさせて不安がるより不思議がった。
「まじちしさんたち、どうしたの……? ソキに、手を振ってほしです? んしょ、んしょ」
「あぁ……寛大な御心にただ感謝します……!」
『えっなんなの怖い……引く……。い、いいのよ、ソキ、手を振るのは、もうやめておきましょう……? ね? ロゼアだってそう思っているわ……ね……?』
 跪き両手を組んで祈りを捧げる魔術師たちに、妖精は心理的な距離を感じて震えあがった。なにがあったか知らないが、疲弊しているにも程があるだろう。今すぐにでも身を翻して歩き去りそうなロゼアを気にかけながら、妖精はそっとソキと魔術師たちの視線の間に入り込み、『花嫁』の奉仕的な仕草を止めさせた。はぁい、と機嫌よく返事をして、ソキはロゼアに抱きつきなおす。
 ふにゃんふんやぁん、とふわふわほわっと鼻歌が響くので、どうも特別機嫌がいいらしい。ロゼアは深く息を吐いて、義務である、ということを己に言い聞かせ切った顔で、指定された椅子にソキを抱いたまま腰を下ろした。ただし、いつもの倍近くぴったりとソキを抱き寄せて固定していて、決して床に足をつけさせない、という決意に満ちている。
 早く確認してください、と告げる言葉も珍しく苛立ちをあらわにしていて、ソキの上機嫌とは正反対だった。ぱちぱち瞬きをしたソキが、不思議そうな顔をしてロゼアに両腕を伸ばす。どうしたの、おなかがいたいの、と呟きながらロゼアの頭をくしゃくしゃに撫でまわすソキの魔力は、今日も完全に安定していた。日を増すごと、夜を過ぎるごとに、ソキの魔力は深くしっとりと凪いでいく。それを自覚しているのだろう。ソキは城へ向かう前に妖精をまっすぐに見つめ、もうすこしなの、と言った。
 もうすこしで、完成するの、とソキは言う。それは妖精と出会った直後から、ソキが描いている水器を記した絵のことであり、己そのものとも言える魔力の安定のことでもあり、もっと他の、言い知れないなにかを表しているようでもあった。その、なにかが、不安で。なにが、と妖精は問いかけたが、ソキは困った顔をして眉を寄せ、言葉で表すことをしなかった。ただ、もうすこしなの、とソキは言う。
 間に合わない可能性を前に不安がる、そういう顔と、声をしていた。なにに、と。その先を説明する言葉を持たされないままで。
「ねえ……ねえ、シークさんは? シークさん、なんでいないです?」
 偶像崇拝の様相を呈してきた室内をきょろりと見回して、ソキがひとりの魔術師に問いかける。それでこの惨事はなんなんですか、と問うロゼアに、仕事がたくさんで終わらなくてこころが辛い、と説明していた魔術師の男は、和み緩んだ笑みで終わったら来るよ、と言った。王陛下の傍について、護衛をこなしている最中なのだという。
 ふぅうん、と頷いたソキは、見るからに不満いっぱいに、頬をぷっくり膨らませた。
「いつ終わるです? いま? 終わった? もう来るぅ?」
「……ソキ?」
「ひみつのうちあわせをしないといけないんですぅ!」
 んもおぉっ、とちたぱた怒るソキに、魔術師たちが秘密とは、という顔をして、そっとロゼアを伺った。ロゼアは微笑んでいた。機嫌よく微笑んでいる、ように見えた。もぅもぅぷぷぷですうううっ、と怒るソキを慰めるように抱き寄せて、背を撫でながらロゼアは囁く。心をときめかせる、甘くいとしげな声だった。
「ソキ。秘密の打ち合わせって、なに?」
 シークとソキの約束がなんであれ、色事ではない、と魔術師たちもロゼアも理解はしている。幼女にちょっかいを出した云々の騒ぎの時に、言葉魔術師と予知魔術師の特殊な関係性が簡単に告げられていたからだ。ロゼアにもそれとなく説明はされ、一応の、納得はされない理解は得ていたのだが。それとこれとは別問題である。ロゼアに無断で秘密とは何事なのか。許されていいことではない。
 頬を指で柔く撫でながら囁くロゼアに、ソキはきゃぁんやぁん、とくすぐったそうな声ではにかんで。よくぞ聞いてくれました、と言わんばかりに、えへんと胸を張って言い放った。
「あのねぇロゼアちゃん。これはぁ、つまりぃ、ひなんくんれんなの!」
「……うん?」
 秘密とは、という顔で魔術師たちがそれぞれに首を傾げる。見守る妖精も額に手をあてて、秘密、という言葉の意味と今一度見つめ合って考え直した。ロゼアも、上手く消化できなかったのだろう。ふんぞりかえるソキを抱きなおしながら、『傍付き』が冷静な声で、その関連性を確認する。
「ソキ? 避難訓練の打ち合わせなの? 秘密で?」
「あのね。まじちしさんが来るかも知れないの。もしかしたらね、危ないなの。だからね、その前にね、ソキがちゃぁんとしておかないといけないの。だからね、ひなんくんれん? なの」
 恐らく、シークが夢にてソキに告げた言葉は避難訓練ではない筈である。そうと解釈されたのを、まあいいか、で放置したに違いなかった。ソキの発言内容にやや心当たりがある顔をした魔術師たちが、あいつそういうトコあるよな、という顔で頷き合う。ふ、とロゼアの笑みが深くなった。
「……そうか」
 ありがとうな、ソキ。説明できたな、偉いな、可愛いな偉いな、とロゼアは『花嫁』を心から褒め称えた。それから手早く、ソキに持っていた飴を与え、目を閉じて耳を塞いで三十数えようないい子だなかわいいかわいい、と言い聞かせて。ソキが不思議がりながらも、素直に言う通りにして、いーち、にー、さーん、ろーく、とやや不正しながら数え始めたのを確認してから。
 『傍付き』は『花嫁』に向けた笑みをそのままに、手近にいた魔術師の一人の胸倉を掴み、無造作に引き寄せて言い放った。
「なにかご存知ですよね。言え」
「待って待って最近の若者怖すぎじゃないっ?」
「俺の『花嫁』に、俺に無断でなにを? 事と次第によっては『傍付き』として、これ以上の干渉と接触を禁じさせて頂きます。貴方たちは『魔術師』として成さねばならぬことがあるという。それを優先させよと御当主さまも、陛下も仰った。そうであるから従っています。ですが、このようなことをなさるのであれば……俺も、『傍付き』として、『花嫁』を守る義務がある」
 にじゅに、にじゅ、うぅんもうにじゅきゅにしちゃうですぅ、と呟いて薄目を開けようとするソキの口に、ロゼアがぽんと手を当てる。片手では魔術師を締め上げたままである。妖精はすすす、とロゼアから距離を取って空に浮き上がった。ソキを助け出したいのはやまやまだったが、正直、どちらにも関わりたくないし、関わっていると思われたくない。
「ソキ、数を飛ばすのいけないだろ。……はい、もう一回、最初から」
「ええぇ……」
「いい子にできたら、今日のおやつはデーツにしような。好きなだけ食べていいよ」
 いーちっ、と気合を入れた声でやりなおすソキには、余程魅力的な提案なのだろう。数を飛ばさずにやりなおし、十六まで数えて、へくちとくしゃみをしたら途中で分からなくなったらしく、鼻をすすってまた一から数えなおしている。妖精はロゼアが、こしょこしょと鼻の下あたりを指でくすぐっていたのを目撃していた。三十の達成は遠いに違いない。
 そうさせている間に恐ろしいほど手早く魔術師から情報を聞き出し、ロゼアは眉を寄せて沈黙した。年末に、今は『学園』にいる魔術師がひとり、『お屋敷』を訪れることが決まっているのだという。ソキが言うのは、恐らくはその件だろう、と。後はシークでないと分からないし魔術師にも守秘義務があるからこれ以上は詳しく教えられない、と告げる魔術師を開放して、ロゼアはちょうど三十数え終わり、ぱっちりと目を開いたソキを、大切そうに抱きなおした。
「ロゼアちゃん? もういい? もういい?」
「うん、いいよ。よくできたな、ソキ。偉いな……」
「でっしょおお? でしょう? えへへん。……うゅ……?」
 自慢げに褒められていたソキが、不意に困惑も露わな声で嫌そうな顔をする。その視線が向けられていた先を追って、妖精は思わず声をあげた。はきと対面したことはないが、遠目には見たことがあり、ジェイドの話で何度も会った相手だった。
『お屋敷の……御当主……?』
 鍵がかかっていた筈の扉を背に、青年はゆったりと腕を組み、ロゼアのことを眺めていた。睨みつけている、とするには瞳に浮かぶ感情は凪いでいる。ぎょっとする室内全ての者たちに向かって、青年は扉からゆったりと背を離した。
「……『傍付き』の非礼をお詫び申し上げる。まだ若く、躾が行き届いていないのはこちらの未熟さ故だが、どうか許して欲しい」
「御当主様……なぜ、この場所に」
「お前が話しかけることを許可した覚えはないよ、ロゼア」
 城では方々に礼儀を尽くせと命じておいた筈だが、と首を傾げながらゆるりと部屋を横断し、リディオは室内でただ一人、警戒も露わに唸っているソキのことを、穏やかな笑みで見返した。
「『傍付き』に情報を伏せる教育も受けただろうに、お前は本当に出来ないな、ソキ」
「うー、ううぅう……。な、なんでいるですかぁ……」
「仕事だ。陛下と話があった。……いや、話をしている、というのが正しいな」
 ちょうどいいから見に来たのだと告げるリディオは、『花嫁』と同じく、相手に理解させにくい話し方をした。分からせようとしていないのでは、なく。それでも理解してしまえる相手が傍に居続ける弊害なのだろう。そうであるが故に、ソキには通じるものがあるらしく、『花嫁』は不満げな顔でぱちぱち瞬きをして、つつんっとくちびるを尖らせて言った。
「おサボりのお散歩です。いけないです。お戻りくださいです」
「休憩時間だ。もう戻る。……ロゼア」
「はい」
 やや緊張しながら返事をするロゼアに、『花婿』はあまく微笑みかけた。
「お前も来い。話がある」
「……は、いえ、自分は」
「ソキの面倒はフォリオが見る。十五分か、二十分だ。預けて一緒に来い。……お前の礼を欠いた行動と関係があることだ」
 恐らく、扉の向こうで声を聴いていたのだろう。コン、と一度扉が叩かれ、返事を待たずに側近の女がするりと体を滑り込ませてくる。強張った顔をするロゼアに歩み寄り、側近の女は静かな声で、行きなさい、と言った。ぎこちなく、首を横に振って、ロゼアが息をする。
「……戻ってからではいけませんか。せめて、メグミカをここへ」
「時間がない。二度言わせるな。……命令だ、ロゼア。来い。……ソキ、ロゼアがいない間に、避難訓練だかなんだかは済ませて置け。彼もすぐここへ来る」
「御存知なのですか」
 低く。ぞっとするような感情を乗せたロゼアの問いに、当主は浮かぶ感情の薄い瞳を向けた。ただ、呼吸をするように。『花婿』はふわりと笑みを浮かべる。
「いいからおいで、ロゼア。これ以上は時間の無駄だ。来れば分かる」
「……ソキ、ソキ。ごめんな、行って来る。数を、六十数えて、それを十回した頃までには、戻ってくるよ」
「やぁああ……! いっぱい、いっぱいですうぅ……!」
 そんなにたくさん数を数えられない、とごねるソキを宥めすかして、ロゼアは当主と共に部屋から出て行った。扉を閉じる寸前、振り返ったロゼアの目が、すい、と空に移動する。そこに居る妖精に。ソキのことを託すように。
「……すぐに戻るよ」
 それは一瞬で、言葉も微笑みも、ソキに向けられたものでしかなかったのだが。視線が重なった、と感じたのは本当に気のせいなのだろうか。妖精は動揺に乱れる鼓動を感じながら、胸の上に両手をあて、深く震える息をした。ソキの魔術師としての完成は、恐らく、もうすぐそこにまで迫っている。



 それにしてもちっとも魔力に乱れがないねぇ、と呆れたように、それでいて感心しきった響きで告げたシークの訪れにも、ソキは頬をぷくぷくに膨らませたまま、返事をしようともしなかった。ただ、ちらっとばかり視線を向けてロゼアの姿がないことだけを確認し、傍らにしゃがみこむ当主側近の女に、ふんぎゃぁああぁううぅっ、と低く不機嫌な声で唸ってみせただけである。
 あまりに機嫌悪く当たり散らされるので、魔術師たちは全員壁際に寄って待機して、極力物音さえ立てないようにしている最中のことだった。あ、原因のひとつが来た、とばかり仲間たちから向けられた視線に、シークは訳知り顔で苦笑しながら、ひょいと肩を竦めてみせた。
「はいはい。ボクのせい、ボクのせいですよー。……で? どれのこと?」
「はい! 補佐のせいでロゼアくんに胸倉掴まれました怖い!」
「はい! 秘密の避難訓練とか事案だと思います!」
 しゅぴっ、しゅぴぴっ、と手をあげて次々と申告してくる魔術師たちに、シークはあぁー、と納得した声をあげて頷いた。そうしてから無警戒の仕草でソキに歩み寄り、ううぅにゃうにゃうゅーっ、と不機嫌な声で威嚇し続けているその顔を、ひょいと覗き込んで窘める。
「こぉら。秘密って言ったろう? ひ・み・つ」
「ひみつしたもん! ソキ、ひみつしたぁ! ……ふんにゃぎゃうううっ! ロゼアちゃぁあああんっ!」
「うんうん。彼はねー、もうちょっと陛下とお話があるからねー、その間はいい子で待っていようねー」
 いやぁんだめだめぇロゼアちゃあぁあんっ、と怒りと興奮で顔を真っ赤にして、じたじたちたたと椅子の上で暴れるソキは、ぷるぷると震えるとまた側近の女を睨みつけた。このひとがいるからロゼアちゃんいっちゃったですっ、という『花嫁』の怒りを真っ向から受け止めて、女はすこし苦しげな表情をしながらも、黙してずっと傍に控えている。
 君ねぇ、とシークはソキの額を人差し指で突っついた。
「そんなに怒るんじゃないよ。彼は自分の持つものの中で、一番の信頼を代わりに置いて行ったんだ。君を大事にしてるってことだよ。分かってあげようね」
「……だいじ? ソキを、御当主さまが、だいじ……?」
「君の知ってる大事と、ボクが言ってる大事の意味は同じだからね? そんな顔しないの」
 不満と不安と不思議さをごちゃごちゃにした顔で首を傾げて眉を寄せ、ソキはシークの言葉にもぷっと頬を膨らませただけだった。それから至極嫌そうに側近の女へ視線を向けて、いやんゃ、と声をあげながら身じろぎをする。
「ごとーしゅさまは、しゅせんどの、ごくあくひどーの、れいけつかんだもん。ソキのことだいじないもん」
「……あーぁ、分かった。キミ、お父さんが可愛がって構ってくれないから拗ねてるんだろう」
「ちちちちちちちぁうですうううううっ! とっ、とんでもない、とんでもなぁああごかい、ですうううっ! ちぁうもん! ちがうの! いーいっ? ごとーしゅさまったら、ソキより! ソキよりぃ、ですよぉっ? ソキよりっ、きんぎんざいほうのほうがっ、お好きなんですっ! ソキよりもっ、ソキよりもーっ!」
 とんでもないことです信じられないです酷いことですいけないにも程があるですうぅうっ、と顔を真っ赤にしてじたばた暴れだすソキに、側近の女がため息をつきながら顔をあげる。女は慣れた様子でソキの腕に触れてとんとんと宥めながら、やや冷たい目でシークを睨みつけた。
「興奮させないでください。……ソキさま、ソキさま? ソキさまの仰りたいことは、分かっておりますから……」
「ソキがあげたお花は三日で枯らしちゃったくせにですううううっ! 頂いた花束はきれーにして廊下に飾るですうううううソキのはすぐ枯らしちゃうですのに! 枯らしちゃうですのにいいいいいっ!」
「ははぁ……。キミ、もしかしてお父さん大好きなんだね?」
 ソキは一回もそんなこと言ってないですうううううっ、と怒り狂った声が室内にふわふわと響いていく。大声をあげて怒っているのに、それでもなお甘く柔らかく響く『花嫁』の声だった。やめてくださいと言っているでしょう、と女がシークを窘め、ソキの口に飴玉を放り込む。ふんふん鼻を鳴らして興奮しながら、ソキは飴玉にほんの僅か、頬を緩めて瞬きをした。
「甘くておいしです……。んもぉ……んもぉ! 信じられないことです。誤解はなはだしい、というやつです」
「……まあ、そういうことにしておいてあげようね。反抗期だもんね」
「はんこーきじゃないもん。それにぃ、いーい? ソキが御当主さまをお好きなんじゃないです。いーい? 御当主さまがぁ、ソキをぉ、だいじだいじですきすき! になるのが正当な行為、というやつなんですよぉ? つまり、御当主さまがいけないです。怠慢です。怠惰です。い・け・な・い・で・す!」
 うんうんそうだね、反抗期だね、という顔で頷いたシークの意思に気が付かず、でしょぅそうでしょうソキのことを可愛がらないだなんていけないひとなんですよぉ、と心から嬉しそうに頷き、『花嫁』は側近の女に両手を揃えて差し出した。
「ところでこの飴おいしです。ソキがもうちょっと貰ってあげてもいいです」
「……彼女が持っているっていうことは、ご当主様の好みのものだと思うけど」
「やっぱりいいです。い……いいです……いいもん……」
 未練たっぷりに手を引くソキに苦笑して、側近の女は懐から飴を取り出した。薄い紙にいくつか包んで手に乗せられたそれを、しばらく、ためつすがめつ眺めやり。ソキはくちびるを尖らせながら、物分かりの良い声で頷いた。
「飴に罪はないです……あっでも……とっておきのおやつだったらどうしようです……。これは横取りになちゃうのでは……」
「大丈夫です。ご安心ください」
 ソキはそれでもしばらく、疑り深く側近の女を観察して。やがてこくんっ、と大きく頷くと、いそいそと包みを解き、蜂蜜色のちいさな飴をしあわせそうに口に含んで笑み崩れた。機嫌は直ったようだった。そうしている間も、ずっと。恐ろしいほど、揺らぐことすらなく、その魔力は安定しきっていた。



 結局、避難訓練は行われなかった。こうも注目されてると恥ずかしくって出来ないんだよねと嘯いた言葉魔術師は、怪しむ妖精にだけそっと、出来ないのは本当だよ、と告げた。彼女の魔力がこうも強固では、付け入る隙もないというものさ。緊張のし過ぎ。強張った楽器は歌わない。それと同じこと、と言葉魔術師は妖精に告げた。それでは、言葉魔術師の武器たりえないのだと。
 ロゼアくんが傍にいないのが嫌なんだろうねぇ、とソキを上手にあやして暇をつぶしながら、シークは苦笑気味に息を吐いた。いつもみたいに引っ付いていられると、それはそれで出来ないんだけど。うーん、と面白がりつつも真剣な困惑を浮かばせるシークの言葉は、発されていても周囲に意味を理解させないという点において、非常に筆頭魔術師ジェイドのそれと似通っていた。
 性質が悪い、と妖精は思う。確固たる意志をもって隠匿しているか、曖昧に誤魔化しているかの違いはあれど、共通しているのは他者の理解を拒んでいることだ。分からなくてもいい、と思っている。分かられることが、不都合だ、と思っている。自分一人で抱え込むのが最善だ、と思っている。一人きりで戦の前線に立たされているかのようだ。
 彼らは、己の意思で断絶と孤独を抱え込んでいる。
「……ねーぇ、ねぇー。よーぅせーいちゃぁああん」
 とびきり拗ねていじけた声で呼ばれたので、妖精は息を吐きながらふわりと、ソキの目の高さまで舞い降りてやった。現在位置はすでに『お屋敷』の、ソキの部屋。寝台の上である。そこに腹ばいになったソキは、眠たさにもたもた瞬きをしながらも、我慢がならない様子で目をつりあげている。
「ソキはぁ、ないがしろにされているのではないです……?」
『……だってあなたお昼寝の時間じゃないの』
「かいぎと、ソキなら、だいじなのはソキです。ソキですううぅう」
 むんずっ、と枕を掴んで彼方へ投げつけようとした動きは、本人の意思に反してすぐ近くにぼてりと落下していく。握力もなければ筋力もないからである。妖精には分かるのだが、ソキには理解ができないらしい。なんでなんでぇえっと癇癪を起してまた枕を掴み、投げたつもりで近くへ落とし、を繰り返すソキに、妖精は心から溜息をついた。
 腕を痛くするわよ、と言っても聞き入れずに、ソキは枕を両手で掴んで。目を潤ませて、ずびっ、と鼻をすすった。
「ソキ……そき、もう、まじちしさんやめるぅ……」
『ええと……? ちょっと待って頂戴……? いきなり、なに? どうしたの?』
「だって、だって、ロゼアちゃん、ソキがまじちしさんになってから、ずっと、会議ですとか、話し合いですとか、打ち合わせ、とか。いっぱい、いっぱい、ソキのお傍からいなくなるもん……。今日は御当主さまにだって、陛下にだって、ロゼアちゃんを取られちゃったです……。ロゼアちゃんはソキのだもん……。だからまじちしさんやめるぅ……」
 さびしいです、と目に涙をいっぱい溜めて鼻をすびすびすするソキに、妖精はそっと手を伸ばして触れた。柔らかい頬に触れて、何度もやさしく撫でてやる。それだけではにかんで笑うソキに、妖精も思わず笑い返した。
『さびしいの?』
「うん……。あのね、妖精ちゃんと一緒なのはね、好きですよ。嬉しいの。でもね、でも……ソキはロゼアちゃんがいっとうにすき好きなんですぅ……。ソキがまじちしさんやめにして、『花嫁』になったら、ロゼアちゃん前みたいに、いっつも一緒……じゃないことも、おおかたです……? あれ……? あ、あれ、あれ……?」
 なにかがおかしい、という顔をして考え込むソキの瞼を、妖精は眠りを促すように撫でてやった。大体、いつものことだから妖精にも分かる。これは眠たくて眠たくてぐずっているだけである。本心の一部が零れているのはそうなのだろうが、起きればすっかり忘れている問答を引き延ばすことほど、意味のないこともない。
 目を閉じましょうね、おやすみの時間でしょう、と囁く妖精に、ソキはふにゃうにゃと言葉にならない声でなにかを訴えて。とてつもなく仕方がなさそうにくちびるを尖らせながら、こっくり、大きく頷いた。
「お昼寝をするです……。んもぉお! どうして誰もいないですかぁ!」
『あなたが枕やらなんやら、なんでもかんでもそこらへ投げて、こっち来ないでぇロゼアちゃんじゃなきゃいやぁあんって怒ったからでしょう? かわいそうに……』
 世話役たちは、手が付けられない状態になったソキを妖精に託して退避しただけである。寝台の四方に垂らされた布の向こうで、ソキに異変がないかを気を張りながら伺っているのが感じられた。ソキはもにょもにょと口を動かして視線をさ迷わせながら、己の行いをちっとも反省しない、けろっとした声を響かせた。
「しーらーなぁーい。ソキ、しらなーいーですーぅー……。……んん。めぅちゃー! めぐ、ちゃーん。メグミカちゃーん! ねえねえ、ソキと一緒にお昼寝しましょー? ころんてして、ぎゅっとして、なでなでしてもぉ、いいんですよ? めーぐちゃぁーん」
「っ、喜んで……!」
 即座に布を跳ね上げて姿を現した女性は、ソキをひょいと抱き上げるようにして横になった。満面の笑みで寝かしつけられるのに甘えてすりよりながら、ソキは投げた枕を引き寄せて、その表面をてしてし、と指先で叩く。呼ぶより先に、言わないといけないことがあるでしょう、と妖精は微笑んでソキと女性を見比べた。うぅ、と弱々しい呻きが零れる。
 しばらくして。投げたり怒ってごめんなさい、とソキがメグミカへ告げるのを聞いてから、妖精はひょい、と枕の上に飛び乗った。ロゼアの動向が気になるのは確かだが、傍を離れて飛んでいく気には、どうしてもなれなかった。



 花園へ戻った妖精は、おせっかいで世話好きな鉱石妖精を探して飛び回った。ジェイドの話を聞いてからというものの、鉱石妖精は一緒に『お屋敷』に向かうことも、城までついて行くことさえなくなっていたから、久しく顔さえ会わせていない。まったく、一緒について来てさえいてくれれば、ロゼアの動向が分かったかも知れないのに。ひとりでいるというのは、思うよりずっと不便だった。
 散々探し回って聞きまわって、妖精は大樹の枝で物憂げにぼんやりとしている、鉱石妖精の前へと飛来した。
『ああ、戻ったんですね……。おかえりなさい』
『こんな所で……なにを、しているの?』
『考え事を』
 どうぞこちらへ、と傍らへ誘う鉱石妖精の手は、言葉とは裏腹に花妖精の腕を掴んで引いていた。誘っておきながら逃がす気がないらしい。息を吐きながら、促されるまま腰を下ろす。ふ、と笑うような息を吐き出された。なに、と問うより早く腰に腕が回され引き寄せられる。肩にとん、と額を押し当てて目を閉じる距離の近さに、花妖精はちょっと、と頭を両手で押して抵抗した。
『近い。……ちょっと、なに。なに?』
 しかし、びくともしなければ離れてもくれない。鉱石妖精は花妖精の魔力の巡りを隅々まで確かめるように、目を閉じて集中しているようだった。人の身を、血液が流れていくように。妖精の身を編む魔力は、異変によって容易く歪み、損なわれる。
『……今日は、なにもありませんでしたか?』
『なにって、なにが? どこに? ……ねえ、近い。近いったら、離れて。せめて離して……』
『心配しました。確かめさせてください』
 ソキとは種類が違うが、鉱石妖精も相手の話を聞いてくれない。もしかして今周囲にそんなのばかり溢れているのではないかしら、と遠い目になる花妖精の肩で、鉱石妖精が静かに笑う。満ち足りたような。安心した、穏やかな吐息。
『……ええ。確かに。なにもなかったようですね。ソキさんは元気でしたか? ロゼアも』
『とても元気に機嫌が悪かったわ。……もういいでしょう? 離れて』
 ソキも機嫌が悪かったし、ロゼアのそれも良いとは言い難かった。会議から戻って来たロゼアは誠心誠意ソキを甘やかして愛でていたが、腕の中で『花嫁』が寝てしまうと強張った顔をしてメグミカを手招き、なにかを囁いては首を横に振っていた。本当なの、という言葉を、何度も何度も妖精は聞いた。怒り、怯え、悲しみ、疑惑、不安、喜び。様々な感情でその言葉は囁かれた。幾度も。
 そのたびにロゼアはそれを肯定し、また否定した。分からない、とロゼアは何回も繰り返した。決定的な言葉は告げられないまま。ただ明らかにそうである、と断定のできる情報だけがいくつももたらされたのだという。行方不明の『花婿』は『魔術師』となって『学園』にいる。そして年末の長期休暇で、『お屋敷』に戻ってくるのだと。
 ソキがあまりにロゼアを離そうとしないからか、それから数日はやけに多くの訪問者があった。ソキは一々妖精を手招き、こしょこしょと潜めた声で、それが誰かを教えてくれた。あれがロゼアちゃんのお父さんと、お母さん。あれはね、ソキのおにいちゃ、お兄さま。あれがシフィアさん。あれはアルサールさん。あのひとたちは、世話役さん、輿持ちさん、『運営』のひと、服飾部のひと。シフィアさんと仲良しのひとたち。
 ソキの目と声が届く範囲、部屋の隅に寄り添い合って。口元を隠して、響かない声で人々は話し続けた。汚泥のような感情に、ソキが時折震えたのを妖精は知っていた。それは時に怒りで、疑いで、喜びであり、苦しみであり、悲しみであり、幸福のことすらあった。ソキに、触れさせたくはなかったのだろう。時折、ロゼアは響かぬよう潜めた声を荒げ、人々を窘め、苦しげに退室させた。
 火のように、毒のように、『お屋敷』に言葉が巡って行くのを感じていた。逃れえぬ嵐が近づいていて、ゆっくりと、風が強くなるのに似ていた。落ち着きのないざわめきと、緊張感がひたひたと空気を満たしていく。御当主さまはね、と夜の闇に紛れさせるように、ソキは窓辺に乗り出して妖精へ囁いた。そこから見えるいくつもの灯り、いくつもの窓の中から、まっすぐひとつを指し示して。
 最近、窓の所で眠ってるの。お昼とかね、夜とかね。きっと誰も知らないんだけどね、ソキは見つけちゃったの。だからね、知ってるの。見てるとね、時々、ぱって起きて、きょろきょろしてるの。きっと、誰かのことを待ってるんだと思うの。窓だから、どこか、お外に行っちゃった人のことだと思うです。でもね、誰も来ないの。誰も。でもね、ずっと、待ってるの。
 妖精も。人が寝静まった深夜に、それを見た。火の揺れる灯りを手にして、当主がひとつの窓を開く。青年はゆっくりとした仕草で、窓辺に身を伏せて目を閉じた。いくつもの視線が向けられているのを、妖精は知っている。ソキが気が付かなくとも、当主を見守り、あるいは監視する目が離れることはなかった。だが、近寄る者の姿はなく。声をかける者さえ、ひとりとして。
 やがて。側近の女がくらやみの中から現れて、手を伸ばし窓を閉めてしまう。それが、終わり。どこかに行きたいのだろうか、と妖精は思う。ソキの言うように、誰かの迎えを待っているのだとしたら。どこに行きたいのだろう。ジェイドとシークに感じた断絶と孤独と、同じものを感じるあのうつくしいひとは。
『……それじゃあ、一緒に行きます?』
『ええ。……え? ごめんなさい。待って。なに?』
 いつの間にか考え事に夢中になって、話など聞いていなかった。適当に返事をしたことを謝る花妖精に苦笑して、鉱石妖精は音もなく枝から空へ飛び立った。気分転換になりますよ、と手を差し出される。戸惑っていると手首を掴んで引っ張られたので、花妖精は仕方なく、羽根を震わせて舞い上がった。こっち、とちいさな囁きで共に飛んでいく。花園を外れ、木々の隙間、森を抜けて。
 現れた建物を、魔術師たちは『学園』と呼んでいる。



 さわり、さわりと空気が揺れる。未熟な魔術師たちのざわめきに、そして、零れ落ちていく魔力に。覚えがあるよりずっと、『学園』には騒がしく魔力が漂っていた。思わず眉を寄せる花妖精に、鉱石妖精は静かな声で、試験中だからね、と告げる。年に二回行われる定期試験。特に年末を前に行われるこの考査は、諸国への外出許可が出るか否かにも関わってくる。
 それは大概に新入生の為の制度であるが、それを潜り抜けて成長していく生徒たちにも、全く関わりのないことではないのである。『学園』に在籍する魔術師の卵は、総じてまだ不安定な存在だ。いかなる時も暴走の危険があることを知り、その恐怖を知り、荒れるようならば外には出さない。それが掟で、それが決まりだ。『学園』とは学び舎であり、箱庭であり、牢獄である。
 飛んでいく妖精たちを追いかけて、魔術師たちの視線と言葉が絡みついてくる。どうしてこんな所に、なにか用事でもあるのかしら、誰かの案内妖精ではないの、でも先日の夜会には見なかったような、どうしたのかしら、ああ、もしかしたら。ほんの少しの心当たりを聞き留めて、花妖精は動きを止めかけ、鉱石妖精に腕を引かれるままに進んでいく。
 ねえ、と困惑しながら花妖精は口を開いた。ほんとうに、なにひとつ、話を聞いていなくて適当に返事をしていたことを謝るし、悪いとも思っているから。
『なにをしに来て、どこに行くのか、教えて欲しいの……』
『怒ってはいませんよ、別に。……先日、一緒に話を聞いたでしょう』
 ええ、と穏やかに息を吐くように、花妖精は肯定した。あれはひとりの魔術師の話であり、『花嫁』の『傍付き』と呼ばれた者の話であり、『お屋敷』で生きた人々の話であり、砂漠の王の話であり、砂漠の国の話でもあった。過去に起きていたことの話だった。今へ至る言葉たちだった。彼らが夢見て希望を託し、辿りついた場所が、今だった。
『……彼の話に出て来た案内妖精。二度、魔術師を迎え導いて行った案内妖精は、僕の同種です』
『それが?』
『考えていました。魔術師を導く、とは、どういうことなのか。案内妖精の役目とは、なんなのか。……ボクもいつか、世界に選ばれ、王の指名を受けて魔術師を導いていく。そんな気が、したから……』
 なにが、できるだろう。愛しい子の為に。我らが同胞の為に。なにをしてやれるだろう。花妖精に向けられる目は憶測と不安に揺れながらも、まっすぐな意思を灯して輝いていた。
『だから、君の答えも知りたい。今でなくとも、構いませんが……いつかは』
『答え……?』
『案内妖精と魔術師が、どうあるべきなのか。ボクたちになにができるのか。一時だけの関わりで終わるのか、その先を望むのか、友人であるのか、隣人であるのか、相棒となるのか、なれるものなのか。守護する者か、庇護する者か、試練を与えるべきなのか』
 キミはどうなりたい、と尋ねられて、花妖精は言葉を持たなかった。ソキの花妖精への認識は恐らく、物珍しい愛玩動物くらいだろう。それは友人であり、隣人であるかも知れないが、相棒ではなく、対等ではない。正式に魔術師として『学園』に招かれ、一般的な感性や専門的な知識を得れば変化はあるだろうが、今はそれが精一杯であることを花妖精は知っていた。
 望みを持ったことがない。どうあるべきか、ということすら考えたことはなかった。案内妖精とは、魔術師の卵を『学園』まで連れて行くもの。その道行を守る存在。それ以上とも、それ以下とも、考えたことはなかった。
『わたしたちは……なにかに、ならなければいけないの?』
『ボクたちは、存在する以上いつか必ずなにかになるんです。自分自身に、無数の夢を抱きながら』
 さあ、もうすこし。そう告げて鉱石妖精が腕を引いたのは、風の魔術が零れ落ちる一室だった。そこに魔術師がふたり、向かい合わせに椅子に座っている。一人は教員、一人は生徒だろう。ちょうど試験が終わった所であったのか、教員はいくつかの言葉を生徒にかけ、力強く頷いた。
「おめでとう。これなら大丈夫だろう。……砂漠の王が君を呼んだと聞いている。顔を見せてあげなさい。……君は、家に、帰れるんだよ」
『おめでとう、ウィッシュ』
 白石を思わせるその生徒の傍らに、妖精たちの同胞が寄り添っていた。四枚羽根の鉱石妖精は穏やかに微笑み、俯く青年へ耳打ちする。
『一緒に帰ろうな……』
 言葉を返さず。頷くこともせず。椅子に座ったままの青年が、夢見るような瞳を称えた顔をあげる。滑らかな肌に、柘榴色の瞳。長い髪は雪のように白く、ざっくりとした一本の三つ編みにされている。その姿は頼りなく、儚く、恐ろしい程にうつくしかった。花妖精は誰にともなく確信して、呟く。『花婿』だ。ああ、それならば、彼が。
 『花婿』は妖精たちをぼんやりと眺め、なにかを求めるように、呼びやうように、くちびるをほんの僅かに震わせた。声はなく。母を呼んだと、知る者はなく。

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