戻る  / 次へ

 ふわっとした時間軸として、『ささめき、ひめごと、そして未来を花束に』までの読了を推奨しますが、展開についてのネタバレはありません。『異形師の花嫁』を読んでいると楽しいことがあるかも知れません。ないかも知れません。なににせよイベント時空なので細かいことを気にせずお願いいたします。イベント時空なので!



2020ハロウィン



 喉を乾かす冷えた空気。空を見上げれば、じわりと滲むように星が輝きだした頃だった。まだ空の果てには太陽の名残が残っている。それでも、もう夜が訪れている。ふ、と息を吐き出して、ディタは窓のカーテンを閉めた。この時期、この時間はどうしても、昔のことを思い出してしまう。『お屋敷』から、妻を連れて逃げたあの日のこと。たったひとり、それを助けてくれたひとのこと。約束。願い。祈り。いくつものこと。未来を描く余裕などなく。ただ、明日のことだけを思った。明日、また、共にいられますように。明日、まだ、共にあれますように。明日のことしか考えられなかった。未来に希望を飾ることは不得意だった。そうであるからディタは最初から、よき『傍付き』にはなれなかったのだ。嫁ぐ先に幸せがあるのだと、『花嫁』に囁くのがなにより苦手だった、ディタには。
 それでも不適格として排斥されず、責められなかったのは。もっと目立つ存在が、すぐ傍にいて。そちらに全て向いていたからに他ならない。彼は、かつて『傍付き』だったディタの罪悪感そのもので、そして、返しきれぬ恩義を感じるひとだった。
「……ディタ?」
 蒼い露草のような声が、ディタの意識を引き戻す。ふ、と振り返れば、そこには『花嫁』が首を傾げて不思議がっていた。どうしたの、と甘えてくっついてくるスピカを抱き上げて、ディタはなんでもないよ、と穏やかに囁く。心から。
「幸せだな、と思っていただけだよ」
「しあわせ? ふふ。ふふふ。わたしも」
「起きた時、傍にいなくてごめんな。さびしくさせたね」
 スピカはディタの肩に頬をくっつけながら、ふふ、と笑うだけで、寂しさを否定も肯定もしなかった。ただ黒檀の瞳はうっとりとディタを見つめていて、機嫌のいい猫のように、ゆっくりと幾度も瞬きを繰り返す。服に染み込んでいく体温を味わいながら、顔色や鼓動をじっくりと確かめて、ディタはほ、と体の力を抜いた。この所、いや、ここ数年をかけてじわじわと、スピカの眠る時間が長くなっている。いままでは起きている時間の方が長かった。しかし今年の春頃からゆっくりと、その比率が変わってきているのは確かなことだった。この冬を超える最中に、恐らく覚醒と睡眠の比率は等分になるだろう。そこから先のことを、いまはまだ、考えたくはなかった。頬に手を滑らせて撫でれば、スピカは黒檀の瞳をとろけさせて笑う。
「心配性の、わたしの旦那さま。今日のお店は、もうおしまいでしょう? コルくんがね、市場に行って来るからお留守番をお願いねって」
 コル、というのは店主の名だ。ディタの友人でもあり、ふたりを匿う共犯者のひとりの名でもある。彼が予定のない外出をするのはひどく珍しい。心当たりがなかったもので、はて、と疑問を浮かべながら、ディタは素直にそれを口にした。
「市場? なにをしに?」
「あのね。かぼちゃが足りなくなっちゃったの」
「なるほど?」
 そう呟いて、ディタは店内を見回した。来週のすえ、今月末のハロウィンの為に、店内を飾りたいと言ったのはスピカだった。どこからなにを聞いてきたのか、あのね、かぼちゃがね、目が光って浮いたりね、お歌を歌ったりね、お菓子をあげたり、いたずらをしたりするの、という説明はまさしく『花嫁』のそれだったが、一般的な知識を持つコルが、あぁハロウィンしたいの、いいよ、と了承し、喫茶は開店以来初めてのハロウィンイベントを迎えることになったのだった。その売れ行きは予想以上にいいもので。飾りつけや料理に使うかぼちゃが足りなくなり、仕入れに行った、ということらしかった。
 いいのが見つかるといいねぇ、そうだね、と言葉を交わしながら、ディタはスピカを抱き上げたまま店内を整えて行く。スピカはディタの腕の中でじっとしながらも、机の上の砂糖瓶を覗き込んではちいさなこんぺいとうを混ぜたり、花瓶の花を整えたりと楽しく手伝いをした。開店している間、スピカが店に姿を見せることはない。この場所にスピカがいるのは閉店後か、休店日くらいのもので、そうであるからその時間、細々とした手伝いをしたがるのはいつものことだった。ありがとうなスピカ、助かるよ、と心から告げれば、『花嫁』は照れくさそうにくすくすと笑う。ディタ、と『傍付き』の永遠が彼を呼ぶ。一日、おつかれさま。
 ありがとう、と囁く。穏やかな幸福がそこにはあった。さて、すこし休憩でもしようか、と思った時だった。閉店の札を下げていた筈の扉が開き、コロン、と戸鈴が鳴る。振り返るより早くスピカをソファに滑り落し、己の体の影の中に入れて隠しながら。ディタは静かに、開いた扉を振り返った。咄嗟にスピカを隠したものの、その気配には覚えがあった。
 果たして、現れたのは予想通りの均整な男だった。居住地はいまは砂漠の国の何処かである筈なのに、旅装ではなく、ほんのすこし近所を散歩するかのような普段着を着ている。すこしばかり適当に伸ばされた風な、黄土色の髪は無造作に赤いリボンでくくられていた。目の覚めるような花の赤。それは、男の愛した『花嫁』の、未だ幼い娘が。常に髪を結ぶものと、とてもよく似ていた。ラーヴェ、と苦笑交じりにディタは呼ぶ。
「こんばんは。似合ってるけど、どうしたの? それ」
「スピカさま、ディタ、ごきげんよう。……ジェイドが」
 察した、という顔で頷くディタに、スピカはくすくすと口に手をあてて笑う。
「ジェイド? 今日はご一緒ではないの? どうして?」
「常に一緒にいる訳ではないのですよ、スピカ様。……珍しく、この時間まで仕事が立て込んでいるようでして。終わったら顔を出す、と言っていました。あと二時間くらいではないでしょうか」
「ふぅん? ひとりが寂しくないように、リボンしてもらったのね?」
 スピカったら分かっちゃった、という顔で頷くディタの『花嫁』に、ラーヴェは謹んで、ありとあらゆる返答を微笑みひとつで受け流した。え、それで本当はどうしたのそれ、トリックオアトリートの時間だよラーヴェとか言いながらリボン片手ににじり寄られたんだが、あぁそれだいぶ仕事煮詰まってるねほんとに今日来るの、終わるか終わらないかでいうと終わらせるから先行ってて欲しいそうだ、なるほどあと2時間パターン、と会話を交わした後、ラーヴェは改めて恭しく、スピカに向かって一礼した。
「こんばんは、スピカさま。ご機嫌麗しくお過ごしでございますか」
「こんばんは、ラーヴェ。大丈夫よ。あのね、最近はお熱も出していないし、お咳もないの。ゆっくりお昼寝だってしたんだから!」
「そうですか。……そう、お健やかにお過ごしだ」
 甘く、幸福を滲ませて。うっとりと、その翠の瞳を和ませて、ラーヴェはスピカに微笑みかけた。『花嫁』はきゃぁとはしゃいだ声をあげて頬に手をあて、身をよじって恥ずかしがる。ふー、とディタは視線を逸らして深呼吸をした。許容範囲は『傍付き』それぞれである。ディタは心が広い方だった。比較的。そうであるからこの程度は仕方がない、と受け入れるくらいの度量はあるのである。
「……いやでも輝きが普段の八割増しだな……? ラーヴェ、機嫌がいい? どうかした?」
「スピカがあててみましょうか。えっとね、ソキでしょう? ソキが街にいたのではない? 遠くから姿が見られたんでしょう。そうでしょう?」
 そんな偶然はそうあることではない。今日はまだ週の半ばであることだし。『学園』の魔術師のたまごは、決まった曜日以外で城下を出歩くことは非常に稀だからである。ましてやソキである。しかし、その上で、相手はラーヴェである。スピカとディタが知る、ラーヴェである。そういう運の極めて良い男は、スピカの問いに微笑んだままでいた。その横顔をじっと見つめて、ディタは思わず、えっと声をあげて驚いた。
「ほんとに? ソキさまが出歩いてらした……? ロゼアは?」
「一緒に」
 大丈夫、気がつかれはしなかったよ、と男は静かに微笑んだ。ただ、ソキは妙にきょろきょろと視線をさ迷わせて首を傾げ、ロゼアは背筋がぞわりとした様子で、訝しく周囲を警戒していたけれど。ああ、とほのぼのとディタは頷いた。ラーヴェにはそういう、妙に大人げない所がある。気が付かせまい、としたなら、絶対にそれを成し遂げる相手だ。ロゼアもかわいそうに、めんどくさい元『傍付き』にばかり目をつけられて可愛がられて、と完全に己を棚上げしながら同情するディタの傍らで、スピカは目をきらきらと輝かせた。
「わぁ! ふふ、よかったね。よかったね、ラーヴェ。ね、ね、ソキのお手紙に、もう返事は書いてあげたの? 贈り物、なににしたの? スピカ、ソキに、ちゃんと内緒にしてあげるんだから。こっそり教えて? ね、ね、いいでしょう?」
「いけませんよ。内緒」
「えぇ……? んもう、ソキが今度来たら教えてもらうんだから!」
 だから、それまでにちゃぁんとお返事をして、ちゃぁんと贈り物をしてあげないといけませんよ。お返事は、とむっつりした顔を作って詰め寄られて、ラーヴェは穏やかな口調で、仰る通りに、と囁いた。
「……ロゼアの許容範囲のものを探るのにも、中々苦心しておりますが。まあ、どうにか」
「ラーヴェのどうにかって、仕方がない、どうにかロゼアに我慢させよう、の方向で行くんだろうなぁ、と思ってさすがに同情する……」
「まさか。ジェイドじゃあるまいし」
 しかし。しない、と言わないのがラーヴェという男である。つまり方向性は間違ってないんだろうな、とディタは思った。恐らくは規模の話である。我慢させよう、なのか。諸々突破させて虚無まで持ち込ませよう、なのか。そういう系統の規模の話である。ロゼアかわいそう、優しくしてあげようかな、とそっと目頭を押さえるディタに、ラーヴェはうつくしく微笑んで問いかけた。
「ディタこそ、ロゼアにはやさしくしてあげているんだろうね?」
「え? もちろん。してる、してる」
「そうだったかしら……」
 僅かばかり不安げなスピカの言葉が、全てを物語っていた。ロゼアは基本的に、外に出ている元がつく『お屋敷』関係者に、可愛がられてはいるが恵まれてはいない。可愛がり方に問題のある大人たちばかりだからである。スピカは、今度ソキとロゼアが来たらわたしだけでもめいっぱいやさしくしてあげなくっちゃ、とそっと息を吐き、ところで、と不思議に店の扉を眺めてみせた。
「……コルくん、遅いねぇ……? まいご? それとも、かぼちゃとの運命のであい?」
「可能性はある。ラーヴェ、来る時にコル見なかった?」
「ディタ。どちらの可能性があると思っているのかだけ聞いても?」
 それはもちろん、とディタは迷うことなく言い放った。
「かぼちゃと運命の出会いでもしたんだと思う」
「コルくんの運命のであいの周期、そろそろだもの」
「あれってかぼちゃでもいいものなのか……?」
 ディタとスピカの言葉に迷いはなかった。ラーヴェは納得半分、訝しみも半分の声で考え込む。コルは通常、穏やかな好青年である。『お屋敷』に出入りを許可されていた商人らしくしたたかで狡猾な一面を持つものの、魔窟と対峙する必要がない現在、それはすっかりなりを潜めている。ラーヴェが一番記憶にある男の姿と言えば、カウンターの向こうで盛況な店内を嬉しそうに見つめながら、軽やかに勤勉に動き回る姿だった。男は目利きの商人であり、『傍付き』と『花嫁』を匿う彼らの共犯者であり、得難い友人であり、喫茶店の支配人であり、そして細工師でもあった。
 細かい作業が好きなのだという。彼の手が生み出す繊細な金銀細工は身を飾る装飾品であったり、店内飾りであったり、ちょっとした贈答品とじつに様々だが、一級品の腕の割に本職を名乗らないのには理由があった。それがスピカとディタ曰く、『運命の出会い』である。コルくんちょっと気難しいから、ぴしゃぁああんっ、としないと作らないの、とスピカは言う。その、ぴしゃぁああんっ、はだいたい数ヵ月に一度の周期で巡ってくる発作的な衝動で、それは時に細工物の材料であったり、それらを彩る顔料であったり、はたまた絵筆や万年筆がきっかけのこともあり、原因も理由も多岐に及ぶものではあるのだが。そのぴしゃぁああんっ、が来たら最後なのだという。寝食を忘れて没頭して、終わるまでこちらに戻って来ないのが常なのだ。
「一回、りんごに運命感じてたことがあるから、かぼちゃも範囲内だと思って」
「あの時は楽しかったねぇ、すごかったねぇ、ディタ? あのね、ラーヴェ。すごいのよ、ラーヴェ! りんごがね、箱に、こーんなにいっぱい! それでね、アップルパイになったり、アップルティーになったり、焼きりんごになったり、りんごあめになったりしたの。喫茶『赤星」、ぴしゃぁああんっ、の日、特別企画! りんご専門店だったのよ」
 目をきらきら輝かせて楽しげに語るスピカに、ラーヴェはそうなのですね、と穏やかに頷いた。仔細はまったくもって分からないが、コルがあれこれ仕入れたりんごの処理に、ディタが相当奔走したことだけは伝わって来た。その専門店がどれくらいの期間であったか尋ねれば、一月ちょっとであったらしい。なんとなく思い当たるものがあって、ラーヴェはゆるく微笑んだ。そういえば数年前、まだラーヴェが『お屋敷』にいた頃に。ジェイドがやたらと楽しそうに、差し入れだよ、とりんごの食品ばかりを持ち込んできたことがあった。
 それこそ、アップルパイ、アップルティー、焼きりんご、りんご飴、今並べられたものばかり。最後には砂糖漬けにして干したりんごを持ち込んで、これで終わり、と言っていた。あの時は、ジェイドがりんご農家でも誑かしたのだと思っていたのだが。なるほど、ここが出所か、とラーヴェはうっすらと頭痛を感じて額に指先を押し当てた。なんというか、経緯はどうあれ、それを堂々と『お屋敷』に持ち込んで方々の口に突っ込んで回る、その精神が逆に心配になってくる。どうしてあんな風に開き直った成長をしたんだろう、先王陛下の悪影響だな、と己に理由や原因があるとは欠片も思わない思考で、彼の方にも困ったものだ、と結論付けて。
 ラーヴェはそうすると、と当然の疑問を口にした。
「迎えに行かないと、帰ってこないのでは……?」
「いや、時間的に、いまはまだ仕入れてると思う……。どのみちまだ帰ってこないと思うし、市場のひとたちも慣れてるから。運命感じてたら連絡が来ると思う」
「今度はかぼちゃ専門店、する? かぼちゃ専門店って、なにすればいいのかしら? お菓子? おかず? あっ、かぼちゃの馬車!」
 ハロウィンの飾りを作れば、いまは作るだけ売れる時期なので。コルの気まぐれの方向性がどう発露するにせよ、ディタはそつなく売りさばくんだろうな、というのがラーヴェの正直な感想だった。あと恐らく、一部と言わずそこそこの量が、砂漠の王宮魔術師だったり、『お屋敷』に流れていくんだろうな、とも。ジェイドの長年の、出所不明のたくさんのものたち、の流れを判明させながら、ラーヴェはまったく、と苦笑した。
「……隠しごとばかり、上手になって」
「珍しい。ラーヴェがジェイド褒めてる」
「気のせいでは?」
 ところで、とラーヴェは今更ながら、ディタにそれを確認した。
「ラーヴェ、今日は一緒にご飯の日だから先にディタの所に行ってて、と言われたんだが、そもそも話は通って……?」
「うー……ん? 話はしていたような……今日だという約束はしていなかったような……という所だけど、ラーヴェが来るのは聞いてなかったな」
「えっ、ラーヴェ、一緒にご飯食べにきたの? うれしい!」
 やったー、とはしゃぐスピカの反応が、最も素直な事実を物語っていた。ジェイドの連絡不備である。なるほど、店が普通に閉まってるとは思った、と苦笑するラーヴェに、ジェイドがこの手のミスするなんて珍しい、とディタはしみじみと頷いた。
「とすると、店の予約をしてるか怪しいな……。なにか聞いてる?」
「聞いてない。そもそも、城に迎えに行ったら先に行っててはいどーん、とか言いながら『扉』に叩きこまれた」
「ざ、雑……! 扱いが雑……!」
 どうりで、ラーヴェの恰好が近所を出歩く時のそれである筈だ。雑だ、とディタが笑いながら繰り返した。ラーヴェの扱いにしても、『扉』の使用についても、である。ジェイドそんなヤバかったの、あれはもしかして二日くらい寝てない可能性もあるな、今日は家に泊まって行かせることにしようかラーヴェ薬持ってる、持ってる、と王宮魔術師筆頭の無断外泊を軽やかに決定してしまいながら、ディタはそういえば、と時間つぶしに最適な、あることを思い出して問いかけた。
「忘れものを預かってるんだよね。見る?」
「は? ……忘れ物?」
「ソキさまのスケッチブック。半月経つけど、ロゼアから問い合わせの手紙も来ないから、忘れたことを忘れてるんじゃないかと思ってるんだけど……」
 さもありなん、とラーヴェは頷いた。『お屋敷』ではさすがにすぐ回収されたが、ソキがあっちこっちにスケッチブックを置いてきてしまうのは、かなりよくあることだった。しかも教科書程度の大きさのものだというので、それは本当に、失くしたことに気が付いていない可能性が高い。その大きさのものを、たくさん持っているからである。もう半月待って店に来なかったら、ジェイド経由で返すか聞いてもらおうと思ってはいるんだけど、と言いながらディタが店の奥から出して来たのは、真新しい表紙の見慣れない一冊だった。表紙に『花嫁』らしい整った文字で、ソキの名と、日付が書き入れられている。
 半年程前の日付だった。当時の状況を詳しく聞けば、店内や茶器を熱心に書いていたソキが午後の陽光にまけて寝落ちた所で、同行の少女が天を仰いで知らせを走らせ、ロゼアに抱き上げられて帰ったあと、残されていたものだという。気が付いていないんだろうな、とラーヴェは思う。お絵描きをしに来たのなら、スケッチブックを何冊か持って行くのがソキのやり方だ。その時の気分によって、書きたい紙の大きさが違うからである。店でけんめいに書いていたのはもっと大きなスケッチブックであり、これは背もたれのクッションの間に落っこちていたのだという。気が付いていないだろうな、と重ねてラーヴェは思った。
 ロゼアはともかく、ソキが紛失に気が付くまでには、まだ時間がかかるだろう。無くなったことに気が付いて、そこらじゅうをぐしゃぐしゃにひっくり返して探し回って、ロゼアに訴えて、一緒に探して。その光景が目に見えるようだった。ふ、と笑みを深めながら、ラーヴェはディタからスケッチブックを受け取り、罪悪感なくそこに視線を落とした。
「……あぁ」
 吐息がやわらかくこぼれて行く。す、と喜びを宿して輝く翠の目に、見守っていたスピカがにこにことご機嫌に笑った。
「やっぱり笑うとそっくりね。ね? ディタ?」
「そうだね。笑ったり、幸せそうにしてると……ああ、ソキさまと、とてもよく」
 似ている、と。その秘め事を、そっと響かぬように口にして。ディタはスピカを抱き上げて、ラーヴェと共に、ソキが描いた日常を覗き込んだ。最初の一枚は、部屋の一角だった。本棚と机が描かれている。本棚には教本らしき背表紙と、小物が整理整頓されて詰め込まれており、『お屋敷』の一角をも思わせる雰囲気だった。机は変わって、学生らしい。半開きの教科書にしおりが置かれ、灯篭には火が揺れている。インクの半分以上が無くなった壺の前には万年筆が転がっていた。机の、椅子の背もたれには無造作にローブがかけられている。魔術師のローブだった。ああ、これが、とラーヴェの目が大事にそれを見つめていた。これがソキの見る世界。
 恐らくは、部屋の寝台の上から見える光景なのだろう。精緻な書き込みではなく、ざくざくと引かれた線が急いでいることから、ロゼアの不在でも狙ったに違いない。二枚目も、三枚目も、同じようにざくざくとした線で描かれた風景だった。談話室と、恐らくは食堂だろう。談話室ではゆったりとくつろいでいる者の姿があり、食堂では手にトレイを持って行き交う人々の姿があった。人に、囲まれて。温かく、楽しく、過ごしていることを知る。ゆっくり、ゆっくり、ソキの目が見た世界を追いかけるように、ラーヴェはページをめくっていく。実験器具のようなもの、おいしかったであろう菓子、見慣れない化粧品、愛らしいポーチ、見覚えのあるアスルの絵もあった。嬉しかったこと、珍しいものを書き留めておく為の一冊なのだろう。それらはどれも他愛なく、そして、ソキの喜びに満ちていた。
 ねえ、ねえ、みてみて、あのね、これね、と。かつて、こしょこしょと耳に囁いては笑った声が、いまも鮮やかに響いて。蘇っていく。何度も何度も、色褪せず。擦り切れず。忘れることはなく。覚えている。
「……楽しく、過ごせているようだ」
「そうみたいだよ。お友達もいるんだって。よかったね」
「ああ、本当に……」
 よかった。ぽつり、言葉を零して。ラーヴェの指が、紙に描かれた線をなぞっていく。よかった、と呟いて。まだ、半分以上もあるスケッチブックをぱたりと閉じて、ラーヴェはそれをディタに受け渡した。もういいの、とディタは問う。もういいよ、とラーヴェは笑った。己の『花嫁』を腕に抱き上げて、それを幸福と笑う『傍付き』の表情で。ありがとう、と囁いた。
「もう数日音沙汰がなければ、返してあげてくれないか」
「ラーヴェがそう言うなら、そうするよ。ジェイドが来たら頼もう」
「うふふ。うふふふふ! ラーヴェ、嬉しそう! あ、安心してね? ラーヴェが見ちゃったのは、ちゃぁんと内緒にしておいてあげる!」
 なにせスピカは、ラーヴェやジェイドと会っていることさえ、ソキにもロゼアにも内緒にしているのである。ジェイドのことはロゼアがうっすらと察しているようだが、ラーヴェのことは気が付いてもいないだろう。でも、ソキがまた喧嘩しちゃう前にお手紙書いたりしてあげてね、と遠回しにやんわりと叱りながら。スピカはそうだ、と思い出して、好奇心いっぱいにぱちんと手を叩き合わせた。
「そう、そう! ラーヴェに聞こうと思ってたの」
「はい? ……はい、なにか?」
「うん。ディタ、さっきのスケッチブックを貸して? あの、あのね、このなかのね……」
 ぱらぱら、とスピカがめくったのは、ラーヴェがあえて見なかった後半部分の、もっとも後方にある何枚かだった。風景や物が描かれていたのとは違い、そこに写し取られていたのは人物だった。恐らく、全員『魔術師』か、そのたまごだろう。不思議そうにするラーヴェに、このね、と何枚かを指さしながら。スピカはきらきらした目で、ラーヴェを上目遣いに見て楽しさいっぱいに問いかけた。
「この中に、ラーヴェの『老後の楽しみ』ちゃん、いる?」
「……ディタ?」
「俺じゃないよ。犯人はジェイド」
 話しちゃった、いぇーい、と満面の笑顔でピースサインまでかます筆頭の姿が、脳裏をよぎって消えていく。『花嫁』にするには繊細に過ぎる話題である。え、と珍しく言葉に詰まるラーヴェを、スピカはきらきらの目で楽しそうに見つめていた。 薄く覗き込んだ瞳に不安は見つけられなかった。スピカの瞳は甘い期待で満ちていて、それだけで、ラーヴェは逆に訝しささえ感じてディタを見る。『花嫁』が持つには不可解な感情だった。宝石たちは『傍付き』の一番に対して敏感で、そうでなくなることをひどく忌避している。それなのに。ねえねえ、教えて、とラーヴェの『花嫁』によく似た声でスピカは囁く。それに、許された気持ちには、なれないのだけれど。背を押されたような気分で、それでもさほど乗り気ではなく、ぎこちなく、ラーヴェは口を開いて頷いた。
「い……います……」

 

戻る / 次へ