数枚に纏められた報告書を机に放るように置き、つまり、とエノーラは頭の痛そうな声で言った。
「ストルとツフィアがデキてるって勘違いした傷心リトリアちゃんが旅に出たっていう解釈でいいのね? チェチェリア」
「ああ、もうそれでいいんじゃないか。大きくは間違っていないだろう。そうだな、レディ?」
「王陛下たちの前で同じことが言えるならそれでもいいんじゃないかしらねえぇえ! つまり! 駄目って! ことよ! ふたりともなにを言ってるの……?」
即席会議室に集まった魔術師たちの目が全員死んでいる。それはもうことごとく死んでいるのを目の当たりにして、ちょっと遅れて入ってきたウィッシュは、びたんとばかりに扉に背をくっつけた。
「えっ、ええぇなにこれ怖い……引く……」
「ウィッシュ。出歩いていいのか?」
「う、うぅ……チェチェリアと一緒……。会議には顔出して、まあちょっと参加してきてねって、陛下が。それが終わったら、とりあえず一週間は部屋で謹慎なんだけど……。ああぁ、よかった、独房じゃなくて。俺、独房嫌い。暗くて狭くてじめじめしてて」
そもそも、独房が好き、というのであればそれは十分特殊性癖に該当する事案である。おいでおいで、と疲れた顔をしたチェチェリアに手招かれて、ウィッシュは仕方なく、とてとてした足取りで女性たちの傍に歩み寄った。椅子を引き、ちょっとくちびるを尖らせて、不安がるような戸惑うような表情で、ちょこ、と座る。ほわっ、とレディが心底和んだ笑みで緊張を解した。『砂漠の花婿』は、こと砂漠出身者において、最強の癒しであり兵器であり精神安定をつかさどる。
「ウィッシュさま。ソキさまと、ロゼアさ……ロゼアくん。ナリアンくん、メーシャくんの様子は……?」
「ソキ? ロゼアとあやとりしてたよ」
なんかソキの手ってやっぱりちっちゃいからさ、こう、ちまちまけんめいに動かしてて、でもからんじゃうんだよね。それをロゼアが丁寧に解いたり、ちっちゃいのを頑張って受け渡されたりするのを、ナリアンとメーシャが覗き込んでてね、と身振り手振りで説明するウィッシュを見て、エノーラとチェチェリアも和んだ息を吐き出した。ソキほどではないのだが、ウィッシュの説明は、なんだか小さいこどもが一生懸命になにかを教えてくれているような雰囲気を持っていて、見ているだけでも心を和ませる。あっでも怒ってたなぁ、とウィッシュはくちびるを尖らせ、顔の前で両手のひとさしゆびを、つんつんと突き合わせた。
「これはー! せいだいなまきこまれじこー! というものですー! ソキはむじつですー! って、なんかすんごい怒ってた。ぷんぷんだった」
「ぷんぷん……」
「うん。ぷんぷこしてた」
ソキはおこー、というやつですうううってロゼアのおひざの上でね、こうね、ちたぱたしててね、と説明してくれるウィッシュに、チェチェリアはふっと笑みを深めて頷いた。
「そうか。ロゼアとソキは大丈夫そうだな」
「ナリアンに関しても、安心してくれていい」
言いながら、コン、と戸を叩き入ってきたのはロリエスである。あっロリエスだ今日の下着何色、と流れるように己の欲望を満たそうとするエノーラに黒だと餌を与えながら室内を横断し、ウィッシュのひとつ隣、円卓の椅子を引いてゆるりと腰かける。
「一ヶ月分の課題を出しておいた。一週間で終わらせるように、と言ってな」
「ロリエス。計算が合わない」
「私も明日から謹慎だからな……。女王陛下の執務に一週間付き添い、片時も傍を離れてはいけないらしい楽園か……!」
ロリエスのそれは謹慎じゃなくてご褒美だよね、という感想を集った魔術師の誰もが抱いたが、口に出しはしなかった。顔を赤らめてふるふると感動に打ち震えるロリエスに、届く気がしなかったからである。談話室に寄って来た者ならではの情報として、ウィッシュが、そういえば寮長がソファの上で膝抱えて落ち込んでたもんね、と呟く。女神にも可愛がっているウィッシュにも、どうあがいても一週間は会えないのだ。さぞ辛かろう。反動でナリアンを構いたがるだろうが、四倍圧縮課題を出されたナリアンが、相手にしてくれるかどうかは絶望的なものがあった。とすると、と琥珀色の瞳で空を睨みつけ、エノーラは頬に指先を押し当てて息を吐く。
「問題はメーシャくんか……。ストルと会えてないんでしょ?」
「リトリアの家出以後、即座に拘留されてたからな……」
「家出……? あれ家出なの……? 家出っていう単語で片づけていいの……?」
とりあえず楽音だとそういう感じになってる、と果てしなく遠くを見る目で呟くチェチェリアに、レディが涙目で頭を抱える。わたしにははっけんしだいとらえろとかせいしとわずとかいうめいれいまでくだってる家出ってなに、と呻くレディの肩に、エノーラがぽんと手を置いた。
「無断家出の傷心旅行よね」
「ええぇえ……え? 白雪と楽音は? そういう解釈なの? 花舞じゃないのに頭に花咲いちゃった感じ?」
「は? ストルがリトリアを振ったと聞いたんだが?」
それは旅にも出るよねええええ、という同情でものすごいのが花舞の魔術師一同の意見であり、解釈であるらしい。謀反の意思あり、発見次第捕えよ、抵抗の際には生死問わず、という命令書は、もちろん、どこの国にもまわされたものである筈なのだが。あれ、という不可解な沈黙が、関係魔術師集合会議室を静まりかえらせる。沈黙を破ったのは、ひょいと会議室を覗き込んだラティだった。メーシャの様子が心配で、見に来ていたらしい。なにこれ、と沈み込んでいるのとはまた違う雰囲気を察知して眉を寄せるラティは、砂漠の王宮魔術師。無言のまま視線が交わされ、ラティ、とチェチェリアが微笑みながら問いかけた。
「今回のリトリアの出奔に関して、砂漠の見解は?」
「ツフィアがストルと浮気してリトリアちゃんが傷心旅行に出たんじゃないの? ツフィアどうしたの? なんで人生に惑ってるの? って感じ」
だんっ、とレディが机に両手をついて立ちあがった。涙目である。ものすごく泣きそうである。
「お願い、だから……!」
やや引き気味の魔術師の視線を受けながら、レディはくじけず、ちからいっぱい言い放った。
「報告書、読んで……! 読んでよおおおおお!」
「レディ。読んでも意味が分からなかったからこうなったんだ」
ふああ、と口の前に手をかざしてあくびをし、ロリエスは冷静な声で突っ込んだ。
「ストルがツフィアを好きでツフィアがストルを好き? リトリアがそう言った?」
「……うん」
「レディ」
説得力のある笑みを浮かべ、ロリエスは断言した。
「起き過ぎで疲れてたんだな? 寝よう」
「あっ、えっちょっとまってちょっとまって気がついちゃったんだけどこれもしかして! 私があんまり寝てなかったすぎて勘違いしてるんじゃないの説が生まれてる可能性っ……!」
「白雪だと、レディいいから寝ろよ派と、リトリアったらうっかりさん派に分かれてるよ」
王の命令書が下されてなお、情報が錯綜して混乱した揚句、よく分からないことに落ち着きかけている原因と理由はそんなところにあるらしい。ああああもおおおっ、と涙目で叫んで、レディは捨て台詞のように、良いわよ寝てやるわよ眠ればいいんでしょうこんちくしょうめがおやすみなさいっ、と走り去った。手を振って見送り、チェチェリアはやや罪悪感のある表情で、胸に手を押し当てた。
「可哀想になって来た……」
「でも、レディが殺害役で、執行の最有力候補である以上、多少強引にでも眠らせておかないと……」
「えっそういうのだったのあれ、えっ、えっ」
申し訳なさそうに顔を見合わせる女性陣に挟まれて、ウィッシュはオロオロと視線を彷徨わせる。それに、ふ、と笑って立ちあがって。ラティは帰ろうか、とウィッシュに向かって手を差し出した。
「『扉』まで送るよ」
「え、えぇえ……俺だけ事情知らされなかったのなんで……?」
「あなた嘘つけないじゃない」
きっぱりと言い切られて、ウィッシュはむくれて唇を尖らせながら、ラティの手をきゅっと握りしめ、立ちあがった。とてとて歩いて行きながら、ウィッシュはリトリアのことを思う。少女は砂漠の国へ向かっているのだ、と聞いた。現在、なんの不具合が起きているのか、全ての場所から『扉』が通じず、魔術的な移動ができず。指名手配をされている以上、通常の手段で国境を通るのは難しいことだろう。魔術で撹乱し、強引に突破することならば叶うだろうが、リトリアは予知魔術師。万能であるが故、魔力量が極端に少ない魔術師である。それでも、ラティよりはあるのだが。とてとて歩きながら、ウィッシュはソキを参考に、指折り数えて考えた。国境を無理に超え、その情報がどこにも行かないように封じつつ、制限となる百時間の前に解いては進みを繰り返しているとして。
「……枯渇して、行き倒れてないといいけど」
心配だなぁ、と息を吐くウィッシュに、緊張感はなく。魔術師の誰もに、それはなく。あえてそれを目の当たりにしないよう、努力して目を逸らして。降り積もる時間に、ただ祈りを重ねていた。
新入生がいないために、今年一年もその呼び名でひとくくりにされることが決まっている四人は、ナリアン以外暇を持て余している状態だった。それぞれの担当教員が謹慎状態であることを受け、寮の建物から外に出ることを禁止されてしまった為である。当然、授業に出ることもできなければ、図書館で読書にふけることも、気晴らしに散歩へ行くことも叶わない。見たことのない勢いで教本を見ながら帳面に答えを書き連ねていくナリアンを横目に、メーシャは机に肘をつき、手に顎を乗せて物憂げな息を吐き出した。
「ストル先生は大丈夫かな……」
「手紙来てるか確認しようか?」
「ううん。いいよ。ありがとう、ロゼア……ところで」
足元から向けられた問いに視線を引き寄せられるように、メーシャは伏せた眼差しを友のもとまで辿りつかせた。ソキと目が合う。眠たそうにふにゃふにゃしているのに思わず笑みを浮かべながら、メーシャは心からの疑問としてロゼアに問いかけた。
「なにしてるの? あっ腕立て伏せなのは見て分かるからそれ以外で教えて欲しいな」
「うん? 寮から出られないと運動不足になるから」
ロゼアの背中に重石代わりにぺったりくっつき、数をかぞえていたソキは半分夢の中だ。いーち、いーち、と先ほどからずっと加算されないでいた数字が、ようやく思い出したかのように、にぃ、と鳴き声のように積もり、ふあふあふあと欠伸が零れ落ちる。
「ゆらゆらするから眠くなっちゃうです……。ソキも腕立て伏せをすればいいです?」
「ソキはしなくていいよ。退屈?」
「ソキにはやれることがないのでした……」
しょんぼりとしてロゼアの背中に頬をぺたっとくっつけるソキは、メーシャの目から見ても、なんだかとてもしょげている。思わず手を伸ばして乱れた前髪を整えてやりながら、メーシャはそれじゃあ、と拗ねきった碧の瞳に提案する。
「俺と一緒におしゃべりしない?」
「する、です。ロゼアちゃん? お背中からソキが降りるですけどぉ、腕立て伏せをがんばるです? アスル? ソキの代わりにロゼアちゃんの重し、できるです……?」
むぎゅっと抱きつぶしていたあひるっぽいぬいぐるみ、アスルのつぶらな瞳と見つめあい、ソキはこくりと頷いた。なんらかの会話と交渉は成立しているらしい。よじよじよじ、とロゼアの背中から降りたソキは、代わりにアスルをぽんと置き、がんばるがんばーるロゼアちゃーん、偉いですすごいですかっこいいー、ですぅー、とほわほわ歌いながら、メーシャの傍らにちょこんと座り込む。にこにこと笑いあいながら、メーシャはロゼアの背中にちょんと鎮座しているソキのアスルを一瞥した。黄色くてまるっこくてふわふわしている。
「ねえ、ソキ。アスルってあひるなの? それとも、ひよこ?」
「アスルねえ、ロゼアちゃんとメグちゃんが、ソキにくれたんですよ」
「……ソキ、知らないんでしょう」
にこーっと笑ってふにゃんふにゃん、と言いながら体を左右にふりふりするソキは、全力でごまかす気であるらしい。一応、砂漠に住んでるいきものなんですよ、と教えてはくれたので、特殊な固有種であるのかも知れなかった。図書館に行って図鑑でも眺めようかと思いかけ、メーシャはふうと息を吐く。寮から出てはいけない、というのは、殊のほか自由がなく、やることもない。
「俺も課題を頂けるように、ストル先生に手紙を書こうかな……。宿題のお願いなら、届けてくれるよね、きっと」
「届けてくれないお手紙もあるの? ……いじめ?」
「いじめじゃないよ。検閲があるって聞いたから、宿題の催促なら問題がないかなってこと」
言い方が悪かったね、ごめんね、と囁くメーシャの隣で、ゆっくりとした動きでナリアンが机に伏せる。そのまま、メーシャが見つめても、ソキが身を乗り出して指先でつんつん突いても、ナリアンはぴくりとも動かない。百五十六、百五十七、と腕立て伏せを黙々と続けるロゼアの声が隙間を縫って行った。やがて、のろのろと顔をあげたナリアンが、ぜつぼうてきな目でメーシャに視線を重ねてくる。
『だめだよメーシャくん……課題なんて催促したらしんじゃうよ……。俺の二の舞にはならないでというか俺の屍を超えては行かないで……!』
「うん、うん。ナリアン、お茶飲もう? 休憩しようよ、ね。ロゼアも、一回休憩しない?」
『お茶……? 休憩……? それ、なんだっけ……』
ふふふ、とうつろに笑ってまたぱったりと伏せるナリアンは、ちょっと目を離していた隙に限界の向こう側へ旅立っていたらしい。ごめんねナリアン俺がしっかりしていなかったばっかりに、と立ち上がったメーシャが、数枚の白紙をバインダーに挟み、万年筆を取って気合を入れる。
「ナリアン、大丈夫。協力するよ! 課題の消化計画を考えるからね……! そんなにがんばりすぎちゃ駄目だよ……!」
「あれ。ソキだけやることがなくなちゃたです……」
「ソキは休憩の準備をしてくれる? お茶を入れて、お菓子を食べて。皆をゆっくりさせる時間を作る。ソキにしかできない役目だよ」
言われるなりぱっと顔を嬉しげに赤らめ、ソキはひとりでできるもんっ、とばかり立ち上がった姿を、メーシャは頼もしげに頷いて見守った。
自炊室と談話室をちょこちょこ往復するだけでも、ソキには十分な運動である。ロゼアが用意したならものの五分で終わる所を、四十分かけてあれやこれや運び込み。お茶をカップに注ぎ終え、ソキは心行くまで自慢げに、ソファの上にふんぞりかえった。
「でーきまーしたー! ロゼアちゃん? メーシャくん? ナリアンくん? お茶の時間ですよ、休憩をしなくてはいけないです」
「おっ、良いところに通りすがった」
「寮長はお帰りくださいです」
息を吸うように自然な動きで着席した寮長を、ソキはぐいぐいと両手で押しやったが、びくともしない。それどころか、甘くていいにおいのする紙袋を目の前に差し出されて、ソキは大変不本意ながらも目をきらめかせ、そわそわそわそわもじもじした。
「欲しいか……? 欲しいだろう。なら言うことは分かってるな?」
「う、うぅ……中身、中身はなんですか……?」
寮長になんてちょうだいちょうだいをしないです、でもでも、でも、と紙袋をじーっと見つめて葛藤するソキに、シルは勝ち誇った笑みで言い放つ。
「リーフパイ。白雪城下の一番人気の店のヤツ」
「寮長は特別に、とくべつに! ですよ? お茶に参加してもいいことにします」
よーしよしよしと満足げに頷いてソキの両手の上に紙袋を置き、寮長は続いてロゼアにも紙袋を差し出した。ソキに渡した見かけからして軽そうな三角包みの袋とは違う、上製本が何冊も覗く、運搬用のそれである。不思議そうにしながらも、ありがとうございます、と告げるロゼアに、シルは至極残念そうにお前礼儀だけは正しいのになと息を吐き、首を振った。
「まあ、いい。ロゼア、お前はそれな。読んだら同封の課題を解いて提出しろよ」
「寮長。チェチェリア先生と?」
「会った。元気だ。心配すんな」
多少目が死んでたが関係者は今現在皆そんな感じだから触れてやるな、といまひとつ大丈夫だとは思えない言葉を添えた寮長に苦笑いをして、ロゼアは改めて、ありがとうございますと告げて課題一式を受け取った。次、メーシャ、と言いながら、寮長の手が空に魔術式を書き入れる。なにもないように見える場所から、ロゼアに渡したものとよく似た課題教本一式と、真っ白な封筒をひとつ、取り出して渡す。
「お前にだ。会いに行けなくてすまない、課題を済ませて置くように、とのことだ。……不安がらせてすまない。落ち着いたら話をしに行くから、とも」
「……ストル先生は、どう過ごされてるんですか?」
「三食オヤツ付で昼寝付で監視付。悪いようにはされてない」
だいたいのことは書かれてるだろうから、読んでやれ、と示された封筒を裏返すと、検閲済みの赤い印が押されている。ごめんねごめんね読んでごめんね、と走り書きの一文も、ぺたりと張られた薄青の付箋の上に。それ星降の陛下の直筆だぞ、ありがたがれよ、とごりおされて、メーシャはふわりと微笑んだ。仕方がない保護者たちである。
「さて、ナリアン?」
「え? なんで話しかけてくるんですか?」
「そこからかよ。この反抗期が……!」
さくさくさくっさくさくさくっ、と人参を与えられた子兎の動きで、一心にリーフパイを食べているソキから視線を外さないまま、ナリアンはきっぱりと言い切った。
「俺に用事はない筈です」
「残念だったな、ナリアン」
す、と寮長の指先が魔法式を描く。取り出されたのは分厚い教本の数々。
「俺の女神が!」
どさっ。
「お前に!」
どさどさばさっ。
「もっと輝けと……囁いている!」
ばささささっ。
「ということで追加分だぞ、ナリアン。喜べ」
ちなみに、提出期限は延びないとのことである。山と詰まれた新教本と回答集を眺めて、ナリアンは厳かに頷いた。
「不在の間の課題をくださいってロリエス先生にお願いした俺はどうかしてた」
「女神の愛の鞭だぞ? 喜べよ」
「あっ、ソキの問題集もあるです。きゃぁあん!」
山が崩れた一角の整理整頓をしていたソキが、付箋がぺたりと張られた小冊子を引っ張り出し、目を輝かせる。ウィッシュがロリエスに依頼して、整えてもらったものであるらしい。製作者、ウィッシュ。難易度調整、ロリエス、と書かれている。お勉強ができるです、嬉しいことです、と満面の笑みで、ソキはちょんっとナリアンの隣に座りなおした。
「ナリアンくん。ソキと一緒にお勉強しましょう?」
「うん分かった! 俺、この課題を倒してみせる……!」
「でも、今はお茶をしてお休みしましょうね。りーふぱいをあげます」
えい、と口の中にパイを突っ込まれて、ナリアンは和んだ気持ちでそれを咀嚼した。ソキのものをいくつか差し引いても、まだ十分に山の形を失わない新たな課題のことは、ひととき忘れることにした。
正直に言おう。
「はぁいあなたの私の正義の味方! エノーラちゃんですよー! ツフィアひさしぶり顔色良いね元気してた? 今日のパンツ何色?」
慎ましやかに扉を叩かれたので完全に油断していた。
「あっ胸揉んでいい? いいよね? えい!」
「ちょっとその質問でなんでスカートをめくろうとするのよ……!」
「ロマンがいっぱい詰まってるかなって! ねえねえツフィア、ガーターつけようよガーター。黒のレースのヤツ。絶対似合うよぉガーター! ガーターに挟む仕込みナイフとかも作ってあげるから! いいでしょっ?」
良い訳がない。むしろなぜ可能であるという希望を持って話を推し進めようとするのか。久しぶりの同期との再会にしんみりする余裕をかなぐり捨て、ツフィアはきっと眦を鋭くし、きっぱりとした口調で言い放った。
「スカートから手を離して、エノーラ」
「今日のパンツ何色?」
「なにがあなたをそこまで駆り立てるというの……!」
なにって、と言わんばかりのきょとんとした顔で首を傾げたので、ツフィアはくらくら眩暈を感じながら、エノーラの手の甲を平手で叩き払った。エノーラはツフィアにぺしってされちゃった、と頬を染め、えへへうふふと恥らいながら手の甲をさすさすと撫でている。
「うん。元気だね。安心した」
「普通に確認なさいよ……」
「え? 普通に確認したでしょう?」
とめどなくまっすぐな瞳で不思議がられたので、ツフィアはふっと笑みを深め、白雪の女王の安息を全力で心の底から祈った。はぁ、と息を吐き出し、座っていた椅子に逆戻りする。背もたれの気持ち良い、体全体を包み込むような座り心地の上質な椅子は、一室に捕らえた囚人に与えるものとは思えなかった。
「なんの用事なのかしら……?」
「気が滅入ってないか気になって顔を見に来たのと、ちょっと噂の真偽を確認したくて」
「噂……?」
それはつまり、ほぼ用事がないというのと同じ意味合いではないのだろうか。白んだ視線を向けられても怯まず、というか嬉しそうに緩んだ笑みを浮かべながら、エノーラはゆっくりとした口調で言った。
「ツフィア。ストルと浮気してリトリアちゃんを振ったって本当?」
「誰よそんなことを言ったのは殺すわ」
「あっどうしよう目が本気だ落ち着いて欲しいなっ!」
恐らくは脳が言葉を認識するより早く吐き出された言葉に、エノーラは笑いながら、だよねぇ、と頷く。ツフィアは不愉快そうに眉間に指先を押し当て、失言だったわ、とすぐさま言葉を訂正した。
「それくらいの気持ちで事に当たるわ。誰から聞いたの教えてくれるわよね、エノーラ」
「え、えー……? 皆」
「みんな……」
私が知らない間に王宮魔術師がどうかしている、という顔で呻くツフィアに、エノーラは肩を震わせて笑った。
「大丈夫よ、ツフィア。同期として断言しますが、ツフィアに限ってそれはないですって、ちゃんと陛下に申し上げておいたから!」
「同期としてそんなことで陛下に進言してあなた大丈夫なのと心配になるわ……」
「えへ。ツフィアに心配されちゃった……!」
頬を染めて身をくねらせて喜ぶエノーラを見ていると、ツフィアの胃がきりきりと痛んで、心配するだけ損、という言葉の存在を叩きつけてくる。おかげで、ツフィアは喉元まで出ていた、会いに来て大丈夫なの、という問いを発することができなかった。深い溜息に全て変わって、消えていく。ツフィアの身は、リトリアの失踪が確定したと同時、速やかに拘束された。本人の発言を無視して考えるならば、ツフィアとストルはリトリアが会いに行く最有力の人物だからである。身の回りの必要なものをまとめる時間を与えられたのち、ツフィアの身はほぼ無期限で星降の王城、その一室へ迎え入れられた。
三食オヤツ付昼寝付監視付、時々質問を繰り返される日々。リトリアはなぜいなくなったのか。どこへ行ったのか心当たりがないか。最後に会った時に、なにを言っていたのか。そのいくつかにツフィアは従順に答え、あとは分からない、心当たりがない、とそれだけを繰り返した。どこにいるのか。なにをしているのか。なにを、考えているのか。ツフィアが教えて欲しいくらいだ。リトリアはいつしか、なにかを告げるよりはやく泣いて、ごめんなさいと繰り返すばかりになっていた。交わされた言葉は、意外なまでに少ない。あまく名を呼ばれた日々が、遠い。
「……そういえば、エノーラ?」
「んー? え、なに? 気晴らしに私とデートしたい? いいよ?」
「あなたどこの次元からなんの会話を受信しているの……。違うわよ、そうじゃなくて」
会話をしようとするたびに、それを後悔させてくれる相手というのはしみじみ稀なものである。精神の安定を保つ為に一定の距離を取りながら、ツフィアは己の喉に手をあて、そこになにもないことを確かめた。王城に立ち入る時、ツフィアは視覚や発声を封じられるのが常であるというのに。軟禁状態にされてなお、その身に封じるものがない。理由を知っている筈でしょう、と問いかけたのは、他ならぬエノーラが封印具の制作者だからだ。エノーラは聞き分けのないこどもを見つめる顔つきで沈黙したのち、あのね良く考えて、と言った。
「今回、ツフィアがときめき軟禁生活になっちゃったのは、リトリアちゃんが家出したからでしょう?」
「もうどこから突っ込んだらいいのか分からないから後にするわ……。ええ、それで?」
「それで、もしも万一、万が一、ツフィアに会いに来た時に、ツフィアがそんな状態にされていなさいよ……。というかツフィア? リトリアちゃんが本人の意思に反してそういう状態にされてたとしたらどう思う?」
ツフィアは、触れれば切れる刃物めいた笑みで返答とした。そういうことに決まってるじゃないと苦笑し、エノーラはツフィアの肩を叩く。
「大丈夫だよ、ツフィア」
リトリアちゃん、すぐ見つかるよ、とエノーラが告げる。その言葉を。受け入れることは難しかった。リトリアが姿を消して、すでに一週間が経過している。楽音にも、砂漠にも。広げられた魔力探査の網をすり抜けて、リトリアはどこかへ向かっている。
窓辺で日避けの布が風に揺れる。聞き慣れない音に、リトリアはゆっくり瞼を開いた。目も、喉もひどく渇いていて、全身に力が入らない。けほ、と咳き込むと、全身に影が降りた。やさしい薄闇。
「体を起こしましょう」
痛くしますから、今はまだ自分で体を動かそうとしないで。やんわりと言い聞かせる声に頷くよりはやく、リトリアの体は寝台の上、座るように起き上がらせられた。すぐに背にクッションがいくつも差し入れられ、体を支える助けとなる。ありがとう、と告げようとするくちびるに、なまぬるい水で満たされた杯が差し出された。
「飲めますか? ゆっくりと……焦らずに」
熱っぽいリトリアの頬に手が触れ、首筋に、額に、指先が移動していく。ふ、と呼吸を楽にしながら、リトリアは水をひとくち、飲み込んだ。塩っぽい、それでいて甘い水だった。混ぜ物をされているようだった。かすかにレモンと、ハッカの香りもする。いつの間にか飲み終えた杯は、速やかに手の中から回収された。ぼんやりするリトリアは、また寝台に横にさせられる。意思の定まらないまなざしで、リトリアは動きを助けてくれるひとを見つめる。男だった。短い金糸の髪と、うつくしい碧の瞳をした美丈夫。知らない。でもどこか、覚えのある面差し。
「……あなたはだれ?」
「今はゆっくり休みなさい。回復したら、お教えしましょう」
仕方がなさそうに、あまく笑う。その笑顔を焼き付けながら瞼を下ろす。眠りにつくリトリアに、男は静かに囁いた。おやすみなさい、良い夢を。さわさわ、空気がやさしく動く。誰かが、遠くから男の名を呼んだ。ラーヴェ。