熱が体から引き、だるさが消え、自力で体を起こせるようになるまで三日かかった。砂漠風邪、と呼ぶのだという。日差しの強さと湿気、朝夕の寒暖の差が旅人を惑わし、時に死へも誘うのだという。リトリアは寝起きのぽやぽやした頭で説明を聞き、目を擦ってふぁ、とあくびをした。ご迷惑をおかけしました、どうもありがとうございました、と言葉を告げようとして、視線を移動させ。リトリアは寝台の横に椅子を置き、そこへ座りながら穏やかな微笑を絶やさないでいてくれた男に、照れくさそうに笑いかけた。ところで、あの、ともじもじと指先を擦り合わせながら口を開いた。
「ラーヴェ、さん?」
「はい」
なんでしょう、と静かに囁く男は、どう多めに見積もっても三十の半ば頃に見えた。ソキにはわりと年上の兄がいると聞く。リトリアは頭の中で引き算の計算をして、ちょっと首を傾げたのち、改めて問いかけた。
「ソキちゃんのお父さんですよね……!」
げふがふずるごとがたんっ、と。室外から咳き込み、笑いをこらえ、むせ、壁になにかぶつけたり、物を落としたりする音が響いた。えっ、えっと扉の閉じられていない廊下の向こうへ視線をやり、狼狽するリトリアに、ラーヴェはしばらく返事をしなかった。見ると頭を抱えていた。え、えっと、えっと、とそろそろ顔を伺うリトリアに、ラーヴェはぎこちない動きで顔をあげて。
「……ソキさまのお知り合いでしょうか」
はい、とも。いいえ、とも。答えなかった。
てっきりリトリアは、行き倒れていた所をソキの父親に助けられ、介抱してもらっていた、と思ったのだが。違うらしい。違う、となぜかハッキリ口に出されることはなかったのだが、どうも違うということらしい。窓辺で揺れる日避けの布越し、ふわふわとした陽光を浴びながら、クッションの上で冷たい飲み物を口にして。リトリアはまだ腑に落ちない顔で、でもでも、とくちびるを尖らせて首を傾げた。
「じゃあ、ラーヴェさんは、ソキちゃんの……?」
「ソキさまの母親が、私の『花嫁』でした。『傍付き』については、ご存知でしょう?」
ロゼアで、と暗に示されて、リトリアはこくりと頷いた。頷いたのだが。
「えっ、でもソキちゃんのお父さんじゃないんですか?」
「ソキさまのお父上は『お屋敷』の前御当主様です」
「なんで?」
なんで、とは、という顔をしてラーヴェがついに天を仰いだ。高熱が続いていたからか、魔力が底をついてから回復しきっていないからなのか、いまひとつ動きの悪い頭を持て余しながら、リトリアはふあふあと欠伸をする。目を擦って、だって、と繰り返すのは駄々っ子の声だった。
「笑った顔がソキちゃんに似ていますし……」
「ソキさまが幼い頃から傍におりました。それで、似たのでしょう」
「髪が……目の色が、ソキちゃんと一緒ですし……。とっても、すっごく、似てるって言われたり、したでしょう……?」
ねむい、と目を擦る動きを慣れた仕草でやめさせて、男はリトリアの肩まで薄布を引き上げた。座っていた大きなクッションに体を預けるようにさせ、ぽん、ぽん、と肩を叩いてくる。
「さあ、まだ眠らなければ。万全ではないのですから」
「……ふぁ、ぅ……あれ、そういえば、ここ、どこですか……?」
「楽音との国境近くのオアシスのひとつ。中継都市です。起きて動けるようになりましたら、ご案内致しましょう」
その言葉の響きは、ロゼアがぐずるソキを寝かしつける時の、うん夕方くらいに起きられたらその時にしような、というのに酷似していたのだが。リトリアが気がつくことはなく。やがて、すぅ、と穏やかな寝息が、あかるい部屋の中に響いて行った。
白い花がひとひら、風に運ばれ過ぎ去っていく。玉葱の色をした道はざらざらとしていて、岩を削って都市の地盤とし、そこへ家を組んで行った印象を受けた。道に馬車の轍の跡はなく、馬の蹄よりも大きな足跡が、てんてんと付いては風に吹き消され、あるいは人々の足に踏み慣らされていく。主な交通手段は駱駝であり、馬を伴った旅人がこの都市を訪れることさえ、珍しいのだという。窓辺から眼下に広がる都市の説明を受け、リトリアは己の記憶を探って、息を吐いた。記憶している砂漠の国内図が正しければ、予定していた旅路から、だいぶ外れてしまっている。体調が回復してきたからか、思考はもう正常に動いていて、妙な落ち着きのなさに惑わされることもなかった。魔力も回復していたから、近くに魔術師がいないことを探るのも、簡単に行えた。
結果として微熱を出して動けなくなったリトリアに、ラーヴェは穏やかに微笑んで、数日間の療養を提案してきた。提案というか、決定通知のようなものだった。リトリアが熱でぽやぽやしながら動かない頭で、うんそうですね、と疑問系で告げた時には根回しが終わっていて、なぜか魔術を使用しないことと部屋からひとりで出歩かないことが決められていた。これソキちゃんがロゼアくんにやられてるやつなんじゃ、とはっと気がついた時にはすでに遅く。かと言って拾ってくれた恩人に強く出られないまま、リトリアはラーヴェの横顔を恨めしげにじぃ、と見る。
その面差しはやはり、ソキにとてもよく似ていた。
「……なにか?」
「私、ほんとうに、一刻も早く王都に行かないといけないんです……! 追っ手もかかってるんです指名手配なんです……!」
「それは困りましたね。どんなに悪いことを?」
あああ絶対に信じてくださっていないでしょう、とふくれるリトリアに、向けられるラーヴェの視線は穏やかだった。いたずらぁー、をしたんですよ、とふんぞりかえるソキを見守るロゼアと、とてもよく似た雰囲気だった。じわっと涙ぐむリトリアに、ひんやりとした口当たりの不思議な飲み物を手渡しながら、ラーヴェは肩を震わせて笑う。
「頭が痛くなりますよ。それに、近くには誰もいらっしゃらないのでしょう?」
「……そうなんですけど」
「魔術師がこの都市を訪れることは極めて稀です。巡回の方が年に一度、訪れますが、それも先月に発たれたばかり。安心してお休みなさい」
砂漠は、魔力的な綻びの多い国だ。大戦争の始まる前、この世界が砕けて残った欠片として成す前から、上手く機能しない所の多い国であったと、残された文献にはつづられている。そしてそれは、世界が狭くなった以後も続いているのだ。砂漠出身の魔術師は、強大な属性を持つことや、魔力量が潤滑であることが多い。太陽の属性を持つロゼアや、魔法使いたるレディが良い例だろう。砂の地で生まれ育った魔術師は、その身に魔力を多く注ぎ込まれて作られる、と言われている。それは俗説で、実証されたことではないのだけれど。確かにリトリアの周囲の砂漠を故郷とする魔術師たちは、魔力そのものに近しい、と思わせる者が多かった。
巡回、とは砂漠特有の、魔術師の役職である。その名の通り、国内の各都市を巡り、魔術的な安定を施しながら、各地を祝福して回るのがその定めだ。今代の巡回を勤めているのは、砂漠の魔術師筆頭である。おかげで取り纏め役であるにも関わらず、他国の魔術師の前には数年姿を現していない。砂漠の魔術師の中でも、非実在筆頭説が囁かれる程だ。王の御前にすら滅多に戻れない筆頭が、一月前に過ぎたのであれば、確かに当分は安全なのかも知れない。ただし砂漠にはフィオーレがいる。魔力の上限を持たない祝福の子。魔法使いが。
「……安心できないことが?」
くちびるを噛んでうつむくリトリアに、かけられる声はあくまで優しいものだった。信じられないことを、すこしも不愉快に思ったりはしないのだと。誠実に、そう、伝えてくれる声だった。指先の震えを、陶杯を持つ手に力を込めることでごまかして。リトリアは頷き、息を吸って顔をあげた。
「急がないと、いけないことなんです。今、こうしている間にも……危なくなっているのかも、知れないんです。私が、じゃなくて」
思い描く。笑っていてくれる。生きていてくれる、その未来を思い描く。その為にならなんだってしよう、と決意して。そのたび磨り潰され、壊され、砕け散ってしまった未来を思い描く。砂漠の熱が。意識を揺らめかせる体調の悪さが。途絶え繰り返され消されてしまった筈の記憶を、手元までひと時、引き寄せた。失った己の過去より、強く。失わないでいたいと思った、記憶たち。ぎゅっと指先に力を込めて握って、リトリアは息を吸い込んだ。
「ソキちゃんが……ロゼアくんが、狙われていて。私はそれを助けるために、どうしても一人で……誰にも見つからないように、砂漠の王宮まで、行かなければいけないんです。会わなきゃいけないひとがいるんです」
「……ソキさまが?」
「ソキちゃんを誘拐した犯人は、生きています」
言葉にして吐き出し、リトリアは一度目を閉じた。感情が高ぶったせいで、内側で魔力が波打っているのを感じる。零れないように押さえつければ、回復しきっていない体に、すぐ嫌な熱が宿るのが分かった。よわい心では、リトリアの魔力を制御しきれない。それを、殆ど初めて、自覚的に痛感する。強くなりたい、と思った。強くならなければ。己の意思ひとつ紡ぎきれない。
「誰に、しあわせになってほしいのか」
涙が零れ落ちる。熱に揺れる瞳で、言葉と共にほとほとと落ちていく。
「誰のことなら助けられて、誰を、助けられないのか……はやく決めなきゃいけないのに、わたし。わたしは、わたしの……」
「……一度、眠りなさい。あなたは、今なにより、己を労わるべきだ」
「わたしが、最初に、なにを望んでいたのかさえ……思い出せないんです」
揺れる意識を、保っていられない。熱っぽく汗ばんだ頬を撫でられ、頭を胸に抱き寄せられる。背を撫でるてのひらに、リトリアは掠れる記憶に縋るよう、強く目を閉じた。一度もそんな風にされたことはない、と思う。一度もそんなこと、してもらった記憶など、ないように思う。その辛さで胸が張り裂けることをこそ、防ぐように。立ち上った白の魔力がリトリアの記憶を塗りつぶし、いくつもの感情ごと、意識を夢へ連れ去っていく。ぎゅ、と無意識にラーヴェに抱きついて。リトリアは涙を零しながら、男の胸に顔をくっつけた。
「……おとうさん」
魔法使いの白い魔力は。刻まれた呪いこそを、覆い隠している。
解せぬ、という顔でフィオーレが正座させられているのは、床である。薄い絨毯すら敷かれていない。直に、磨かれた石床の上である。ひんやりしていて冷たくて硬くて切なくてしんどい。もぞりと身動きをする白魔法使いを、さほど広くない部屋で、ぐるりと取り囲んでいたのは同僚の魔術師たちだった。隣室は王の執務室である。書類を運んで来た文官がぎょっとした顔でそれを見ては、なんの儀式の最中なのですか、と王に問いかける声が流れてくる。砂漠の王はものすごく面倒くさく、かつ適当そうな声で、あああれな、尋問中、と答えていた。
「加減できなくなると困るから、俺の目の届くとこで苛め……もとい、尋問しろよって言ったらああなった。俺の仮眠室を占拠していいとは言わなかった筈なんだがな……」
「陛下。御労しい……!」
「おいたわしくない上に陛下いまいじめって言った! いじめってー! いじめだめぜったいよくないうわぁあああちょっやめっ!」
痺れている足を的確に爪先で突かれ、フィオーレは正座を崩せないままじたじたと身悶えたのち、涙目でその場に突っ伏した。立ち上がれないようにしっかり呪われているので、突っ伏すくらいしか動けないのである。やーい、といじめそのものの声で囃し立てたのち、しゃがみこんだラティが指先でつむじをぐりぐりと押してくる。痛い。
「で? フィオーレ? リトリアちゃん、今どこにいるの?」
「だからぁ知らないって言ってるだろ……! 俺にだってわかんないのぉーっ!」
「リトリアちゃんに魔力であれこれしておいて! わかんないなんてことがありますか!」
リトリアに幼少期の記憶、正確に表すなら『学園』入学までの記憶がないのは、式を終えた直後に魔力が暴走したからであり。その際、フィオーレがなんやかんや小細工を施したからである、というのは、当時『学園』に在籍していた者が知る、純粋なる事実である。本人が自白したからだ。リトリアの魔力が暴走したのは過去のとある記憶に起因するものであり。それを収める為には、思い出さないように消すしかなかったのだという。
「もう半月にもなるのに……!」
忽然と姿を消し、のち、痕跡すら見つけることができないでいる。楽音の国内にすらそれはなく、向かっているとされる砂漠も、念の為に確認している花舞も、星降にも。魔力の残り香ひとつ、見つけることはできないでいる。予知魔術を駆使した本気の隠蔽の結果が、そこにはあった。大戦争の兵器。切り札のひとつとされた、その意味を知る。ぞっとする魔術師たちに囲まれながら、フィオーレはなぜかやや自慢げに、そうだよなー、と頷いた。
「リトリアすごいよね。俺もうちょっとはやくつかまると思ってた」
「関心してる場合じゃないでしょう……? 本人の意思の元での逃亡か、不慮の事故の可能性もあるんだから、探さないと……。で? どこにいるの? なんで分からないの? 砂に埋められるの、好き?」
「待って待って最後のひとつには答えたくないぎゃああああ陛下ー! 陛下たすけてへいかへいかー! 埋められるー!」
王はあからさまな舌打ちで、魔法使いの救援に返事をした。俺今仕事してんだよ邪魔すんな、とありありと分かる横顔だった。この上なくめんどくさそうに視線をよこされ、首が傾げられる。
「埋まれば場所の見当付くくらいにはなるんじゃねーの?」
「ちょっと陛下あああああ! 陛下まであれっ? もしかして俺がサボってリトリアを見逃してるとか思ってる派っ? 城のひとたちがドン引きするくらいの勢いで泣くよっ? アイシェ様とハーディラ様に言いつけるよっ?」
「は? お前なんで俺のハレムの女との連絡手段持ってんの?」
あっやべっ、という笑顔で沈黙するフィオーレに、砂漠の王は慈愛溢れる微笑でもって告げた。
「埋まれ」
「ちちちちちがうから陛下誤解だから! 俺は昔からハーディラ様とは文通友達っていうだけでー! それでそっからちょっとお願いしたっていうか!」
「それは知ってるけどアイシェと手紙交わしていいだなんて許可した覚えはねぇよ!」
言っていて我慢ができなくなったらしい。ちょっと持ってろ、と文官に目を通していた書類を押し付けたのち、王は大またで仮眠室へやってきた。なぜかニヤニヤしている魔術師たちにお前らその顔なんなんだよと苛ついたのち、見もせずフィオーレを踏みにじる。
「お前さー、ほんとうになんていうかさー、埋まれ? な?」
「いだだだだっ、いった! 陛下ごめん! ごめんって! 浮気じゃないよ違うんだよソキがね? ないしょでアイシェちゃんにお手紙したいですっていうから、どうする? っていうお問い合わせをねっ?」
「疑ってねぇよ! 俺を通さず無断ですんなって言ってんだよ!」
そういう時はソキが内緒にしたがっているのを踏まえて俺に報告しろよ、と頭が痛い声で呻く王に、フィオーレはてへっ、とさほど反省のない声でウインクをしてのけた。こいつ埋まりたいんだな、という引いた魔術師たちの視線が、魔法使いに向けられる。苛々しきった王の目が、魔法使いを睨んだ。
「……で、なんの手紙だったんだよ」
あっ聞いちゃうんだ気になっちゃうんだっ、とにやにやする王の魔術師一同。彼らの主君は現在、あまり認めたがっていないが、甘酸っぱい初恋真っ最中である。発覚した時、砂漠の城にはおたけびが轟きまくった。宴会がものすごい勢いで開かれ続けた。魔術師のみならず、武官、文官、女官、城づとめの絵師や通いの者たちにまで話は広がり、ものすごい勢いで祝われ続けた。王の恋愛嫌いはある筋で有名な話である。ハレムの女たちもそれを熟知している、からこそ。いまひとつ進展していない、というのが、最近の砂漠王宮におけるお世継ぎ問題解消案件の報告である。
フィオーレは周囲の魔術師たちと同じく、ひたすら、やだーっもう陛下ったらーっ、と言わんばかりのにやついた顔で、あのね、とあっさりそれを白状する。
「めろめろにするゆーわくのしかたを教えてください、みたいな感じ」
「アイツ学園でなにしてんだ」
「あっもちろん陛下じゃないです! ロゼアちゃんです! 陛下はいらないです。陛下ったらぁ、アイシェちゃんにめろめろなんでぇ、ソキもロゼアちゃんめろめろにするです! って書いてあった。よかったね陛下」
コイツ、ソキの声真似してもこれっぽっちも可愛くねぇな、という視線を浴びながら、魔術師たちはフィオーレがなぜ王に無断で手紙を通したのかを、うっすらと察した。頭を抱えて沈黙する王に、だってさー、だってさー、とフィオーレが頬を染めながら供述する。
「今度お礼に、フィオーレさんの手をぎゅっとしてあげます、って言うから……!」
「おい誰かロゼア呼び出せロゼア。お前の『花嫁』ろくなことしねぇなって怒るから」
「ものすごい冷ややかな目で、ご自身の魔術師に対する教育を今一度見直したら如何でしょうか? っていうと思うんだけど、それでも呼ぶ? ……あっごめんなさい陛下ごめんなさいー!」
本人が指摘してくることじゃねぇんだよおおっ、という怒り心頭の王の声が、城の隅々にまで響き渡っていく。慣れたもので、至近距離にいた魔術師たちは防音術を展開して隣室の文官たちごと己の身を守り、廊下を行く者たちはさっと塞いでいた手を外して、特に驚くこともなく歩みを再開する。耳をきーんとさせて呻くのは、フィオーレひとりきりだけだった。
突然、あっと声をあげて、ソキはくちびるを尖らせてあたりをきょろりと見回した。
「たいへんなことです……! いま、ソキの、ないしょーのあくじが、だれかにばらされちゃたきがするです……! ゆゆしきことです……!」
「自分で悪事だって分かってるのがソキちゃんのいい所だよね……」
「ナリアンくん? しー。しー、ですよ。ロゼアちゃんにきこえちゃうです!」
普段より小声で早口なせいで、発音のほわふわ度がこの上なく増している。ちたぱた、あわあわ、ちたちた、あわあわとしたのち、ソキは両手でぱっと口を押さえ、そろりそろりと視線を移動させた。定位置になった談話室の一角、日当たりのいい隅に新入生たちはいた。ソキとナリアンは机に向かい、横に並んでせっせと課題を解いている最中である。ロゼアとメーシャは許可を取り、その近くの家具を移動させて平地を作り、今日は朝から柔軟に勤しんでいた。ソキはそんなロゼアをじぃっと眺め、胸を撫で下ろしてからほわりと笑う。
「安心です。聞こえてなかったです!」
「う、うん……?」
ナリアン、とソキが目を離したとたん、視線を重ねられた。にっこり笑ったロゼアの表情はどう考えてもソキの発言が聞こえていた者のそれであったが、こちらへ来て追求するつもりではないようだった。ただし、なにか分かったことがあったら教えて、という意思は感じる。ふんふんふん、と鼻歌をうたいながら脚をふらふらさせているソキに、ナリアンはそーっと、そーっと問いかけた。
「ソキちゃん? ないしょで悪いこと、したの?」
「ソキ、じつはぁ、ロゼアちゃんをめろめろにしちゃうんですううぅ!」
その為の作戦をあれこれ考えている最中らしい。いろんなひとにめろめろの方法を、ロゼアちゃんにはないしょで教えてくださいってお願いしているです、とふんすと鼻を鳴らして気合いっぱいに教えてくれたソキに、ナリアンはそっかぁ、と頷いた。
「誰かいい方法教えてくれた?」
「ぷ。それがぁ、めろめろには上限があるんだよ? って皆言うです」
これ以上はちょっと難しいんじゃないかな、という返事がやんわりと戻ってくるばかりであるという。皆分かっていないです、と頬をぷくぷく膨らませながら、ソキはいじいじと課題を指で突っついた。
「だってちゅうもしてもらえないです……めろめろが足りないということです」
「そ、うなんだ……?」
「でもでも、ぎゅう、が、ぎゅううーっ、になったですからぁ、きっともうちょっとに違いないです! あと、ひとおしー、というやつです! ……あっ! ねえねえねえねえナリアンくん? ねえねえ」
ソキの、ねえねえ、はろくでもないおねだりであることが多いのだが、ナリアンがそれに勝てたことなどない。一度もである。というか一度も勝とうと思ったこともない。腕にちょん、と両手の指先を乗せられ、きらきらした目で見上げられて、ナリアンは微笑みながら、なにかな、と頷いた。ソキは頬を染めてそわそわしながら、ナリアンくんはぁ、とはちみつみたいな声ではしゃいでいる。
「どんな時にニーアちゃんにちゅうしたくなるです? ソキにこっそり教えてください!」
「メーシャくんの方が参考になるんじゃないかな!」
「うん? ソキはアスルによくちゅっちゅってしてるけど、どんな時にしたくなるの?」
ナリアンの放った剛速球を難なく受け止め、ソキにぽん、と投げ返すのがメーシャの技術である。戻ってきたことに気がつくこともなく、ソキは目をぱちぱちさせてから首を傾げた。
「アスルがかわいー! 時ですとかぁ、ロゼアちゃんにいっぱいぎゅうされてた後です」
「……ロゼアもアスル、ぎゅってするの?」
「ソキがお呼び出しとかされる時にアスルに代理を頼むです。ロゼアちゃんのぎゅうはソキのですから、ソキがいない間はアスルが代理でぎゅうなんです」
浮気防止というやつです、と真剣に言うソキに、ナリアンとメーシャは視線を交わして頷きあった。ロゼアさびしがりやだもんね。ね、ソキがいなくてぎゅっとするものが欲しかったんだよね。ね。ふふ、と微笑ましく和む二人に、ロゼアは黙々と腹筋をしていた。担当教員が謹慎になって、かれこれ二週間。当初は一週間である予定のそれが無期限で延長となったことを受け、ソキいわく、まきこまれじこきんしん、となった新入生たちは、未だに寮からの外出を許可されていない状態だった。例外として、図書館と限られたいくつかの座学にだけ出席を許されたが、その行き来だけでは当然運動不足となる。
黙々と体を鍛えるロゼアをじいいぃっと眺め、ほぅ、と息を吐き出したソキは、今日もかっこいいですー、とやんやんしたのち、与えられた課題に向き直った。
「ソキもお勉強を頑張るです……! ……そういえばナリアンくんは、昨日終わったんじゃなかったです?」
「即日で次の課題を出してくださるとかロリエス先生は俺をどうしたいの……」
初回の課題を一週間で打ち倒し、次の課題をまた一週間で討ち取った後の、三回目である。じわっ、じわっと量が増えているのは気のせいとして逃避を図りたくなる事実だった。遠い目でぐったりしながらも真面目に取り組むナリアンに、ソキはうんしょと手を伸ばして、もふもふとその頭を撫でてやった。
「ロリ先生、ナリアンは私の後継にするって言ってたです」
「それ担当教員が決められることだっけ……?」
「希望は常日頃から口に出しておくと叶うって言ってたです。ロゼアちゃんがー! ソキにー! めろめろになりますようにですー! ……あっ、ちょっぴり間違えちゃったです。めろめろにー! するですううう!」
ソキには、計画を秘密にしておくならとりあえずせめて本人が近くにいる時にちからいっぱい叫んではいけない、という観点が圧倒的に足りない。ふふふ、と笑って、メーシャはロゼアに囁き書ける。
「ソキかわいいね、ロゼア?」
「うん」
しあわせそうに即答で頷くロゼアは、腹筋を終わりにしてひょい、と立ち上がる。服をつまんで鼻先に近づけてから、ロゼアはお風呂行くけど、とメーシャを誘った。
「一緒に行く?」
「行く。ナリアン! 俺たち汗流しに行ってくるね」
「行ってらっしゃい。お茶の準備しておくね」
茶会部に任せて、と告げるナリアンの隣で、ソキはあわあわしながら手で髪を整え、服の乱れを直してから、ロゼアに満面の笑みで告げた。
「ロゼアちゃん。いってらっしゃい」
「いってきます、ソキ。すぐに戻るよ」
付き合ってないとめろめろじゃないという言葉の定義と意味が分からなくなってきた、と魔術師のたまごたちは頭を抱えて沈黙した。
リトリアの説明はつたなく、分かりにくいものだっただろう。それも一息に話してしまえたのではなく、体調が良い時を見計らって途切れ途切れに、考えながらの言葉であったから、さらに理解するには難しかっただろうに。ラーヴェはこともなげにリトリアの、魔術師に関する機密を避けた説明を受け止め、少女がようやく一日を普通に起きだせるようになった頃に、こう言った。
「協力しましょう」
「えっと……?」
「ここから追っ手を避けて王都へ向かうとなると、あなた一人では難しい」
どのオアシスを中継していくにしても、少女の一人旅というのは、とても目立つ。魔術師のたまごが『学園』へ向かって旅をする期間はもう終わっており、不審がられずに移動するのは不可能なことだった。仕事や事情あって、単身で移動する者はもちろんあれど、リトリアは良くも悪くも人目につく雰囲気を持っている。『花嫁』とは別種の、意識を引きつける、なにか。それはなんとなく、助けになってあげなければいけない、と思わせるような。ラーヴェも、逗留する宿場の者たちも、皆一様にその印象を口にした。けれども男が助力を申し出たのは、もっと違う理由あってのことだ。
「ソキさまの為に。あなたは先を急がねばならない、という。それならば」
その為に。最も確実な手段はこの手をとることです、と告げられて。リトリアは考え、迷った末に、差し出された手にそっと、指先を預けて力を込めた。
「よろしくお願いします」
「はい」
「……でも、ソキちゃんのおとうさんじゃないんですか?」
未だに納得できていない表情で問うリトリアに、ラーヴェはふっと笑みを深め。むぎゅりと頬を両側から押しつぶしながら、ソキさまのお父上は『お屋敷』の前御当主さまです、と言った。聞き分けのない幼子に繰り返し語り聞かせた、慣れた口調の言葉だった。