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とある夢にて

 これはなんの拷問なのかしらと遠い目をしたのち、ツフィアは視線を己の腹あたりへ落っことした。椅子に座っているツフィアの前に両膝をついて、背に腕をくるりとまわしてくっついて。飽きずにぐりぐりうりうりと頭を擦り付けていた少女から、幸せにとろけきった声が零れてくる。
「つふぃあぁ……!」
「……リトリア」
 いい加減になさい、だとか。いい加減に離れなさい、だとか。告げなければいけない言葉はたくさんあるのだけれど。名を呼ぶとぱっと持ち上がった顔が、ひたむきにツフィアに向けられる表情が、瞳が、視線が、あまりに幸福にとろけていたので。ひとりだちさせなければ、と頭痛のように決意させる思いを、言葉にしてしまう意思をくじけさせ。ツフィアは溜息をつきながら、抱きついてくるリトリアに腕をまわし、ぎゅっと力を込めて抱き寄せてやった。
「……きゃぁ!」
 うっとりとした呼吸をして、まばたきをして。抱きしめられた、ということを認識してから零れた声が、あまりに幸せそうで。喜んでいて。甘えていて。リトリアが。いつしか震え、怯えて、泣き出しそうな視線を向けるばかりで、告げる言葉すら、途切れ途切れで。触れることすら許されず。拒絶めいた立ち居振る舞いをしていた少女が。腕の中にぴったりと納まりきっている。喉を鳴らして落ち付く猫のように。甘えている。甘えられている。飲み干す毒に等しい、甘美な目眩に襲われる。胸の中で幾度も繰り返した言葉がある。強くなりなさい。ひとり立ちしなさい。甘えてはだめ。強く。心をつよく。けれど、それ以上に。
 甘えさせて、甘やかして。抱きしめて可愛がってしまいたいという欲望に、屈せられる。
「ツフィア……会いたかった。会いたかったの、ずっと、ずっと……!」
 摘みたての花の匂いがリトリアからたちのぼる。甘く瑞々しい、すきとおる香り。手折った花の。摘み取った花の。
「ツフィア」
 己のものだ、と。錯覚させる。
「ぎゅって、して。大丈夫。誰もいないから。誰にも、怒られたりしないから。ねえ……ねえ、ツフィア」
 夢だから。そう耳元で囁き誘惑してくる己の運命に、ツフィアは本物の目眩を感じながら息を吸い込んだ。
「リトリア、あなた。魔術を」
「白雪の女王陛下にお願いして、ちゃんと許可を取ったの。だから、心配しないで?」
 ふふ、と照れくさそうに。安心してね、と告げる表情は悪びれない。失踪してから砂漠で保護されるまでに、なにがあったというのか。ツフィアはリトリアの頬に手を伸ばして撫で、その質感に思わず微笑んだ。指先を滑らせると心地いい滑らかさは、きちんと手入れのされたものに他ならない。これは夢である。それでいて、現れる体は現実の写しそのものだ。もちろん、そうであるように、と強く思いこんで別のものを形作ることは不可能ではないのだけれど。大事にされているのだろう。白雪で。リトリアは頬にある手に目を潤ませて微笑し、瞳をとろりと蕩けさせた。
「ツフィアに、どうしても会いたかったの……」
「私に?」
「うん。星降で、閉じ込められてるって……ストルさんも、私のせいで。ふたりとも、監視がついて、疑われてるって聞いたから……」
 ごめんなさい、とリトリアは言った。ごめんなさい、すぐ、だからね。もうすぐ。もうすこし。もう、あとほんのすこし。白雪の陛下が、星降に行ってもいいって。二人に、会いに行ってもいいって。許可をくださったら。そうしたらすぐ会いに行って、私がいなくなったのは二人が悪いんじゃありませんって、ちゃんと言うから。言えるから。もうすこし、あとすこしだけ。待っていて。そこにいて。感情を、たどたどしくも、まっすぐに。告げて行くリトリアに、ツフィアは静かに笑みを深くした。
「リトリア。いなくなったのは、なぜなの?」
「……フィオーレと。シークさんに、どうしても用事があったの」
「あの男と付き合うのはやめなさいと言ったでしょう」
 ぴしゃりとたしなめるツフィアに、リトリアはだってぇ、と藤花色の瞳を涙でうるませた。頬をやわく膨らませてなにか言い返そうとしたのち、ぱち、と瞬きがされる。
「あ! でも、もうきっと大丈夫だと思うの……!」
「リトリア?」
「だから、あとは、ツフィアと……ストルさんだけなの……」
 そこでなぜ落ち込み気味になるのか。リトリアの気持ちはいつも言葉にされているようで、告げられず。不可解のままで終わってしまうことが多い。リトリア、と諦めず名を呼ぶツフィアに、少女はとろりとした笑みで応えた。花の甘い蜜のような。
「ツフィア。好き」
 好きなの、好き。すき、すき。ほんとうに、ほんとうに好きなの。囁きに応えるより早く、ツフィアの太ももの上にリトリアの指先が乗せられて。ぐっと伸びあがった体が、近く。ツフィアの頬にくちびるが触れて、離れて行く。ツフィア、と涙に潤む瞳に、青が滲んでいた。磨き上げられた瑠璃の色。見慣れぬ鉱石。
「……あなたが私の運命だと思った。ごめんね。もうすこし。もうすこしだけだから……」
「リトリア?」
「ストルさんにも。ちゃんと言わなきゃ……」
 別れの言葉のようだと、不意に思う。滲んだ涙を指先で拭って、じゃあね、と離れて行こうとするリトリアを捕まえて。その腕の変わらぬ細さに眉を寄せ、ツフィアはまっすぐリトリアの目を見て、きっぱりとした響きで言いきった。
「私もよ。私も、そう思っている。……あなたが好きよ、リトリア」
「……うん」
 しあわせそうに、笑って。リトリアは、あともうすこしだから、と言って。ツフィアの前から姿を消した。夢の終わり。朝の光の中、寝台の上で体を起こし、ツフィアはなにをするより早く書き物机に向かった。いくつかの言葉を連ね、インクが乾くのを待たぬ勢いで封をし、監視役の兵士に検閲を願い出る。言いたいことは山のようにあるが。それこそ一時間でも二時間でも言葉を絶やさず告げられる自信はあるが、面と向かって言いたいことばかりで、連ねたのはそれ以外のことだった。



 速達で届いた手紙を受け取り、リトリアは首を傾げたのち、顔を真っ赤にして封書を胸にかき抱く。白雪で与えられている部屋にかけ戻り、手紙を開いて、文面に目を落としたのち。リトリアは思い切り首を傾げ、いっそ不安げに、連なっていた言葉を口に出して、読んだ。
「……『ストルに言うのはやめておきなさい。目を覚ませなくなるから』……? ……ん、んっと……?」
 なんだろう、これ、と目を瞬かせ。リトリアはとりあえず、手紙をきゅっと胸に抱き寄せなおした。お返事をどうしようかな、と口元が緩む。どんな形であれ。言葉を届けてくれるようになったことを。言葉が、届くようになったことを。しあわせだと、思った。

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