恐ろしいほど、雲の流れが早い。空気は澄みきっていて、降り注ぐ光は粒子に煌めきを映し出しもしなかった。ただまっすぐに地に下りてくる光の帯は、それだけで音もなく神聖さを感じさせる。視線の先、遠くで、木の葉が風に揺れていた。溢れる光に照らし出された明るい部分とくらい箇所では、驚くほど印象が違っていて、同じものだとはとても思えない。白い壁に落ちた葉影が、ざわざわと揺れていた。綺麗だった。
「言い残すことはあるか」
ふ、と意識が肉体に戻ってくる。それまで体の、すこし離れた所に置いてあった意識が戻ってくる。視線を街並みや風景、空や木々の葉から地上に戻せば、人の身には決して宿らない宝石色の瞳が見えた。爛々と輝くグリーン・アイズ。森の神秘と神話を宿した、穢れなき純潔の翠。ぼんやりと見つめ返しながら唇を動かせば、耳に響くのは乾いた声だった。口の中は水気もなく乾いていたから、声を出せたのが奇跡だ。
「言わないでください」
「処刑の情景を? それともお前が最後に叫ぶであろう言葉を?」
ざわざわ、空気が揺れている。葉が擦れる音よりも近くで、人々の声が揺れている。悲しみよりも憎しみが強く、困惑よりも煩わしさが先にある。はやく。一刻も早く、存在の消滅を願う声なき声。ざわめき。人の、意思。それでもこんなに、愛おしい心。皮肉に歪んだ口元に、微笑みの影を送れば視線がゆらりと揺らめいた。苦しげな動き。くすくすと揺れる肩に、冷えた空気が触れて行く。
「わたしの、言葉を」
「……この世界を呪うか、聖女」
ああ、それならば、どれほど。ぱさぱさと音を立てて髪が頬にあたり、穏やかな意思で空気は染め上げられていく。吸い込んだ息は涙にかすれ、上手く相手に届かなかった。
「愛しています」
愛して、愛して苦しくていとおしいほどに。この世界を、人を、国を、愛している。どうすれば憎むことが、嫌うことが、厭うことが、呪うことができるのかも分からないくらいに。おかしいほど、気が狂うほど、全てをなにもかもを愛している。
「だから、私は喜んで死にましょう」
「……ジャンヌ・ダルク」
「この命ひとつ失った所で、この国はなにも損なわれない。……いつの日か、必ず蘇る」
嬉しい、嬉しい。そのことがどんなに嬉しいか。そのことが、どんなに、嬉しいか。涙さえ飲み込んでしまう歓喜。胸の中に下りてくるのは絶対なる静寂と祝福の意思。
「……うれしい」
祖国よ、よみがえれ。この暗く深い汚泥のような闇の底から、光に満ち溢れた天上のような未来へ。平和へ。戦いを終えて、蘇って行け。その為の道筋は作り終え、その為の希望は落とし終え、その為の命はここで途絶える。喜びはここから繋がっていく。嬉しくて、嬉しくて、嬉しくてならない。平和が来れば彼のひとは蘇るでしょう。この空の美しさを教えてくれた声は、やさしい歌をこどもたちに歌って聞かせるでしょう。
あの日髪を撫でてくれた指は、魔法のように美味しい料理を生み出すでしょう。もう剣は持たないでください。命令の為に張り上げる声など、無くていいのです。血に染まった手を洗う悲しい水はもういらない。すべてすべて、喜びと祝祭の世界の為に。
「……時間だ」
「はい」
「言い残すことは、あるか」
遠くで、遠くで。葉を揺らす強い風の間に、鐘の音が響いていた。
「……いいえ、なにも」