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 序 幼年期の終わり

 マリア、マリア。俺のマリア。俺だけの『聖なる(マリア)』

 さよならを言わず、さよならも言わず、さよならと言わずに。
 消えてしまった、銀の。



 聖堂の扉は油を差されていないのか、それとも歪んでしまったのかひどく軋んで重たく、少年の訪れを歓迎していないようだった。舌打ちをしながら体を滑り込ませれば、ひやりとした空気が汗のにじむ肌を包み込む。心地よくも、体の芯まで冷やしてしまうつめたさと静寂に、ハンガリーは深く焼けた土色の、短い髪をかきあげた。神の座す聖なる空間だからこそ、静寂は尊ばれるものだ。理解はしている。
 けれど受け入れがたいと思うのは、その静けさが優しくないからだった。出来るだけ音をたてないように開いた扉が、自らの重みに耐えきれず、ゆっくりと軋んだ音を立てて閉じる。あえかに響いていた泣き声が、ひゅ、と怯えた息の音に代わった。誰、と誰何に響きかける声を聞きたくなくて、ハンガリーは閉じていた口をそっと開く。
「俺」
「マ……マジャ、ル?」
 マジャル。『ハンガリー』より呼ばれ慣れ、聞き慣れている名に、少年の姿をした『少女』は目を和らげて微笑した。いつからかハンガリー、とその国の名で呼ばれていたことに違和感も不満もないのだけれど、やはりこの声にはマジャル、とそう呼んでもらいたい。キンと冷えた氷のような、輝かしく磨きあげられた銀のような。この世の神聖さをどこまでも透き通らせて高く、高く純化したようなこの声には。その名を。
 カツカツと足音を響かせて物言わぬ椅子を横にして歩んでいくと、ステンドグラスの七色の光の下、大きな十字架を前にして座りこむ者が居た。着古された服は薄汚れていて、泣きはらした顔は赤く涙で濡れていても、なによりも貴く、気高く見える。プロイセン、とそう呼び名を変えた少年を、男装の少女は愛おしく、柔らかな目で眺めた。
「マリア……一人で泣くな、って言ったろ?」
「うっ……な、泣いて、な」
「ふぅん? そう言うなら、まあ、いいけど」
 神様の前で嘘ついて困るのは、俺じゃなくてマリアだし、と。からかい交じりにいじめてやれば、青い瞳が悔しげに揺れる。天空の青。透き通った美しさと、なにものにも穢されない強さを持ち合わせた稀有な青。それだけが『マジャル』の知る『マリア』に、残された『変わらない』ものだった。マリア。祈るように化身に聖母の名を与えた修道会が、騎士団へと変化してしまっただけで、『名』と『色』は変化した。
 艶やかだった銀髪はすこしくすんだ、鈍い色合いになってしまった。それはそれで綺麗なのだけれど、少年にしてはやや長めの髪を短剣で無理に短くそぎ切ることを強要されて、それだけで面影は消えてしまった。人を守り慈しむ『修道会』から、人を守って戦う為の『騎士団』へ。その化身の心を置き去りにして変化していく民衆の想いは、誰より優しかったマリアの心を打ちのめし、傷だらけにしてしまった。
 戦え、戦え、と身の内から人の意思が叫ぶ。血にまみれて汚れていく手のひらに耐えきれず、戦いが終わるたび、マリアは人前から姿を消して聖堂で泣くのだ。それを知るのは、同じ国の化身として『マリア』であった頃を知る『ハンガリー』のみ。人々は幼い少年、『プロイセン』を気まぐれだと苦笑して、『マリア』の嘆きを知ろうとはしなかった。
「……ハンガリー」
 物思いにふけっていたのに加え、聞き慣れた声が呼ぶまだ馴染まぬ名前に、反応がわずかに遅れてしまう。はっと意識を取り戻す数秒の間に『マリア』の頼りない祈り、その残滓は消え去り、代わりに強き『プロイセン』の、凛と響くしなやかな気配が現れていた。泣きはらした目だけが、同一のもの。静かな、後悔に似た気持ちを抱きながら足を進め、ハンガリーはその赤い目元に静かに唇を押しあてた。
「ハンガリー」
 その行為を。慣れきった仕草を。咎めるには甘く、受け入れるには遠い響きで名が紡がれる。聞き慣れない、けれどそれが己の名だと認識するには重ねられた響きに、ハンガリーは苦笑した。
「なに」
 だからこそ、本当は呼びたくなくとも。望まれていたから、その名を優しく声に乗せた。
「なに、プロイセン」
「……お前、また、そんな格好して」
 今度はきちんと咎めるような声音で囁かれたのは、質のいいとはお世辞にも言えない衣服での男装のことだろう。無意識に思い込んでいた時期も、知ろうともせずに過ごしていた時間も、自らを頑なに男だと主張していた時期も過ぎ去っていたからこそ。幼馴染はそうして、『ハンガリー』の女性らしくない姿を咎めるのだった。二人が同じ姿で駆け抜けた日々はとうに終わっていて、今この時も、戻りはしない。
 かたく一本に結んでいた髪を、プロイセンの指先がいとも簡単にほどく。ばさ、と音を立てて肩に落ちてきたハンガリーの、深い土色の髪を指で梳くプロイセンは、視線を伏せたまま持ち上げない。見ないままで髪を撫でて整え、プロイセンは弱く笑った。
「そういう格好は、俺様に任せておけよ。戦いは、お前には……似合わないぜ、ハンガリー」
 それを否定してしまえるには、ハンガリーはあまりに『これから育っていくであろう、麗しい少女』の姿でありすぎたし、プロイセンは『これから育っていく、獰猛なる戦の使い手たる少年』の姿でありすぎた。今は、今だけは、どちらもごまかしがきくけれど。祈りと守護の『マリア』も、肩を並べて歩いた『マジャル』も終わってしまっていて。向い合せに立っているのは、かつては鏡のように近しくあった二人、ではなく。
 聖堂の静かな、神聖なる七色の光に照らされていたのは、ハンガリーとプロイセンだった。ハンガリーは吹き荒れてしまいそうな激情を押し込めながら、プロイセンに腕を伸ばして抱きしめる。苦しくても悲しくても、心が嫌だと叫んでも。花色に色付き始めた少女の唇が紡ぐのは、かつて『マジャル』のものだった『マリア』の名ではなく。別たれてしまった、プロイセンの名だった。

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