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 1 会議の前に

 ルートヴィヒの朝は早い。空が白み始める少し前に起きだし、一時間かけてランニングをする習慣があるからだ。それは軍属であった名残で体を鍛えているからというわけではなく、ただ健康の為にと始めさせられた習慣が、現代においても抜けていないだけなのだが。一時間も走れば、体にじっとりと汗をかいてしまう。そのまま朝食の席につくことは、しない。ルートヴィヒも嫌だし、なにより怒られるからだ。
 ふ、と肺から息を吐き出して玄関の扉に手をつき、ルートヴィヒは鍵の掛かっていないそこを無防備に開けはなった。セキュリティに不安が残るからやめてくれと何度言っても、『お兄ちゃんが家に居るのに、ルートに鍵を開けさせることは絶対しません』と真剣な顔で聞き入れないギルベルトの仕業だった。最近は説得もすっかり諦めてさせたいようにしているので、ランニングに鍵を持って出かけることがなくなった。
 息を整えながら鍵を閉めていると、音を聞きつけたのだろう。落ち着きのない足取りで出てきたギルベルトが、朝の日課から帰宅した弟を見つけ、どこか誇らしげな笑みで出迎える。
「おかえり、ルート」
 おお鍛えてんじゃん、と嬉しくて仕方がないように笑うギルベルトは、清潔そうなタオルを肩に乗せて髪を拭いていた。艶のない、どこか痛んだ風に見える銀の短い髪が、水滴を垂らして瑞々しい。ギルベルトもまた、朝に鍛錬をする習慣がある為、一足先にシャワーを浴びていたのだろう。やわらかなラベンダーの香りを漂わせながら近寄ってきたギルベルトを軽くハグしながら、ルートヴィヒは溜息をついた。
「兄さん。濡れる」
「なんだ、可愛くねーのー。昔は兄さんがおかえりって言ってやらないと奥の書斎に居ようと中庭で鍛錬してようと、すーぐそこまで走ってきて『兄さん、兄さんっ!』ってうるさかったくせによー」
「何年前の話だそれはっ!」
 体調を崩す前にきちんと頭を乾かしてほしい、と上手く言えずに告げた言葉は、ギルベルトの思わぬ反撃に出会ってしまった。仕方なしに手を伸ばしてタオルを取り上げ、愛犬にするようにわしゃわしゃと頭を拭いてやりながら思わず怒鳴ると、ギルベルトは透き通る赤い目をすぅ、と和ませながら笑う。気持ちいい、と告げる猫の表情だった。
「んー。お前がドイツ帝国になる前」
「……アーサーと兄さんを比べるつもりはないんだが、あなたもたいがい、昔のことを思い出す」
 恥ずかしいからやめてもらいたいものだ、と告げるルートヴィヒに、ギルベルトはにぃ、と笑った。優しいとは言い難い、どこか警戒心を刺激する笑みに嫌な予感を覚えていると、ギルベルトは仕方ねぇじゃん、と表情に似合わぬ優しい声で告げる。
「昔はよかったぜー、なんて言うつもりはねぇけどな。ちーさいルートは本当に可愛かったんだからよ……ああ、心配しなくてもいいぜ? 今でもお前は十分可愛いからな! ルートヴィヒ!」
「兄さんは」
 ばん、と背中を叩かれる動きでシャワーを促されながら、ルードヴィヒはキッチンへ向かう兄の背中に呼びかけた。いつの間にか身長をわずかに越してしまった兄の姿は、同じように鍛えているのに関わらず、ごく細身でしなやかだった。剣のように研ぎ澄まされた強さが、頼りない印象を決して与えない姿だった。朝食のメニューを考えながらダイニングに消えかけた姿が、ルートヴィヒの声を聞きつけて振り返る。
 ん、と不思議そうに首を傾げるのをすこしばかり眺め、ルートヴィヒは正直に告げた。
「兄さんは、昔も今も、変わらず綺麗だ」
「はいはい。そういうのはフェリちゃんに言えよ。ああ、俺の天使! 会議で会えるのが楽しみだぜー!」
 楽しげに笑いながら姿を消したギルベルトは、否定こそしないものの、いつもそう言って受け入れてくれない。嫌がっているそぶりはないのだが、男に対する褒め言葉じゃねぇだろ、と不思議がるのだ。イタリアの化身であるフェリシアーノやロヴィーノには、進んで使うこともあるというのに。やっぱり兄さんの思考回路は分からん、と思いながら、ルートヴィヒはシャワーを浴びようと廊下を歩いていく。
 行きがけに軽くキッチンを覗きこめば、ギルベルトはなぜか頭の上に黄色い小鳥を乗せていて。小鳥のようにかっこいいぜー、と笑いながら卵を三つ割っていた。オムレツだろうな、とルートヴィヒの予想通り、朝食にはハーブ入りの、ふわふわで香り高いオムレツが出てきて。それをなぜか一人でたいらげながら、ルートヴィヒは手のひらで小鳥を転がして遊んでいるギルベルトに、不審げな目を向けた。
「兄さん、食べないのか?」
 同じ朝食の席についているだけで、ギルベルトの前にはミルクのたっぷり入ったコーヒーしか置かれていない。お手製のオムレツも、ルートヴィヒのフォークを奪って二口食べただけで、残りは全部お前のだ、と言い渡されている。パンもヴルストもなく、シリアルの類もギルベルトの前には置かれていなかった。小鳥用に食べやすく砕いたアーモンドのかけらを手のひらで突かせながら、ギルベルトは苦笑する。
「いや、俺、もう食べたから。作ってる間にお腹空いちまってよー、ごめんな?」
「ああ、それなら良いんだ。……本当にちゃんと食べたんだろうな?」
 餌を食べ終わった小鳥を、ギルベルトは手のひらの上でお手玉のように投げて遊んでいた。小鳥に嫌がっている様子はないものの咎めるように見ながら、ルートヴィヒはやや疑わしげにそう問いかけた。小食にして体調不良を起こしやすいこの兄は、過去何度も、そうして食べたと言い放って食事を抜くことがあったからだ。食欲がわかないで食べられないが故の嘘らしいが、ルートヴィヒにはたまったものではない。
 もし今回もそうやって誤魔化しているなら、と鋭くなったルートヴィヒの視線を和らげたがるように頭の上の定位置に小鳥を戻し、ギルベルトは肩を震わせて笑った。
「心配性」
「兄さん。俺は真剣に聞いてるんだ。答えてくれないか」
「食べたよ、食べた。それより早く支度して家出ようぜ。会議なんだから、バッチリ決めて行かないとな」
 世界各地から国が集まる大規模な会議にはめったに姿を現さないギルベルトだが、今回のようなヨーロッパ勢だけの来る内輪的なものには好んで出たがる傾向があった。今回もそうで、開催が決まった日から俺も行くと言い張り、ほぼ必要のないドイツの補佐役の地位を上からもぎ取ってきたのだった。その行動力と有能さを別方面で発揮できないのだろうか、と普段のなまけぶりを知るだけに溜息が出て行く。
 そして会議だからと言って、普段は出そうともしないファッションセンスをいかんなく発揮するのもやめてほしい、とも。普段は国土のない引退した『国』だからなのか、どこへでもパーカーとジーンズというラフな格好で出歩くギルベルトは、ことこうした会議にプロイセンとして出るとなると、わりと格好にこだわるのだった。そうは言っても高い金を使って、ブランドものを好んで身につける、というわけではない。
 糊のきいた真っ白なシャツに、深い黒が落ち着いた印象をもたらすスーツ。磨き上げられた革靴に、ネクタイはその日の気分によって。けれど派手すぎず、地味にもならず、心地よく収まる色合いのものを。かのフランスですら、プロイセンのそうした装いに『やればできるじゃないの』と笑いながら認めている程なのだ。決して特別なものはなに一つなく、その身のこなしと存在感で『特別』を仕立てあげてしまう男。
 それが国家としての『プロイセン』であり、会議にのぞむギルベルトの姿勢なのだった。髪型はたまにはオールバックに、とぶつぶつ考えたことを口に出しながらダイニングを出かけ、ギルベルトはあ、と言って納得していないルートヴィヒを振り返って告げた。
「あのさ、ルート。今日の会議ってアイツ来るよな? エリザ」
「来ると思うが……」
 公私によって呼び名を正確に区別しているギルベルトが、けれど『ハンガリー』であるエリザベータの愛称を、家で口にするのは稀なことだった。喧嘩するなよ、とモヤモヤした気持ちを持て余しながら注意するルートヴィヒに、ギルベルトはふぅん、と気のない頷きをして、着替える為に部屋を出て行ってしまった。やべ、避けよう、とルートヴィヒに聞かれないように呟いて。



 会議場は独特の、押さえつけられた興奮とざわめきの気配に満ちていた。戦乱の時代を過ぎて平和になった現代において、会議は生死を言葉の裏に隠して国の存亡を争う、駆け引きの場ではなくなっている。ヨーロッパ勢だけで集まると特にその影響が顕著で、ちょっとした同窓会や集まりのような空気になってしまうのが常だった。会議の開始時刻まで、あと一時間。集まっている『国』は、半数以下だった。
 イタリアやスペインなど、遅刻常習国の姿は当たり前のようになく、イギリスとフランスはすでに軽く口喧嘩を始めている。ポーランドはペンキのはいった缶を持ち込んで走り回り、その後ろを青ざめた表情のリトアニアが追いかけていた。珍しいのはプロイセンがそこに存在しているというくらいで、驚くほどいつも通りの混乱に満ちた、開場前の風景だった。今日も恐らく会議は踊り、ドイツの計画通りには進まない。
「まあ、俺がフォローしてやるからそんなに頭抱えんなよヴェスト」
「言ったな? フランスとスペインと三人で一緒に騒いだりしてくれるなよ、オスト」
 ドイツにとってはいっそ残念なくらい仲の良いプロイセンの悪友の名を出せば、透き通ったルビーの瞳がふよ、と空を泳ぐ。しまった、とでも思っているのだろう。プロイセンが会議に参加したがる理由の半分くらいが、その二国と騒いだり遊んだりする機会を持ちたいからだ、とドイツは知っていた。オスト、と念を押すように呼びかければ、プロイセンはちょっと言葉に詰まりながらも頷き、会議中は、とだけ言った。
 警戒するべきは休み時間と会議終了後、ということだろう。腹の底から息を吐き出しながら、ドイツは今日はダメだからな、とさらに言葉を重ねた。
「今日は、兄さんは、会議が終わったらすぐに家に帰るか……面倒くさかったら、部屋が余っているそうだから、このままホテルに一泊するんだ。夜遊びは断固として禁止する。返事はja、しか認めない。さあオスト、返事は」
「いやいやいやお前なにそれなにその鬼軍曹っぷり」
 俺はそんなコに育てた覚えはないですよ、と真面目くさった顔で言ってくるプロイセンに、ドイツは負けなかった。す、と苛立ちでもなく目を細め、どこか威圧感を漂わせながら重々しく口を開く。
「ja、しか認めないと言ったろう。オスト、ja、は? ほら、ja。言えるだろう。言いなさい」
「こらヴェスト! お前は俺をいくつだと思ってるんだっ!」
「じゃあなんでいくつになっても、自分の体調管理をしっかりしてくれないんだっ!」
 だん、と机にこぶしを叩きつけて不満を表すプロイセンに対し、ドイツは視線を険しいままで言葉を叩きつけた。議場の国たちが一様に視線を向けたのにも気がつかず、プロイセンは決まってんだろうがーっ、とそこでなぜか胸を張る。
「俺は! お前の体調以外に興味がないからだっ!」
「いい加減に自分の体調を顧みるようになってくれオスト! もうお前一人の体じゃないんだっ!」
 ごぶばはぁっ、とありえない笑い声がイギリスとフランスから仲良くもれるが、ドイツとプロイセンは視線すら向けなかった。あの二国のリアクションがおかしいのはいつものことであって、いちいち気にすることでもないからだ。それにドイツにもプロイセンにも、特別なことを言った覚えがないからなおさらだ。二人は同じドイツ国家であり、二人で一つの化身なのである。ドイツの言葉はその主張で、妙な意味はない。
 ないのだが、そう思っているのは互いしかいないようで。分かっていてもぬるい視線が、集まった国々から向けられる。半ば意地になってドイツを睨むプロイセンの頭が、ぽこん、と紙を丸めた筒で叩かれた。
「お下品ですよ、プロイセン。なにを会議前から仲間割れなどしているのですか」
「だってヴェストが……じゃねぇよコラお坊ちゃん。なんだそのどう見ても会議の資料には見えない楽譜は」
 む、としながら言葉を重ねようとしたプロイセンは、呆れたように立つオーストリアが持つ楽譜を見逃さなかった。軽く頭を叩いたのも、それだろう。控室においてこい、と言わんばかりのプロイセンの視線をものともせず、オーストリアはしれ、と悪びれのない態度で言い放った。
「常に音楽を愛でる余裕を持たなければ」
「常にじゃねーよ会議の時は置いてこいよ、お坊ちゃん。どうせ途中で譜面に夢中になって色々聞き逃すだろ」
「大丈夫です。ハンガリーに後から聞きますから」
 全くもって大丈夫ではない主張をしたオーストリアは、すこし背後を振り返ってそうですね、と同意を求める仕草をした。気配もなく歩み寄っていたハンガリーは柔らかな笑みでオーストリアと視線を合わせ、もちろんです、と意気込んだ頷きを返す。
「だから大丈夫ですよ、オーストリアさん。安心して覚えちゃってください。演奏会、もうすぐですものね」
「ありがとう、ハンガリー」
「甘やかすな、ハンガリー」
 オーストリアとドイツからまるで違う言葉をかけられても、ハンガリーの笑みは崩れなかった。ふわ、と花がほころぶような笑みをオーストリアに向けたあと、若干申し訳なさそうにドイツを見上げる。
「ごめんね、ドイツ。今回だけだから」
「お前の今回だけは何回あるんだよ」
 前回も前々回も似たようなこと言ってたじゃねぇか、と呆れ交じりに呟いたプロイセンは、手に書類を持って立ちあがる所だった。会議の開始までは、あと四十分ある。ちょっと忘れ物したから取ってくる、とドイツにだけ囁いて立ち去ろうとしたプロイセンに、ハンガリーのまっすぐな視線が向けられた。別に不思議なことではなく、会議のたびにきちんとした格好で出てくるプロイセンを、ハンガリーはよく眺めるのだった。
 言葉にこそ出さないが、『やれば出来るじゃない』と感心するような視線は、ドイツと同じく普段のなまけっぷりを知っているからだろう。プロイセンは、そんなハンガリーの視線を嫌そうに受け止め、身をひるがえして会議場の出口へと向かおうとする。穏やかに、けれど鋭く空気が動いた。オーストリアとドイツの間から伸びたハンガリーの手が、プロイセンの手首を掴んでいる。待って、と柔らかな声が響いた。
「ちょっとこっち向きなさい」
「……んだよ。俺は急いでんだ。用事があるならヴェストに言いな」
 ハンガリーにほのかな好意を持つプロイセンにしては珍しい、相手に対して否定的な言葉だった。離せ、と告げられる言葉は手首を掴んで力を緩めないことに向けられていて、振りほどこうとはされていない。場に奇妙な、緊迫した空気が漂い始める。おい、と眉を寄せたドイツに視線を向けることすらしない珍しい態度で、ハンガリーはゆっくりと言い募った。
「私を見なさいって言ってるのよ、ギル」
「ハンガリー?」
 困惑の問いかけは、オーストリアとドイツから漏れたもので、プロイセンが発したものではなかった。公的な場で国名ではなく、わざわざ人名の愛称を選んだハンガリーに問いかけの目が向けられる。どうしたのか、と。その視線すら、かつて見たこともないほど潔く、ハンガリーは無視していた。明るい草色の瞳で静かにプロイセンを見据え、感情を抑え込んだ女性の声はもう一度ギル、と呼んだ。
 ひく、と口元を奇妙にゆがめ、プロイセンが振り返る。
「ちょ……落ち着けハンガリー。お前今絶対スイッチ入りかけてるから」
「誰のせい、だと、思ってるの、かしら……? ……ああ、やっぱり。ねえドイツ。コイツ、今日の朝、食欲無かったでしょう? というか、もしかしたら食べなかったんじゃない? 違う?」
 はじめてドイツに向けられた視線は、その状態のギルベルトを、プロイセンとして会議にまで出してしまったことを責めていた。ややたじたじになりながらも、ドイツは兄貴は食べたと言っていたが、と頷く。
「食欲はなかったようだ。俺の前ではオムレツを二口、あとはコーヒーを」
「コラ、ヴェスト! お兄ちゃんを簡単に売るんじゃない!」
「やっぱりね。……忘れ物をしたんだったかしら? 私もついて行ってあげる。そのままどこかに逃亡したりすると困るし」
 ねえギルベルト、と微笑む表情は清らかで美しく、年頃の女性らしい華に満ちていた。それなのにうげ、と呟いて怯えたように体を震わせたプロイセンは、掴まれた腕をぶんぶん動かし、首を振る。がっちり掴まれた手首は、そんな抵抗ではわずかに緩みもしなかったのだが。
「いい、いいからっ! お前はお坊ちゃんと一緒に居ろよ、エリザ! 迷子になったら探すの大変じゃねぇかっ!」
「すみません、オーストリアさん。ドイツと一緒に居てくださいますか? くれぐれも一人で出歩かないでくださいね」
「手を打つなーっ!」
 すぐさまプロイセンから向けられた『お前は俺味方だよな!』という視線を笑顔で受け流し、ドイツはハンガリーに重々しく頷いた。朝食の時には結局ごまかされてしまったので、この際だから追い詰めてもらおう、という意思がプロイセンには透けて見える頷きだった。いやいやいや、と若干青ざめた顔で首を振って抵抗するプロイセンに、ハンガリーはこれでよし、と目を戻して笑い、手首を引っ張って歩き出す。
 落ち着けっ、いいから落ち着けエリザっ、と必死に呼びかけるギルベルトの言葉は、右から左に受け流されているようだ。会議場の扉につくまでの短い道のりで考え事をまとめてしまったエリザベータは、部屋中から向けられる視線を振り払うかの如くさっと振り返り、質問を一切はねのける笑みで一応言っておきますが、と口を開く。
「間に合わせるつもりですが。もし時間までに戻ってこなくても、会議、始めちゃってくださいね。あとドイツ、悪いけれど、プロイセンは今日は欠席するそうよ」
「待てハンガリー! なんだよその、あたかも俺に聞いてあったけど伝えるのを忘れてた的な言い方は! 俺は今日はヴェストの補佐しに来てんだから、会議出るに決まってんだろっ!」
「プロイセン」
 ぴしゃりと冷たく手を叩き落とすような声で、ハンガリーがプロイセンを呼んだ。氷のように冷やかな草色の瞳が、言葉に詰まるプロイセンの姿を映し出す。
「黙れ」
 ぐ、となにも言えなくなってしまったプロイセンを力任せに引っ張っていく形で、ハンガリーは会議場から姿を消した。居なくなった二人の消えた扉を茫然と見つめながら、ドイツは怖かった、と半ば無意識に呟く。
「そんなに、体調が悪そうにも見えなかったが……」
「でも、悪かったんでしょうね……。あんなに怒るくらいですから……」
 私もあんなに怖いエリザは久しぶりに見ました、と呟くオーストリアに、ドイツはほんの好奇心で聞いてみた。前に見たのはいつ、どんな時だったんだ、と。オーストリアは軽く眉を寄せて考え込みながら、視線を楽譜に落として唇を開く。あれは確か、と記憶を辿る音楽的な声は、なにか物語を語るもののようだった。
「彼がベルリンの壁が崩れてこちらに戻ってきた時に……何度か、体調不良を押して起き上がって、倒れたことがあったでしょう。あの時ですね。最近、彼の調子はどうなんです? 急激に痩せたようにも見えませんでしたが、確かに顔色はさほど良くない印象を受けました」
「悪くはない、筈だ。……崩壊後のような体調なら、さすがに俺でも気がつくぞ」
 むす、としながら告げられた言葉に、オーストリアは意外にも優しく微笑んだ。それからすこし背伸びをしてドイツの頭を指先で撫で、まあ、なにかあったのでしょう、と軽く慰めて離れて行く。明らかな年下の子供扱いに恥ずかしいものを感じつつも、ドイツは空いてしまった隣の席に視線を移し、溜息を付きながらも頷いた。けれど、空席に当然のようにオーストリアが腰を下ろし、なにか、と澄ました顔で尋ねるので。
 いいや、とドイツは苦笑して、時計に目を落とした。会議の開始まで、あと三十分だった。

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