奇妙な静寂の中、鉛筆の芯が紙に削られて行くかすかな音だけが響く。時折、首を傾げて考え込む以外に特別な動きをせず、フェリシアーノはスケッチブックの世界に意識をこもらせた。視線はモデルであるエリザベータと紙面の間を行ったり来たりしているが、それすら無意識の動きだと、ギルベルトは知っている。紙と鉛筆と、それによって描かれる線と、視認する目の前の景色だけの世界。それを描き取る為だけの意識。
呼吸と瞬きすら億劫そうなフェリシアーノは、もし誰かがそれを代わりに行ってくれると言うのなら、喜んで生存本能を明け渡しそうである。いきものとしてのみならず、『国』としても、フェリシアーノが持つ危機的な意識は低い。常に『なにか』に備えてしまうエリザベータやギルベルトとは、まるで別次元に意識を置いているのだった。似たような感覚をローデリヒからも受けるので、芸術家は総じてそういうものなのかも知れなかった。
意識が体に留まりつつ、それ以外のどこかに、表現したい場所に宿り、宿らされる。体が表現の為にのみ動き、その為だけに存在している、と感じるひととき。表現を導き出す瞬間の、そのあまりの無防備さだけは、どうしてもギルベルトに真似できないものだった。エリザベータも、そうなのだろう。三人掛けのソファの中心、四角い白のクッションを腕で抱きかかえたエリザベータは、呆れと感嘆の混じった目で絵描きを見ていた。
エリザさんが描きたいから書かせてね、と突然言い出したフェリシアーノがスケッチブックを構えて、十分ほどが経過している。その間、めくられた紙の枚数は実に八枚。大雑把に構図だけを描いたものもあり、細密に線を描きこんだものも、数本線を引いただけで次にめくられてしまったページもある。背もたれの大きな椅子にしゃがみこむようにしながら書くフェリシアーノの隣に立ち、ギルベルトは描き出される全てを見ていた。
最初から、見ようと思って見ていた訳ではない。フェリシアーノの気がすむまでソファから降りられなくなったエリザベータが、私が動けないんだからアンタもそこを動かないで、と言ってギルベルトの動きを止めたからだ。そこで拒否すると後でフェリシアーノからも文句を言われる可能性があった為、ギルベルトは仕方なく絵描きの護衛よろしく傍らに立ち、描き出される一枚一枚に目を通しているのだった。また、紙がめくられる。
かすかな動きに揺り動かされた空気は、おいしそうな食べものの匂いを含んでいた。キッチンではルートヴィヒとローデリヒが夕食の準備をしている。まな板を包丁が叩く音と、なにか液体の沸騰する音、鉄板の上でなにかが焼ける心地良い音が、さざめく音楽のように誰の耳にも等しく触れていく。空気は熱に温められて、どことなく優しい。ふと表情を緩めて笑い、ギルベルトはスケッチブックから視線を外し、そっと口を開いた。
「兄上」
「慣れた」
ギルベルトの視線が捕らえたのは、フェリシアーノの体とスケッチブックの間の狭い空間に、横抱きにされるように収まっている少年だった。少年と青年の、ちょうど境目くらいに見える存在だった。日に透けた金が宿る銀髪は短く整えられ、撫でつけられることもなく、素直に下ろされている。アイスブルーの涼しげな瞳はフェリシアーノの体温に穏やかに笑みを灯していて、その姿勢で居ることが日常ですらあると告げていた。
神聖ローマ。かつてそう呼ばれた存在は、少年にしてもすこし華奢な体をちいさく折りたたむようにして、フェリシアーノの腕に抱かれている。その存在を確かめたくなって指先を伸ばせば、ギルベルトより年若い外見の『兄』は、苦笑しながらそっと手で指先を包み込んでくれた。
「どうした?」
「いえ。……フェリちゃん、相変わらず兄上を離したがらないな、と」
そう思っただけです、と告げるギルベルトに、青年はごく穏やかに微笑むだけで、言葉を告げはしなかった。かつての『神聖ローマ』。ロヴィーノとギルベルトの手によって現世に引き戻され、『EU』として存在する者の名を、ベルンハルト・バイルシュミットという。ベルンハルトが再び存在し初めてすでに半年以上は経過しているが、フェリシアーノは幼い容貌の青年を傍から離したがらず、体のどこかをくっつけて居たがった。
それは、こうして絵を描いている間、特に激しくなる。体から意識が離れていても、そうであるからこそ、フェリシアーノは己の身でベルンハルトの熱と鼓動を感じて居たいと告げたのだった。それが何故なのか、誰もが理解していた。喪失の不安は消えることなく、これからもずっと残るものだろう。不安が消えないのならばせめて、安心させてやることこそ、『神聖ローマ』の望み。愛しさによって叶えられている、ワガママだった。
「書き終わったら」
ぽつ、と雨粒が落ちてくるように唐突に、フェリシアーノの声が響く。視線はスケッチブックとエリザベータの間を往復したまま、ギルベルトには向けられない。
「絵、ギルにあげるね。好きなの選んで?」
「おう。ありがとな、フェリちゃん」
「ううん。こちらこそ」
エリザさんを貸してくれて、ありがとう。それきり返答を待たず、フェリシアーノはまた意識を閉じてしまった。内側に、ひたすら内側に向かって意識を潜らせるフェリシアーノは、今度こそ、絵が完成するまで誰に声をかけることもないだろう。言葉を外に向けて発すること自体が、とても珍しいくらいなのだから。ギルベルトはうるさかったか、と苦笑して口をつぐみ、腕の中、静かに収まっている『兄』に謝罪するように微笑みを向けた。
ベルンハルトはそっと微笑み、フェリシアーノの動き続ける腕に指先を触れさせる。力が入り過ぎていた腕が、ぴたりと動きを止めた。次の瞬間、ふっとフェリシアーノの体から力が抜ける。ヴェー、と鳴いてベルンハルトの頭に頬をぐりぐり押しつけてくるフェリシアーノは、集中が本当の本当に途絶えてしまったらしい。だめ、もう描けない、ひどいよ、と文句を言ってくるのに、ベルンハルトは頭を圧迫されながら、苦笑して告げる。
「腕を痛める。集中も上手く行っていなかったようだし、もう止めにしろ」
「ヴェー……もうちょっと描きたかったよー」
「諦めて御片付けなさい、フェリシアーノ」
延々と続いて行きそうな芸術家の文句をストップさせたのは、その領域に踏み込むことのできるもう一人だった。自前の黒いエプロンを外してたたみながら現れたローデリヒは、いくつもの視線を受け止め、小揺るぎもせずに微笑みを浮かべる。
「ご飯です」
「そんなエプロンあったっけ? 買ったのか?」
「いいえ、自宅から持って来ました」
あと購入したのではなく手作りです、とさらりと言われ、ギルベルトはローデリヒの手から黒いエプロンを受け取って、体の前で広げてみせた。なるほど、細身の男の体にもぴったり合う大きさのそれは、既製品にはない縫製の温かみが見て取れる。淡い桃色の刺繍糸で花が、薄い黄色の刺繍糸で小鳥が縫いつけられるのに目を止めて沈黙すると、ローデリヒは取り上げられると思ったのか、ぱっとエプロンを取り返して告げる。
「私のものです。どんな風であっても良いではありませんか」
「そうだけどよ。なんか含みがあると思うのは俺の気のせいか?」
「気のせいです。さ、料理を出す手伝いをなさい。ルートヴィヒ一人に配膳させるおつもりで?」
ぴし、と人差し指でキッチンを指差しながら言うローデリヒに、ギルベルトは素直に頷いて歩いて行く。そちらはもう、本当に皿に盛りつけられた料理を運んで来るだけになっている筈だ。まかせることにして、ローデリヒはしぶしぶベルンハルトを膝から下ろし、立ち上がったフェリシアーノの頭をぽんと撫でた。フェリシアーノは不思議そうな顔したが、仕草が言葉に従って片付けたことに対する褒美だと知ると、甘く口元を緩ませる。
ヴェ、とごく嬉しそうにちいさく呟いて鳴き、フェリシアーノはベルンハルトに微笑みかける。
「ご飯だって、ベルノ。隣に座って食べて良い?」
「聞かなくとも。お前が望むなら」
好きにしていい、と囁く声は相手に判断を委ねるものでありながら、そのじつ、意思の全許容に他ならなかった。嬉しそうに手を引っ張って食卓にかけていくフェリシアーノと、引っ張られて行くベルンハルトを注意するかしまいか悩む視線で見送り、ローデリヒはソファにしゃがみ込んだままのエリザベータに、そっと手を差し出した。
「さ、貴女もおいでなさい。……誰かの隣に座りたければ、フェリシアーノのようになさい」
「だ、大丈夫です誰の隣でも美味しくご飯食べられますし! ていうかギルの隣は落ち着かないというかご飯の味がしないというか、いえあの決して嫌とか駄目とかそういうことじゃなくて……! ……いつも通りが、いいです」
「はいはい。では、フェリシアーノの隣、ギルベルトの正面に座りなさい。いつものように」
向かい合わせが一番落ち着くのでしょう、とくすくす笑いながら尋ねてくるローデリヒにこくりと頷いて、エリザベータは差し出された手をとり、立ち上がる。その手をぎゅぅと握り締めて溜息をつけば、ローデリヒは微笑ましいものを見る視線で、エリザベータの横顔を眺める。おかしなひとですね、と豊潤な春の香に似た声が、柔らかに空気を揺らす。
「手を繋ぐのも私ならば平気なのに、ギルベルトは駄目なのですから」
「だ、だって……! ギルの手って皮膚が硬くてごつごつしてて、ものすごく軍人さんの手っていうか! 意外と肌綺麗で荒れてないのにしっかり鍛えられた痕はあって、でも力加減が出来ない訳じゃなくてなんか私に触る時すごくふわって触れるんですよアイツ! そんな壊れもの扱うみたいにしなくても大丈夫だって悔しいのになんかくすぐったいっていうか嬉しいっていうか、なんでそんな大事に触れるのって思ってしまってそれで」
「分かりました。落ち着きなさい」
よく分かりましたから、と肩を震わせて笑いながら、ローデリヒは優雅な仕草でエリザベータを食卓までエスコートした。椅子を引いて座らせながら、身を屈めて耳元で囁く。
「ほら、エリザベータ。ご覧なさい。あの不満そうな顔」
「えっ……えっ、と」
「そんなに睨まないでください、ギルベルト。ちゃんと返して差し上げますよ」
はいどうぞ、とばかりローデリヒが差し出したのは、さりげなく捕らえたままのエリザベータのてのひらだった。え、え、と混乱しながらなすがままになっているエリザベータの手を机ごし、ひったくるように捕まえて、ギルベルトは無言でエリザベータを睨む。その瞳が、俺とは簡単に手も繋がねぇくせに、と訴えた。怒っているというよりも、これは明らかに拗ねている。エリザベータはなにごとか告げようと、そっと息を吸い込んだ。
しかし言葉が形になるより早く、ギルベルトが動く。むっとした表情で視線を重ねたまま、ギルベルトはふと身を屈める。カタン、と体重を乗せられた机が鳴った。ひぅ、と奇妙な音を立ててエリザベータの喉がひきつる。ギルベルトは女性と視線を合わせたままで口元まで手を持って行き、ふ、と吐息で肌をくすぐった。エリザベータが手を引っこ抜くより早く、力を入れて掴まれる。そして唇が、手の甲に触れる寸前まで寄せられた。
唇が肌に触れぬまま、濡れたリップ音が響く。絶句するエリザベータを見やって手を開放し、ギルベルトはにぃ、と唇をつり上げて笑った。
「触ってやんねー」
「兄さん。馬鹿なことをしてないで、早く席に付け。食事が冷める」
やけに楽しそうなギルベルトの後頭部をぺしりと叩いて、ルートヴィヒが呆れ顔で着席を促す。馬鹿じゃねぇもん本気だもん、と意味の分からないことを呟きながら、ギルベルトはしぶしぶ椅子に座った。場所は、当たり前のようにエリザベータの隣。しまった、とエリザベータは机に突っ伏しそうになりながら痛感した。この席は逃げられない。精神的に。ギルベルトの隣はルートヴィヒが座り、そのさらに横にローデリヒが腰掛ける。
エリザベータの隣はフェリシアーノ、ベルンハルトの並びだった。それは六人が揃った時の定位置で、もはや誰もが見慣れている。ここにロヴィーノが加わることもあるので、そういう時だけ席順は気まぐれな再編を受けるのだが、そう多いことではないのだった。ほら食べるからちゃんとお座りなさい、と叱りつけるローデリヒの言葉に恐る恐る視線を食卓へ戻し、エリザベータは思わず感嘆の息をついた。ギルベルトも同じ表情だ。
細切りにしたじゃがいもを、塩コショウだけの味付けで、バターをたっぷり引いたフライパンで焼いたもの。大きくふっくらとしたホットケーキの形をしたそれからは、焦げたバターの甘い香りがふわりと漂う。半月型に切ったじゃがいもは、そのまま素揚げにしたのだろう。きつね色に染まったフライドポテトには、削ったばかりの岩塩がぱらりとふりかけてある。彩りに付け加えられたイタリアンパセリからも、えもいえぬ良い香りがした。
三種類のパプリカと薄切りにした牛肉の炒め物からは、オイスターソースの香りがした。チンジャオロースだろう。中国から良い調味料を頂いたのですよ、と言っていたことを思い出す。彩り野菜のラタトゥユは、目にも鮮やかな野菜がころころと角切りにされ、人数分のココットにこんもりと盛りつけられていた。パプリカ、なす、ズッキーニ、玉ねぎ、トマト。トマトの出所は恐らく、スペインか南イタリアに違いない。完熟トマトだ。
食卓の中央に置かれているのは、ずっしりと重みのあるドイツパン。薄切りにされたそのままのものと、軽くトーストされたものの二種類。バターにイチゴジャム、マーマレード、ブルーベリージャム、ミルクジャム、チョコレートスプレッドに、メイプルシロップの瓶も並ぶ。本日のスープは透き通ったコンソメスープで、いんげん、玉ねぎ、ニンジン、ベーコン、レタスがそれぞれ一センチ程の正方形に切られて、よく煮込まれていた。
「……なあ、ローデ。なんか良いことでもあったのか?」
記念日だったら思い出せねぇぞ、と首を傾げるギルベルトに、同意したい気持ちでエリザベータもローデリヒを見る。二人分の困惑を受けてなお、ローデリヒは涼しげに、にこやかに言葉を告げた。
「会議が踊ることなく終わった祝いと、ギルベルト、あなたの演習が盛況だったとお聞きしたもので」
あとで映像を入手する手筈はついておりますので、じっくり見させて頂きますね。実際問題、貴族が笑顔で発言する時ほど、ろくなことを言う試しがないのだった。くらりと眩暈を感じながら痛感するギルベルトに、ローデリヒはそしらぬ顔でしれ、と告げる。ああそれと、と。のろりと持ちあがった視線をしっかりと捕らえ、ローデリヒはごく満足げに唇をつり上げた。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
「あなたは、空よりも地上の方がお似合いですよ」
空にはこんな食事もないでしょう、と笑われて、ギルベルトは苦笑しながら頷いた。ただいま、ともう一度、安心させるように囁く。ローデリヒは微笑んでそれ以上を告げず、食卓へと向き直った。祈りの言葉は簡単に終わり、いただきます、の輪唱が空気をさざめかせた。
夕食の食材を買いに行ったのがギルベルトとエリザベータである。そこから食事をつくったのがローデリヒとルートヴィヒだから、なにもしていないのはフェリシアーノとベルンハルトになる。自然に後片付けはその二人の担当になるのだが、基本的に、ベルンハルトは家事をしない。しないというよりも、次男と三男が積極的にさせたがらない。元帝国に仕事させるとか意味わからない、という主張をギルベルトが散々したからだ。
『神聖ローマ』を兄上と慕った『プロイセン』の意思は、そのままそっくり『ドイツ』にも受け継がれている。まして目の前で兄が敬愛する存在に、ルートヴィヒが反抗的な態度を取る訳もないのだった。結果としてベルンハルトは家事を全面免除される方針が出来あがったのだが、今日に限って、フェリシアーノの傍らにはその姿がある。反対する二人を押し切って、一緒に洗いものをしているのだった。天使の鼻歌が響いて来る。
暖炉の置き火が赤くとろりと揺れ、あたたかく、熱い空気が部屋を包み込んでいた。ルートヴィヒは満腹の幸福感と静かな時に心地よく身をゆだねながら、向かいのソファにちらりと視線を向ける。ちょうど傍らで編み物をしていたローデリヒも正面を眺めたが横目に見えたから、ルートヴィヒは声をひそめて囁いた。
「……ブランケットを一枚、持ってくるべきだろうか」
「大丈夫だと思いますよ。これだけ部屋が暖かいのですから」
ただ、このまま起きないようであれば、ベッドに運んで差し上げなければなりませんね。起きるとは思っていない口調で笑いながら囁くローデリヒの言葉に、ルートヴィヒはこくりと頷いた。その場合、ギルベルトを運ぶのはルートヴィヒの役目だった。エリザベータの担当は、もちろんローデリヒである。音楽家は非力な部類に入るといえど、女性を一人、持ち上げて移動させることのできない程でもない。安心して任せられた。
すぅ、と二人分の深い寝息が、温かな空気の中に溶け込んでいる。ギルベルトとエリザベータはソファに腰かけつつ、互いに体をもたれ合うようにして目を閉じていた。エリザベータはギルベルトの肩をまくらにして眠り、ギルベルトは、その女性の頭に頬を預けて眠りこんでいる。二人はいつの間にか手をしっかりと握りあっていて、すこしのことでは外れそうにもなかった。運ぶのが大変そうだ、とルートヴィヒは苦笑し、肩を震わす。
起きている時より、寝ている方がずっと素直だった。どちらが繋ごうとしたのかは分からないが、どちらも手を離そうとしていないことが簡単に見てとれる。指が絡み合ってぎゅぅ、と握られた手はふたつの力でひとつのものになっていた。キッチンから響いていた音が、途絶える。ぱたぱたぱた、とスリッパを鳴らして遊ぶ足音と共にやってきたフェリシアーノは、ヴェ、と予想していた呟きを落とし、眠る二人を和やかに見つめた。
「寝ちゃったね」
「ふたりとも、寝顔は変わらないな」
二人とも、疲れてたもんね、と笑うフェリシアーノの隣で、幼少を知るベルンハルトがしみじみと呟く。手を繋いで眠るくせも、変わっていない。ばち、とひときわ大きな音を立てて暖炉で火が爆ぜる。ゆるりと目を細め、ローデリヒはソファから立ち上がる。
「火の、始末をして」
ゆっくりと、時間が過ぎている。時計を見ればまだ夜はそう更けていないことが分かるが、こんな幸福な時だからこそ、無為に過ごしてしまうのは損失だった。ゆっくり過ごそう、と誰もが決めていた。だからこそ、ローデリヒは笑って囁く。
「寝ましょうか」
「そうだな」
ルートヴィヒは立ち上がり、ローデリヒと一緒に、眠る二人の元へ行く。ひとの気配に聡い筈のギルベルトは、しかし目覚めもしなかった。安心しきった眠りを繋いだ手がもたらしているようであり、なんの警戒をする心配もない相手ばかりだと、心が緩みきっているのかも知れなかった。悪くはない。ごく自然に浮かぶ笑みをそのままに、ルートヴィヒは兄の額に口付けた。おやすみ、と落とされた言葉に、眠る顔はゆるりと笑う。
夢の中まで、届いたのかも知れなかった。
夢を見ていた。幼いふたりの夢だった。体を包む心地よい熱に揺り起こされるようにして、エリザベータはふと目を覚ました。暗い。明りのひとつもない室内は、寝起きの瞳に優しくないものだった。何度か目を瞬かせて暗闇を薄闇程度の認識にまで代え、エリザベータはころりと、ベッドの中で寝がえりを打つ。そう大きなベッドではないから、隣に眠っていた者の体に、手や体はすぐにぶつかった。ん、とギルベルトが声をあげる。
ぼんやりと、ゆっくりと、まぶたが開いて行く。夢の中を彷徨う瞳が、エリザベータを見つけ出した。
「……んだ。どし、た?」
「ううん。……なんでもない」
起こしてごめんね、と笑うエリザベータに問題ないとかなり寝ぼけた仕草で頷いて、ギルベルトは腕を持ち上げる。布団を掴んでエリザベータの肩を包むようにかけ直し、それごとぎゅぅ、と胸に抱き寄せた。ぴったりと体をくっつかせて、ギルベルトはエリザベータに頬を擦りつける。無防備な笑みが、嬉しいと告げていた。
「おやすみ、エリザ」
「……うん」
おやすみ。囁き返して、エリザベータもまた、目を閉じる。睡眠が足りた覚醒ではなかったからだろう。眠りは、すぐに訪れた。鼓動と熱の混じり合うぬくもりの中で、ふたりは同じ夢を見る。
幼い夢だった。
草原が広がっていた。
「あのさ!」
「なんだよ!」
ふたりは笑う。かたく手を繋いで、明るい世界の元で走り合いながら。いつまでもどこまでも行けるような気持ちで、笑いながらはしゃぎ続ける。『少年』が、笑いながら言った。
「ずっとだ!」
「ずっと、ずっと一緒にいような! ずっと、ずーっと! 今日も明日も、明後日も。その次も、その次も! ずっと、ずっと、ずーっと一緒だ!」
少年は笑って、繋いだ手に力を込める。その手を離すことなど、決してないように。その手を離す日が来るなど、決してないように。ふたりは笑う。約束を、交わす。それは、永遠に程近く。
ふたりは今も、同じ夢を見ている。