BACK / INDEX / NEXT

 少ない時間でも鞄の中身は何度も確認したのに、荷物を預けてしまうと途端に不安に襲われる。胸に手を当てて深呼吸を一回だけして、エリザベータは笑顔でフロントのカウンターを後にした。一週間分の荷物と、仕事に必要だった一式は全て家に送る手配をしてしまったから、今は非常に身軽である。履き換えた靴は先日街で一目ぼれしたばかりの新品だが、ようやく足に馴染んで来た頃なので痛める心配はないだろう。
 ややヒールが高めの革靴は機能性よりもデザインを重視した作りになっていたが、戦いには向かないというだけで、有事に走るくらいなら十分できそうだった。もちろん、回し蹴りくらいなら呼吸と同じくらい簡単にできる。己の身体能力の優秀さに感謝しつつも、『国』として抜けきれない危機予測意識に溜息をつきたくなりながら、エリザベータは思わず立ち止り、足元に視線を落とす。ふわりと広がるワンピースの色は、白だった。
 前開きのワンピースは首元から足先まで等間隔に花型のボタンで留められ、派手な装飾こそないものの、フリルには繊細なレースが使われている。足元に見え隠れする可愛らしい革靴をしばし見つめて、エリザベータはなんだか、頭を抱えてしゃがみ込みたくなった。本当は、靴だけもうすこし動きやすいものに変えて、あとはスーツのままでも良いか、と思っていたのに。気が付けば鏡の前で、持って来た服を広げていたのだ。
 一週間の滞在は会議とはいえ、私的な自由時間がなかった訳ではない。街を歩いたり食事をしに行くのに着やすい服は何着か持ってきていて、今着ている白いワンピースは、そうした街歩きの最中につい買ってしまったものだった。いかにも女性的なラインの、小奇麗で可愛らしいワンピースである。靴も新品、服も新品、加えて鞄も一月前、フェリシアーノがエリザさんに似合うと思ってっ、と贈ってくれた真新しいものだった。
 いっそギルベルトが気がつかないで全部スルーしてくれることを願うのみだが、それはそれで悲しくなってしまいそうな自分の心がむずがゆかった。ぎこちない動きで腕時計に視線を落とすと、指定した三十分を、もう五分も過ぎている。あれで女性の身支度時間には寛容なので五分くらいは許してくれるかも知れないが、十分待たせたら機嫌は悪くなることだろう。よし適度に気が付け、と思いながら、エリザベータは足を進める。
 質の良い調度品と絵画、本物の草木で整えられたホテルのロビーは、中央にグランドピアノが置かれていた。演奏者は休憩中なのか姿がなかったが、この状態が一時間も経過すれば、どこからともなくローデリヒが現れ、なにくわぬ顔でピアノの鍵盤を叩きはじめるとエリザベータは知っていた。思わずくすりと笑みながらピアノの傍を通りすぎ、入口に程近いラウンジに視線を移す。待ち合わせの相手は、すぐに見つかった。
「……あれ?」
 ギルベルトは椅子に座ってコーヒーを飲みながら、手に文庫本を持って視線を落としていた。こっそり十秒程観察していたらページがめくられていたので、ポーズではなく読書しているらしい。エリザベータは首を傾げながら、トコトコとギルベルトに近付いて行く。どう考えても、あんな本を持っていた気がしないのだが。まさか待っている間に買ったのだろうか。服装も軍服から、ジーンズと薄手のシャツ、ジャケットに変化していた。
 足元だけが軍用ブーツで、服装の一部を留めている。
「……ギル?」
 どうしたの、と意味を乗せた問いかけに、ギルベルトはぱたりと本を閉じた。向けられた視線は遅いと言わんばかり鋭いものだったが、しかしすぐ、エリザベータの格好に気配が緩む。ふわ、とエリザベータが恥ずかしくなるくらい穏やかな気配になったギルベルトは、なにかとても満ち足りた様子でゆるりと目を細め、ん、とだけ呟いてちいさく頷いた。それで、格好に対する感想は終わりらしい。残ったコーヒーを一息に飲んでいる。
 椅子から立ち上がる姿から視線をそらしながら、エリザベータは羞恥心と戦っていた。可愛いとか、似合うとか、素直に言葉にされた方がまだ恥ずかしくなかった。なにそれその嬉しそうな表情っ、別にたまたま全部可愛い系になっちゃって、偶然気が付けば全部新しいものであっただけであって、それはアンタと出かけるからでもアンタの為でもないんだからねきっとっ、と叫んでしまいたい。気持ちだけで、やりはしないが。
「エリザ」
 ひょい、と目の前に紙コップが差し出される。反射的に受け取ると、それはまだほんのりと温かい。いつの間にか目の前に立っていたギルベルトと視線を合わせ、エリザベータは無言で首を傾げてみせた。まだ混乱から脱し切れていないので上手く言葉が出そうになかったからだが、別に相手はギルベルトである。それで十分通じるので、問題はなかった。ギルベルトはお前の、と紙コップを指差し、冷めてないと思う、と言った。
「コーヒー。ブラックじゃなくて甘いのだけど、お前好きだろ? ……疲れてんだろうし」
「……ありがとう。ところで、服、どうしたの?」
 紙コップの蓋を開けると、ふわふわに泡だてられた真っ白なミルクの上、とろりと溶けたキャラメルソースが網目模様にかけられている。一口飲んでみるとちょうど良いぬるさで、ミルクとキャラメルの甘み、コーヒーの僅かな苦みとコクが口いっぱいに広がった。甘さは、あらかじめ調整されているのだろうか。エリザベータの好みバッチリに調整されていて、染み込んだ疲れが内側から温められ、ゆっくりと消えていくような気がした。
 蓋をはめなおして、少しづつ飲むことに決める。
「着てたのはクリーニングに出して、そのまま家に送った。これはフランシスが、お前に。プレゼントだってよ」
 コップを取り落とさなかった自分を冷静に褒めてあげたい、とエリザベータは思った。おのれ愛の国。会議室でも廊下でも見当たらなかったというのに、いったいどうして、どこからギルベルトはエリザベータと出かけると知ったのだろうか。ぎこちなく顔を動かしてロビーを見回るも、人混みの中、フランシスの姿を見つけることはできなかった。
「つーか……映画でも行くか?」
 浮き立って落ち着けないエリザベータの気持ちを、その声が引きもどす。はっとして意識を向けると、ギルベルトはすこし困ったような、照れてしまって上手く笑えないようなぎこちなさで、唇をむずがゆくつり上げていた。
「ど……どうして? 買い物でしょう?」
「だってよ……どこか出かけたいから、そういう服なんじゃねぇの?」
 スーツよりは街中を出歩きやすい格好だというのは分かるけど、と戸惑うギルベルトに、エリザベータは息を吸い込んだ。これを言うのは恥ずかしい。とてつもなく恥ずかしいが、けれど答えを聞けたなら、告げられる言葉を持っていた。ギル、とエリザベータは呼びかける。ん、とすぐに重ねられる視線が、嬉しかった。
「……似合ってる?」
 ぱち、と瞬きをして。それからギルベルトは、ゆるりと瞳を和ませた。
「可愛い」
「っ……アンタって本当! 疲れてると素直よね! ばか! ……好きだけど」
「……最後なんて言った?」
 聞こえなかったからもう一回、と言うギルベルトに、エリザベータはなにも言ってないわよ、と笑顔で押し切った。聞こえていないなら、どうして耳までうっすら赤くなっているのかを問い詰めたいが、やぶへびだと分かりきっているので言いはしない。
「とにかく! ……私は、アンタが居れば別に、スーパーマーケットに買い物に行くのでも、市場に買いだしに行くのでも……これでいいのよ! 気にしないで!」
「……わかった。服、汚さないように行くぞ」
 ぽん、と頭を撫でて離れていく手を、エリザベータはむずむずした気持ちで見ながら横に並んだ。ギルベルトは赤い顔をさましたがるように、手で顔に風を送っている。ホテルの扉をふたりでくぐって外に出て、同じ方向へ歩いて行く。歩幅が違うのにふたりは並んだままで、エリザベータはギルベルトを見上げた。エリザベータの片手は空いていた。ギルベルトは、手を体の横でふらつかせながら歩いている。拳ひとつ分の距離。
 手の甲が触れ合わないように緊張しながら、エリザベータは甘いコーヒーに口を付けた。もし触れてしまったら、手を繋がないで歩く理由がなくなってしまうだろう。エリザベータはもう一度、ギルベルトに視線を向けた。よろけて、手がぶつかってしまえばいいのに、なんて。思ったのは気のせいということにしておこうと思って、エリザベータはもう一口、コーヒーを飲んだ。
「エリザ」
「なに?」
「……はぐれるなよ?」
 は、とエリザベータは呟きかけて、慌てて唇を閉じた。辺りはそう、混雑している訳ではない。二人はごく自然に並んで歩いていて、はぐれる要素などなにひとつとして見当たらなかった。頬が熱くなるのを感じる。指がむずがゆさに、震えてしまった。エリザベータは恐る恐る指先を持ち上げて、ギルベルトのジャケットの端っこを、きゅぅと握り締める。それが、もう精一杯だった。ぎこちなく視線を持ち上げて、ギルベルトを見る。
「は……はぐれないわ、よ」
「っ……なら、いい、けどな」
 同じく頬を赤くしてぎこちなく言ってくるギルベルトに、エリザベータはこくんと頷いた。すこしだけ残念そうなのは、気が付かなかったふりをした。ばか、と胸の中で罵倒を響かせる。手を繋ぎたいならそう言えば、いくらでも貸してやると言うのに。エリザベータはなるべく、ゆっくりと足を進める。気が付いている筈なのに、ギルベルトはなにも言わずに歩調を緩めるだけだった。二人は視線も合わせられずに、並んで道を歩いて行く。
 エリザベータは、スーパーへ向かう道が遠回りなのに気が付いていても、なにも言わなかった。ギルベルトが、道を間違う筈がないと知っている。だから、なにも言わなかった。よろけたふりをして、背中に額をくっつける。借り物の服からは、それでもギルベルトのにおいがした。



 じゃがいもとじゃがいもとじゃがいもとじゃがいもと、じゃがいもとじゃがいもと、じゃがいもと、じゃがいも。放っておけば延々とそれだけを買おうとするギルベルトの頭を背後からためらいなくぶん殴り、エリザベータは溜息をつきながらスーパーの中を歩いて行く。ローデリヒのお使いとはいえ、あくまで買いに来たのはバイルシュミット家の食糧である。次男が納得しているなら良いのかも知れないが、見逃しにくいものがあった。
 なんだよー、ちぇー、と唇を尖らせながらついて来たギルベルトは、大量購入だけは諦めたらしい。エリザベータの手から器用に買い物かごを奪うと、ごろごろと二十個ほどのじゃがいもを放りこみ、満足そうに頷いたりしている。自由になった腕を持て余しながら、エリザベータは別に、と言ってみた。別にそれくらいなら重くもないし、普通に持てるんだけど。不満そうな女性のもの言いに、ギルベルトは呆れたように目を細めた。
「服。いいのかよ」
「……でも」
「持ってやるって言ってんだ。持たせろ」
 ギルベルトも、エリザベータが見かけに反して力が強いことなど、十分に知っている。フライパンをああも鮮やかに翻す腕の持ち主が、食料品をちょっと買いこんだくらいで困るとも思えない。でも今日は服が綺麗だから持ってやる、とあくまでそこに理由を見つけたのだと告げるギルベルトに上手く反論できず、エリザベータは困った風に笑い、ありがとう、と言うに留めた。別に、ふたりで買い物に来るのが初めてという訳ではない。
 だからこそ、エリザベータは知っている。ギルベルトは、必ず荷物を持とうとするのだ。それはこうして買い物をしている途中だったり、清算を済ませてエコバックに商品をつめかえている最中だったり、帰り道で不意をつかれて、ということもある。いつもいつも理由は違って、こじつけのようなことだったり、嫌がらせだと言い張りたがることもあった。つまり荷物を持たせたくないらしい、とエリザベータが気が付いたのは、ごく最近だ。
 なんでもギルベルトは、エリザベータの手が特別に好きらしい。体の中でそこだけが好きと言うわけでもないらしいが、でもなんか気に入ってるんだってー、とこっそり教えてくれたのはフェリシアーノだ。男性と女性。それだけの差で、エリザベータの手はギルベルトのものより小さい作りで、全体的に細く、華奢で肌は白くなめらかだ。ふっくらとしていて、しなやかで、柔らかい。その手が好きなのだと。フェリシアーノは教えてくれた。
 手、それ自体に思うことがある訳ではなく、たとえば短く清潔に整えられた爪先だとか。そこにうっすらと塗られたマニキュアだとか。水仕事で荒れた肌に塗りこむクリームだとか、それで花やハーブの香りがふわりと漂ってくるさまだとか。そういうのが、なんとなく好きなのだと。アンタそういうことは人様に話すんじゃなくてまず私に言いなさいよ恥ずかしいから絶対聞きたくないけど、と思ったことを、エリザベータは思い出す。
 つまるところ、そういう風に好きな手に、重いものなど持たせたくはないのだ。それだけのことだった。なんという恥ずかしい馬鹿、と衝撃のあまりよろけながら、エリザベータはじゃがいもを苦もなく運ぶギルベルトの背中を追いかけて歩く。食事に関して、特定品目以外は興味を示さない男だ。もうなにを買おうと思うこともないらしく、ローデリヒに渡されたメモに記されたそれらを、ぽいぽいと無造作に籠の中に放りこんでいく。
 菜食主義ではないにしても、ローデリヒは肉や魚より、野菜を好んで口にする。メモに書かれたそれらを全て籠に入れ終わると、見事な野菜の山ができていた。ずっしりと手にかかる重みに苦笑しながら、アイツ普段肉食ってんのかよ、とギルベルトは苦笑する。さすがに同じ気持ちで苦笑しながら、隣でエリザベータはすこしなら、と囁いた。そしてパプリカに手を伸ばす。山と積まれた野菜に、パプリカが入っていなかったからだ。
 エリザベータとギルベルトが一緒に買い物に行ったのなら、じゃがいもとパプリカは、まず購入されると思って間違いはない。ローデリヒもそれを知っている筈なので、さらなる野菜を追加することにためらいはなかった。エリザベータは肉厚のそれらをひとつひとつ手に取り、じっくりと眺めて難しい顔つきになる。
「赤いのが良いかしら、それとも黄……? いや、オレンジ……? 白もいいけど、緑のも捨てがたいわね。紫のもあるし」
「どれでもパプリカであることに変わりはねぇだろ……。なにが違うんだよ」
「見かけと、甘みと酸味のバランス。要は味が違うし、栄養も違うのよ。主にベータカロチンの含有量」
 赤いパプリカを手の中でもてあそびながら、エリザベータは考える様子もなくさらりとそれを口にした。市内の中心部に程近いこのスーパーマーケットは、特殊な食の嗜好を持った『国』が会議中買い物に来やすい立地であるのか、じゃがいもとパプリカ、紅茶とドーナツ、メイプル、そして白米と塩鮭を取り扱っている。前者に対しては種類が多く、後者は通をもうならせるこだわりの、極上の一品が実にさりげなく置いてあるらしい。
 うわああああああありがとうございますうううううっ、とテンションを明後日に振り切らせた菊が、白米と塩鮭を前に叫んだ記憶もまだ新しく、売り場担当者は『国』の嗜好マニアだ、と思わざるを得なかった。『国』の個人情報は、国家機密にすら近い扱いだ。それなのに各『国』にひとつかふたつくらいは、こうした店があるのだから不思議なものである。不思議と、嫌な気持ちだけはしない。温かな、こそばゆい想いが胸に生まれる。
 嬉しくパプリカを見つめるエリザベータの隣で、ギルベルトはぼそりと呟く。
「パプリカ好きすぎじゃね?」
「黙りなさいじゃがいもマニア」
 二人は一歩も譲らない笑顔でしばし睨みあい、十秒後、お互いにどうでもよくなって視線を外した。別に喧嘩したい訳でもないし、これくらいはただの軽口だ。
「うん、赤と黄色とオレンジにしようっと。アンタもちゃんと食べなさいよ?」
 それぞれの色を、二つずつ。ぽいぽいと籠の中に放りこんで、エリザベータはじっとりとギルベルトを睨んだ。この男は特に好き嫌いがない代わり、食欲の波が激しい。小食の時期はエリザベータをはじめとした周囲が心配するくらい食べないし、食欲のある時期は、胃を壊しはしないのか、と不安になるくらいの量を一度に口にする。それで本人はバランスが取れているらしく、身体も体調も維持できているのだから幸いなのだが。
 見ている方としてみれば、それでも小食の時はもうすこし、なにか口にして欲しいのだった。はきとは言わずとも、ギルベルトも分かっているのだろう。努力はするぜ、と苦笑して意思を受け入れる。なんでお前にそんなこと言われなきゃいけねぇんだよ、とあからさまに嫌な顔をして告げられていた時期もあった。それを思えば、随分な進歩だった。ふふふ、と思わず笑みを零せば、ギルベルトは叱られたこどものような顔をする。
 思わず吹き出して笑いながら、エリザベータは口元に手を当てた。
「やだ、なにその顔。かわいい」
「おま……俺に可愛いとかいうの、お前くらいだぞ? 軍の奴らが聞いたら指差して爆笑するぜ……?」
「それって、今までその事実に気が付かなかった自分を指差して笑うってだけのことでしょう?」
 なんの問題もないわねよかったじゃない、とさらりと抗議を受け流して微笑むエリザベータに、勝てる気がしなかったのだろう。帰ったらローデに言いつけてやる、と不穏な呟きを落としてレジに歩んでいくのに並走して、エリザベータはもう一度、笑いに吹き出した。全くギルベルトは、なにも分かっていないのだから。ローデリヒに同意を求めたとて、音楽家は絶対にエリザベータを支持してくれるに決まっている。表情まで想像できた。
 それのなにがご不満なのですか、と不思議がる表情で、ローデリヒはしれ、と言い放つに違いない。よかったではありませんか、周囲が真実に目覚め始めて、と。告げられたギルベルトが床にしゃがみこんで涙ぐむ所まで考えて、エリザベータはたまらず、口に両手を押し当てて肩を震わせた。ギルベルトは本当に、本当に嫌そうな顔でエリザベータを見やり、ぺち、と平手で女性の頭を叩く。痛くもなんともない叩き方だった。
 帰宅して、事態はエリザベータの想像した通りになる。お前ら本当俺の手に余るぜーっ、と涙ぐみながら頭を抱えてしゃがみこむギルベルトの手から食料品がつまった袋を奪い取り、エリザベータは出迎えてくれたローデリヒに、とびきりの笑顔で口を開いた。
「ただいま戻りました。ローデリヒさん」
「おかえりなさい、エリザベータ。ギルベルトも。早く手を洗っておいでなさい」
「……お前ら二人とも、この家の住人じゃなかったよな……? ここ、バイルシュミット家だよな……?」
 ごく自然に出迎えた者も、当たり前に帰って来た者も、バイルシュミットの姓の持ち主ではない。慣れたからいいけどよ、と脱力しながら立ち上がるギルベルトに、ローデリヒはくすり、と温かな笑みを浮かべた。
「ただそれだけのことが、なにか問題でも?」
「……ないな」
「ヴェ、ギルだー! エリザさんも、おかえりなさーい! 俺、ちょうどカプチーノ淹れようと思ってたトコなんだっ。飲むでしょ飲むでしょ? 早くこっちおいでよー」
 ひょこ、と居間から顔を出したフェリシアーノは、そう言って笑いながら帰って来た二人と、出迎えた一人を手招く。天使はおかえりなさいっ、と満面の笑みで腕を広げ、ギルベルトにもエリザベータにも、軽いハグと温かさを送った。ルートー、ふたりとも帰って来たよー、と家の奥にぱたぱたと駆けていくフェリシアーノを見つめ、ギルベルトは深々と脱力しつつ、苦笑して溜息をついた。それは本当に、なんの問題もないことだった。
 帰って来たい家だから、ただいま、と言う。そこが居たい場所だから、おかえりなさい、と出迎える。それだけのことだった。

BACK / INDEX / NEXT