強く扉に打ち付けた拳の震えが、どうしても止まらない。怖いのか、悔しいのか。悲しいのか。吐き気をもよおす濃厚な血のにおいとうめき声の中で、感情は混乱して出口などなかった。息をするのさえ苦労して、プロイセンは震える体を持て余す。情けない。なんて、情けない。ぎゅぅ、と握りしめた拳の白さなど、手袋に阻まれて見えないだろうに。大きく無骨な手のひらが、布越しに手を包み込んだ。温かさが伝わる。
祖国。プロイセン。そう、呼びかけられて顔をあげると、血と泥にまみれた男の顔がすぐ近くにあった。ぼぅ、と見返してしまい、慌ててプロイセンは辺りを見回す。逃げ込んだ砦の内側で、男たちは皆、プロイセンの姿を見つめていた。崇高なものを見つめる眼差しは、責めの色など含んでいなかった。だからこそ悔しくて涙に滲んだ赤色の瞳を、プロイセンは乱暴に拳で擦った。ああ、こら、と慌てて男が腕を取る。
まるきり幼子のかんしゃくを静めようとする声に、プロイセンは力任せに伸ばされた手を振り払い、大きく息を吸い込んで辺りを見た。ひどい、有様だった。ポーランドとリトアニアの包囲からやっとのことで抜け出し、辿りついた砦は、緊張状態のただ中にある。城門の外に一歩でも出れば矢は雨のように降り注ぎ、悲鳴と殺戮は再開されてしまうだろう。どうにかして切り抜けなければいけないのに、怪我人ばかりだ。
むき出しの大地の上に座り込む、男たちの体は切り傷と擦り傷だらけだった。荒々しく抜かれた折れた矢がそこかしこに散らばっていて、生々しくも血のついたそれを、娘たちが慣れた仕草で拾い上げていく。火にくべて燃料にする為だ。うら若い乙女たちは顔をしかめながらも男らの帰還に喜び、今日の生活を続けようとしている。男たちの姿に茫然としたプロイセンを見かねたのか、一人が笑顔で手を振った。
おかえりなさい、祖国。血のにおいにむせ返り、低く響き渡るうめき声に怯えながらも、ぎこちなく笑みを形作って。少年の姿をしたプロイセンを慰めようとする娘の姿は、ただ清らかだった。戦場の張り詰めた空気が、解かされて行く。吹き抜ける清涼な風のごとき姿に、プロイセンはこみあげてくるものを感じながらも頷いた。ひぅ、と奇妙な音を喉で響かせて俯いてしまったプロイセンに、娘たちは顔を見合わせて笑う。
次の瞬間、どっと湧きあがる笑い声。ヤだ泣いちゃったー、祖国ったら可愛いー、とかましく笑いあう娘たちの声が響き、先程プロイセンに触れた男がやれやれと苦笑する。俯いたままでふるふる震えるプロイセンの耳は真っ赤だが、祖国の名誉の為に指摘しないことにして、男は片膝をつき、下から少年の顔を覗きこんだ。キツく細められた瞳が、勝気に男を睨み返してくる。勝ちを諦めていない、強気な眼差し。
「なんだよ、おっさん。こっち見んな。……あああ、もうっ! うっさい! お前ら、うっさいっ!」
がばっとばかり顔をあげたプロイセンが、笑う乙女たちを怒鳴り始める。少女らはちっともそう感じていない様子で口々に怖いと叫び、軽やかな足取りで建物の中へと戻って行った。しばらくは笑い声が風に乗って届き、やがて、また静寂が訪れる。すえたにおいが渦を巻いても、場に重苦しい空気は現れなかった。プロイセンはゆっくりと生き残った騎士たちを見つめ、それから敵を締め出す城門に手のひらを当てる。
先程は感情のままに打ち付けた拳を後悔するように、木と鉄を慈しむように撫でて。目を閉じ、感謝の言葉を口にした。やがて振り返ったプロイセンの姿は、騎士たちが知る通りの、彼らのものだった。勝ちを諦めずに笑う顔つきはどこか自信に満ちていて、微笑ましく思いながらも勇気づけられる。ついていこうと、思う。諦めないことを、誓いなおせる。何度倒れても、何度くじけても、そのたびに。何度でも立ち上がれる。
この国の為に生きていこうと、思わせる姿。片膝をついていた男は頭を垂れ、今一度、己の『国』に対して忠誠を示した。壁に背を預けて動けなかった者たちも、座り込んでしまっていた者たちも。痛みに呻き続けていた者たちすら、歯を食いしばって起き上がり、プロイセンに対して礼を取る。その場に集う、全ての男たちが。痛みも、苛立ちも不安も。恐れも、なにもかもを封じ込めて。ただ、プロイセンに頭を下げた。
誰も、その場から動かなかった。誰も、一声もあげなかった。もしプロイセンが戯れに死ねと口にしたなら、全てがためらいもなく自害したことだろう。もし城壁の外を指さして蹴散らせ、と命じたなら、誰もが我先にと駆け出し戦っただろう。彼らは、命令を待っていた。未だに聞こえる敵兵の雄たけびも、足音も、もう心を揺らすものではありえない。彼らを突き動かすのはたった一つ、国の化身が発する声のみだった。
ふん、と鼻を鳴らして満足げに笑い、プロイセンはゆるく腕組みをして扉に背を預けた。
「よし、良い顔だ。……じゃ、今日は解散。ゆっくり休んで明日に備えろよー、お前ら」
はい、散った散った、とばかりに手をひらひらと泳がされて、盛大な溜息が場に響いていく。せっかく気合入れなおしたのに、それはないだろう、と言わんばかりだった。けれど立ちあがって歩き去って行く誰もが心を口に出さず、不満げな顔などもしていなかった。決められたのだ。すでに命令は下された。ならば、それに従うだけ。三々五々に散って行く荒くれたちを見送り、プロイセンはちらりと視線を足元に落とした。
そこには真っ先に跪いた男が残っており、プロイセンの視線を受けてようやく立ち上がる。軽くひざの汚れを払いながら、それで、と男は祖国を見上げた。なにかおやりになるつもりなのでしょう、と問いかけられて、プロイセンは嫌そうに顔を歪めて見せる。
「なんでだよ。俺、今ゆっくり休めって言ったばかりじゃねぇか。っつかお前も休めよ?」
「貴方が一人で無茶をしないと誓ってくださるのであれば、今すぐにでも」
「……この籠城は、奇跡でも起こらない限り絶望的だ。それはお前らも気がついてるだろうし、俺にも分かってる。でもな、祈って奇跡を待つ前に、まだできることがある。……でも危ない。すごく危ない。だから、俺一人でいい。お前らは、いいから待ってろ」
良い結果だけを連れて帰って来てやるから。そう言い残して行ってしまおうとするプロイセンを許さず、男は手を伸ばしてその体を捕まえた。少年のちいさな体は、よろけて男の腕の中に倒れこんでくると、そこにすっぽりと収まってしまった。かぁ、っと顔を赤くしたプロイセンは、とりあえず抱きしめて離さないようにしている男に顔だけで振り返り、噛みつかんばかりの抗議をする。
「なんだ! 離しやがれ、この馬鹿っ! おっさん! ひげ! はげろ!」
「離したら危ない場所に行くでしょう。このまま運んで差し上げますから、大人しくしていてください」
「なんだそれはー! 俺様こどもじゃねぇー! てめぇらも笑ってないで助けろよっ!」
じたばたじたばた暴れても、背中から倒れこんでしまったこともあって、抜け出すのは不可能だった。体格の差もある。ぎゃんぎゃん騒ぐプロイセンに騎士たちは笑み交じりの視線を向けるものの、男に一礼を送って行ってしまうばかりだった。薄情者が多すぎるぜーっ、と涙目で絶叫するプロイセンに、男は思い切り溜息をついた。どうして分かってくれないのか。この少年を危険に晒すことなど、したくないのだ。
その髪の毛一本まで傷をつけないように守れと、命じられればその通りにするだろう。戦いの最前線にあっても、その不可能に近い命令を、下されたならば遂行してみせよう。けれど危険があると知っていて、残って待っていろだなんて戯言は絶対に聞き入れられない。抵抗するのは、やめにしたのだろう。男に全体重を預けてぶすくれて動かなくなる、という地味な嫌がらせを決行しながら、ぽこぽこと怒りだす。
「俺様、自分で歩いてやらないんだぜー。運べ。その栄誉をお前にやるから、喜び勇んで俺様を運べ!」
「御意に、我が祖国」
ひょい、と体を持ち上げる。しなやかで細い少年の体はしっかりと筋肉が付いているものの、男にしてみれば年頃の乙女を抱き上げる重みとそう変わらなかった。片腕に腰かけさせるようにして歩く男の肩の上、ちょこっと腰を下ろしてプロイセンは不機嫌顔だ。それでも常よりずっと高い視線と、向けられる民の笑顔に心が和んでいくのだろう。しばらくすると男の頭の上に両肘をトン、と置いて上機嫌に語りだす。
「思い出した。おい、知ってるか? 俺様を肩に乗せて歩くと、一月幸せに過ごせるんだぜ!」
「なんですかそれは」
「知らねぇ。でも……ずっと昔、そう言ってたヤツらが居たんだよ。お前がまだ、生まれてない頃に」
ケセ、と独特の乾いた笑いを響かせて、プロイセンはじっとして運ばれていた。そう言えばなるほど、プロイセンの体重のかけ方は相手に最低限の負担しかかけないようになっていて、抱き上げられることも、こうして移動することも慣れているのを伺わせた。ずーっと昔のことだった、と頭の上から声が響く。通り過ぎた過去を見つめる呟き。なにかを思い出すような沈黙が降り、プロイセンの手が男の頭をぺし、と叩く。
「で、オイ。俺が行きたい場所は知ってんのかよ」
「いいえ」
「……若い女が集まって寝泊まりしてる部屋、あるだろ。そこに連れてけ」
思わず視線を上にあげれば、艶やかに輝く赤い瞳と出会う。夕日よりなお鮮やかな、赤。ぎくりと身を強張らせたのは、美しすぎて恐ろしいからだった。プロイセンは男を宥めるように静かに微笑むと、大丈夫だ、と肩を叩く。
「悪い事はなにもしない。ただ……必要なだけだ。俺を送ったら、お前は下がっていい」
俺様と違ってお前はきっと居心地が悪い、とによによ笑われて、男はいっそ憎々しげに祖国をみやった。婦女子の集まる部屋にたった一人訪れて、居心地の悪くないものが居たら連れて来て欲しいものである。もちろん羨む為ではなく、八つ当たりで殴る為なのだが。そのままどこかに行かないでくださるのなら、と告げる男にこくりと頷き、プロイセンはお前を信頼してる、と言った。なにより甘く響く、命令の響きで。
「だからお前、選んで来い。人数は四人。なるべく若い、身長の高いヤツがいい。俺に命を預けて、俺と共にその場所に赴き、俺の命令あるまで決して動かない者たちを。四人だ、選んで来い。俺の準備が終わるまで、まあ二時間くらいだろう。その間に。……お前は、来るな」
眼前に、女たちの部屋が見えていた。明りと笑い声が漏れ聞こえるのに笑みを緩ませて、プロイセンは男の肩から飛び降りる。身軽な子猫の仕草で着地し、背を伸ばして振り返り、仰ぐ。口元に浮かべた笑みは、了承の言葉だけを待っていた。お前は来るな、ともう一度呟く。
「連れてったら、お前は死ぬ気がする。だから来るな」
くる、と背を向けて。悠然と歩いて女部屋に消えた祖国の背をじっと見つめ、男は無言で頭を下げた。死ぬな、生きろ、と直接言われたわけではないのだけれど。そう思って遠ざけた優しさが嬉しく、物悲しかった。民が傷つけばそれを見て心を痛め、死に倒れれば必死に隠しながらも泣き顔を見せる『国』という存在。特別だ、と感じることは多い。しかし全てがそうではなく、普通の人間と変わらない面も持っている。
ならば戦争は、辛いばかりだろう。幾度となく繰り返される争いに、双方の国の消え行く命に、『国』はなにを思うのか。いつか聞いてみたいと思いながら、男は身を翻して早足に歩き出す。なるべく無傷の者を、それでいて精鋭を、四人選ばなければいけない。己の命を託すような気持ちで。廊下を曲がる前に、一度だけ振り返って部屋の入り口を見る。明るい光と笑い声が漏れる、その中に。少年の声はなかった。
もういいですよ、と声をかけられて、ゆるゆるとまぶたを持ち上げていく。意識は留めていたものの、ずいぶんぼんやりとしていたのは確かで、眠りから覚めたのとそう変りない気持ちだった。くぁ、とあくびしながら立ち上がって頭を振れば、かすかな音を立てて短い髪が床に落ちる。散髪の為に体に巻いていた布を外せば、随分すっきりとした気持ちでプロイセンは大きく伸びをした。ケセセ、と陽気に笑う。
「おー! どうだ、どうだっ! 男前な俺様が、さらに格好良くなっただろ! 褒めてもいいんだぜ?」
「やだ、もう。御国ったら、可愛いんだから」
しゃきしゃきハサミを鳴らしながら笑う少女に、プロイセンはがくーっと脱力した。可愛いは褒め言葉ではない。すくなくとも少年に取っては。違うだろっ、と即座に気を取り直して言いなおしを要求しても、少女たちはきゃっきゃと笑いあうだけでプロイセンの言葉など聞いていないようだった。くすん、と鼻を鳴らして鏡台の前に歩み寄り、出来栄えを映してにまにまと笑う。男にしてはすこし長めの、きれいなショートカット。
にまにま笑いながら、俺様ちょう似合う、と呟いていると頬に手が伸びてきて顔の向きを変えられる。ぐき、と首が鳴った。痛いっ、と叫ぶのにおやすまないねぇ、と平然と言葉を返し、恰幅の良い女性は涙目のプロイセンを椅子に座らせた。それからふくふくとした柔らかな指先で頬を撫で、前髪をのけて、女性はプロイセンを褒め称えるように微笑する。
「うん。可愛いじゃないか。よく似合っておいでだよ、我が祖国」
「……違うもん。俺様、小鳥のようにかっこいいんであって、可愛いんじゃないだぜー」
「今からおやりになることを考えれば、可愛らしいほうが良いんじゃないのかい?」
つん、と頬を突っつかれて、プロイセンは上手く反論も出来ずに頬を膨らませた。それは一応その通りではあるのだが、だからと言って女性に可愛いを連呼されて純粋な喜びなど感じないのだ。かつて傍らにあった存在ならば、ともかく。一瞬、思い出して目を彷徨わせたプロイセンに、女性は微笑ましげな表情を見せる。想う相手は知らずとも、心に誰かを住まわせていることは明白で、嬉しい事だと思ったからだ。
今も、この城を取り巻く者たちの中に、その存在がいなければ良いと願う。はやくー、と急かしてくるプロイセンに苦笑して、女性は濡れタオルで少年の顔を拭き、それからすこし考えて化粧水を手に取った。あんまり動くんじゃないよ、とこの相手にはさして効果が得られないであろう注意も一応響かせて、それを肌になじませていく。プロイセンは足をふらふら動かしながら、不思議だよなぁ、と心の底から呟いた。
「女って、毎日こんなことしてんだろ?」
「そうだねぇ」
「顔にそんな塗りたくらなくったって、胸あればい」
良いじゃん、と言おうとしたに違いない。呆れながら沈黙する女性の目の前で、プロイセンは髪を切ってくれた乙女に殴り倒されていた。涙目で頭を押さえるプロイセンに、室内の少女たちから非難の声が突き刺さる。最低すぎる。これだから男は。体だけが目当てっぽい。気持ち悪い。女性の敵。日ごろの苦労を分かってない、と散々言われたプロイセンは、なんだよーっ、と本気泣き一歩手前くらいの表情で叫んだ。
「お前ら全員可愛いんだから、小細工しなくても十分だって褒めたんじゃねーか!」
「我が祖国。その辺りまでにしておかないと、また殴られるよ……」
小細工ってなんだーっ、と叫びだしそうな少女たちを視線で宥め、女性は女の扱いが下手にもすぎるプロイセンに大きく溜息をついた。彼は祖国だ。けれど少年の姿をしているからなのか、言動があまりに年相応だからなのか、どうしても近所のこどもに対する扱いと同じになってしまう。別段、本人がそれを怒ったりはしていないので、あまり気にはしていないのだが。国民にこうも怒られる『国』も、あまりないだろう。
ちくしょうレース、そしてリボンを探せっ、と絶叫する少女たちに、プロイセンの顔が青ざめる。なぜなら少女たちが探している服は、これからプロイセンが着るものなのだから。なるべく年頃の女が着るような服で、俺が着られるようなものを、と注文したのはプロイセンだ。だがレースもリボンも、頼んではいない。なんだあいつら苛めじゃねぇかっ、と涙ぐむプロイセンの顔に化粧を施しながら、女性は深々と息を吐く。
「そういうのであれば、アンタが気を取り直しやしないかと期待してるんだよ。皆ね」
「……言っとくが、どんな服でも着るからな。どうしてもないなら、普段ので行く。ローブだけ借りるけど」
「いざとなったら、若いのを盾になさるんだよ。アンタは、それでいいんだ」
まぶたに、そして唇に紅を引こうとする女性の手が、強い視線に止められる。プロイセンは、決して睨んでいるのではない。ひた、と狙いを定めて近く見つめてくる瞳は、感情を伺わせない静かなものだった。ゆっくり、首が振られる。やらない、と紅を引かずとも花色をした唇が告げる。やらない。しない。決して、それだけは行わない。少女たちの笑い声が明るく響く部屋の中、プロイセンは淡々と言葉を紡ぐ。
「やるなら、逆だ。矢を射られても、どんなにひどい怪我でも、俺は死なない。けど、お前らは死ぬんだ」
「御国」
「……俺の国の女は、いつだって、俺様にそう言う」
優しいんだ。ありがとう。泣きそうな様子で微笑んで告げられ、女性はプロイセンを胸に抱き寄せた。素直にもたれかかってくる少年の体は、熱い。本当なら決して、起きていて良い体調でもないのに。虚勢を張って、まるで平然とした様子で笑って。そしてこれから、逆転の可能性にかけて出かけていく。この国を守る為に。一人でも多く救う為に。これ以上は損なわせない為に。プロイセンの手が、女性の背を撫でる。
「大丈夫だ。ありがとうな」
「……御国。これでいい?」
様子を伺っていた少女たちの中から、一人がそっと進み出てくる。その手に持つ服に視線を落として、プロイセンはいや良いとか悪いとかもうそういう問題越えてねぇかそれ、と思い切り顔をひきつらせた。白い。一言で言うと、白い服だ。生地は、こんな戦地では滅多にお目にかかれない上等のもの。
「……お前それ、結婚式に花嫁が着る服じゃね?」
「そうよ。私の。でも御国なら貸してあげてもいいわ。汚さないで破かないで戻ってきてね?」
「いやいやいやいや、落ち着け俺様の国民よ。普通の服でいいんだ普通の服で! なんで晴れ着なんだよ!」
嫌だ。違う。これダメ、と首を振るプロイセンに、少女は無言でドレスを押しつけた。おい、と不愉快げに眉を寄せるプロイセンに、少女は真っ赤な顔で叫ぶ。どうして分からないのよ、と切り裂くように響いた声は、ただ悲しげだった。
「なんにも、なくて……無事に、戻ってきて欲しいからに決まってるじゃないの……っ!」
「……でもな」
「聞かない。聞かないんだから。御国の言うことなんて、聞いてあげたりしないんだからっ」
ぐいぐいドレスを押しつけて素早い動きで飛びのき、少女は偉そうな仕草で腕を組んだ。嫌になるくらい、プロイセンそっくりな仕草だった。ああ、この国に生まれ育った女だ、とプロイセンは思う。そして、押し付けられてしまったドレスに目を落とした。よく見ると、まだしつけ糸も付いていた。溜息をついて椅子から立ち上がり、その場で着ていた服に手をかけて足元に落とす。服の下は傷だらけで、包帯ばかりだった。
痛ましい視線を感じながらも目をあげず、プロイセンは溜息をつきながらドレスに身を通す。ウエストがきつい。そして胸がゆるい。問題はその二点だけで、着られてしまった自分になんだか絶望感が漂ってくる。ううぅ、と呻きながら鏡を覗き込むと、きちんとそう見えるように化粧したこともあって、それなりに似合ってしまっているのが悲しい。絶対にこれ、将来の黒歴史だ。終わったら忘れよう、とかたく決意する。
やれやれと溜息をつきながら、用意してあった薄手のローブを頭からかぶった。前髪もきっちりと隠してしまえば、それなりに少女めいて見えるから不思議である。ほぅ、と思わず息を吐いた室内の女性たちを振り返って見やり、プロイセンは真剣に嫌そうな顔つきで言った。
「なあ、似合うか?」
満場一致のja、だった。俺様ちょう泣きそう、と遠い目をして呟き、プロイセンは部屋の出口へと向かう。そこにはすでに選ばれた四人が待機していて、現れた祖国の姿に誰もがぎょっと目を見開く。プロイセンはぶすくれた顔で、なにも言うな、と歩き出す。その背を慌てて負いながら、軍旗を持った青年が深々と頷く。
「だ、大丈夫です、祖国! お似合いです! 可愛いです!」
「そうです! 俺に彼女が居なかったら交際を申し込みました!」
「今すぐ黙れ。さもなければ黙らす」
ぐ、と拳を握ってにっこり笑いながら、言葉はとびきり物騒だった。黙りますっ、と叫んで口を閉ざした若者たちに溜息をつきながら、プロイセンは四人の顔をじっくりと眺める。四人のうち二人は軍旗を持ち、二人は手になにも持っていなかった。注文通りだ。よしよし、と頷いて、プロイセンは旗持ちの二人に覚悟はあるか、と問いかける。気を引き締めた顔つきで、青年たちは首肯した。にぃ、と笑ってプロイセンは告げる。
「お前たち二人は、俺の命あるまで決して動いてはならない。決してだ。なにがあっても振り返ってはならない。ただ前を向いて、旗だけ持ってろ。……で、もう二人。お前らも同じく、俺の命あるまで決して出てくるな。っつーか、しゃがみこんで待機。いいか、待機だぞ? よし、と言ったら立ち上がれ。あとはまあ、いつもと同じだ。最後に。これが一番重要だから、確認しておく……お前たちは、俺に命を預けられるか?」
四人分、ぴったりと重なった声が当たり前を叫ぶ。プロイセンは満足げに笑って頷き、預かった、と拳を突き出す。
「今から、お前たちは俺のものだ。俺の許可なく死ぬな。……俺のものだ。なにも損なわず、戻してやるよ」
だから、安心してついてこい。ふわ、と優しく微笑んで告げられた言葉に、唱和する返事。うっとりとそれを聞いて、プロイセンは身を翻して歩き出した。目指すのはこの城の、一番外側。見張り台だった。