眼前にそびえる城は闇の中に黒く、堅牢に鎮座していた。そう簡単に攻め落とせるものとも思えない。それでいてどこか、追い詰められているような焦燥が感じ取れるのは、籠城戦に持ち込めたからだろう。ああこれで終わりそうだ、と馬上でひっそり息を吐くリトアニアの背に、ずしりと重みがかかる。突然のことでも慌てず騒がず馬を宥め姿勢を立て直し、リトアニアは同乗していたポーランドに形ばかりの抗議をした。
「ねえ、ポーランド。危ないから、寄りかかる時は言ってって、言ったよね?」
「そんなん知らんしー。それよりリト。ほら、空見るんよー。星が綺麗だしー!」
馬に普通に乗るリトアニアと背をくっつけているポーランドは、それが当たり前のような顔をして逆向きに腰かけている。遠慮なくぐいぐいと背に力を込めて押しやられて、リトアニアはわずかに苛立った。相手に緊張感を求める方が間違っているのは知っているが、様子を見に来ているのだから、そんなに無防備にはしゃいで声を出すのは止めて欲しかった。しかし重ねて言い聞かせても、二秒で忘れる相手である。
大人になれリトアニア、もう付き合いも本当に長いんだからと腹の底から息を吐き出して、求めに従って顔を城から天へと向ける。とたんにひゅぅ、と息を飲む音に、ポーランドはけらけらと笑った。な、な、言った通りだしー、とはしゃぎまわる声が、星明りの闇夜に響く。
「こんな綺麗なもん見ないで、城ばっか睨んでるリトは馬鹿だしー!」
満天の星空だった。見える限りの天に、おびただしい程の星がひしめき合っていた。吸い込まれてしまいそうな、引きずり込まれてしまいそうな美しさに恐怖すら感じる。綺麗過ぎて、怖い。ごく軽く眉を寄せて黙り込んだリトアニアに、器用に身を反転させたポーランドが抱きついてくる。今度こそバランスを崩して大慌てするリトアニアに、ポーランドはぎゅぅと抱きついて首を傾げた。怖くなんてないしー、と無垢に笑う。
「リトは俺が守ってやるんよ。星が降ってきたとしても大丈夫だしー!」
「……昼間、ポーを守ったのは俺だと思うけどね」
傘させばいいと思うんよ、とおおはしゃぎで、逆に星が降るのを楽しみにしているようなポーランドの頭を撫でてやる。いつも、そうだった。危ない橋を全力疾走するポーランドの安全を守るのがリトアニアの役目。ふとした瞬間に怯えてしまうリトアニアの心を抱きしめて、笑ってくれるのがポーランドの役目。もう何年も、何十年もそうやって生きて来た。生まれた時からそうしていたように自然に、二人で寄り添って傍に。
今はこんなに近くにいるけれど、体の距離なんか本当は関係ないのだ。たとえ敵地の只中に片割れを置き去りにしたとしても、心は奇妙に凪いで落ち着いている。それは荒れ狂うリトアニアの心をポーランドが抱きしめて待っていてくれたからで、そして信じていたからだった。戻ってこない、だなんて。見捨てられてしまう、だなんて。そんなことは絶対にない。リトアニアが『トーリス・ロリナイティス』として存在する限り。
ポーランドが『フェリクス・ウカシェヴィチ』としてこの世にある限り。それは息を吸うより当たり前のことで、太陽より輝く二人の絆だった。なんだか嬉しくなって笑いかけると、ポーランドはぴかぴかの笑顔でリトアニアに抱きついてくる。今度こそ姿勢を崩さず抱きとめて、リトアニアは己の愛馬にしみじみと感心した。ちょっとした偵察にポーランドがくっついてくるのはいつものことでも、随分と慣れてくれたものだ、と。
帰ったら念入りにブラッシングして、よく休ませてやろう。そう思いながら背を軽く叩くリトアニアに、馬は軽くいなないて満足げだ。その馬首が、不意に闇にそびえたつ城を向いた。同じくぴく、と身を震わせ、『国』の化身たる二人も視線をやる。なにか、動いた。ほんのわずか、なにかが起きている。耳を澄ませても兵士たちの足音はせず、遠すぎてここからではよく分からない。心がざわめいた。いったい、なんだろう。
戻るか、それとも様子見で留まるか。わずかな迷いを打ち破ったのはポーランドで、少年のしなやかな腕が持ち上がる。す、と指差したのは城壁。見張りの兵も姿もなく静まり返っていたその壁の上に、白い布が揺れていた。遠目に一瞬、花が咲いているようにも見える。なんだ、と不審げに呟くリトアニアに、目を細めて『白』を睨みながらポーランドが呟く。ひと。ひとが、白い服を着て、城壁の上を歩いている。
思わず、ゆるく馬を走らせて城に近づくリトアニアを、ポーランドは責めなかった。ただハッキリ人影であると認識できる距離になると、リトアニアの腕に手をやってそれ以上を止める。二人は険しい視線で城壁を、その上を歩く人影を見ていた。信じられないことだった。あり得ないことだった。ローブに覆い隠されて顔は見えないが、そのシルエットからは少女のようにも思える。こんな深夜に、こんな状況であるのに。
その上よくよく見れば、はだしであることが見て取れる。足元で踊る長い衣をふわりふわりと遊ばせながら、人影はまるで舞うように城壁の上を移動して行った。時折、危なげなくくるりとターンしては、ゆるく吹く夜風と遊んでいる。足をすこしでも踏み外せば、城壁の下に落ちてしまうのに。下に受け止めてくれる人影なんてものはなく、ただ冷たく硬い土に叩きつけられるだけなのに。踊るように、軽やかに素足が動く。
目にしているものが信じられない気持ちで、リトアニアもポーランドも、ただ茫然としてそれを見上げていた。そうしているうちに、離れている場所に置いてきた兵たちが、指揮官らの異変に気がついたのだろう。馬をかけさせて近づいてきて、そして同じように眼前の光景に釘付けになる。そうだろう、とリトアニアは思った。誰も、戦場に居る者ならば誰も、この光景を正気のものとして受け止めることなど、できない。
外が、ざわめきを増したことに人影も気がついたらしい。ふ、と進む足が止まって、ローブに覆い隠された顔がゆるりと向けられる。思わず凝視してしまうリトアニアだが、残念なことに顔の確認は出来なかった。けれど、なぜか、笑ったように思えて首を振る。笑うなど、できるものか。この状況で。思わずすがるようにポーランドの手を握ると、同じくらいの強さで握り返される。息を吐くと、ずいぶん肩の力が抜けた。
「……射落としますか?」
弓兵が難しそうな顔をしながら問いかけてくるのに、リトアニアはしばし考えて首を横に振った。もうすこし泳がせて様子を見よう、と言い放つリトアニアに、兵たちは即座に戦闘態勢を整える。二人の司令官を守るように円陣を組み、何人かは弓に矢をつがえて人影を狙う。射はしない。けれどいつ射られてもおかしくない状況が、あちら側から見えていない訳もないだろうに。人影は興味を亡くしたように、再び動く。
くるくる、くるり。先程よりずっと軽やかな足取りで、危険性など全く分かっていないように、人影は踊りながら城壁を移動していった。満天の星空の元、漆黒に塗りつぶされた城の先、純白の人影が踊っている。呼吸が圧迫されるほど、恐ろしく美しい光景だった。人は、一生忘れることができまい。『国』である存在なら、いつまで記憶に刻まれるのだろうか。浅い息を吐き出したリトアニアに、ポーランドは寄り添う。
大丈夫。二人で入れば怖いことなど、なにもない。気持ちを楽にして、リトアニアはそれでも視線を離せない。風に衣が踊っている。誘うように舞う影が、不意に動きを止めて一団の方を向く。明らかに、そこに『敵』が存在するのだと、やはり気が付いていたのだ。一瞬で気色ばむ兵士たちをあざ笑うように、人影はくる、とその場で一度回った。長い衣が風に揺れる。両腕が何かを求めるように持ち上がり、止まった。
その瞬間、人影が闇の中に白く浮かび上がる。城壁にいくつもある燭台に、火が灯されたのだ。それは瞬きよりも早い出来事。気がつけば炎は燃え上っており、そして白い人影の後ろに兵が二人、控えていた。それぞれ手に旗を持ち、長い柄を交差させて静かに控えている。奇妙なことに、旗持ち兵は二人ともこちらに背を向けて立っていた。リトアニアたちを正面から向いているのは、依然として『白』だけだ。
ぞっと、背筋を戦慄が駆け上って行く。ダメだ。あれは、あのままにしておいてはダメだ。射落とせっ、とリトアニアの鋭い命令が闇を切り裂くのと同時だった。ポーランドは、それを目を細めてしっかりと見ていた。リトアニアが耐えきれずに命令を下すのを、『白』は待っていたようだった。にこ、と唇が笑みを描く。赤い、赤い唇。息を吸うように薄く開いたそれが、ポーランドたちには聞こえない声で言葉を紡ぎあげる。
守れ。たったそれだけの言葉に、従う者があった。恐らくは足元に控えていたのだろう。『白』を守るように立ちあがった二人の兵士が、飛んできた矢を剣で叩き落とす。『白』が笑う。日焼けの後のないような喉をのけぞらせて、こちらまで声を届かせない声で、しかし笑う。くすくす、くすくすと。いかにも楽しげに。いかにも馬鹿にしたように。いかにも、己の守護者たちを褒め称えるようにして。くすくす、くすくすと。
それは婀娜っぽい仕草であるのに、感じる印象はどこまでも清らかだった。透き通っていた。この世のものではないような透明感をまとって、『白』はただ眼前の『敵』を見下ろしていた。追い詰めて城に立てこもらせたのはリトアニアたちの筈なのに、気圧されるのはどうしてなのか。ぎゅ、と唇を噛んで動けないリトアニアの前で、『白』が再び動く。その背に誇り高き自国の旗をはためかせて。傍らに、守護者を従えて。
そして今度こそ、誰の目にも明らかなように。『白』は笑った。ばさぁっ、と布が広がる音が響く。
「攻め落とせると思うなら、待てばいい。我らはここに立て篭もる。勝てると思うなら、来ればいい」
腕を広げて、星空をその中に抱きしめたがるように。『白』はすこし高い透きとおる声で、誇り高く告げていく。それが地声ではなく意図的に高音で響かせていると分かっていても、リトアニアは馬上でふら付いた。ポーランドも同じように、どこか青ざめた表情でリトアニアを支える。なんだ、これは。なんだ、あれは。なんなんだ。正体不明の者に対する未知の恐怖と、どこか知っているような奇妙な感覚が入り混じる。
ふ、と『白』は笑った。そのひょうしにすこしフードがずれ、目元の辺りが明りに照らされる。眩しげに細められた瞳の色は、青。よく晴れた日の草原の青空だった。可愛らしい顔つきで勝気に笑い、『白』は動けない『敵』に向かって言い放つ。
「待っていられるなら、待っていればいい。風が冷たくなって来た。……夏が終わるぞ!」
「……あ」
はっとして息を飲み、リトアニアは目を見開いた。いつの間にか、うだつ様な夜の暑さを感じなくなっている。吹き抜ける風は、確かに冷たくなっていた。血の気が引いていく。それってつまり、とポーランドが首を傾げた。つまり、とリトアニアが震える唇を開く。
「あ……秋。秋になっちゃう……!」
「実りを放棄して攻め込むのであれば受けよう! ここから動かず、この国から動かず、この地で戦いを受けよう!」
収穫の大切さを、知っているからこその言葉だろう。笑いをおおく含んだ声に反論できず、リトアニアは馬上で手を握り締めた。まさか、まさかこんな風に来るだなんて。え、小麦とかまさか、と珍しく状況を理解してしまったらしい、ポーランドの血の気の引いた声が響く。兵士たちにも動揺が広がって行った。長引けば不利になるのは、どちらも同じ。しかし国としてどちらがより打撃を受けるかは、もう明白だった。
男たちは家族を国に残して戦いに来ている。女子供でも収穫は出来るが、難しい事は確かだろう。秋が終われば、長い冬が訪れる。戻ってきた男たちを食わす食料がなければ、国は必然的に疲弊するのだ。夏で終わらせてしまうべきだったのだ。歯を食いしばるリトアニアたちの表情が、『白』にはもしかしたら見えたのかも知れない。『白』は笑って、笑って、そして自信に満ち溢れた声で城内に向かって言い放つ。
「さあ、勝ち鬨の声をあげろっ! 俺たちの勝利だっ!」
ごう、と音を立てて大地が揺れた。追い詰められた城が、追い込まれた者たちの歓声で揺れていた。大地を揺らしてしまうほどの歓喜。ああ、だめだ、とリトアニアは思う。これではもう、勝てない。負けないにしても、勝てない。夕方までなら簡単だったかもしれないが、今、こんなにも戦意が高揚してしまった一軍を、迎え撃つにはこちらも疲れている。深く、ゆっくりと息を吐いて、リトアニアは城壁を仰ぐように見つめた。
目的は果たしたのだろう。『白』は兵士に手を差し出され、その場から離れる所だった。視線に気がついたらしい『白』が、口元だけで微笑んでフードに手をかける。けれど、その顔があらわになるより早く、リトアニアはポーランドの手によって強制的な視界移動をさせられていた。リトこっち見るしーっ、とぽこぽこ怒って顔を引き寄せたポーランドは、リトアニアが『白』を見つめていたことが気に食わないらしい。
首を痛めながらも視線だけで見た城壁の上、すでに『白』の姿はなかった。落胆の息を吐き出しながら、リトアニアはポーランドを軽く抱きしめ、はいはいごめんね、と謝罪した。分かればいいしー、とご機嫌な声でポーランドはおうように頷いた。くっつけて寄せ合った体からにじむ体温が、じわじわと心をほどいていく。戦いで、そういえば疲れていた、と。ようやく、リトアニアは自覚した。口からはもう、溜息しか出ない。
「……帰ろうか、ポーランド」
「リト?」
きょと、と目を瞬かせるポーランドと額をくっつけて、リトアニアはにこっと笑った。戦争中だから、意識はあくまで『国』のものだ。個人としての感情は未だ奥底に沈んで眠っていて、目覚める様子を見せない。それでも帰りたいと思ってしまうのは、国民の多くがそう願っているからだ。戦いの間の『国』は、国民の願いに考えのすべてを左右される。ならば、もういい。幸福な気分で微笑んで、リトアニアは言った。
「うん。帰ろう? 小麦畑が待ってるよ」
それでパンを焼こう。外側がパリパリで硬くて香ばしくて、中が甘くて白くてもちもちの、ポーランドが好きなパン。眠りにつくようにゆるく目を閉じて囁くリトアニアに、ポーランドはわずかにためらい、それからうん、と頷いた。
「小麦だけじゃないしー、きのこもあるしー! 俺が食べる係で、リトが取る係なー? 決定だしー!」
「えー、ポーも手伝ってよ……」
くすくす、と。額をくっつけあって親密に笑いあう司令官たちに、かける声も持たず兵士たちは苦笑していた。彼らをぐるりと見回して、リトアニアはとりあえず本陣に戻ります、と告げる。兵士たちは従順に頷き、先導する者が先にかけていく。リトアニアはもう一度だけ城壁を振り返り、そして前を向きなおした。帰ろうか、と笑う。ポーランドがそれでこそリトだしー、とくすぐったそうに嬉しそうに笑い、抱きついてきた。
危なげなく、抱きとめる。幸せだからまあいいか、とリトアニアは思った。
平和になったなぁ、とぼんやり思いながら、トーリスは会議終了後の室内を見回していた。ふあ、と口からあくびがもれて行くのはうっかり居眠りをしてしまったからであり、見ていた夢があまりに鮮烈だったせいだ。タンネンベルクの戦い。その終結直前の夜。あの後、『国』同士ではなく個人的に会う機会があったギルベルトにあれは誰だったのかと問いかけても、答えは記憶を失え今すぐに、で教えてもらえてない。
そのギルベルトと言えば、体調の悪さを理由に会議を欠席したのにも関わらず、行方不明になったことで怒られている。十五分の休み時間を延長させて行われた捜索は、大規模になることなく終わったので、それは幸いなのだが。ルートヴィヒにも庇ってもらえず、エリザベータにもすこしむくれた視線で睨まれているギルベルトは、菊にお説教されている真っ最中だった。なぜか、きちっと床に正座をさせられている。
うろうろと視線を彷徨わせるギルベルトの顔色は確かに良くないが、起き上がれるくらいにはなっているのだろう。一応、昔馴染みだ。ほっと胸をなで下ろすトーリスの視線の先、菊の雷が落ち続ける。
「いいですかお師匠様! 私は眠っていてくださいね、と言ったんですよ! 眠っていてくださいと! それなのになんですか貴方は、ふらふらとどこかに出かけてしまってっ! そんな捜索フラグ立てられてもこちらとしては嬉しくないんですよ心配なんですよ! それになんですかチャペルに居たってっ! 出かけた先がチャペルとかなんなんですかお師匠様萌えの予感がするのでそこの所を詳しく! くわしくっ!」
「菊ー、きくー。お前、会話の方向性ずれてるぞー」
怒っている相手から突っ込みが来るのは、いかがしたものなのか。やや呆れながら菊に視線を移すと、極東の島国はなぜか胸を張っていた。無駄に凛々しい。菊さんかっこいい、とかつて『ロシア』を下した帝国に胸をときめかせていると、それを木っ端微塵に砕くような声が響いた。もちろん、菊の。はんっと相手の主張を鼻で笑い飛ばし、菊は腕組みさえして言いきった。
「大いなる萌えの前に、私の怒りなど。それに怒るのはルートさんとエリザさん担当ですので、私もういいです」
「なあ、菊。今一度、正気に戻ってみる気はないのか。なんだその、やりとげようとする漢の顔」
「だってお師匠様! お師匠様で萌える日が来るって、なんですかその私の楽園! だからお願いしますそこ詳しく」
おーい、王呼んで来いー、と誰かの声が響く。ここまで暴走した菊を止められる存在など、もはや一人しかいないのだ。ギルベルトが宥めるも、菊は目を爛々と輝かせて食いつくばかりで落ち着かない。世界って、平和になったなぁと思いながら目を反らし、トーリスは椅子から立ち上がった。会議が終わったので、帰ろうと思ってのことだ。忘れ物がないかだけを簡単に確かめ、トーリスは大きく伸びをして息を吸う。
ふと、窓の外に視線が引き寄せられた。まだ夕刻にもなっていない昼空は、眩しいくらいに青く美しい。あの『白』の瞳が、ちょうどこんな色だった。ぼーっと見つめてしまうトーリスの背に、どん、と衝撃が走る。慣れたもので、トーリスは苦笑しながら腹に回された腕に手を添えた。
「なーに、フェリクス。いきなり来たら危ないし、痛いってば」
「トーの言うことなんか聞いてやらんしー! なー、なに空なんか見てたん? 面白いもんでもあるん?」
不思議そうにトーリスの視線の先を追い、フェリクスは騒がしく問いかけた。その頭を習慣的に撫でながら、トーリスは苦笑しながら口を開く。なんでもないよ、と誤魔化しても良かったのだが、なんとなく言いたい気分だった。んー、と口ごもって言葉を選びながら、ささやく。
「フェリクスはさ、タンネンベルクの……城壁の『白』って、覚えてる?」
「城壁の、『白』?」
なにそれ、とばかりにフェリクスの首が傾げられた。覚えてないなら良いよ、と笑ったトーリスは、空を見上げて目を細める。やっぱり、こういう色の瞳だったな、と思いながら。帰ろうか、と声をかけようとした矢先、フェリクスの顔があがる。フェリクスはきらきら目を輝かせながら、あああ、と声をあげた。
「あれか! 『城壁のマリア』!」
ごすん、と妙な音が響いた。驚いて視線を向けると、なぜかギルベルトが会議室の床に突っ伏している。菊もぎょっとした目を向けているので、殴ったとかそういうことではなさそうだった。なんだろ、と思いながらも興味を戻して、トーリスはなにそれ、と逆に問い返す。教えてやれることが嬉しいのだろう。フェリクスはなぜか誇らしげに、胸を張って言う。
「やー、あれ、敵ながら綺麗だったじゃん? だからウチだと、あの後、あれを『城壁のマリア』って呼んでたんよー。聖母っていうには荒々しくて怖かったけど、でもそんな感じせん?」
「ああ、うん。そうだね。ぴったりかもね。『城壁のマリア』かぁ……」
そんな感じ、そんな感じ、と頷きあう二人の視覚に入りたがるように、ギルベルトがもぞもぞと動く。エリザベータはなにか考え込む様子で額に手を押し当てて沈黙し、ヴァルガス兄弟とルートヴィヒはもの言いたげに視線を交わし合った。彼らの様子にまるで気がつかず、トーリスはフェリクスと並んで会議室を出て行こうとする。思っているより声が広範囲に響いてしまっていることも、もちろん気がついていなかった。
「今日の青空みたいに、綺麗な瞳だったな、と思って」
「あー! 分かる、分かるしー! すごい綺麗な青い瞳だったしー!」
「だよね。それを思い出して、聞いてみただけ。……さて、スーパー寄って帰ろ。きのこ食べたくなっちゃった」
次の休みに二人で森できのこ狩りをする約束を交わし、二人は騒がしく会議室を出て行った。すでに人がまばらな会議室には、休み時間に問題を巻き起こした張本人たちが残るくらいだ。その、一番の問題人物。ギルベルトは耳まで真っ赤に染めて床に突っ伏し、黒歴史っ、とひたすらに呻いている。菊はなにかを察したらしく、によによによによ笑いながら、ひたすらメモ帳に文字を書き込んでいた。光の速さだ。
立ち上がれないギルベルトの前に、エリザベータがしゃがみこむ。いよいよ逃げたくなったらしいギルベルトは、うつぶせで倒れたままで視線を彷徨わせ、いやそれは誤解だからなエリザベータ、と呟いている。女性は、うん、と頷いた。
「誤解、ね。分かってるわ」
「だ、だよな……。あのエリザさん、笑顔が怖いというか俺逃げたい菊! 菊ちょっと俺様を助けろっ!」
「お願いします師匠! そこ詳しくーっ!」
ギルベルトは明らかに、助けを求める人選をミスしていた。きっらきらの笑顔で詰め寄られて、ギルベルトはもう意識を失わんばかりに憔悴している。そんなギルベルトの頬を、エリザベータは優しく手で撫でた。そして視線を合わせると、にこ、と微笑む。
「じゃあ、誤解を解いてもらいましょうか。今のあれ、なに」
「お、おおおおおおっ!? い、いいかエリザベータ、人には思い出してはいけない黒歴史というものが……!」
「聞こえない」
びし、とギルベルトの主張を切り捨てて、エリザベータは透き通るような笑みを浮かべてみせた。ルートヴィヒーっ、とマジ泣きの声で助けを求められて、男の弟がやれやれと動きだす。そしてエリザベータとルートヴィヒが、ギルベルトの所有権をめぐって争い出すのを見つめ、ヴァルガス兄弟は頷いた。うん、平和だ。だから今日の夕食はパスタ、そしてトマトにしよう。決定、と呟いて二人は会議室を出て行った。
ギルベルトが無事に逃げられたのか、二人は知らずに帰途についた。