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 ひよこ日記

 正座なさい。菊が発した絶対零度の一言に、寒さに耐性があるはずの北欧五カ国とイヴァンがそろって青ざめた。もちろん、彼らには関係のない言葉であるにも関わらず、だ。異常なまでに柔和に微笑んだ菊が視線を向けているのは、言い争いを即時中断して凍りつくブリタニアエンジェルと世界のヒーローAKY。そして股間に咲く一輪の薔薇が、無駄に瑞々しく美しい愛の国の三人だった。拒否権など、ない。
 当たり前のように逃げ場もないのは、菊の本気を察知したアジア組が彼ら三人の退路に立ちふさがっているからである。アジアでありながら英連邦とも縁深い返還都市の青年は、青ざめた顔で思い切り視線を反らしていた。ソーリーだ、アーサー。ヘルプコールは受け取れない、と呟く香に、菊はそれで良いと満足げに頷いた。会議室の端、未だブリタニアビームによってもくもくと煙の立ち込める一角に視線を移す。
 煙が晴れないことには、被害状況が分からない。そちらには確か、ギルベルトたちが居た筈なのだが。お師匠様が無事でありますよう、とで祈りを呟き、菊は大きく深呼吸をして三人組に視線を戻した。にこ、と思わず笑みが深まる。
「おや、どうして正座しておられないのですか? 三人とも」
 それともお湯かけなければ硬直が解けない特殊体質の持ち主で、とゆるりと首を傾げて脅す菊に、一番先に反応したのはアーサーだった。ぽむ、と可愛らしい音を立ててスーツ姿に早変わりしたアーサーは、ささっと菊の前で正座をして拳を握る。しぶしぶ従うアルフレッドの傍らで、フランシスが脱ぎ捨てた服を手早く着用していた。正しい判断だ。数秒で三人がきちんと正座をしたのを見やり、菊は口元を緩める。
 同じことを三度言わせなかったのは褒めてやろう、とその横顔が語っていた。凛々しく立つ姿を横目で眺め、耀(ヤオ) が溜息をつく。なんという大日本帝国、と遠い目をして呟いた通り、今の菊であれば世界中を敵に回しても戦い抜けるだろう。本人は三人を反省させればいいと思っているのが、不幸中の幸いなのだが。菊兄様ぱねぇ、と香が若干引いた呟きを発する中、漆黒の瞳を細めて極東の島国は口を開く。
「さて、アーサーさん。アルフレッドさん。フランシスさん? 一応お聞きしておきますが、今現在が会議中だという認識はあるのですよね、アーサーさん。かっとなってやった、反省してるじゃ済まないことだって世の中にはたくさんあるのだとご存知ですよねアーサーさん。誰がによによ笑っていいと許可しましたかアルフレッドさん。反省していないとみなして以後の呼びかけをメタボにしますよAKYメタボリック?」
「菊ー。八橋忘れてるあるよー。やーつーはーしー」
「なにを仰います、耀(ヤオ) さん。空気は吸うもの、八橋は食べるもの、です」
 ふふ、ふふふ。口元を指先で押さえて上品に微笑む菊の横顔に、アルフレッドとアーサーは青白さを通り越してかすかに黒っぽい顔つきで沈黙した。良く分からないが、地雷は踏みぬかれた後だ。逆らえば、以後のプライバシーが危うい。二次元的な意味で。ごめんなさいっ、とそろって頭を下げた二人に、菊はにっこり笑って頷いた。だがそれだけで、仕方ないですねぇ、と許してやる言葉が響くことはない。
 謝れたならとりあえず受け入れてやるが、許してはいないらしい。息をつめて怖がる二人を横目に、フランシスが同じく青ざめた表情でそろりと顔をあげる。質問です、先生。場の空気を呼んでいるのか紙一重な言葉に、しかし菊の瞳がきらりと光る。にこ、と浮かべられた笑みは、先程より幾分かは好意的なものだった。
「はい。なんですか? フランシス君」
 乗るんだ。そこで乗っかるんだ。そう言いたげな視線が会議場のそこかしこから向けられるが、菊は特に注意を払わなかった。受け付けるのは謝罪と質問のみですよ、と笑う菊に心の底からごめんなさいと言い放ち、フランシスは涙目で問いかける。確かに会議中騒いだのは悪かったし、アーサーがブリタニアエンジェル化するまでヒートアップさせたのを止められなかったのも悪かった。というか一因なのも悪かった。
 しかし普段の菊なら、我関せずである筈なのだ。あえて怒りを発露する程、首を突っ込んで来ない筈なのである。菊ちゃんはなにをそんなに怒ってるの、と恐る恐る問うフランシスに、黒髪の青年はなお穏やかに笑った。
「会議が踊るのは昨日今日にはじまったことではありません、許して差し上げましょう。そこを怒るのは私ではなくルートヴィヒさんの役目ですから。私が怒っているのはただ一つ。アーサーさん……いえ、ブリタニアエンジェルさんっ!」
「は、はいぃっ!」
「どうしてブリタアビームをお師匠様の方に向けるのですかっ! けしからんっ! もっとy……げっふん」
 会議室が一気に静まり返った。口元に手を当ててわざとらしい咳払いをした菊は、おや電波障害のようですね、とさらりと告げる。黒曜石のごとく輝いていた瞳から、光が消えていた。菊兄様ぱねぇ、と香が半泣きの呟きを発する。子育ての責任を問う視線が耀に集中する中、菊は元凶でありながらも我関せずの涼しげな表情を崩さず、気を取り直して、とろくでもない発言を響かせた。そこはもう取りなおさなくて良い。
 菊ちゃん、と呆れ切ったフランシスの声に心外だとばかり眉をつりあげ、菊は腕組みをして告げる。
「喧嘩相手ならばともかく、他に被害を拡大させるとは何事ですか、と言っているのです」
「本音と建前って大事なんだな、とお兄さん思った。説得力的な意味合いで」
「黙らっしゃい。それ以上仰るようであれば、股間のお花さんをむしって紫の薔薇とすげかえますよ?」
 相手がオタク仲間だからこそ通じる攻撃である。そんなことで紫の薔薇の人扱いされたくないですごめんなさいっ、と真剣に泣きが入ったフランシスの謝罪が響き、菊はようやく満足げに頷いた。そしてようやく白い煙が薄れて来た方角を見やり、悩ましげな息を吐く。
「どうせなら、耀さんの方にビームればよかったのに」
「……不適切な呟きが聞こえたあるよ。どこに通報すれば取り締まってくれるか」
「これもブリタニアビームの影響なんでしょうねぇ。電波障害が多くて困ったものです」
 責任なんてぽいですよ、と言いたげに微笑む菊に、耀がさめざめと泣く真似をした。妙な緊張感が漂うアジア二人から視線を反らし、アーサーはそーっと煙の向こうに目を凝らす。ビームが直撃したのか、それともそれたのかは未だ判別がつかない。できればビームは反れていて、なにかが壊れたくらいで済んでいればいいな、と思うのだが。希望は儚く打ち砕かれた。風が立ったように、さっと煙が晴れる。
 煙の向こう側にあった人影は、四つだった。一つは楽譜を手に持ったまま椅子から転がり落ち、痛みに顔をしかめるローデリヒ。一つは思い切り苦々しい表情で直立したまま、額に手を押し当てて溜息をつくルートヴィヒ。そして残り二つは、ちんまりとしていた。うげ、と品のない呻きがアーサーの喉からもれていく。その呻きにつられたのだろう。笑顔のまま耀と睨みあっていた菊の視線が、四人の方に向けられた。
 漆黒の瞳が出会ったのは、敵意に煌めく草原の緑と、戸惑いと怯えに揺れる晴れ空の青。え、と意図しない呟きに、草原の輝きを瞳に宿した幼子が動く。その身の殆どを白いローブで覆い隠した少年を、ぐいと抱き寄せて腕の中に庇い、幼子は緊迫した声でなんだよ、と問う。
「なんだ、お前……お前ら」
「い、いえあの、ええと……。る、ルートヴィヒさんっ!」
 悲鳴じみた菊の叫びに、同じく二人を見て凍りついていたルートヴィヒがハッと顔をあげる。不安げな瞳は、あるはずの兄の姿を求めてのことだろう。お互いに落ち着きましょう、と励ましを視線に乗せて頷き、菊は二人を刺激しないように注意して口を開いた。
「その、お二人が居る場所に……直前まで居られたのは、どなたと、どなたです」
「エリザベータと、兄さん……ギルベルト、だ」
「分かりました。アーサーさん? あなたのビームやほぁた! はむやみやたらに幼児化を引き起こすようですが、全く別のそこらの、『国』とは無関係の幼児と入れ替えてしまう事故は起きたり?」
 普段は聞きとりやすくゆっくりした口調で話す菊だが、よほど混乱しているらしい。かなりの早口で流れるように問われ、アーサーは数秒間、言葉の意味を把握するのに沈黙してしまった。ややあって顔をあげたアーサーは、可能性としてはゼロだとは言い切れないが、と前置きをした上で、あえて断言する。
「そんな事故は、起きない」
「つまり……この、どちらかがエリザベータさんで、どちらかがお師匠様なんですね」
 ふ、と短く息を吐いて、菊はその場にしゃがみこんだ。上から下ろされる視線は、どんなものであっても幼子には威圧感を持たせてしまう。経験上菊はそれを知っていたから、睨みつけられる視線にゆるりと微笑んだ。こんにちは、と挨拶をすると、抱き寄せられていた白ローブの少年がゆっくりと振り返る。まだ混乱した様子であっても、菊の声に敵意を感じ取らなかったからだろう。見つめる視線は、揺れなかった。
「こんにちは、お二方。私は本田菊と申します。お名前を伺っても?」
 ぱちぱち、と瞬きがされる。恐らく、少年には聞き慣れない響きの名であった為だろう。きゅぅ、と不安そうに寄せられた眉となんともいえず情けない表情が可愛らしくて、菊は思わず胸を手で押さえた。トキメキがやばい。どうして私は今カメラを手に持っていないんでしょうね、と己に対して憤りに近い感情を覚える菊に、少年は草色の瞳を持つ幼子の腕に、そっと手を触れさせたままで唇を開く。
「マリア。……ドイツ人の聖母マリア騎士修道会」
「マジャル。すこし前からはハンガリー王国、とも」
 名乗りは人名ではなく国名、もしくはそれに近い名称のもので行われたが、菊はそちらは不思議とは思わなかった。菊とて、最初から『国名』と『人名』を持っていたわけではない。時代の流れと共に自然と名乗り、あるいは誰かから名づけられて人としての名前は生まれるのだから。二人はまだ、人の名前を持っていない可能性もあった。菊はあぜんとして二人を見つめ、恐る恐る口を開く。
「は……ハンガリー、が、あなたですか? とすると、まさか……そ、そっちがお師匠様?」
「……? ……ちが、お師匠様、じゃない」
 そういうんじゃない、ちがう、と。きゅぅ、と眉を寄せて、青い瞳の少年が首を振った。動きに耐えきれなかったのだろう。浅くかぶっていたフードが肩におち、やや長めの艶のある銀髪があらわになる。プロイセンの髪は、もうすこし落ち着いて褪せた色だ。瞳の色も、違う。名乗られた名にも、菊は今一関連性を見つけられないでいる。強いていえば『ドイツ人』の辺りが後のプロイセンを思わせるが、それでも一致しない。
 戸惑って声のない菊に、溜息と共に歩み寄る者があった。コトン、とほんのわずかな足音で進み出たローデリヒは、戸惑う二人をあえて通り過ぎて、菊の隣に移動する。そしてぽんぽん、と肩を叩いてローデリヒは菊と視線を合わせた。ふわ、と相手を落ち着かせようとする温かな笑みで、ローデリヒは気持ちは分かります、と告げる。
「ですが、か……彼らは、確かにエリザベータとギルベルトの幼少に違いありません。一度だけ、エリザベータが酔った時に話してくれたことがあるので覚えています。『プロイセン』も『ハンガリー』も、『ギルベルト』も『エリザベータ』も、呼び慣れるのにも、呼ばれ慣れるのにも、ずいぶん時間がかかりました、と。我々、化身は長い時の中で名を変えることがあるでしょう。あなたや、耀ならば分かるのではないですか?」
 彼ら、というのに微妙につっかえたローデリヒは、それを菊に問わせないままで目を細めた。かつてから名を変えた貴方たちならば理解ができるでしょう、と問いかけられて、菊は素直に頷いていた。『日本』は特に、さかのぼれば山のように別称が出てくることだろう。今でも通じるものであれば『大和』があり、『豊葦原の瑞穂の国』と古くは書物に残っている。そういうことでしたら、と菊は頷き、苦笑した。
「では、やはりあの二人は」
「ええ。間違いありません。エリザベータとギルベルトです。……多少、少年二人に見えますが」
「いえあの、逆に、性別が入れ替わって見えるんですが」
 思い切り視線を反らしながら言うローデリヒに、菊は思いっきり突っ込んだ。『マリア』はきちんと少年だと分かる顔立ちをしているものの、どこか穏やかできれいな顔立ちは、すこし化粧でもすれば美少女に早変わりするだろう。そんなことをせずとも、少年めいた風貌の『マジャル』にかたく抱きしめられている時点で、性別が多少逆に見えるのは目の錯覚でもないのだが。ローデリヒは、頑なに視線を反らしていた。
 あの、と呼びかける菊に聞かないで下さいと力なく首を振り、ローデリヒは弱弱しい声で言う。
「誰にでもある、思い出したくない、よくある黒歴史ですから……」
「……はぁ、そういうことでしたら、深くはお聞きしませんけれども。アーサーさん? ビームの効果の持続時間をお聞きします。分からなければ大まかな予想でもかまいません……ルートヴィヒさん、大丈夫ですか?」
 正座させられ続けて、いい加減足がしびれたのだろう。無言でふるふるしながら痛みに耐えているアーサーが答えるより早く、菊はどことなく様子のおかしいルートヴィヒに声をかけた。男はハッとしたようすで視線をあげると、ああ、と低く呟いて黙り込んでしまう。表情は不安げで、どこか放っておけない切なさを感じさせた。とっさに駆け寄ろうとする菊とローデリヒよりはやく、白い布が空気を抱いてふわりと動く。
 する、と絡み合っていた糸が解けるように鮮やかな動きで腕の中から抜け出して、『マリア』は身を強張らせるルートヴィヒに近づいた。幼子であれば身がすくんで泣いてしまいそうな硬い表情を向けられるのにも、睨みに似た鋭い眼光で見られるのにも、臆さず。それ所か慣れた様子でふわりと笑い、『マリア』はほっそりとした指先を伸ばしてルートヴィヒの手に触れた。そしてそのまま、片手を包み込んで持つ。
「……兄、さん?」
 ぎこちない問いかけに、『マリア』はやけにのんびりとした様子で瞬きをした。伏せた視線が、視点を定めないように揺れる。静かに息を吸い込んだ喉が、頭を振るのに合わせてやや揺れた。なにか落し物を目を凝らして探すように、息をつめて。それから、『マリア』は視線をあげてルートヴィヒを見た。ふっくらとした唇が、夢見心地で動く。
「ルー……ト? ルート、ヴィヒ?」
「兄さん、兄さんなのかっ?」
 意気込んで問いかけるルートヴィヒに、『マリア』は頷いて良いものか迷う仕草を見せた。自分でも、よく分かっていないのだろう。なにかを振り払うようにぶんぶん首を振ってから額に手を押し当て、『マリア』はそれまでとはすこし違う、男らしい表情で口を開いた。
「ちょっ、と……待て。なんだこれ……おい、そこの異世界食物製造機。俺様に、なにをした」
「な……流れブリタニアビームに当てちまった。悪い」
「流れ矢に射られたのと同じ次元でものを話すんじゃねぇよこのボケ! 馬鹿!」
 声高に抗議を喚き散らして、アーサーを蹴ったのは『マリア』ではなく『マジャル』だった。その発言があまりにも状態を理解しているものだった為、ローデリヒはしびれたアーサーの脚を念入りに踏みにじっている『マジャル』に、恐る恐る声をかける。どうしても腰が引けてしまうのは、『マジャル』がもう一年程度年を重ねた外見の頃に、ぼこぼこにされていた記憶がよみがえるからだ。
「え、エリザベータ、ですか?」
「あ、はい。なんですかローデリヒさ……ち、違うんです違うんですっ! これは、これはその……!」
「マジャル、とりあえずアーサーの上からは退こうぜ? 説得力ない」
 さらりと呼びかけられたのは、今の名ではなかった。けれど『マジャル』はあっさりと反応してアーサーを踏みにじる作業を止め、オロオロと頬に手を押し当ててどうしようかと悩んでいる。そうすると少女めいても見えるのだから、不思議なものだった。ほっと胸を撫でおろしながら、ローデリヒはしゃがみこんで『マリア』と、そして『マジャル』の顔を見比べた。
「ギルベルト? それに、エリザベータですね?」
「おう。残念ながら俺様だ。……ちいさい俺様ったら、まさしく小鳥のように格好いいぜ……!」
「はい。私です。……ねえ、すこし口閉じておかない? 外見がもったいないわ」
 ため息交じりに苦笑するエリザベータの言葉通り、今の体ではギルベルトの言動はいささかそぐわない。優しい顔立ちのきれいな少年が、ボーイ・ソプラノの声を響かせて歌いあげるように言葉を紡ぐ。それにも関わらず、内容はギルベルトの主張そのままなのである。菊は溜息をついたあと、安心した様子でちいさくなった兄を見下ろすルートヴィヒの前にしゃがみこんだ。そしてすわった視線で、ずいと顔を寄せる。
「お師匠様、お願いします。修道服のショタっ子萌えの為に、どうかそれっぽい口調を……!」
「……マジャルたすけて」
 本気で助けて、と伸ばされた両腕を素早くつかみ、エリザベータは己より一回りは小さい体を腕の中に閉じ込めた。どん、と体がぶつかってくるのを、安堵と落ち着きの入り混じった心で出迎える。背に腕を回してぎゅっと抱きしめれば、肩のあたりにうりうりと頭が擦りつけられた。どうしよう菊が怖い、と呟かれるのにため息交じりに頭を撫でて、エリザベータは視線をあげて二次元大好き島国の青年を見つめる。
 止めてあげてください、と言えれば良いのだが、今の菊に言った所で届かないだろう。腕の中すっぽり体格差萌えっ、と床をばんばん叩いているので、声をかけたとて耳に入らないに違いない。萌える気持ちは分かる。エリザベータも、普段の状態ならば思う存分萌えていた。どうしてか、今はそういう気持ちにはなれなくて、ただ腕の中でしょげている存在を抱きしめて、守りたくて仕方ないだけなのだけれど。
 それ以外にすがるものがないように、ギルベルトはちいさな手でエリザベータに抱きついてくる。ぞく、と背筋が甘くしびれる。それは、なんと深く満たされる独占欲なのか。熱に浮かされるように頭を倒し、エリザベータは額をギルベルトの肩にくっつけて深呼吸をする。
「マリア」
「ん?」
 疲れたのか、大丈夫か、と問いかけながらギルベルトの手が頭を撫でてくる。はじめは、どこかぎこちなく。それから撫で方を思い出したように、髪に指を絡めるようにして優しく。よしよし、と慰めるように触れる手に、心地よく息がもれた。軽く額を擦りつけながら、口を開く。
「好きだよ」
「……知ってる」
 すこしだけひねくれた、遠回りの同意の言葉。恥ずかしくて他になにもいえないように噤まれた口が、ただ愛おしくて。ぎゅぅ、と抱きしめなおした腕の中、ゆるく力が抜かれた体が嬉しかった。それでもすこし、ほんのすこし満たされないのは望んだ言葉が耳を揺らさなかったからだ。これくらいの年頃の『マリア』は照れ屋でもあったので、当時もそう聞けるものではなかったのだけれど。もぞ、と腕の中で体が動く。
 どうしたの、と顔をあげて視線をやると、ギルベルトは困ったような顔をしていた。頬がかすかに赤らんで、瞳がうっすら涙に揺れている。あ、まずい、とエリザベータは思った。それよりも意識化に眠った筈の『マジャル』の欲が、ぐらりと大きく視界を揺らす。まずい。この表情は、大変まずい。当時、想いにつける言葉を持たなかった時でもそうとうアレだったのだ。恋を胸に宿した状態で、耐える自信がどこにもない。
 首をすこし傾け、吸い寄せられるように顔を近づけていくエリザベータの口を、ギルベルトの手が押しとどめる。ちょっと、と不愉快げに眉を寄せたエリザベータに、ギルベルトは恥ずかしそうに息を吸い込んで。そしてかつて『マジャル』が恋い焦がれた『マリア』の表情で、すこしだけ不安げに、ささやいた。
「お……れ、も」
「……え」
「俺も! ……好き。好き。大好き。好き、だ」
 愛しさのあまり舌打ちしなかった己は、褒められてしかるべきだとエリザベータは思った。ありがとうございます師匠これで三日間は萌えられます、と心の底から感謝している菊の存在も、気にならない。口を押さえている手を退けて握り締めれば、びく、と震えて指先が絡んでくる。それが拒絶ではないことを、エリザベータは知っている。ギル、と呼べば顔があげられて、目がぎゅぅうっと力いっぱい閉じられた。
 唇を、そっとかすめる。ふ、と息を吸い込むのにかすかに開いたそれに、もう一度重ねようとした瞬間、衝撃が二人の体をおそう。ぼん、と小気味よい音と共に辺りが真っ白な煙に包まれた。濃く立ちこめる霧のような煙が晴れた時に、なぜかそこに二人の姿はなく。エリザベータの髪留めを重しにして一枚、メモが残されるばかりだった。メモに残されたのは、二人分の筆跡と言葉で。走り書きの荒い文字が、告げる。



『菊 → 帰ったらお師匠様が説教してやる。首を洗って待ってろ。
 アーサー → テメェ羽根むしって杖折ってやる。

 ルートヴィヒ&ローデリヒさんへ
 一時間くらいしたら戻ります。ごめんなさい。

 ギルベルト・M・バイルシュミット エリザベータ・ヘーデルヴァーリ』



 きっかり一時間後。戻ってきたギルベルトによって菊は昏々と説教され、アーサーはエリザベータの手によって、とりあえずブリタニアエンジェルの杖を叩き折られた。居なくなっていた間の二人について知るのは、今日もギルベルトの頭の上でころころ転がっていた、黄色いことりのみである。

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