その異変に気が付いたのは、書庫の掃除をしている時だった。ほぼ生きて来た年月分の日記がきちっと本棚に納められている書庫は、換気よりも機密性を優先している為に埃がたまりやすい。定期的に窓を開け、掃除をしなければすぐに空気が淀んでしまうのだ。その日もギルベルトは、ぱたぱた動くはたきにじゃれついてくることりを指先でつついて懲らしめながら、『マリア』時代の日記に目を通していた所だった。
読む理由は得にない。強いて言えばそこに本があって文字が並んでいるから、読みたくなるだけで。ちいさな俺様はまさしくことりのようだったぜ、としみじみ頷きながらページをめくるギルベルトに、ことりが呆れたように羽根をぱた付かせる。はたきとじゃれるのも飽きたのか、ことりはぴよぴよと鳴きながら日記の上に着地し、ちょうどギルベルトの邪魔になるように転がり始めた。ひょ、とつまみあげて頭の上に戻す。
定位置に戻ってきたことりは満足げにぶふー、と羽根いっぱいに空気を抱きこんでまんまるくなり、ギルベルトの銀髪に埋まって静かになった。鳥類のくせに、ギルベルトのことりはあまり飛ばない。頭の上に乗っかりたがる時は特にそうで、必ずギルベルトにつまみあげてもらうのだった。甘やかして育てたからかも、と思いながらうとうとすることりを指先で突っついて撫で、ギルベルトは文字を追う視線を険しくした。
一か所だけ、記述に覚えがなかったからだ。その前後のことは確かに覚えているにも関わらず、ある一点だけ、記憶が抜け落ちてしまっている。まだエリザベータが『マジャル』だった頃の、ほんのささいな一日。花畑に遊びに行ったのも、その日の夕食がシチューだったのも確かなことだと思う。けれど、その間。花畑で冠を作って、『マジャル』にあげた覚えがどうしてもなかった。そんなことしたっけ、と首を傾げる。
古い記憶だ。多少抜け落ちてしまっていることはあるし、それが当たり前のことだとも思う。それでもたいがいは日記を見れば忘れていたことを自覚し、おぼろげにでも思いだせるものなのだが。花冠について、ギルベルトは完全に身に覚えがなかった。しかし、日記には書いてある。ごく慎重に記憶を探って思いだそうとしながら、何回読んでみても結果は同じだ。まるで覚えのない空白が、不気味に横たわっている。
ついにボケとかそういうのか、と思いながらギルベルトは携帯電話を取り出し、ぽちぽちと文章を打ち込んで送信した。『ボケはじめた』のみを送りつけた相手はエリザベータである。軽く溜息をついて本を閉じ、棚に戻した所で着信があった。相手は確認しないでも分かっていたので、視線をすぐ本文の位置に落とす。そこでギルベルトは、ぎゅぅ、と眉を寄せた。珍しく、メールの文面が一言ではない。二言だった。
「……『私も。ちょっと来い』って。エリザ、俺にも『国』として外せない予定とか……ないけどなっ!」
やべー引退国家楽しすぎるぜーっ、と若干滲んできた涙を誤魔化すように高らかに笑えば、空気中に舞う埃を吸い込んでむせてしまう。げっほげほ咳き込んでいると、離れた部屋を掃除していたルートヴィヒが兄の不調に気が付いたのだろう。またサボって、と言いたげな視線で、それでも心配そうに顔をのぞかせたのに、ギルベルトは息を整えながら大股に歩み寄った。なにか言われる前に、ぽん、とはたきを渡す。
反射的に受け取ったルートヴィヒを賞賛するように頷いて、ギルベルトは弟の方に手を乗せた。
「よーし、可愛いルート。兄さんはちょっと出かけてくるからな、掃除は頼んだぞ?」
「駄目だ。今日の掃除は二人でする予定だった筈だし、まだ半分も終わっていない……掃除用品でも買いに?」
言いながらもずんずん廊下を進んでいくギルベルトの背を追いかけ、ルートヴィヒは視線を険しくして止めようとする。問いかけたのは、掃除用エプロンを外したギルベルトがバイクに乗る時用にしているジャケットを手に取ったからだった。頭の上でうとうとしていることりを掴んで懐に突っ込みながら、ギルベルトは気まずそうに視線を彷徨わせた。そのままバイクのキーを片手に出て行こうとする腕を、がしりとばかり掴む。
ルート、と困ったように腕を掴まれたまま振りほどかないギルベルトは、理由を聞かれたくない目をしていた。基本的に、ギルベルトは行き先を告げて出かける。言わない時は、それでルートヴィヒの機嫌が悪くなると知っているからだった。歯医者に行く、と嘘をついてサボってどこかに遊びに行ってしまうような時に、ギルベルトはよくそういう目をして弟を伺う。やろうと思えばどこまでも欺いてしまえるのに、そうしない。
肉親に対する甘えがある態度に、ルートヴィヒは爽やかに笑った。
「で、どこに行くんだ? 兄さん」
「……ルート、掃除より大事な問題が発生した。原因究明の為に行かなきゃいけねぇんだ。分かるな?」
「行き先を教えてくれたら、考えなくもない」
理由はこの際だからどうでもいい、とにっこり笑うルートヴィヒは、完全にギルベルトの行き先を悟った上で引き留めていた。笑みがやけに機嫌よく見えてしまうことで、ギルベルトも察したのだろう。なんでお前らは最近そう仲が悪いんだっ、とひきつった声をあげて腕を振る。
「こら、ルート! エリザと俺の所有権をめぐって争うのは止めにしなさいってお兄ちゃん言ったろっ!」
「いやだ断る! それに仲が悪い訳ではない。話し合いが平行線なだけで、争っている訳ではっ……!」
「大体所有権を巡って争う時点でおかしいだろっ! 俺様の所有権が、なんで俺が居ないトコで争われてるんだっ!」
至極もっともなギルベルトの主張に、ルートヴィヒは言葉に詰まってしまった。仕方がなさそうに掴んでいた腕を解放してやり、ルートヴィヒは腕組みをしながらふてくされた顔つきになる。拗ねんな、と苦笑されるのに気のせいだと返して、ルートヴィヒは諦め気味に問いかけた。
「それで、エリザベータになんの用なんだ?」
「……ボケはじまったかもっつったら、分かったじゃあ来いって呼び出されたんだよ」
ルートヴィヒは、兄とエリザベータのメール内容がどれだけ普通の会話に近いかをよく知っている。よって脈絡もなく端的に過ぎる言葉であっても、それがすべてなのだろうと言うことが分かってしまい、深々と溜息をついた。なにを言いだしているのだ、と正直思うが、ボケとか俺様マジ困るぜー、とちょっと泣きそうになっているギルベルトを引き留めるのも可哀想で出来ない。時計を見ると、まだ昼まで二時間もある。
夕食をどうするかの連絡だけはしてくれ、と許してやるとギルベルトはぱっと顔を明るくして笑い、勢いでルートヴィヒの頬に軽く口付けた。
「ありがとな、俺の可愛いルート! 掃除のお詫びにひよこさんクッキー買って来てやるよ!」
「それは兄さんの趣味だろうが……! ビールにしてくれ」
どうしていつまで経ってもこども扱い、というか幼子扱いが抜けないのかとも思うが、子育て経験国家の共通特徴なのでもう諦めるべきなのかも知れない。ひよこさんクッキー美味いのになぁ、と首を傾げながら出ていくギルベルトを見送って、ルートヴィヒは中途半端になってしまっている書斎の掃除を澄ませてしまうことにした。遠くでバイクが走り去って行く音を聞きながら、書斎の窓を閉めて室内をざっと見回す。
埃一つ落ちていない部屋は整頓もきちんとなされていて綺麗で、ギルベルトが一応、掃除を終わらせてからサボっていたことを知らせて来た。どうせ日記を読んでいて思い出せないことがあって、ボケたと思っているに違いないのだ。限りなく真実に近い推察をしながら、ルートヴィヒは満足げに頷き、書斎の扉を閉めた。
ルートはビールの方が良いっていうんだぜー、ちぇー、と唇を尖らせながら手渡されたお土産に、エリザベータは年齢を考えてあげなさい、と深く頷いた。どこからどう見ても幼児をターゲットにしているであろう『ぴよぴよ! ひよこさんクッキー:ミルク味』は、外見であっても成人している男性に手渡すものではない。恋人の家に来る手土産にするものでもないと思うのだが、エリザベータは溜息一つで諦めてやった。
ジャケットを脱ぐギルベルトから一緒にやってきたことりを受け取り、ころ、と手で転がしながら問いかける。
「ギル。このコ、クッキー食べる?」
「食べるぜ。やっても良いけど、一枚の半分くらいまでにしとけよ?」
長旅で疲れたかー、とエリザベータの手の中でころころしていることりを突っつくギルベルトの表情は、我が子を可愛がる親のそれにも似ていて。うーん、となにを考えるでもなく見つめた後、ちゅ、と軽く頬に唇を押し当てて、エリザベータは身をひるがえして居間に行く。いきなりすんのはヤメロって言ってんのに、と赤い顔を悔しげにしながらギルベルトも続き、もす、と音を立ててソファに沈んで腕と足を組む。
到着するまでずっとメールで話していたので、お互いの身になにが起きているのかを大体は理解していた。忘れているのではない。記憶の欠落があるのだ。不自然な空白に気が付いたのは今日だが、だからこそ、前から起きていた事象ではないだろう。抜け落ちているのは『マリア』と『マジャル』であった時代のことばかりで、名を変えて以降の記憶は残っている。事実から導き出される原因に、心当たりがあった。
プロイセンの国旗マグを受け取って、コーヒーを一口飲んで顔を綻ばせる。インスタントではなかった。豆から淹れた香り高い味わいがして、それでいて時間が立ち過ぎている風でもない。ギルベルトの到着時間を厳密に計算して、ちょうどいいようにコーヒーメーカーをセットしておいてくれたのだろう。ブラックのギルベルトに付き合って、ハンガリー国旗マグでカフェオレにしたコーヒーを飲むエリザベータに視線を向ける。
なに、と首を傾げられるのに身を寄せて。ちょい、と唇を重ね、ギルベルトは微笑む。
「ありがとな、エリザ」
「……にがいキスは好きじゃないわ」
ごく軽く眉を寄せてマグカップを差し出してくるのに応え、ギルベルトはカフェオレを一口飲んでやった。それから二人でマグカップを机に置いて、ソファで身を寄せて笑いあう。こつ、と額が重なった。くすくす笑いながら唇を寄せた所で、玄関のチャイムが鳴り響く。は、ときょとんとした目でエリザベータを見つめ、ギルベルトはこてりと首を傾げた。
「エリザ、客? 宅配便が来る用事でもあったか?」
「無いわよ。……もしかして仕事かしら。でも携帯に連絡無かったんだけどなぁ」
ちょっと待っててね、と言い残し、エリザベータはソファから立ち上がって玄関に向かう。もし仕事だとすれば、家まで来るような用事だから出かけなければいけなくなるだろう。もうちょっとだったのに、と息を吐きながら玄関を開けて、エリザベータは思い切り眉を寄せた。誰も立っていなかったからだ。通りの先を見渡しても、特にそれらしき人影はない。なんなのかしら、と溜息をついて扉を閉めかけた時、声がした。
もごもご紡がれる声は聞き取れなかったが、扉が閉まることを慌てたのだろう。あれ、と思いながら視線を彷徨わせて探すと、ちょうど玄関の影に隠れるように、頭からすっぽり白い布のようなものをかぶった幼子の姿が目に入る。なんだろう、と思ってしゃがみこんだエリザベータは、ねえ、と幼子に声をかけようとしたのだが。ぱっ、と慌てて顔をあげた幼子と目が合って、言葉がどこか彼方に飛んで消えてしまった。
青い、瞳だった。天高く透きとおる青い瞳と艶やかな銀髪の少年は、エリザベータの記憶にある通りの姿でそこに立っていた。外見的には五歳くらいだろうか。『マリア』。反射的に呟いたエリザベータにだーっと駆けより、幼子は目の前で立ち止まる。それから真っ赤な顔でもじもじと言葉に迷い、視線を彷徨わせて。やがてきゅぅ、と手を握り締め、『マリア』はエリザベータに向かって叫ぶ。
「に……認知してっ!」
「そうだ! 俺たちを認知しろー!」
ごく当たり前のように、本当はペアで居たらしい。『マリア』がそう言った瞬間、どこに隠れていたのかもう一人少年がかけてきた。やや荒れた焼け土色の髪に、草原の瞳。背は『マリア』より少し高いだろうか。修道服の『マリア』に対して、こちらは戦装束をそのまま普段着にして着ていた。見覚えがあり過ぎる服だった。クローゼットをよく探せば、今でも取ってあるかも知れない。捨てた覚えはないので、あるだろう。
涙目で震える『マリア』を、よく出来たな、偉かったぞっ、とばかり抱きしめる少年の名を、名乗られずともエリザベータは知っていた。嘘ぉ、と頭を抱えながら呟く。
「ま……『マジャル』? いや、え、私? ……っ、ギル! ギールー! ぎるぎるぎるぎる!」
「俺様は犬かーっ! 一回呼べば分かるに決まってんだ……ろ?」
がんっ、と居間の扉を乱暴に開いて歩み寄ってきたギルベルトの足音と声が、途中で不自然に止まった。え、なにこれ、と途方に暮れた呟きが落とされるのに、エリザベータは心底同意する。ごめん助けて私もう無理、と言うと、いや俺様もわりともう無理、と言われてどうしようもなくなった。なにこの事態、と凍りつく二人にかまわず、五歳程度に見える『マリア』と『マジャル』は仲良く手を繋ぎ、笑顔で言い放った。
「認知しろ!」
ひぐっ、と喉の奥で奇妙な叫びを響かせながらも、ギルベルトの行動は早かった。二人の襟首を掴んで家の中に放り込み、座り込んでしまっていたエリザベータも回収して扉に鍵をかけてしまう。そのまま扉を背にずるずると座り込んで、ギルベルトは大きく息を吸い込んだ。
「エリザ……」
「……いつ産んだの、とか聞いたらフライパン十回」
「違ぇよ……。お前、すぐ菊に電話しろ。携帯直通なら繋がる。時差で寝てたとしても菊のことだ、なにかしら二次元萌えレーダーに引っかかって即座に覚醒して役に立つ。むしろ起こせ。俺はアーサーに電話する。……あの元ヤン酒乱ブリタニアエンジェル、やりやがったっ……!」
またアイツかっ、と全力で脱力しながら呻くギルベルトに、エリザベータは同じくその場に崩れ落ちた。すこし前、会議中にブリタニアエンジェルのビームの直撃に合い、二人は幼児退行させられたのである。その時も、これくらいの外見年齢であった筈だ。杖へし折ったと思ったんだけど、と半眼で呟くエリザベータに、ギルベルトは予備があったか作ったかだ、と断言する。二人は即座に携帯を取り出し、番号を押した。
ギルベルトの電話はコールが続くだけで繋がらない。しかし、エリザベータは二コールで繋がったようだ。さすがは空気の読める二次元大国。なんらかを察知したらしく、キラキラ輝く声が『なにか起きましたか?』と問いかけているのが聞こえてくる。アーサーは逃げたな、と溜息をついて電話を切ったギルベルトは、ちょこ、と身を寄せ合って廊下にしゃがみこんでいる『マリア』と『マジャル』に視線を映した。
中身はよく分からないが、マリアが五歳、マジャルが六歳程度の外見だろう。放っておくには心が痛む年齢なので、ギルベルトはどうすっかなぁ、と溜息をつきながらしゃがみ込み、二人に向かって問いかける。
「クッキー好きか?」
マリアは無言でこくこくと頷き、マジャルはしっかり目を合わせて食べられる、と言ってきた。反応の違いが、そのまま性格差だろう。ここまで人見知りでマジャルに懐いてるとなると出会った直後くらいだな、と思いながら立ち上がり、ギルベルトは二人を連れて居間に戻る。ちょっ菊さん萌えてる場合じゃないんですよっ、と半泣きのエリザベータは、可哀想だが後回しだ。二人をソファに座らせて、手早くココアを入れる。
火傷すんなよ、と言い含めて渡せば、二人はやけに真剣な顔つきでマグカップを両手で持ち、ふぅ、と息を吹きかけて冷ましていた。エリザベータを待っている間ですることもないので、ギルベルトもソファに腰を下ろす。ギルベルト、マジャル、マリアの順に座って三人とも飲み物を飲んでいる姿に、机の上で待っていたことりがぴ、と不思議そうな声をあげた。マリアがそーっと手を伸ばし、ことりを両手で持ち上げた。
注意深く観察するだけで危なくはなさそうなので、ギルベルトは放っておくことにした。冷めたコーヒーで喉をうるおしてしまうと、とたんにやることがなくなる。エリザー、と控えめな呼び声に、くいくいと袖が引っ張られる。ん、と視線を落とすと真剣な顔をしたマジャルがギルベルトを見ていて、鋭い光の草色の瞳に思わず見とれてしまう。この色だ。一番初めに惹かれたのは、真夏の光を弾いたようなこの強い色だった。
今のエリザベータは時を経て名を変えたからこそもうすこし穏やかで、近いけれど同じ色ではない。もっとも、ギルベルトのように色ごと変化したわけではないのだけれど。ごく近くから見てくる瞳を見返しながらなんだよ、と問いかけてやると、マジャルのちいさな手が伸ばされる。ギルベルトの頬に触れた手は、すこしひんやりとしていた。冷たい、と穏やかに目を細めるギルベルトに、マジャルは静かに問いかける。
「……マリア?」
「そうだ。んで、あのお姉さんがお前。……驚いたか?」
「……うん。でも、そうか。そっか、やっぱりマリアか」
一緒に来たからそうだとは思ってたけど、でもよかった、と呟いてマジャルは頬に触れさせていた手をそのまま下げ、ギルベルトの首に腕を回す。そのままぎゅぅ、と抱きつかれて、ギルベルトは思わず笑ってしまった。頬を撫でるのも、そこから手を離さずくっついてくるのも、記憶の中の『マジャル』そのままだったからである。だた昔は、抱きつかれるというよりは、体格差で抱きしめられているのが本当だったのだが。
よし認知しろ、と可愛くないことを耳元で囁いてくるのにはぽん、と背を撫でて、ギルベルトは後でな、と言ってやった。ふと気が付いてマリアに目を向けると、昔の自分そのままの顔があって不思議な気持ちになる。俺様ちーさい、としげしげ見つめるギルベルトはただ不思議がっているだけだが、マリアはそうもいかないらしい。人見知りでオロオロと視線を彷徨わせた後、きゅぅ、と困ったように眉を寄せて目を伏せる。
時々、視線がギルベルトとマジャルを行ったり来たりしているのは、羨ましいからだろう。人見知りしていた頃は、マジャルがとにかく大好きでくっついていた記憶があるし、それ以上に大人の男に憧れてもいた。複雑な気持ちを飲み込んで苦笑し、ギルベルトはマリアに声をかけた。ぺったりくっついているマジャルを片側に寄せて、もう一人分スペースを作って手招く。来いよ撫でてやるぜ、と笑うとよじよじと寄って来た。
よじよじ膝の上に乗っかって、マリアはぺた、とギルベルトの胸に張り付く。それからマジャルの手をそぅっと握って、修道服の幼子は恥ずかしそうな照れ笑いを見せた。思わず抱きつく対象をギルベルトからマリアに戻したマジャルは、可愛いっ、と満足げだ。膝の上でもちもちじゃれあうのを眺めて、ギルベルトはもう一度携帯電話を取り出してコールする。アーサーは、やはり出ない。はぁ、と思わず溜息をついた。
その途端、ごふぅっ、と妙な声が居間の扉付近から響く。顔をあげたギルベルトが見たのは、顔真っ赤にしてしゃがみ込みながらもデジカメで連写する、ある意味予想通りな姿のエリザベータと、もう一人。ありがとうございますっ、と感涙しながらムービーを取っている菊の姿だった。己を目を疑って三回は確認したのだが、間違いなく菊だ。おい、と低音の声で問いかけると、菊は百万ドルの夜景がごとき瞳で言う。
「はいなんですかお師匠さまっ! ありがとうございますお師匠さまっ! ああ、えーっと、マリアさんでしたか? 大丈夫ですよー。じいさん、怖くはないですからねー。せんべいでも食べますか? それともチョコレート? いえここはぐるぐるうずまきのペロペロキャンディー……っ?」
「わたあめ! わたあめでお願いしますっ!」
「……俺が守ってやるからな?」
ダメだあいつらに任せておけない、と即座に判断を下し、怯えている二人をギルベルトは抱きしめた。するとさらにヒートアップされてしまったので、もうなにをしても落ち着いてはくれないだろう。とはいえ、いつものように落ち着くまで待っていてはちいさな二人があまりに可哀想だった。エリザベータを後回しにすると決め、ギルベルトは携帯電話を操作して、ある番号を画面に表示させる。そのまま、くるりと反転させた。
もだえる菊たちに画面が見えるようにしてやれば、島国の動きが凍りついた。あ、あばばばば、と壊れた機械としか思えない呟きを発しながら停止する菊に、ギルベルトは電話してやろうかなぁ、とによによ笑いながら告げる。
「王 耀(ワン ヤオ)に言いつけるぞ?」
「申し訳ございませんっ! お師匠さま、どうか、どうかそれだけは……! 後生ですからっ!」
中国の化身、耀(ヤオ)に弱いのは相変わらずだった。あまりこの手を使い過ぎると効果がなくなるのでとっておきなのだが、菊の顔色はすでに青白さを通り越した白さになっている。画面を切り替えてしまいながら、ギルベルトは常日頃の疑問を問いかけた。菊にとって、耀は育て親で想い人だ。他国で萌えて騒いだのを言いつけられれば怒られるのは想像するもたやすいが、それにしても反応が怯えすぎだろう。
「菊。言いつけられた後って、なにされてんだ?」
「……『液晶が邪魔で嫁に会えない』って言ってたあるねー、と笑いながらパソコンのディスプレイをぶち抜かれました」
私の魂が折れる音がしました、と言う菊の目は死んでいるが、それだけのことをされてもまだ萌えて暴走するのだから、耀のお仕置きは効果があるのかないのか分からなかった。私から萌えを取ったら鎖国します、と言いのけたくらいなので、そもそもが無理なのかも知れないが。ちなみにそれ素手か、と尋ねたギルベルトに、菊はこくりと頷いた。亜細亜は敵に回すべからず、とギルベルトは深く心に刻みつける。
「……って、なんで菊がここに?」
「よくぞ聞いてくださいました、お師匠さまっ! 見てください、ついに……ついに、完成させたのですっ!」
「菊さん素敵です! さすがです! 私にも欲しいですっ!」
どさくさにまぎれてちゃっかり要求も忘れないエリザベータに、菊は優しい微笑みで頷いた。この試作が成功したら一本差し上げますね、との呟きに、ギルベルトは限りなく嫌な予感を覚えて沈黙する。それまさか、と師匠から向けられるうろんな目に誇らしげに胸を張り、菊は世界に輝け日本の技術っ、と全力で叫びながら『それ』を取りだした。恐らくは太陽をモチーフにしたであろう飾りが先端についた、杖だった。
どこかで見たことある、と思うのは、先にくっついているのが太陽か星かの違いだけで、ブリタニアエンジェルの杖そっくりだったからである。これで来ちゃいました、とにこやかに笑う菊に、ギルベルトはひきつった笑顔で手を差し出した。
「よし菊、良い子だ。それ渡せ。折る」
「だめです。折ったら爆発しますよ」
「なんでだよっ!」
さっと杖を胸元で抱きしめた菊の返事は、一言。形式美です、だった。爆発落ちは古典の形式美なのですよ、とギルベルトには分からない主張がはじまりかけるのを落ち着かせて、問いかける。
「……それを使えば、こいつら元に戻せんのか? これ、抜け落ちた俺らの記憶だろう」
「おや。お気づきでしたか、お師匠様」
「『マリア』がこんだけくっついてればな。……元は同一だ、なんとなくは分かるさ」
マリアとマジャルは膝の上ですっかり落ち着いてしまったのか、先程からすこし眠たげだ。元々不安定な存在である上に、こぼれ落ちた『大元』がすぐ傍に居るので消えかかっても居るのだろう。優しい表情でそれぞれにおやすみのキスを与え、ギルベルトはエリザベータを手招いた。もうすこしマリアちゃん可愛がりたかったなぁ、と溜息をつくエリザベータにマジャルを渡して、ギルベルトは俺が居るだろ、と笑う。
用意はよろしいですかー、と声をかけてくる菊に頷いて、ギルベルトはマリアを抱きしめた。
「……おかえり」
くるくるくる、と指先で杖を回し、菊は『そいやぁっ!』と叫んだ。ばふんっ、といささか大げさな音と共に大量の白煙が立ち込め、一瞬で引いていく。視界が晴れた時、腕の中にマリアの姿はなかった。代わりに、温かな思い出が戻ってくる。ああ、あれは確かに花冠だった。かすかに微笑みながら視線をあげると、エリザベータも似たような表情で頷いてくる。視線ですこし探しても、もうマジャルの姿はなかった。
よし、と頷いて立ち上がり、ギルベルトは大成功です、と感激している菊に近づく。そしてなんの気ない仕草でひょいと杖を取り上げてしまうと、え、そんなまさか、と見上げてくる菊と視線を合わせて言い放った。
「没収」
「うああああああっ! お師匠さまちょっ、そんな、嘘ですよねうそうそうそうあああっ! 折れるっ、そんなことしたらおれ、おれえええっ! うああああああっ!」
べき、と儚い音を立てて杖が折れる。そのままばたりと倒れ込んだ菊を眺めて、ギルベルトは深々と溜息をついた。爆発しなかったじゃねぇか、と呟くと不発弾ですよー、と泣き崩れた声で律義に言ってくる。よしよし、と適当に頭を撫でて慰めてから振り返れば、エリザベータはまだソファに座っていた。かつての己を抱きしめた腕をじっと見つめながら、大切なものをひとつひとつ、すくいあげるような表情で沈黙している。
エリザベータ、とギルベルトは名前を呼んだ。ふ、と視線が持ち上がる。明るい草色の瞳が、まっすぐにギルベルトを見て柔らかい笑みに崩れる。ギル、と呼び返された名に、ギルベルトはそっと胸を手で押さえた。