ギルベルト。穏やかなノック一回と共に響いたのは、やや硬質でいて清涼な印象の青年の声だった。呼ばれた主が顔を向けるより早く、ぱあぁっと顔を明るくしたフェリシアーノが、椅子から乗り出して視線をやった。部屋の入り口に戸惑いがちに立つ青年は、今日は深く静かな藍色のスーツを来ていた。仕立てはイタリアで行ったに違いない。体にフィットした柔らかなデザインは、細身の青年によく似合っていた。
首元にはネクタイではなく、ループタイをしている。直径三センチ程の黒石には、神聖ローマ帝国を象徴する黒鷲がシルエットになって彫り込まれていた。一点ものだろう。見事な出来だけに、フェリシアーノはそれを彫り込んだであろう職人にすこしだけ嫉妬した。言ってくれれば作ったのに、という気持ちにもなる。じー、と凝視されて不安になったのだろう。ループタイから伸びる黒い紐を指でいじり、青年の眉が寄る。
「……フェリシアーノ?」
戸惑うような。恐れるような、怖がるような呼びかけに、フェリシアーノは大慌てで両手を振り回した。違うよ、大丈夫だよ、と言ってやりたいが、あんまり慌て過ぎて言葉が出てこない。あわわわわ、とぶんぶん手を振り回しながら口をぱくぱく動かしていると、頭の上に手が置かれる。落ち着け、と撫でてくれたのはルートヴィヒだった。未だ膝の上にフェリシアーノを乗せたまま、ルートヴィヒも青年に視線を向ける。
いかつい視線が青年で止まり、ふ、と穏やかに緩められた。誇らしげであり、自慢げにも見える嬉しそうな微笑み。どうしたんだお前たち、と苦笑して首を傾げた青年に、ようやく言語中枢が復活したフェリシアーノは、大きく息を吸う。
「すっ……っごい格好良いよ、神聖ローマっ! どうしたの? 会議はもう終わっちゃったから……お迎え? それともギルに用事なの? あ、ベルンハルトの方がいいのかな」
「お前が呼ぶならどちらでもいい、フェリシアーノ」
さらりと甘やかすことを言って、かつて神聖ローマ帝国を名乗った青年は穏やかに微笑んだ。現在は自称EUとして『国』の形を保つ青年は、現代に生活するにあたって新しく人としての名前を得たばかりだった。それがベルンハルト。正式にはベルンハルト・バイルシュミットで、ギルベルトとルートヴィヒを弟としているらしい。外見的に一番幼いのはベルンハルトなのだが、バイルシュミット家にそれは関係ないらしい。
ふにゃぁ、と嬉しそうに笑うフェリシアーノに視線を向けながら、ベルンハルトは声だけで弟を呼んだ。
「ああ、そうだギルベルト、ルートヴィヒ。帰りが遅くなるなら連絡してくれ。特にギルベルトは体調がすぐれないのだから、なにかあったと思うだろう。……今日も可愛いな、フェリシアーノ。ルートヴィヒ、フェリシアーノが落ちないようにしっかり支えてやれ。怪我させるなよ?」
「申し訳ありませんでした、兄上……でも俺様こっちなんですけど」
現在位置を主張するようにちょこ、と手をあげて抗議するギルベルトに、視線が向けられたのはきっかり一秒間だった。まず物憂げな息が吐き出され、視線がすい、と空を泳ぐ。右の腕をエリザベータ、左をローデリヒにがっちり抱きこまれたギルベルトに、問いかけともつかない沈黙が送られる。すぐ視線は離され、エリザベータとローデリヒに目礼をしたのち、ルートヴィヒに軽く微笑みかけてフェリシアーノに戻された。
兄上の愛を感じられない、とむくれたギルベルトの呟きに、フェリシアーノが同じ場に存在する限りお前らに向ける分は無い、と即答が響く。
「いいじゃないか、エリザベータとローデリヒに拘束されているようだし……なにをした?」
「アーサーのスコーンを食べようとしたんだよねー? それで、ギルはエリザさんとローデリヒさんが止めてくれてたんだ。ルートは俺と兄ちゃんで頑張ったんだよー。兄ちゃん、もう帰っちゃったけど」
アントーニョ兄ちゃんはきっと追いつけなかっただろうなぁ、と思いながらフェリシアーノは苦笑した。逃げようと思えば、どこまでも鮮やかに逃げ伸びるのがイタリアンソウルである。夕食の準備も控えていたことだし、今頃は家に辿りついて厳重に鍵をかけ、アントーニョを締め出していることだろうう。思い切りの良い兄ちゃんって素敵、と頷きながらロヴィーノを思い、フェリシアーノはぴょんっと椅子から飛び降りた。
すぐに駆けよらなかったのは、ベルンハルトの姿を鑑賞する為に他ならない。じっくり見て堪能したので、もうそろそろ傍に行きたいのだった。とたたたた、とかけて来たフェリシアーノに気が付き、お前らどうしてそういうことを、と額に手を当てて弟の無謀に悩んでいたベルンハルトの視線があがる。はぐーっ、と伸ばされた手を引き寄せて、盛大に照れながらも腕の中に迎え入れた。きゅ、と抱きしめる力は優しい。
あの頃とは違ってフェリシアーノの方が身長も高く、体つきもすこし大きい。消滅時より歳を重ねた姿で戻ってきたとはいえ、『神聖ローマ』の体はまだ成長の余地を残していた。これから育っていく、若木のようだ。細くともしなやかで力強く、なによりとても美しい。思う存分すりよって甘えるフェリシアーノの背に腕を回し、ベルンハルトはぽんぽん、と宥めるように撫でてやった。くすくすと、笑い声が耳元ではじける。
ひとが成長の過程で忘れてしまう、陽だまりの幸福を宿した笑い声。それだけで、じわりと胸に熱が灯って行く。愛おしい。目を閉じて頬をくっつければ、フェリシアーノは大きく息を吸い込んで浮かび上がる涙がこぼれるのをこらえた。神聖ローマ、と呼びかける。うん、と不思議そうに問いかけられて、フェリシアーノはなんでもないと笑った。今度はベルンハルト、と名を呼ぶと、やはりうん、と頷かれて手が握られる。
呼べば反応が返ってくる。そのことが、言葉にならないくらいに嬉しかった。ギルとルートと一緒に帰るの、と問いかけると、一拍迷う間があって送って行く、と囁かれる。迷惑でないなら、と続けられて、フェリシアーノはぶんぶん首を振った。
「すっごく嬉しいよっ! 手繋いで帰ろうねっ」
「お前がそれを望むなら」
手をす、と口元に引き寄せ、触れぬままに視線を合わせて微笑む姿は、さすがに騎士の兄だった。ハグもキスも本当に恥ずかしがってぎこちないのに、こうした仕草だけは照れずにしてくるのだからフェリシアーノは混乱してしまう。息をつめてこくんと頷き、フェリシアーノはベルンハルトの手に指をからめて握り締める。こいびと、とくふくふ笑いながら呟くと、意味を悟ったベルンハルトの顔が瞬時に真っ赤に染まった。
言葉が出てこない様子で口をぱくぱくさせるベルンハルトは、それでも手を解こうとはしていない。視線をあちこちに彷徨わせ、床を見て机を見て呆れの視線を向けてくるルートヴィヒを見て、兄上見てる方が恥ずかしいと言わんばかりの視線を向けてくるギルベルトを軽く睨み、ベルンハルトはようやく息を吸い込んだ。
「よ、よし。じゃあ帰るか……そういえば、なにを話してたんだ?」
行われた会議の内容を問うているわけではないのだろう。一応は茶会が催された痕跡を見て、雑談の内容を知りたがっているのだった。フェリシアーノは嬉しそうに繋いだ手を揺らしながら、ヴェ、とご機嫌に鳴いて言う。
「菊のお家の、愛の告白のお話だよー。好きとか愛してるとか言わないで、そういう気持ちを伝えるんだけどね……」
そこで口ごもられ、きらきらの視線を向けられて意味が分からない程、ベルンハルトも機微に疎いわけではない。ごく控えめに人目があるんだが、と告げると、フェリシアーノは俺は気にしてないよ、と即答で言い放つ。それをたしなめるでもなく、そうかと頷いて諦めて受け入れてしまうのが、ベルンハルトがいかにフェリシアーノを溺愛しているからだろう。兄上、甘弱い、と呟くギルベルトに、ベルンハルトはにっこり笑う。
「ギルベルト。エリザベータと口論して勝てたら、その主張を受け入れよう」
「兄上ごめんなさい」
「兄さん、いくらなんでも諦めるのが早すぎるぞ……」
呆れより物悲しさを感じさせるルートヴィヒの呟きに、ギルベルトはよく考えろよ、と息を吐く。
「惚れたほうが負けって言うじゃねぇか。勝ち目とかねぇし……エリザとルートと、兄上とローデリヒと、フェリちゃんには一生勝てる気がしないぜー。別にいいけど」
「おや、私もですか」
意外そうに声をあげたローデリヒは、そのまま手を伸ばしてギルベルトの頭を撫でてやった。いいこいいこ、と愛でられて、ギルベルトの目がちょっとだけ嬉しそうな色をともす。ケセ、とちいさく笑ってギルベルトは続けた。
「だってお前と口論になったら、勝ち負けの前にエリザが来るじゃん。フライパン痛い」
「ローデリヒさんにちょっかいだすからいけないの」
音楽の僕の守護者としての意識半分、想い人が己以外と二人きりの状況を許したくない気持ち半分なのだろう。すぐ喧嘩ふっかけるんじゃありません、とエリザベータにたしなめられて、ギルベルトはぷっぷー、と頬を膨らませた。すぐにぺしょ、とエリザベータがそれをつぶす。むきになってふくらます、つぶす、ふくらます、つぶす、を延々繰り返す二人に、ローデリヒは口に手を当てて細かい笑いに肩を震わせた。
二人ともハプスブルグの嫁になればいいのに、とたくらんでいるとしか思えないローデリヒを呆れた目で眺めやり、ベルンハルトはじーっと見つめたままで待っている想い人に視線を戻した。今なら多分、あの三人には聞こえまい。己の内側からひとつひとつ、ゆっくり言葉を拾い上げて口を開く。
「フェリシアーノ」
「うんっ!」
「……呼んでくれる、と、嬉しい」
手を繋いだまま、その場に片膝をつく。立っていてもすこし見上げなければ合わない視線が、広がって仰ぐようになった。見上げると言うより覗きこむ感覚に近いのは、きっと意識がすぐ傍に寄り添っているからだ。強く刺し貫くような光を宿す、オニキスの瞳。甘くも弱くはない輝きの瞳をそっと覗きこんで、ベルンハルトは告げた。
「俺はずいぶん、待たせてしまったから。その代わり、というつもりでもないのだが……今度は、その、お前が呼んでくれると嬉しい。名前でもいい。来いと、一言、それだけでもいい。どんな言葉でも、仕草でだってかまわない。どこへだって行こう。もう待たないでくれ。待つ前に、呼んでくれ。そうしたら俺は、すぐそこに行くから。なにをしていても、どんなことがあっても、必ず、お前のところまで行く。フェリシアーノ」
「……神聖ローマ」
「ああ、そうだ。……そうして、俺を呼んでくれ」
ひゅう、と息がもれる音が響いて。雨だれのように、ベルンハルトの頬が濡れる。雫を拭うこともせずに両腕を伸ばして、ベルンハルトはそっとフェリシアーノの頭を抱き寄せた。がくん、と膝から崩れるようにしゃがみこんでしまったフェリシアーノを、しっかり受け止める。すがりついてくるぬくもりを撫でながら、ベルンハルトは困ったように微笑んだ。
「泣き虫は……そのままだ」
「……君のせいだよ」
「そうか」
じゃあいい、と。やさしく告げられて、フェリシアーノは涙をこぼしながらも満面の笑みで頷いた。息を吸い込んでよろけながらも立ち上がり、指先で涙をぬぐう。瞬きをすれば、もう浮かぶ雫は消えていた。よしっ、と元気よく気合をいれなおして、フェリシアーノはにこぉ、と笑う。
「送ってくれるんだよね? 行こう。……ねー、かえるよー、ルート? なにしてるのさー」
「ルートヴィヒ。なにをしている、来ないか。帰るぞ?」
「……兄さん、エリザベータ、ローデリヒ。先に失礼する」
あの二人の誘いを断る方法を誰か教えてくれないか、という顔つきになりながらも、ルートヴィヒは深い溜息をついて立ち上がった。それから自分の鞄とフェリシアーノの鞄、ついでにギルベルトのものも持ち上げて歩き去って行く。フェリシアーノの鞄は当然のようにベルンハルトの手に渡され、もう片方の手は本来の持ち主としっかり繋がれた。フェリシアーノは逆側の手でルートヴィヒの服の裾をつまみ、ヴェ、と鳴く。
「帰るであります! エリザさん、ローデリヒさん、ギル。またねー」
スキップでもしそうな勢いで歩いていくフェリシアーノに、引っ張られるようにベルンハルトが歩いていき、二人が転ばないように注意しながらルートヴィヒが続く。とりあえず視認できる限りに見送り、ギルベルトはなんていうかさぁ、と頬をつぶそうとするエリザベータの手首を掴んでぎりぎりと押し戻しながら呟いた。
「兄上と兄嫁と愛息子って楽園じゃねぇ?」
「おや、弟は止めて息子にしたんですか?」
「いやしてないけど。兄上とフェリちゃんにルートが入ると、俺の弟っていうかあの二人の愛息子っぽくね?」
息子の方がだいぶでかいけど、と言われて、ローデリヒとエリザベータはなるほどと頷いてしまった。両親のことがそれぞれ大好きで、父親からも母親からもなんだかんだと愛されている愛息子だ。同意を受けたことで、気が抜けたのだろう。ふっと腕から力が抜けた瞬間、エリザベータの手がギルベルトの頬をむにむにと押しつぶす。いい加減にしろよっ、とローデリヒに張り付いて逃げながらギルベルトは抗議した。
「俺様のほっぺをふにふにしてなにが楽しいんだっ!」
「猫の肉球ふにふにと同じくらい楽しいわよっ!」
「エリザベータ、いい加減になさい。返して差し上げませんよ?」
ギルベルトに腕を回しながらささやくと、エリザベータの動きが凍りつく。何かしらの葛藤があるのだろう。そんなエリザベータを嫌そうに眺め、ギルベルトは深々と溜息をついた。体調があまり良くないせいで、くっついているローデリヒのぬくもりが気持ちいい。珍しく邪険にされないで撫でられるのにも気をよくして、ギルベルトはケセ、と笑いながら言い放った。
「なあなあ、ローデ」
「なんです?」
「ことりのように格好良い俺様を、褒めたりしてもいいんだぜ?」
つまり、各々が語って行ったように言葉を尽くして好意を示せ、ということだろう。ちらりと視線を向けて伺うと、エリザベータがなんだか泣きそうな、恨めしげな目を向けて沈黙している。また二人きりの時にでもして差し上げますよ、と宥め、ローデリヒはギルベルトの目の前でくるくると指を回した。注意が指にむいたのを確認してからすいと動かし、あちらに口説いてもらいなさい、とエリザベータに向きなおさせる。
真剣な顔つきのエリザベータとは対照的に、ギルベルトは気乗りがしないようだった。散々頬で遊ばれたので、すっかり機嫌を悪くしてしまっているらしい。俺より俺の頬のが好きなんだろ、と意味の分からない呟きを発されるのに、エリザベータはゆるく苦笑して立ち上がる。椅子に座るギルベルトの前に立ち、やや背を屈めて視線を合わせた。なんだよ、と刺々しく睨み返されるのに笑って、エリザベータは口を開く。
「アンタを、何回滅ぼしてりたいと思ったか、覚えてないわ」
言い聞かせるようにゆっくりと告げられる言葉に、ギルベルトの体から力が抜け落ちる。不思議なくらい空っぽの瞳で、視線が合わされた。エリザ、と不審げに声をかけてくるローデリヒに微笑みだけを向けて、エリザベータはギルベルトに手を伸ばした。ぎゅ、と手の甲から握って、エリザベータはとつとつと告げる。
「私の大事なものを傷つける、アンタがすごく嫌だった。私の大切にしてるものを、奪おうとするアンタのことがキライだった。同じものを見て、同じことをしてたハズなのに、いつの間にか隣から消えて戦い続けるアンタのことが認められなかった。……信じたくなかった」
大事なものを一緒に守って、大切にするものを共に抱きしめて。そうして生きていた筈なのに、いつの間にかそれができなくなっていて。外見も、声の高さも、腕の太さも、体つきも。なにもかもがどんどん食い違って行って、そのことがひどく悲しかった。がらんどうの瞳が、ほんのわずか揺れる。枯れた泉に水を注ぎ入れるような気持ちで、エリザベータは囁きを落とす。空洞ならば、満たされてしまえばいいだけのこと。
「どんなに傷ついても、どれだけ傷つけても立ち上がるアンタの目を見るのが怖かった。敵意ならいいわ。並び立つ者など許さないくらいの敵として、アンタの前に立ち塞がればいいだけだから。憎悪でもよかった。憎むくらいつよい気持ちで、居られるならそれでも……。耐えられないのは、同じ存在になり下がることよギルベルト。プロイセン王国。アンタには敵が多かった。その多くの敵と、私を同じだと思われるのが」
ただ、障害として。ただ、『国』として。見られたら、恐らくエリザベータは耐えきれなかった。その時に感じるのは、恐らく悲しみよりも怒りだろう。そうされるくらいなら、滅ぼしてしまいたかった。ほの暗い独占欲。
「許せるとは、思えなかった。……いつだってアンタの傍で、特別で居たかった」
それが叶わないならば、と。ただ、それだけのこと。痛みを感じたように、ギルベルトの瞳がきゅぅ、と細くなる。ゆるく意思をともして、ギルベルトの瞳がエリザベータを見る。にこ、と笑いかけて、エリザベータは囁いた。
「傍に居るのが当たり前だった日に、帰りたいって何回も思ったわ……今は思わない。どうしてだと思う?」
「……俺がきらいだからだ」
半泣きの拗ねた声で言い返してくるギルベルトに顔を寄せて、エリザベータは優しく額を重ね合わせた。ばかね、と笑ってやると赤色の瞳がふにゅ、と悲しげにゆがむ。いっそ涙が枯れるほど泣かせてやろうかと思いながら、エリザベータはギルベルトの頭を抱きしめる。
「そんなことしなくても、アンタが私のものだからよ、ギル。……私の、求めた世界の全て」
あなたが傍にない世界だからこそ、あれほどまでに戦った。辿りつくまでの道が遠すぎて、途中で目的すら見失ってしまうくらいに。それでも、今、この腕の中にその存在がある。
「……ギルベルト・マリア・バイルシュミット?」
「……おう」
拗ねた気持ちが一段落したのだろう。返ってくる声は普段通りのギルベルトのもので、すこしだけ残念に思いながらエリザベータは笑った。
「ひとが抱ける気持ちの全てで、あなたのことを想っているわ」
敵対したからこそ。味方だったからこそ。共に在ったからこそ。見守ることを、したからこそ。抱ける気持ちがあって。ひとが、ひとに対して向ける感情の全てで、ギルベルトを想った。色とりどりの花束を結ぶリボンを送る気持ちで、エリザベータはギルベルトにそっと口付ける。
「……顔が赤いわよ、ギル」
「……言ってくれねぇの?」
その言葉を出さずに口説くのがコンセプトじゃなかったのかしら、と笑って。まあいいわ、とエリザベータは赤く染まったギルベルトの目尻にキスを落としながら囁いた。別に、言って悪いことはないのだ。
「好きよ」
瞬間、にぃ、とギルベルトの唇が半円を描く。勝った、とでも言いたげな仕草の意図を悟るより早く、唇が重ねられる。油断していたエリザベータの体を強く抱きしめて、ギルベルトはゆっくりと唇を離した。
「エリザベータ・ヘーデルヴァーリ」
「な……に」
「愛してるぜ!」
にこっ、と無邪気な喜びをのせて言い放たれた言葉に、エリザベータは思わず視線を彷徨わせてしまった。それはずるい、と思う。私が努力した分アンタも口説きなさいよ、とうろんな目で軽く睨んでやると、ケセセ、と腹立たしい響きで笑われた。
「いいじゃねえか。伝えたいことは同じだろ?」
「風情の問題よ。……ちょっとキスでごまかそうとしないで」
「いいじゃん。ちゅーしたい。すごくしたい。エリザー、エリザー、ちゅー。ちゅー」
なんで私これが好きなんだろう、とエリベータは数秒間真剣に考えた。エリザー、じゃない。ちゅー、じゃない。そんなキラキラうるうるした目で見たってごまかされないんだからんーとかしないでいいからちょっとああもうかわいいじゃないの可愛いは正義だからしょうがないわよね頂きます。思考から三秒で陥落して、エリザベータはギルベルトの頬を手で包み込んで唇を寄せた。ちゅ、と軽く重ね合わせて、すぐ離れる。
何回か触れるだけのキスを繰り返すと、ギルベルトの眉が軽く不満そうに歪んだ。くすくす笑いながら眉間にも口付けて、薄く開いた唇に舌を忍び込ませた。ギルベルトの舌を軽く舐めた所でなにか視線を感じて、エリザベータは視線だけを動かした。おや気が付きましたか、とローデリヒが意外そうに呟く。即座に離れ、なんで見てるんですかあぁっ、と叫んだエリザベータの主張は、一応正統なものではあるだろう。
こういう時は、見ないふりでそっと退室するのがマナーなのではないだろうか。ヤバいローデリヒの存在忘れてた、と口に手を当てて沈黙するギルベルトは、背筋を駆け上る悪寒と衝動のまま、勢いよく部屋の扉を振り返る。パシャリ、とシャッターが落とされる音が響いた。デジカメを手にほくほくと笑う菊の背には呆れ顔で佇む耀の姿があり、ルートヴィヒやフェリシアーノ、ベルンハルトたちの姿まで見える。
ささっとデジカメを懐にしまい、菊は満面の笑みで恐れ入ります、と言い放った。
「ちなみに『兄上と兄嫁と愛息子って楽園じゃねぇ?』の辺りから居りましたがお師匠さま方が気がつかれていないのでこれはチャンs、げっふごふ。お声をかけそびれてしまいまして。すみません、忘れ物をしたものですから」
「……萌えを置き忘れて帰るとは本田菊、なんという不覚って走り出したあるね」
我は一応止めたあるよ、と遠い目をして呟く耀に、菊は悪びれのない表情で微笑んだ。
「お師匠さまありがとうございます大好きです! ささ、帰りますよ、耀さん」
「お前萌え対象には素直に好き好き言うあるなぁ……」
ダメだこの島国早くなんとかしないと、という視線を向けながらも、耀は菊の手を取ってさっと身をひるがえした。そのまま呼びとめられない速度でそそくさと居なくなられてしまい、ギルベルトは怒りの持っていき所を失ってしまう。倒れそうになる意識を繋ぎとめたのは、肩に置かれた手のひらだった。視線をあげていくと、ルートヴィヒと出会う。俺の可愛い弟よ、としょげて手を伸ばすギルベルトの手が、強く握られる。
きょと、と目を向けてくるギルベルトにやや不満げな目を向けて、ルートヴィヒは兄さん、と呼びかけた。
「俺は……兄さんの弟だからな」
「うん? 知ってるけど、どした?」
「……息子じゃなくて、弟だ。知っているならいい。……一応、確認しただけだ」
弟なんだからな、と言い募られ、ギルベルトの表情が緩んでいく。がばっとルートヴィヒに抱きついて、ギルベルトはなんだお前超可愛いーっ、と絶叫した。
「大丈夫だぞ、心配すんなっ! 俺の可愛いルート! 俺の可愛い弟……!」
「ああ、兄さん。大好きだぞ」
「俺も大好きだぞルートヴィヒっ!」
歓喜のあまり、ぶんぶん振られるしっぽが見えそうな様子だった。ぎゅうぅっ、と抱きついてくるギルベルトの背を叩きながら、ルートヴィヒはエリザベータに目を向けてすこし笑う。どうだ、と言わんばかり自慢げな表情に、エリザベータの額に青筋が浮かんだ。どこかで、試合開始の鐘の音が響く。幻聴ですね、と頷いてローデリヒは立ち上がり、オロオロしているフェリシアーノと我関せずのベルンハルトの元へ向かう。
そろそろ夕暮れだった。今日の夕食は何にしましょうか、と考えながら部屋の扉を閉めると同時に、珍しく本人を間に挟んでの、要約すれば『どちらがよりギルベルトに愛されているか・愛しているか』主張大会が開始された。夕食が冷める前に、家に帰って来れば良いのだが。ギルベルトの好物ばかりを食卓に並べる決意をして歩き、ローデリヒはにっこりと微笑む。言葉を尽くすだけが、愛情表現ではないのだ。
暮れかけた空は鮮やかに赤く、ギルベルトの瞳の色に似ていた。