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 熱い息が胸の中でこもる。息もしずらいだろうに、菊は耀の腕の中に閉じこもったまま出てこようとしなかった。ゆったりとした布は、菊の姿を外界から隠した程度では苦しくもならない。だからこそクス、と静かに笑いを響かせて、耀はかたくなに視線さえ向けてこない菊の髪を撫でてやった。短く整えられたサラサラの黒髪はすこし汗ばんでいて、それでも指に残らず逃げてしまう。飽きずに撫でていると、もぞ、と動く。
 居心地が悪いのだろう。収まりの良い場所を探してもぞもぞ動いても、菊は耀から離れようとはしなかった。腕の中にとどまる限り、撫でられる気恥かしさからは逃げられなどしないのに。うぅ、と悔しげにもれる声に肩を震わせ、耀はそのほっそりとした指先で菊の肩を叩く。ぽん、ぽん、と二回。そこに在るのを確かめるだけのような優しい仕草に、菊の体からすとん、と力が抜け落ちた。条件反射に等しいのだろう。
 脱力してしまった己にこそ不思議がり、恥ずかしがるように菊は耀の服を強く掴む。伏せられているからこそよく見える耳とうなじは、染められたかのような朱色だった。微笑みながらも菊の手に触れ、耀はしわしわになっちゃうあるよー、と囁きかける。そう強く力を入れ続けていたら、指も痛めてしまうだろう。良いコだからお放し、と言葉を落とす耀に、菊は変わらず服を握りしめたまま、のっそりと視線を持ち上げる。
 間近で出会う瞳は、黒曜石のようだった。にっこり笑いかけてやると、菊はむっとした表情で口を開く。
「耀さん、私は良いですから放っておいてください。あっちのが萌えます。家族愛テラ萌えですよ」
 ほらほらよーく見て、と菊が服を掴んだまま器用に指差す方向には、仲良くスコーンを感触した英連邦三人組の姿があった。顔を伏せて閉じこもっていても、その三人の会話はしっかり聞いていたのだろう。ちいさいコの家族愛を微笑ましく見守って私は放置しておいてください、落ち着いたら復帰します、とあくまで自分を放っておけと主張する菊は、耀の服と腕の中の空間をシェルターとでも思っているに違いない。
 抱きつかれてもぞもぞされて、放置しろとは何事なのか。呆れた目で見てやると、菊はますます不愉快そうに眉を寄せる。ちいさいコの面倒見たりするの好きでしょう、ピーター君に母性を発揮させてトキめいてください、と求められて、耀は溜息をつきながら身を屈めた。ひぐっ、と押しつぶされた悲鳴を喉の奥で上げ、菊はさっと視線を反らす。耀の顔を至近距離で見られるなら、美的センスが壊滅しているに違いない。
 しまった逃げられない、と今更ながら追い詰められた気持ちでおろおろする菊の両頬を手で包み、耀は落ち着く、と言い聞かせた。言い聞かせ口調での命令に、菊の体は半ば強制的に従ってしまう。すりこみだ。子育てされた経験のある国家なら多かれ少なかれ持っているであろう、『親に逆らえない気持ち』が体の自由を奪う。はぁ、と大きく長い息を吐いた菊の頬を撫でながら、耀は確かに可愛らしいが、と言った。
「菊を放って見る程の可愛らしさではないある。我にとっては菊が一番可愛らし。昔も、今も」
「わ……分かりましたからその、あの、息してもよろしいでしょうかっ」
「だぁれも呼吸するななんて言ってないね。にーにが近寄るだけで、なにをそんなに緊張するか」
 分からないコね、と笑いながら菊をそっと抱き寄せ、もたれかからせて耀はその背を撫でてやった。眠りを誘うような、穏やかなリズム。まるきりこども扱いに悔しく思いながら、菊は内心で絶叫した。そんなん貴方の顔が綺麗だからに決まっているでしょうが、と。白磁器のようになめらかな肌は白く、切れ長の瞳を彩るまつげは長い。唇は緋牡丹や石楠花に似て、赤く美しく、妖しくも芳しい。視線の向け所がないのだ。
 爪の先まで整った、非の打ちどころがなく美しいひと。指先が背を撫でるだけで、息が乱れそうになる。ぎゅ、と唇を引き絞って耀の肩を押しやり、菊はなんとか体を腕の長さ分だけ離すことに成功した。おや、と言わんばかりまたたいた目が、ごく優しく細められて向けられる。菊。名を呼ばれ、もういいのかと問いかけるそれに頷くのが精いっぱいだった。顔が赤いのも、息と鼓動の乱れも、恐らく隠せてはいまい。
 幸いなのは、先程と違って他者の視線がそう向けられていないことだ。今のうちに部屋を出てしまった方がいいだろう。よし、と気合を入れる呟きを胸の中で響かせ、菊は大きく息を吸い込み、耀の名を呼ぶ。んー、と気の抜けた返事に、菊は若干視線を彷徨わせながら言った。
「もしよろしければ、今日、これから我が家にいらっしゃいませんか?」
 んー、と。考えているとも予定を思い起こしているとも知れぬ声を響かせ、耀はゆるゆると瞳に笑みを滲ませた。誘い文句にしてはすこし足りない、と面白がりながらたしなめる視線に、菊は倒れそうになる。これ以上言葉に表したら、体力を使いきって精神的に死ぬ気がした。額に手を当てて思い悩む菊に、ちらちらと視線が集まり出しす。心配してくれているのだろうが、これではまた簡易鎖国をされかねない。
 仕方がないから諦めてやろう、と耀は誘いを受けようと口を開いた時、それを許さずに菊が手を突き出した。だめ、と言わんばかり耀の口を手で塞いで、菊はなんだか空でも飛べそうな顔で言い放つ。
「耀さんと、一緒に御飯が食べたいのですっ……!」
 口唇に触れない限界で止められた手は、かすかに震えていた。その手を退けさえもせず、耀はゆる、と目を細めて微笑む。なにもそんなに照れることなどないのに、全く、なんと愛らしい。仕方がない、負けてやろうとくすくす笑い、耀は椅子から立ち上がって扉へ向かう。音もなく渡って行く姿を、慌てて菊は追いかけた。扉を開けながら差し出された手を、ぎゅぅと掴んで離さない。くっ、と喉の奥で笑い、囁きを送る。
「慌てなくとも、置いていかねえある。ご挨拶は? したのか?」
「……一応! 聞いておきますがっ! あなた私のこと何歳だと思ってるんですっ、私はジジイですよっ!」
 こーんな小さかった頃はもうとっくのとうに終わってるんですよっ、と菊が手のひらで示した高さは、床から一メートルもなかっただろう。その高さからこれ見よがしにすー、と視線を持ち上げて、耀は殆ど高さの変わらない菊の目を見つめてにこりと笑う。大きくなって、と言ってやると、菊の頬が怒りと羞恥の入り混じった赤に染まった。覚えてらっしゃい、と吐き捨てられる言葉さえはいはいといなし、耀は音もなく一礼した。
 菊の手を引いてごく自然に引き寄せながら、舞台の幕を引いてしまうような鮮やかさで。優美に仕草で退席を詫び、くるりと身をひるがえして歩いていく。手を繋いだままなので当然のように引きずられてしまいながら、菊が大慌てで退席とさよならの挨拶を叫んだ。しばし、なんで貴方が挨拶しろって言ったのにさせないで引っ張るんですかっ、から続く極東兄弟の口喧嘩が響いてくるが、それもすぐに遠くなっていく。
 春の大嵐のようだった。歳のわりに元気だよな、と落とされたアーサーの呟きに、意図せず室内の者たちはいっせいに頷いた。ティーカップを両手で持ち上げながら口を付けていたピーターだけが、ぱちぱちと瞬きをして首を傾げる。それからピーターは嫌そうな顔つきで紅茶を飲み込むと、カップをソーサーに戻してアーサーに目をやった。ん、とすぐ視線を合わせられて、ピーターは魂の底からこの上なく深々と息を吐く。
「……ご飯は、誰と一緒に食べるかも重要ですけれど。やっぱり味も美味しいのがいいですよ」
「どういう意味だ、my little」
「ピーターは今日はもうおなかがいーっぱいなのですよー! 今日はもうご飯が食べられないのですよ」
 引きつり気味に輝く翡翠の瞳を見つめながら、ピーターは満面の笑みでごまかした。胃のあたりを手でさすさすしながら、セーシェルに背中を預けて頭を撫でてもらう。今日も僕の胃は頑張るのですよ、と足をぱたぱたしながら言うと、香がこら、と膝小僧に手を当ててたしなめる。ぷぷぷ、と頬を膨らませながらもピーターは足を止めて、お腹いっぱいすぎて無口になりかけているセーシェルを仰ぎ見た。溜息をついている。
「うぇ……おなかがいっぱいすぎるー……私も今日はもうご飯とかいらないです」
「me tooだ。今日はこれ以上、食物はeatできない。……さ、ピーター。そのままじゃシェリが立てない」
 おいでおいで、と手をひらひらされて、ピーターはさすがに機敏な動きで椅子からぴょい、とばかり立ち上がった。しっかりと香を手を繋ぎ合せ、二人はふらふらになっているセーシェルを心配そうに眺めやる。南国の少女は口に手を当てながらも立ち上がり、青白い顔でアーサーを見た。怒られるかと身がまえたアーサーに、かけられたのは帰るっすよ、と帰宅の言葉で。へ、と瞬きするアーサーに、香が言葉を重ねた。
「帰るっすよアーサー。茶会は終わりです。まったく、スコーン出すのは英連邦までってマシュー兄に言われてたでしょう」
 今日は俺たちが偶然居たから良いものを、と軽くふくれる香に、アーサーは釈然としないものを感じながらも頷いてやった。多少の理不尽も飲み込んで受け入れてやるのが、元宗主国の務めだろう。ふらふらしながら扉に向かう三人を心配げに見ながら、アーサーは早口に退席の胸を告げ、後を追う。すぐに追いついてセーシェルをエスコートするように支えながら、アーサーはそういえばさ、と不思議がって問いかけた。
「マシューは? 一緒じゃなかったのか?」
 わりと過保護な英連邦の長兄は、末っ子とお姫様と可愛い弟の三人だけではあまり出歩かせない。会議場だから自由にさせているのかも知れないが、街中に出る時は必ずマシューが付いていくし、さもなければクマ次郎さんを一緒に行かせるのが常だった。三人ともあんなに可愛いから誘拐されたらどうしますか、というのがマシューの主張である。正式な文書にして提出されたそれを思い出し、尋ねたのだが。
 アーサーに向けられたのは、三者三様の呆れと憐みにも似た視線だった。なんだよ、と言葉につまるアーサーに、まずセーシャルがやれやれと首を横に振る。ピーターは溜息をついて胸を押さえ、香は目を細めて天井を仰いだ。三人共に沈黙されてしまったので、アーサーも上手く言葉を話せない。気まずい沈黙に目を泳がせれば、三人は仲良く、同じタイミングで溜息をついた。まったく、とセーシェルが言う。
「そういうこと言うなら、はやくマシューお兄ちゃんを幸せにしてあげてくださいね眉毛ヤロー。今日だって近くにはちゃぁんと居ますよ。姿を見せないのはアンタを思ってのことです。……はやく皆でお茶しましょうね」
「……そうだな」
 俺だって早く会いたいんだ、と呟いたアーサーに、ピーターはにこにこと頷いてもちょっとですよ、と励ます。アーサーの身に刻まれた呪いに近い祝福は、恐らくもうすこしで解けるのだから。それよりお家まで追いかけっこですよっ、と駆けだしたピーターの後を、大慌てでアーサーが追う。あっと言う間に廊下の角を曲がって消えた二人を追って、香とセーシェルも走りだし、一度だけ室内を振り返ってぺこりと頭を下げた。
 慌ただしく去って行く四人をそっと見送って、柱の陰から人影が現れる。アーサー帰ったなら迎え行ってくるわー、とアントーニョがロヴィーノに会いに行くのを手を振って眺め、フランシスは肩をすくめて息を吐く。
「……若いねぇ」
 それは誰にどう向けた言葉なのか、悟らせるつもりなどないのだろう。戯れに言ってみただけ、を装ってフランシスは微笑んだ。英連邦が完全に去ったことを確認して歩み寄ったマシューが、ひょい、と上半身だけ屈ませてフランシスを見る。視線を合わせるだけでなんとなく楽しくなってくるのは、一番最初の養い親と養い子の関係性ゆえだろうか。にこ、と微笑みあいながら、マシューはクマ次郎さんを抱き上げなおす。
「そんなこと言ってると老けますよ、フランシスさん」
「えー。お兄さんは、まだお兄さんだから。おじさんとかなにそれダメゼッタイ」
「そこまでは言ってないでしょう。……ひげをそればおじさんの可能性も回避できそうなのに」
 反らないのはこだわりですか、との問いかけにこだわりですと頷いて、フランシスはマシューの頭にぽん、と手を乗せた。無意識に撫でてやりながら、フランシスはとたんに騒がしくなった室内に肩を震わせて笑う。出遅れたが故に中が心配で伺っていたのだが、この様子なら大丈夫だろう。さて帰りますか、と大きく伸びをしながら言うと、マシューも頷いて歩き出した。二人の間に落ちる沈黙は、しっとりと優しい。
 大騒ぎはどこか遠くで行われていて、温かな空気だけが二人を包み込んでくれている。今日の夕食を考える片手間に、フランシスはマシューを呼んだ。素直に振り返ってくるかつての養い子に笑いながら、フランシスはなにかに操られるように問いかけていた。お前ならなんて言った、と。室内に居た者たちの会話はよく通る声でなされていたから、外で様子を伺っていたフランシスたちにも聞こえていたのだった。
 もちろん、マシューもその言葉の意味を知っている。困ったように苦笑して、マシューは足を止めた。西日が強く、廊下に落ちている。まだ夕暮れには早いが、そろそろ世界が斜めに暮れはじめる時間だった。光の帯はオレンジや赤より金に似て、マシューに深い陰影を与えている。うす紫の瞳を眩しげに細め、マシューは一言呟き落とす。本人に伝わらないからこそ、告げられた言葉だった。こい、とマシューは囁いた。
「……こい? Je t'aime?」
「non.違いますよ。菊さんに教えてもらった日本語ですので、字がすこし難しいんですけれど……読みは同じ『こい』でも、孤悲、と書きます。ひとりぼっちで、すこしさびしい。そういう意味の言葉で、それでも。すごく愛おしい……恋なんです」
 あなたの居ない孤独すら愛おしい、と。そういう気持ちに対して使うのです。菊の言葉を思い起こしてそっと微笑するマシューに、フランシスは指先を伸ばして頬を撫でた。そうか、とも、悪かった、とも言わず指先が離れていく。伝えられた熱だけをしっかりと受け取って、マシューはくすくすと肩を震わせて笑う。薄々分かっているのだから聞かなければ良いのに、それでも知りたがる優しさと好奇心が胸に温かかった。
 笑っていると、一度離れた指先が戻ってきて額を押される。ふわ、と声をあげると笑うんじゃないよ、と怒られた。
「それに、ひとりぼっちだなんて軽々しく言うんじゃない」
「……すみません」
「んー? あのな、マシュー。お兄さんはお前のそういう、妙なトコだけアーサーに似ちゃって薄暗く後ろ向きで落ち込み思考もまあ可愛いかな、と思うけどね。お前は笑ってた方がずっと可愛いよ」
 申し訳なさそうな呟きをどう受け止めたのか、フランシスはマシューの目を覗きこむようにして笑う。
「一人じゃないだろう? 気持ちの上では仕方がないかも知れないけどな、お兄さんを目の前にしてそんなこと言うもんじゃないよ。お前の目の前に居て、お前を見て、お前を呼んでる俺がここに居るだろう。……ひとりか? マシュー」
「いえ」
 思わず、くすっと笑って。くすくすと肩を震わせて、マシューはフランシスの手をぎゅっと握りしめた。目を伏せて、繋いだ手を見つめる。いいえ、とおごそかに呟くと、フランシスはマシューの頭に頬を寄せてわずかばかりすり寄り、口付けを落として離れて行った。よろしい、と教師のように囁かれ、静まった笑いがよみがえってくる。なんでもないことで、心を浮かび上がらせてくれる。フランシスは、確かに愛の国だった。
 はきとは思いだせないくらい、昔のように。戯れに手を繋ぎ合せ、二人は歩き出す。
「フランシスさん」
「うん?」
 あぜ道を辿って家に帰ったように、カーペットのひかれた廊下をゆっくりと歩いた。
「……あなたなら、なんと言いましたか」
 誰にも、言わない言葉だ。誰かに伝えようとしない言葉だからこそ、マシューは告げ、フランシスに尋ねた。フランシスはゆるく苦笑して、夕暮れに向かう真昼の光の中、胸一杯に息を吸い込む。目を閉じれば今も、夕暮れの黄金の稲穂の中。腕をいっぱいに広げて、笑う少女が居る。そうだねぇ、と切ない幸福感に身を任せ、フランシスは口を開く。
「俺にしとけよ、かな」
 君のベットに行くにはどうしたらいいかな、でもいいけど、と。言って笑うフランシスの手を、マシューは優しく握り返した。そうですか、と言うと、うん、とこどものように頷かれて微笑まれる。無邪気で無垢な笑顔は、どこまでも温かいものだった。ずっと前から、その笑顔は変わらない。何年生きても、きっとこのままなのだ。それはそれで、もうどうしようもないことなのだけれど。憤りに近い感情が、胸を過ぎていく。
 かの神聖ローマを取り返す為、神に喧嘩を売って勝って来たというロヴィーノとギルベルトも、こんな気持ちだったに違いない。ちょうどその人が、早足にすれ違って行く。軽く微笑みかけて見送って、マシューはそうだ、と口を開く。
「良いことを思いつきました、フランシスさん」
「ん?」
「いつか、あなたに」
 くすくすくす、と耐えきれない幸福を胸に満たして笑って、マシューはフランシスに言い放った。
「『神様は君が天国から逃げて来たって知ってるのかな?』と、『俺に会いたいっていう願いは叶ったよ。さぁ、あと二つの願いは何だい?』の二つで告白する状況を作って差し上げますね」
「え、いいよ止めてマシューちゃんっ! それは遠慮したいっ!」
「大丈夫。英連邦が力を合わせれば、そのうちきっとなんとかなりますからね」
 あ、スーパー行って買い物して帰りますから付き合ってくださいね、と異次元と日常をごたまぜにして突っ込ませないマシューに、フランシスは泣きそうな気持ちで額に手を押し当てた。教育を間違えたのはどこの誰だ、と思うが一人しか思い浮かばない。あの眉毛むしる。その告白は勘弁してくれ、と思いながら、フランシスは浮足立って歩くマシューと手を繋いで会議場を後にした。外は、眩しいくらいまだ明るかった。



 気配を察知したロヴィーノの動きは素早かった。危機を脱してからもなんとなく椅子の背と一緒にルートヴィヒを抱きこんでいた腕を離し、そのまま場で反転する。駆け寄ってくるアントーニョとの距離とスピード、己の反射神経を即座に計算し、避けるのは無理だと判断したのだろう。背もたれを両手で掴んで準備を整え、ロヴィーノは走り込んできた勢いそのままで抱きつこうとしたアントーニョを、即座に蹴り飛ばした。
 ロヴィーノの衝撃は、椅子の背もたれとそこに座っていたルートヴィヒとフェリシアーノが受け止めてくれる。なんやのーっ、と悲しげな叫びをあげて吹き飛んだアントーニョに、ひょこっと顔をのぞかせたフェリシアーノがヴェ、と鳴く。
「にいちゃん、蹴るのダメー。お靴が傷んじゃうでしょー?」
「この程度で傷むような安物はいてねぇよ。つーかフェリ、いい加減じゃがいもの膝の上から退け」
「ならいいけどさ。えー、やだよー。ルートの膝は俺のものなんだよー。あったかいんだよー」
 にいちゃんだってさっきまで暖取ってたくせにー、と言われて、ロヴィーノは無言でフェリシアーノの頬を左右に引っ張った。伸びる。いやぁーんっ、と半泣きの声で兄の手をぺちぺち叩くフェリシアーノは、ロヴィーノの背後に視線をやってあ、と言った。あ、と首を傾げて言い返したロヴィーノが振り返るよりはやく、足が床から離される。ひょいとばかりロヴィーノを抱き上げて己の腕に座らせ、アントーニョはもぉ、と息を吐く。
「なんやのロヴィーノ、照れ隠し? なあ、照れ隠しなん? 親分、痛いねんけど」
「うるせぇ下ろせ。あの勢いで来られたら、椅子の間で俺がつぶれるだろうがバカヤロー」
 下ろせ、とぽこぽこしながら言うロヴィーノは、けれど抱きあげられて暴れる気配もない。アントーニョの肩に腕をつき、頭の上で手を組んで、そこに顎を乗せて溜息をついている。見た所、肘が肩に食い込んでいる様子もないので、上手く体重を分散させているのだろう。ロヴィーノの腰はアントーニョの腕の上にあり、もう片方の腕で落ちたりしないようにしっかりと固定されている。どちらも、慣れているのだった。
 フェリシアーノを膝の上に乗っけたままで椅子越しに振り返り、ルートヴィヒは不可解そうなまなざしを二人に向ける。アントーニョがしっかり支えているということは、そうしなければロヴィーノが落ちてしまう不安定さがあるからだ。つまり、逃れようと思えばすぐにでも、ロヴィーノは自分の足で立つことができるのである。しかしぽこぽこしながら口で降ろせと文句を言うだけで、ロヴィーノに暴れる様子は見られない。
 気が付いていないのか、と眉を寄せるルートヴィヒに、兄ちゃん可愛いよねぇ、とほよんとした声でフェリシアーノは笑う。フェリシアーノはルートヴィヒの眉間に指先を押し当て、ぐいぐい力を入れてしわを伸ばそうとしながら口を開く。
「兄ちゃんねー、抱きあげられたらおしまいなんだよ。鳥かごの中のことりさんみたいな感じなの。だからあれは暴れないとかじゃなくて、そもそもその選択肢が存在することを知らないんだよー」
 ねえねえなんでしわ取れないの深くなってくよぅっ、と軽く叫び声をあげながら、フェリシアーノは半泣きの声でぐずぐずと鼻をすすって言った。視界の中に兄とアントーニョの姿を収めてみてはいるようだが、意識は完全に眉間を平坦にすることに注がれていた。芸術家の神経はよく分からない、とルートヴィヒは心底思う。なるべく力を抜いてやりながら、ルートヴィヒは言葉の続きを促した。うん、とフェリシアーノは笑う。
「まあ、独立してずいぶん経ったから。ホントは兄ちゃんも、もう知ってるんだと思うんだー。あそこからは逃げられるし、逃げても良いんだってこと。でも兄ちゃんはやらないと思う。アントーニョ兄ちゃんそういう風に育てなかったみたいだし、兄ちゃんがそもそも逃げようと思ってないからね。でもずるいよー。兄ちゃん、俺が抱っこしようとすると暴れるのにさー。酔った時くらいしか抱っこさせてくれないのにいったあああっ!」
「テメ、フェリシアーノ! なんの話してやがるだっ! な・ん・のっ!」
 アントーニョの腕の中でじたばたしながら、ロヴィーノは会話の途中で悲鳴を上げた弟を叱り飛ばした。フェリシアーノは投げつけられたペンで赤くなった額を指で押さえながら、兄ちゃんひどいよっ、と抗議する。
「兄ちゃんが酔っちゃった時じゃないと、俺に抱っこさせてくれないのホントじゃんっ!」
「黙れ馬鹿っ! ちくしょーじゃがいも野郎っ! お前のせいだっ!」
「ルートのせいじゃないよっ! ルートはなにもしてないだろっ、もおお兄ちゃんの馬鹿ぁっ!」
 そのまま兄弟口喧嘩に突入しかけるのを止めたのは、アントーニョだった。はいはい落ちつけな、と言いながらロヴィーノの足を床に戻して立ち上がらせ、ぽん、と背を撫でてから額を重ね合わせる。至近距離でにこにこ笑いかけられて、ロヴィーノの口がぐぅ、と閉ざされた。喧嘩したらあかんよ、と言い聞かせられたロヴィーノはしばらく不服そうに黙り込んでいたが、やがてこくん、と素直に頷いて顔をあげた。
 ぷっくー、と頬を膨らませて軽く睨んでくるフェリシアーノと、目を合わす。おい、と腕組みしながら呼びかければ、なんだよー、とむくれた声が返ってきて。深々と息を吐きながら、ロヴィーノはトマトとマグロのパスタ、と言った。フェリシアーノがぴく、と反応する。不機嫌にも見える顔つきを崩さないまま、ロヴィーノはつらつらと『今晩の献立』を披露して行った。
「トマトとモッツアレラのサラダはオリーヴオイルと塩で。プロシュートはメロンとイチジクの二種類。エビとイカはざっと火を通してハーブとレモンで味付けする。スープはヒヨコ豆とレンズ豆、セロリとタマネギ、ニンジン、もちろん角切りのトマトたっぷりのミネストローネ。マグロは角切りにしたのをニンニクと唐辛子でソテーする。中はレアで。それをアルデンテのスパゲティにトマトソースと絡めて、仕上げにパセリをすこし」
「で、デザートは……! にいちゃん、デザートはなんでありますかっ!」
「アプリコットとレモンのジェラート。欲しいならティラミスも作ってやる」
 きっちりトドメまで刺しておいて、ロヴィーノはことりと首を傾げた。それでなにか言うことは、と告げてやると、フェリシアーノはこの世の幸福を一身に受けた者の輝きで、満面の笑みで持って叫ぶ。
「兄ちゃん大好き!」
「……なあロヴィ? 親分にもごちそうして欲しいんやけど」
「材料二人分しかねぇし」
 じゃあ先に帰って作ってるからな、と出て行こうとするロヴィーノの腕を掴んでいうアントーニョに、返される言葉は冷たかった。なんで親分にデレてくれないん、反抗期、とめそめそするアントーニョに、ロヴィーノは盛大に溜息をついた。今にもしゃがみ込んでしょげそうなアントーニョのネクタイを掴み、ぐいと力を入れて引き寄せる。言い逃れもできない至近距離で、ロヴィーノの不機嫌そうな瞳が射抜くように向けられた。
 ロヴィ、とささやくように名を呼ばれ、ロヴィーノは口元だけで笑う。ネクタイを掴んでいた手が離され、拳の形を作ってごく軽くアントーニョの胸を叩く。お前のココが、と吐息に乗せるように、ロヴィーノは言葉をすべらせた。
「俺のことでいっぱいになって、なりふり構わず俺が欲しくなって。許容もなく、慈悲もなく。優しくなくても、傷つけるくらいでも。格好つける余裕なんか全部なくして、みっともないくらいいっぱいの気持ちで、持ち得る限りの全てで、権力も立場も、お前が親分で俺が子分で、そういう繋がりも利用して、逃げ道を全部塞いで追い詰めて……そういう風に求められるようになったら、お前のモンになってやるよ」
 それまでお預け、と天使のように綺麗に微笑み、ロヴィーノはアントーニョを押しやった。たたらを踏むように数歩離れたアントーニョを見やり、ロヴィーノは早く帰ってこいよ、とフェリシアーノに手を振って部屋を出ていく。ヴェヴェ、と返事しながら手を振り返して見送って、フェリシアーノは心から満足げに、茫然としているアントーニョとルートヴィヒに自慢した。
「ねえねえ、俺の兄ちゃん格好良いでしょー」
 素直に告白しちゃわないトコとかすごく可愛いけどー、と笑ったフェリシアーノの声に、アントーニョは己を取り戻したらしい。瞬時に顔を赤くしてからきゅっと唇を噛み、ちょぉ待ちい、と叫んで飛び出して行く。ぷよぷよと音符を飛び交わせてヴェ、と機嫌良く鳴くフェリシアーノを見下ろして、ルートヴィヒはしみじみと思う。これはちょっとした小悪魔だ。すぐに視線に気が付き、フェリシアーノはにっこぉ、と可愛らしく笑う。
 それでもまさしく、天使の笑みだった。

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