WWU、南部イタリア防衛線における『降伏→連合軍の一員としてドイツに宣戦布告』、ならびに『ベルリンの壁崩壊』『東西ドイツ再統合』を創作上のモチーフとし、個人的な解釈によって言及しているシーンがあります。あくまで創作上のモチーフと個人の妄想解釈であることをご了承ください。
ふと見上げた空は灰色だった。分厚く重たい雲が、キャンバスに絵具を塗りたくったように空一面に広がっている。青くもなんともない曇り空だった。それでも視線を外す気になれないのは、細かい亀裂のようにこぼれ落ちる光が、あまりに綺麗だったからだ。白金に近い、細い細い光の帯が、ぶ厚い雲を貫いて地上に光を与えている。神様が、きっと、今そこに居るのだ。思わず両手を祈りの形に組み合わせ、目を閉じる。
言葉は出てこない。祈りの文句も、なにもかも消えてしまう。吐息と薄闇の世界を終えてまぶたを開けば、恐らくは同じように祈っていたのだろう。数歩先を歩いていたロヴィーノの背が、すっと伸びているのが見えた。まっすぐにしてまろやかな背の線は、それだけでどこか芸術的だ。感嘆の息を吐きだして視線を送れば、祈りを終えたロヴィーノがゆっくりと振り返る。距離があるのに、なぜかはっきりと瞳の中が見えた。
笑っているのに、なんだか泣きそうな表情をして立っている己の姿を、鏡のように見つめてしまう。数秒の間をおいて、ロヴィーノは自分の瞳を一心に見つめ、遠くから覗きこんでいた存在の名を呼んだ。
「フェリシアーノ」
そこでようやく、ふっと体に意識が戻ってくる。己がなんという存在であったのかを思い出し、フェリシアーノはヴェ、と鳴いた。すこし、ぼんやりしすぎていたかも知れない。頭を振って体の中の薄霧を払えば、空がわずかに高くなる。もう一度見上げた灰色雲は確かに綺麗なものだったが、感じていたような神聖さは、すでに遠くなっていた。心配そうに見つめてくるロヴィーノに笑いかけ、フェリシアーノは兄ちゃん、と言った。
「ごめんね、兄ちゃん。俺、なんかぼーっとしてたみたいだ」
「……そうか」
お前がそう言うなら、とロヴィーノは追及をしてこない。さっと身をひるがえしたかと思うと、フェリシアーノが追いついてくるのを待たずに歩きだしてしまう。人ごみ以外では、わりといつものことである。待ってよぅ、と声をかけても歩みは遅くもならず、立ち止まりさえしなかった。振り返ってもくれない。しょんぼりした気持ちを持て余しながら、フェリシアーノは身軽く地を蹴って兄の背中を追いかけた。今日は、特に足が速い。
けれど歩いているのと走っているのでは、その差はすぐに縮まるもので。瞬く間にロヴィーノに追いついて、フェリシアーノはそのまま、兄の背中に突撃した。ある程度、予想して身構えていたのだろう。よろけたものの数歩で姿勢を立て直し、ロヴィーノはぶすっとした声で痛い、と言った。別に攻撃した訳ではないのでそうそう痛い訳がないのだが、フェリシアーノは素直にごめんね、と謝る。謝るけれど、離れはしなかった。
背中にぺったり体をくっつけて、すりすりと肩に額を擦りつけて甘える。兄ちゃーん、と懐けば、ロヴィーノはなにか諦めたような息を吐きだして、フェリシアーノの頭を撫でてやった。その手が、その指先が、細かく震えていることがフェリシアーノには分かる。なにも言わずにぎゅぅ、と腕に力を込めて抱きつきなおせば、ロヴィーノはちっと舌打ちをして手を握ってしまった。兄ちゃん、とフェリシアーノは呼ぶ。泣きそうな声だった。
「だいじょうぶだよ……大丈夫。去年だって、誰もなにも言わなかったでしょ?」
「これまで言わなかっただけで、今年から言うようになるかもしれねぇだろ……ちくしょう」
「言わないよ。俺が言わせない。俺たちは、二人でイタリアだもん。二人だから、イタリアなんだよ」
裏切り者だなんて、そんなこと、絶対に誰にも許さない。ひっそりと、響かない声で呟くフェリシアーノの言葉に、ロヴィーノの体がびくりと跳ねた。ああ、抱きついていて良かった、とフェリシアーノは思う。この瞬間に、その瞬間に、触れていることが出来て本当によかった。兄ちゃん、と意識を持ってから幾度呟いたか知れない呼びかけを、祈りのように囁いて。フェリシアーノはぽんぽん、とロヴィーノの肩を叩いた。
「ギルが言ってたよ。兄ちゃんは誰より、国を守ろうとしたんだって。イタリアと言う国家を地図から、歴史から消さない為にやったんだろう、って。ギルはね、言ってたよ。だから……だから、ルートを守れたって。ルートをこっちに置いて、向こうに行く覚悟が出来たんだって。言ってたよ、兄ちゃん。俺も……俺も、知ってたよ。いざって時、本当にいざって時、兄ちゃんが俺に全部全部くれようとしてたこと、知ってたよ……っ!」
感情が高ぶって、最後まで上手く言葉を話せない。悲鳴のように言い放てば、ロヴィーノの体がくるりと反転し、二人は向き合う形になった。なにも言わず、ロヴィーノはフェリシアーノを抱きしめる。そこに、存在があることを確かめるような抱擁。泣きそうになりながら、フェリシアーノは息を吸い込んだ。ロヴィーノはなにも言わない。あの時も、終わった後も、そして今も。なにも言ってはくれない。だからこそ、心は伝わる。
触れ合った熱と鼓動が、教えてくれる。兄ちゃん、兄ちゃんと呟いて、フェリシアーノは息を吸う。
「そんなの、俺、嫌だよ……絶対、絶対、嫌なんだよ」
「……知ってる」
ずっと、そんなことくらい、知ってる。言い聞かせるでもなく胸の隙間に落とされた言葉を拾い上げて、フェリシアーノはぎゅうぅ、と手で握りつぶしてしまいたくなる。知っているのに、しない、とは言ってくれないのだ。もうしない、とも。二度としない、とも。絶対に、ロヴィーノは言ってくれないのだった。ギルベルトがそうであるように。すこし困った微笑であるか、完全なる無表情かの違いはあれど、二人は全く同じ『兄』だった。
弟想いの、ひどいひとだった。ばっとロヴィーノの肩に手をついて体を離して、フェリシアーノは兄の瞳を覗きこむ。透明な海に落とされたエメラルド。その輝きがこの世から消えてなくなってしまうなんて、考えられないし許さない。すぅ、と息を吸い込んで、フェリシアーノは兄を睨む。
「分かってないみたいだから、言っておくけどね、兄ちゃん」
「……んだよ」
ややだるそうな返事は、どんな意思をも聞き入れる気がないとの遠回しな意思表示だ。本当に、本当にどうしようもなくなったら、ロヴィーノはまたためらいもなくフェリシアーノを優先させるだろう。降り注ぐ幾千の銃弾も、幾万の非難も、幾億の悲しみや痛みさえ、フェリシアーノに届かせまいと。なんてひどい兄だろうか。むぅっとしながらロヴィーノを睨みつけて、フェリシアーノはびしりと言い放った。あのねえ、兄ちゃん、と。
「兄ちゃんが居ないのに、俺が『イタリア』として成立するなんて思わないで」
きゅ、とロヴィーノの眉が寄る。鋭い怒りさえ感じさせる目で至近距離から睨まれても、フェリシアーノは一歩も引かなかった。反論の為に開かれる唇が動くより早く、もう一言。
「俺たちは二人だった。最初から。最初から、今までずっと二人だった。……ルートと、ギルと、形は似てるけど、本当は全然違うんだよ、兄ちゃん。ギルは背負って東になったけど、兄ちゃんは最初から南だもの。南と、北で、イタリアだよ。北だけじゃ、北イタリアで、『イタリア』じゃないよ。俺はそう思うよ。兄ちゃんが守りたいのが『イタリア』なら……俺たちの『国』なら、いい。でも、そうして残った国に、『俺』が居ると思わないで」
本当にそうなってしまった時、どうなるかなんて。どうするか、なんて、考えてもいないし、考えたくもないのだけれど。それがフェリシアーノの本音で、本当の心だった。拒否する気持ちより強く、本能が告げるのだ。それはもうきっと、別物でしかなくなるのだと。『兄』が存在した『弟』も、一緒に居なくなるのだ、と。二人の視線は逃げることなく真正面から向き合い、ロヴィーノの頬には自分のものではない涙が幾筋も伝った。
なきむし、とロヴィーノが苦笑する。緊張していた空気がその一言で緩んで、フェリシアーノはさらに涙をこぼした。
「だ、だって、だって! だってぇ……! 兄ちゃんがいけないんだよ。俺、考えただけでこんな悲しいのに!」
「じゃあ考えんの止めろよ」
「考えちゃうんだよー! にいちゃんがいけないんだよー! 絶対だーれもそんなこと思ってないし、言おうとしたら俺、撃っちゃうんだからっ!」
フェリシアーノに銃の扱いをみっちり教え込んだのはもしかして間違いだったのかも知れない、とロヴィーノが思うのはこういう時だった。びいびい泣きながらも手なれた仕草で懐から銃を取り出し、安全装置と残弾を確かめてしまい直す仕草は滑らかだ。よしっ、と見かけだけは可愛らしく気合を入れ直して頷くのを、ぽこりと殴って。痛いよっ、と騒ぎ出すのを冷たい目で見やり、ロヴィーノは深々と息を吐きだした。
「誰を撃つつもりだこのバカヤロー……ほら、行くぞ」
「ヴェ?」
「誰も……俺を、歓迎しないなんてことないんだろ? じゃあ行ってやるって言ってんだよ、馬鹿弟」
素直、という言葉からは遠いロヴィーノの言葉に、フェリシアーノは差し出された手を見つめつつ、うーん、と首を傾げて。それから、ぴょこんっ、とくるんを機嫌よく跳ねさせ、ロヴィーノの手をきゅっと握った。
「わーい! 兄ちゃんと一緒! 兄ちゃんと一緒にルートのお家に行くであります! 行くでありますっ!」
「ちょ、ばか! 騒ぐな! 走るな! 足元! 転ぶ……!」
「わはー! ねえねえ兄ちゃんっ、俺、兄ちゃんだーいすきっ!」
ロヴィーノの注意など全く聞かず、フェリシアーノは繋いだ手をぶんぶん振り回しながらおおはしゃぎで歩いた。走らなかったのは、ロヴィーノが全体重をかけて転びぐせのある弟をなんとか歩かせたせいで、決してフェリシアーノの功績ではない。ふんふん鼻歌を響かせ、音符をまきちらしながら道を進んで行くフェリシアーノはこの上なくご機嫌だ。大好きだいすきー、と歌うように告げられて、ロヴィーノは知ってる、と呟いた。
「……あと、俺も好きだからな。フェリシアーノ」
聞かせる為の呟きではなかったのだろう。即興で『兄ちゃん大好きな歌』を響かせていたフェリシアーノが、聞き届けるとも思っていなかったのだろう。恥ずかしそうに、はにかみながらもごく素直に落とされた呟きに、フェリシアーノは胸をきゅーっとさせてロヴィーノに抱きついた。
「にいちゃああああんっ!」
「っ、だー! 歩けねええええっ!」
「俺嬉しいよ兄ちゃんっ……! ……あれ?」
兄が有事に弟の意思を聞き入れるつもりがないのと一緒で、平時、弟は兄の要望を聞き届ける機能がついていない。よって思う存分すり寄って機嫌よくなりながら、フェリシアーノはきょとん、と目を瞬かせて首を傾げた。風に乗って遠く、遠く、かすかに旋律が聞こえた気がしたからだ。全力でフェリシアーノを引きはがそうとしながら、ロヴィーノも気が付いたのだろう。正体を探るように視線がくる、と円を描き、唇が閉じた。
耳が澄まされる。風が吹き抜ける音だけが響いて行く道で、二人は同時に視線を跳ねあげた。
「チェンバロ弾いてるっ!」
「バッハルベルのカノンだな」
大気の上を泳ぐように響く、金属的な旋律だった。音の響く範囲の空間を上から五、四、三、二、一、と分けたとして。第三層の半ばから、第四層辺りで旋律が踊っている。軽やかな響きは、ピアノの音色とは全く違う。ピアノの音色はもっと密度が高く、色が濃く、そしてなにより大地に近く響くのだ。かすかに、かすかに、その音色を、その旋律を知らなければそうと分からないくらいの響きで軽やかに、カノンが奏でられる。
一人しかいない。きっと世界に一人しか、こんな風に音を奏でない。なにものにも例えることができない、純化した音楽。
「ローデリヒさんだ……!」
喜びに満ちた声でフェリシアーノが叫び、ロヴィーノも同意に頷いた。二人の足が左右対称、同時に大地を踏みしめて走り出す。手は繋いだまま、離されることなど考えていない風に重ねられたままで。ほんのわずかな距離、というのでもない、家までの道を駆け抜けて行く。普段なら興味を引く路地に揺れる赤い花も、雨風に色褪せて素敵な色合いの石畳も煉瓦も、その隙間から顔を覗かせる名を知らぬ草も気にならない。
息がはずんで、気が付けばルートヴィヒの家はもう目の前だった。立ち止まって肩を大きく上下させながら、フェリシアーノとロヴィーノは目を合わせて明るく笑う。全く、こどもでもあるまいになにをはしゃぐことがあるのだ、と笑い合う。音楽は逃げない。それが事実だ。それぞれ手を伸ばし合って乱れた髪を整え合い、フェリシアーノは振り回してくったりしていしまった花束に視線を落とし、やや沈黙した。忘れていた。
ネクタイを締め直しているロヴィーノに悲しげな鳴き声と共に視線を送れば、料理以外では驚くほど手先が不器用な兄は、そっと視線を反らして諦めれば、と呟く。持っていたのを忘れたのはフェリシアーノだが、ロヴィーノは注意するのを忘れていたのである。責任はどちらにも等分にあり、フェリシアーノはしょんぼりして、くったりしたガーベラの花弁を指先で整えた。ちょいちょい、と撫でれば、すこしは見栄えがよくなる。
ほんのすこし、ではあるのだが。ルートなら許してくれる、といいなぁ、と溜息をつきながら玄関に向かうフェリシアーノの足取りは、それでも軽い。革靴が石畳を叩くリズムはきちんと音色に乗っていて、チェンバロのワルツにくるりと踊る。ヴェっ、と機嫌良く笑えばロヴィーノが手を伸ばしてきて、せっかく整えた前髪をくしゃりと乱し、離れて行く。なにすんだよー、と笑いながら文句を言うと、ロヴィーノは瞳をゆるりと細めた。
「別に? 心配しなくても、じゃがいも野郎の美的センスなら、多少花がくたびれてても分からねぇだろ」
「……アイツにはなに食わせても一緒なんだよ、って言いながら、兄ちゃんはアントーニョ兄ちゃんが来ると俺をキッチンから追い出すくせに」
きっかり一秒後。ヴァルガス兄弟の騒がしすぎるじゃれあいが玄関先の空気を揺らし、チェンバロの音色がやや途切れる。さすがに、気が付いたのだろう。すぐに何事もなかったかのように演奏は再開されるが、それでも音符は楽しげな笑いにさざめくようで、演奏主の微笑ましさを表現しているようだった。芸術家二人の耳に、それはなにより恥ずかしく届く。ちくしょう、と赤い顔で吐き捨てて、ロヴィーノは玄関を靴で蹴った。
こら兄ちゃんーっ、と叫びながら、フェリシアーノは礼儀正しくチャイムを連打する。これって押して時々逃げたくなるよねえ、とロクでもないことを呟くフェリシアーノに、ロヴィーノは深々と頷いた。隠れるか、とさらにどうしようもない悪戯を発案したロヴィーノのたくらみは、しかし実行されなかった。ぱたぱたと落ち着いた響きでスリッパを鳴らしながら歩んでくる音がして、すぐに玄関が開けられたからだ。現れたのは家主だった。
完全に休日で自宅に居るというのに、硬い髪質の金髪はよく撫でつけられている。台風が過ぎ去って空気が澄み切った日の、薄く透明な青空色の瞳がフェリシアーノを見て、ロヴィーノを見て、ゆるく笑った。こういう時だけ、ロヴィーノはこの男を年下だと感じ、フェリシアーノは年長ぶってにこりと笑う。長く生きた者だけが浮かべることのできる、相手の全てを包み込むような笑み。こんにちは、とフェリシアーノは言った。
「お招きありがとう、ルートヴィヒ。俺、お前の為にお花ちゃん買って来たんだよ。はい、どうぞ!」
「どうもありがとう、フェリシアーノ。ロヴィーノも。……まるで振り回された後のような、ぐったりした花束だが」
「天気が天気だからな。ガーベラもやる気ねぇんだろ」
さらりと流れるなめらかな嘘で弟を庇い、ロヴィーノは一歩を踏み出した。フェリシアーノを押しのけてルートヴィヒの前に立ち、悔しくも身長差で覗きこむようにして視線を合わせる。澄みきったアイス・ブルーの瞳。浮かぶ感情は、どうにも薄かった。ふう、と仕方なさそうな溜息をつき、ロヴィーノは静かな声で呟く。動くなよ。命令よりは頼みごとに近い響きにルートヴィヒが眉を寄せれば、ロヴィーノはなにも答えず背伸びした。
両手を伸ばして、かためられた髪をくしゃくしゃに乱してしまう。オールバックを完全解除させ、ロヴィーノは満足げに頷いて背伸びを止めた。トン、と靴底が大地を叩く。なんなんだいきなり、とむっとした様子のルートヴィヒに、ロヴィーノはいっそ蔑みにも近いような視線を向けた。
「馬鹿。休みの日は休めってんだ……ローデリヒも居るんだろ? 怒られなかったのかよ」
「……怒られたが、なぜ俺が、ローデリヒの言うことを聞かなければならんのだ」
「ヴェ。こーら、ルート! ダメだろー? 保護者さんの言うことは聞かなきゃいけません!」
フェリシアーノが言うと、恐ろしい程の説得力を帯びる一言だった。さもありなん、とばかりロヴィーノも頷き、ルートヴィヒはやや言葉につまってしまう。だが、と何かしらの反論を紡ぎかけた唇が動きだす前に、ロヴィーノはさらに追撃した。
「大体お前それ、朝起きてぼーっとしながら身支度したらつい普段通りの髪にしてたとか、そういうんだろ? んで、悩んで今日は休みだから止めようかと思ってるトコで注意されたとかで、今やろうと思ってたのに、で妙な対抗意識で戻したくなくなっただけだろ? 拗ねてんなよ、ガキ」
「……どこからか見てたのか?」
「『っと言う訳で俺のルートは超可愛い!』とか、昔ギルがノロケてた」
変わってないのな、と告げるロヴィーノにルートヴィヒは言葉を失い、フェリシアーノは楽しげに笑う。ギル、ルートのこと大好きだもんねぇ、と明るく言葉を弾ませて、フェリシアーノはごく柔らかに問いかけた。
「ギルは? ……起きてる? 寝てる?」
今年は、と暗に含んだフェリシアーノに、ルートヴィヒは色の薄い声で告げる。
「起きている。今日は……お前たちが来るなら、腕を振るおうと、さっきまでハーブを摘んでいた」
「わ、じゃあ今日は肉料理かな! ギルの手料理って美味しいし、優しい味がするから俺だーすき!」
「今は……まあ、家の中には、居ると思うが」
フェリシアーノとルートヴィヒの会話は、かみ合っているようでちぐはぐだった。フェリシアーノはことさら明るく会話を弾ませようとしているのに、ルートヴィヒは気が付かず、完璧な答えを返そうとだけしている。どこか痛ましいが、それも毎年のことだった。今日という日が終わってしまうまでは、いつものことなのだ。菊は夜にならないと来られないらしい、と告げられるのに頷いて、ロヴィーノはバイルシュミット家の扉を閉める。
音を立てて閉じられた扉が、外の冷気を締め出した。同時に家の中に、静寂が戻ってくる。響くチェンバロのカノンはさわさわと空気を揺らしているものの、明るさや眩さをもたらしては居なかった。家の中は、しんと静まり返っている。扉を閉めただけの姿で立ちながら、ロヴィーノはフェリシアーノに目配せする。それは、フェリシアーノの役目だからだ。まっかせておいて、と元気よく頷き、フェリシアーノはばっと両手を広げる。
「ねえねえ、ルート! 見て! ガーベラ、よーく見てよ!」
「……なんだ?」
「綺麗じゃない? わくわくしない? 赤いのとピンクのとオレンジのと、黄色の! キャンディみたいにポップなの選んで来たんだよ。どう思う? ……ええと、振り回しちゃったりしたかも知れないから、ちょっとくたびれてるのは我慢してね?」
あくまで振り回したことを認めないのは、このタイミングで怒られたくないからだ。にこにこ笑いながら告げるとルートヴィヒは呆れた顔つきになったものの、言われる通り、素直にガーベラの花束に視線を落とす。暖色系でまとめられた花束は、それだけで熱を持っているようにも思えた。じわじわと熱が伝わり、ふわりと光が咲き零れて行く。花の、甘く柔らかな香り。風に乗って彷徨うように、広がって行く穏やかな想い。
ふっと家から薄暗さが消えた。それまでとなにも変わらないのに、薄い薄い夜色のカーテンが取り払われる。ほっとロヴィーノが息を吐きだすと同時に、ルートヴィヒは重たく口を開いて呟いた。綺麗だ、と。
「綺麗な、花だ。……ありがとう」
ゆるゆると肩の力を抜いて、ルートヴィヒは息を吸い込んだ。ようやく目覚めたような意識の鮮やかさで、ルートヴィヒはにこにこ笑うフェリシアーノと、腕組みして全く仕方がないと、弟組を見守っていたロヴィーノに視線を向ける。
「ああ、すまない、玄関先で。あがってくれ」
俺はこれを花瓶に生けてから行くから、と勝手知ったる客人を置き去りに、ルートヴィヒは慌ただしく奥へ戻って行った。その背が廊下から消えてしまうまで見送り、二人は顔を見合わせてくすくすと笑う。これで、とりあえずは大丈夫だ。花をみて綺麗だと思う心が起きだしたなら、とりあえず、これ以上は暗くならない。普段よりは静かな家の中を歩きだし、二人はリビングへと向かう。リビングの机には、新聞が置いてあった。
持ち上げて丁寧にたたみ、フェリシアーノは苦笑する。普段なら絶対にこんな状態にはしておかないのに、仕方がないなぁ、と。思いながら、新聞の日付に目を落とす。十月三日。その前年の十一月九日におけるベルリンの壁崩壊から一年を待たず、東西ドイツが統一した日だった。