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 その日に集まるというのは、誰が言い出したことでもない。ただ気が付けば十月三日は、枢軸を名乗り共に戦った者たちがバイルシュミット家に集まり、なにをするでもなく過ごすのが当たり前になっていた。統一の日こそ二人きりだったのだが、翌年からはフェリシアーノも大騒ぎに加わりいつの間にか日本もいたので、真実、ルートヴィヒとギルベルトが二人で迎えた十月三日の記念日は、たった一度きりなのだった。
 一度目はただ歓喜の元、二度目は大騒ぎだったから、それがいつからなのかギルベルトには思い出せない。いつの間にか、十月三日は祝祭の色を薄れさせ、ルートヴィヒの不安を色濃く出してしまう唯一の日となってしまったのだ。消えないで。兄さん、消えないで。そう言われたのはたったの一度きりだったが、ギルベルトはその声も表情も、決して忘れることが出来ないでいる。そして、一度だけで良いとも思っていた。
 誰が最愛の弟にして敬愛なる王を嘆かせたいものか。そんな騎士が居たら俺様が決闘して首跳ねて蹴って遊ぶぜ、としみじみ思いながら、ギルベルトは階下の騒がしさに気が付いて口元を綻ばせる。ヴァルガス兄弟が到着したのだろう。目に見えない光の粒が階下から立ち上り、家中を照らし出して行くような感覚がある。あの兄弟は真実神に愛されていて、そこに居るだけで世界を輝かせてくれる、灯火なのだった。
 フェリちゃんとロヴィちゃんが居んならルートもすこし落ち着くな、と己に言い聞かせるようにも口に出して呟き、ギルベルトはぱん、と音を立てて日記を閉じ、自分で成したその扱いの乱暴さに眉を寄せる。そんな、音が立つほど勢いよく閉じた覚えはないのだが。見ればギルベルトの手のひらは細かく震えていて、指先は冷えていて白く、力の入れ過ぎであることが分かる。情けない、と息を吐きながら場に座り込んだ。
 消えないで、消えないで。胸をじくじくと傷ませる悲鳴のような『声』が途切れないのは、ルートヴィヒが不安に思っている以上に、ギルベルトも揺れているからだろう。元々ギルベルトの意識は、プロイセン王国なのである。今も変わらずその意識を持っているからこそ、ギルベルトはルートヴィヒを弟と呼んで愛でながら、我が王我が主君と膝を折り頭を垂れるのだ。心からそれは行われ、忠誠と親愛を持って言葉は捧げられる。我が王、我が民族の悲願にして喜び。歓喜にして至宝。『ドイツ』。お前を苦しませることなど、なにひとつ許さず、なにひとつしたくないのに。
 己の存在こそが、今ルートヴィヒを苦しめているという事実に泣きたくなった。存在。まさしく、存在ということこそがギルベルトの王を揺らがせるのだ。大丈夫。ささやく声は書庫にだけ響き、階下で笑うルートヴィヒには届かない。大丈夫、消えない。大丈夫、ここに居る。大丈夫、だから。泣くな。ぎゅぅ、と目を閉じ唇を強く噛み締めて、ギルベルトは体から力を抜いた。くもり空の世界はあまりに穏やかで、だからこそ寂しい。
 ゆらゆらと、チェンバロの音色が漂い始める。朝からずっと途切れない音楽は、昨日から泊まりがけで来ているローデリヒのものだった。さすがに夜間演奏だけは思いとどまらせた音楽家の情熱は、早朝から昼を経て今は午後の三時も目前だというのに、全く衰えを見せないらしい。さすが方向音痴のあまり、国境を越えられる男である。意味の分からない体力と持続力には呆れより関心し、全く真似する気にならない。
 音楽家の演奏は、意識の邪魔になるものではない。そっと空気に寄り添いながら染めて行くものだから、長時間の演奏にも関わらず、未だ近所からは苦情の一件も入らなかった。国民も、祝祭である日にそれ所ではないのかも知れないが。はぁ、と溜息をついて立ち上がり、ギルベルトは持っていた日記帳を本棚に戻す。色褪せた背表紙を指先で辿れば、よく掃除しているにも関わらず、すこしだけ埃っぽかった。
 次の晴れた日には、窓を開けて風も通してやろう。そう思いながら書庫から出て、ギルベルトは足を部屋の奥へと向けた。一階に下りる気は、起きない。二階にあるのは書庫と二人の私室と物置と、そして楽譜室。楽譜室は階段で一階と繋がっており、直に音楽室へと向かうことができる。さすがにもう演奏は終わりにして、休憩するべきだろう。あれで神経を張り詰めているらしいローデリヒは、演奏で心を逃がしている。
 誰も彼もが、程度の差はあれど不安なのだ。菊からもメールが来ていて、ものすごく遠回しな表現で『居なくならないでくださいね』と、そういう言葉が綴られていた。どうしても今日までに終わらなかった仕事をどうにかしてから、菊はこちらに来るという。到着は恐らく夜で、ギルベルトは駆けてくるであろう愛弟子を思い、ほんのわずか口元に笑みを浮かべた。大丈夫だ、と言っているのに。誰も彼も、全く信じないのだから。
 本当に俺は愛されてるな、と笑いながら楽譜室の扉を開けば、外から吹きこんでくる風が冷たく頬を撫でて行く。無言で眉を寄せて扉を閉めれば、窓辺に椅子を置いて座っていたエリザベータが顔をあげた。膝の上には古めかしい楽譜がある。読んでいたのだろう。珍しいとも言わず、来ていたのかとも問わず、ギルベルトは無言でエリザベータを見つめた。風に乱れたのか、いつもは綺麗に櫛削られている髪が乱れている。
 体の芯から冷やしてしまうような風が、また吹いた。あおられて舞いあがった音符を耳で拾い上げながら、ギルベルトは閉めろよ、と言う。窓、と重ねて短く呟けば、エリザベータはきゅっと唇を締めて従った。なにその言い方、とも告げてこない。視線で睨みつけることさえせず、エリザベータは窓を閉め鍵まで掛け、それからギルベルトを振り返った。これでいい、とも言葉は響かない。ただ、ただひたむきに視線が向けられる。
 見つめることしか出来ない、美しい人形のようだった。整った長い手足はほっそりとしていて色は白く、磨かれた貝のように艶めいた爪が、しなやかな指にはめ込まれている。見慣れた薄黄緑のドレスは女性らしいまろやかな曲線の体によく似合っていて、清楚で清潔な印象の白いエプロンがつけられていた。首元を彩るのは、目の覚めるほど鮮やかな赤いリボン。簡単に蝶々結びにされたリボンが、可愛らしかった。
 エリザ、と呼ぶと目に見えて体がびくりと震え、女性はそれを悔いるようにますます唇を噛みしめた。それ以上呼びかけることもできず、別の言葉をかけることもできずに、ギルベルトはゆるく目を細めて息を吐く。お前もか、と言いたくなった。今年はお前まで不安定になってんのか、と告げられなかった言葉は、しかし気配に現れたのだろう。悔しげな横顔をさらしたまま、エリザベータの視線が再び、ゆっくりと向けられる。
 ひた、と標準を合わせるように鋭く射る強さは普段のものなのに、彩る感情がまるで別物だった。これで泣くのを堪えているのならまだ可愛げがあるのだが、表情はギルベルトに覚えがあり過ぎるもので、思わず男の口をひくつかせる。これは、怒りの表れだった。怒って、怒って怒って怒って、怒りに狂って逆に心が静まって、その上で今まさに爆発する寸前の秒読み段階であり、悪いことに、それを自覚していない時のもの。
 エリザベータ、と溜息に乗せるようにもう一度呼びかければ、女性はゆっくりと瞬きをした。芽吹いたばかりの草が揺れる草原の、輝きを写し取った瞳がギルベルトを見つめる。それだけだった。どちらも声をかけず、ギルベルトも言葉が続かない。視線を合わせていることがなんとなく辛いのに、どちらも反らせないでいる。壊れる寸前の硝子細工の危うさが、均衡を欠いてそこにはあった。息を吸うだけでも、胸が苦しい。
 チェンバロの音が響く。足元から登ってくる金属的な旋律に、ようやくギルベルトは口を開いた。
「ホントに、よく飽きないよな……」
 弾くことにしても、そして耳にする音楽にしても。よく飽きずに弾いて居られるし、よく苦痛ともならず聞いていられるものだと。エリザベータに取って答えやすい話題を無意識に選んでの言葉は、女性の引き絞られた弓の弦をも緩めたようだった。ゆらゆら、視線が不安定に揺れる。膝の上に投げ出されたままの楽譜の上で、強く、手が握りしめられた。息を、何度も吸い込む努力をして、吐きだして、エリザベータは言う。
「バッハルベルの、カノン……」
「だな。そればっか弾いてやがんの」
「アンタ、好きじゃない。だからよ」
 は、と呟いてギルベルトは瞬きをした。それからゆっくりと意味を理解し、思わずその場にしゃがみ込む。馬鹿みたいだ、と思った。それに気が付かなかった自分も、それを知っていて演奏し続けているであろうローデリヒも、分かっていて止めもしないエリザベータも。家中に張り詰めた空気を漂わせて薄暗くしてしまったルートヴィヒも。地中海の天使二人が降臨してくれたことだけが救いで、今のこの家の希望だった。
 あああ、と呻きともつかない様子で魂を吐き出すような息を落とし、ギルベルトは額に手を押し当てながら立ち上がった。
「あのな、エリザ。俺、消えねぇから」
「……そうね」
「消えたくないし、消えるつもりもないし、消えるとも思ってない。なにが不安なんだ、お前らはよ」
 うっすらとした恐怖があるのは確かなことで、それについてギルベルトは否定しない。消えるかも知れない、と考えてしまうことがあるが、それはあくまで不安な心が生み出してしまうだけで、決して本心ではなく、『国』としての予感でもないのだ。本人がそうして落ち着いているのに、周囲が過敏に反応しているせいで、ギルベルトは落ち着けないでいる。怒らないから言ってみろ、というギルベルトに、エリザベータは言った。
 だって、と響いた声は、血色の叫びだった。
「アンタは! 神聖ローマが消えたのを見てたんでしょう……っ?」
 叩きつけられた言葉に、ギルベルトの視界が白に染まる。聖母の纏う白い衣。ぐら、と世界が揺れ、倒れなかったのは背後に締めた扉があったせいだ。やけに冷静な頭の一部分でそう思い、ギルベルトは大きく息を吸い込んだ。生きる為に酸素を求める体が、滑稽だと思った。
「……それが、なんだよ」
 頭の中は真っ白で、混乱していて、ぐちゃぐちゃで、ギルベルトは自分が出した声を、言葉を、他人事のように聞いて認識していた。意識が体から乖離しかかり、また、奥へ沈みかけている。兄上。心がどうしようもなく叫んだ。喪失の痛みと傷口は、それが刻まれた瞬間からそこに在り続け、癒されることも風化することもなく、そのままで留まっている。だって大切だったのだ。だって失いたくなかったのだ。愛していたのだ。
 連れて行かないでと神に泣き叫んで、それでも遠くに引き離されてしまった。神聖ローマ。消えた亡国。失われた帝国。その、化身。今でも帰りを待っていると、絶望的だと知っていながらも、その瞬間を見ていないからこそ笑うフェリシアーノに決して告げられない、最後の。最後の瞬間をギルベルトは見ていて、エリザベータは、彼が『見た』ことを知っていた。だから、なんだよ。乾いた声で繰り返される問いに、こたえる。
「『国』が! 消える瞬間を知ってるのはアンタだけでっ! 私たちは誰も、それを……知らないから、分からないからっ! アンタが本当のことを言ってるのかも、嘘ついてるのかも!」
「エリザ、落ち着け……落ち着け。な?」
「プロイセン王国はもうないのにっ!」
 差しのべられた手を振り払うように叫んだエリザベータに、わずかに苦しげな表情を見せて。ギルベルトは落ち着け、と言ってエリザベータの頬を手でぱちん、と挟んだ。痛みはさほどない。衝撃と手の感触だけが意識に伝わり、広がって行く。は、と浅い息を繰り返し、エリザベータは混乱した瞳でギルベルトを見返した。なにを言っていたのかも、よく思い出せないのだろう。目を合わせて、ギルベルトはうん、と頷いてやる。
「エリザ、エリザベータ……。落ち着け。大丈夫だから、落ち着けよ……深呼吸、できるか?」
「う……」
 浅くしか吸い込めない息を、ゆっくり、ゆっくり深くしていく。息を吸い、吐きだすたびに体から力が抜けて行く。額を重ね合わせながら、ギルベルトはじっとエリザベータを見つめていた。やがて、己を取り戻した視線が合わされる。ほっと笑いかけ、ギルベルトは問いかけた。
「俺の名前、言ってみろよ。知ってんの全部」
「……ギルベルト・バイルシュミット」
「おう。あとは?」
 全部っつったろ、とからかうように囁かれ、エリザベータはそっと唇を開く。
「プロイセン王国。ドイツ騎士団……ドイツ人の聖母マリア騎士修道会、アッコン野戦病院?」
「分かってんじゃねーか。で? なにが無いって?」
「……全部無いわね。あ、でも、ドイツ騎士団は残ってるし……あれ」
 ギルベルトは口を挟まず、苦笑しながらエリザベータが答えを出すのを待っている。また混乱させてしまっても可哀想なので、一人で考えさせているのだった。頬を挟む手を動かして撫でてやれば、エリザベータはくすぐったげに身じろぎするだけで、触れ合いを拒絶しなかった。そんな些細なことだけで、幸せが満ちてくる。温かい。もう五分くらいこのままでもいいな、とギルベルトが思ってから四分後、呟きが響いた。
「……ギルベルト・マリア・バイルシュミット」
「なんだよ……。普段は全部呼ばねぇくせに」
「茶化さないで私今真剣なの。……ねえ、マリア。『ドイツ人の聖母マリア騎士修道会』の化身。そうなくなった今も、アンタがその名を残してるのはなんで……? 私以外知らないし、私の他にはもう、呼ばないでしょう?」
 一番古い、名前だった。どんな時も優しく響く名前だった。今はくすぐったく胸に下りてきて、恥ずかしさと郷愁を呼び起こす名だ。すこしだけ笑って、ギルベルトは言った。
「お前が呼ぶから、とは思わねぇの?」
「アンタ、そこまで甘い理由で、自分の一番大切だった名前を公的に残しておくの?」
 違うでしょう、とねめつける瞳に、ギルベルトは口元をほころばせる。ギルベルト・マリア・バイルシュミット。国民として登録してある正式名称は、普段は絶対に使用しない。使ってもギルベルト・M・バイルシュミットまでで、マリアの名を表に出すことは、もうほとんどしなくなった。嫌な訳ではない。隠している訳でもない。ただ、積極的に知られたくないだけなのだ。それは古い思い出の中に置いてきた、大切すぎる名前で。
 日常に持ってくるような頻度で、呼んで欲しいものではなかった。時々、エリザベータが口にすればそれで良い。答えなさいよ、と求めてくる女性に、ギルベルトは口を開く。普通の状態でそう呼びかけるのは途方もない違和感があったが、答えを返すには一番良かった。
「マジャル」
「な……に」
「かつて、お前がその名で呼ばれ、その名からエリザベータになったのと同じで、俺も、『マリア』から『ギルベルト』に育ったんだよ。言うならば、な。……で、お前と違って俺は昔のものを残して大切にするからなっ! 名前もちゃんと、使わなくても、どこかに置いとこうと思ったんだよ」
 日記に残しておくだけだと忍びないしな、と笑うギルベルトに、エリザベータは納得半分、疑惑半分の目を向けた。それ以上の意味があるような気がしてならないが、今はそこまで手が届かない。教えてくれるつもりも、ないのだろう。はい、これはこれで終わり、と言いたげにギルベルトが穏やかに笑ったので、エリザベータは諦めてやることにした。勝気ではなく、挑発的でもなく、相手を穏やかに包みたがるように。
 そんな風に面影を見せて笑うギルベルトに、エリザベータはひどく弱いのだ。疲れたような息を吐きだし、エリザベータは離れようとする手を引きとめて、男の腕に手を添える。昔と比べてずいぶん痩せてしまったように思う腕は、それでも筋肉質でしっかりとしていた。
「ベルリンの壁が壊れて、一年もしないうちに再統一したじゃない?」
「……おう」
 唐突な言葉にすこし驚いた風な声をあげて、ギルベルトは首を傾げた。一応、話の流れから外れていない気がするが、エリザベータの声が穏やかで消滅の不安が絡んでくるとはとても思えない。それでも黙って言葉を待てば、エリザベータはようやく落ち着いた仕草で顔をあげた。
「消えないうちに、ルートに全部渡したいのかな、って、ずっと思ってた……」
「……思うなよ、馬鹿。俺がいつそんなこと言っ」
「言わなかった。うん。言わなかったね。勝手に思ってただけ。ごめんね、ギルベルト。本当、ごめんなさい……」
 最後まで言わせず、言葉を被せてしまうように告げたエリザベータから視線を外して、ギルベルトは困った顔つきになった。女性らし過ぎるというか、おしとやか過ぎるというか、落ち着きすぎているというか。落ち込んでいるとはもう思わないが、それでもこれは、普段のエリザベータではない。こんなに素直に謝られると、可愛いじゃん、と思うよりも違和感があって、正直すこしだけ気持ち悪かった。背筋がぞわっとする。
 口に出せばフライパンで致命傷を与えられるレベルだと分かっているので、深呼吸してやりすごし、ギルベルトはそろそろとエリザベータに視線を戻した。力なく目が合わさり、にこ、と笑いかけられる。誰だお前。思わず言いそうになった言葉をどうにか飲み込んで、ギルベルトはエリザベータの頬に手をぺたりとくっつけた。ぐいと上向かせて、それから上半身をゆっくりと倒していく。せーの、と心の中で掛け声を響かせて。
 ごち、と重なった額が音を立てた。痛い、と両手で押さえながら睨んでくるエリザベータを、はんっと鼻で笑い飛ばす。
「なーにしんみりしてんだよ。ったく、勝手に想像して勝手に落ち込みやがって、お前らしくもねえ。考える前に行動してた『マジャル』から、どうすればこんな『エリザベータ』に育つんだよ……。……生えなかったからか」
「うるさい黙れいや黙らす」
 ひゅ、と風が鳴った。直後叩きこまれた膝は、計算もされていなかったというのに背筋まで突き抜けて行く一撃で、ギルベルトはたまらず、しゃがみ込んで咳き込んでしまう。痛い。げほげほ咳き込んでいると唾が飛んできたないじゃない、と言わんばかりの表情で眉を寄せたエリザベータが、つきものが取れたようなスッキリ顔で言い放った。
「アンタこそ。昔はあんなに可愛かったのに……どうしてこんなに残念に育ったのかしら」
「ざ、残念って言うな! 小鳥のように格好良い俺様のどーこーが、残念だって言うんだよっ!」
「知能レベル」
 頭良いけどお馬鹿ちゃんよね、とすっぱり言い捨てられて、ギルベルトはなんだか泣きそうになった。酷いと思うのに、これでこそエリザベータだ、と思って安心している自分は終わっている。親父、俺、相当末期です、としょげながら立ち上がり、ギルベルトは腹を手でさすった。
「……元気出たかよ」
「……おかげさまでね」
「ん、じゃあいい。俺様は寛大だからな、それで許してやろう」
 だがお前の膝は凶器に認定されてこい、と余計なことを言ってぽかりと叩かれながらも、ギルベルトはぽんぽん、とエリザベータを撫でてやった。本当に落ち着いたらしいエリザベータは、撫でるなばか、と言って手を避けている。可愛くない。けれど、愛おしい。さてローデリヒさんを休憩させて、フェリちゃんとロヴィちゃんに挨拶して、ルートの様子も見て、と気を取り直して計画を立てているエリザベータの名を、呼ぶ。
 邪魔しないでよ、と向けられる目尻がうっすら赤く染まっているのに気を良くして、ギルベルトは女性のしなやかな手を取った。手のひらをすくい上げるように、指先で押し上げて。体を倒し、手の甲に唇を押し当てる。一度目は、触れるだけ。二度目はちゅ、とリップ音を立ててから顔をあげ、ギルベルトは真っ赤になって絶句しているエリザベータの耳元で、囁いた。
「消えない」
「っ……!」
「……き、だ」
 呟いた言葉は、微かすぎて。聞こえず、けれど想像するにはあまりにたやすい単語に、エリザベータの体が硬直した。言葉を返したいのに、緊張しすぎて声が上手く出てこない。言った方はエリザベータの反応はどうでもよかったのか、すい、と体を離して部屋の奥へと向かってしまった。床に埋め込まれている扉をがぽ、と外すように開き、階段を下に向けてじゃあな、と手を振って下りて行く。姿は、すぐ見えなくなった。
 え、え、今のなに、と思っているとチェンバロの音が乱れ、よくもあんなに不愉快な笑い声が出せるものだ、といっそ関心するくらい耳障りな笑い声が、ローデリヒを呼ぶ。
「よーうお坊ちゃん! なーにいつまでもいつまでもいつまでも弾いてんだよ」
「邪魔するんじゃありません、お馬鹿。用事がないなら椅子に座ってきちんとお聞きなさい」
「いーやーだーね。お前はこれから俺と一緒にリビングに行って、俺の最愛の弟と地中海の天使たちとティータイム。誰が決めたって今俺が決めた。反論は許さない。ほら行くぞ」
 エリザがコーヒー淹れてくれるってよ、と響いた声はわざとだろう。お前も来いよ、と誘っているのだ。どんな顔をして行けというのだろうか。恥ずかしさからだんだん腹が立って来たエリザベータは、勢いよく立ちあがって決意した。紅茶を淹れよう。もちろん、ギルベルトが珈琲党だということを分かっての所業だが、そんなことはなんの問題にもならない。全く、と腹を立てながら楽譜室を出て、早足にリビングへ向かって行く。
 廊下には光が射していた。くもり空はすこし、遠ざかったようだった。



 菊がバイルシュミット家に辿りついた時、すでに全員が出来上がっていた。ビールの瓶が床に無数に転がり、ワイン瓶も何本もある。テーブルの上には肉料理とつまみが何種類もあるが、主食らしきものは見当たらず、菊はわずかばかり溜息をついた。チャイムを鳴らしても誰も出てこなかった時点で、というか毎年のことであるのでこの時間であれば大体の予想はついていたのだが、これはひどいではないのだろうか。
 真っ赤な顔で上機嫌にビールを飲んでいるギルベルトをじとっと睨み、菊は大事に持って来た日本酒を手渡した。
「どうぞ、お師匠さま。とりあえず、お納めください」
「おー! ありがとな、菊。良い弟子を貰って、俺様は本当に幸運だぜー!」
「それはどうもありがとうございます。で、お師匠さま。はるばるやってきた弟子はですね、お腹がすいているのです。今日の晩餐はお師匠さまの手料理だと聞いて、小腹も満たさずいそいそとやって来たわけです。……お腹すきました、お師匠さま。ご飯食べたいですごはんごはん」
 あるじゃねぇか、と指差された先にあったのはヴルストだ。ほかほか湯気を立てているそれは、最高に美味しそうだった。確かにありますけれど、ともぐもぐしながら、菊はちょっと眉を寄せた。美味しい。文句なしに美味しい。だがしかし。
「あるじゃないですか、お米とかパンとかパスタとか、麺とか。炭水化物食べたいです」
「……作っても一人分だとなぁ」
 案にやる気が出ない、というギルベルトに笑顔を向けながら、菊はお腹がすきました、と粘ってみる。頼られるのにも甘えられるのにも弱い兄気質の師匠は、言えば言うほど断らないことを知っていたからだ。案の定ギルベルトは困った顔をして視線を彷徨わせ、混沌としている菊の背後に目を向けた。ロヴィーノはすでに床に倒れていて、ちっとも動かない。ローデリヒは額に手を押し当てて、やや青白い顔を持て余している。
 フェリシアーノは赤い顔でご機嫌に笑い続けて白旗をぱたぱたさせ、ルートヴィヒはクーヘンの妖精がログインしているようだった。テンションが上に振りきれている。なんだかずっと笑っているルートヴィヒとフェリシアーノをしみじみと見つめ、菊は関心しながら呟いた。
「フェリシアーノ君は通常運営ですが、ルートさんはすっかりログインしてらっしゃいますね……」
「……フェリちゃんが、『俺、トマト箱の妖精! お前に新しい飲み物をあげるよ!』とか言い出して、ワインとブランデーとレモンリキュールと、さらにウォトカ混ぜた液体を開発した」
「なんでウォトカがこの家にあるんです……!」
 惨劇の理由を呟いたギルベルトに、菊は思い切り頭を抱え込みながら声をひそめて叫ぶ、という器用な技を披露した。ギルベルトはギルベルトで拍手をしっかりしているのに音が響かない、という無駄な技術を披露して弟子を褒め称え、あっさりと答えを言い放つ。
「イヴァンの土産。再統一おめでとうー、だそうだ」
「……祝う、ように、なったん、ですねぇ」
 再統一しなければいけなかった原因は確実にロシアにあるのだが、それでもイヴァンはイヴァンである。本人も複雑なものがあるのかこの時期は沈黙を守るのが常だったのだが、今年に限って送って来たらしい。複雑なものを感じつつ、しみじみと呟いた菊にギルベルトも頷く。良いことなのだ、たぶん。世界の時間は人のものだ。人の上に流れて行く。けれど『国』の心にも時間は触れて行き、ゆっくり、ゆっくり動きだす。
 来年は連合からもなんか来るんじゃねぇ、と笑うギルベルトにそうかも知れませんと頷いて、菊は師匠の手作りご飯を諦めた。それはまた、明日の朝にでも期待すればいい。よく寝てらっしゃいますね、と微笑ましく見守る視線の先で、エリザベータはギルベルトの膝を占領し、ソファに横たわって眠っていた。疲れてたんだろ、とだけ呟き、ギルベルトはエリザベータの頭を撫でてやる。手つきは、どこまでも優しく、甘くて。
 ごちそうさまです、と笑った菊に、ギルベルトは苦笑した。

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