目的地にたどり着くには、まだ時間がかかりそうだった。うねうねと蛇行するあぜ道は森へと続いており、その終わりが見えない。思わず溜息をついて振り返ると、遠くにぽつんと建つ民家が見えた。集落の中心から、その最後の家までもずいぶん距離があったように思う。はじめての場所だから、そう感じるだけなのかも知れないが。まいった、とマジャルは額に浮かんだ汗を手で擦り、眩しい日差しに目を細める。
人の身で、十にも足らず幼く見える体は、慣れない道のりにすでに疲れはじめていた。本当に十歳未満でもあるまいに、マジャルはぶすくれて唇を尖らせる。革紐で一本に結んだ焼け土色の髪に手をいれてかき、苛立たしげに息を吐き出した。若草色の瞳は外見に似合わない成熟した苛立ちを宿し、いずこともなく虚空を睨みつける。歩いて行こうと思い立ってしまったことが、そもそもの大間違いだったのだ。
馬で来たのだから、乗って来ればよかったのだ。そんな単純なことに気が付かなかった自分も恨めしいが、先に行く、と言った己を止めなかった上司はもっと恨めしい。禿げろ。歩いて行くには遠い場所だと、なぜ教えてくれなかったのか。そもそも、野戦病院が集落の近くにあることは稀である。戦場で傷ついた者を病院に搬送する前に保護し、治療するのが目的なのだからすこし考えれば誰にでも分かることだった。
広々とした平原には若い草ばかりが生え、青く瑞々しかった。それを素直に綺麗だと思えないのは、一度火に焼かれた荒野だと知っているからだ。焼け野原から、ようやく命が芽吹いた草原。森から抜けてくる風が細い草を揺らし、切ない音を奏でて街に向かっていく。よく目を凝らして見れば、赤や白い色をしたちいさな花も咲いている。名も知らぬ蝶や虫が飛び交い、足元には蟻がかぼそい線を引いていた。
一匹もつぶさないように蟻の隊列をひょいと飛び越え、マジャルは気を取り直してあぜ道を進んでいく。ひょろりとした木の一本さえ生えていない平原と違って、戦火から逃れた森は暗闇に似た影と濃い水の気配、土の香りに満ちていた。良い森だ。新しく蘇った平原とは違い、太古の命が未だに根付いている。木々のざわめきも動物たちの声もするのに、ひんやりとした空気が無音のような静けさだけを運んできた。
木漏れ日が腐葉土に落ちる。土とは違うふわふわとした感触に足を取られそうになりながら進むと、不意に森が途切れた。乾いた土の道が続く。思わずほっと息を吐き出し、足元に落としていた視線を持ち上げる。眩しさに目を細めれば、日差し避けにあげた手のひらの向こう、目的地が見えた。なにもなく広がって行く荒れ地に、ばたばたと白い布が風にあおられていた。白旗であり、そしてテントの天幕の色だ。
ようやくついた。小走りに駆け寄っていくマジャルの足が止まったのは、呼びとめられたからではない。それでも、あたかも背後から声をかけて引きとめられたかのような唐突な動きで、少年は目的地をすぐ前にして足を止めた。恐れるように、目が見開かれる。そこは粗末な施設だった。小石と枯れ草が好き放題にある荒れ地に、薄汚れた布が一枚ひかれただけの場所だった。柱は、細い枯れ木の枝でしかない。
ただ空間を区切る為だけに布がひかれ、四方に柱を立て、その上に日差し避けの布が留められもせずばたばたと揺れていた。野戦病院にしてもあまりに簡素すぎるその場所の理由は、明白だ。もう助からない者の為の、それでも最後の希望を託す、祈りの場。横たわっている者たちの数は数え切れない。ただ等幅に並べられた体は、人ではなくその形をした『物』のようだ。うめき声と血の匂いが、空気を淀ませる。
風をさえぎる壁などないのに、光を締め出す窓などないのに。今も音を立てて砂を巻き上げる風が吹くのに、死に傾いて濁った空気が重苦しく落ちている。死を見送ったことはある。目の前で人が死んだことも、殺されたことも、殺したこともある。野戦病院に出向くこともあったし、その惨状も何度も目の当たりにしたことがあるというのに。マジャルは動けず、苦いものを飲み込んで息を詰まらせた。こんな、場所に。
こんなところに、生まれたての『国』が、あるいは人の意識の具現者が居るというのか。こんな死に満ちた場所に。祈りすら届かない、見捨てられたようなところに。自分と同じ存在が留まっているのか。なにかの間違いだと思ったし、そうであって欲しかった。すえた匂いに吐き気がこみ上げる。思わず軽く咳き込んでしまうと、頬を撫でるように清涼な風が吹いた。森の恵み、育まれた命と水を含んだ穏やかな風。
吹いたのは背後からではなく、歪んだ場所の内側からだ。ハッとして視線を向けた先、ちいさな存在が、人の間を動き回っている。人間の年齢に換算して、四歳か五歳になったくらいだろう。頭の上から足までをすっぽり隠してしまう白いローブを来た幼子が、腕いっぱいに新鮮な水の入った小瓶や包帯や、薬草を抱えて動き回っている。先程までは、居なかった筈だ。マジャルが呆けてしまっている間に来たのだろう。
幼子は慣れた仕草で、それでいて必死に、横たわる者の間を動き回っていた。見れば大した手伝いも出来ていないようだが、看護する者も痛みに呻く者も、誰ひとりとして幼子を邪魔に扱ってはいない。それを見なくとも、分かった。『あれ』だ。『あれ』がマジャルと同じ、人の形をした人ならぬ者。祈りか、強い意思か、あるいは神の定めによって生まれ落ちてくる、その土地や集団の代表者にして守護者。『国』だ。
本当に、居た。思わず、その名すら知らぬのに呼びかけようと口を開いたマジャルより先に、正しく存在を呼ぶ者があった。それは、弱々しい声で。それでいて切実な、決して無視できない声で。か細く、誰かが『それ』に呼びかけた。
「マリアさま」
すぐ、弾かれたように『それ』は、声の主へと駆けていく。直視することさえためらいそうな汚れた包帯をものともせず、動けぬ男の手を握り締めた。囁きが、不気味な地響きのように広がって行く。マリアさま、マリアさま。こちらに。どうか私にも、その手で。お慈悲を、祈りを、祝福を。祈りを、どうか祈りを。痛い、痛いと呻きながら人々は切れ切れの呼吸の合間にその存在の名を囁き、手を取り、額に口付けを乞う。
誰も彼も、助からないと知りながら願っている。『それ』も、知っているのだろう。分かっているのだろう。目深にかぶったフードの下、ちらりと見えた顔半分は泣きそうに歪んでいて、唇は噛み締められて赤く、痛々しい。震えながら手を握っていた男の体から、力が抜け落ちる。泣き伏すこともせず立ち上がった『それ』に、またどこからか声がかかった。呼び声に求められて、『それ』は死を優しく看取る為に走って行く。
違う、とマジャルは思った。叫びすら封じられた喉が、奇妙な音を立てて息を吸い込む。違う。それは聖母ではない。それは、そんな風に人の命を背負わせて良いものではない。それはマジャルと同じもの。それは限りのない命。幾千もの命を見送ることしかできない、人ではない存在。風が吹く。淀んだ空気を吹き飛ばしたがるように、清涼な風が森に向かって駆け抜けていく。ふと、『それ』が風の先に目をやった。
視線が、合わさる。フードの奥に隠れた瞳は、悲しいほど晴れた、青空の色をしていた。
本当に一人で行くとは思わなかった、とのたまった上司に数十分説教を受けたマジャルは、ややぐったりしながら大人用の大きな椅子に体を収めていた。結局目があった直後に『それ』は身をひるがえし己の民の元へかけていき、マジャルは姿が見えないことに焦って上司が差し向けたお目付け役に掴まり、街で一番大きな屋敷に強制送還されたのだった。行くって言ったじゃん、という主張は受け入れられなかった。
上司たちにしてみれば、外見年齢が十にも見えない姿で出歩くとは何事か、というらしい。幼子である自覚が足りないと言われても、そんなものは存在し始めて二十年を超えた頃、とうに捨て去っている遥か過去だ。外見的な成長が見られないからといって、人の子のように振る舞い、人の加護を受けて育てと言われても笑うしかできない。そもそも騎馬民族の化身である。戦う為の存在に、守護させろとは何事か。
なんだアイツらマジ馬鹿なのか、と溜息をつき、マジャルは足元に落としていた視線を部屋の隅にちらりと向ける。するとびっくぅっ、とあからさまな怯えに白い布のまあるいかたまりが跳ねたので、マジャルはますます溜息をついた。白い布のまるっこいものの正体など、分かりきっている。人の死を目の当たりにしながらも毅然と求められる役を演じきっていた『それ』で、マリアの名で呼ばれているマジャルの仲間だ。
仲間として良いのかは分からないにしても、同じ種類の生き物であることだけは確かだった。この地に多く住む人間よりずっと近い存在であるというのに、『それ』はお付きの者に手を引かれて部屋に入り、二人きりになってからというものの、しゃがみ込んでローブをかぶってまるっこくなったまま、ぴくりとも動かなければうんともすんとも話さなかった。つまるところ、過剰な人見知りなんだろうな、とマジャルは思う。
なぜなら『それ』の手を引いてきた女性は、心配そうな表情で『ちゃんと自己紹介するんですよ』と言い聞かせていたからだ。『怖くないですからね』とか、『噛まないし、吠えたりもしませんよ』とか、『はじめましてのご挨拶ができたら、今日は一緒に寝てあげますよ』とも聞こえた。この上なく人見知りをする幼子に、母親が語りかける台詞そのものだった。意味分からん。なんだそれ、と思ってマジャルは立ち上がる。
びっくうぅっ、と白くてまるっこい布のかたまりが震えた。どうして怪我人の呻きが平気なのに人見知りするんだ、と本気で呆れながら近寄って、マジャルは『それ』のすぐ前でしゃがみこむ。マジャルもまあ、精神的にも幼い頃はあった。大人よりはちいさくとも、背の高い、己より大きい存在に見下ろされる怖さなら知っている。ふるふると震えるまるっこい『それ』を見下ろし、さてどうしたものか、とめんどくさく考える。
なにかを察したのか、それとも『それ』の人見知りを知らされていたのか、上司からは苛めるなからかうな泣かせるな、と厳命を受けている。突っついて遊んだりもするな、と言われているので、優しくするしかないだろう。いやいや、いやいやとうごうごする『それ』を見つめ、マジャルは深々と息を吐く。おい、と声をかけるとぴょい、と上に飛び上がって驚かれる。お前は猫か、とマジャルは突っ込んだ。その反応は猫だ。
あんまり急に驚いて、どうしようもなくなった猫は地面と直角に飛び上がるのである。なんだこれ面白い、と思いながらも泣かせないように慎重に、マジャルはそーっと声をかけてやった。
「お前、『アッコン野戦病院』か? ……そう、とか。違う、とか。返事くらいできるだろ?」
そこに意識を持った者として生まれたのなら、通常は『それ』である筈だ。しかしいくつかの例外があるのも確かで、マジャルは考えながら問いかける。十秒が経過した。よほどびっくりしたのか、白い『それ』はさっきから全く動かなくなっている。さらに十秒が過ぎ去った。やっぱり動かない。もう十秒待って、マジャルはにっこりと微笑んだ。俺に我慢させるとは良い度胸だコノヤロウガン泣かすぞ、と本気で考える。
なんとなく分かったのだろう。ぴぃっ、と泣く寸前の声を出した『それ』は、もそもそと動きだす。マジャルから見ればとろくさいとしか言いようのない動きでもこもこが立ちあがり、手はおろか腕ごと震えさせながらフードを肩に落とす。さすがに、フードをかぶったまま誰かと話すのはいけないとは分かっているらしい。その教育をするなら、この人見知りをどうにかさせておけよ、と思うのだが。ぱさ、とフードが肩に落ちる。
現れた顔は、体つきにもあう、やはり幼いものだった。遠目から見た印象そのままに、人間の年齢にすればやっと四歳になったくらいだろう。艶やかな銀髪は短めで、首筋を隠し肩の上で遊んでいる。透明感のある青い瞳はぱっちりとしていて、可愛らしい。まつげ長い、と状況に全く関係ないことを思ったマジャルを見て、『それ』はきゅぅ、と赤い唇を歯で噛んだ。薄い皮膚が破けて、じわりと血が滲んだ唇だった。
痛いだろうに。眉を寄せて黙り込むマジャルのことを、機嫌が悪いとでも思ったのだろう。とたんにおろおろと視線を彷徨わせ、『それ』は口をぱくぱくさせながらも大きく息を吸い込む。ややあって、か細い声が空気を揺らした。
「……ドイツ人の聖母マリア騎士修道会、です」
「修道会? アッコン野戦病院、じゃなくて?」
問いかけに、『それ』はこくこくと頷いた。マジャルはすこしばかり考え込み、納得する。名前が変わることは、そう不自然なことではない。土地と民からではなく、人の集まる場所から生まれた者ならばなおのこと。恐らく生まれ落ちたのが『アッコン野戦病院』であり、意識を持って行動しているうちに『ドイツ人の聖母マリア騎士修道会』となったのだ。それにしても、マリア、とは。どちらが先だ、とマジャルは眉を寄せる。
この土地の民は『これ』をマリアと呼んでいた。崇拝の対象としてそう名付けたのか、それともその役目を持たせたのかは分からない。それでも野戦病院からの名の移り変わりに、その名を持った騎士修道会が生まれたのは、果たして偶然なのだろうか。偶然であればいい、とマジャルは願う。卵が先か、ひよこが先か、とは言うけれど。もしも『これ』が先にあっての名付けなら、そんなに苦しいことはないからだ。
病院の中で意識を持ち、修道会として生きているのなら、なおのこと。人を想い人を守る分、人に守れらた時の痛みは想像を絶するものだろうから。まあ、今心配することでもないと気持ちを切り替えて、マジャルは相変わらずぷるぷる震えている『それ』に目をやって問いかけた。
「修道会。お前、マリアって呼ばれてんのか? 俺はマジャル、って呼ばれてるけど」
「うん。……マジャル?」
問いかけにはちいさく頷くことで答えて、マリアは首を傾げながらマジャルの名を呼んだ。呼びかけることができて、純粋に嬉しかったのだろう。それまでの怯えが消え去り素直に向けられた瞳が、ふわりと優しげな色を灯す。笑った。ほんのわずか、緊張がゆるむ程度のものでしかなかったのだけれど。その時確かに、マリアはマジャルに対してはじめて笑みを向けたのだった。淡い、木漏れ日のような笑みだった。
そんな風に笑われたことも、控えめに伺うように名を呼ばれたことも、今までないことで。どうしていいか分からずに動きを止めてしまったマジャルの耳に、扉を叩く音が聞こえた。マリア、とどこか艶やかにも響く少年の声が修道会を呼ぶ。返事を待たずに開けられた扉の先、身軽く駆け出したマリアは、マジャルの見ている前で現れた少年に飛びついた。
「兄上! 兄上っ、神聖ローマ! お帰りなさいっ!」
「ただいま、マリア。……と、お前、マジャル? なんで、こんな所に……?」
慣れた仕草でマリアを抱きとめた神聖ローマは、足を一歩分後ろに出すことで飛びつかれた衝撃を逃がし、マントで幼子を隠すように抱きあげている。マジャルから守る、というよりはいつもそうしているのだろう。抱きあげられたマリアは神聖ローマの首にひしっと抱きついて、すこし前までの怯えが嘘のようにご機嫌な笑顔を浮かべている。ごろごろ喉を鳴らしてすり寄る猫のような姿に、マジャルは目を細めた。
俺にはそんな笑顔、見せもしなかったくせに。近寄るだけで震えて、声をかけるだけで飛び上がるくらい驚いたのに。神聖ローマには自分から走り寄って飛びついて、抱っこもさせるんだ。へえぇ、と面白くない気持ちでマリアを睨んでいると、大まかなことを察したのだろう。と思い切り溜息をついた神聖ローマは、首元にすりすり懐いているマリアの後頭部をべしりとばかり平手ではたき、視線を合わせて口を開いた。
「人見知りもいい加減にしろ、と言ってあるだろう。マリア」
「……兄上ごめんなさい」
「違う。ごめんなさい、は俺に言うことじゃない」
ひっついていた幼い体を離して床に立たせ、神聖ローマはマリアの背をマジャルに向かって押し出した。あんなに懐かれているからさぞ、と思ったが、きちんとしつけはしているらしい。へぇ、と意外そうに目を見張るマジャルに、マリアはそーっと、そーっと近寄って行く。ん、と笑顔で出迎えてやるとマリアの背筋がぴっと伸び、びくびく怯えながらも綺麗な形でお辞儀をした。
「ごめんなさい」
「いいよ。……もしかして、神聖ローマ以外の『国』に会ったの、俺が初めて?」
だとすれば、異常な怯え様にも一応説明がつく、気長に答えを待つマジャルに、マリアはなにやら難しい顔をして考え込んだのち、こくりと大きく頷いた。一応神聖ローマにも視線で確認すると、俺が一人目、お前で二人目だ、と告げられる。人見知り気質に加えて二人目なら、それはもう仕方がなかったのかも知れない。じぃっと見上げる瞳に笑いかけて怒ってないよ、と言ってやれば明るい笑顔でうん、と頷かれた。
それからすぐにててて、と走り、マリアは神聖ローマの足にしがみついた。兄上、と嬉しそうに呼びかけられて、神聖ローマは困ったように天井を仰ぐ。『修道会』が『国』に会わされていたなら、それは単に知りあう以上の意味を持つ。特にマジャルは上司つきでやってきたので、これがただの顔合わせでないことは、マリア以外の目には明らかだったからだ。それでも、さらに背を押すのは難しいことなのだろう。
問うように視線を向けられ、マジャルは苦笑していいよ、と言ってやった。
「顔合わせ、終わってるから。連れて行け」
「……悪いな。よく、言って聞かせておくから。さ、おいで、マリア」
ひょい、と神聖ローマに抱きあげられて、マリアはにこにこと笑って頷いた。そのまま視線も向けずに神聖ローマと共に出て行くのを見送って、マジャルはその場にべたっと座り込んで息を吐く。顔はすごく可愛いのに、でも可愛くない。緩く目を閉じると思い浮かぶのは怯えた表情ではなく、なぜか、射抜くほど悲しげに揺れていた青の瞳で。その悲しみの理由になど、興味もないのだけれど。ため息交じりに、思う。
あれはきっと、焼けた草原に咲く空の色だ。
それからしばらく、マジャルはマリアに会わなかった。ちっとも懐かなかったので可愛がる気持ちも起きず、半ば存在を忘れていたといっても良い。思い出したきっかけは単純で、神聖ローマがマジャルの上司を訪ねてやってきたからだ。なにやら神聖ローマご執心のイタリアに関することで相談らしいのだが、上司の隣で聞いていても眠くなるだけなので、マジャルはその話が出た時に同席を丁重に断っている。
それなのになぜ、上司の居る部屋に向かっているかと言われればマリアの存在を思い出したからだ。別に姿を見たという報告を受けたわけではないのだが、マジャルは確信に近い思いでそこにマリアが居ることを知っていた。己の体とも言える国土の中に、『国』が居ればなんとなく感知できるものなので。果たしてマジャルの思う通り、マリアは初対面の時と同じように、白くてまるっこい布のかたまりになっていた。
扉の前でころころしているのは、中に入れないからだろう。『国』の化身と上司の会談の場であるから以上に、どうせ人見知りで行けないに決まっているのだ。近づいてきた足音が止まったことに気がついて、マリアがフードの中からぴょこりと顔を覗かせる。あ、という形で止まった口をじっと見て、マジャルはなんとなく唇が切れていないかを確認した。幸いなことに、薄い皮が今日は綺麗なまま、唇を形作っている。
ほっとしてしゃがみこみ、視線を低くしてやりながらマジャルは問いかけた。
「なにしてんだよ、マリア」
つーかコイツ俺のこと覚えてんのか、という疑惑のまなざしに、マリアはよいしょ、と立ち上がってマジャルをじっと見つめる。合わせた瞳の奥に敵意がないか、確かめているようだった。人見知りちょっと治ったか、と思いながら好きに見させてやると、マリアはんと、とためらいがちに視線を扉へと移す。中からは途切れ途切れにマジャルの上司と、神聖ローマの話し声が聞こえてくる。出てくる気配は、未だなかった。
「……マリアは、呼ばれてないから。待ってる」
「出てくるまで待ってんのか? 出て来ても、すぐ帰るわけじゃないぞ?」
怯えないのに気を良くしながら言ってやると、マリアはぷぅ、と頬を膨らませて怒った。そんなことは知っている、と言いたいらしい。口に出して言えよ、と思いながら頬を手で挟んで潰してやると、マリアはうにうに身動きをして抵抗らしきものを見せた。全く逃げられていないので、抵抗にもなっていないのだが。五歳に満たない幼子と、少なくとも十程度の身体能力の差は、こんな所でも面白いくらい有効なのである。
しばらく頬をむにむに潰して遊んでいると、マリアの瞳にじわじわ涙が浮かんできた。泣くかも知れない。どきどきしながら見守り、けれどマジャルはぱっと手を離してやった。そういえば泣かせるな、と前に言われていた気がするからだ。混乱しながらも警戒した目を向けてくるマリアに手を伸ばし、くしゃくしゃと頭を撫でてやる。
「よし、神聖ローマが出てくるまで俺が遊んでやろう」
「い……いい! マリア、ここで待ってる! いいっ!」
「はっはー。なんだよ。遠慮すんなよ」
遠慮というよりは防衛反応なのだが、マジャルにそんなことは関係ない。ハリネズミのようにマントをぶわぁっと広げて嫌がるマリアをひょい、と抱き上げると、足取りも軽やかにその場を離れていく。兄上ーっ、と助けを求めた声は、分厚い扉に阻まれて中には聞こえなかった。
遊んでやると連れだしたものの、当然のようにマジャルは年下の人見知りが激しいよく泣くような幼子を楽しませる方法を思いつかなかった。そのうち真剣に暴れ出されたので、マジャルは仕方がなく屋敷で働く女たちの休憩する部屋を訪れ、そこにぽい、とマリアを放りこんだ。投げ捨てた、ともいう。当たり前のようにパニックを起こしかけたマリアだが、子育ても十分に経験した女性ばかりであったことが幸いした。
やや面白くない気分で壁に背を預けて腕組みするマジャルの視線の先で、マリアは椅子に座らされ、女性たちに取り囲まれて可愛がられている。髪を解かされたりリボンを付けられたり、なにか聞かれるのにたどたどしく答えるたび、可愛いと甘い声で歓声があがった。マリアは困っているものの怯えた様子もなく、体をちいさくして椅子に座っている。マジャルは、全く面白くなかった。正直、とても不愉快である。
扱いに困って投げたのはマジャルだが、それにしてもどうして人見知りをしていないのか。マジャルは初めて会った時、声をかけただけでものすごく驚かれるくらいだったというのに。女性たちはあっと言う間にマリアの警戒心を解いてしまい、時々は笑顔も向けられていた。なんだ簡単に笑うんだ、と思うだけで苛々する。もういいか、と呟いて身をひるがえしたのは、別にどこかに行こうとしたわけではないのだ。
強いて言えば上司に顔を見せて、神聖ローマにマリアの居場所を教えてやろうと思っただけで。残して何処かに行ってしまうつもりでは、なかったのだが。ふい、と居なくなろうとしたマジャルの耳に、たん、と地を踏む足音が聞こえて。気がつけば服がぎゅぅ、と握りしめられていたので、マジャルはため息交じりに視線を下に落とし、問いかける。しゃがみ込みもしなかったし、視線は出会いはしなかった。
「……なに。お前、俺がキライなんじゃねーの? いいよ。可愛がってもらってろ」
神聖ローマに居場所教えるだけだから、と掴んだ手をはがそうとすると、嫌々と大きく頭が振られる。
「き……きらいじゃ、ない」
「嘘つけ。俺には笑いもしないくせに」
びく、とマリアの体が震える。その反応を見ただけで、マジャルの心はすぅ、と冷える。自覚あっての行いだった、ということだからだ。ふぅん、と不機嫌に吐き捨て、マジャルはマリアを無理に引きはがそうとした。これ以上、関わり合いになりたくもない。退け、と低く言い放つと、マリアはいや、と悲鳴のような声で叫んだ。
「嫌いじゃないもんっ! マジャルお兄ちゃん、マリアおいてかないでっ……!」
「俺はお前のにーちゃんじゃねぇっ! 嫌いじゃないとか嘘つくなっ!」
「うそじゃないもんっ!」
ぐぐぐぐ、と引っ張り合いになったマジャルの服は、そう上等なものではないので切れそうだ。俺の血管も一緒に切れそうだ、と思いながらなんとか深呼吸をして、マジャルは仕方なくしゃがみこんでやる。大粒の涙をそれでも堪えて、マリアは強い視線でマジャルを見た。うそじゃないもん、と繰り返すのに適当に頷き、マジャルは服の袖でマリアの目元をぬぐってやった。袖口が生ぬるく湿って気持ち悪いが、我慢だ。
泣くな、と言いながら溜息をつく。
「……俺が嫌いじゃないなら、なんであんな怯えたりすんだよ。すぐ泣くし笑わないし、お前本当、可愛くない」
ひぐ、と泣き叫ぶのを一生懸命我慢した引きつりが、マリアの喉を奇妙に鳴らす。拭った涙がまた湧き上がるのを呆れて眺め、マジャルはマリアを呼んだ。違うなら説明してみせろ、と求められて、マリアはしゃくりあげながら口を開く。
「だって、マジャル、マリアがお仕事してるの見た……」
「……見たらいけなかったのか?」
なんだそれ、と言いたくなるのをぐっと堪えて尋ねると、マリアは口に手を当ててぶんぶん首を横に振った。なかない、なかない、と自分に言い聞かせて我慢して、マリアは口から手を外して大きく息を吸う。
「泣かない、のは、気持ち悪いって……」
「あ?」
「死んでく、のに、泣きもしない、の、気持ち悪い、って……。悲しみもしない、って」
そうだ、とマジャルは思う。マリアはこんなに気弱ですぐに泣くのに、あの時、涙の一つも見せてはいなかった。必死にこらえて、唇を血で染めるまで噛むだけで、涙をこぼしなどしなかった。心ない者はどこにでも居る。それ以上に、己の悲しみを受け止めきれず、誰かを傷つけてしまう悲しい者は多く在る。言われたのか、と問いかけるとマリアはすぐに頷いた。言葉に迷いながらも、マジャルは純粋な疑問を尋ねる。
「なんで、泣かないんだ?」
泣けばいい。悲しいと、苦しいと叫んで泣けばいい。こんなに幼く愛くるしい存在が涙を流せば、それだけで鎮魂を想う者は居るだろうに。なぜ、と問うマジャルに、マリアはハッキリとした声で言い放った。
「全ての民を、看取れない」
「……うん」
「だから、目の前の一人の為に、マリアは泣かない。……特別に悲しんであげることは、できない」
それは、幼くとも『修道会』としての覚悟だった。マリアは確かに人ならぬ者であり、そうして生きる為の想いをしっかりと胸に根付かせている。だからあの場所では決して泣かない、とハッキリとした口調で言い放った瞳は、まっすぐにマジャルを見つめていた。焼け野原の上に広がる、破壊の後に生まれた再生の青。それでいて、清らかな祈りの。
「マリア……」
「む?」
「ああ、いや……。……それで、じゃあ、俺への態度は……そう、思われると思ったから、か?」
無意識の呼称に不思議そうに首を傾げられ、マジャルは慌ててごまかした。マリアは気がついた様子もなく、申し訳なさそうにきゅぅ、と眉をよせて頷く。
「気持ち、悪いって、思われたら、どうしようって……怖くて、話すの、できなかったの」
「……俺のことは嫌いじゃない?」
「うん」
こくん、と頷いたマリアに、マジャルは思わず笑ってしまった。その瞬間、マリアがあっと声をあげる。なにかと思うマジャルに、マリアは嬉しそうに笑ったぁ、と喜んでいた。笑顔を向けて居なかった覚えはないのだが、マリアにしてみればなにか違うものだったのかも知れない。そうしてはしゃぐマリアの顔も、マジャルにしてみれば初めて見るものだ。ゆるく目を細めてマリアを眺め、マジャルはうん、とちいさく頷く。
可愛いじゃないか、と思った。