薄紫の花が、窓辺で風に揺れていた。その名前を、エリザベータはどうしても思い出せない。ごく軽く眉を寄せながら歩み寄り、窓枠に手をついて身を乗り出す。視線を近くして見つめれば記憶が揺れることもあるかと思ったのだが、そんなこともなく、エリザベータは溜息をつきながら首を傾げた。とても甘やかな香りで空気を染め上げる、小指の先程のちいさな花だった。四枚の花弁は、ちょうど十字を描くように広がっている。
木の高さは、二階建ての屋敷を超えているだろう。柔らかな楕円を描くように広がった枝は太くはなかったが、濃い焼け土色をしていて、強い風にもしなやかに揺れるばかりだった。幹はまっすぐに伸びるというより、幾重にもねじれるようにして、途中で二股に分かれていた。一つの所から伸びた幹と、二つに分かれた太い枝。そこから伸びる細かい枝葉と、先端にたわわに揺れる細かい花がなんとも目と、花を楽しませる。
名前が分かればいいのに、とエリザベータは溜息をつく。花の香りに染め上げられた、爽やかに甘い空気を胸一杯に吸い込んで、エリザベータはとても残念な気持ちで窓枠に肘をつき、外を眺めた。ざわりと音を立てて風が幹を揺らし、よく晴れた天へと還って行く。あとは日暮れを待つばかりの、穏やかな午後だった。地平線を眺めれば牧草のきらめきに混じって、馬が草を食む様子が見られた。眠るにはちょうど良い天気だ。
窓辺に腕を伏せ、エリザベータは編みあげられた髪を崩さないよう、そこにそっと頭を横たえた。身嗜みを整えて居なければいけない用事は、今日はもう終わっている。花飾りも取って髪を崩してしまってもよかったのだが、侍女たちが一時間以上をかけて整えてくれたそれを、個人的な感情で崩してしまうのはいけないことのような気がした。それに、すこしだけ、エリザベータも惜しく思っていた。ぼんやり、指を髪に当てる。
細い三つ編みを複雑に組み上げた髪の形は、自分の一部ながらどうなっているのかも分からなかったが、とても複雑で手間と技術がかかるものだ。柔らかな髪質で強く編んでもすぐ崩れてしまうエリザベータの髪を、一定時間そのままに保っておく為に侍女たちが支払う努力の量はとても多い。指に多少ぺたつく香りの強い油に、慣れたのはいつのことだろう。それが初めて髪に付けられた時感じた吐き気は、今はもう無かった。
女性的な甘い香り。それを反発なく受け入れるようになって、どれくらい時間が経ったのだろう。思い出そうとしてもまどろみを誘う陽光の中では上手く行かず、エリザベータはそっと瞼を下ろした。柔らかな布で作られた服にも、脚にまとわりつくような長いスカートにも、ふくらみを持つ胸にも、澄んで響く高い声にも、もう慣れてしまった。今は未だ少女の形を持つ『国』としての体は、もうじき、女性のそれへと成長するだろう。
己の内側に存在する、人間には持てない『国』としての予感が、国家としてのハンガリーの激動を告げていた。恐らく、もうすこしでそれは来る。喜びを纏った祝祭か、それとも、血と焼け焦げた煙の臭いがする、痛みによってかは分からないが。出来れば、国民に優しいものであればいい、とエリザベータは思う。この身がどうなろうとある程度はかまわないが、国民が悲しみ、痛むことは嫌だった。大きな音を立てて、梢が揺れる。
湿気を含んだ冷たい風が、北側から吹いた。もしかして、雨になるのかも知れない。すこし薄暗くなった世界を確認しながら瞼を持ち上げれば、その瞬間に部屋の扉がノックされた。不思議にも思わず振り返ったのは、ちょうど清掃の為に人が部屋に入る時間だったからだ。失礼致します、としとやかな声を響かせて三人の侍女たちが部屋に入ってくる。そして各々掃除を始めるのを、エリザベータはただぼんやりと眺めていた。
昔は、部屋に国民と言えど、ひとを入れるのが嫌だった筈なのだが。それが平気になってしまったのは何時からだったのだろう。全ての答えはエリザベータが『少年』であった時期に終止符を打たされ、少女として形を整えられた時期に集約していく気がした。エリザベータは再び、視線を室内から外に逃がす。地平線の空に、黒い線が引かれていた。雨雲が来る。やはり、これから雨が降るのだ。恵みに、牧草はよく育つだろう。
ああ、でも厩舎に連れてこなければ風邪をひいてしまう。誰かちゃんと近くで見て居ればいいのだけれど。心配になりながら草をのんびり食む馬の影を見ていたエリザベータの耳を、不意に言葉がかすめて消えていく。ぱち、とまばたきをして体ごと振り返る。大きな音は立たずとも明らかな動きに、雑談に花を咲かせていた少女たちの手が止まる。エリザベータの傍付きの侍女は、まだ十代半ばの少女であることが多かった。
それぞれ幼さを残す顔立ちを見つめながら、エリザベータは口を開く。
「今……プロイセンって、言った?」
「あ、あの……申し訳ありま」
「怒ってるんじゃないわ。ただ教えてほしいだけ。……プロイセンが、どうかしたの?」
視線を外して口ごもる少女は、滅多に反応を返さない『祖国』からの問いかけに、気分を害してしまった叱責だと思ったらしい。指先を擦り合わせて体を縮こまらせるのに、エリザベータは優しく響くようにと心がけながら問いかけを重ねた。少女らは確かに、それを口にしていた筈だ。それもエリザベータの勘が正しければ国家としての話題としてではなく、『国』として存在する者のことを。エリザベータが『ハンガリー』であるように。
彼の国にも、『国』がいる。
「……えらい人が話しているのを、耳に挟んだだけなのですが」
少女は困惑もあらわに唇を開き、透明な声で囁くように告げた。どうも彼の『国』の体調が思わしくなく、騎士団がざわめいているようなのです。なにかあるとも限らないから、年頃の少女は一人で出歩くのを止めるように、と。その知らせを出すか否か、とただそれだけの言葉でした。聞こうと思って聞いていた訳ではなく、廊下を歩いていたら扉の隙間から聞こえてしまっただけなのだ、と少女は咎められるのを恐れる表情で言った。
「町の状態は落ち着いていますけれど、それを聞いたら、怖くて……。彼の『国』は粗野で、乱暴だと聞いています。戦うことしか知らない、成りあがりの国……」
呟いて行く表情には、年頃の少女特有の、異性に対する潔癖な拒否感が浮かび上がっていた。なんとなく、受け止めてはやれない表情だ。困惑の顔つきでそう、と口ごもるエリザベータをなんと思ったのか、少女はぱっと顔をあげ、でも、と言う。
「そんな、不安とかじゃ、ないです! だって私たちには貴女さまが、『祖国』さまがついてらっしゃるのですもの!」
重たい鉛を、飲み込んでしまったようだった。喉がひきつる。胸の奥が、重い。それにどう言葉を返せたのか分からないまま、エリザベータは少女らが退室して扉の閉まる音で正気を取り戻す。廊下を歩いて行く少女たちの足取りは軽く、言葉は軽やかに弾んでいる。落ち込ませてしまうような受け答えだけは、しなかったらしい。エリザベータはぐらつく頭に唇を軽く噛みながら、額に指を押し当てて深呼吸をした。眩暈がした。
言葉に覚えたのは拒否感なのだろうか。あるいは、怒りなのだろうか。悲しみ、だったのだろうか。それすら分からず、エリザベータは口元に強く手を押し当てて何度か咳き込み、荒い息を吸い込んでから気持ちを落ち着かせた。無性に、笑いだしたい気分だ。誰と、誰のことを話していたのだろう。粗野で乱暴ものの『国』と、国民の無垢な信頼を寄せられる守護者である『国』。それはいったい、誰のことだったのだろうか。
すくなくともエリザベータには、逆のように思えた。エリザベータは彼の『国』ほど、国民の守護者たりえる存在を知らない。彼の『国』ほど、己の民の安寧を祈り、その為に力を尽くす存在を知らなかった。彼は確かに剣を取って戦っている。ハンガリーの脅威となることも多い。粗野な言動も、乱暴なこともあるだろう。けれども。エリザベータは視線を持ち上げ、窓辺で揺れる薄紫の花を見た。あの花の名前を、彼はきっと知っている。
草花の名前。木に咲く花の名前、色や形。香り。薬草の群生する正確な位置。その条件。効能やそれを用いた治療の仕方。治療の手順、優先順位。その為の技術と知識。彼の『国』はひたすら国民を救わんと、それだけの知識を身に付けている。粗野。乱暴。その言葉はとても、エリザベータの知る彼の『国』に似合わなかった。まあ確かに近年、昔と違い、彼の『国』がそう評される性格にはなって来たのは事実だけれど。
反論すればよかった。でも、自分だけが知っていればいい。矛盾するぎこちなさと優越感を抱き、エリザベータはふるりと首を左右に振った。鼻先を、花の香りがかすめる。水を含んだ風に撫でられ、なお強く香りが立ったようだった。それを肌にじわりと染み込ませながら、エリザベータは地平線の彼方に目を細める。考えたのは数秒だけだった。よし、と口の中でちいさく決意を響かせて、エリザベータは結いあげた髪に手をやる。
花飾りをむしり取り、見もせずに棚の上にぽんと投げて置く。転がって落ちた音はしなかったので、もうそれで良しとした。三つ編みを固定していたピンを外し、結んでいた色鮮やかな紐も解いて髪を解す。油が塗られた髪は長時間の固定にゴワついていたが、手でざっと梳かすだけで、早足にチェストへ向かう。部屋の隅の影に、ひっそりと隠すように置いてあるチェストだった。すこしだけ埃っぽいのは、触れないせいだ。
前回これを開いたのは、彼の『国』がポーランド・リトアニア連合軍とタンネンベルクで戦いを繰り広げる前のことだったから、もう十数年が経過していることとなる。もちろん部屋は毎日掃除がされているし、チェストも定期的にエリザベータが手と目をかけているので荒れた状態にはなっていないのだが、日常的に使うものと比べれば差は歴然だった。薄くつもった埃をさっと手で払い、飾り気のないそれを開け、すこしだけ考える。
取り出したのは長袖の白いシャツと、黒のズボンだった。使い古した包帯と革ひもも取り出し、乗馬用のブーツは手に持って状態を確認する。特に異常はない。大丈夫だ。使える。にっと唇をつり上げて笑い、エリザベータは柔らかな布が傷むのもかまわず、身に付けていた少女めいた服を脱ぎ捨てた。それをぽいとばかりにベッドに投げ捨て、包帯を胸に巻いて押しつぶして行く。息苦しいが、そうふくらみがある訳ではない。
これからもっと胸が大きくなればさすがに苦しいだろうが、かるく眉をしかめる程度でさらしをまき終え、その場で飛び跳ねてきちっと固定出来ていることを確認する。ズボンをはき、ベルトで留める。シャツに腕を通してボタンをしめ、髪は革ひもで一つに括りあげた。椅子に座ってブーツに足を突っ込み、紐をキツめに締めていく。く、く、と紐を引っ張るたびに気持ちが締まって行くようで、エリザベータは微笑みながら立ち上がった。
トントン、と靴先で床を叩く。足のサイズはぴったりだった。もしかしたらキツいかと危惧したが、杞憂に終わったようだ。シャツは肩幅が僅かに足りていないような気がしたが、動きにくさを感じる程でもない。このまま着ていけるだろう。エリザベータは窓枠に手をかけると、そのまま体を持ち上げて屋敷の外へと出た。靴底が生えたばかりの草を踏む。一階の庭に面した部屋だから、誰にも見咎められずに外に出ることができる。
『国』の住まう屋敷を警備する兵たちの視線をかいくぐり、エリザベータは牧草地へと走って行く。視線の先、黒い点にしか見えなかった馬がだんだん形を取ってくる。雨の気配を感じたのだろう。殆どがエリザベータとはすれ違って屋敷の方に向かっていくが、一頭だけ、栗毛の馬が立ち止まってそこに居た。牧草を食むでもなく、屋敷へ戻って行く頭の良い仲間たちを見送る訳でもなく。馬は、主君が来るのを知っていたように。
遠く、迫りくる雨雲を押し留めるように、睨みつけるように空を仰ぎ、凛として立っていた。それは軍馬だった。鍛え上げられた筋肉の美しくもなだらかなラインで構成された体は、薄暗くなってきた世界の中において、背をぞくぞくさせる美しさに満ちている。息を弾ませて立ち止まり、エリザベータはまだ馬と距離がある場所で唇に指を押し当てる。指笛を響かせた。空の果てを見つめていた馬は、心得た様子で主に近付いて来る。
幸いなことに、その背には蔵がつけられていた。まさか馬が自分でつけて待っている訳でもないので、これは午前中、誰かが走らせてくれたのだろう。手綱もそのままだった。外さぬまま騎手が傍を離れ牧草地にやることもないので、やはり軍馬は、エリザベータの訪れを予感していたのかも知れない。鼻先を撫でて馬と目を合わせ、エリザベータは一息にその背にまたがった。それから、馬が見つめていた方角に目を向ける。
本当に賢い軍馬だった。そしてエリザベータには感じ取れないことを、多く受けることのできる馬だった。この馬が見つめる先には、必ず彼の『国』の姿がある。いつからかエリザベータは、それを知っていた。体を倒すようにして、馬の首に軽く抱きつく。目を閉じて息を吸い込めば、温かな命のにおいがした。行こうか、と囁くように言葉を落とす。馬は嘶いて、エリザベータの想いに応えた。ゆるりと体を起して、手綱を握りなおす。
雨に向かう移動になるだろう。その先に彼の『国』がいる。苦でもなんでもなかった。
木々に囲まれた古城が、枝葉の間から見え隠れし始める。数日間の旅の終わりを悟り、エリザベータはほっと体から力を抜いた。獣道を淡々と行く馬の足取りは一定で、変わらぬものの、やはり重たい疲労の中から安堵が滲みだしているようだった。ろくに休憩を取らずにここまで来た訳でもないのだが、やはり気ばかり急いていたのだろう。ごめんな、焦らせた、と首をそっと撫でながら囁く主の声に、低い嘶きが返される。
森と言うには範囲の狭い木々の間をくぐりぬけ、エリザベータは視界を塞いでいた最後の枝を腕で払った。数日前の雨の名残か、透明な雫が袖を濡らす。足音を立てさせないように馬を操りながら、エリザベータは夜の中、黒くそびえ立つ古城を仰ぎ見た。正門側ではない。裏側の、ちいさな通用門が視界の端にかすかに見える外れの場所である。道を間違えた訳ではない。正面から訪問できないので、こちらに回ったのだ。
エリザベータは『ハンガリー』という『国』であり、そして彼の『国』は『プロイセン』なのだ。ギルベルト・バイルシュミットという個人を尋ねて来たと言っても、彼を守る国民に取って、『他国』の存在はそれだけで脅威だろう。侵略、制圧、あついは略奪。『国』同士の直接の接触は、安全が約束された公式の会談や訪問でない限り、未だそういう意味を持って人々に捕らえられる。尋ねてきたのが少女であっても、それは同じことだ。
外見が利用できないとは嘆かわしい、といっそ面倒くさささえ感じながら嘆かわしく息を吐き、エリザベータは身軽な仕草で馬から地に降り立った。枯れ草が靴の下でくしゃりと潰れる。それだけの音しか、夜の静寂を揺らさない。見回りの者たちもわざわざ見に来ない城の外れだ。エリザベータの奏でた音に、駆け寄ってくる者はなかった。それでも周囲を慎重に見回し、エリザベータは己をここまで運んだ友に優しい笑みを向ける。
「……夜明け前に、ここに戻っておいで。分かる?」
ここに留まってはいけないよ。分かったらお行き。ぽんぽん、とてのひらで鼻先を撫でやれば、馬はエリザベータの手にぬくもりを擦りつけるようにしてから、木立の中へと歩いて行く。人に見つからない場所で、休むことにしたのだろう。足音が聞こえなくなるまで耳で追いかけ、エリザベータはさて、と気を取り直した呟きで首を傾げる。眼前に広がっているのは、城壁だった。試しに指でなぞってみるが、凹凸がある、という程度だ。
足場にして上って行くにはこころもとなく、そして高さも、少女の背丈の三倍ほどはある。もしもその上から落下して体をしたたかに打ちつけたとしても、『国』の体だ。死にはしない。しかし死にはしないと言うだけで、意識は失うだろうし、人知を超えた激痛は味わうハメになるのである。よし、よじ登って越えるのは止めよう、と頷いて、エリザベータはすこし歩くことにした。幸い、ごく光の少ない暗い夜だ。人影は、地の黒に混じる。
清涼な夜風が葉影を揺らし、耳に心地良い音を立て梢が歌う。足元は暗くて見えないが、不思議と転ぶ気はしなかった。数分間だけ散歩気分を味わい、エリザベータはぴたりと足を止める。そこに、『それ』があると知っていて歩いた訳ではなかった。しかしなにかが、エリザベータを呼んだのかも知れなかった。『それ』は、使われなくなったちいさな扉だった。木製の、一人が出入りする為に作られた、使われず朽ちた扉だった。
雨風に晒されて朽ちかけている板は苔むしているものの、それでいて腐っている様子はない。大きく亀裂が入ったりすることもなく、扉は忘れ去られてなお、侵入者を拒んで鍵が下りているようだった。エリザベータは扉の足元をじっと見つめ、土が穿っているのを確認してから足を進める。巧妙に隠されてはいるものの、その扉には出入りした跡があった。頻繁に、ではない。大勢が使っている様子でも、なかった。ひとりだ。
恐らく、この忘れ去られた扉を知り、使っているのはたったひとりなのだった。そしてそのひとりにエリザベータは心当たりがある。指先が、扉近くの城壁を確かめるように慎重になぞって行く。ひび割れた亀裂の、その奥に。錆びた銀の鍵が押しこまれていた。当たりだ。エリザベータはほのかに笑いながら鍵をつまみだし、開くことなど知らぬ顔の鍵穴に押し込める。鍵は重たく、それでいてあっさりと開いた。扉が内側に開かれた。
素早く体を滑り込ませ、扉を閉めてしまう。背を預けて息を吐き出せば、無意識の緊張が逃げていくようだった。中には入れた。これでもう本当に、会いに行くだけだった。なぜか見咎められる心配もせず、エリザベータは中庭をまっすぐに突っ切って歩く。庭を見下ろす絶好の位置にバルコニーを置く一室が目的地だった。居場所を知っていた訳ではない。それでも、知る前に分かった。確信した。ギルベルトが居るのはその部屋だ。
外側から、二階の部屋に直接辿りつく手段は当たり前のように用意されていない。エリザベータは古城が建設された頃に植えられたであろう大きな木に足をかけ、するりと体を登らせていく。バルコニーまでの距離は、飛んで辿りつくギリギリと言った所だ。光の薄い夜だから、着地点になにがあるかは全く分からなかった。迷いは一瞬。太い枝を強く蹴り飛ばし、エリザベータはその身を宙に踊らせた。だんっ、と音が響く。
体中に衝撃が走って息が詰まる。歯を食いしばって脚に力を入れ、倒れるのを堪えて、エリザベータは顔をあげた。すぐ目の前に、半開きになったガラス扉がある。換気の為に、鍵をかけないでいることを知っていた。大方そのまま、忘れて眠ってしまったのだろう。くす、と笑みがもれる。やれやれと緩い安堵に身をまかせながらガラス扉を開き、エリザベータは室内に足を踏み入れた。とたん、薬草の芳香が鼻先をくすぐる。
出所を求めて彷徨った視線が見つけ出したのは、窓辺に打ち捨てられるように置かれた一束だった。細長い草で乱暴にくくられた薬草は、根や葉に乾いた土がこびりついていた。普段なら絶対にしないであろう乱暴さで、引きちぎって来たのだろう。折れ曲がった茎も哀れな薬草たちは、その全てが死に絶えていた。数日前のものでもあるのだろう。歩んで来た中庭に、薬草園があった気がしない。独特の香りがしなかった。
まさか、とエリザベータは眉をしかめる。古城を取り囲む薄い森を探して、採って来たものだろうか。思わず舌打ちを響かせて、エリザベータは部屋の奥に視線を向ける。部屋の主は、侵入者に目覚めもしていないようだった。大きめのベッドの中、倒れこむように横たわった体には、薄いシーツが一枚だけかけられている。シーツからはみ出した雨具代わりのローブの裾には、隠しきれない泥はねが見える。やはり、そうだ。
自分で採りに行ったのだ。薄暗い部屋の中、睨むように目を細め、エリザベータは深々と溜息をつく。わざと音を立てて足を踏み出しても、少年がその瞼を持ち上げることはなかった。耳を澄ませば聞こえてくる寝息は熱っぽく、早く浅い。血の匂いがしないことだけが、エリザベータの心をなんとか落ち着かせた。怒鳴りつけてしまいそうだった。その意思を、手を握ることで押さえ付ける。わざとらしく大きな音を立て、足を止める。
ベッドのすぐ傍で視線を向けても、華奢な体躯の青年は目を覚まそうとしなかった。エリザベータが『女性』になる前の少女の外見をしているのと同じように、ギルベルトは男性的な体つきになる前の、幼い少年めいた成長の伸びしろを残す体型をしていた。長めの手足は投げ出され、力を失ったまま動くことがない。無言でベッドに乗り上げ、エリザベータはギルベルトを上から覗きこんだ。近くで見ると、やはり頬が熱で赤い。
てのひらで頬を覆うように触れる。汗ばんだ肌はしっとりとしていて、エリザベータの胸を切なく突いた。なにか言いかけようと唇が開くが、言葉が出てこない。きゅうと唇を閉じて眉を寄せれば、ギルベルトがむずがる様な声をあげた。ゆるりゆるりと、瞼が開いて行く。夢から現実へと還る視線が、暗闇の中で覗きこむ人影を捕らえたのだろう。唇が動き、何者かの名を呼んだ。それはエリザベータの名ではなく、古い呼称でもない。
全く別の、エリザベータが知らない『誰か』の名だった。かっと胸が怒りで熱くなる。もう一度訝しげに動きかける唇を許せず、衝動的に口付けて塞ぐ。びくっと怯えと衝撃に跳ねた体を力を込めて押さえ付ければ、闇の中、夕陽色の瞳が大きく見開かれた。ぷは、と息を求めて唇が離される。起き上がれぬよう、逃げられぬように肩を両手で押さえ付け、エリザベータは驚愕に硬直するギルベルトを見下ろした。ふん、と鼻を鳴らす。
「ねぼすけ。誰だって?」
「……ちょ、っと待て。おま……え、なんで、ここに」
「お前の体調が悪いって聞いたから、見舞いに来てやった。……で? 俺が誰だって?」
にっこり。薄闇の中できらめく笑顔を向けられて、寝起きのギルベルトは一つのことだけを痛感した。エリザベータは今、極めつけに機嫌が悪い。通常、この場に居てはならない存在の名を呼べなかったとてなぜここまで怒られなければいけないのか。理不尽だと思うが、そう思いつつ、ギルベルトの胸の中でとある感情がぐるぐると渦を巻く。こわい。とりあえず怖い。なにが怖いって笑顔が怖い。あとなにされるか分からなくて怖い。