屋敷の二階。北側の、一番奥の部屋。窓から見えるのはオーストリアの街並み、それも屋根ばかりで面白味などなにもないような景観だろう。部屋にはピアノも置かれず、他の楽器の類もない。楽譜をしまってあるのかと思えば、それも違う。その為の部屋は別にあるからだ。そこになにが在るのだろう、とエリザベータが不思議に思うのは月に一度、三時間だけ、必ずローデリヒがそこに籠りきりになるからだ。扉には鍵をかけて。
決して、誰もここに近寄らないようにと屋敷の者にも、エリザベータにもきつく言いつけて。決して部屋の中を覗かないことと、言葉でも文書でも約束をさせて。月に一度、三時間だけ、北側の一室にオーストリアは籠る。なにをしているのか、誰にも話さずに。誰にも、問うことさえさせずに。その秘密に、エリザベータが触れたのは一度。たった一度だけだった。落し物を探して屋敷を彷徨っていたら、いつの間にか扉の前だったのだ。
かっちりと閉められ、鍵もかけられた扉。それは重厚なものでないが故に、室内の物音をエリザベータの耳に運んでしまったのだ。カタ、と鳴ったのは窓を開く音。バルコニーに続く硝子扉を、オーストリアが開けた音だった。『約束』の三時間が始まる、数分前のこと。しかしこの部屋に入り、出てくるまでは決して近付いてはならない、というのが口頭と正式書類によって交わされたエリザベータとローデリヒの約束事だったのだ。
エリザベータは慌てて立ち去ろうとした。頑なに約束が交わされた秘密に興味はあるが、それを知るよりも少女は、ローデリヒとの約束を守っていたかった。早足に立ちさる少女の聴覚を追いかけた音は、大きな鳥の羽音に似ていた。柔らかな声でローデリヒが『それ』を出迎える。だからエリザベータは、『それ』を鳥だと思ったのだ。誰にも秘密で、ローデリヒが『鳥』を飼っているのだと。月に一度だけ呼び、餌をやっているのだと。
焦って、混乱してもいたからこその現実的ではない思考。それでもエリザベータはそれを真実だと思い込み、秘密の中身をすこしだけ知ってしまったささやかな罪悪感から、その後も決して、ローデリヒに問うことはしなかった。あの部屋でなにをしているのですか。あの部屋で、月に三時間、いったいなにをしているのですか。あんなに柔らかな声で出迎える『鳥』は、どんな姿かたちをしているのですか。それらを、ひとつとして。
問うことはなく、やがて疑問は心の中で忘れ去られてしまう。月に一度の『約束』が、終わる日まで。
結局の所、ローデリヒが『国章の刻まれたボタンを持った人物が現れたらそれが誰であろうと屋敷の中に通し、そのことを誰にも話してはならない』という命令を門番に下したのは一度きりで、二度目を迎える事は決してなかった。門番がその奇妙な命令を、忠実に守ったという事実もない。一度たりとて待ち人が、正門から屋敷にやってきたことがなかったからだ。一度目はピアノのある部屋の窓から、二度目は古書室の窓から。
三度目からは部屋を指定したので向こうもローデリヒを探す手間をかけることなく、屋敷に『侵入』することができるようになっただろう。彼は『招待』されたという意識を持っておらず、あくまでそれは『侵入』であり、それ以外のものにはならないのだ。それでこそ彼らしいと微笑みながら、ローデリヒは月に一度の風景を楽しみつつ、鍵を開けた硝子窓の向こう、バルコニーの手すりあたりを眺め続ける。もうそろそろ、時間の筈だった。
手すりを外側から、皮手袋の指先が掴む。くっと力を入れられた指は見る間に腕を、肩を体を持ち上げて、現れた人物が身に纏うローブを翼のように広げた。外側から内側に侵入を果たしたその人物は、身軽くバルコニーに着地する。一拍遅れて、ばさ、とローブが体を叩く音が響いた。それはまさしく鳥の羽ばたきの音に似て、それでいて事実は真逆だった。『鳥』は飛び立つのではなく、しばしの休憩を求めてやってくるのだから。
顔の上半分を隠すほど深くかぶったフードを肩に払い落そうとしないまま、『鳥』はローブの汚れを手ではたいて落としていた。仕草は丁寧で、そして慎重なものだ。ぱたぱたと軽やかな音が止む前にローデリヒは立ち上がり、カツカツと足音を響かせながらバルコニーに歩み寄る。硝子扉を押し開き、外の空気に身をさらす。『鳥』の視線はローデリヒを向かない。無言で二人は対峙して、先にローデリヒが『鳥』に手を伸ばした。
顔のすぐ横、フードを指先で払い落す。ぱさ、と布が肩に落ちる音。
「いらっしゃい、ギルベルト。……一月ぶりですね」
変わりはありませんか、と問われて、赤い瞳がおかしげにきゅぅと細められる。くつ、と喉を鳴らして笑う仕草は鳥というより猫に似て、ローデリヒの目を楽しませた。この獣をここまで手懐けるには、随分と時間がかかったのだ。感慨深げに答えを待つローデリヒに、ギルベルトはすこし疲れた顔をして別に、と言った。
「変わりないぜ。お前は?」
「私も、特に。怪我も病気もなく。……なにを飲みます?」
「水」
いつ聞いても、ギルベルトはそっけない声でそう答える。初めはローデリヒの用意した飲み物など口にしたくないのかと思ったが、付き合っていけば分かることで、つまりそれがギルベルトの好みなのだった。ローデリヒはそっと微笑み、ギルベルトの背を押して室内へと誘う。
「用意しておきましたよ。……どこかの森の、きれいな泉の水だそうです」
「だそうです、なのが実にお前だよな……。誰に用意させたんだ?」
「安心なさい。あなたの存在がバレるような手配の仕方は致しませんでした」
羽を休めに来る『鳥』に、きれいな水を飲ませたいもので、と出入りの商人に頼んだだけですよ。さらりと言ったローデリヒを嫌そうに眺め、ギルベルトは諦めた風に息を吐きだした。どっかりと椅子に腰かける仕草は実際慣れたもので、本棚と机しかない簡素な室内に、ギルベルトの存在は慣れていた。幾度こうして時を重ねたか、ギルベルトは数えていない。ローデリヒも覚えてはいないだろう。日記だけがそれを知っている。
ギルベルトは疲れた様子で机に肘をつき、組み合わせた手に顎を乗せて溜息をつく。水差しからグラスに水を移し、ローデリヒは首を傾げながらギルベルトの前にそれを置いた。さて、珍しいこともあったものだ。オーストリア国内に侵入し、誰にも見つからないようにこの屋敷の深くまで来るのはそれなりに骨が折れることだろうが、それは慣れたことである。多少疲れはするだろうが、こんなに表に出す程のことではないのである。
道中で事故が起こったようにも見受けられず、ローデリヒは思わず、プロイセン国内の状況を考えてしまった。『国』である彼らの体調が悪いというのなら、それはすなわり、彼らの国が動いているという証拠である。それが良いざわめきであっても、悪い動乱であっても、動くこと、それ自体が『国』として存在する体に跳ね返る。思案しているローデリヒを横目にしながらグラスを取って無警戒に口をつけ、ギルベルトは違う、と呟いた。
「個人的なことだ。国は関係ねえ」
「……なにか、心煩わせることでも?」
「あ……」
す、と息を吸い込んだ口が、喉が、確かになにか言葉を発しようとしたのに。その一文字目ですら辛かったのか、ギルベルトはすぐに口を噤んでしまった。引き裂かれた結果の血の色のような瞳が、ぐしゃりと歪んでローデリヒから視線を外す。グラスを持つ指先は、力の入れ過ぎで白く、かすかに震えていた。
「……ギルベルト?」
「なん、でも」
「そんな訳がないでしょう。なにがあったのです」
なん、でも、ない。途切れ途切れの言葉で否定は繰り返され、ローデリヒとギルベルトの視線は重ならない。震える指だけが感情を表していて、あとの全てをギルベルトは覆い隠してしまっているようだった。舌打ちさえしそうな気分で、ローデリヒは目を細める。長く冷たい雨に打たれすぎた鳥のように、この存在は傷つき震えきっていた。そのことが分かるのに、手を差し伸べることすら上手くできない己という存在がもどかしい。
冷えた体を温めるだけでも、してやりたいのに。その手は差し出した時点で払われるだろう。神聖ローマ。ローデリヒは長くその名を『不在』にしている『国』の名を胸の中で響かせた。恐らく現在ある『国』の中で唯一、この状態のギルベルトを包み込めるのが彼だ。消滅したとは聞いていない。その風の噂を、ローデリヒは信じていないからだ。それなのに、どくりと心臓が音を立てて鳴った。今ギルベルトは、なにを言おうとしたのか。
彼の国を、彼は『兄上』と、そう呼んでいた筈だった。
「……神聖ローマに」
久しぶりに口にするその名は、カラカラに乾いた口をぎこちなく動かし、掠れた音となって空気を震わせる。
「なにか、ありましたか」
恐れていた時が訪れてしまった。そう告げたがるように持ちあがった瞳が、ローデリヒをまっすぐに見る。それだけで、なにを言わずともよかった。それでも、言葉は必要だった。
「兄、上には」
「……はい」
「もう、会えない」
はじめて。そこで初めてローデリヒは、ギルベルトの顔が『泣き疲れた』ものだということに気がつく。衝撃が全身を貫いて、ローデリヒから言葉を奪い去る。そうですか、という言葉は喉でぐるぐると回るばかりで、ちっとも口から出て行かない。ローデリヒは口に強く手を押し当て、そこから零れて行こうとする音の一切を拒絶した。一筋、手が生温く濡れる。穏やかな目でその反応を見つめ、ギルベルトは椅子から立ち上がった。
「そのうち、誰もが知るだろうけど……『国』に言ったのは、お前が初めてだ」
「なぜ……」
「どう言おうかずっと考えて来たけど、駄目だな。言葉とか浮かばねぇし……こう、言わないと、お前も納得しないだろうし」
こぼれてしまった言葉に答えを返すことなく、ギルベルトは淡々と言葉を紡いで行った。揺れるばかりで重ならない視線が、再び一本の線を描く。ギルベルトはじっとローデリヒを見つめたまま、懐に手を入れてそれを取り出した。色褪せてしまった、一つのボタン。服についていたのをローデリヒがむしり取り、通行証代わりにギルベルトに渡したものだった。誰にも告げない月に一度の会話の、はじまりはこの釦からだった。それを。
取り出して、ギルベルトはローデリヒに差し出す。
「もう、来ない」
ぽと、と音を立てて釦が手の中に落とされる。ローデリヒはそれを強く握り締め、息を吸い込んだ。もう、幾度もこのやり取りはあった。幾度も幾度も、繰り返されてきた言葉だった。来ない、と時には怒りながら、時には拗ねながらギルベルトがいう度、ローデリヒはなだめながら釦をもう一度受け渡して一月後を待っていた。認めませんよ、と。ローデリヒがそう言えば、これはまた繰り返されるだけだ。幾度も幾度もそうだったように。
もう一度、告げればいいだけだ。けれど。
「なぜです」
けれど、はじめてローデリヒは問いかけた。
「なぜ、もう来ないと?」
「……忙しくなるんだよ。お前に構ってやれないくらい」
僅かに困った顔つきで、ギルベルトは言う。嘘はついていないな、と直感的にローデリヒは思った。けれど、それだけが理由ではないとも。そうですか、と言ったローデリヒは、ほっとするギルベルトの腕を掴んで力任せに引き寄せた。バランスをくずした体が倒れかかり、踏みとどまって持ちこたえる。激突する寸前で止まった顔は、すぐ近くにあった。それは偽りなく、ひとつの疑いもなく、言葉によって真実を暴ける距離だった。
ぎく、と体を強張らせて体を離そうとするギルベルトの動きより先に、ローデリヒは声を放つ。
「後は?」
「……別に、いいだろ。離せよ。帰る」
「許しませんよ、お馬鹿さん」
その言葉ひとつで、影を縫いとめて自由を奪ってしまうかのような、静かで強い宣言だった。ギルベルトは眉を寄せて息を吸い込み、けれどそれだけで言葉を返さない。沈黙が二人の間に壁を作り、全てを隔てているようだった。意思は届かない。その向こう側へは、どうしても。
「許しません。……良いではないですか、ギルベルト」
ギルベルト・バイルシュミット。『国』として存在するその名ではなく、人として存在する為の響きを口にして。命令にしては弱く、懇願にしては凛と響く声でローデリヒは言った。国の全く関わりない所で私たちが、『個人』が会うだけならば、構わないではありませんか。これまでそうだったように。これからも、ずっと。ギルベルトは返答を迷うようにゆっくりとした瞬きを繰り返し、苦しげに、悔しげに唇を噛んで首を横に振った。否定だった。
弱くとも、言葉にすることはできなくとも、それは確かに否定だった。
「決めて来たんだ」
「……なにを? 私を遠ざけることを、ですか?」
「全てを一人に捧げる事を、だよ。見つけたんだ、ローデリヒ」
見つけたとするのは、あるいは違うのかも知れないけれど。ギルベルトは泣きだす寸前の表情でゆるりと目を細めて笑い、夕陽色の瞳で確かにローデリヒを見た。別れることを決めてしまった意思を奥底に、ギルベルトは確かに、ローデリヒだけを見ていた。
「騎士が剣を捧げる唯一。守護を誓うたった一人。存在を、生まれ落ちたことを神に感謝したくなる程の『唯一』を……俺は見つけて、だから、俺はこれからその為だけに、全てを」
「ギルベルト……」
「決めて来たんだ、ローデリヒ。俺の全てを、なにもかも……本当に何もかも全てをアイツに受け渡すって」
だから、お前の所に来ることがなくなる。それだけの話だ。苦笑しながら、かすかに肩を震わせて笑いながら、ギルベルトは確かに幸福そうだった。見つけたのだろう。言葉の通りに、確かにそうなのだろう。『鳥』は、飛び立つ場所を決めたのだ。
「それに」
ふ、と声の質が変わる。ローデリヒは息を吸い込んだ。聞いたことのない響きだった。ごく柔らかな声だった。それはそっと郷愁を誘って響き、わずかな甘さの欠片を潜ませながら、心に悲しみを呼び醒ます。尊く、純化した祈りそのもののような声。
「それに、お前もこれから忙しくなるだろ?」
「……え」
「『オーストリア・ハンガリー二重帝国』」
ごとん、と鉛が落ちたようだ。心に重たく、楔が生まれたようだった。ローデリヒは息を吸い込んで相手を眺め、なにを言うでもなく理解する。なぜ知っているのかなんて、愚問にもすぎる問いだろう。彼はあくまで『国』であり、そして『プロイセン』は敵なのだ。ふ、と寂しく微笑して、ローデリヒは首を傾げる。
「その様子だと、祝福は望めそうにもありませんね?」
「祝う理由がないだろ? 『プロイセン』としては、な」
「いいえ、ギルベルト。あなたからの祝い、ですよ。私の友人」
その言葉に。微笑んだギルベルトの表情を、ローデリヒは一生忘れる事がないだろうな、と思った。忘れる事ができないだろうな、とも。ゆっくりと唇を動かして、ギルベルトはおめでとう、と言った。それだけだった。ふ、と視線が外される。
「ともかく」
「……はい」
「お前は……そういう風になんだし、俺は、俺で子育てするから。もう、お前にはこうやって会いに来れない」
分かったな、と言われて。そんな理由で納得できませんよ、と言い返すのは簡単なことだったのだけれど、ローデリヒは苦笑しながら頷いてやった。どうしてこれ以上の否定を重ねる事ができようか。あんなに純粋な微笑みの前で、己がどれだけ傷ついているのかも自覚していない、そんな『喜び』の前で。これ以上、意思を遠ざけることこそ困難だった。ローデリヒはギルベルトに手を伸ばし、その頬に指先で触れた。かすかに、撫でる。
「招待状は出しますよ。捨てるもどうするも、お好きになさい」
「分かった。……上手くやれよ? エリザ、超おてんばだし人の言うこと聞かねえし、人のこと泣かせてうっとりするような苛めっこだからな」
「大丈夫ですよ。それは恐らく、あなた限定でしょうし」
私はこれでもしとやかで私の言うことを聞いて微笑んで嬉しげにするような『彼女』を多く知っていますからね、と。言って、ローデリヒは笑った。それしか知らない、と言ってやるには幼少期に殴られすぎたので、ローデリヒとしては今の変化を喜ぶばかりだった。なんだそれ、と笑ってギルベルトは窓の外を見る。風が吹いていた。追い風だ。もう、行きたがっているようだった。ローデリヒはギルベルトの腕を引き、手に釦を押しつける。
「持って行きなさい」
反論は笑顔で封じ込める。これだけは、譲れなかった。いらない、と反射的に叫ぼうとするのを真剣な顔つきで黙らせ、ローデリヒは言う。
「……百年後、また、こんな日が巡るかも知れないではないですか。その時の通行証です」
「ローデ……あのな」
「そんな日が決して来ない、などとは言わせませんよギルベルト。百年前、二百年前なら、今は十分ありえない時間だったでしょうから」
二人で、穏やかな時を重ねて。ただ話す為にギルベルトが来るのも、それを喜んでローデリヒが出迎えることも。それまでは考えもしなかったことだ。そうでしょう、と言って釦を握らせてしまったローデリヒは、苦笑するギルベルトに囁く。
「では、お帰りなさい。ギルベルト。……いつか、また」
「……また」
窓が開く。軽い踏み切りの音がして、ギルベルトの気配がバルコニーから消えた。無事に着地したのだろう。ばさ、と布が大きく揺れ動く音が響く。それは鳥の羽音によく似ていた。ここから、飛び立つようだった。
これまで誰も立ち入らせなかった部屋にエリザベータが招かれたのは、『国』として結婚する数日前のことだった。屋敷中の人間が『これから奥方様になるのですから!』と喜びを持ってそれを騒いだが、エリザベータは直感的に違うと言うことだけを悟る。そんなに甘やかな理由で、己の領域に立ち入らせてくれる相手ではないのだ。二階の、一番奥の部屋。扉を開いて中に入れば、ひんやりとした空気がエリザベータを出迎える。
なにもない部屋だった。部屋の中央には机とテーブルが置かれ、壁際には本棚があるが、それだけだ。その他に、なにもない部屋だった。立ちつくすエリザベータに椅子に腰かけるように言い、ローデリヒは慣れた仕草でテーブルに歩み寄る。茶器を持ち上げる指先、注ぎ入れる仕草のなにもかもが慣れていて、エリザベータは椅子に座りながらぼんやりと考える。ずっと誰かをこうして、ここで出迎えていたに違いないのだった。
どうしたんですか、と。聞けば、答えてくれるのだろうか。緊張するエリザベータの前に、音もなく紅茶の注がれたカップが置かれる。あの、とエリザベータが口を開きかけた瞬間だった。ばさ、と鳥の羽音。
「っ!」
勢いよくローデリヒが振り返る。バルコニーに居たのは、一羽の鳥だった。羽を怪我している様子もないので、ただ単に迷いこんで来たのだろう。ローデリヒはなにも言わず、視線を反らして椅子に腰かけた。部屋はしんとして、静まり返っている。
「……あの」
沈黙に耐えきれずに響かせた呟きは、柔らかな微笑みで受け止められた。はい、と優しく響く声。
「なんですか、エリザベータ」
「いえ、鳥を……待っていたんじゃないんですか?」
ここで。ずっと、ずっと、貴方は。問いかけにローデリヒは困ったように微笑んで、バルコニーをもう一度振り返る。迷いこんだ鳥の姿は、もうどこにもなかった。空に帰って行ったのだろう。ローデリヒは息を吸い込み、貴方は紅茶を飲みますね、と言った。そのことをすこし、寂しげに囁いた。