ひかりが、薄い闇の線をまっすぐに引く。あるいはそれは逆なのかも知れなかったが、眩いほどに明るい新緑の森において、そう表す方が正しいとオーストリアは思った。目を細めて息を吐けば、その瞬間に足首の痛みを思い出す。じくじくと熱を持って痛む右足首にそれ以上は立っていることすらも叶わず、オーストリアは身を引きずるようにして幼い体を大樹の元へ寄せた。幹に体をぶつけるようにくずおれ、ぜい、と息をする。
人間にしてみれば十代半ばの少年の体は華奢に作られていたから、数百年を生きているであろう大樹は揺れ動きもしなかった。低い所にある細い枝葉が風にでも触れられたかのようにさわりと揺れただけで、起きた変化はそれだけだ。自然に対するあまりの影響のすくなさに自重気味の笑みを吐き出しながら、オーストリアは浅い息を繰り返し、薄く目を開く。初夏を迎えたばかりの森は、白銀と金の光の欠片に満ちていた。
柔らかに垂れた枝には、萌えたばかりの若葉が陽光に透けて微睡んでいる。息使いさえ聞こえてきそうなかすかな静けさを、鳥の羽音と鳴き声がひっそりと縫い合わせていた。目の前を羽虫が横切って行く。近くもなく遠くもない場所を、鹿だろうか、なにか動物が通り過ぎて行く気配がした。堆積した腐葉土の、乾ききった葉を踏む命の足音。葉影をすり抜けていく風は清涼な水をたっぷりと含んでいて冷たく、喉に優しかった。
人の気配はどこにもなかった。耳を澄ませて聞こえるのは森の住みびとたちの命の息吹であり、そこを切り開いて行く人のそれではない。諦め気味の溜息をひとつ。オーストリアは木の幹に懐くようにして座り直し、肺に空気を満たすように息を吸い込んだ。さて、どうしたものか。焦らなければいけないとは思うのだが、森はあまりに命に満ちた穏やかさで、青年期に差し掛かる寸前の少年から慌ただしい気分の一切を消していた。
元来オーストリアは、あくせくした性格ではないのだ。なるようになる時はなるし、どうにもならない時は、もうどうにもならない。思い切ってしまえばあとは落ち着くだけで、オーストリアはふう、と肩から力を抜いてしまった。足首が、毒を染み込ませてしまったかのように痛む。それさえなければ、昼寝には絶好の場所だった。どうして足首を捻ってしまったのでしょうと溜息をつきながら、オーストリアは暇つぶしに思考を巡らせる。
きっかけは確か、目の前を蝶が横切ったからだった。鮮やかな黄と黒で構成された優美な生き物。その翅の動きに意識を連れ去られ、気が付けば森の中で迷子になっていたのだ。従者たちの悲鳴が聞こえるようである。一人で出歩かないで下さいと言っているではありませんか迷子になるのですからっ、と昨夜も半泣きというか泣きながら訴えられたばかりなので、今頃は『国』の不在を知り、胃の痛みに倒れている頃だろう。
胃薬を片手に泣きながら床にうずくまっている姿まで想像して、オーストリアはすい、と気まずく、誰も居ない空間に視線を横切らせた。別にオーストリアとて、『国』の傍付きとして動いてくれている若者の胃を、むごたらしく痛めつけたい訳ではないのである。好き好んで迷子になっている訳でもなく、これは不可抗力なのだった。蝶があまりに綺麗だからいけない。つまり私は悪くなどないのですよ、ともそもそと呟きを落とした。
声は拾われず、葉のざわめきに消し去られて行く。なんだか、体が重たいような気がしてきた。疲れたのかも知れない。眠いのかも知れなかった。もったりと落ちてくる瞼が重たくて、持ち上げられない。あくびが出来ないのは、全身が重たいからだった。ぐら、と意識が揺れる。ああ、気絶するかも知れない、とすこし懐かしい感覚に慌てもせず思えば、その時、耳にかすかな足音が届く。小動物ではなく、ひとの足音だった。
ざくざくと、慣れた様子で腐葉土を踏み分けて歩いている。オーストリアがここに居るのを知って近付いてきているようではなかったが、それでもすぐ、姿を見つけるであろう足取りだった。かすかな警戒を胸に抱きながら、オーストリアはすみれ色の瞳を空気に触れさせる。す、と胸に息を吸い込んだ。立ち上がる力は体に残っていない。それでも意識を失った体を発見されることは、『国』としての侵略の危機以上に、ただ嫌だった。
ざく、と土を踏み鳴らしてその存在が道の先に現れる。人の手が入らない、細くうねった獣道の先。葉を貫いて大地まで届く強い光に、短い銀髪が刃のような輝きを返していた。身の殆どは黒色のローブで覆われていたが、重たげであるというより、信仰や祈りのたおやかさを感じさせる。オーストリアは意外さに息を吸い込み、目を瞬かせた。気配に気が付いたのだろう。それの視線が不思議そうに、オーストリアの姿を捕らえる。
ぱちん、と音がするほどの瞬き。一瞬後、ぎょっとして見開かれたのは野苺色の瞳だった。な、と一声発したきり、声を成さずにくちがぱくぱくと動いている。驚いて言葉にならないのだろう。オーストリアは相手の意識を宥めるように、深く長い息を吐き出した。
「落ち着きなさい。……おひさしぶりですね、ドイツ騎士団。……いえ」
今はもう『プロイセン』とお呼びした方が良いのでしょうか。くす、と微笑しながら吐き出された言葉に、ようやく、ぎこちない動きで相手が応じる。ぎしぎし、油のさされていないクルミ割り人形のような動きで頷いてオーストリアの言葉を肯定した『元ドイツ騎士団』にして現『プロイセン』は、そこでようやく、相手が誰であるかを正常に認識したのだろう。お前、と驚きすぎて引きつった声でオーストリアを呼びやり、ひといきにかけてくる。
タン、と軽やかな動きで幹に手がつかれ、顔を覗きこまれる。
「なん……馬鹿! こんなトコでなに怪我して……してる……んだ、よ!」
「……プロイセン?」
「ばか! ばかっ……いい、分かった!」
治療するから動くな、と言い放ったプロイセンの表情はなぜかやたらに真剣で泣きそうなもので、オーストリアは先程と立場を入れ替えたかのように、ぎこちない動きで頷いた。無理に荒れた口調を装っているようなつっかえながらの言葉が気になったが、驚きすぎて上手く話せないのだろう、と勝手に推測する。ざっと全身に視線を走らせて足首以外の怪我がないことを確かめているプロイセンもまた、十代半ばの姿をしていた。
立ち上がって身長を比べれば、同じくらいの背丈なのだろう。ぼんやりとそんなことを思いながら息をするオーストリアは、プロイセンが無言で小刀を取り出したのを見て、身を強張らせる。なにをするつもりだ、と警戒もあらわに睨みつければ、プロイセンはすこし呆れた様子で息を吐き、首を傾げながら口を開く。
「包帯」
「……は?」
「立ち上がれない、だろ? 包帯、巻く……んだよ」
熱を持った足首に、ひやりとした指先が触れて行く。痛みに身を強張らせる様を痛ましげに見つめ、すこしだけ我慢な、と言い聞かせてプロイセンは動く。己の身のほとんどを隠す黒装束に小刀を押し当て、そしてなんの躊躇いもなく引き裂いた。数センチ幅の布を一枚、二枚、三枚作ってとりあえずこれでいいかと首を傾げ、プロイセンはオーストリアの足の前にしゃがみこむ。そして半分脱げかかっている革靴の靴紐を、解いた。
薄い極上の生地で作られた靴下は、転んだ衝撃を物語るように無残に指先が裂けてしまっていて、もう使い物にならない。脱がすけど、と遠回しな許可を求めてくるプロイセンにこくりと頷き、オーストリアは相手を傅かせているような奇妙な高揚感と、罪悪感から意識を反らすべく、視線を高く空へと向けた。青空は遠く遠く、高く、いくつか雲が浮かんでいるのが見える。しゅ、と衣擦れの音を立て、足から靴下が脱がされていく。
こんな天気の良い日に、静寂と瑞々しい命に満ちた森の中で、いったい何をしているというのだろうか。あああ、と呻きながらぐったりと木の幹に背を押しつけるオーストリアを見て、痛みに身動きが取れないと勘違いしたのだろう。熱を持って腫れる足首にそっと触れていた指先が、戸惑いながら離れ、乱れたオーストリアの前髪を整えて行く。指先はそのまま額に触れ、頭を撫でてから離れて行った。安心させたがる仕草。
熱を持ってぐずる幼子を、大丈夫だと宥めるような、それ。むしょうに恥ずかしくなって溜息をつけば、プロイセンはうろうろと視線を彷徨わせ、ちょこ、と小動物的な動きで首を傾げてみせた。
「あの……痛い、と、思うけど。なるべく、注意して、巻くから……な?」
「……好きになさい」
「ん。……とりあえず、動けるように、する。それで、一緒に森を出よう」
ところで何処に行く途中だったんだ、と相変わらず奇妙に言葉を遣えながら言うプロイセンは、オーストリアが目的地に向かう途中に遭難したもの、と思っているらしい。丁寧な仕草で、それでいてきつく足首に布をまきつけて固定していくのを見つつ、オーストリアは勘違いをそのままにさせておくことにした。わざわざ訂正すまい。蝶を追っていたら森の中で迷って滑って転んで足首をひねって動けなくなったなど、説明したくない。
布は、かすかな痛みだけを残してオーストリアの足首を固定させた。プロイセンの指が、満足げに離れて行く。しかし、終わりではなかったらしい。考えるように傾けられたプロイセンの首が、一向に戻って来ないからだ。立ち上がってみることもせず待っていると、プロイセンはん、と呟いてから眉を寄せ、もう二枚、己の黒衣を引き裂いて包帯代わりにした。それをさらに布の上から巻きつけ、さらにがっちりと足首を固定する。
靴紐が抜かれた革靴に足がそっと戻され、ただ靴が抜けてしまわないように紐が通し直される。きゅ、と蝶緒結びにされた紐を複雑そうに眺め、オーストリアは溜息をつきたい気持ちで大丈夫ですか、とやたら満足げなプロイセンに問いかけた。プロイセンは幼い仕草でこくこくと頷き、オーストリアが立ち上がることを期待して見つめている。生まれたての小鹿が立ち上がるのを待っているような眼差しは、本当に止めてほしい。
声に出して抗議すると精神的な疲労で眩暈がする気がしたので言葉にはしないことにして、オーストリアは木の幹に手をつき、体にぐっと力を入れて足を地についた。正常な足首を支点にしながらも、どうしても怪我をした方にも力を込めなければならない。当たり前のように、痛みはあった。しかし、耐えきれないものではない。驚くほど痛みは薄く、遠く、そして鈍いものだった。過度に体重をかけることはできないが、立てる。
走ることはさすがに痛くて難しそうだったが、歩く分には多少我慢すれば問題なさそうだった。痛いだけで、そう悪化するとも思えない感覚である。大丈夫なようです、と言ってやれば、プロイセンの表情が甘やかに緩む。それを間近で見つめて、オーストリアは思わず息を飲んだ。そんな表情をすることもできるのだ、と思う。オーストリアがプロイセンに対して持っているイメージは、基本的には乱暴なものだった。反するものである。
オーストリアの愛す音楽から、一番遠い所に居るもの。最果てで剣をふるい、戦い抜く者。今でこそきちんとした『国』ではあるが、プロイセンの前身はドイツ騎士団である。荒くれ。粗暴。信仰の為の争いに命をかけて、剣と寄り添い生きる者。オーストリアは『国』として、国を求めて各地を彷徨う彼らの姿をずっと見て来た。だからこそ、あながち間違いではない。その筈なのに。かつて彼らの礎であった者は、こんなに柔らかに笑う。
傷を癒せたことが嬉しくてならないと、神に祈りをささげるごとく、尊くきれいな表情で。
「……プロイセン?」
ぽつり、と。不意に落ちてきた雨粒のような呼びかけに、野苺色の瞳がぱちん、とまばたきをする。まるでその呼称が己のものではないと、そういうような反応だった。思わず見つめてしまうオーストリアの視線の先で、プロイセンは、まるで怯えたようにびくりと体を震わせる。その反応になぜか、オーストリアは先程見上げた青空を思い出した。高く高く遠くに、触れられない程遠くにある、透き通る青の空。その印象を、思い出した。
手を伸ばして腕を掴んだのは、逃げてしまうと思ったからだ。それ以外の意図はなかった。プロイセン、と落ち着かせるようにオーストリアは己が呼びかける事の出来るその名を囁き、卑怯だと分かっていながら、その耳に吹き込むようにして囁く。私は怪我人なのですよ、と。置いて行くつもりなのですかと呟けば、プロイセンの眉が困ったように寄る。戸惑い、ためらい、ぎこちなく視線がゆらゆらと波を地に描き、足元で停止する。
見つめていたのは、たった今固定が終わったばかりの足首だった。オーストリアは相手を刺激しないよう、黙して声を待つ。やがてぽつりと、言い聞かせるように、プロイセンは言葉を発した。うん、と言ってプロイセンは顔をあげる。真正面から射抜いたのは、赤い瞳。夕陽の鮮烈さを写し取ったかのごとく、鮮やかに輝く紅の瞳だった。印象が、まるで違う。野苺の甘やかな印象はなりを潜め、今あるのは刃の鋭さばかりだった。
「分かった。……送ってく」
言葉はすんなりと喉を通り、響くようだ。先程までとはまるで別人のようなそれに、戸惑いながらもオーストリアは頷く。身を翻してすでに歩き出そうとする背を追えば、唐突な動きに足首が悲鳴を上げた。痛みの声を、歯を噛んで殺す。声をあげれば逆に、彼は戻らない気がしたからだ。一歩、二歩、歩いて立ち止まり、振り返ってプロイセンはオーストリアを見た。よろけながらも歩いて来る姿に、苦痛を堪えるように眉が寄せられる。
痛いのはオーストリアであり、プロイセンではないのに。大丈夫ですよ、と言いたくなったので口に出せば、プロイセンはなにかを諦めた表情で息を吐き、こくりと頷いて手を差し出して来る。これはまさか、繋げ、ということだろうか。恐る恐る指先をてのひらに乗せれば、きゅう、と掴んでゆるく引っ張られる。足取りは穏やかだった。置いて行くつもりも、引っ張って行くつもりもなく、共に歩いてくれるようだった。横顔は、僅かに赤い。
くすりと笑って、オーストリアは囁いた。
「ありがとうございます」
「……ハンガリーのトコでいい、な?」
森を抜けて行く先にあるのは、『ハンガリー』が常駐する屋敷に近い街道である筈だった。もちろんです、と頷いてはじめて、オーストリアはあることに気がつく。プロイセンはなぜ、この森に居たのだろうか。彼が普段住まう屋敷からこの場所はあまりに遠く、気まぐれに散歩に来る距離でも、場所でもなかった。目的があって、森を抜けてやって来たのだろう。疑問をそのままにせず、オーストリアは口に出して尋ねる。あなたは、と。
「なにを……しに、ここまで?」
「お迎え」
もっと早く行くつもりだったのに、お前のせいで絶対間に合わない。むくれた声で呟いたきり、それ以上の説明をプロイセンはしたがらなかった。興味はあるものの、突っ込んで問いかけられる程、オーストリアはプロイセンと仲が良くない。どちらかといえば、普段は悪い方なのだ。こうして穏やかに話をすること自体、はじめてかも知れないくらいに。足場の悪い森の中を、オーストリアはゆっくり歩いて行く。足首が、かすかに痛む。
プロイセンは時折振り返っては、言葉短くオーストリアに問いかけた。大丈夫か。ぎこちなく、それでいて柔らかく響く言葉に、オーストリアは微笑みながら言い返した。大丈夫ですよ。ありがとう。ゆらゆら、視線は揺れて。プロイセンはこくりと頷き、またゆっくりと、足場を選んで歩いて行く。か細く繋がれた手は、ぎこちなく。それでいて、離れることがなかった。
走り出そうとする腕を捕らえて引きとめれば、その意外な細さに気が付いて、神聖ローマは身を強張らせる。そういえば、これは『少女』なのだ。身の性別を選べず生まれてくる命の定めに同じく、女性として存在を許された『国』は、引き留めた幼子の手を憎々しげに睨みつける。その視線の苛烈さ、灯る感情の激しささえ、それはまだ性を知らなかった幼い頃のままだと言うのに。脚を止められた動きに、スカートがたなびく。
不思議な気持ちで、向き合う『少女』の全身を眺めた。かつては拒否していたばかりの柔らかな布で作られた服を身に纏った『少女』は、ふわりと背に流した髪から花の匂いを漂わせている。顔の横には薄桃色の花飾りを刺していたし、あどけなさを消しかけた頬のまるみに肌荒れは見られなかった。肩から腕に流れる線はまろやかで、多少筋肉質ではあるものの、男のそれではない。遠目にも、少女だとすぐ分かるだろう。
綺麗な爪だった。短く削り揃えられた爪は、健康的な艶を持って指先にちょんと置かれている。力の入れ過ぎで歪んだり、ひび割れたりすることがないのであろう、その爪の形。土をいじって汚れることも、血で染まって色が抜けなくなってしまうことも、なく。室内で穏やかに過ごす、少女の爪。かろうじて剣を握ることを忘れていない証拠に、指には所々、ぎこちない皮膚の固さがあるだけの。名残。それは『少年』の名残だ。
ああ、と溜息をつきたくなるような気持ちで、神聖ローマは感情を叩きつけてくるハンガリーを眺める。ああ、変わってしまった。それは悪いことではない。当たり前のことだ。時が人を成長させるように、国民の意思と感情、国を動かす政治と思惑は、当たり前のように『国』を変質させる。嫌だと泣き叫んでも。拒否感に身を震わせて硬くなっても。あるいは、穏やかに受け入れたとしても。同じように、同じように。変えて行くのだ。
だからこそ言葉は、苦もなく零れ紡がれて行く。
「行ってどうなる。……お前も、森で迷うだけだ。もう一時間も無く、日暮れが来る」
「だからって……! なにもしない訳にはいかないでしょうっ?」
なにか出来る筈だ、と怒りに揺れる瞳は信じていて、神聖ローマはハンガリーの腕から手を離し、深々と息を吐き出す。幼い少年に年頃の少女がそうされている図は、いかにも奇妙に見えるのだろう。神聖ローマを『国』と知りながらも戸惑う、ハンガリーの傍付きの少女らの視線が、揺れていた。彼女らが生まれる前から、神聖ローマはハンガリーを知っていた。その名が今のものに代わる前から、『少女』になる前から、ずっと。
知っていたからこそ、生まれてしまった感情は、悲しみに一番良く似ていた。
「……ハンガリー」
「なによ」
「ハンガリー。なにか出来る、という感情論でしかない意思状態で、森に行かせる訳にはいかない。どうしても、と求めるのであれば、なにが出来るか、なにを成しに行くのか。それを明確にしてから出て行け。……森はひとを惑わせる。そんなことも忘れたのか」
ひゅ、と飲み込まれた息で少女の喉が鳴る。己こそ信じられないように見開き、戸惑う瞳に神聖ローマは肩から力を抜いた。森は確かに、ひとを惑わせる。文明の力で切り開き、立ち入ることを許されたからこそ、ひとはそれを忘れてしまったのだけれど。あの場所は、ひとのものではない。ひとが得て良い場所ではなかった。不用意に立ち居れば惑わせられ、そして出てくることが叶わなくなるのだ。木の檻。光と闇の檻の場所。
ハンガリーの瞳に、明確な恐怖が生まれた。森とはそういう場所であったと、ようやく思い出したようだった。昼間ならばともかく、夜の森は極めつけに悪い。一夜を越して良い場所ではなく、容易く越えられるものでもなかったのに。オーストリアは森に消えたきり、戻って来ない。なにかに誘われるような足取りで、森に消えてしまったのを数人が見ていた。そして戻ってきたという報告は、未だにない。日暮れが迫っているのに。
彼は『国』だ。死にはしない。けれど、それだけだった。
「大丈夫だ」
「なんで……そんなこと」
「俺の迎えに、マリ……いや、プロイセンがこちらに向かっている。あれのことだ。途中で保護しているに違いない」
今はすこし、粗野で乱暴な所があるかも知れないが、と。破竹の勢いで勢力を伸ばし、ついに先日『国』となった『弟』を大分柔らかな兄馬鹿表現で包み込み、神聖ローマはごく穏やかに、瞳を細めて微笑する。
「あれは元病院だ怪我人を見て放置しておく性質ではない」
「……オーストリアさんが、怪我してると、思うの?」
「していないと思うのか? あの運動音痴の方向音痴が? 森の中で転びもしないと?」
誰だそれは、と呆れながら言う神聖ローマは、未だもって幼子の体つきをしていた。細い体つきはしなやかでありながら、どこか弱々しくも見えた。強靭な『国』を内側に抱くことで、彼は未だかろうじて、存在という外枠を保っている。そんな風に、ハンガリーには見えた。それには触れられない。本能的な、死に触れるような恐怖があった。
「転ぶ……わね。絶対転ぶわ。それで、すりむくとかじゃなくてどっかひねっちゃうとか、そういう怪我の仕方するのよあのひと……」
「……そろそろ日暮れだ」
もしかして神聖ローマは、帰路の途中に旧知の顔を見に来ただけで会話するつもりがないのではないか、とハンガリーは思った。よく考えれば、基本的に会話が成り立っていないような気がする。呆れて視線を追いかければ、神聖ローマは窓の外、遠くに見える森の切れ端を眺めていた。強い風にだろうか。木の緑が、大きく揺れている。睨みつける視線は忌々しそうで、険しく苦しげな気配を宿していた。あ、と気がつく。
「……森の出口まで、迎えに行く。会えたらそのまま帰るが」
お前はどうする、と振り返る目を覗きこむようにして、ハンガリーは口を開く。冴えた青い瞳の奥。拭いきれない焦りが、こびりついているように、見えた。行くわ、と呟いてハンガリーは神聖ローマに手を伸ばす。少年は少女のてのひらをじっと見つめた後、ふるりと首を振って歩き出す。ついてくればいい、とだけ言い残す背を、ハンガリーは苦笑しながら追いかけた。
木々がまばらになって行く。葉を透けて届く光の量が多く、金から赤茶けたものに代わってきた頃、二人はようやく森を抜けた。平地に足を踏み入れて、オーストリアはようやく肩から力を抜いた。プロイセンも、安心したのだろう。ふっと緩んだ顔つきで微笑したのち、プロイセンはオーストリアの足元を覗くようにしゃがみこむ。未だ手を繋いだままの体勢だった為、オーストリアはしゃがみこむ少年に向かい、ゆるく体を傾けた。
「……痛みは?」
ぽつ、ぽつ、と落ちてくる言葉に、もうオーストリアはすっかり慣れてしまっていた。
「ない、ことはありませんが。大丈夫ですよ……ありがとう」
気遣いをくれたことに褒めるよう手を伸ばして頭を撫でれば、顔をあげたプロイセンはくしゃ、と顔をくずして嬉しげに笑う。なんだか、大きな犬を手なずけたような気分だった。よしよし、と髪を整えるようにもして撫で続けてやれば、ちょうど同じくらいの視線の高さの少年は、くすぐったげに身を捩って笑う。夕暮れが、二人の影を長く引き伸ばしていた。急がなければ夜だろう。ともあれ戻って来られたのだから、とオーストリアは思う。
急ぐことはない。もうすこし、この素直なプロイセンを堪能しておくのも悪くないことだ。
「……あの」
「ん?」
「もし……もしよかったら、今度、ゆっくり話を」
して、みませんか。『国』としてはなく、個人的に。もうすこしだけ、この穏やかな空気と関係を引きのばして、日常に導いて行きたい、と。その機能をオーストリアが口にして、プロイセンが困惑しながらも口を開くより、はやく。二人の影を叩き割りたがるように、声が響いた。
「マリア! ……っ、ああもう、プロイセン! こら!」
「ひぐっ」
びっくぅっ、と思い切り大きくプロイセンの体が震える。大慌てで少年が視線を向けた先、鈍く赤い光に全身を照らし出されながら、かけてくるちいさな影がある。兄上、とすこし懐疑的な動きで動いた唇が、夢から醒めたようにすっと息を吸い込む。
「兄上! ……兄上、神聖ローマっ!」
「……え?」
「ああ……やはり一緒だったな、お前たち。怪我は? 心配したぞ。聞いていたよりも到着が遅いから」
するりと繋いでいた指が解かれ、手が離されてしまった。それを知ったのは、森で繋いでから一度も手を離さなかったせいだ。オーストリアはややぼんやりと一人きりになってしまった手を見つめ、離れて『兄』の元にかけていくプロイセンの背を見つめる。森から出たのは、開けた平原だった。すこし歩けば街道に行きつくが、目的地をそこに設定していたことを考えれば、随分と離れてしまったらしい。視界の遠くに、街が見えた。
その街へ続いて行く道に、人影が見える。夕暮れのしっとりとした風に、スカートがたなびいていた。少女はそこに立ちながら、再会を果たす『兄』『弟』と、そしてオーストリアを見ている。心配をかけてしまったのだろう。戻らなければ、とオーストリアは思った。ざく、と草を踏んで歩きだす。その音にハッとして、プロイセンが振り返った。
「あ……」
「……お迎え、とは。彼のことでしたか。お久しぶりです、神聖ローマ」
ざく、ざく、とゆっくり歩んで二人の隣まで移動し、オーストリアは幼子に対して恭しく頭を下げた。普段ならば頷くか、さもなくば返礼を行うであろう幼い外見の『国』は、今はなぜか虫の居所が悪いらしい。ぎゅぅ、とプロイセンの手を握って目を細めたまま、吐息を漏らすことで挨拶を聞き流した。冴え切った氷青の瞳が空を動き、街道で待っている少女を睨みつけるようにして見る。兄上、とプロイセンの、不安がる呟きがもれた。
「……早く、行ってやれ。彼女は、お前を心配していた」
「そうですか。……ああ、プロイセン。彼の迎えのついでとはいえ、どうもありがとうございました」
「いや、いい。気にすんな。……アイツに会ったら、医者呼んで貰って、ちゃんと診てもらえよ?」
そういうプロイセンは、街道に誰が居るか知っているようだった。確信はしていないものの、遠目に誰だかすぐ分かったのだろう。それなのに、プロイセンは街道に背を向けて立っていて、視線を向けたがっていなかった。どことなく拗ねたような顔つきが不思議で、オーストリアはすこし首を傾げる。どうしたのですか、と聞いてやりたい。しかしそれを、神聖ローマが許すかは別だった。不機嫌な帝国は、場を立ち去りたいらしい。
プロイセンの自発的な意思に委ねてはいるものの、自身は帰りたくて仕方がないようだった。二人が出てきたばかりの森を、忌々しそうに眺めている。なぜこんなに不機嫌なのだろうと思いつつ、オーストリアは困惑気味のプロイセンに手を伸ばし、ぽんと音を立ててあるものを手渡した。ぱちんとまばたきをしたプロイセンが、手に押し付けられたものに視線を落とす。引きちぎられた釦だった。オーストリアの紋章が刻まれている。
「……これ」
「それを見せれば、何者かも咎められずに屋敷の中に入れます。……せめて、治療の礼をさせてはくださいませんか」
プロイセンは、それを投げ捨てることもできた。今までなら、確実にそうしていただろう。プロイセンはためらうように視線を彷徨わせ、自身から外してしまったことに気が付いたかのように、からっぽのてのひらをじっと見つめた。やがて、釦が握り締められる。わかった、と掠れた声は力な下げで、そんな苛めたい訳ではありませんよ、と息を吐き、オーストリアはプロイセンの頭を撫でる。ぽん、と撫でてから手を引き、微笑みかける。
「ありがとうございました。……彼女に、会っては行かないのですか?」
「……俺は、この方を迎えに来た。アイツは、お前を迎えに来た。だから、会わない。これで別れだ」
ここから先へ歩くのはお前だけだ、とギルベルトの目が言っていた。なぜかその意思に、オーストリアは返す言葉を持たない。永遠の別れに近いような、その覚悟をとうにしてしまっているような、そんな気配が垣間見える。それでも、釦は受け取ってくれたのだから。伝えたい言葉を見つけることもできず飲み込み、オーストリアはでは、と呟いて身を翻した。ゆっくりと歩いて行く足首に、すこしの間視線を感じたが、それも消える。
二人から離れ、オーストリアはハンガリーの顔がハッキリと見える位置まで近付いて行く。オーストリアさん、と言ったきり安堵で声が出ないような少女を見て、本当に心配をかけていたのだな、と思い知って。その時、大きな鳥の羽音を聞いた気がして振り返る。
「……黒鷲」
平原に、黒く長い影が落ちていた。プロイセンと神聖ローマ。大小の違いはあれど、それはまるで一対の羽根のようだった。黒い黒い、鳥の羽根。彼らはどこに羽ばたいて行こうというのだろう。オーストリアと、ハンガリーを、ここに残して。彼らは去って行く。それを引き留める術を、オーストリアは未だ持たない。
「……足首、怪我、したんですか?」
迷走しそうな思考を呼びもどしたのは、冷静に響く少女の声だった。はっとして正面を向きなおすと、ハンガリーは常にある微笑みを消し去り、無表情に近い顔つきでオーストリアの足首に巻かれた布を見つめている。それが、誰がどうして作ったものか分かるのだろう。ちりちりと空気に火花が散るような感覚に、オーストリアはぎこちなく口を開く。
「ええ……彼が、治療してくれました」
「そうですか。……一応お医者さま、呼びますね。でも、痛くないでしょう?」
アイツ、そういう治療とか本当に上手なんですよ、と。囁く声はそれを誇らしげにしているもので、それでいて、その事実をオーストリアが知ってしまったことに憤り、失望しているような奇妙なひずみを抱えていた。そうですね、とだけオーストリアは答える。確かに、さほど痛くはなかったからだ。沈黙が二人の間に下りるが、世界の暗さがそれを打ち破る。日が、もう暮れてしまった。ハンガリーは溜息をつき、微笑んで顔を上げる。
「帰りましょう、オーストリアさん」
「そう、ですね」
そっと差し出された少女の手を見つめ、オーストリアはそこに指先を落とす。二つのぬくもりは触れ合って、やがて、優しく握りしめられた。『少女』はそこに、重ねられていた『少年』のぬくもりを探すように。少年はそこに、触れ合っていた穏やかな熱を探し出すかのように。繋ぎ合せ、重ね合わせて、ゆっくりと平原から立ち去って行く。夜はもう、すぐそこまで来ていた。