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 呼んでくれたら どこへでも行くよ

 夢よ、花よ

 少女が、『国』としての己のかたちを身体に馴染ませることが出来たのは、ほんの僅か前のことだった。人の時にして数年前。時間という枠組みから外された少女たちにしてみれば、ぼんやりと繰り返した瞬き一つ分くらいの時間にしかならない。世界に、『人』とは違う存在として生まれ落ちてから、どれくらいの歴史が身に流れて行ったか、正確に把握できずに居る。それを呼吸と同じくらい自然に『理解』できて初めて、少女は『国』として一歩を踏み出し、自己の意識を確固たるものにできるのだろう。
 少女は二度、瞬きをして、未だ混乱の靄の中に居る胸をそっと手で押さえた。繰り返される鼓動ばかりが『人』と同じで、それは誇りに似た喜びと違和感を与えては消えて行く。少女は息を吸い込み、そしてか細く、吐き出した。少女に『国』として与えられた名を、『リヒテンシュタイン』と言った。少女の土地に住まう者たち独特の言葉で響きを表せば、フェアシュタツーム・リアハタシュタ、となるだろう。そのどちらの響きも少女の舌と耳に馴染みが良く、そしてまた、硝子越しに聞く猫の鳴き声のように余所余所しいものだった。要するに、その響きを持ってして区切られた土地でありすぎた少女は、独立国として、『国』として存在することに慣れていないのだ。
 馬とて、産まれてすぐに立ち上がると言うのに。少女は世界の息を吸い込むことすら、未だおぼつか無いでいる。こんなことではいけないのだ。こんな風では、いけないのだ。落ち込みそうになる気分を頭を振ることで浮上させようとすれば、結ばれていない髪がぱさぱさと揺れ動き、毛先が手の甲をくすぐった。遠くで、少女の名を呼ぶ声が響く。それに応えて姿を現し、こどものような真似をしてごめんなさいと謝ってから、この屋敷の主に挨拶をしよう。それが一番、『国』として相応しい振る舞いだと分かっていながら、少女は身をぎゅぅと縮こませ、息を殺して部屋の壁に身を預けた。閉ざされた瞼の向こう、すこしだけ開かれた窓から差し込む光は輝き、眩く、美しかった。
「……怖いの?」
 そっと落とされた声は唐突でひそやかで静かに響き、意識を夢に誘う子守唄にすら思えるようなものだった。リヒテンシュタインは、だからしばらく返事をせず、ややあってからハッとして瞼を持ち上げる。緑青色の瞳が声の主を求め、室内を不安げに彷徨った。コトン、と音がする。再び視線が向けられたのは、開け放たれた窓の向こう。中庭が望めるその場所に、誰かが立っているようだった。壁に背を預けた姿が、座り込む少女からもすこしだけ見える。けれど眩い光が深い影を落としていて、その者の年齢も、性別も、なにもかもを塗りつぶしていた。不思議と、怖くもなんともなかった。
 視線が交わったかどうかすら、定かではない。こちらから向こうが上手く見えないように、向こうからも、こちらはよく見えないのではないだろうか、とぼんやり思う。それなのに少女に語り聞かせる声は、優しく、柔らかく、穏やかな響きを帯びていた。
「怖くて、そんな所に隠れているの?」
「……いえ」
 不思議な響きの声だった。言葉を受け止めてなお、性別を少女に理解させない声だった。気遣いに満ちた言葉はゆっくりと、考えながら離され、リヒテンシュタインを怯えさせるまいとしているようだった。そんな優しさに、嘘をつくことはしたくなくて。少女は逆光に黒く浮かび上がるその人影に、ためらいながらも言葉を送る。不思議と、話を聞いてくれることは分かっていた。その為に、居てくれるような気がしていた。
「ただ、分からないのです」
「……なにが?」
「わたしが、『国』と、なったことが」
 言葉にして初めて、胸の霧が晴れるようだった。『国』であるか、『国』でないかの違いは単に守護する土地と民を持つことのみならず、独立国家として世界に認められているか否かも重要となってくる。リヒテンシュタインは、長く、一個人の領地であった。領地に人の形をした意思の具現が現れることは少なくはなかったが極めて稀であり、その存在がそのまま『国』となることなど千に一つもないだろう。現在、存在している『国』の成り立ちは、どれ一つとして同じではない。当たり前のことだ。しかし彼らよりリヒテンシュタインは『国』としての存在が若く、単なる領地の具現から、そうなってまだ日が浅かった。
 鮮明な夢から醒めたばかりの現実は、現実だと分かっていてもしばし混乱してしまう。リヒテンシュタインの状態は、それによく似ていた。現実は目の前に広がっているのに、吸い込む息一つすら、現実感に乏しい。ふわふわとしていて、ゆらゆらとしていて、全て、なにもかもが、どうしていたのか、どうすればいいのか、よく分からない。すこし前まで、少女はただの『リヒテンシュタイン』だった。夢から醒めた朝のような今、少女は『国』としてのリヒテンシュタインになった。その違いが、少女にはよく分からない。分からないのに、そう振る舞わなくてはいけない。そのことが、とても、とても怖い。
「どうすればいいのか……分からないのです」
 カタリ、窓が鳴る。柔らかな声の主が、壁から身を起こしたようだった。行ってしまう。呆れられたのだろうか。咄嗟に立ち上がろうとした少女を場に繋ぎとめるよう、変わらぬ穏やかさで言葉が降りる。
「分からなくても、大丈夫」
「……え?」
「だから、安心しておいで。可愛いお嬢さんなんだから、そんな薄暗がりにいつまでも居たら、駄目だよ」
 どこか遠くで、何者かを呼ぶ声がする。それはリヒテンシュタインとはまた別の誰かを探し求める声で、言葉は拡散してぼんやりとしか響かず、形を掴ませはしなかった。ふう、と仕方がなさそうに息が吐き出される。行かないと、と囁きに、リヒテンシュタインの胸が苦しくなる。
「行かなければ、いけませんか」
 ずうずうしいお願いだと分かっていて、少女は勇気を振り絞ってその影へと告げた。どうかもうすこしだけ、一緒に居てはくれませんか、と。性別も、年齢も分からないその影が、言葉に嬉しそうに笑み零したことだけ、なぜか伝わってくる。
「ごめんね。行かなければ。……君も、私も」
「……はい」
「すぐに会えるよ。……待ってるから」
 大丈夫だから、おいで、と囁きを残して、歩き去って行く足音が聞こえる。リヒテンシュタインは、それでもしばらくぼんやりと、窓から差し込む光を見つめていた。光は真っ直ぐな帯となって降り注ぎ、室内の埃を輝かせながら、変わらず眩く美しかった。先程よりずっと近くで、リヒテンシュタインを呼ぶ声がする。それに素直に、はい、と返事をして立ち上がったのは、待っているという声が背を押してくれたからに違いなかった。嬉しそうに綻んだ気配が、少女の胸を落ち着きなく弾ませていた。
 それからすぐ、リヒテンシュタインは柔らかな声の主と再会する。リヒテンシュタインが『国』として滞在する、屋敷の主の隣に、背を伸ばし、優しい微笑みを浮かべて立っていたその存在の名を、ハンガリー。リヒテンシュタインと同じ『国』として存在する、オーストリア帝国の守護者。草原の戦乙女だった。



 ドイツ同盟が結ばれたことにより、オーストリアの邸宅に身を寄せることとなった少女は、どうも己が『国』であるということに慣れていないらしい。ハンガリーがそうと気がついたのは少女が邸宅に身を寄せることとなった一日目だったが、それから数カ月を経過してなお、状態に変化は見られないままだった。当たり前のことかも知れない、と本棚の整理をしながらハンガリーは思う。数か月の時の流れなど、『国』の身にとっては些細なものだ。短いとは思わないが、絶対に長くはない。
 それくらいの時間で意識が変わるなどありえないし、それを可能とするのは人の心、それのみだろう。『国』の身に宿るそれは人と同じ感情でありながら、実の所、ものすごくよく似ているだけの別のなにかなのではないかと、ハンガリーは思っていた。それが宿っていないと不都合だからと、借りて来たもののようにも思える。だからこそ、リヒテンシュタインを『落ち着かせる』ことは国民にはできないし、ハンガリーにも難しいことだった。少女を招いたオーストリアにも、可能ではない。
 大体からしてリヒテンシュタインがオーストリアの邸宅に滞在しているのは純粋に土地としての位置が近かったからであり、ドイツ同盟として結ばれた『国』の意思統一、連絡をしやすくする為の事で、彼の帝国の支配下にあるからではないのだった。支配国であれば、オーストリアは導き手としてこの上なく良い相手であっただろう。『国』が自覚すべきこと、自負すべきもの、背負うこと、背負わなければいけないもの。それらをきっと、自然に教えることができただろう。けれどもリヒテンシュタイン侯国は、同盟に属している独立国なのである。独立国である以上、それは己で探って行かなければならないことであり、手助けをして良いことでもないのだ。
 あの少女は助けたとして、それを侮辱と受け取るような気性ではないのだろうけれど。どうしたものかと息を吐くハンガリーの腕から、ふと重みが消える。数冊のぶ厚い本はずっしりとしていて、抱えられはするものの、腕に負担が掛からない重さではない。取りあげられたことは幸いとするべきなのだが、ハンガリーは不満げに、うつくしく整えられた眉を寄せてみせた。気配を殺して傍まで来られたことへの抗議の意味合いもかねて表情をつくり、その上で睨みつける。
「来客の予定を、聞いた覚えがないんだけど」
「そりゃな。言ってねえもん」
「……誰かが訪ねてきた様子も、なかったんだけど?」
 反省の欠片すら見えてこない飄々とした受け答えは長年の付き合いのせいで予想の範囲内だったから、表情は自然と苦笑いになってしまう。それとも屋敷内のざわめきを聞き逃しでもしたのかと訝しみを感じているハンガリーに、プロイセンはひょいと肩をすくめてみせた。憎らしいことに、この数百年で身長はすっかり抜かれてしまっている。視線は傾いたまま、水平にならない。
「裏から入ったからな」
 少年の声は青年のものとなり、そして近年、男のものへと変わろうとしている。ハンガリーは幼馴染の声の変化に慣れない様子で眉を寄せたが、本人も似たようなものなのだろう。うっすらと寄せられた眉がハンガリーの透き通る滑らかな声と比べて際立つ差異を訝しんでいて、二人の間にはやや、沈黙が降りた。やがて無言で、プロイセンはハンガリーから取りあげたぶ厚い本を一冊、本棚へと戻す。掃除好き、整理整頓もきっちりこなす相手だから、ぐちゃぐちゃにしまわれてしまう心配はなかった。本は、収まるべき所に戻される。褪せた背表紙を見つめながら、ハンガリーは言葉の続きを唇に乗せた。
「裏口から入るのって、訪問じゃなくて侵入って言うと思うのよね」
「まあな。そういう言い方もできるよな」
「なにしに来たの? 侵入者さん」
 手頃な武器はないものかと視線を彷徨わせながら問いかければ、プロイセンはハンガリーからの攻撃を警戒したように目を細め、一瞬だけ息をつめてみせた。しかし、それだけだ。ハンガリーは帯剣していなかったし、あいにく、フライパンは台所で活躍している最中だ。殴るのに良さそうなのはプロイセンに取りあげられた本だけだったが、それは邸宅の主の蔵書である。無断で打撃用武器にして良いものではないので、ハンガリーは諦め、感謝なさいとばかり一瞥をくれてやる。プロイセンははいはいと言わんばかり苦笑して、また一冊を本棚に戻した。かすかな音だけが響く。
 邸宅の中であれば、『国』に監視は付けられない。それを監視とするか、護衛と思うか、世話係として受け止めるかは個々の感性だが、今日に限ってハンガリーは、それを監視と受け止めていた。それらは幸い、この部屋に近寄らない。一人で黙々と書庫の整頓をしたかったし、考え事もしたかったので、あえて遠ざけておいたのだ。もしそれを知って来たのだとしたら、プロイセンにはなにか考えがあるのだろう。時として狡猾にすらなる幼馴染が、けれど大体の場合はなにも考えていないことを思い出し、ハンガリーは肩に入れていた力を抜いた。馬鹿馬鹿しい。考え過ぎだ。
「プロイセン?」
「ん?」
「まだ、答えてもらってないわ。なにしに来たの?」
 耳に心地良い音を残して、持っていた本は全て棚に収まった。ぱん、と手を打ち鳴らして細かい埃を叩き落とし、プロイセンはじっとハンガリーを見つめた。嘘をついてしまおうか正直に言おうか、考えてるな、とハンガリーは思った。どちらを選ばれても、別に構いはしなかった。嘘をついたとて、その相手がプロイセンであるのなら、ハンガリーにはすぐ分かるのだ。男も、それは十二分に分かっている筈だった。だからこその従順を挟み、プロイセンはそっと、の苺色の目を細める。敵意のない様子に、ハンガリーは告げられるのが真だ、と判断した。
「リヒテンシュタイン、どうしてる?」
 そこで、お前に会いに来た、と言われなかったことに若干ガッカリした乙女心を力任せに殴って期待する方が間違っているつまり私が悪いのよ馬鹿と吐き捨て、ハンガリーは表面上、なにも衝撃を受けなかったかのように振る舞い、意味が分からないと首を傾げてみせた。ハンガリーが記憶している範囲で、この鈍感幼馴染があの可憐な少女に深く関わったことは無い筈である。それとも、わざわざ様子を見に来るような仲だっただろうか。面白くない気持ちで問いかけの視線を向ければ、プロイセンは複雑なものを目の当たりにしてしまった表情で沈黙し、そーっと口を開いた。
「ハンガリー」
「なによ」
「あれは、神聖ローマ帝国時代から存在はしてただろ? 兄上のトコでちょこまかしてたの、お前だって見てる筈だな? 思い出せ。今すぐに」
 言い訳を並べたてるような気まずげな口調に、ハンガリーはもう一度記憶を探ってみた。プロイセンが兄上、と呼んだのは今は姿を消してしまった神聖ローマ帝国の『国』のことである。あれ、というのはリヒテンシュタインのことだろう。考えて、ハンガリーはああ、と頷いてみせた。そう言えば、そんな姿を見た覚えがある。なんとなく思い出したことを察したのだろう。つまりな、と小首を傾げ、プロイセンは言う。
「純粋に、他意なく、あのちっこいのがどうしてるか見に来ただけなんだけど」
 隣人愛とか、保護者的な、なんかそんな気持ちがあった上で。呟き並べられた言葉に、ハンガリーは一応、納得して頷いた。姿は小さかったが、神聖ローマは面倒見の良い一面も持っていた。感情表現が不器用だったせいで万人に受け入れられていた訳ではなかったけれど、庇護下にある『国』であれば、慈しみ、見守ったことだろう。『国』として、その時点で不安定な存在であり、己の消失と共に独立を迎える存在だと、分かっていたのであれば、なおのこと不安と共に見守っていたのだろう。彼の存在を兄上と慕うプロイセンからしてみれば、亡きひとが可愛がっていた存在である。気になることは道理であった。
 そこまで慎重に考えて納得したので、ハンガリーはよし、と微笑んで幼馴染の胸倉を掴みあげた。反射的に怯えて逃げようとするのを許さず引き寄せ、ずいと顔を近付けて言い放つ。
「変な勘違いしてたら今すぐ思い直しなさい」
「……首、締まってんだけど」
「締めてるから締まるのは当たり前のことよね?」
 微笑みながら告げてやれば、プロイセンはごめんなさい勘違いとかしてません、と従順な言葉を泣きそうな表情で告げた。最初から素直にそう言っておけばいいのだ。満足して開放してやれば、プロイセンは首元に手を押し当てて深呼吸をし、なにか信じられないようなものを見る眼差しを幼馴染の女性へと向けた。
「……なんでお前、そうやってすぐ暴力に訴えようとするんだよ。おしとやかになったんじゃねえの?」
「締める程度で交渉してあげるくらいにはおしとやかになったと思わない? 思うわね? 思いなさい。あと暴力とかそういうことに関しては、この世界の誰に言われようとプロイセンにだけは言われたくないわ」
「正直俺はお貴族様の前でお前がかぶってる猫のぶ厚さに戦慄を覚える」
 きっかり一秒の笑顔の交わし合いを経て、ハンガリーは電光石火の早業でプロイセンの首に手を伸ばした。直に締める他無いと思ったからである。しかし残念なくらい、二人は幼馴染なのである。動きはしっかりと読まれていて、プロイセンの手のひらはしっかりと、ハンガリーの手首を掴んで食い止めていた。ぐ、ぐぐぐ、と力の押し合いが始まる。ちっ、と舌打ちを響かせ、ハンガリーは右のかかとを床から離した。踵の高い靴でも履いていればよかったと思いながら足を踏みにじろうとすると、ひきつった声でプロイセンが名を呼んで来る。
「あのな、ハンガリー」
「なに? 踏ませなさいよ」
「ぜってーヤだ。じゃなくて、だから、リヒテンシュタイン、どうしてるか教えろよ」
 このままだとまた喧嘩で終わるだろうが、と諭され、ハンガリーはそれもそうね、とプロイセンの首を絞めようとしていた手と腕から力を抜いてやった。喧嘩は、すでに日常の域である。幼馴染同士のちょっとした無言語交流とも言えるので、今更険悪な雰囲気になる筈もなかったが、用件を置き去りに初めてしまうのはよくないことだった。お互いにまた突き合わない適度な距離を保ちつつ、ハンガリーはそうね、と呟いた。
 うっかり真横に並んでいたりすると、意味もなく肘で突っつきあったり靴先で蹴飛ばし合ったりして喧嘩になってしまうのは、お互いに十分すぎる程理解していた。なんのかんのちょっかいを出してしまうのはもはや反射や癖に近いので、距離を開けるくらいしか、対処する手だてがないのが現状だった。
「怪我もなく病気もなく、体調不良もなく過ごしてはいるようだけど、時々塞ぎこんでる感じかしら。……『国』であることに慣れてない、というか、分からないとは言っていたけど……」
「……分からない?」
「ええ。それについては私より、アンタの方が詳しいんじゃない? 正式には『国』でなかった存在が、土地を得て国民を持ち、ついには独立した国として認められ、ようやく『国』となったことへの……違和感や、現実味のなさ、なんていうものは」
 それは生まれ落ちた瞬間から国土を持ち、民を持っていたハンガリーには今一つ理解してやれない感覚だった。かと言って、全く分からない訳でもないのが複雑な所だ。ハンガリーはかつて『男』だった。肉体的には端から女の性であったのだが、意識の上では完全に、逆の性別として幼少期を過ごしてきた。本来の性を理解し、受け入れることが出来たのは女性の感覚からするとほんの先日のことであり、今でもかすかに、己が『女』であることに漠然とした違和感が残っている。それはもう、己の意思ではどうすることもできない感覚だ。取り除こうとしてできるものではないので、ハンガリーはすっかり諦め、しこりを受け入れている。
 だって諦めるしかないのだ。ハンガリーの身体はどうあがいても『男』にはなれず、幼馴染のような肩幅もなければ身長もないし、腕の太さも手の大きさも違えば、声も低くならないし生えてくることもなかった。ハンガリーは『男』から『女』になったが、リヒテンシュタインやプロイセンは『広義に解釈すれば国として生まれ落ちた存在』から『国』となったのだ。存在としての変化は天と地ほどに違うが、それでも別のものから現在へと変わったという意味においては似たようなものだ。それでも、同一ではない。同一ではないからこそ、ハンガリーには分からない。同じ変化であるからこそ、プロイセンには理解できる。
 ちらりと投げかけられた視線を戸惑いながら受け止めたプロイセンは、淡く溜息をつくように呼吸をもらし、ゆるやかに、どこか優美な印象さえ受ける動きで首を傾げてみせた。ふぅん、と気のないような呟きが落とされる。そうか、と続いて紡がれた言葉は相手に対する興味を失ったようでいて、遠くからそっと眺め見守る、庇護の意思を秘めていた。
「……慣れるしかないからな。『国』であることも、そういう風に変化したことも」
「ええ」
「慣れれば、というか……気が付けばいいんだけどな、早く。きっかけとかそう言うのも無いものだから、その時が来るのを待ってやるしかないんだけど。本当は、とっくにできてるんだよ。『国』であることも。その存在として、どうすればいいのかも。どう振る舞えばいいのかも、本当はとっくに気がついていて、出来てるんだけど、自覚できないから苦しいだけで」
 本能だからな、と呟いたプロイセンに、ハンガリーはそれを正確に理解しないまでも、同意を示して頷いた。人が瞬きを、呼吸をするように、『国』がそれとして生きることはすなわち本能だ。分からないと思うのは、急激な変化をすでに完了させていたことを自覚できていないからで、それが不明である訳でも、出来ていないからでもない。リヒテンシュタインの振る舞いは多少幼い点もあれど、立派に『国』として存在しているもののそれである。そもそも本来、根源的な意味まで立ち戻るとするのなら、『国』の仕事は国民を愛することであり、国民に守られることである。
 己の名を持ってして呼ばれる大地を愛し、守護することであり、それ以外の政治的な動きは全てそうした方が生きやすいとする国民の、後付けの『仕事』でしかないのだ。リヒテンシュタインは国土に生きる民を心から愛するが故、『国』として立派にありたいと思い、その為に心を痛めている。その痛みこそ、少女が立派な『国』である証拠なのに。言って分かるものでもないしな、と息を吐くプロイセンに、ハンガリーはこくりと頷いた。言葉にして語り聞かせれば、文面上での理解はしてくれるだろう。けれども、それでは駄目なのだ。雨が大地に吸い込まれるように、ふとした瞬間、心がそれを受け止め、納得しなくては。
 気がつく、ということ。ごく単純で、難しいそれ。己が何年かかったかを思い返しながら渋い顔をするハンガリーの頭に、ぽんとてのひらが乗せられた。ぽんぽん、と軽く撫でて離れた手を唇を尖らせて睨み、ハンガリーはなによ、と言う。別に、と嘯きながら笑うプロイセンが、変化した己の性質を受け止め受け入れ、折り合いをつけるまでにかかった年月の長さを、ハンガリーは未だ知らないでいる。ただ、己がそうであったように。ひどく苦しんで、悲しんだ果ての現在であったということだけ、見知っていた。
 あの少女が、リヒテンシュタインが、そういう風でなければいい。見交わした視線に共通する意思はそれだけで、あとは何時もの通り、二人はどこか、喧嘩する材料を探して微笑みながら睨みあっていた。
「……オーストリアさんに、挨拶くらいはして行くでしょう? 音楽室に居ると思うわ」
「いや、リヒテンシュタインの様子見たら帰るけど」
「アンタね、それ本当に侵入者みたいよ? すくなくとも今はちゃんと同盟組んでるんだから、国民がなに考えてなに企んでいるのかは置いといて、挨拶くらいはしていきなさい。嫌な顔は……されないと思うけど、されたとしても、最低限の礼儀は通すものよ」
 分かったわね、と人差し指を突き付けながら言ってやると、プロイセンはなんとも嫌そうな顔つきになりながらも、分かった、とぼそりと呟いた。口に出した約定は違えない男だ。すくなくとも、個人として交わした、幼馴染との約束であれば。よし、と微笑んで満足げにするハンガリーを眺め、プロイセンはお前は、と言った。先の続かない、どんな意味にも受け止められる言葉だった。唇に力を込めて閉ざし、ハンガリーは本棚を眺める。部屋はしんとして、静かだ。
「……もうすこし、整理しないといけないから」
 ぽん、とてのひらがハンガリーの頭を撫でて行く。分かったと呟いて、プロイセンはちゃんと、部屋の扉へ向かった。背をぼんやりと見送りながら、ハンガリーは追求しない優しさに、胸を優しく引き裂かれるような、むず痒い痛みを感じて立ちつくす。いつからか、二人は離れてしまった。それはハンガリーが『離した』からで、プロイセンが『離れた』からなのだろう。引き留めるのも違う気がして、ハンガリーはただ、プロイセンを見送る。扉を開けて廊下に半分体を出した所で、プロイセンはひょい、と気軽な仕草で振り返った。
「無理すんなよ」
「……うん」
「また来る」
 じゃあな、と手が振られて、音を立てて扉が閉められた。規則正しく歩み去って行く音に、ハンガリーはこくり、と頷いて。うん、ともう一度だけ呟いた。

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