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 中庭は、花園と呼ぶにふさわしい姿を呈していた。季節ごとに咲く草花で満ち溢れ、緑を基調とした色彩の水面が風に揺れている。花は不思議なことに、相応しい季節より早く咲き、遅くに枯れて散りゆくという。前後合わせて二つ分の季節に揺れる花は、『国』が多数、一カ所に住まう弊害であり、祝福なのだろう。土地が彼らを喜んでいるのだ。この邸宅の中庭では、一つの季節、三つの時期の花が咲く。土が疲弊しなければ良いのですが、と苦笑した屋敷の主は、プロイセンの挨拶を受けた後、少女の居場所を告げるだけで案内はしなかった。貴方なら先導なくとも辿りつけるでしょうと言った横顔は半ば呆れながら、正面から訪れなかったことを責めていた。
 次は必ず正面の門から入りなさいと告げられ、約束したは良いものの気が乗らない様子で、プロイセンは回廊から直に続く中庭への道を踏む。淡く生え広がる草の土は、乾いていた。さわさわと心地良い音を立て、風が花園を渡って行く。飾り程度の煉瓦が並べられて繋がる道を無造作に歩き、プロイセンは目的の少女を見つけ出した。室内から、わざわざ運んで来たのだろうか。ちいさな椅子に腰かけて、リヒテンシュタインは本を読んでいた。ここからでは内容は分からない。ひどく集中している様子で、少女は視線を持ち上げなかった。足音を立ててやる気にもなれず、プロイセンはリヒテンシュタインに歩み寄る。風は、かすかな足音すら消してしまった。
 空には大きな雲が浮かぶ。良い天気だった。日差しは強すぎるような気がした。
「リヒ」
 声をかければびくんっ、と純粋な驚きで華奢な肩が震える。大慌てで持ち上げられた緑青色の瞳はくるりとして丸く、小動物のようで愛らしい。ぽかりとちいさく開いたくちびるが、プロイセンの名を綴った。
「……おひさしぶり、です」
「おう、久しぶり。ごめんな、驚かせて」
「いえ、気がつきもせず……」
 恥ずかしがるように指先で本のページを押さえ、少女は頬をうっすらと赤らめて言葉を口にした。気がつかせるようにはしていなかったと慰めを呟きながら、プロイセンはぽん、とリヒテンシュタインの頭に手を置く。ぐりぐりと撫でてやれば少女は肩をすくめるように身を縮め、明るい笑みを零してプロイセンの手首に指先を押し当てる。細く、しなやかな少女の指先だった。爪は透き通るような、白い貝殻の色をしている。
 ぐ、と押して退かそうとする動きに逆らわず手を離してやれば、少女はもう、と呟いて髪の乱れをそっと直し、本にしおりを挟んで閉じてしまった。そのまま、表紙の上に手が重ねられる。背筋をまっすぐに伸ばして、リヒテンシュタインはプロイセンを見つめた。
「ご用事をお聞きしても?」
「いじめられたりしてないか? リヒ」
 堅苦しくするなよ、と苦笑と共に指の背で軽く額を弾かれて、リヒテンシュタインはきゅぅと眉を寄せ、恥ずかしげにちいさく頷いてみせた。
「……はい。でも、どうしても緊張してしまいます。こうして、『国』としてプロイセンさんにお会いするのは、はじめてのことですから」
「ああ。でも、対して変わったトコねえだろ?」
 俺も、お前も。吐息に乗せて囁いた言葉はかすかに響き、けれども花園を駆ける風に攫われることはなかった。視線を彷徨わせ、俯いてしまうリヒテンシュタインの頬を指の腹で撫で、リヒ、とプロイセンは少女の愛称を口にする。きゅう、と力の込められた花色のくちびるが、ぎこちなく弱々しく、息を吸い込んだ。
「リヒテンシュタイン、です。もう、リヒ、じゃありませんもの。ちゃんと呼んでくださいまし」
「いいじゃねえか、呼び名くらい」
「……分かりました。マリアさまとお呼びします」
 怒ったとするよりどことなく拗ねた風に力の籠った瞳が、まっすぐにプロイセンを見てそう言ってくる。冗談じゃないと引きつった顔で嫌がるプロイセンに、リヒテンシュタインはハッキリと告げた。
「聖母マリア騎士修道会さま。ご用事は?」
「……あのな?」
「はい」
 にっこりと微笑むリヒテンシュタインは、一歩も引かぬ様子で椅子に腰かけていた。その佇まいは愛らしい少女そのものであったが、プロイセンが勝てる相手ではないのだった。
「悪かった。リヒテンシュタイン」
「……ふふ」
 素直に謝るプロイセンが可笑しかったのだろう。本の表紙から持ち上げられた両手が、つつましく、少女の笑う唇を押さえている。
「分かってくだされば、いいのです」
「……でもな」
「はい?」
 言い聞かせようとする口調に、リヒテンシュタインは口元を手で押さえたまま、ことりと頭を横に倒して見せた。長い髪が絹糸のようにしっとりと、服の上を滑って行く。手を伸ばし、本人の了承を得ないままに編んでやりながら、プロイセンは革紐を取り出した。
「呼ぶには長いと思わねえ? リヒテンシュタイン」
 編んだ髪の先端を、革紐で蝶々の形に結びつける。出来栄えを満足げに見やって、視線を持ち上げた。
「駄目か?」
「……皆様の前では、ちゃんと呼んでくださいね?」
 他の『国』と比べて考えれば、ほんのすこし長く、古い付き合いの相手だ。軽んじる意味もなく、他意もなく、ただそれだけの理由だからと願われてしまえば、嫌だと言い張る方が幼い行動のように思えてしまう。仕方なくそう言ったリヒテンシュタインに、プロイセンは穏やかな笑みを浮かべて感謝を告げ、少女の編んだ髪から指を引いた。
「もちろん、分かってるぜ」
「はい。……髪、ありがとうございます」
「ん。……ちょっとは慣れたか? リヒ」
 意味する所を考え、リヒテンシュタインはゆるく、首を左右に振った。それが『国』として在ることだとしても、この邸宅に住まうことにしても、到底慣れたとは言い難かったからだ。広く、美しく、壮麗なオーストリアの邸宅は煌びやかすぎて、リヒテンシュタインにはすこし、心休まらない。花園で過ごすのは、愛しき守護国の大地を思い出すからだ。草木と花が風に揺れる、素朴な小国。土地としてはすぐ隣にあるものなのに、なぜかひどく懐かしく思えた。一度、すこしだけ、様子を見に帰るのがいいのかも知れない。
 申し訳なさそうな否定に、プロイセンはそうか、と苦笑して場にしゃがみこむ。
「ハンガリーが心配してたぜ、リヒ。お前の元気がないってな。分からないって言ってたままだって」
「ハンガリーさんが……」
 少女が思い出すのは、あの日、オーストリアの隣で微笑んでいた『国』の姿ではなく、煌びやかな光に黒い影を落としていた、柔らかな声のあるじのことだった。どうしてもその印象が先に出るのは、出会った順番の問題なのだろうか。そうですか、と言葉をこぼし、リヒテンシュタインは溜息をつく。
「心配をかけてしまうのは、申し訳ないです……」
「……お前は本当良いコだな、リヒ」
 心の底からそう思っている溜息と呟きで、プロイセンはリヒテンシュタインの頭を撫でてくる。こども扱いしないでくださいまし、と言うのも諦めてされるがままになっていると、プロイセンは考え込む表情で少女の三つ編みを指で持ち、ゆらりゆらりと振っている。人の髪の毛で、手持ちぶさたに遊ぶのはやめてもらいたいものだった。もの言いたげな視線に気がついた様子もなく、プロイセンはゆる、と目を細める。
「甘えて、ワガママ言えばいいじゃねえか」
 どうしてそうしないのか、と暗に責めているような声の響きだった。するん、と三つ編みが男の手から逃れてくる。リヒテンシュタインは困惑したように、視線をゆらりと彷徨わせた。言葉が見つからない。
「……誰に、です」
「ハンガリーに、だよ。ハンガリーが、リヒのこと、気にかけてんのは知ってるだろ?」
 なにか不自由はしていないか、あるいは心細い想いをしていないか、不満を隠して押し殺してしまってはいないかと、女性が細かく心を砕いてくれていることは、リヒテンシュタインも知っていた。はい、と呟いて頷きながら、それでも少女が脳裏に描くのは黒いシルエットだった。あの日、あの時、あの場所で。もし偶然に通りがかったのではないとしたら、ハンガリーはなにを考え、どうして少女に声をかけたのだろうか。
 共に同じ場所で暮らすようになったからこそ、分かる。ハンガリーは意味もなく、オーストリアの傍を離れたりはしないひとだ。ハンガリーは光のように、影のように、風のように、歌のように、柔らかく穏やかにそっと、彼の傍で存在そのものを守護する戦女神だ。ゆるく、ゆるく目を細めて、リヒテンシュタインは息を吸い込む。鼓動が、苦しい程に弾んでいた。
 あの日の、眩いばかりの光が、まだ目の奥にこびりついているようだった。
「ハンガリーさん、は……不思議な方です」
「……そうか?」
「はい。オーストリアさんの隣におられる時のあの方は、美しい戦乙女その人に見えます。おひとりでいらっしゃる時には、大人の……落ち着いた、きれいな女性の方であるように思えます。それなのに……」
 続きを告げるのには、勇気がいった。とても大切な秘密を、そっと打ち明けるような気持ちだった。それでも言葉に出したのは、予感がしたからだろう。きっと、プロイセンは、知っている。リヒテンシュタインが見たあの影の印象を、幼馴染の男は知っているに違いないのだった。あの柔らかに響く、声のことを。
「私には、時々、あの方が……女性ではないように思えるのです」
 まっすぐに見つめてくる緑青色の瞳に、プロイセンはただ、そうか、と言って頷いた。動揺と反論がなかったことに、リヒテンシュタインは心のどこかが、焦げ付くような痛みを感じる。やはり、知っていたのだ。プロイセンは納得したように、それなら甘えたりすんのは難しいな、と息を吐きだした。
「アイツが居るから大丈夫かとも思ったんだが……そっか。……リヒの前だと、いつもそんな感じか?」
「いいえ、初めてお会いした時だけです。顔を合わせた訳ではなくて、その……私は部屋の中で、ハンガリーさんは部屋の、窓の外で、その時はお顔もよく分かりませんでしたし……」
 性別も分からなかった、と言葉にされなかった事柄を理解して、プロイセンはそうだろうな、と苦笑した。たぶん、それはハンガリーの無意識だ。男として振る舞うことを止めてしまった幼馴染は、意識して女性になろうとして、そうなってしまった。その上でそれが出たのであれば、『国』であることに戸惑う少女の姿に、いつかの己を重ね、揺らいでしまったからだろう。
「リヒ」
「はい」
「……分からなくても、大丈夫だからな」
 ハンガリーはなんていうか、そういうヤツだ、と付け加えられても、リヒテンシュタインはあっけにとられたように瞬きを繰り返した。その言葉が表す所はまるで別なのに、不思議なくらい、同じことを言う。くすくすと肩を震わせて笑って、少女は頷き、はい、と言った。ちくり、ちくり。どうしてか胸が痛んだ。どきどき、鼓動が弾む。どうしてだろう、と少女は息を吸い込んだ。嫉妬なんて、する理由はないのに。彼らは幼馴染だ。だからなのだ。だからそんな風に、一緒なのだ。言い聞かせて、言い聞かせて、リヒテンシュタインはもう一度、はい、と言う。プロイセンは苦笑して、リヒテンシュタインの頭を撫でた。



 幼馴染の裏口からの訪問を受けて数日、ハンガリーはプロイセンに対して頭痛を感じていた。大事なことは何時も、なにも言わない相手だ。それは分かっている。十分理解している。けれど一言くらい、相談するなり言い残すなりしてくれればいいのに、と思いながら頭の痛みと戦うのは、彼の国から秘密裏に届いた一通の書の内容にあった。手掛かりとなる宛名もなにもない、真っ白な封筒は人の手から人の手へ直に運ばれたもので、政治的な手順を一切踏むことなくハンガリーの手まで届けられた。そのことは悔しさのあまり頭痛を引き起こす原因にはならない。時々あることだ。
 問題は、その内容である。プロイセンが個人的によこした書の内容は、そういえばこないだ忍び込んだ時に気がついたんだけどよ、という気安い言葉から始まり、詳細に書き記された邸宅の図面へと続いて行った。基本的な線は黒で引かれ、要注意箇所は黄色を、即改善箇所は赤の点と線で描かれているそれは、邸宅の警備についての意見書だった。改善計画書、とも言う。これを私に一体どうしろと言うんだと思いつつ苦々しく読んで行けば、オーストリアには話通しておいたから渡しとけよ、今度行く時にはなんとかしとけ、との言葉で結ばれていて、ハンガリーは無言で机に手を打ちつけた。本人が目の前にいたら殴っていた所だ。罪状、八つ当たり。以上。
「……っの! ばかぁーっ!」
 はらわたが煮えるくらいに怒りを感じる、とはまさにこのことだった。いったいどうして、プロイセンなんかに警備の在り方を注意されなければいけないのか。というかそもそも、裏口から易々と侵入された時点で駄目な気はしていたが、あれに指摘されるとは本当何事なのか。どうしよう泣きたい。悔しさで泣きたい。呻きながらハンガリーは机につっぷし、室内に誰も居なかったことを心から神に感謝した。警備が平和ボケしていたとは思えない。盲点と死角が存在しているのを見逃していただけだ。それだけだ。それだけなのだ。
 気が付けなかった自分に対して真剣に落ち込み始めていると、ふと、扉の前に誰かが立っているような気がした。声はまだかけられない。躊躇っているようだった。ハンガリーは机から体を起こし、乱れた髪を簡単に手で整えながら首を傾げる。誰、と問いかけるより早く、扉を叩くちいさな音が響いた。
「ハンガリーさん……? リヒテンシュタインです、あの……なにか、音が。大丈夫ですか……?」
 お怪我は、と言葉を続けられて、ハンガリーは反射的に扉まで走っていた。鍵はかけていない。よかった、と思いながらすぐに開くと、少女はびくん、と驚きに肩を震わせてから視線を持ち上げ、ハンガリーを見てちいさく首を傾げてみせた。
「……あの」
「ごめんね、なんでもないの。ありがとう」
 まさか、プロイセンから嫌味っぽい手紙をもらって苛立ったので机を叩いた音でした、と言う訳にはいかない。ハンガリーはすくなくとも、リヒテンシュタインよりは大人の、女性の『国』である。余裕を持って接したかった。早口の誤魔化しにも、リヒテンシュタインは安堵したように微笑みを浮かべ、そうですか、と囁いた。空気をふわりとしか動かさない話し方に、ハンガリーは、この少女が声を荒げることがあるのかと疑問に思う。少なくとも、ハンガリーと同じような怒りの表し方をするとは思えなかった。大きな音がしたから心配になって見に来てしまっただけなのだと告げ、リヒテンシュタインはそれでは、と場を立ち去ろうとした。ハンガリーにくるりと背を向けた動きに、少女の肩で三つ編みが弾む。
 それを結ぶ革紐に見覚えがあって、ハンガリーは思わず手を伸ばしていた。
「あ……」
「……え?」
 気が付けば革紐を解くように指に引っ掛けていて、ハンガリーは気まずげに声をあげ、リヒテンシュタインは不思議そうに振り返った。緑青色の瞳がまるく見開かれ、ハンガリーの手をまじまじと見つめる。
「……なんでもなく、ないではありませんか」
「え」
「赤くなっています!」
 なんて、可憐に響く声なんだろう。ぱっと手を取られて怒られながら、ハンガリーが最初に思ったことはそれだった。少女の声は甘く、可愛らしく、清らかに澄んでまっすぐに響く。怒りの意思を灯しながらも、舌先で甘く崩れて行く砂糖菓子を思わせる音色だった。感動的に可愛らしい響きだった。思わず息を飲んだハンガリーは、手をぎゅぅ、と包み込むように握り締められ、くらりと眩暈を感じる。ハンガリーの手は、女性のものだ。そう大きくもないが、剣を握って戦う以上、淑女のそれよりは節くれだってごつごつしている。
 少女の手は、ハンガリーのそれより一回り半はちいさいだろう。成長途中の、華奢な可愛らしい少女の手だった。リヒテンシュタインとて、この乱世に生まれ落ちた『国』だ。剣を握ったことが無いとも思えないが、少なくとも差し迫った自衛以上の意味で武器を持つことはないのだろうと思わせる、柔らかな肌をしていた。貝殻や真珠を宿したような爪は薄く透き通っていて、薄い桃色に艶めいていた。『国』でも、こんな風に可愛らしくあることができるのだ。成長途中の少女であるからではなく、それはリヒテンシュタインだからこその可憐である、とハンガリーは思う。
 成長の過程で、ハンガリーはこんなにも可愛らしい少女であったことがない。外見がこれくらいの年頃であった時には、まだ男であろうとして剣を持って駆けまわっていた記憶があるので、間違いなかった。砂糖菓子の少女。リヒテンシュタインはまさにそれだった。
「……ハンガリーさん?」
 こてり、と不思議そうに首を傾げる仕草は愛らしく、ハンガリーの胸をときめかせた。抱きしめたくて仕方がないが、いきなりそんなことをしたら不審者だ。すー、と息を吸い込んで堪えて、ハンガリーはなに、と努めて冷静な声で問い返した。その受け答えが、打ちつけた手の赤さを誤魔化そうとするものだ、と思ったのだろう。むっとした顔つきで尖らされたくちびるは、ふっくらとした花びらの赤さだった。これは不味い。すごく不味い。どきどきしながら包みこまれた手を取り返そうとすれば、リヒテンシュタインは泣きそうな顔をしてむずがるように首を振り、下からじっとハンガリーを見つめてきた。
 これはなんの試練ですか神様。こんなに可愛い子に心配されたらもう俺だめなんですけど、と胸の中でひとりごち、ハンガリーはすー、と息を吸い込んだ。
「だ……大丈夫だから」
 ちょっと君の可愛らしさに、昔の『男』としての俺が若干恋に落ちそうなだけで。現状は女性であるハンガリーとして、全くもって大丈夫ではない状態に陥りながら、ね、と宥めるような微笑みを浮かべたが、少女は引きさがってはくれなかった。
「……では、せめて、どうして手を。……打ってしまったのでしょう? それなのに、大丈夫と仰った理由を教えてくださいまし」
「……君に心配をかけたくなくて?」
「ハンガリーさん。真剣に答えてくださいませね?」
 今現在は心から真剣にそういう理由であるのだが、リヒテンシュタインはますますむっとした顔つきをして、包み込む手にぎゅう、と力を込めてくる。教えてくれるまで、離して差し上げません、と告げられて、ハンガリーはその場にくず折れて泣きたくなった。ごめんなさいオーストリアさん、ハンガリーは心が男に戻りそうですリヒテンシュタインちゃん可愛い、と嘆きながら息を吸って、戦乙女は少女に目を向けた。
「……八つ当たりで」
「え?」
「苛々することがあって、八つ当たりで机を叩いただけなんだけど……心配かけて、ごめんね?」
 そんな乱暴な真似をしたと知られたくなくて誤魔化そうとした、とは言わなかったが、少女には分かってしまったらしい。目をまあるく見開いてまあ、と言った後、少女は口に片手を押し当て、くすくす、と肩を震わせて笑った。
「嫌なことでもありました?」
「……ちょっとね」
「ハンガリーさんも、そんな風に怒ったりするんですね。すこし、意外でした」
 その言葉が、もし、ほんの少しの失望と共に囁かれていたのなら、ハンガリーはきっとしばらく立ち直れなかったことだろう。しかし囁きは甘く、ほわりと空気を震わせるだけで、呆れの気配すら漂わせていない。リヒテンシュタインはハンガリーの手をそっと離し、歌うように言葉を響かせた。
「ハンガリーさんは……私の、憧れなんです」
「あ……こ、がれ?」
「はい。いつか……ハンガリーさんのような『国』になれたら、と思っています」
 素直に、まっすぐに、響く言葉が胸を打って行く。だから、そんな風にも怒ると知って、なんだかとても嬉しいです、と。告げられて、ハンガリーは少女に手を伸ばした。中途半端に解けてしまった三つ編みに指を伸ばし、ゆるり、ゆるりと解いて行く。
「どうして? ……あの時、声をかけたから?」
 それを、言葉にして肯定するのは初めてのことだった。あの日、あの時、あの場所で。名も告げずに交わされた会話は、その場限りのものだった。その後すぐにリヒテンシュタインはハンガリーを見つけ出し、視線でそう、と確信しただけで、あえて尋ねはしなかったからだ。ハンガリーもわざわざ、あの時声をかけたのは私よ、などと言いに行くことはなかった。リヒテンシュタインは困ったように眉を寄せ、しばし口ごもった後、言葉を発さずに首を左右に振った。
 沈黙の間に、ハンガリーは少女の髪を解いてしまう。絹糸のようにしっとりとした、指通りの良い金色の髪。編まれていたせいでゆるく波打つさまはいとけなく、あの日、薄暗がりの中に見た、不安げな少女の印象を浮かび上がらせた。明るい場所から見た少女は、夕暮れに残された光のようだった。輝き、煌き、それなのに暗闇に怯えて震えている。
「私は」
 大丈夫だと言ってあげたいのに、零れたのは別の言葉だった。
「あなたみたいな女の子に、なりたかったな……」
 それが叶わないのであれば、砂糖菓子のような少女を守る騎士でありたかった。どちらも叶う筈のない願いで、無いものねだりの望みだった。言葉の無いリヒテンシュタインの髪を指で梳き、ハンガリーは笑う。
「ごめんね、変なこと言って。……とにかく、大丈夫だから、安心して?」
 描いたことがある、夢の形。それに一度だけ触れることは許されるのだろうか。ゆるく目を細めて微笑み、ハンガリーは指先に絡めた少女の髪を口元に引き寄せ、唇を押し当ててから髪を逃がした。するりと指を抜け出た髪が、リヒテンシュタインの胸元を一度だけ打つ。
「心配してくれて、ありがとう」
 追いかけようとする動きを微笑みでその場に縫い止めて、ハンガリーは扉を閉めてしまった。さすがに鍵まではかけなかったが、開かないように手で押さえながら向こう側の気配に目を閉じる。少女は戸惑っているようだった。当たり前のことだろう。ごめんね、と胸の中でちいさく呟いて、ハンガリーはリヒテンシュタインがその場から立ち去るのをじっと待っていた。やがて、戸惑いながら足音が遠ざかって行く。じっと息をひそめてそれを聞き、ハンガリーは溜息をつき名がら扉の鍵を閉めてしまう。額を扉に押し当てながら、ずるずると、その場に座り込んだのは自己嫌悪からだった。全く、なにをしているのだか。
「どうして俺は男じゃないんだろう、なんて。……久しぶりに、思ったな」
 とうに性別は受け入れたつもりなのだが、そう願ってしまう気持ちだけは別なのだろうか。それともあの日、あの時、あの場所で。中々姿を現さないリヒテンシュタインを探して、部屋に籠っていることを知ったから、そっと様子を見ようと窓から部屋の中を覗いた瞬間に。薄闇の中、ゆらりゆらりと揺れていた緑青色の瞳に、囚われてしまったのだろうか。頭を抱えてしゃがみ込み、ハンガリーは唇を噛む。思い出すだけで鼓動が弾むだなんて、まるで、恋のようだった。
 あの日、巡り合った少女に。

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