リヒテンシュタインの顔見せ目的にしては、また随分と人数を集めたものだ。呆れ半分心配半分にマントをたなびかせ、プロイセンは人混みの中を縫うようにして歩く。着て来た黒を基調とした夜会服とは正反対の白い正装は、蝋燭の灯りを受け艶めいた光沢を生み出した。明らかにオーストリア専用である。服に着られない程度にしか着こなせない服で窮屈そうに息を吐き、プロイセンは視線を彷徨わせ、オーストリアの姿を探した。ああこれが良いでしょうこれにしなさいこれ以外は着ないでくださいと言い捨てプロイセンの顔面めがけて正装を放って寄こした男は、準備があるからと一足先に会場に向かってしまったのだ。おかげで、まだ文句を言っていない。
リヒとハンガリーはなに企んでんのか知らないが、とりあえず俺に迷惑をかけるのを止めさせろよと嘆かわしく呟き、プロイセンは訝しげに眉を寄せながら、音楽家の元へ歩み寄る。床を打つ独特の、硬質な足音ですぐにそれと気がついたのだろう。会話を打ち切ってくるりと身を翻したオーストリアは、プロイセンの格好に満足げに目を細め、微笑んだ。
「お似合いですよ、白」
「……色々言いたいことはあるが、とりあえず、なんでお前の服が黒で俺のが白なのか聞いて良いか?」
「たまには良いではありませんか」
気分転換と言うことにしておきなさい、と微笑むオーストリアが夜会で黒を身に纏うことは珍しい。『国』の衣装は公的な場であればある程上司の意思が絡んでくるので、オーストリアなりの鬱憤晴らしなのかも知れなかった。そう考えて、まあ良いかと思ってしまう自分の甘さに苦笑しながら、プロイセンは改めてオーストリアを見る。相変わらず美しく整った顔立ちをした、隙のない男だ。甘い相貌が笑みを刻めば、それだけで迫力がある。
「で、ワガママ言いやがったお前の上司は?」
「あちらに。……直接話しかけたりしないで、遠くからそっと眺めるだけにしてください、とは言いました」
「言うこと聞くのか?」
オーストリアの指先が示す方角に彼の上司を見つけ出しながら、プロイセンは訝しげに問いかけた。そうですねえ、とのんびりした口調で、オーストリアは微笑んだ。
「接触したら覚えてらっしゃい、とも言いました」
「……お前、実は相当怒ってんだろ」
「おや。どうしてです?」
機嫌が良さそうに見えませんか、とプロイセンを見てくる菫色の瞳は、あまりに鋭利な輝きを灯していた。いかに柔らかな笑みを浮かべていようと、仕草をゆったりとしたものにしようと、それが全てを裏切っている。プロイセンはぺちりとオーストリアの目元を手で叩き、そんな目しといてよく言うぜ、と苦笑する。音楽家はくすくすと肩を震わせ、にっこりと笑ってみせた。
「本意ではありませんから」
「今更だろ? 機嫌良くしとけよ」
「これで私の機嫌が悪いと分かるのは、あなたやハンガリーくらいですよ。安心なさい」
大体は微笑み一つで騙せますからね、と言って、オーストリアはプロイセンの肩に背をくっつけ、そのまま体を預けてしまった。これは遠回しに甘えられているんだろうかと自問し、プロイセンはそっと手を伸ばし、オーストリアの髪を整えてやった。高貴な猫をそーっと撫でている気分だ。疲れてんのか、と問いかければ、さほどでもありません、と声がかえる。
「心配することは、他にある筈でしょう?」
なら寄りかかってくるなと言いかけて、プロイセンは苦笑ひとつで諦めてやった。ハンガリーもお前くらい可愛く甘えればもっと言うこと聞いてやるのに、と思いながら視線を彷徨わせれば、瞬間、ざわめきが強く立ち上るのを感じる。舞い上がる炎のように。瞬間的な勢いは、刹那のままに消えて行く。オーケストラが音を収めるよりも素早く、乱暴に訪れた静寂に、プロイセンに凭れたままオーストリアが眉を寄せた。
「お下品な……」
「はいはい。そう言うなって。……来たぜ?」
出迎えに行かなくていいのかよ、と言いながら、プロイセンはオーストリアの頭をぽんぽんと撫でてやる。音楽家はこども扱いしないでくださいと言い放って眉を寄せただけで、撫でる手を押しのけようとはしなかった。二人はそれぞれの想いを込めて、静寂の原因を見つめる。ちょうど、プロイセンから奪い取った黒の正装を身に纏ったハンガリーが、恭しい態度でリヒテンシュタインの手をとり、微笑みを浮かべた所だった。少女は戸惑うように室内に視線をひと巡りさせた後、繋ぐ手だけを頼りにするように、指に力を込めて立つ。ぎこちなくハンガリーに戻って来た視線が、微笑みに出迎えられ春の陽のように緩むのを見た。
「……なあ、オーストリア」
「愛娘に嫁を取られ、嫁に愛娘を取られた父親の気分はきっとこんな感じですね……」
「言うなよ、なんか悲しくなってくるだろ……?」
深々と溜息をつきあって、二人はなんでこんな気持ちにならなければいけなくなったのか、諸々の原因を求めて上司たちを睨みつけた。そもそもを言いだしたのはオーストリアの上司であり、たまには良いんじゃないかと止めてくれなかったのはプロイセンの上司である。二人はやけに興味深げに男装したハンガリーと、手を引かれて微笑むリヒテンシュタインを見つめていた。好色な興味でなかっただけましだろうか。長く会っていなかった孫や、近所の美人を嬉しがる程度の興味らしかった。頭痛を堪えて額に指先を押し当て、オーストリアは嘆かわしく首を振る。
「そういえば『祖国ばっかりずるいよー、美人のお嫁さんと可愛い女の子に囲まれてさー』とか言っていた気がしますね……。囲った訳ではないんですが」
「俺もそういえばちょっと前に『うちの祖国は良い男ではあるんだけど女の子はいいよねー。柔らかくて良い匂いしてきゃっきゃしてるもんねー』とか言ってたのを聞いた覚えが……あるんだが……まさか」
「……疲れてたんですね、上司」
これを機に、上司の傍にもうすこし女性を増やしてあげるべきなのかも知れない、と二人は思った。未だ国際情勢が安定した平和を手に入れていない状況であるから、政府内の雰囲気もどこか物々しく、空気を華やかせる年若い少女たちや見目麗しい女性が少ないのは、本当にもうどうしようもないことなのだが。上司がへりくつを並べ立てたあげく、職権乱用に近い権利の行使で女性の『国』を愛でる最終手段に辿りつくまで、打つ手はいくらでもある気がした。同じ男として、可愛かったり綺麗だったり美しかったりする女性を眺めたいという欲望は分からないでもない。分からないでもないが、まんまと踊らされたことに気がつき、オーストリアとプロイセンは泣きたい気持ちで息を吸い込んだ。悲しいというか泣きたい。
当面の問題をすませたら二人で酒でも飲み交わそうと頷きあい、プロイセンはさてどう誤魔化したものか、と思い悩む。現場を見て居なくとも、この日、この場に現れることに、リヒテンシュタインは相当思い悩んだことだろう。ハンガリーが手を引いてなお、微笑みを向けられてそれでも、どこか怯えた様子を隠し切れていないくらいだ。オーストリアがようやく肩から離れたのに苦笑して、プロイセンはちょっと行ってくるぜ、と息を吸う。行ってらっしゃいと差し出された手のひらをパンと軽く打ち合わせ、プロイセンは振り返らず、考えとけよ、と言葉を放った。返事はなかったが、なんとかしてくれるに違いない。頭を働かせるのは得意な相手だ。
上司の安全を守る為に、申し訳ないが、あの二人に真相を知らせる訳にはいかなかった。
大丈夫、大丈夫。語り聞かせるように、囁くように、繋がれた手をそっと指先が叩いていた。緊張に冷たく汗ばんだ指先を手袋に隠しながら、リヒテンシュタインはそれに気持ちを繋ぎとめられ、震える息を吸い込んだ。場慣れしていない緊張感に加え、巣食った恐怖が足を竦ませる。周囲の光景がまるで目に入らない。ただ、微笑みを絶やさないでいてくれる、ハンガリーのことだけを見ていた。蝋燭の灯りを宿し、燃えるように輝く草原色の瞳。くすりと笑みをこぼして、ハンガリーは言った。
「もう十五分過ぎたよ。……あと四分の三だ」
「はい……」
「なにか飲む? お腹すいたりしてない?」
取ってくるよ、ではなく、一緒に行こうか、とハンガリーは誘ってくる。その気遣いをありがたいと思いながら、リヒテンシュタインは怯えた小動物のように、ふるふるふると首を振った。立ち止まることを恐れるように、ふわふわと進んで行く足取りが頼りない。ゆっくり手を引いて歩きながら、ハンガリーはそっか、と微笑した。嫌な顔ひとつせず、本物の騎士のように。男装の麗人はリヒテンシュタインの手を引き、傍に居てくれた。鼻と目の奥が、すこしだけ痛い。トン、トン、と指先が手の甲をそっと叩いて行く。鼓動よりゆったりと刻まれるそれが、秒針の早さだと不意に気がつく。
「ん」
ひょい、と目の前に差し出された水のグラスを受け取って、リヒテンシュタインは瞬きをした。ほぼ反射的にくちびるをつけて一口飲み込み、喉の渇きを自覚する。こく、こくん、と喉を鳴らして飲み込むのに安堵した視線を向けながら、プロイセンはさりげなく蹴飛ばしてこようとしたハンガリーの足を避けた。
「なにすんだよ」
「遅い。できる限り傍に居るんじゃなかったのか、お前は。どこでなにしてた」
「オーストリアの傍で様子見。あと、料理と飲み物持って来たんだよ。……リヒ、これ食え。上手いぞ?」
フォークに刺して口元に運ばれたのは、肉料理の欠片だろうか。一口大にされたそれを、リヒテンシュタインは素直に口に運ぶ。ぱくん、と食べる様子は大変愛らしかったが、プロイセンはしみじみと呟いた。
「大分判断力下がってるな……。休憩させてやれば?」
「今ちょっとそうした方がいいかもって思ったトコだよ。……お腹すいたよね?」
もぐもぐもぐ。ごくん、と飲み込んでしばし、リヒテンシュタインはハッと己を取り戻した。悲鳴をあげかけるがそれを遮るように口元にプロイセンの手が伸びてきたので、少女は大きく息を吸い込むに留める。頬が熱いと思うくらい、血がのぼるのを感じた。
「す……すみません……」
「……朝と昼、ちゃんと食べさせたか?」
「忙しくて、あんまり……悪かったよ」
空腹状態と緊張と恐怖心が折り重なって積み上がれば、それはもう仕方がないことだろう。落ち着いて食えよ、と言い含められて料理の乗った皿を渡され、少女は真っ赤になりながらもこくん、と頷いた。そこでようやく、ハンガリーと手が離される。咄嗟に向けてしまった視線は温かな笑みに受け止められ、大丈夫、と声なく唇が動かされた。傍に居るから、と告げられ、リヒテンシュタインはゆるゆると体の力を抜いて行く。
ハンガリーとプロイセンはリヒテンシュタインを間に挟むようにして立ち直し、それぞれ給仕から飲み物を受け取って、しばし唇を潤した。もくもく、一生懸命ご飯に集中しているリヒテンシュタインに視線を流し、ハンガリーは思わず深く、微笑んだ。
「……わざとだろ」
笑みを見咎めたプロイセンが呆れかえりながら呟くのに、男装の麗人は唇に人差し指を押し当て、ナイショだと言わんばかり目を笑みに緩めてみせた。ハンガリーが傍に居て、緊張しきった少女に食事を上手くさせられない、ということは通常ありえないのである。一緒に緊張してしまって頭から抜けていた、という可能性もあるが、それにしてはハンガリーに空腹で堪えた様子は見受けられなかった。可哀想なことするなよ、と溜息をつくプロイセンに、ハンガリーは申し訳なさそうに肩を竦めた。
「状況を忘れられる手が、他に思いつかなくて」
緊張で食べられる様子でもなかったから、無理に口にさせて気持ち悪くなっちゃうよりは良いかなぁ、と思って、と息を吐き、ハンガリーはグラスの中身を一息に飲み干した。プロイセンも全く同じ動作でグラスを空にする。二人は通りがかった給仕のトレンチに、空のグラスを叩きつけるようにして置いた。
「夜会の猛者に相談しろよ」
「猛者って誰よ」
「オーストリア以外に誰かいんのかよ」
祖国から言伝で参りました、と差し出された料理が盛られた皿を受け取り、プロイセンがハンガリーを馬鹿にするように言い放つ。ハンガリーはありがとうと伝えて、と料理を持ってきてくれた青年に微笑み、料理を荒々しくフォークで突き刺した。
「あんまり迷惑かけられないじゃない」
「あのな、お願いだから俺にも迷惑かけようとすんなよ」
「服剥いだだけじゃない。一々騒がないでちょうだい」
プロイセンが運んできてくれた一皿を食べ終わったリヒテンシュタインにも、オーストリアからの言伝を賜ったらしき女性が現れ、空皿を取りあげてしまう。代わりに受け渡されたのは同じように料理が盛られた一皿で、白い皿のふちにはソースで、『適度な所で二人をお止めなさい』と書かれている。視線をあげると、私はここで見守っていますよ、とばかり手が振られた。立ち去ろうとする女性に、リヒテンシュタインは思わず声をかける。
「あの。……ありがとうございます」
恐らくはオーストリア貴族であろう女性は、リヒテンシュタインに好意的な笑みを浮かべ、会釈をしてから立ち去って行った。思わずほっと息を吐くと、両側から伸びてきた手がそれぞれ頭を撫で、肩に触れ、まっすぐに伸ばされた背をぱしんと叩いた。
「よかったな、リヒ。ちゃんと出来てるじゃねえか」
「うん。今みたいに、お礼が言えれば大丈夫」
「なにか含む所があるのは私の気のせいなの?」
リヒテンシュタインはソースで書かれた伝言に視線を向けた後、プロイセンの服の裾を引っ張った。自然とハンガリーの目も向けられたので、少女は伝言をそのまま、二人に見せてから駄目ですよ、と囁く。二人は苦虫を数匹纏めて口に突っ込まれたような表情で沈黙し、やがてかたく握手を交わし合う。今日はこれくらいにしてやるよ、という意思を確認して、プロイセンは皿に残っていた料理をまとめて口の中にかきこみ、唇を指で拭ってからさて、と言った。
「じゃ、俺そろそろ行くな。あと十分、頑張れよ」
「……十分?」
「あっと言う間で、よかったな」
後はよろしく、とばかりハンガリーに手を振って、プロイセンは立ち去って行く。ハンガリーは感謝しているような、複雑そうな息を吐き出し、空になった皿を近くの机の端に置く。リヒテンシュタインも同じようにして、二人はしばし、満ちた息を吐きだした。ふとハンガリーに顔を覗きこまれて、少女は息を吸い込んだ。なにか粗相をしてしまったのかと思っていると、それまでとは違う、柔らかな笑みでよかった、と呟かれる。
「もう、緊張してないね」
「……はい」
不思議な気持ちで頷いた。まだ心の奥にじりじりと怖い気持ちが残っているが、無視できないものではなかった。大丈夫です、とリヒテンシュタインは笑う。
「もう、大丈夫です」
「よかった。……さ、帰ろうか」
時間だよ、と言ってハンガリーは手を差し出して来る。指先を滑り込ませるように触れ合わせて、リヒテンシュタインはしばし、思い悩む。手を引くことなく微笑んで、ハンガリーはどうしたの、と訪ねてくれた。それに勇気を得て、リヒテンシュタインは顔をあげる。
「……私は」
まっすぐに見つめ返してくれる草色の瞳が、ゆるく鼓動を速めて行く。泣きたい程の自覚が、すぐ後に来た。リヒテンシュタインは大きく、息を吸い込む。
「私は『国』です。だから……頼るのも、甘えるのも、今日までにします。もう……大丈夫です」
「……そう」
残念がっているように聞こえたのはうぬぼれ出なければいい、と少女は思う。守りたいと、連れ出したいと願ってくれた意思が。待っていると告げてくれた言葉が、本当に、今も輝いてくれていますようにと、思う。
「ハンガリーさん」
「うん?」
「……一曲だけ、踊ってくれますか?」
リヒテンシュタインも、ハンガリーも、『国』だ。己の騎士を慕う少女のように振る舞うことは本来なら許されないし、あっていいことではない。けれど、本物の騎士のように少女の傍にあった女性は、甘く柔らかな笑みを浮かべて頷いた。
「もちろん」
「あ……」
感謝を告げようとしたくちびるは、そっと触れて離れて行った人差し指で封じられる。少女の手を取って軽く口付け、ハンガリーはありがとう、と囁いた。指を絡めるように繋ぎ直し、ハンガリーは静かに囁く。
「私と、踊ってくださいますか?」
一夜限りの、私の姫君。本当の騎士みたいだ、と喜びに煌く瞳を見つめ返しながら、リヒテンシュタインはそっと、繋がれた手に向かって囁いた。
「……あなたは私の……本当の騎士さま、です」
返事はなかった。ただ強く、痛いほど繋がれた手が言葉の代わりのようだった。踊ろうか、と囁く言葉に、リヒテンシュタインがはい、と答える。それがその夜、騎士と少女に交わされた、最後の言葉だった。
配布された資料を机に打ちつけて整えながら、ハンガリーは会議場をぐるりと見回した。予想以上にまとめに時間がかかってしまったからか、すでに残っている『国』はまばらで、緊張した空気はすっかり消えてしまっている。会議は今日で終わりだったから、何人かはすでに繁華街に繰り出しているに違いない。ハンガリーも、目をつけていたワンピースをもう一度見に行こうと思いつつ、書類をクリップで留め、楽譜の暗記をしていたオーストリアに差し出した。
「お待たせしました、オーストリアさん」
「いつもありがとうございます、ハンガリー……今日はこれから買い物でも?
「はい。街を見てから帰ろうかな、と思います」
実は狙っている服があるんですと囁けば、オーストリアは柔らかな微笑みで買えると良いですね、と頷いた。
「私はピアノを弾いてから帰宅しますので……」
「あ、携帯電話、持って行きますから。電話してくだ」
「俺様の出番のようだなー!」
残り数人となった会議室の扉を派手に押し開けて、プロイセンが入って来る。やーい、迷子迷子とこどものように詰ってくるのをぶん殴り、ハンガリーは首を傾げながら問いかけた。
「家で寝てたんじゃなかったの?」
「おま、おまええぇ……! 考える前に! 反射で! 殴るの! やめろよ!」
「うるさい」
もう一回殴れば静かになるかしらと笑顔で問いかけると、ギルベルトは即座にごめんなさいと謝って来た。素直で大変よろしい。満足げに頷きながら、ハンガリーは改めてそれで、と訪ねてやる。
「なぁに、プロイセン。オーストリアさんのこと、送ってくれるの? どういう風の吹きまわし?」
「……たまには一人でゆっくり買い物したいんじゃないかと気を回した俺が馬鹿だった」
なんでお前昔からそうやって俺にひどい態度なんだよ、とうろんな目を向けてくるプロイセンに、ハンガリーは輝かんばかりの笑顔を見せてやる。
「幼馴染ですもの」
「俺はたまにお前の幼馴染を辞めたくなる」
「はいはい、ごめんね。……オーストリアさんのこと、よろしくね?」
プロイセンが一緒に居てくれるなら安心だな、と付け加えると、満更でもなさそうな表情で任せておけと頷かれる。この単純さがものすごく可愛い、と思いながら肩を震わせて笑って、ハンガリーは言葉に甘え、オーストリアを後に残して会議室を出て行く。知らぬ間に凝り固まった体を伸ばしながら歩いて行くと、ラウンジの広めの机を前に、難しげな顔をしている少女がいた。
「……リヒちゃん」
なにしてるのかしら、と思いかけ、すぐ理由に思い至ったハンガリーは、静かな気持ちで微笑みを浮かべる。本来なら可愛らしいティーセットが並んでいてもおかしくない机の上には、分解された銃が部品ごとに並べられている。一つ、一つ、汚れを拭いながら点検している仕草は慣れたもので、リヒテンシュタインが銃器に精通していることを伺わせた。武器として実際に使用するならハンガリーに一日の長があるが、仕組みそのものであれば、リヒテンシュタインに叶うのはスイスくらいのものだった。忙しく動き回る少女の手は相変わらずちいさく、華奢で、白くて柔らかそうだった。
攻撃の為ではなく自衛の為であるにしろ、少女が扱っているのは紛れもなく武器である。己を守り、他者を傷付けるもの。それを理解していながら、リヒテンシュタインは己の手に銃を持つことを選び取った。傷付けてしまうことが怖いと訴えた少女は、自覚ある『国』となった。もうあの日のように怯えることはないだろう。疲れているのか、すこしだけ感傷的になっている気持ちに苦笑しながら、ハンガリーはいつの間にか現れたスイスの指導のもと、素早く銃を組み立てるリヒテンシュタインを眺める。ふむ、と満足げにスイスが頷いた。
「上出来である」
「ありがとうございます、兄さま」
いつの間にかリヒテンシュタインの守り役をスイスに取られてしまったと思うのは、ハンガリーの感傷だろう。様々な国際情勢と歴史が、二人を『国』としてかたく結びつけたのだ。公私共に兄妹のように仲が良い二人を、微笑ましく思うことはあっても、ずるいと思ってしまうのは筋違いだった。分かっていても溜息をついて、ハンガリーはホテルの出口に向かって歩き出した。今度、女の子たちでお茶会でもして、恋の話でもしながら笑い合おう。その時は絶対にリヒテンシュタインも呼んで、ケーキでも食べれば、このモヤモヤした気持ちは消えてしまう筈だった。今更、本当に今更、リヒテンシュタインをスイスに取られてしまって寂しいだなんて、思い続けたくはない。ふと、振り返って少女を見る。
リヒテンシュタインは、光の中にいた。煌き、眩く輝きながら降り注ぐ陽光を体いっぱいに浴びて、くすくすと笑いながらスイスに何事かを囁いている。あの日、薄闇の中から光を見つめていた少女は、どこにも居ない。ふ、と笑って身を翻しかけたハンガリーと、顔をあげたリヒテンシュタインの視線が重なる。不意に、時が止まった。物音が消えて、世界がひとつの所へ集まって行く。緑青色の瞳が、幸福そうに微笑んだ。
ハンガリーさん。ふわり、耳元を声が掠めて行った気がして、ハンガリーはまぶしく目を細める。なんだ、と思った。そうだよね、とも、思う。あの日、あの時、あの場所で。巡り合った少女が、そこに居た。その存在を守りたいと、願い。光の元へ連れ出したいと、願い。待っていると差し出した手に、触れてくれた。ハンガリーを騎士としてくれた少女は、あの日の望みを全て叶え、明るい陽の元で笑っていた。またね、と唇を動かして手を振れば、リヒテンシュタインはちいさく頷き。はい、と囁いてハンガリーを見送った。