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 ふわり、ふわりと花びらが空に泳ぐたおやかな動きで、少女の視線がハンガリーに向けられた。夜に咲く緑青色の瞳は、真昼の光の中にあるより瑞々しい輝きを宿しているようだった。宿る色彩も、熱を持たない月明りにこそ似合う気がした。赤いくちびるが、ハンガリーの名を呼ぼうと、その形に動く。
「……ハンガリーさん」
「なに?」
「自信が、持てなかったことはありますか……?」
 告げてから、なにを言っているのだろうと恥いるように、少女の頬がほの赤く染まる。緑青色の瞳が淡く後悔に揺れ、夜とは思えぬ明るさを彷徨った。
「……私は」
 それでも言葉は、留まることの出来ない水のように、ただ清らかに流れて行く。
「たくさん、憧れる、ばかりで……すこしも」
 こんな風に悩んだことはあっただろうか、とハンガリーは自問し、すぐに微笑みすら浮かべて否定した。ハンガリーは必至だった。守ることと、戦うことと、生きること。強くなること。そうすることばかりに必死で、揺らぐことがあっても、己の胸に内在する誇りに背くことだけはしなかった。自信があるか、ないかなんて、そもそも考えなかった筈だ。その言葉自体と、ハンガリーは出会わなかった。憧れはあったかも知れない。けれどもこんな風に、苦しむものではなかった筈だ。ハンガリーはリヒテンシュタインの座る椅子の前にそっと膝をつき、少女が感情にあてはめられる言葉を探しながら息を詰める様子を、不思議に静かな気持ちで見守った。
 こんな風に生き悩む『国』を、ハンガリーは今まで見たことがなかった。成長期において傍に居たのはプロイセンであるのだし、周囲の大人の形を取る『国』たちは、もはやそんな悩みとはまるで別の場所に居たからだ。ハンガリーは本当に、本当に不思議な気持ちでリヒテンシュタインを眺める。これはまるで、ひと、のようだ。それとも存在し初めてまだ長くはない『国』だから、こんなにも『ひと』のようなのだろうか。答えなど知れなかった。
「……リヒテンシュタイン」
 名を唇に乗せれば、それでも確かに、少女は緑青色の瞳をハンガリーに向ける。混乱と戸惑いに揺れる瞳の奥に、少女の心を苦しませる理由が見えた気がした。
「焦らないで……大丈夫」
「でも」
「あなたは『国』よ。私と同じ、『国』。確かに国土を背負い、国民を守護し、愛する者。私たちは……私たちが『国』であると定義するのは必ず、私たち以外の誰かで、それでも産まれてくる時に、必ずそうであるとは限らなくて……あなたや、プロイセンみたいに、時期が過ぎなければそうなれない存在も多くあるけれど。……胸を張っていて、いいのよ」
 夜会で少女に投げかけられた言葉の一言一句を正確に、ハンガリーは知る訳ではなかった。人の口を伝い、伝い、ハンガリーの耳に入ったそれはもはや大まかな内容でしかなかったのだろう。
「中途半端な……『国』でもない存在、だなんて。言われたら、私たちは、怒っていいのよ」
 その言葉にリヒテンシュタインは、その時は独立国として認められていなかった『存在』は、微笑みを浮かべるだけであったという。一言も、言い返すことはなく。睨むでもなく、無視するでもなく、挑むことなく、逃げるでもなく。場に、あったという。『国』となった少女を前にして、ハンガリーは初めて知る。争わなかったのではない。少女はきっと、争えなかったのだ。その声は戦場を駆け抜ける雷鳴には成り得ない。それは少女が月明りで描く刺繍にこそ似ている。リヒテンシュタインの声は花園のように色彩に満ちた幸福と愛を歌い、身も心も優しく包み込むものだ。
 戦えない少女は剣を持てない代わり、盾も持たない。長い沈黙の後、ハンガリーは問いかける。
「……夜会、怖い?」
「……はい。とても」
「オーストリアさんは目を光らせてくれるって言ってるし、プロイセンは傍に……常にじゃなくてなるべく、なのは仕方がないけど、居てくれるって言ってるわ。それでも?」
 控えめな動きで、少女は頷いた。罪悪感でも持っているに違いない。心を傷つけられた痛みと恐怖は、そう簡単に消えるものではない。だから別に、悪いと思わなくてもいいのに。仕方がないなぁ、と苦笑して、ハンガリーは少女の目を覗き込むように問いかける。
「はじめて会った時、『国』になることが……なったことが、かな。分からないって言ってたのは?」
「え?」
「分かるように、なった?」
 問われて、リヒテンシュタインは軽く目を見開いたまま、ふるふると首を振った。ここの所、別事で悩み過ぎていたので、その混乱が心を掠めることがなかったからだ。『国』になったことが、どういうことなのか。未だ分かる訳ではないのだけれど。
「忘れて……いました。でも、分かりません」
「うん」
 眩しげに目を細めて、ハンガリーは笑った。
「うん。分からないで、いいんだよ。大丈夫」
 大丈夫、大丈夫、と何度か歌うように囁いて、ハンガリーは折り曲げていた膝を伸ばし、立ち上がった。
「忘れられるくらいなら、もうすこしだから」
「……はい」
 不安の意思をちらつかせながら、リヒテンシュタインは従順に頷いた。それを見て、立ち去ろうとしていたハンガリーはしばし、悩む。言葉にして確認した通り、夜会でオーストリアが少女を、ある意味見張るのを知っている。あの割とどうしようもない幼馴染も、こと守護にまつわる約束ならば守る相手だ。殆どの時をリヒテンシュタインの傍らで、盾となって過ごすだろう。少女を守る盾は二枚、用意されている。どちらも歴戦を潜り抜けた盾で、どんな衝撃にも傷ひとつつきはしないだろう。心配することなどないのだ。本当は。思いつつ、ハンガリーはゆるく目を細めた。
 月明りを浴びながら刺繍をする少女は、椅子から立ち上がる気配を見せなかった。屋敷へ戻る素振りのハンガリーを見送る微笑みで、どうしたのかと微かに首を傾げている。少女を守る盾は傷つかない。けれど彼らは、それぞれの立場がある。守ることは出来ても少女の手を引いて逃げることも、耳を塞いでやることもできまい。少女には戦う剣がない。そして戦う術を知る二人は、それぞれの立場から決してそうはなれないのだ。リヒテンシュタインが鈍く、目を細めてハンガリーを見つめる。眩い月はハンガリーの背後にあったから、ちょうど女性の影を受け、リヒテンシュタインは薄闇の中に閉じ込められてしまったようだった。
「……ハンガリーさん」
「……ん?」
 不意に零れた名に問い返せば、少女はふるふる、と首を振った。なんでもありません、と囁く声は砂糖菓子のように甘く響き、胸の奥深くで消えて行く。守りたいと思ってしまうのは、傷ひとつ付けたくないと思うのは、幸せだけをてのひらに降らせてあげたいと思うのは、どうしてなんだろう。ハンガリーは泣きそうな気持ちで息を吸い込み、少女の前に片膝をついた。下からそっと、瞳を覗きこむ。淡い戸惑いに揺れる緑青色の瞳は、陽光よりも優しい月明りが似合う気がした。リヒテンシュタインの手に触れながら、ハンガリーは唇を開く。いつか、いつでもいい。今日を思い出す、遠い、遠い、幸せな未来に。この夜が、どうか。
「あのね……?」
 暗闇の中に落ちる、金の砂になりますように。
「……貴女を、守ってもいいかな。お姫さまの、騎士みたいに」
 いつか、貴女を本当に守ってくれる人が現れるか、貴女が、自分で自分をちゃんと守れるようになるまで。囁きに、少女はゆらりと瞳を戸惑わせた。どうしてか、拒否されるとは思っていなかった。リヒテンシュタインは眩しいものを見つめるように、眉を寄せる。細い指先が震えながら、ハンガリーの手を握り返した。
「……夜会には、ハンガリーさんも出席しなくてはならない筈です」
「風邪を引くことにする」
「オーストリアさんの、ご迷惑になります……」
 折れそうな指だな、とハンガリーは思う。この手に武器を持たせたくない者はたくさん居る筈だ。
「大丈夫。何度か欠席したこと、あるから」
「そういう意味では……」
 震えながら、戸惑いながら、リヒテンシュタインはハンガリーを突き放そうとはしなかった。真珠色に磨き上げられた爪が、手の甲を弱く傷つける。痛みはなかった。けれども痛いように、ハンガリーは微笑む。
「ためらう理由がそれだけなら、私をどうか、受け入れて。……君を、どうか……連れ出させて、欲しい」
「……連れ、出す?」
「夜が似合うね、リヒテンシュタイン。薄い静かな暗闇の中で、きらきら輝く光みたい……」
 指先まで白く、白く。籠められた力は無意識のようで、ひたすらに痛々しかった。ねえ、とハンガリーは囁く。目を伏せ、繋いだ手を額に押し付けて。祈るように、息を吸い込んだ。あの日、あの時、あの場所で。どうして問いを向けてしまったのか、その理由をようやく理解する。光の中で笑って欲しかった。言葉にすれば、きっと、それだけだったのだ。
「ずっと、待ってる」
「……ハンガリーさん」
「君を待ってる。いつまでも夜の夢の中にいないで、朝に、おいで……。怖くないように、私が守るから。君が一人で笑えるようになるまで、一緒にいる。君が呼んでくれたら、どこへでも行くよ。……分かる、分かってる。怖いよね。今まで『国』なのに、そういう風に生まれてきたのに、誰も認めてくれなくて。必死に、一生懸命頑張って、ようやく『国』になれたばっかりで、なれたのは本当のことなのに、リヒちゃんにはなんにも変化がなくて、本当になれてるのかなんて分からなくなっちゃうよね。だって、ずっと、『国』だったもんね。『国』だったのに違うって言われて、『国』だったのに、今からそうなったんだって言われても、戸惑っちゃうよね」
 血を吐くような混乱の叫びが耳の奥で蘇るのは、かつてそれを聞いたことがあるからだった。土地があり、人が住み、統治されてようやく、その場所は国になるという。彼らがすでに、存在していたとしても。そうなるまで、人は彼らを正式な『国』と呼びはしない。
「……だから、だから……本当に。分からなくて、いいんだよ? 分からなくて、大丈夫なんだよ……?」
「……怖いんです。でも、怖いんです。私はなに一つ変わらないのに、領地であった時からなにも、中途半端だと告げられた日から、なにも、変わっていないのに。ど……どうしようって、思うんです。もし、もしも、誰かにまた、そんな風に言われたら……」
 怖いんです、と震える手に力を込めて、少女は苦しく言葉を紡ぐ。それでもか細く、優しい声で。
「誰かを、傷つけてしまいそうで……!」
「リヒちゃん」
「ずっと……ずっと愛しています。この気持ちになにも変わりはないのに、あの日は我慢できたのに……今また、そんな風に言われたら、私は、私を『国』としてくれた国民を、愛しているからこそ」
 許せなくなる、そのことが怖い。傷つけてしまう、そのことが怖い。許せなくなることも、傷つけてしまうことも、これまでには無かったからこそ。本能的な防衛と敵対心の赴くまま、体は動いてしまうだろう。そんなことはしたくない、とむずがるように口にする少女に、ハンガリーは微笑んだ。
「君は誰も傷つけたりなんかしない。約束する」
「……ハンガリーさん?」
「許せなくなる前に、傷つけそうになる前に、君から、誰かを、守ってあげる。誰かから君を守るのは、あの二人に任せようね。彼らは君の守護者、君の盾。私は……貴女の剣。許してくれるなら」
 誰も傷つけたりしないように、手の中で優しく、貴女のことを守ってあげる。囁くと少女は泣き笑いの表情で唇を和ませ、ゆるりゆるりとてのひらから力を抜いた。ハンガリーさん。柔らかに名を囁かれて、ハンガリーは額から手を離し、ゆっくりと目を開けた。緑青色の瞳がきらきらと、輝きながらハンガリーを見つめている。まばゆいひかり、そのものだった。
「……この夜が明けるまで、ともに、踊ってくださいますか?」
「ええ。もちろん、喜んで」
 リヒテンシュタインはそっと目を細めて微笑み、ハンガリーに与えていた手を引き抜いた。少女の視線はハンガリーが立ち上がることを望んでいなかったので、膝を折ったまま、視線で動きを追う。力の入れ過ぎで強張った指先が、どこかぎこちない動きで、迷いながら刺繍針を布から引き抜いた。花を描いていた針から、赤い糸が伸びている。リヒテンリュタインは針を指で摘んで持ち、それを動かないハンガリーの肩に押し当てた。少女は悪戯っぽく微笑み、くちびるを開く。
「……我、汝を騎士とせん。これより、汝が定めしその時まで、いさましく、礼儀ただしく、忠誠であれ」
 ハンガリーが息を吸い込むよりはやく、動いた指先が肩から針を遠ざける。布から続く糸をたわめて、少女は針にそっと、くちびるを押し当てた。



 脱げ、と笑顔で言われた瞬間にいろんな事を期待してしまった自分を心の中で散々に殴り倒し、アイツに今更どんな望みを持つつもりなんだ俺の馬鹿と吐き捨てて、プロイセンは現実世界へと意識を引きもどした。白昼夢とかそういった類の幻覚症状で合って欲しいという祈りはあっけなく打ち砕かれ、プロイセンは笑顔で胸元をねじり上げるようにして顔を寄せるハンガリーに、あのな、と控えめな声をかける。
「いつから出迎えの言葉が、脱げ、とかになったんだよ。暗号か? 暗号なのか? それとも嫌がらせか?」
「いいから早くこの正装を全部脱ぎなさいって言ってるのよ時間ないんだから。恥じらいとか、ないでしょ? 生娘でもあるまいし」
「玄関先で賓客に服を脱げとか要求をしてることが異常事態だと思えよ!」
 どうにも会話が通じないのは、そもそもハンガリーにプロイセンの要求を聞き入れる気がないからだろう。脱げよ、と再度要求してくるハンガリーは服を掴みあげ、首を圧迫する手にぎりぎりと力を込め続けている。嫌だと言おうものなら、意識を落として剥ぐつもりに違いなかった。コイツ普段かぶってる猫どこに捨ててきたんだと思いながら、プロイセンは夕刻の茜色濃い玄関ホールに視線を走らせる。用意周到に人払いまでしてあるのだろう。悲しいくらいに誰も居なかった。
 というか『国』が直々に出向いているのに迎えがプロイセンの服を剥ぐ気満々のハンガリー一人とは、なにはともあれそれだけで問題になりそうなのだが、一体どうやって言いくるめたのだろう。完全に拮抗状態に陥りながら、プロイセンは呆れかえった目で幼馴染を睨みつける。女性の瞳が、草原色に煌いていた。事情は全くよく分からないが、本気のようだ。深々と息を吐き出しながら、プロイセンは溜息をついた。
「質問が三つあるから答えろよ。一つ、俺の服が欲しいのか否か。二つ、これ脱いだとして、代わりの正装はあるのか、ないのか。三つ、オーストリアは何処に居るのか。……あ、もう一個。オーストリアは知ってんのか?」
「一つめ、アンタの服が欲しいんじゃなくて、男物の正装が欲しい。二つめ、代わりはオーストリアさんから適当に借りて。三つめ、音楽室。四つめ、知ってるわ。以上。もういい? 急いでるの」
「……お前、なんで俺に対してそう、ものを頼む態度じゃなくなるんだよ。いっつもいっつも……。オーストリアが俺に服貸してくれるなら、お前がオーストリアから借りればいいだろ?」
 なんでそんなめんどくさい服の交換をしなければいけないんだと顔をしかめたプロイセンに、ハンガリーは馬鹿にするように鼻を鳴らし、言い切った。
「オーストリアさんの御服に! 私が袖を通すとかあっていいと思う? ないでしょ? ないわよ」
「……俺が着るのはいいのかよ」
「ちゃんと洗って返しなさいね?」
 つまりコイツマジ話聞く気ないんだなよくわかった、と脱力し、プロイセンは服を掴む手をぽんぽんと叩いた。分かった、逃げない、要求を受け入れる、と意思を込めると、すぐ伝わったのだろう、ハンガリーは光が咲き零れるように愛らしい笑みを見せて、ありがとう、と囁いて来る。お前笑顔でお礼言っとけば俺が納得すると思うなよ、するけど、可愛いなちくしょう、と泣きそうになるのを堪えながら考え、プロイセンはでも玄関先で脱ぐのは断る、と常識的な主張をした。
 単に焦っていただけなのだろう。それもそうねとあっさり主張を受け入れたハンガリーは、まるで恋人のような仕草でプロイセンの腕に己のそれを絡ませ、ぐいぐいと屋敷の奥へと引っ張って行く。初めからそういう態度であればもっと話は早く進む、ということに、ハンガリーは気が付いていないだろう。プロイセンは苦笑しながら、ハンガリーの頭にぽん、と手を置いた。
「……なに?」
「ん? なんでも。この部屋でいいのか?」
「そうよ。……へんなの」
 なんで撫でるの、とくすぐったそうに笑うハンガリーに自分で考えろよと苦笑して、プロイセンは指し示された部屋の扉を開ける。
「いらっしゃいませ、プロイセンさん」
「よう、リヒ」
 元気そうでなによりだ、とひらりと手をあげて挨拶するプロイセンが驚かなかったのは、扉を開ける瞬間になんとなく、読めてしまったからである。背後でハンガリーが扉に鍵をかける音がした。この状況で脱げとか本当俺の忍耐に感謝しろよお前らと脱力しながら、プロイセンはリヒテンシュタインが持つ裁縫道具に目をやり、お前も大変だな、と苦笑する。少女はごく申し訳なさそうに、それでいて楽しげな微笑を浮かべて、くすくすと肩を震わせてみせた。

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