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 きっと今、世界が終わってしまったのだ。少年と少女は見交わした視線だけで意思を交わし合い、ぎこちない笑みを浮かべて言葉を飲みこんだ。互いに、どう言えばいいのかよく分からなかった。話したいことも、話したい言葉も、たくさん持っているのに。声は、どうして出していたものなのだろうか。吸い込んだ息は緊張のあまり口の中を乾かして、深い悲しみを胸にもぐらせた。少女の手のひらが、かすかに震えている。
 少年はそれを、悔しく見つめていた。寒さで震えているのではないことは知っていて、だからこそ手を伸ばすことができない。触れることはきっと、少女の心を傷付ける。優しい癒しや触れ合いを、少女が望んでいないからだ。噛み締められた唇は血の気を引いてなお赤く、草原に咲く花の色をしていた。その花が背の高い草と共に風に揺れるさまを、見ているのが好きだった。少年は息を吸い込んで、ただ、少女を呼んだ。
「……ハンガリー」
 きつく。なおきつく、少女の唇が結ばれる。少年めいた服をまとった少女の、花色の唇に血が滲む。ゆらり、ゆらりと不安定に揺れる視線が足元から持ちあがり、少年の瞳を鋭く射抜く。強い日差しに照らされた、命に満ちた草原の色。深く濃い草色の瞳。宿っているのが敵意なら、どれ程よかっただろう。少女の瞳を彩っていたのは、ただ深い悲しみと苛立ちだった。どうすることも出来ず、内側に向けられる負の感情。
 少年に叩きつけることをすれば楽になれるだろうに、少女はすぅ、と息を吸い込んだだけで気持ちを外に出さなかった。代わりに、名が呼ばれる。まだ声変わりをする前の、それでも悲しい程に柔らかく響く、少女の声だった。
「プロイセン……」
 名を呼ぶ以上のことが、互いにどうしても出来ずに。二人は向き合ったまま、世界の中に立ちつくした。強い風が二人の体を吹き飛ばすように吹き、少年は足に力を入れて耐え、少女は寒さに身を震わせる。その些細な差異に、少女の瞳に絶望が宿る。世界が終わるのだ。もう、終わってしまったのだ。二人、肩を並べて共に駆け抜けた日々が、何時までも共に在れると疑うこともなく信じていた時が。世界が。終わる。
 ひとつだったのに。二人は確かに、ひとつであったのに。性別が二人の世界を、二つに引き裂いた。そしてそれはもう、元に戻すことが出来ない。少年だと信じていた少女は、けれど少女にしかなれずに。知っていて告げなかった少年に、残酷な現実を付きつけた。
「……ごめんな」
 黙っていて。同じものにはなれなくて。同じもので、あれなくて。幾重にも意味を重ねた少年の言葉に、少女は拳を振り上げた。迷うことなく胸に打ち付けられた拳は、少年に深い痛みを刻みこむ。爪が食い込む程握りしめられた少女の拳にそっと触れ、少年はもう一度唇を開き。なにも言えずに、口を閉ざした。二人の間を、風が抜けて行く。枯れ草が巻き上げられて空に舞い、弱々しく大地へ落ちて行く。涙のようだった。
 草原の、緑の色が鮮やかだった。春は、すぐそこまで来ていた。


 序 かすれて響いた哀の歌

 密度の高い灰色の雲が、空を覆い尽くしてしまっていた。雨は降りそうにもない。空気は乾ききっていて、室内に居ても喉が痛い程だった。外では風が吹いている。眼下に広がっているのは大通りである筈なのに、死に絶えた都市であるかのごとく、命の気配がしなかった。無邪気に遊ぶこどもの姿を、もう何年見ていないだろう。手を引いて笑いあいながら買い物に出かける親子の姿すら、記憶の遠くに霞んでいた。
 羽根を落として過ぎ去る鳥や、彷徨い歩く野良犬すら見当たらない。木の影にも、ごみ箱の向こう側にも、車の下にも、路地裏にも。隠れられる場所はたくさんあるのに、息を殺して眠る気配は感じ取れない。死に絶えてしまった。この町は、もう死に絶えてしまった。不意に鼻の奥がつんと痛くなって、プロイセンは大きく息を吸い込んだ。寒くもなく熱くもなく、生温かく淀んだ室内の空気が、どろりと肺に満ちていく。
 プロイセンが居るのは、広く整然とした部屋だった。外国からの賓客を出迎える為の、質の良い調度品で整えられた部屋だ。部屋の中央には会談の為のテーブルと椅子が置かれていたが、プロイセンはそちらに足を向けようとは思わない。第一、五つ用意された椅子には空きが無かった。イギリス、フランス、ロシア、アメリカ、そしてドイツが腰を下ろし、誰も口を開こうとしない静寂の中、視線さえ交わさず黙り込んでいる。
 世界はそこで閉じていた。交わることを良しとせず、介入することを拒みながら、五カ国の『国』たちはただ黙してテーブルを囲んでいた。重苦しい沈黙だったが、不思議と居心地は悪くない。誰も悪意を持っていなかったからだ。彼らは、『その時』が来るのを待っているだけだった。プロイセンは、奇妙な静寂に満ちる薄ぼんやりとした藍色の雰囲気を眺めやり、己の王であり、己の弟であるドイツに観察の眼差しを向ける。
 二人の間には、五メートル程の距離があった。窓辺に佇んでいるプロイセンと違い、ドイツは部屋の中央で椅子に腰かけているからだった。それでもプロイセンの瞳には、ドイツの精悍な頬が僅かに痩せこけている様子も、目の下に隠しきれないクマが浮き出ている様子も見えたし、乾いて痛々しくひび割れてしまった唇に滲む血の赤も、青白い炎を宿してしまったような荒れ肌もよく見えた。ひげだけ、きちんと剃られている。
 伸ばすならきちんと整える、さもなくば清潔に剃っておく。兄が下した命令に近い教えを、従順に守っている成果だろう。こんな時でさえも。胸にさす愛おしさに目を細め、プロイセンはドイツが気がつく前に視線を外した。見つめていたことはイギリスにだけバレていたが、紳士の国はなにも言わず、ごく軽く瞳を細めただけだった。浮かぶ感情の色は薄く、プロイセンには読みとれない。再び視線を窓の外に逃し、空を眺める。
 どんよりとした曇り空だった。先程となんら、変化のない色だった。目を凝らしても願っても、停滞する雲は風に流れることもなく在り続け、町に降り注ぐ光を遮断している。どうにも薄暗いのは、そのせいだ。晴れない気持ちも天気のせいならば、どれ程良かったことか。ごう、とぶ厚い窓越しにでも聞こえた激しい突風が、掲げられた旗をばたばたと揺らす。鉤十字の旗が揺れる。戯れに指を動かし、窓硝子にそれを描いた。
 そこではじめて、己の指先が震えていることに気がつく。誤魔化したくて手のひらを強く握り締めれば、爪が皮膚に食い込む痛みが、意識をすこし持ち上げてくれた。泣きだしそうだ、と女々しい感情にも同時に気がつき、プロイセンは唇を笑みに歪める。泣き叫んだとて、事態になんの好転があるというのか。もはやチェックメイトの宣言は終わっている。駒が盤上に転がされるほんの僅かな空白を、待つだけの時間なのに。
 まだ、盤面をひっくり返すような奇跡を望んでいるというのだろうか。馬鹿らしい。プロイセンは胸元に手を持って行き、かっちりとした軍服にしわが寄る程に握りしめた。天気は晴れない。通りに人の姿も、戻らなかった。枯れた街路樹から、はらりと木の葉が落ちて行く。踏みにじられる定めを良しとしないように、枯れ葉は風にあおられて遠くへと飛んで行った。あの葉は、どこで眠るのだろう。どこの土へ、還るのだろう。
 故郷の夢は見るのだろうか。故郷の空を、思うだろうか。この地を、愛していただろうか。枯れ葉は、もうどこにも見えなくなっていた。追い縋るように視線を彷徨わせているのに気がついて、プロイセンはそっと右目に手を触れさせた。片目だけでも薄闇に覆わせれば、じりじりと焦がすようにくゆるあせりが、薄れて行く気がした。硝子窓に、左の目が映っているのが見える。ルビーのように艶めいて光る、赤い瞳。
 血の色だった。そう思った。
「……プロイセン」
 いやに鋭利に研ぎ澄まされた感覚は、声が響く前に吸い込まれた息の音すら拾い上げていたが、プロイセンはびくりと肩を震わせてしまう。硝子越しに視線を向ければ、鋭く向けられる翠の瞳がそこにあって。顔をそむけたままの会話を、許す気配はどこにもなかった。仕方がなしにゆっくりと、体を反転させる。あくまで室内に背を向け、町に向けていた体を、意識を内側へと戻して行く。なんだよ、と皮肉げに言いかけた。
 その気配すら許さず、イギリスは静かに言葉を告げた。
「まだ、だ。……だから、止めろ」
 まだ、終わっていない。まだ、決まっていない。だからこそ誇り高く、己にこそ、それを許すな。ひたひたと足元に忍び寄る水のごとく、透明で逃れることを許さない視線が、プロイセンにそれを求めていた。覇者が、己と同等たる戦友に向ける、絶対の信頼にすら似ていた。それは期待を裏切られることへの怒りであり、誇り高き獣が自ら足を折るさまを拒絶しているようでもあった。喉元に刃を突き付けながら、イギリスは言う。
 終わりまで諦めるな、と。プロイセンはぎこちなく唇に笑みを刻み、ごく自然な動作として肩をすくめてみせた。追い詰められた故の道化的な仕草ではなく、男がよくするからかい交じりの、なんの気ない動きだった。室内の空気が笑みに滲む。それが折れぬ軍国への賛美であったか、手を差し伸べた島国への嘲笑であったか、恐らくは誰も分からないだろう。ごくごく奇妙な安堵感に、『国』たちはようやく息を吸い込んだ。
 それでも、終わりは忍び寄っていた。廊下を行く誰かの足音が、扉の前で制止する。それを聞きわけたのは、聴覚までもが研ぎ澄まされているからだろう。扉越し、決して見えない筈の姿すら、脳裏に思い浮かべられるようだった。緊張に色を失った白い手は、震えていることだろう。プロイセンは彼を出迎える為に壁から背を離し、立ち姿を整えて扉を見つめる。気がついて、室内全ての視線が物言わぬ扉に注がれた。
 呼吸一つ分の静寂を挟み、コツコツとノックの音が響き渡る。それは舞台の幕引き、それこそが待ち望んでいた知らせ。誰もがそれを確信する中、アメリカがそっと口を開いた。いいよ、入っておいでよ。まるで気楽な言葉は震え、語尾はかすれていたけれど、誰もなにも言わなかった。失礼します、と扉越しに響いた声は、なめらかな音楽のようだった。一部の乱れも隙もなく、代わりに浮かぶ感情のない事務的な声。
 予想していた響きだった。そして、久しぶりに聞く声だった。胸の痛みを誤魔化して数秒待てば、ゆっくりと扉が開かれる。さっと室内に光が差し込んだのは、恐らく錯覚に違いない。それなのに、誰もが目を細めて彼を出迎えた。室内に一歩も足を踏み入れず立つ存在に、アメリカが微笑む。ようこそ、と迎える声は華やかだ。
「よく来てくれたね、イタリア・ロマーノ!」
 ぱん、と両手を打ちあわせる歓喜の仕草がないことが、いっそ異様なくらいに弾んだ声だった。オーバーリアクションのアメリカを冷めた目で一瞥し、ロマーノは恭しい仕草で頭を下げると、そっと入室してテーブルまで歩いて行く。窓辺に立つプロイセンには気が付いているだろうが、視線も意識も向けることがないようだった。静かな、音の立たない慎重な仕草で歩みを進め、ロマーノは椅子に座る彼らの前でしゃがみ込む。
 片膝をついた仕草は忠誠を誓う者のそれに似ていたが、頑なに床に付けられない膝と、感情の失われた凍りついた表情が全てを裏切っていた。ロマーノの意思は、内側に向けて閉じている。恐らくは枢軸を裏切り連合に組みすると決めた瞬間から、ロマーノは己の感情を閉じたのだろう。六日前に弟が与していたイタリア社会共和国が連合に降伏してからもなお、閉ざされたまま。息を殺し、眠りにつくように沈められて。
 ヴェネチアーノのように豊かではなくとも、燦然として凛として、きらめきを秘めていた声の輝きは、その魅力は、今に至るまで損なわれたままだった。ぶっきらぼうに、ぎこちなくとも。時折甘く緩んだ微笑みを、プロイセンは覚えている。最後に交わした言葉は、なんだっただろうか。その時は、笑っていただろうか。あるいは視線を交わし合って別れたのが、同じ陣営としてロマーノを見た最後だったのかも知れなかった。
 ティレニア海に叩き落とされた宝石のような、濡れた色をしたエメラルドの瞳がアメリカの姿を捕らえる。そして『国』が待ち望んでいた報告を、ロマーノは歌いあげるように囁いた。
「ドイツの降伏宣言が、出されました。……連合軍の勝利です」
 絶叫。その一言をまるで待っていたかのように、淀んだ空気を凄惨な叫び声が引き裂いた。ざぁっと音を立てて顔から血の気を失わせたのは、ドイツとロマーノ。プロイセンは歯を食いしばって衝撃に耐え、茫然とする連合の、集った四カ国を睨みつける。一人一人に視線を巡らせ、青ざめて震えるドイツにも目を向け、プロイセンは最後にロマーノを見つめた。ロマーノはさっと視線を持ち上げ、二人の意識が交わされる。
 言葉もなく。けれど、プロイセンは確信した。絶叫は止むことが無い。壁を一枚隔てた隣室で、血を吐き出すよりなお酷く何者かが叫んでいた。震える唇をようやく、プロイセンは開く。
「連れて来たのか。ここに! ヴェネチアーノをっ!」
「だって泣くんだよっ!」
 己の魂に指を立てて引き裂くような、その痛みで世界を貫きたがるような。悲痛で悲壮で、悲劇的な叫び声が空気を揺らし続けている。声は言葉にはならず、それでいて万の言葉であるようだった。世界中を祝福し、福音を授けるように愛を歌う天使の声が、今はなにもかもを呪い尽くしている。赤黒く濁った嘆きの叫び。聞いて居られないと責めて叫んだプロイセンに、反射的に返したロマーノの声はひどく感情的だった。
「ドイツが、お前が心配だって! 俺だけ行かせたくないって! 寝てなんていられないって! お願いだから連れて行ってって、朝からずっと泣いて、泣いて泣いて……ベットに縛り付けても暴れて泣いて、連れていってって! 一人にしないでって言って、フェリが泣いたんだっ!」
 がくがくと全身を恐怖に震えさせながら叫ぶロマーノは、弟の人としての愛称を呼びやったことにも気が付けていないのだろう。自ら鍵をかけた感情が、瞬間的に目覚めてしまったことすら。震える手で体を抱きしめ、激情に爛々と輝く瞳で、ロマーノは己以外の全てに対して言葉を叩きつけた。
「一緒が良いよって泣いたんだよ!」
 ひっ、と悲鳴に近い音を立てて、ロマーノの喉が引きつった。それきり荒い呼吸音が響くだけで、ロマーノは言葉を発さない。叫び声は、まだ止まなかった。永遠にすら近い錯覚の中、アメリカは混乱しきった様子で視線を彷徨わせ、そしてイギリスに辿りつく。ひたすらに、ひたむきに助けを求められて、イギリスは無視しきることが出来なかった。お前もうちょっと頑張れよ、と甘やかす呟きを落とし、イギリスの唇が開く。
「行ってやれ、ロヴィーノ。ここはもう、いい」
 聞こえなかったか、とイギリスはゆっくりと、優しく響く声で告げる。『国』としての役目は終わりにしていい、と暗に告げ。ひととして振る舞い、兄として弟の元へかけてやれ、と。行ってやれ、とそっと背を押しやるような声に、震えながらロヴィーノは身を翻した。あっという間に部屋から飛び出して行き、隣の部屋の扉が乱暴に開かれる音がする。力の限り響いていた嘆きの音が、可笑しいくらいにぴたっと止んだ。
 泣き濡れた瞳で、フェリシアーノは兄を見ただろう。誰もがそれを想像する中、息を吸い込む音が聞こえた気がした。
『バカ! フェリ、ばか! うるさい! 一人で泣くな! ほら、来いっ!』
『に……兄ちゃん、兄ちゃん! にいちゃんっ!』
『自分が負けた時より泣くな! 男だろ、チクショウ!』
 フェリシアーノは広げられた腕の中に飛び込んで行って、ロヴィーノはそれをしっかりと抱きとめて。ぎゅうぎゅうにくっつきあいながら叫んでいるのだろう。誰もかれもが兄弟とは付き合いが長いから、想像など容易に過ぎた。一気に脱力して吐き出される溜息の中で、アメリカだけが額に手を押し当てている。ヨーロッパの戦争はこれで一段落したものの、彼にはまだ戦う相手が存在しているから、安堵もしきれないのだろう。
 イギリスは、頭痛を堪えているようなアメリカの手を引きはがしながら、目を細めて告げた。
「さ、お前は早く本国に戻れ。こっちは、後は俺達でなんとかする。……終わって無い。気を抜くな」
「分かってるよ。ああ、もう……びっくりした! あんなに泣かなくてもいいじゃないかい」
「しかも自国の降伏じゃなくて、ドイツの降伏でって所が……いや、実にフェリシアーノらしくはあるんだが」
 お前本当にフェリシアーノに愛されてるのな、と言葉が続けられると同時にフランスから呆れの視線を向けられて、ドイツは思わず黙り込んでしまった。頷くこともなんとなくためらいがあったし、否定するのもあの叫びのあとでは馬鹿らしいだけだ。迷った挙句に知っている、と愛情を全面肯定すれば、フランスの口元に温かな笑みが結ばれる。敵対してから、久しく見ない笑い方だった。相手を、愛しく思う表情だった。
 思わず目を瞬かせたドイツに、フランスは手を伸ばす。かっちりと固めた前髪を乱すように撫でてやれば、ドイツは眉を寄せて無言で嫌がった。なにをする、と幼子ならばすぐ泣きそうな表情ですごんでくるのを、フランスは微笑みひとつで受け流した。
「いや、なんでも。……さ、お兄さんたちはここからも忙しい。頑張ろうな、ドイツ」
「……それは、またはと時計を作れよ、という意味に聞こえるのだが」
「えー、それはお兄さんの上司が決めることだからー。お兄さんにはどうしようもないって言うかー。……あれ、ぷーちゃん? ぷーちゃん、どしたの」
 いい加減にこっちにおいでなさいな、とばかりフランスは窓辺に立ったまま動かないプロイセンに向かって手をひらつかせる。蝶が泳いで行くような優雅な動きを目で追って、プロイセンは慣れた仕草で腕を組み、視線を床に落として溜息をつく。毎度、毎度のこととはいえ、まるで緊張感がなかった。もうすこし頑張って演出しようぜ、と吐き出された言葉に、帰り支度をしながらアメリカが顔をあげる。きょとん、とした目だった。
 アメリカは緊張感、とその言葉を口の中で転がすようにして呟き、やけに幼い仕草で首を傾げる。
「もしかして、あれかい? 俺たち、もっとヒーローっぽくした方がよかったのかい?」
「お前さっさと本国帰れよ。そうじゃねぇけど……なんだこのぬるい感じ、と思って。いいのか? 拘束したりしなくて」
「怪我人に酷くするの、嫌いなんだぞ!」
 それは好き嫌いで決めて良い問題ではない。そう思ったのは、プロイセンだけではなかったらしい。それ以上口を開かずに早く出て行け、と思っているのが丸分かりの笑顔をアメリカに向けながら、イギリスは口を開く。
「勝敗はすでに決した。俺たちが正義だ。それで……十分だな? アメリカ」
「うん。あとは日本だけだからね。イタリアもドイツも降伏したって聞けば、さすがにもう大丈夫なんじゃないかな」
 早く降伏してくれるといいんだけど、と聞き分けのない相手に呆れているように呟き、出て行こうとするアメリカを引きとめたのは言葉だった。無理だろ、と緩んだ空気に冷ややかな言葉が落とされる。恐ろしい程、冷たい言葉だった。頬を無造作に叩かれたような気持ちで振り返り、アメリカは窓辺に視線を移す。一度も輪に入ろうとせず、外側から傍観するように立ち続けたかつての軍国は、冷やかな呆れの目をしていた。
 どうしてだい、とアメリカは問いかける。
「だってもう、勝ち目なんかないじゃないか。日本は、降伏するよ。してくれるよ! するに、決まってる!」
「お前の元弟、ああ言ってるけど。お前の意見は? イギリス」
 ゆったりと腕を組んで、立ち。ぞっとする胸中を誤魔化すように叫んだ言葉にも引きずられることはなく、プロイセンはゆるりと首を傾げてイギリスに問いかけた。イギリスは面倒くさそうに眉を寄せて、お前戦勝国に対する態度をちょっと考えろ敗戦国、と言い放ってから唇に指先を押し当てた。考えているポーズをしながらも、イギリスの中ですでに答えは出ていた。かつての同盟国の性格、国としての性質を考えれば明白だ。
 無理だろうな、とイギリスは言った。無理だと言いきらないのは、それでも希望を込めたいからだった。かつての友。今も大切に思う旧知が、これ以上傷つくことを望みたくはない。裏切られたような目をするアメリカをちらりと見やり、イギリスは首を横に振る。望みはここに、置いていくべきだった。甘い期待はしない方が良い。『国』の化身たちが直に傷つけあう時代は終わりを告げていたが、それでもこれは、戦争だった。
「イタリアとドイツが降伏した。ならば最後の一国として、日本は戦おうとするだろう」
 預言めいた強さで放たれた言葉に、アメリカは苦しげな表情で黙り込む。アメリカがなぜを問いかける前に、答えたのはプロイセンだった。
「アメリカ。ユズリハって知ってるか?」
「……食べもの?」
「木だよ。植物。ユズリハっていう名前の、木」
 つまりなにも知らないんだな、とぬるい視線に、アメリカはこくりと頷いた。教えておくれよ、とばかり笑顔を向けられるのに毒気を抜かれながら、プロイセンは簡単に説明してやった。常緑高木で、日本や東アジア、東南アジアに自生する木で、雌雄異種。最大の特徴は落葉のサイクルにあり、春になって新しい葉が生えてきてから、世代交代するように前年の葉が落ちて行く所にある。アメリカは、ふんふんと頷いた。
「で? それが?」
「……日本の戦い方は、ユズリハなんだよ。落葉して行くのが兵士たち。幹や枝が国土、葉が国民。新しい命を後世に残して行く、その為に命をかけて特攻してくる。……分かるか? 簡単に降伏するような相手じゃない、日本は」
「追い詰められ過ぎたんだ。……もう勝てると思って戦ってるわけじゃないだろ」
 痛みを感じる表情で、言葉を引き継いだのはイギリスだった。
「彼らは、国の為にこそ死にに行く。落葉によって次世代を残すユズリハのように、その死によって次世代を守ろうとしている。命がけで、命を守ろうとしてるんだ。そんな相手に……降伏を届かせるのは難しい」
「っ、じゃあ」
「だから早く本国に戻れって言ってるんだよ、アメリカ。……俺たちの言葉は、かつてのような神聖さは失って久しいが、それでも人に届かない訳じゃない。戦争の終結を望むなら、お前にはまだ出来ることがある」
 イギリスの言葉に、アメリカは息をつめた表情で頷いた。それからプロイセンをまっすぐに見やり、すぐ視線を反らして、アメリカは部屋を駆けだして行く。これから空港までジープを走らせて、すぐ本国へと飛ぶのだろう。忙しいヤツ、と思いながら無感動に見送り、プロイセンは空いた椅子に座る気にもならず、窓から外を眺め続けた。曇り空は晴れる気配すら見せず、青さを忘れてしまったように、停止してそこにあり続けた。
 それなのに不意に、青空を見つけたように気持ちが柔らかくなる。声が聞こえたからだった。それは空気を震わせて響く声ではなく、もっと体の奥深くから響いてくる声。寄り添う魂の奏でる、奇跡のような共鳴だった。プロイセンは鏡越しにドイツを探し、視線を合わせて頷きあう。ドイツにも『それ』は届いているようだった。もしかしたら隣室のイタリア兄弟にも、聞こえたかも知れない。歌声だった。か細く、それは響いていた。
 ドイツ国歌だった。どこかたどたどしい発音で、想いをこめて歌われていた。恐らくは降伏を知ってのことだろう。覚悟や決意や、なによりも労りの想いが伝わってくる。プロイセンは歯を食いしばって嗚咽を耐え、かつての弟子の名を呼んだ。
「……日本」
 戦うのか。やはり、戦おうとしているのか。まだ剣を折りは、しないのか。問いかけに答えるように、胸に直接響いてくる歌声はふわり、と音を響かせて。くすくすと穏やかに笑むように、体中へと染み込んで行った。



 奉じた歌は、届いただろうか。肺から息を吐き出しながら、日本は空を眺めた。薄い雲の覆う、鈍い色合いの青空だ。気持ち良く晴れてくれれば良かったのだが、天気ばかりはどうにもできない。くす、と笑いながら日本は身をひるがえし、中庭から縁側に腰を下ろす。奥で丸くなっていたぽち君が、日本を出迎えてかけて来た。きゅぅん、と愛らしく鳴かれるのを抱き上げて頬ずりしながら、日本はちいさく呟いた。
「それでも……私は、もうすこしだけ」
 体の中で、声が響いていた。いくつも、いくつも。それは降伏を望む声であったり、徹底的な交戦を望むものであったりはしたのだけれど。上は今しばらくの交戦を決め、人はそれに従うばかりだった。晴れはしない空を見つめ、日本は声もなく唇を動かす。答えはどこからも返らなかった。それでいい、と日本は微笑む。抱き上げていたぽち君を足元におろして、日本は大きく伸びをした。着物の袖が、動きにばさりと揺れる。
 つと、日本は部屋の奥に視線を移した。目に痛い程の白さで、軍服がハンガーにかけられている。日本はしばらく無言でそれを見つめ、やがて一度だけ見つめていた空を振り返り、深々と頭を下げて一礼する。ざぁ、と梢を鳴らして風が吹き抜けた。砂が巻き上げられ、彼方へと散って行くかすかな音が響く。その残響すら消えた頃、ようやく日本は頭をあげた。迷いのない仕草で空に背を向け、日本は部屋の奥へと進む。
 着物に手をかけて脱ぎ捨て、軍服を身に纏って行く。姿見に映る表情は、淡く微笑んですら居た。きっちりと釦をしめ、日本はよし、と一人呟く。足元でぽち君が、きゅぅんと鳴いた。抱き上げることをせず身を屈めて頭を撫で、日本は大股で玄関へと向かう。てててて、と後を追って来たぽち君をちらりと見ながら靴をはき、日本はお留守番していてくださいね、と言葉を送る。ここで、どうか待っていてくださいね、と。優しい声で。
 大丈夫。私が守ってあげますから。やんわりと微笑んだ日本を見上げ、ぽち君は一声だけ高く鳴いた。引きとめの声ではない。見送りの鳴き声だった。一瞬だけくしゃりと、泣きそうに顔を歪めて。ぐっと歯を噛み唇を閉ざして耐えた日本は、大きく息を吸い込んで背を伸ばした。そして振り返らず、歩んで行く。ぽち君は玄関先に座り込んだまま、ぱたぱたと尻尾を揺らして日本を見送った。それから数カ月、戦争は終わった。
 日本は無条件降伏によって、戦いの日々を終えた。

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