にいちゃん。眠りに乾いた喉が掠れさせてしまった声に揺り起こされて、ロヴィーノはゆるりと瞼を持ち上げた。意識が覚醒するまでは、わずか数秒も無かっただろう。それなのにまだ朝の遠い暗闇の中、掠れた声は囁き続ける。にいちゃん、にいちゃん。どこに居るの、どこに行ったの。すん、と鼻をすする為に一拍の間を開けて、すぐに言葉が繰り返される。求める声。掠れる声。震える声。かすかな望みをつなげる声。
頭を振って眠気を飛ばせば、一つの枕を分け合って眠るフェリシアーノの顔が、薄い闇の向こうに見えた。すこし顔を動かせば、額がくっつく程度の距離。ごち、と痛みを与える乱暴な仕草で額を重ねながらぐりぐりとすり寄って、ロヴィーノは静かに溜息をついた。フェリ、フェリシアーノ。ゆりかごの動きより柔らかな声の音は、掠れた泣き声をぴたりと止めてしまう。馬鹿だな、とロヴィーノは笑う。お前は本当に馬鹿だな、と。
「居るだろ、ここに。……ほら、目開けてちゃんと見ろ」
すん、すん、と鼻を鳴らしてむずがりながら、フェリシアーノはゆるく首を振った。ロヴィーノと向き合うように横向きにされた顔に、瞼は下ろされたままで開く気配がない。それなのに溢れる涙が幾筋も、頬を伝っていた。にいちゃん起きたらいない、と幼い響きで言い返して来るフェリシアーノに、ロヴィーノは眉を寄せて沈黙する。なにが繊細で柔らかな弟の心を傷つけたのか、ロヴィーノはきちんと分かっていた。南の降伏だ。
大戦の終盤、イタリアは二つに引き裂かれた。ロヴィーノの与する陣営は連合軍に降伏し、裏切りの名を受けながら枢軸側に戦線を布告したのだ。対してフェリシアーノの与していた北はドイツ主導の元でイタリア社会共和国を名乗り、戦い続けたのだった。全イタリアが膝を折るその瞬間まで。統一前にそうだったように、フェリシアーノは広いベッドに一人で寝ていたのだろう。二人で眠る時と同じ、ベッドの外に背を向けて。
二人で眠れば向き合うような姿勢のまま、ずっと眠っていたに違いない。そして夜中に目を覚ましては、兄の不在を思い知ったのだろう。もうずぅっと一緒だって言ったのに。幼い響きに震えながら持ち上げられた手を、ロヴィーノは強く握り締めてやった。瞼は、持ち上げられない。
祈りを捧げるように手のひらを包み込み、ロヴィーノは静かに呟いた。
「……おやすみ」
すぅ、とフェリシアーノの唇が大きく息を吸い込む。それは抗議するようでもあり、己を深い眠りに落とす為の仕草でもあった。ゆるゆると、泣きながらでも手の温度に安堵を見出して意識をまどろませて行くフェリシアーノを、ロヴィーノはじっと見つめていた。光の無い暗闇でも、目は慣れ始めればものを見せてくれる。だからこそ、ロヴィーノは見逃さなかった。震えながら動いたフェリシアーノの唇が、兄ではない存在を呼ぶ。
行かないで、と言っていた。新たな涙が、頬を伝う。
「『神聖ローマ』……か」
フェリシアーノは、もう眠ったようだった。零れて行く涙を指先で拭い、ロヴィーノは寝室の窓に目を向ける。ぶ厚いカーテンを引かれた窓は、当たり前のように外の景色を見せることはなく。ただしんとして、未だ遠い朝を知らしめていた。繋がれたてのひらに、ぎゅぅと力が込められる。朝の光が部屋を満たすまで、フェリシアーノは兄の手を離しはしないだろう。朝の清浄な光だけが、フェリシアーノの心を落ち着かせる。
戦争が終わって一月。毎夜泣きながら兄を揺り起こすフェリシアーノは、一度たりとてそれを記憶していたことがなく。太陽が目覚めるまで弟を見守るロヴィーノだけが、それを知っていた。
フェリシアーノが目を覚ましたのは、太陽が地平線から顔を出してしばらく経過した頃だった。部屋はすっかり明るくなっている。カーテンも開け放たれているので、目覚めたばかりの瞳にはちょっと眩しいくらいだった。何回言っても、ロヴィーノはカーテンを引きっぱなしで寝室を出て行ってはくれないのだ。もーにいちゃんのばかー、とシーツからもぞもぞと顔だけを出し、フェリシアーノはぼんやりと、ベッドに視線を彷徨わせる。
ごく当たり前のように、ベッドの上に兄の姿はなかった。手を伸ばして触れてみても、シーツはぬくもりを失って久しいようだ。さらりとした冷たい感触が心地よくて、フェリシアーノは指先でシーツに線を描き続ける。ロヴィーノの朝は早く、太陽と共に一日が始まる。今日も朝から畑に出かけて、収穫と手入れ、水やりまで終えているに違いない。ちらりと時計に目を移して時間を確認し、フェリシアーノはベッドの上に座りこんだ。
ぐーっと腕を伸ばせば新鮮な空気が肺まで通り、息を吐き出すと瞬間的に目が覚める。同時に良い香りも吸い込めたので、フェリシアーノの機嫌は一気に良くなった。朝食はロヴィーノ担当、昼食はフェリシアーノ担当。夕食は、その日の気分で。それが二人が一緒に生活し始めた時に決めた約束事だった。よほどのことが無い限り早朝から動き出すロヴィーノは、手間も惜しまずにきちんとした料理を作ってくれる。
今日はなにかな、と思いながら服に袖を通してスリッパをはき、フェリシアーノはぱたぱたと廊下をかけて行く。途中、花が飾られた窓を押しあければ、眼下には美しい街並みが広がっていた。クリーム色の壁が整然と並び、窓辺にはどの家もちいさな鉢植えで花を飾っている。プランターを置くちょっとしたスペースがない家は、窓の内側に、外からでも見えるような角度で花瓶を置いて。赤や黄、青、白、オレンジ、ピンク。
うっとりするような色の洪水ではないが、それは十分にフェリシアーノの目を楽しませた。まだ静けさも漂わせたもやのかかる空気は、それでも人のざわめきに揺れている。目を細めれば、街並みの向こうには海が見えた。潮の香りが風に乗り、路地の隅々まで吹き抜けて行く。獲れたばかりの魚や貝をいっぱいにつめて、男が道を早足で過ぎて行った。一部の乱れもなく敷き詰められた石畳に、足音が反響する。
海が近いこの町を選んだのは、ロヴィーノだった。戦後処理も山積みに過ぎる現在、こんなのどかな場所に『国』が住んでいて良い訳もないが、首都に近い大きな家を、ロヴィーノが全力で嫌がったせいで許されている。二人か、三人くらいで住むのがちょうど良い家。家具はすこし古くて壊れかけたものばかりで、何度も修理されていて温かく、なにより『人』との距離が近い家。『人』に溶け込めるように、過ごせる家だった。
戦いの終わりと共に引っ越してきた風変わりな兄弟を、『国』だと知るものはごくわずかだ。町長と、その妻。その他に、中央に連絡を取る時に必要なごく数人だけが、二人を『国』だと知っていた。それだけだ。両手に余る程度の数だった。フェリシアーノは、なぜロヴィーノがこの町を選んだのか知らない。なぜ、ここで無ければフェリシアーノを連れて逃げる、とまで言ったのかも知らない。海の近い、ちいさな、ちいさな町。
戦火を逃れた、美しいままの町。銃弾の音も悲鳴も、ここまで届きはしなかった。
「……フェリシアーノ」
トン、トン、と階段をのぼりながら呼ぶ声に、フェリシアーノは視線をゆっくりと室内に戻す。ぼんやりと光るオニキスを出迎えたのは、どこか不愉快げなエメラルドの瞳。互いに瞳に宝石を宿す兄弟はしばし無言で向き合い、やがてロヴィーノの手が伸ばされる。曲げた指の背でフェリシアーノの額をノックするように弾き、ロヴィーノはメシ、とだけ言った。離れて行く指先を捕まえて、フェリシアーノはうん、と頷く。指は、離さない。
恋人たちがそうするように指をからめてつなぎ合わせれば、ロヴィーノは呆れた息を吐き出しただけで、振りほどきはしなかった。ばぁか、と声が響く。それにくすくす笑いながらうん、と頷くと、ロヴィーノはふいと視線を反らして階段を下りてしまおうとする。慌てて後を追えば、急に立ち止まった背にしたたかに鼻をぶつけてしまい、フェリシアーノは軽く涙ぐむ。恨めしく思いながら視線を持ち上げると、ロヴィーノと目が合った。
によ、と意地悪く笑われる。絶対にわざとだ。すんっと鼻をすする音で抗議すると、ロヴィーノは上機嫌に笑いながら歩き出してしまう。手を引っ張られながら食卓につかされ、フェリシアーノはフォークを握り締めながら叫ぶ。
「にいちゃんの意地悪!」
「なにがだ。寝ぼけてたのを起こしてやったんだろ。感謝しろよ馬鹿」
「だってどんって! 鼻が痛いよ兄ちゃん。ぶさいくになったらどうしてくれるのさ……」
ほかほかと湯気を立てるラグーニョッキを口に放りこみながら抗議したフェリシアーノは、しかしすぐ顔を綻ばせた。とろりとしたチーズと赤ワインで煮込まれた牛肉がほろりと口の中で混ざり合い、ニョッキのもちもちの食感と相まって絶品である。おーいしー、と花と音符をまきちらしながら機嫌を良くするフェリシアーノを呆れながら眺め、ロヴィーノは丸のままのトマトに歯を立てた。じゅ、と音を立てて水気をすすり、飲み込む。
「……お前べつに、あの程度でぶさいくになるような顔してねぇだろ」
もぐもぐもぐもぐ、と二人の口が動き、飲み込んだのはフェリシアーノの方が早かった。聞かなかったことにしろ、と赤い顔でロヴィーノが叫ぶより早く、フェリシアーノは両手を上に持ち上げて喜びを表す。がたーんっ、と机と椅子を揺らしながら、フェリシアーノは兄ちゃん大好きーっ、と叫んだ。
「それって俺が格好良いってことだよね! わはー! やったやったぁ、兄ちゃんだぁいすきっ!」
「落ち着いて食え! 冷める前にっ!」
びしぃっと音が立つような勢いでテーブルを指差され、フェリシアーノはうきうきと椅子に座りなおす。足を揺らしながら鼻歌を歌うと、ロヴィーノは呆れと諦めが入り混じった表情で溜息をつくばかりで、文句を言いはしなかった。もう一口、ニョッキを食べながら、フェリシアーノはあれ、と目を瞬かせる。机に置かれている料理の皿は、一つきりだった。食事に凝るロヴィーノにしては品数が少ないが、それはもう仕方が無い。
国民に正常に食料が行きわたるまで、『国』の食卓が多少寂しくなるのは当たり前のことだった。だから、問題はそんな所ではない。一皿、だけなのである。ラグーニョッキが入った白い皿だけが、フェリシアーノの前にぽつんと置かれている。ロヴィーノは丸のままのトマトをかじっているだけで、グラスに入った水に手が付けられる様子もなかった。兄ちゃん、とフェリシアーノは眉を寄せながらロヴィーノを呼び、眉を寄せる。
「兄ちゃんの分は? なんで食べないのさ」
「食べてんだろ、トマト。よく見ろよ」
「見てるから言ってるんだよ。……兄ちゃん、あーん」
一口分をすくい上げて口元まで運んでやると、ロヴィーノはあからさまに嫌な顔をした。フェリシアーノに取っては食欲をそそる香りが、さも辛いのだと言うように。いらない、と言って顔を背けるロヴィーノに、フェリシアーノはハッとした顔でまさか、という。
「兄ちゃん……! にんし」
ぞっとするほど美しい笑みをたたえ、ロヴィーノは肘を曲げ、腕から先を上から下に振りおろすような仕草をした。即座に両手を上に上げたフェリシアーノにそれを向けながら、ロヴィーノはゆる、と目を細めて言い放つ。
「俺の性別を考えてからもう一度」
「にいちゃんごめんなさいなんでもありませんだから銃は止めてえええっ!」
舌打ちをして照準を合わせていた銃口をずらし、ロヴィーノはそのまま引き金に指を引っ掛けてくるくると回す。フェリシアーノにはそうと見えなかったが、一瞬の仕草で安全装置は掛け直されているのだろう。くる、と手の中で弄ばれたちいさな銃は、ロヴィーノの恭しい口づけを受けた後、袖口の中に吸い込まれている。ごくごく小さな、護身用の銃だった。暴発しそう、と不安がるフェリシアーノの視線に、ロヴィーノは笑う。
「安心しろ。弾入れてない」
「……なんの意味があるの、それ」
「知らないヤツ専用の脅し。お前とか」
にぃ、と悪どく笑うロヴィーノを、フェリシアーノは慎重に見つめた。ゆっくり、何度も視線で輪郭をなぞって行く。分かったのは二人が兄弟だからであり、そしてシエスタの時には服を身につけない習慣があるからだ。胸のあたりと腰回りに、それぞれかすかな違和感がある。手首の裏側に隠した、弾ナシの小型銃こそがフェイク。なんで家の中で武装してるの、と呆れ顔のフェリシアーノに、ロヴィーノは別に、とトマトをかじる。
「気にすんな。良いからメシ食え、メシ。俺はトマトで十分」
「えー……。じゃあ兄ちゃん。ひとくち。一口だけ。はい、あーん」
食べて、食べてよぅ、と下から目を覗き込むようにして甘えれば、ロヴィーノが断れないことを知っている。ね、とダメ押しで潤んだ目で首を傾げれば、ロヴィーノは深々と息をはき、はくりと差し出された一口分を口に含む。噛む動きは、ゆっくりだった。ゆっくり、ゆっくり、まるで内側に存在する吐き気と戦うようにあごを動かし、ロヴィーノはグラスに手を伸ばして水もろとも、口の中身を飲みこんでしまう。ごくり、と喉が動いた。
体力が付き果てたように投げやりにグラスが置かれ、もういいだろ、とロヴィーノは顔を背ける。
「昼食も軽め、シエスタしたら夕食はちゃんと食うから」
「……兄ちゃん、このお家に来てからずっとそればっかだね」
毎日のことでもあった。この家に来てから毎日、ロヴィーノはフェリシアーノの為だけに朝食を作り、自分は殆どトマトだけか、たまにフルーツジュースを飲む程度で済ませてしまう。昼食も同じく、サラダか口当たりの良いものをほんのすこし取るだけで、後は泥のように眠り込んでしまうのだ。見なれた、うっとりとまどろむシエスタではなく。眠りにのめり込むような、深い深い睡眠。不安げなフェリシアーノに、返る言葉はない。
反論、あるいは言い訳をするようにロヴィーノの唇は開きかけ、すぐに馬鹿らしいと言わんばかりに引絞られる。なんでもねえよ、とロヴィーノは言った。だから心配しないでお前はちゃんと食え、と続けられた言葉に、フェリシアーノはこくりと頷いた。先程と変わらない筈なのに、重たく、冷たく感じるニョッキをぱくりと口に含み、フェリシアーノはふと目を瞬かせた。ロヴィーノも同時に顔をあげ、不穏に眉を寄せて黙りこむ。
それは予感に似ていたが、もっと確かな感覚だった。感情的な感覚、と表すことが出来るかも知れない。ふわ、と胸が温かくなる。鼓動がかすかに、早くなった。二人の視線が交わされ、心当たりを相談し終えるより早く、チャイム音が鳴り響く。同時に、拳で扉が叩かれる音。
『ロヴィー! 親分やでー!』
よし今から俺ちょっとアイツのこと殴って来るから、という笑顔で立ちあがったロヴィーノの腕を掴み、フェリシアーノはふるふると首を振った。本人は殴ってくるつもりなのかも知れないが、撃ってくるから、の間違いだとしか思えない。その証拠にロヴィーノの手は腰辺りを彷徨っていて、握りこぶしにはなっていなかったからだ。だ、だめだめ撃っちゃだめっ、と必死で止めるフェリシアーノに、ロヴィーノはごく麗しく微笑んだ。
傾国の笑みだった。
「ちょっとだけだ。な?」
「え……だ、だめ! だめだめ、だーめ! にいちゃん、めっ! めっ、めっ、だよ!」
「……ちょっとだけだから」
腕を掴んでいるフェリシアーノの手に、ロヴィーノの指先が触れる。すう、となぞるように撫でられて、フェリシアーノは顔を赤くしながらも首を横に振った。こういう時の『ちょっと』が、『ちょっと』で終わった試しがないからである。ためしに『兄ちゃん現在の残弾数は』と尋ねると、ロヴィーノは一秒もあけることなく二十五、と言った。その間の無さが、確定的だった。全段発射する気である。その間にも、扉は叩かれていた。
一秒ごと、ロヴィーノの苛立ちが募って行く。これ以上はフェリシアーノもちょっぴり危険、と言う所まで粘ってから、意を決して交渉する。
「三回!」
「は? 五回」
「三回。三回にしてあげて兄ちゃん。蹴るのはノーカウントにしてあげるから」
兄弟はしばし睨みあうように見つめ合い、やがてこくりと頷き合った。同時に席を立ち、二人は足音を鳴らしながら玄関へ向かう。騒がしく扉を叩いていても、愛で耳が聞き分けたのだろう。歓声が扉の向こうで上がるのを完全に無視して扉を開き、ロヴィーノは無造作に、アントーニョの襟首を掴みあげた。戸惑いの声が上がるのも無視する。三回ね、と念押しするフェリシアーノにこくりと頷き、ロヴィーノは一歩を踏み出した。
「朝から……うるさいんだよどチクショウ!」
踵から爪先へと体重がスムーズに移動し、踏み込んだ膝が滑らかに体を持ち上げる。体重と力の移動が極めて滑らかな動きで、ロヴィーノは握りこぶしをアントーニョのあごにめり込ませた。下から上に直に跳ね上げる動きに、アントーニョが背中から倒れて行く。しかし、相手は沈まなかった太陽の国。かつての覇国である。ぐ、と堪えて立ち上がろうとする姿ににこりと笑い、ロヴィーノは『二回目』を即座に行った。
なにすんの、と怒りに煌めく瞳を覗きこむように顔を寄せ、ぎく、と体を強張らせた隙を狙って平手打ちを一回。逆側からもう一度叩いて約束の三回で攻撃を止めてやり、ロヴィーノは玄関に持たれて成り行きを見守っていた弟を振り返る。
「三回」
「うん。三回」
「……なにすんの? なあ、親分なんかした?」
分かり合っている地中海の天使たちを悲しげに見やり、アントーニョはしょんぼりと呟いた。フェリシアーノは答えを促すように兄に笑みを向け、それを受けたロヴィーノはせせら笑うように鼻を鳴らして答える。
「別に? 朝から騒ぐんじゃねえってだけだけど」
「照れ隠しにしちゃ過激なんじゃない? ……駄目だろ、ロヴィーノ」
咎めるというにしては甘く、心配の響きすら秘めて囁かれた言葉に、ロヴィーノとフェリシアーノの視線が、アントーニョを通り過ぎてその先へ行く。どんなことがあっても被害が及ばない絶妙の位置に、二人の知り合いがもう一人立っていた。フランシス兄ちゃん、と思わず呼んだフェリシアーノに応え、フランシスは食料がつまった紙袋を抱えながら歩み寄ってくる。よう、と気軽に声をかけられて、ロヴィーノは一歩足を引いた。
口の中が、すこしだけ乾く。見透かされている気がした。
「よう、じゃねえよ……。なにしに来やがった、変態」
「こら。久しぶりに会うお兄さんに、それはないでしょ? フェリシアーノ、はい。これお土産ね」
持って、とばかり差し出された紙袋を受け取ったフェリシアーノが、ひとつを覗き込んで歓声を上げる。リンゴにオレンジ、グレープフルーツにレモン。洋梨やぶどう、キウイフルーツもある。もうひとつの紙袋にはパスタやトマト、肉や野菜も入っているようだった。ご飯だーっ、と大喜びするフェリシアーノの頭を撫で、フランシスは運んで置いてね、と微笑んだ。素直に頷いたフェリシアーノは、弾む足取りで家に戻って行く。
溜息をついて見送りながら、ロヴィーノは無言でフランシスを睨んだ。運ばせるなら、ロヴィーノでもよかった筈だ。わざわざフェリシアーノを選んで運ばせた上でロヴィーノを場に残したので、フランシスには色々とばれているに違いなかった。ロヴィーノの不調も、その理由も。なぜ頑なに国の中枢から逃れようとしたのかも、なにもかも。連れ戻しに来たのか、と問いかけるロヴィーノの髪を、フランシスはくしゃりと撫でた。
「様子を見に来たんだよ。……そろそろ、逃がしてやれないのは確かだけどな」
この場所は、政治に遠い。通信機器を十分に使えば二人の仕事は出来ないこともなかったが、ちいさな家には緊急用の電話がひとつあるきりで、引っ越してから一度も鳴らないままだった。戦後、一月が経過した。逃れて良い期間ではなく、それが許される時期でもない。分かっている。ロヴィーノは恐らく、現存するどの『国』よりもそれを分かっていて、けれどだからこそ、フェリシアーノを連れて逃げだしたのだ。
責任を全てかぶるつもりで。フェリシアーノが立ちなおるまで、その守護を己の使命として。『イタリア』として、片割れを立ち直らせる為に、ロヴィーノは今ここに居る。フランシスの言葉に、責めの色はなかった。頬に手を当てて痛みを堪えているアントーニョも、言葉にしてはそれを向けなかった。ロヴィーノはぐぅっと喉の奥で嗚咽をかみ殺し、視線を伏せてちいさく呟く。分かっている、分かっている。分かっている、だけど。
「もうすこし」
「うん。いいよ。……分かってる」
本当に様子を見に来ただけだから、と。そっと囁くフランシスに、ロヴィーノは素直に頷いて。食料に対する礼を言い、家の中に二人を招き入れた。二人が逃げた、ちいさな家に。
ふ、と意識が上昇した。ソファにうつ伏せになった姿勢で、まるで倒れ込むように眠っていたようだ。己の体勢をぼんやり自覚し、ロヴィーノはハッと手をついて体を起こす。二人を家に迎え入れてからのことが、思い出せなかった。外界と室内を区切る扉を閉めた所で、記憶が途絶えている。血の気の引く音を聞きながら足を床に下ろそうとすると、ソファの背後から伸びて来た手が、ロヴィーノの体を捕まえて押さえ付ける。
スプリングの良くきいたソファは、乱暴な仕草にもめげずロヴィーノの体を柔らかく抱きとめて、きしむ。体勢を崩して腰から落ちるように座り込みながら、ロヴィーノはある程度予想して顔をあげ、視線で己を抱きとめる存在を睨みつけた。ただ愛おしげに輝く、オリーブ色の瞳が煩わしい。アントーニョ、と沸騰するような怒りすら込めて名前を呼べば、胸に置かれていた手が持ち上げられる。頬を包み込むように、指先が触れた。
畑仕事のせいか、はたまた水仕事のせいか。荒れて硬くなった指先は温かく、ロヴィーノの気持ちを不思議に沈めてしまう。海の底から、ゆらゆら揺れる海面を見上げる魚のように、穏やかな気持ちで。ロヴィーノは体から力を抜き、素直にソファにもたれかかった。よしよし、と愛でる動きで肌を撫でる指先が心地いい。くつりと喉を震わせて笑うと、猫ちゃんみたいやんなあ、とうっとりとした響きの声が耳を掠めて消えて行く。
ずっと、撫でられて居たかった。けれどそんな訳にはいかないのだ。この温かな手に包まれてまどろむだけの日々は、遠く、思い出の中に置いて来たのだから。溜息をつきながら瞼をひらくと、いつの間にかソファの背面から正面に移動してきていたアントーニョと、真正面から視線が合った。採りたてのオリーブ色の瞳が、叱りつけるような揺らめきを持ってロヴィーノを見つめている。聞いたんだろうな、とロヴィーノは思った。
この空気読めない鈍感男が、ロヴィーノの体調不良に気がつくとも思えない。普段の状態でもある程度までなら隠しきる自信があるロヴィーノは、現在、弟を欺いている真っ最中なのだ。多少不信がられていることは確かだが、理由辿りつかなければそれで良い。フェリシアーノは、気がつかない。ならばアントーニョが気がつくとも思えなかった。それなのに、こけた頬を撫でる手のひらの熱は、不調を知っていると告げていて。
ロヴィーノはゆるゆると息を吐き出し、なんでもねえよ、と囁いた。
「俺の朝が早いのは、お前だって知ってんだろ?」
だからすこし、眠くなってしまっただけなのだ、と。嘘の中に真実の一欠けらを混ぜ込んで、ロヴィーノは息を吸い込んだ。今は、何時になったのだろう。視線を外すことなく重ね合いながら、そんな些細なことが酷く気になった。昼食はフェリシアーノの担当だ。食欲が無いと言い張る兄の為に、限られた食材を使って精一杯腕をふるって作られた料理を、せめて一口、二口、食べてやらなければ。泣いてしまう、と思った。
泣き虫で寂しがりやで甘えたなロヴィーノの弟は、すぐぽろぽろと涙をこぼす。
「……フェリシアーノは?」
だからこそ気になって、気になって。ロヴィーノはアントーニョがなにか告げようとするのを見ながらも、先にそれを問いかけた。記憶が途絶えていたことを、思い出す。ソファから急激な動きで立ちあがろうとするロヴィーノの肩を、アントーニョは強く掴んで押しとどめた。離せよっ、と悲鳴のように上がった声に、アントーニョは歯を食いしばって首を振る。大丈夫、と囁く声は、手首を掴む白い指先に吸い込まれて消えてしまう。
「なにがっ、なにが大丈夫なんだよ! お前、今アイツがどんな風か……どんな状態か知りもしないだろ! 離せっ……!」
「フェリちゃんのことは知らん。でも、ロヴィのことなら親分ちゃぁんと分かってる」
どうしても行きたい言うなら振り払って行き、と肩の手にぐぅっと力を込めて言い聞かせると、ロヴィーノの瞳がまるく見開かれる。ぶわっと音が立つように感情が広がり、手首に痛みを与えるほど掴んでいた指先から、ゆるりゆるりと力が抜けた。そんなことは、決してできないと。言葉より雄弁に、ロヴィーノは物語る。アントーニョの手を己から押しのけることは、ロヴィーノにとって最大の禁忌にすら近い。すりこみに似ていた。
本能に近い所にある愛情が、それを決して行わせなかった。弱く、弱くソファに体を預けて、ロヴィーノは嫌だと首を動かした。微かな動きが最後の抵抗でもあり、最大の抗議であるようだった。俺は良い、と頑なに言い募ろうとする唇に、アントーニョは人差し指を押し付ける。すこしだけ黙り、と幼子にするようにそぅっと囁けば、うすい皮膚の下からの、微かな震えが伝わった。それが恐怖か、喜びか、他の感情であるのか。
アントーニョは知らず、知ろうとしないままで視線を重ねて行く。
「寝てないんやて? フランシスが言ってた。ロヴィーノは確実に寝てないか、睡眠時間がごく僅か。だから体調が悪い筈やて。……フェリちゃんの夜泣きが始まって終わるまで起きてるんやろ? それと、『国』の負担もロヴィが全部受けおっとる。違う?」
「……夜泣きって言うなよ、赤ちゃんみたいだろ」
全くどうして、会っても連絡を取ってすらいなかったのに、フランシスという男にはバレてしまうのだろう。昔から対人関係において驚異的な察しの良さを発揮する愛の国は、悪友の空気読みスキルを預かっているかのごとく、他者を見透かしてしまうのだった。遠回しに否定はせず、疑問を肯定したロヴィーノに、アントーニョの眉が寄る。叱りつけるか、甘やかすか、考える表情だった。考える時点で甘い、とロヴィーノは思う。
『国』はあくまで『国』であり、ひとではない。国家の中核に属する存在であり、その双肩には多大な責任が乗っている。逃げて良い立場ではなく、それが許され、受け入れられるなどもっての他だった。イタリア国内でも数人しか、二人の居場所は知らない筈だった。それなのに『他国』がこの家までやってきたということは、連れ戻せという命令がどこからか出たか、イタリアが『国』を求めて同一の存在に情報を流したか、だ。
もうすこし待つ、と言ったフランシスも、眠りを守っていたであろうアントーニョも。二人を発見したらすぐ連れ戻すように、という命令を受けて動いていてもおかしくない。戦争は終わったばかりだった。『国』が、どうしても必要だった。『国』は政治を直接生み出すことが出来ず、戦いも平和も、動かすのは人の意思、人の手に他ならない。それでも国は、『国』が不在では動くことが出来ないのだった。緩やかに停止するのだ。
換気をしない閉め切った部屋のように、ゆるゆると空気が淀んで行く。イタリアの国土に立つ人の心が、言葉にならぬ不安に傾いていく。それは迷路の只中で、方角を見失ってしまったことに気がつくような。海の上で風もなく、星も見えず、灯台の光すら分からなくなってしまったことに、瞬間的に気がついてしまったような。圧倒的な不安感と、先の見えない絶望感。人の心に広がって行くそれは、やがて『国』にも降り積もる。
それが逃げ出した罪だとでも言うように、鼓動が早鐘を打つ程の不安が広がって行く。息をするだけで罪悪を感じて、眠りもどんどん浅くなって行く。それだけの、罰。己の何より愛す国民の不安を感じ取るという、それだけの。『国』は逃げてはならず、そこに留まり愛さなければならない。存在として確立した瞬間からの、内なる絶対律だった。イタリアから『逃げた』『国』はふたり。けれどそれを感じているのは、ひとりだった。
ロヴィーノがフェリシアーノを連れて逃げだし、全ての盾になっていた。ロヴィーノには戦争でトラウマをこじ開けられ、傷付きすぎたフェリシアーノでは国の平定を願い、過密なスケジュールの中で仕事をしていくのは難しすぎ、可能であるとも思えなかったからだ。己の悲しみすら自覚できない程に傷つき傷んだ心では、罪悪を受け止められると思えなかったからだ。それらは、穏やかな時間だけが癒せるものだった。
その穏やかな時間こそ、逃げた先にあるもの。ロヴィーノがフェリシアーノに与える全て。そして『国』に、許されないものだった。あの場所に、それはない。戦いが終わってなお戦わなければならない場所に、心を癒す時間など用意される訳が無かった。『国』としての本能に逆らい、『国』としての心を引き裂いて、ロヴィーノは兄として弟を守りたかった。単純で、簡単で、独りよがりなワガママ。人にしか許されないことだった。
知っていて逃がしたイタリアの中枢を、ロヴィーノは思う。国を背負って行く者たちの、二人を見送った笑顔を思い出す。彼らは国を愛し、祖国を誇りに思い、それと同じくらいの気持ちで『国』を愛し、『祖国』を誇りに思ってくれていた。どんな気持ちで、アントーニョとフランシスに、この家を告げたのか。涙に熱くざわめく胸を指先で押さえて、ロヴィーノは息を吸い込んだ。しんと静まり返る空気を、かすれた声が揺らして行く。
「いつまで、そうしとるつもりなん?」
眠りを守って、温かな優しい場所にフェリシアーノを置いて。温室に咲かせる花のように、慈しみ見守りながら、それを悟らせること無く。いつまで過ごすつもりで、いつまで許されているつもりなのか、とアントーニョは問いかける。いつまでも、とは言えなかった。いつ癒えるとも知れない傷だからこそ、永遠を持つ身でそれを望むことはできなかった。神聖ローマは、もう居ない。フェリシアーノの痛みは、癒されることがない。
できるのはただ、痛みと折り合いを付けて微笑むことだけ。それすら出来ない状態ならば、回復してくれるのを望むことだけが、ロヴィーノに出来る精一杯だった。どう言葉をかけていいのか、どう、触れてやればいいのか、ロヴィーノには分からない。ロヴィーノは失わなかったからだ。己が人の名を持つ存在として、心を捧げたたった一人。かけがえのない存在が、今、目の前に居るからだ。心配そうに見つめてくるからだ。
「ロヴィーノ。俺は怒っとるんやない。ただな、知りたいんや」
「フェリ……シ、アーノ、が」
アントーニョはロヴィーノを責めてはいなかった。まっすぐに重ねられた視線が告げていたのは、誇らしさと歓喜だ。かつて己が庇護した存在が、そんなにも庇い、守り、慈しみ、大切にする存在を持てていることに対する喜び。海に潮が満ちて行くように自然に、それはいっぱいになり、微笑みとなって零れて行く。だからこそ嘘偽りや誤魔化しを口にしたくなく、ロヴィーノは震えながら、つっかえながら言葉に表して行く。
うん、とちいさく頷いて、アントーニョは聞いてくれた。
「夜に」
「うん」
「目を……」
息を吸い込んだだけの胸が、痛い。熱でいっぱいの心は、どんな名前を持つ感情なのかも分からなかった。言葉が喉に、舌先に引っかかって、雨粒のようにしか発せない。ひとつ、ひとつ、繋げることのできない言葉を拾い上げて、アントーニョはうん、と頷いて行く。なきむし、と囁かれた声で頬が濡れているのに気がついて、ロヴィーノはそぅっと目を細めた。
「……開いて……くれた、ら」
「うん」
涙をぬぐうというより、頬に擦りつけるような動きで指先が動く。なきむし、と言っても、泣くな、とアントーニョは言わない。泣くべき時には泣かせてくれる優しさで、アントーニョはロヴィーノの涙を見つめていた。うん、と頷き、微笑みながら。
「フェリちゃんが、夜泣いて。目を閉じとんのやな? 怖くて目が開けられんの?」
「う、ん。だから……怖くても、俺は傍に居るって、フェリが」
「そっか。分かった。……大丈夫や、ロヴィーノ。なんも心配することあらへんよ。だぁいじょぶや。ロヴィーノがこんなに頑張っとるん、フェリちゃんにもちゃんと伝わっとるよ。……俺らは、もうすこししか待たれへんけど。もうすこしでも、フェリちゃんなら大丈夫や。ロヴィが傍に居る」
もうすこしは、恐らく二日か三日程度だろう。その間にフェリシアーノが立ちなおらなければ、二人がどんなに泣こうとも、アントーニョは『国』として、『国』である彼らをイタリアに戻さなければいけない。この国に、『イタリア』を戻さなければいけなかった。ロヴィーノは息を吸い込み、唇を噛みしめながら頷いた。最悪の事態を、思う。なにも変わらないまま戻らなければいけない時のことを考えながら、同じくらいの強さで。
ロヴィーノは、フェリシアーノの笑顔を想う。溢れる幸せを振りまくように、明るく楽しげに笑う表情。それを守る為の覚悟なら、とっくに出来ていた。繰り返し、誓いを重ねていた。枢軸を裏切ると決めたあの日から。イタリアを守り、なにより『国』を守ろうとしたその日から。ぱちぱちと瞬きをして気を落ち着かせ、ロヴィーノはアントーニョに目をうつす。泣くのお終い、と問いかけてくるのに頷いて、腕をあげて手を伸ばした。
指が、てのひらで包まれるように触れられる。
「アントーニョ」
「うん?」
てのひらの柔らかな所を爪でひっかくように指を動かしながら、ロヴィーノはじぃっとアントーニョを見ていた。オリーブ色の瞳。イタリアの光の中でさえ、強いきらめきを失うことがない。
「……俺を甘やかせ、コノヤロー」
記憶をずっと昔まで、初めて出会った頃にさかのぼっても、変わらない瞳に巡り合う。もう何度も、何度も、想いを込めて見つめていた。恥ずかしげに揺れた声でねだられて、アントーニョは一瞬だけ虚を突いた表情になった後、くすりとちいさく笑みこぼした。
「ええよ」
甘やかしたろ。囁いてからにっこりと笑い、アントーニョはソファの前に片膝をつくように座りなおし、ロヴィーノに向かって両腕をいっぱいに広げてみせた。おーいで、と声も出さない唇が動き、ロヴィーノの視線が辺りを彷徨う。室内の何処にも、誰も隠れていないことを今更確認して、ロヴィーノはソファから腰を浮かせた。ふわ、と空気が動く。もうすっぽりと腕の中に収まってしまうくらい、ちいさな体ではなかったけれど。
しっかりとロヴィーノを抱きしめ、アントーニョは変わらぬ幸福にくすりと笑う。楽園やんなあ、と呟くと、ぽこりと頭が殴られた。全く力の入っていない握り拳は、真っ赤に染まっていて。可愛いと思いながらそれを見つめ、アントーニョはゆるりと目を閉じた。おやすみ、ロヴィーノ。自身も寝る体勢に入りながら告げてやると、胸元でもぞもぞと動きながら、ロヴィーノがこくりと頷く。半分寝溶けた声が、おやすみを返してくる。
すぐに力の抜け落ちた体を、そっと抱き直して。良い夢を、とアントーニョは囁いた。意識が途切れる寸前にうっすら目を開けて、アントーニョは棚の上に置いてある時計に目を向ける。針は十二時に差し掛かる寸前で。昼食は二人とも抜きやな、と思いながら、アントーニョは瞼を閉ざし、そのまま意識を手放した。