忘れない。
あの優しい微笑み、美しい声。朝には額におはようのキスを、夜には頬におやすみのキスをくれた。
忘れない。
転べば、立ち上がるまで待ってくれたこと。泣かなかったのを褒めてくれたこと。抱きしめてくれたこと。
忘れない。
春に咲く花の名前。夏には星座の話。秋にくれたマフラー。冬のミルクティー。
忘れない。
眠れない夜に手を繋いで、囁いてくれた妖精たちのおとぎばなし。火に照らされた横顔。
忘れない。
海を見つめていた姿。一人きりのその背中。呼びかければ振り向いて、手を差し出してくれたこと。
忘れない。
目を細めて囁かれる名前。愛されていると疑うこともなく、信じられていた響き。
「――カナダ」
忘れない。
雨粒が窓を叩く。初めこそ途切れがちに弱々しかった雨音は次第に強く、激しくなって行った。どこからか、土の香が忍び寄る。頭痛と吐き気に襲われて、アーサーは無言で歯を食いしばった。頭の奥が、ズキズキと痛む。手を握り締めて息を吸い込めば、口の中で微かに血の味が広がる。唇を歯で傷つけてしまったのだと、その時初めて自覚した。ばたばたと音を立て、雨が窓を叩いている。それ以外の音が、なにもしない。
奇妙に明るい雨模様だった。黒にすら近い灰色の雲に光は遮断されてしまっているのに、恐ろしくなるくらい世界は明るさに満ちている。眩しさすら感じて目に力を込め、アーサーは書斎の奥の薄闇に身を隠し、一人で膝を抱え込んだ。雨の日は苦手だった。特に、七月を意識してしまう五月、六月になってからの雨模様など最悪だった。どうしても思い出してしまうからだ。どうしても、己の弱さを、ひどく思い知るからだった。
アメリカが独立を選びとったことによる痛みと悔しさ、悲しみと怒り。たったそれだけのことで、立ち上がれなくなる程に感情が荒れ狂う己の、何年経っても変わらない不調を、知るからだった。貧血でも起こしかけているのだろう。目の前でチカチカと明滅する光は慣れ親しんだ妖精のそれではなく、まるで別物の、優しさの欠片すらないものだった。すぅ、と血の気が引いて行く感覚を覚える。堪え切れず、アーサーは瞼を落とした。
「…… 、 」
無意識に、唇が音を綴る。己が発したその声を聞いた瞬間、アーサーは耳元で流れる血の音を聞く。ざあざあと、雨よりも強い音を立てて、内側からなにかが『それ』を悔い破ろうとしている。不可視の檻。閉じ込められ、覆われ、しまい込まれ、蓋をされ、隠されてしまったそれを、取り払おうとしている。貧血で辛いと叫ぶ意識をねじ伏せて、アーサーはぐぐっと無理矢理まぶたを持ち上げた。そうしなければいけない気がした。
書斎には誰も居ない。空模様が不安定になってきた時点で、アーサーが人払いを命じたからだ。呼ぶまで何があっても近寄るな、という厳命は、イギリス本土になんらかの異変が発生しない限り守られるだろう。『国』として動かなければならない事態でなければ、アーサーの元に誰かが来ることはなかった。本当にそうしておいてよかったと口元を吊り上げて笑いながら、アーサーは力の入れ過ぎで震える腕を持ち上げていく。
雨を、あるいはその向こう側を求めるように差し出されたてのひらを、握り締めていた指先を、開いて行く。全身に圧力がかかっていた。物理的な力ではなく、なにかの魔法、あるいは呪いによって発生している圧力だった。今の今まで、アーサーが『忘れていた』ものだった。繊細な編み模様、あるいは精緻な刺繍糸の流れを思わせるその『網』を破ろうと、アーサーは大きく息を吸い込み、眼差しに力を込めていく。眩暈がした。
指が震える。爪の先まで白く白く、血が通わない強さで力を込めた指が、どうしようもなく震える。関節のひとつひとつに重しを付けられたかのようなぎこちない動きで、アーサーは手をくるりと翻し、ブリタニアエンジェルの杖を召喚した。握り締めようとする手の中から、杖が床に落下した。乾いた音。意識に走る、乾ききった衝撃。ぐらりと体を揺らし、アーサーは冷たい床に倒れこんでしまった。ふわり、と光が降りてくる。
妖精の光だった。彼らの持つ神秘が、力を持って行使される瞬間の光だった。温かく意識が浸食されていくのを感じながら、アーサーはどうしようもなく目を閉じる。ゆりかごに叩きこまれたような、強制的な穏やかさに満ちていく。何度も、何度も、そうして届かなかったことをアーサーは思い出していた。そして目を覚ませば、届かなかったことすら忘れていることも、思い出していた。この自覚は今だけで、長続きはしない。
雨が降る。世界中から切り離すように、強い雨が続いている。